2017年09月28日

CassWiki:ボース=アインシュタイン凝縮

CassWiki:ボース=アインシュタイン凝縮




ボース=アインシュタイン凝縮とは、臨界温度以下で形成される、物質のユニークな状態のことであり、そこでは物質を構成しているあらゆるボース粒子がスーパーアトム(=超原子◆超低温で原子集団が一個の粒子のようになる)と呼ばれる単一の量子状態となる。


原子がボース・アインシュタイン凝縮を起こした場合、数千個の原子が本質的に単一の、いわば「スーパーアトム」になるのだが、この状態はルビジウムやリチウムの原子を捕捉しておき、特殊な方法で冷やすことによって、実験的に観察されてきた。ボース・アインシュタイン凝縮で観察される、原子の均一な振る舞いはコヒーレントなレーザー光線に似ている。レーザーの場合、特殊な放射吸収性のある原子を含む媒質の中の、大部分の電子のエネルギーレベルを高めることで光線が発生する。この際、自らの放射によって刺激された高エネルギーレベルから、低いエネルギーレベルへと同調的に戻りながら、位相の揃った(コヒーレントな)光線が放射されるのである。


同様に、ボース・アインシュタイン凝縮の状態にある原子もコヒーレントであって、そこでは原子の波束が単一の巨視的な束として一体化するのである。原子は量子レベルにおける(言わば)アイデンティティー・クライシス(自己同一性の危機)を経験しているのであり、やがて個々を区別できなくなる。


アインシュタインの説が予言したのは、極めて低い温度では、気体中のかなりの割合の原子が低エネルギーレベルにまで落ち込むということだった。この結果形成されるのが、ボース=アインシュタイン凝縮、略してBECと呼ばれるものである。BECは本質的には、個々の原子をもはや区別できないような、物質の新しい状態である。このような物質の新しい状態においては、粒子の量子状態は重なり合っており、相互に惹き付け合っている。この状態が出現するのは、個々の粒子の相対運動がゼロに近付いた時か、それらに共通するド・ブロイ波長が、粒子間の距離よりも大きい時である。(ド・ブロイ波長というのは、粒子に関連する量子力学上の「波長」のことで、発見した科学者の名に因んでこう命名された。量子力学においては、あらゆる粒子もまた波の特性を持っており、粒子の波長はその運動量に反比例する。この関係式における比例定数はプランク定数である。)


原子の温度が絶対零度に向かって低下する時、それら原子のド・ブロイ波長は、それらの原子分離よりも大きくなる。このため、原子はもはや粒子とは見做せず、むしろ、波動として扱わねばならない。BEC温度に近づけて行くに連れて、隣り合う原子の波長は互いに重なる部分が大きくなって行く。さながら「波の毛布」にくるまれるような感じである。やがて気体の原子が十分に冷やされると、毛糸玉のようになり、全ての原子が同じ波動関数を持つに至る。


一団の原子はこの結果、単一の原子であるかのように、同じように振る舞うようになる。


超伝導はBECの1形態であり、超流動もそうである。だが、BECは全ての原子に起きる訳ではない。このユニークな量子状態は、ボース粒子として扱い得る粒子にしか起こらない。ボース粒子は「パウリの排他原理」に従わない素粒子で、スピン角運動量の大きさがディラック定数のゼロか整数倍となるものである。(整数とは、小数点以下を持たない全ての数である。)


(注:「パウリの排他原理」とは、所与の系の中にある2 つ以上のフェルミ粒子(電子、陽子、中性子)が同一の量子状態を占めることはできないというものである。フェルミ粒子というのは、電子や陽子や中性子のように、スピン角運動量の大きさがディラック定数の半整数 (1/2, 3/2, 5/2, …) 倍の量子力学的粒子であるが、フェルミ粒子の場合、1つの系内で2個の粒子がある同じ量子状態になることが許されない。こうした理由から、BCEは整数倍のスピンを持つボース粒子にしか起きない。)


ボース粒子はスピンが整数値となる粒子で、スピンが1/2など半整数の値をとるフェルミ粒子とは違った振る舞いを見せる(注:スピンとは量子力学上の概念で、粒子が持つ固有の角運動量である)。粒子について述べる際には、統計力学を利用することができる。ボース粒子の相互作用を表す統計規則をボース=アインシュタイン統計と呼ぶ。自然中に見られる基本相互作用を媒介するボース粒子がゲージ粒子である。


ボース粒子に属する粒子には、素粒子の間の相互作用を媒介するゲージ粒子である光子(フォトン)や中間子(いずれもスピン1) がある。既に述べたように、電子や陽子、中性子といったフェルミ粒子は、BECにならない。というのも、ボース粒子と違って、これらの素粒子はパウリの排他原理に従い、フェルミ・ディラック統計に従って振る舞うからだ。


だが、異なる2種類のボース原子を混ぜたり、単一の原子でもスピン状態の異なるものが混ざった場合でも、BECにならないとは限らない。というのは、混合された原子であっても、構成原子のスピンの合計が0ないし整数になる場合には、それら全体が「ボース原子」(ボース粒子である原子)と見做せる場合があるからだ。


偶数個のフェルミ粒子(スピン角運動量の大きさがディラック定数の半整数 (1/2, 3/2, 5/2, …) 倍の量子力学的粒子。幾らか例を挙げれば、電子や陽子や中性子)から構成される原子は、ボース粒子と見なすことができる。ルビジウム原子 (87Rb)もそのような原子の例である。


以下に引用するコロンビア百科事典(第6版)で述べられているように、BEC状態は超伝導とも関係がある:



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1995年、コロラド大学のエリック・コーネルとカール・ワイマンが率いるチームは、実験室の環境下で、ルビジウムによるBECを実現した;2003年には別々のチームが分子を使った実験に成功した。この物質状態は、宇宙のどこであろうと自然に発生することはないと考えられる。というのも、これが起こるような低温状態は、宇宙空間においても見つからないからである。BECは超伝導(抵抗無しに電流を流す、幾つかの物質が持つ能力)や超流動(抵抗無しに流れる、幾つかの物質が持つ能力)、さらには、時間や空間の測定法の洗練化の研究において有益となろう。

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コーネル氏とワイマン氏が科学誌に載せた論稿から引用する:



