2017年10月12日

CassWiki:第4密度への卒業

CassWiki:第4密度への卒業
https://thecasswiki.net/index.php?title=Graduation_to_fourth_density


FOTCMのワークが受けているインスピレーションの多くは、カシオペアンがザ・ウェイブと呼ぶ地球の変化の概念に関係がある。現時点の私たちにはまだこの移行がどのようなもので、最終的にどのような状態になるのか正確には分かっていないのだが、本件について人々から尋ねられることしばしばである。本項では本件の解明に役立てるため、FOTCMがレビューしたチャネリングソースからの文書と伝承とを組み合わせて吟味してみたい。私たちが本件に関する権威でもなければ確実な事も言えないこと、私たちの理解は単に断片的/部分的なものかも知れないことは、承知している。

第3密度の転生体から第4密度へと進級するには、合格すべき基準があるようだ。しかもケースによっては、物理体に居るうちにこれが起こることも有り得るらしい。この基準については様々に述べられているが、いずれも疑問に答えるより多くの疑問を浮かび上がらせるものだ。以下で見るように、ソース毎に様々な内容が述べられている。

ラーが言うには、他者への奉仕(STO)の道を選ぶためには、思考と行動の50%超が他者への奉仕に捧げられねばならず、自己への奉仕(STS)の道のためには、95%超が利己的でなくてはならない。(※セッション47.3)人間は生来その間のどこかで揺れ動くものであり、どちらも同じくらい難しい。両者の間を揺れ動いている限りは、十分な経験を積んだ末に最終的にどちらの極性を選ぶ気になるかという見込みに関して、どちらもあり得るとしか言えない。

カシオペアンは当人の居る密度 ― すなわち、第3密度 ― におけるレッスンをひたすら学ぶことで、カルマについての基本的な理解を身に着け、それを清算すべきことを強調する。レッスンから学ぶというのは、実践によって世間を見、そこでの舵取りに熟達しつつも、その流儀には巻き込まれない、ということである。スーフィも「世にいながらも世に属していない」ようにすべきだと言う。
(※エソテリック・グロッサリーの頃もスーフィになっていて、おそらくカシオペアディアでもそうだったと思われますが、ザ・ウェイブ25章ではイエスの言葉だと言われています。
http://takapachi1962.seesaa.net/article/359543574.html
ヨハネによる福音書 / 17章 11-16節
---
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです(”They are not of the world, even as I am not of it.”)  ※※)。

可能性を制限するようなものに捕われることなく、可能性を受け入れることが、学び実践すべきレッスンである。感情の成り立ちが、かなりの質に達していることが重要なのである。

「小さな<私>」(ウスペンスキー『奇蹟を求めて』浅井訳103ページ)
に対する支配を確立することが、実際において欠かせない。というのも、50%の利他性(STO)や95%の利己性(STS)というものは、極めて裏表の無い人柄でなくては、とても達成不可能だからである。そこまでの利他性/利己性が現れるような性質になり、行動する能力がなくてはならない。

見えざるものを見るということは他でもない、現実生活の中においてもSTSとSTOとの間の微妙な違いを見分けるということである。このような見えざるものを見分ける力無くしては、他方でなく一方を選び続けるということは、ほとんど不可能であろう。これは1つのスキルであって、獲得には訓練が欠かせない。

ボリス・ムラヴィエフとP.D.ウスペンスキーは、人間体に達成可能な最高度の発達について述べている。これこそ、第4の道の目的であり、そんな「人間第7番」(ウスペンスキー、前掲書121ページ)となった人は、恒久的で不変の<私>を持つに至り、人間に可能な全ての意識状態に自由にアクセスできるようになるのである。人類史上、これを達成した人物は殆ど知られておらず、そんな人だと見分けること自体容易なことではない。伝説上の人物であるフルカネリはこのような境地に至ったもののようであるが、調べようにもその経歴さえ不明である。ラーは中間試験でSTSあるいはSTOへと卒業した歴史上の人物として、ジンギスカン(『ラー文書』紫上訳229ページ)とアッシジの聖フランチェスコ(同400ページ)の名をそれぞれ挙げている。このような偉業を達成する人は、極めて稀であることが分る。

多くの論者は、各センターないし機能のバランスがとれていることが卒業のために欠かせない条件であると言う。レッスンの学びを終えた人とは、一方の側にウェイトを置き過ぎず、かつ、何ごとも省略しないでバランスを達成した人であると言えよう。ラーはバランスを保つことで、光線ないしチャクラが強さを増すと説く(※セッション40.4)。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=3609063&id=65094021
STOはバランスを重視するが、STSは一種の省略、すなわち、ハートチャクラないし高次の感情センターをスキップして、直接、「魔術的な」パワーへのアクセスを可能にする高次の知性的機能へと向かうことにより卒業する。第4の道も同じ事を別の表現で述べているが、何と言ってもグルジェフ協会の正式名称は「人間の調和的発達のための学院(『生は<私が存在し>て初めて真実となる』浅井訳55ページ)なのだ。低次のセンターは磁気センター
http://www.eleutheria.com/vquest/fw/fw1.html#p37
とバランスしつつそのコントロール下に置かれねばならず、そうすることで磁気センターが高次の感情のセンターと融合し、ついには高次の知性のセンターを開くのである。このような方法によらずに高次の知性のセンターを開こうとするのが黒魔術であって、第4の道とは真逆の行き方である。

収穫見込み=卒業できる可能性と、尋常ならざるサイキックパワーとの関係は不明確である。ムラヴィエフは、このようなパワーは個人が特別な