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(※ − ※※の部分は『日経サイエンス』1998年7月号の訳です)



※1995年6月,コロラド州ボールダーにある天体物理学共同研究所(現在では「JILA」と呼ばれる物理学の学際領域の研究所)の私たちの研究室で,素晴らしい“ひとしずく”の物質が誕生した。私たちは,約2000個のルビジウム原子からなる気体を絶対温度1000万分の1K以下という超極低温まで冷却することに成功した。これは絶対零度(絶対温度0K,零下273.15℃)に限りなく近い温度領域だ。そして,この超極低温の世界で,約2000個のルビジウム原子は個々の個性を失い,まるまる10秒間にわたって,あたかも1つの巨大な原子「スーパーアトム」のように振る舞ったのだ。こうした物質の状態は「ボース・アインシュタイン凝縮」,略して「ボース凝縮」とも呼ばれる。レーザー光を構成する個々の光子は,完全に呼吸を合わせてダンスを踊るが,ここでは原子がその役割を担う。


極低温の世界での物質のこうした振る舞いは73年前に,アインシュタイン(Albert Einstein)とボーズ(Satyendra Nath Bose)によって予言された。以来,科学者は何とかボース凝縮を実現しようとしてきたが,果たせなかった。私たちが作り出した寿命の短い極低温のルビジウムガスは,原子からなる気体では初めて,その予言を実現したものだった。※※

常温において、気体の原子は格納容器中に散らばっている。高いエネルギーを持つもの(高速で運動)もあれば;低いエネルギーを持つものもある。ボースの研究を推し進めた結果、アインシュタインは、原子サンプルを十分に冷やせば、それらの大部分は格納容器中で、起こり得る最もエネルギーの小さい単一の状態となることを理論的に示した。数学的に言って、原子1個1個の波動方程式 ― 位置と速度によって、ある原子の物理的な特徴を記述する式 ― は、実質的に1つになり、個々の原子を互いに区別できなくなるのである。


BECを作り出そうとする研究における今回の進歩は、物理学界の研究者たちの関心に火を付けたばかりか、大手の新聞雑誌でも取り上げられた。当初、人々の興味を惹いたのは、アインシュタインの説を実証しようという何十年もの長期に亘る研究にまつわるドラマだった。だが、今、人々が専ら魅力を感じているのは、BECが量子力学という不思議な世界に、肉眼で見える扉を開いたからだ。量子力学というのは、電子のような素粒子を観察して、それが波の性質を持っていると論じる学問である。有名なハイゼンベルクの不確定性原理も量子力学の原理だが、量子力学は素粒子の波のような特性を利用して、その構造や物質の相互作用を記述する。


肉眼で見える量の物質の振る舞いに、量子力学的作用を観察できることなど滅多にない。いわゆる「大量」の物質においては普通、構成粒子が数えきれないほどの数となり、それぞれの振る舞いが一致しない結果、量子力学的な波の性質が不明瞭になってしまい、その作用は推定するしかない。しかし、ボース凝縮の状態においては、個々の原子の波としての面が持つ位相が、相互にぴったり一致するのである。量子力学的な波が、凝縮しているサンプルじゅうに広まり、肉眼でも観察可能なのだ。顕微鏡でも見えなかったものが、顕微鏡で見えるようになるのである。


それにひきかえ、古典力学の有益さは、極端に低い温度下や、小さな規模では減少してくる。原子をピンポン玉に見立てる明快な喩えも、ぼんやりとしたものになってくるのだ。我々は個々の原子の正確な位置を知ることが出来ず、ぼんやりと広がった場所の中の何処かにあると考えるのがせいぜいだ。「波束」として知られる、このような場所は、原子が見つかると期待できる位置範囲を示すものである。ひとまとまりの原子を冷やして行くと、それぞれの波束は大きくなって行く。個々の波束が空間的に互いに分離できる限りは、少なくとも原理的には、個々の原子同士を区別することができる。ところが、温度が十分に低くなってくると、各原子の波束は隣の原子のそれと重なり始めるのだ。これが起こった時の原子は、有り得る最もエネルギーの低い「ボース凝縮」の状態となり、原子の波束が単一の巨視的な束として一体化するのである。原子は量子レベルにおけるアイデンティティー・クライシス(自己同一性の危機)を経験しているのであり、やがて個々を区別できなくなる。


BECをめぐる目下の興奮は、それが存在し得るという、アインシュタインによる1925年の発見に対する反応とは極めて対照的である。その理由とはおそらく、当時は実現に必要となる低温 ― 絶対温度0.000001度以下 ― を作り出すことが不可能だったからであり、仮説上の気体凝縮は存在し得るか疑問の、重要性の低い物質だとして奇異に感じられていた。ちなみに、銀河間宇宙の最も冷たい深奥部の温度も、ボース凝縮が起きるには100万倍暖かいのである。


しかし、数十年の時を経て、ボース凝縮の流行が帰って来た。物理学者は、BCEでもって液体ヘリウムの超流動も説明できることに気付いた。これは、気体ボース凝縮よりもずっと高い温度で起こるのである。202K以下で液体ヘリウムの粘度は完全に消え − 超流動の「超」を達成するのだ。

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H.J.シャープもまた、BECについて語っているが、彼はBECと、グルジェフのオクターヴにおける最初の特別なインターヴァルとの関係をも論じている。『ベルゼバブの孫への話』においてグルジェフは、この最初のインターヴァルのことを<機械的に合致するムドネル・イン>と呼ぶ。


<機械的に合致するムドネル・イン>は、オクターヴにおける3番目と4番目の音符、すなわちミ - ファ間のインターヴァルに関係がある。このインターヴァルでは、周波数/振動数の上がり方がスローダウンしており、外部からのショックを受けないと、元々の方向から逸れてしまうのである。このインターヴァルないし「ショック点」は、音楽のオクターヴ=音階で、半音(鍵盤の黒鍵)が無い場所に当たる(もう1つがシ - ドの間である)。このミ - ファ間のインターヴァルこそが、グルジェフの呼ぶ<機械的に合致するムドネル・イン>に他ならない。このインターヴァル(注:グルジェフは『ベルゼバブ』において、これらのインターヴァルを「ストッピンダー」と呼ぶ)

においてこそ、振動/周波数の遅延が起こるのであり、元々の方向からの逸脱ないし偏向が起こるのだ。オクターヴが次の上位サイクルに向けた完成へと進み続ける上で、外部的ないし機械的なショックを必要とするポイントの1つなのである。


オクターヴには、もう1つ遅延が起きるポイントがある。すなわち、シ - ド間がそうだ。次の上位オクターヴに進む前に出てくる、このインターヴァルをグルジェフは<意図的に生み出されたムドネル・イン>と呼ぶが、ここではショックは内部的なものでなくてはならない。すなわちショックは、外部からではなく、内部からもたらされなくてはならないのだ。ここで完成したオクターヴが、新たなオクターヴを始めるには十分なエネルギーを貯め込まねばならない。


グルジェフは『ベルゼバブ』において次のように述べている:

(ヘプタパラパーシノクの法則というのは、グルジェフの「7の法則」の別名であることに注意。)

(※「ヘプタパラパーシノク:グルジェフの宇宙論の根幹を成す『世界創造』と『世界維持』を司る2大法則の1つ。7の法則あるいは7重性の法則とも呼ばれ、『奇蹟を求めて』の中ではオクターヴの法則とも呼ばれている。客観的宇宙科学はこれを、『法則に従って絶えず偏向し、そして最後にはまた合流する力の流れの進路』と定義している。ある根源的力によって始まった動きあるいは活動は、一定の時間が経過すると必然的にその進路を変更するが、その進路変更は厳密にこの法則に従って起きる。それゆえこの法則および第2の宇宙法則トリアマジカムノ(=世界創造と世界維持に関する2つの根源的宇宙法則の第2のもの。<聖・肯定><聖・否定><聖・調和>の3つの独立した力から成る。常に結果の中に流れこんで次に生じる結果の原因となり、また、その中に隠れていて見ることも感じることもできない特性から生じる、3つの独立した、しかも全く相反する特徴を具えた発現力によって常に作用する法則。ギリシア語で、「私は3つを一緒にする」の意=3の法則)

を理解すれば、宇宙の全現象が解明できるのみならず、その一部である人間という現象の全側面も理解できるという」 − 訳者浅井氏による用語集の解説)



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(浅井訳470ページ)

当時まだ唯一の宇宙凝集体であり、《彼御自身》の最も光輝ある存在の唯一の居住地であったものを維持している原理を変えることに決めたわれらの《共通なる父にして普遍の永遠なる主》は、まず最初に2つの聖なる根源的法則の機能するプロセス自体を変えることにし、こうして聖ヘプタパラパーシノクの法則を大幅に変更した。


この聖ヘプタパラパーシノクの機能の変更とは次のようなものだ。すなわち、《彼》はストッピンダー(=ヘプタパラパーシノクの中の重心、および2つの重心間の距離)

のうちの3つの中で、その時までストッピンダーの中にあった<本来的機能>と呼ばれるものを変更した。つまり、あるストッピンダーの中では合法則的な連続性を引きのばし、別のストッピンダーではそれを短くし、また別のストッピンダーではその調和をくずしたのだ。


もっと詳しくいうと、自動的に近くから流れこんでくるありとあらゆる力を受け取る − それはこの機能のために必要なのだが − のに<必要な固有の性質>を付与するために、《彼》は3番目と4番目の偏向の間のストッピンダーを引きのばしたのだ。


聖ヘプタパラパーシノクのこのストッピンダーは、今でも<機械的に合致するムドネル・イン>と呼ばれているものである。


《彼》が短くしたストッピンダーは、最後の偏向と、ヘプタパラパーシノクの全プロセスの新たなサイクルの始まりとの間にあるものだ。この短縮は、プロセスの新たなサイクルが始まるのを促すことを目的としたもので、こうすることによって《彼》は、この7番目のストッピンダーの機能が、このストッピンダーを通して外部から流れこんでくる力にのみ依存するように、言いかえるならば、この聖なる根源的法則の全プロセスがその中を流れている宇宙凝集体の活動が生み出すものから得られる力にのみ依存するようあらかじめ定めたのだ。


聖ヘプタパラパーシノクのこのストッピンダーは、今も<意図的に生み出されたムドネル・イン>と呼ばれているものである。

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ミ - ファ間のインターヴァルにある、<機械的に合致するムドネル・イン>と呼ばれる最初のショック点を、ハリー・シャープは物理学者フレーリッヒ教授の説と結び付ける。この説が提唱するのは、生体構造に関係する共鳴の1形態である。生体はしばしば、DNAやタンパク質の中の水素結合のように、振動的な動きが可能な電気双極子で構成されている。振動ユニット同士が長期間電荷をやり取りする結果、通常の電磁振動モードに相当する狭い周波数帯が生まれる。フレーリッヒは、エネルギーが ― 代謝によるものであれ、外部ソースからであれ ― このような系に対して臨界量を超えて供給されると、それは自動的に最も低い振動/周波数モードへと運ばれて、その結果、振動部分がコヒーレントに励起されることを示したのである(BEC現象と言える)。

(※色のスペクトラム


C1:14.40 x 10'4
D9:84.95 x 10'4オレンジ
E5:45.5 x 10'4
ファF4:35.86 x 10'4
ソルG3:26.60 x 10'4
A5:37.33 x 10'4
B15:88.25 x 10'4すみれ
 2:1 (見えない)

※上の表には列ラベルがありませんが、ニュートン『光学』岩波文庫に、以下の記述がありました。

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(島尾訳197ページ)

(プリズムで分光した)赤、橙、黄、緑、青、藍、菫の7色の境界のそれぞれの厚さは、互いに、1オクターブの音、ソ、ラ、ファ、ソ、ラ、ミ、ファ、ソ、を出す弦の8つの長さの自乗の立方根、すなわち、数、18/95/63/42/33/59/161/2の自乗の立方根の比になる。

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これは、左から3列目の「1:1」みたいな数に似ています(コロンは分数の記号ですし)。

その隣は、英語版Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Visible_spectrum

に下のような表があって、これだとすると「周波数」のようです(単位が微妙に合わないようですが)。


Color

Frequency

violet

668–789 THz

blue

606–668 THz

green

526–606 THz

yellow

508–526 THz

orange

484–508 THz

red

400–484 THz



※『“心”はなぜ進化するのか―心・脳・意識の起源』 A.G. ケアンズ‐スミス (著), A.G. Cairns‐Smith (原著), 北村 美都穂 (翻訳)

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(348ページ)

フレーリッヒの考え方


物理学者で超伝導の専門家であるヘルベルト・フレーリッヒが一九六七年に示唆した、もっと精妙なボース型凝縮が、最有望であるとマーシャルは考えている。フレーリッヒは、意識について考えていたわけではなかったが、生物細胞の膜の中の分子に興味をいだくようになっていた。彼は計算により、そういう分子は自然の傾向として、毎秒10の10乗から10の11乗回という比較的低い周波数で振動するだろう、また、それら分子に「代謝エネルギー」が十分高速度に供給されるならば、1つの特定の振動モードが優勢になり、ある広い範囲内の分子が結合して振動し始めるだろう、との結論を得た。


レーザー作用と同じく、この予想される効果は常温で起こるはずである。また、ボース粒子がエネルギーの「注入」によって生成するという点においてもまた、広い類似性があるに違いない。しかし、そういうフレーリッヒ型の凝縮では、問題のボース粒子は「電磁場の励起の量子」(すなわち、光子)ではなく、むしろ物質の通常の振動――音がその最も良い例である――の量子であるだろう。それにふさわしく、これらはフォノン〔音の量子〕と呼ばれる。  


「フレーリッヒ効果」は、たとえばレーザー作用や超伝導のような現実の現象としては確認されていない。また、いくつかの実験的支持もあるが、なおどちらかといえば状況証拠的、間接的なものである。たしかに、蛋白質化学者や生化学者はこれまでのところフレーリッヒの考え方にはほとんど注目していない。それにはいくつかの原因がある。


必要とされる全般状況はまったく理にかなったものである。利用できる「代謝エネルギー」は、たとえばATPという形で豊富にある。ATPはADPに変わるときに、蛋白質分子の形を、2章で論じたような種類のしかたで変えることができ、そういう蛋白質の多くは、イオン・ポンプ等の形で膜の中に位置を占めている。たとえば、ATPを加水分解して、自身の形を変えられたばかりの蛋白質分子は、弾かれたばかりのギターの弦、または、水を満たした風船が突つかれた後のようなものだと

想像することができよう。つまり、もとの形に戻ろうと「欲して」、その途中で振動しているのである。弦はかなりの時間振動するだろうし、水を満たした風船は複雑なしかたでぶるぶる震え始めるだろう。


実は、蛋白質にはこういうふるまいをする傾向はない。蛋白質分子の低周波数振動は分子の振動によって強く抑制される。(ギターの弦を蜂蜜の中で弾くのに、より似ているように見える。)膜蛋白質の分子を、短時間の光のパルスで「蹴った」最近のある研究によると、その後の震えは一〜ニピコ/秒のうちに終わってしまう。これは長い時間ではない。一ピコ秒(10の-12乗秒)というのは、光が三分の一ミリメートル進むのに要する時間、または、よりこの場にふさわしい言い方をすれば、蛋自質分子が一回「振動」するのに要する時間なのである。


事実、大部分の蛋白質は、その機能――たとえば、ある反応の触媒として働く――を遂行するのに必要とされる以上には震えないように設計されていると予想できよう――そしてその場合、 一般には、一回だけ震えれば十分なのだ。


フレーリッヒは、彼の言うボース型凝縮を、生き物全般の組織原理とみなしていたのだが、マーシャルが、「エネルギーを注入されたフオノン」システムに求めるのはただ一つの使い道、すなわち、意識の担体を作ることだけだ。そこに予想されるのは、細胞の中の蛋白質全般の性質というにはほど遠く、要求される効果に参加するに適した振動体として「設計された」、専門の脳細胞蛋自質(および/または他の分子)があるに違いないということなのだ。 ※※)


この点に関して、ハリー・シャープは彼のウェブサイト『孤独な魂の冒険』で次のように述べている:




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ここで思い出されるのが、ミ - ファ間にある最初の特別なインターヴァル<機械的に合致するムドネル・イン>である。この特別なインターヴァルが、他の7の法則からもたらされるエネルギーによって架橋されてしまえば、我々は説明に量子力学を適用できるようになる。


今から約25年前(※このサイトの序文が書かれたのが1999年のようです)、


フレーリッヒ教授は、ミセル(=分子間力による多数の分子の集合体)を形成している、ある原細胞中の長鎖分子が所与の温度で、だが独力で壁を振動させるのを発見した。ここで、媒質の温度を少し上げて、もっと多くのエネルギーを利用できるようにすると、BECと呼ばれるものが起こるというのである。これらの分子はいずれも同調/共振して、より多くのエネルギーを貯め込むことができる。このような部品が組み合わさって、生細胞となり、バイオフォトン


を放射するのだ。ドイツと日本の科学者がさらに研究を行った結果、全ての生体組織はその活性度に応じて光を放っていることが確認された。という訳で、実際、相互作用が放射を生み出すという風に結論できるのだ。これをオーラに結びつけた者が居ないのは驚きである。このような生体構成物質が、低いエネルギーから高いエネルギーを生み出し、熱力学の第2法則(=孤立系のエントロピーは、不可逆変化において常に増大するという法則)に逆らってエネルギーを生成するということもまた重要である。

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posted by たカシー at 18:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月27日

CassWiki:第6密度

CassWiki:第6密度
https://thecasswiki.net/index.php?title=Sixth_density


7つある密度のうちの6番目の密度が、カシオペアンおよびラーが「本拠とする」密度である。そしてまた、カシオペアンによれば、『プレアデス+ かく語りき』をインスパイアしたプレアデス人もまた第6密度に属するという。クロップサークル(ミステリーサークル)の殆ども、カシオペアンによれば、第6密度の実体が描いたものである。いわゆる「ワンダラー」の多くも第6密度を本拠とする魂であるが、彼らは固有のミッションを帯びて人間の物理体に転生してきている。第6密度はまた、スーフィズムの「神の美名」にも相当する。
https://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/kias/report20110605_u2.html

このテーマについて、検証可能なはっきりした内容として語れることは多くない。それでも第6密度というのは、現在我々が行っているワークが受けた沢山のインスピレーションと関わりを持つテーマなので、何らかの文脈の中に捉えてみねばなるまい。第4の道の宇宙論に出てくる「大天使」や「太陽界」は第6密度の存在のことだろう。ルドルフ・シュタイナーの宇宙論における「禅定の境地にある存在」ないし「太陽霊」とは第6密度の存在のことであろう。ボリス・ムラヴィエフが「絶対 II」と呼ぶもの、すなわち、全ての星々とキリストの世界もおそらく、第6密度と何らかの関係があるだろう。こうした比較は暫定的な試みである。第3密度にあって、この密度レベルが抱える矛盾を含まない、的確なことを述べるのはまず不可能だからだ。

第6密度、略して6Dは、非物質的存在のレベルであり、そこに至った魂はもはや、他のどの密度に転生する必要もない。これに対して、第1ないし第4密度の魂は、間に第5密度における非物質的形態での熟慮期間を挟みながら、各密度を経験して行くのである。6Dは一者、すなわち第7密度と合一する前の最後の段階である。第7密度はあらゆる創造の唯一の源泉/起点/原因、ムラヴィエフの「父なる神」、グルジェフの<至聖絶対太陽>に相当する。

第4密度同様、第6密度にはまだ社会記憶複合体=コミュニティーを構成する個々の実体が存在し、彼らは経験と理解を格納した同じデータベースを全員で共有している。人間として達しうるエソテリックなレベル、すなわち、客観性の訓練によって理解が統合され、完全さのゆえに行動・理解の不一致の存在する余地が無いというレベルは、4-6Dにおける社会記憶複合体の前駆体だろう。

6Dに属する実体は、自然の成り行きとして、他者への奉仕(STO)の特性を帯びる。この事情は複雑であり、正確な理解は我々の密度レベルでは不可能だろう。肝心なのは、他者への奉仕(STO)が6Dを表す概念なのに、6Dの実体全てがそうではないということである。6Dの観点からすれば、概念と実状との間にはまだ違いがあるというのだ。思考と現実に違いがなくなるのは、7Dにおいてのみだが、これについて述べることは我々の能力を遥かに超えている。純然たる自己への奉仕(STS)は、4Dより上の密度においては機能的な実体として存在しえないとされるが、これはどうやら、物質性および主観性の生得的な欲求がそうさせないものらしい。STSの実体として高度な進歩を遂げるには、大量の霊魂の類を取り込む必要があって、その結果、そのような実体が自壊することになるのは、物質世界におけるブラックホールに似ている。このような実体がその特徴である支配的傾向を手放せば、客観的になることができようが、そうなればもはやSTSの実体ではなくなる。

6Dの実体は純粋な思考、すなわち光の世界に住んでおり、物理体を持たない光の形態を取る。カシオペアンがかつて述べたところによると、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=77882555
2つの実体が、存在する全てにアクセスできるなら、それらは実際には1つであって、互いに区別することはできない、という。この意味において6Dの観点からは全ては1つと見えながらも、依然概念としては別に存在する実体が居るのだろう。我々の理解する客観性とは、「偏在するもの」と統合して生きるという観念に本来的に結び付くものだ。自分が見たいものしか見ない実体は、そのような状態では自壊することになる。実際彼は、幻想以外何もシェアしないのであり、活動するSTSがこの6Dのレベルに居ないのは、おそらくそれが理由だろう。全てと共にあるためには、人は偏見を持つことができない。繰り返すが、偏見を持っていても、その実体が参加しているものを尊重したり選んだりできないということはない。全く逆である。できるのだ。だから、客観的であり、偏見が無いことこそ、心霊主義/形而上学的な自由意志が存在するための必要条件だと言ってよいだろう。知っていなければ、実体は選択できない。ウィッシュフルな思考をする実体は、この意味で知ることはできないのだ。

6Dの実体が時間と空間をどんな風に知覚しているかについて、我々は殆ど理解できないので、語ることができない。物質密度での出来事は鳥瞰的視野から、様々なあり得た過去とあり得る未来が可能性のもつれた糸のように併存した状態に見えるのだろうと推測できるだけである。第4の道の宇宙論の観点からすれば、6Dの実体には少なくとも、リニアな時間と永遠が、3次元の高い場所から見下ろした、あらゆる可能なタイムラインを含んだ平面的な眺めのように見えるのだと言えよう。第4の道の意味における永遠という言葉は、全ての有り得るタイムラインの組み合わせのような、リニアな時間とは垂直方向にある次元のことを言う。ある意味、第6密度での体験には、6つの次元における体験が含まれると言うこともできよう。繰り返すが、これらは理解のための大まかな視覚化である。概して6Dのソースは、3Dの過去については分かり切った事であるかのように、そして未来については枝分かれして絡まり合う可能性のように述べるものだ。

この意味において、時間は高次の密度には存在しないと言われることもしばしばである。だが、これはあまり文字通りに受け取るべきではない。むしろ、これの意味合いとしては、6Dの実体にとっての時間は、我々にとっての見え方 − すなわち、一方通行の道路で、しかも殆どの物が曲がり角の向こうに隠れている眺め ― とは異なっている、ということだと思われる。

カシオペアンは、「私たちは未来のあなた方だ」という言い方を繰り返し行っている。これは、少なくとも1つの未来においては、チャネラーであるローラ・ナイト=ヤズィックおよび、おそらくはセッション仲間の数人がシーズになる事があり得る、ということを述べたものと理解できよう。しかし、そうはならない未来もあり得るのであり、それはそもそもこのようなチャネリングが起こらなかった過去があり得たのと同様である。当時のコンタクトのプロセスが繋がりとなって、一連の過去と一連の未来を引き寄せたのだ。6Dの経験は、鳥瞰的視点からこれを導くようなものかも知れない。それでもある意味、カシオペアンは「過去の」彼らを導くことで、自分たちを生み出しているのだ。だが、こうした比喩も不完全なものとしかならない。というのも、比喩に使う言語自体、リニアな因果関係を前提とするものだが、それは6Dの観方にはまず当てはまらないだろうからだ。

本稿を終えるにあたり、ラーの言葉から引用したい:


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ラー:密度に関して言えば、太陽という天体は物質的に見て、ガス状の成分が融合というプロセスにあって、熱と光を放射している巨大な天体だろうと、あなたがたなら言うだろう。神秘主義的/形而上学的に言えば、太陽は第4から第7密度の実体たちが、生物創造や共棲する実体すなわちもう1人の自己、あるいはこの太陽という天体の性質を把握する能力を増大させているという点で、これらの密度にとって意味ある存在となっている。このため、第6密度の存在が、太陽を訪れて住まうようになっており、太陽は第6密度の実体が刻々と進化のプロセスを辿ることによって、部分的に形成されてすらいるのだ。。。
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セッション41.4

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第6密度の実体の中には融合という手段で自己複製を行う者が居るのだが、彼らは太陽という天体の存在の一部となることで、経験の一部を積んでいる。だから、あなた方が受け取る太陽の光の一部は、第6密度の愛が創造的に表現された結果だと考えていいだろう。
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セッション41.5
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2017年09月24日

CassWiki:カルマおよび均衡の原理

CassWiki:カルマおよび均衡の原理
https://thecasswiki.net/index.php?title=Karma_and_the_Principle_Of_Equilibrium


以下は、グルジェフの宇宙論を単純化した解釈にすぎない。なぜこのようなまとめを行ったかと言うと、ボリス・ムラヴィエフが述べた「均衡の原理」をより良く理解するための準拠枠になれば、ということで試みたのだ。

ムラヴィエフの著書からの「均衡の原理」に関する引用も、下の方に掲げておいた。

グルジェフの宇宙論では、宇宙創造の前には彼が<絶対>(『奇蹟を求めて』浅井訳129ページ)あるいは、《永遠なる主》(『ベルゼバブ』浅井訳63ページ)と呼ぶ、事物の根源的状態だけが存在していた、とされる。そこでは、<全体>イコール<一なるもの>、<一なるもの>イコール<全体>だった。<絶対>は完全な<独立物>だった。<絶対>の中には、ただ1つの法則、すなわち<絶対>の単一で独立した意志があった。<絶対>は外部の何者にも依存しておらず、完全に自己充足的な存在だった。

しかし、<絶対>が何かを創造するためには、その創造活動にフォーカスできるような居所すなわち「集中できるただ1つの点」が必要だった。

そこで<絶対>は、グルジェフが<至聖絶対太陽>と呼ぶ「局地的な居所」を「生み出した」。(「生み出した」という言葉を使ったのは、これが全て宇宙の創造前に行われたからである。)

<至聖絶対太陽>は相互に関連する2つの法則を構成する、独立した諸力によってバラバラにならぬよう保たれていた。<至聖絶対太陽>の中で、これら2つの法則、すなわち、「3の法則」と「7の法則」は、互いに完璧なバランスを保っていた。これらの根源的な法則=力が完璧に混じり合っていたため、<至聖絶対太陽>は維持のために外部から何の影響を受けなくても安定していた。

しかし、<至聖絶対太陽>が完璧なバランスを保って静止していたので、その中では何の変化も起きなかった。<至聖絶対太陽>が<永久不変>(『奇蹟を求めて』499ページ)という純粋な可能性の状態にあったため、そこでは何も起こり得なかったのである。

<至聖絶対太陽>の中で何かが起こるためには、すなわち、<絶対>が何かを創造するためには、それを構成している無限の可能性が、実現化という有限性に移行しなくてはならなかった。この動力となったのがグルジェフのいわゆる「無慈悲なヘローパス」(『ベルゼバブ』467ページ)、すなわち「時の流れ」である。<至聖絶対太陽>の中で何かが「起こる」か「現実化する」ときには、その結果として可能性が減少することになる。これは<至聖絶対太陽>の中にあった可能性の無限の貯えを脅かす事態であり、その結果、<至聖絶対太陽>の容積が減る恐れがあった。

<至聖絶対太陽>は今や「無慈悲な」時の流れによって脅かされていた。

<至聖絶対太陽>が、無限の可能性を秘めた状態を維持し、それらが現実化しても可能性の減少が進行しないようにするために、<絶対>は必要に迫られて、<至聖絶対太陽>を構成していた2つの基本法則を調整ないし変更した。この結果、全ての被造物はエネルギーの逆の流れを<至聖絶対太陽>に送り返して、時間の流れを経ても、<至聖絶対太陽>は既存の(可能性を秘めた)状態を維持できることになった。

このような2つの基本法則の変更の結果、これらの力はもはや独立して働かなくなった。その代わりに、今やこれらの力は外部の諸力に依存しており、<至聖絶対太陽>が元来持っていた独立が維持された状態は、あらゆる被造物が相互に力を交換し合う(=相互扶養)状態へと変更された。

これら2つの基本法則の機能が変更された結果、<至聖絶対太陽>内で働いていたこれらの力は、宇宙空間に向かって働くよう向きを変えた。2つの基本法則の、このような外に向かっての方向転換は、<絶対>の<意志力>によるものであるが、その結果生まれたのが、グルジェフが言うところの<テオマートロゴス>=<言葉なる神>=<絶対太陽の放射物>である(前掲書471ページ)。この「言葉」ないし振動は、画一的だった宇宙の根源物質エテロクリルノを組織化して、反復しつつも様々なパターンを持つ物質/形態へと変えたのだ。この音の振動は光あるいは揺動のようなものだが、陰陽/正負の2方向間の均衡点である「零」を通って、絶えず変動するエネルギー・ベクトルである。

これら2つの基本法則が変更された結果、元々<絶対>の中で結び付いていた、3の法則を構成していた3つの力が、知覚される宇宙の中で今や互いに分離するに至った。というのも、これらはもはや1個の全一体の一部ではなく、存在している宇宙を構成する現象の多様性から生じた区別や相違のために、今では全体中の諸部分によってのみ引き合わせられ得ることとなったからだ。

これら3つの力の分離によって創造が起きたのだが、それ以来今でもこれらの力は再融合して、根源の完璧な状態=<絶対との合一>に復縁しようと闘志を燃やしている。

かくして、<絶対>のためなら、これら3つの力は結び付く。しかし、宇宙のために、これら3つの力は分離されたのであり、これらの力は<絶対>の中でそれらが結び付いていた状態そっくりの均衡状態を得ようと常に奮闘しているのだ。

以下に引用するのは、ムラヴィエフの著書『グノーシス I』の126-134ページ、「均衡の原理」と「カルマの法則」に関する部分である:


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要約すれば、生命とは、宇宙の各段階で行われている振動の劇 ― あらゆる場面が均衡という摂動の形を取り、引き続いて回復が起こる劇の効果なのである。

このような摂動が起こり得るのは、宇宙に存在している万物が、均衡しているとは言え、それが不安定な均衡だからだ。

「均衡の原理」の実際の適用例は、摂動への代償作用に見られる。しかし、このような代償作用が過去の状況を正確に回復するのに成功する例はまれである。一般にこれは望ましいことではない。これは、運動状態の中に存在するものに対しては、「不完全の原理」が働く結果である。特に有機生命体の内部においては、この振動の劇 − 摂動 − 代償作用は、しばしば開放サイクル=螺旋の形を取る。

我々はここにもまた、宇宙という系の完璧なロジックを認める(仏語” constate”)ことができる。実際周知のごとく、進化のような並進運動(※物体のすべての点が平行移動する運動。剛体の任意の運動は,重心とともに行う並進運動と重心のまわりの回転運動とに分解できる)
は常に困難である。螺旋を描く結果、進歩の度合いは遅くなるが、それは容易になる。落下する場合、螺旋を描くことで退行に歯止めがかかる。

「宇宙の顕現および創造」における3つの予備的条件である時間と空間と均衡は、創造された宇宙の中に諸力を生み出した:すなわち、既に述べた通りの、能動的、受動的、中和的の3つの力である。

第3(=均衡)のカテゴリーに属する均衡の原理は、受動的な力として、バランスを回復する代償的摂動を行う時、ダイナミックな形を取る。その発現は常に、一方的な反応の性格を帯びるのだ。均衡の原理が全宇宙に適用される際、それは機械的に働き、自動的に始まる。その結果、全ての宇宙のあらゆる場所における全ての作用は必然的に釣り合うことになる。

上に述べた考察によって、実証的科学によって未だ説明されていないある現象の意味を理解することが可能となる。何はさておき、死という大問題である。生命が摂動から生れるゆえに、均衡の原理によって、死は必然的となる。全てのケースにおいて例外なく、摂動は償われなくてはならず、均衡が回復されなくてはならない。死によって、このような償いが為されるのだ。あらゆる次元において、誕生とは革命的な働き、すなわち摂動的作用、すなわち愛である。愛そのものは、創造の以前 ― <絶対の意識の中に> ― 「汝」の概念という格好で生まれた。「汝」は「我」(<私>)から必然的に生じるのだ。これは、永遠の均衡以前の安定状態で起きた最初の摂動だった。だからこそ我々は直観的とはいえ、死の反対は生命ではなくて愛だと思うのである。頭で考えたあらゆる証拠にも拘わらず、人間の心に同様にもっともだと感じられるのが、愛は死を克服できる、より優れた力であるということである。

死の克服とはすなわち、エソテリックな科学のモットーである。だがまずは、この表現の真の意味について、共通の理解を得るとしよう。

3つの力が伝搬するとき、それらは宇宙じゅうに働く。宇宙の系および創造の光の中で、それらは以下のようにして姿を現わす:すなわち、愛は能動的な摂動の力として姿を現わし、死は受動的な安定させる力として、生命は中和的な力、すなわち、前二者によって定められた限界の間に存在を割り当てられたものとして姿を現わす。こうした次第で、死とは存在 ― そしてまた生命 ― にとって欠くことのできない状態であり、この三者の果実が子孫である。問題は、死と戦って永遠の生命を勝ちとることは ― これこそ全ての宗教が説く、人類最大の希望である ― 合理的に成功する見込みがあって実際に約束されているのか、ということだ。この問題は複雑である。これを解くためには、数多くの視点からの検討が必要である。宗教はこれを信仰の次元で扱い、信心次第だとする。だが、新たな時代、「聖霊のサイクル」の時代の幕が開けようとしている今、このような立場は、開明された人々にとってもはや十分満足の行くものではない。彼らは今や、昨日まで信仰箇条と考えられていた事でも理解したいのである。

このような難問の答えを説明しようと試みるよりは、敬虔な信者に対して信じてくれるよう頼む方が確かにた易い。だが、エソテリックな科学はこの問題に対する答えを提示する。

世界の様相が変わるのだ。「父なる神のサイクル」同様、既に顕現していた「子なる神のサイクル」は終わりを迎えつつある。遥か昔にモーゼが受け取った律法は、キリストの出現によって終わりを告げ、信仰と希望と愛の戒律によって置き換えられた。今世紀(=20世紀)の戦争と革命があり、実証的科学が驚くべき進歩を遂げた現在、我々は「聖霊のサイクル」へと入る、移行の時期を迎えている。この時期のうちに、信仰は知識によって徐々に取って代わられ、希望は成就により終わるであろう。愛が最終的な勝利を収めるのだ;「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう(が)」(コリントの信徒への手紙一/ 13章 08節)

「伝承」において、死に対する勝利とは完成された人格の、死に対する勝利を意味する。これこそは、キリスト教という宗教のしきたりである祈りの目的である救済の意味するところだ。聖パウロによる次の言葉は、既に引用した:

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつく(※英訳では「死ぬ」)わけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」(コリントの信徒への手紙一/ 15章 51節)

この文章中の「変えられます」という言葉の裏に潜む意味とは、人間第5番ないし第7番のレベルに達している人々のみならず、「外的な人間」もまた、
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遅かれ早かれ物理体を離れて召されるだろうということなのだ。

違いはどこにあるかと言うと、前者の場合は古い衣服を脱ぎ捨てて別のものに着替えるようなものであるのに対して、人間第1-3番の場合は物理体が死を迎える結果、彼らの胎児的な人格が分解するのである。死とはアストラル体の流産である。救済は第2の誕生とともに訪れ、この時、完全に成熟して生まれ落ちた人格は、個性を形成するべく、永続的に真の<私>に参加する。一たび生まれた、この個性がもはや物理体に依存しないのは、難産で母親の命と引き換えという形で生まれてきた子供が死ぬことが無いのと同様である。かの使徒が我々は死ぬわけではないという言葉で暗示していたのは、こういうことなのである。

死とは、均衡の原理の顕れの1形態であって、創造された世界における肉体的な愛という摂動的作用に対する自然な反応であることは既に立証した通りである。肉体的な愛は完璧なものであれ、生命を育むためのものである。人間の愛が不完全なのは、それが本能的かつ衝動的だからだ。人間が自動的に自らの衝動に従う限り、彼の愛は全体としての宇宙の目的の役に立つだけである。これから彼が常に得る快楽は、報償として均衡を図る要素に等しい。そのようなものである限り、愛は彼のエソテリックな進化には何ら役立たない。しかし、愛とは進化を達成するための、最も確実かつ強力な手段である。それはなぜかというと、愛は我々の人生における客観的な要素の1つだからだ。この客観性は愛の多くの側面に、そしてその顕れ方のバラエティーの全てに当てはまり続ける。

要するに愛とは、人間のエソテリックな進化において、彼の役に立つものである。しかし、この目的を達成するためには、人はこの愛に向けて意識的努力を傾けねばならないし、衝動に身を任せてはならない。このようにしてこそ彼は、彼に働く愛の摂動的作用を中和することができるのであり、その結果、均衡の原理が致死的な反応でもって介入してくるのを防ぎ ― かつ無力ならしめる ― ことができるである。愛が提供するエネルギーは、一般的な目的のために直ちに消費することはせず、念のために人間が持っておく。やがてそれは、彼の人格の成長および、第2の誕生に向けた進歩=エソテリックな行為の最初の目に見える結果を加速させるために利用できる。


これは修道院におけるワークの理論であって、それは本質的に性のセンターに当てはまる。我々は練習によって、衝動を征服できるように努力する。この方法の利点と不都合について詳細に調査しなくても、新時代におけるエソテリックなワークは地下室や修道院の外に出るべきだと言わねばならない。今後それは、代わりに生活の中で=人間社会の日々の活動の場において実行されねばならない。これは確かに、より困難となろう。というのも我々は、修道院で生活する場合のようには守られず、影響<A>
http://www.eleutheria.com/mystic/gnosis2.html
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の大部分から保護されることもないからである。その一方で、生活はより効果的な手段を提供し、より脆弱でない結果を導く;日常生活の中でエソテリックな活動を実践する結果、性センターを簡単にコントロールすることも可能になり、現れた愛を感情および知性のセンターによって育むことも認められるし、創造的精神も様々な形で生み出されるのだ。このような高次の文化が狙いとするのは、創造的努力を全く同一の適用ポイント、すなわち、人格の総体的な発達:第2の誕生;アストラル体の結晶化、個性を形成するために真の<私>と繋がることにフォーカスさせることである。

男と女が協働するワークこそは類まれなパワーでもって進展し、早々に結果をもたらすのだが。。。その際の条件としては、エソテリックな観点からして2つの存在が互いに完全にお似合いであること、そしてまた、彼らが完璧なカップルであることが求められる。すなわち、彼らの組み合わせには、人間タイプの特性に関する条件が付いているのである ― これは、宇宙の創造以前から絶対的な「我」と「汝」の関係にあったことの反映である。これは、エソテリックな科学において、ポーラー・ビーイングとして知られるケースである。。。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=59256344

均衡の原理は、全ての摂動および自由運動 ― とりわけ、有機生命体、中でも人間のセクターにおけるもの ― が、代償として求めて、受け取るもののせいで、厳しいながらも公明正大な守護者のように見える。7の法則共々、均衡の原理は全ての存在が法則に従って一定期間生きながらえるようにする。人間の叡智は遠い昔から、この事実に気付いていたのだ。これこそがカルマの原理=ギリシャ神話の神ネメシス=キリスト教における天上のヒエラルキーに君臨する大天使ウリエルであって、「伝承」によれば、神の7つの霊の中でも、そして宇宙の中でも彼だけは、決して変わることがない。彼は、ミクロ・ミクロコスモスを含む、全ての規模段階の宇宙において破れた均衡が回復するのを監督しているのだ。。。

カルマの作用は自動的に始まる。我々は常に、この自動的な反応を覚えていて、少なくとも予め行動計画を立てる際には考慮しなくてはならない。だが、これはた易いことではない。というのも、我々の行動が摂動とその効果を生み出していると気付くのはまれな事だからだ。そんな訳で、カルマの作用はしばしば、予測可能な限界を超える。それでも我々は、カルマも「正しき者たち」にとっては、その脅かす側面を失うのだと繰り返し諳んじねばならない:それは彼らに喜びのみをもたらすのだと。これは何故かと言うと、彼らの行動は決して、一般的な宇宙法則や局地的な宇宙法則に外れるような摂動を生み出さないからだ。「正しき者たち」は、誤りを犯さないのだが、他方、普通の人々は、誠実に行動し、自分では正しく行動していると信じていても、過ちを犯す。彼らは最初から誤った考えを抱いていて、それが本当の罪のもとなのだ。罪はいわゆる神秘的性質のような要素を含んでいない。それが過ちであるという意味で、罪は十分な償いによって清算可能である。「伝承」は上で述べたことを指摘してこう述べる:「罪を後悔しない場合は格別、許されない罪はない」と。この公理の真意は容易に理解できる。後悔こそは、何にもまして意識的な行いであり、その結果自ずと、為された過ちを優しく効果的に償うことになる。これが理論である。実際問題はそう簡単ではない;各ケース毎に詳細な研究を行う必要がある。後から罪を見つけ出して償う困難に比べれば、罪を犯さない方が明らかに楽である。ここで述べた通りの意味の後悔が遅れずに為されないと、均衡を図るカルマの作用が自動的かつ強力に働くことになる。一度これが始まると、我々は逆らわずにこれに従わねばならない。

カルマの作用が自動的に始まり、機械的に働き始めると、それはその次元での摂動を償う。償いは、仕訳帳同様、個々の勘定/責任に対して為されるのであり、良い結果と悪い結果との差し引き合計に対してではない。(※「均衡の原理」と訳した”Principle Of Equilibrium”ですが、会計学では「貸借平均の原理(=借方の合計と貸方の合計は常に一致する)」という意味です。)
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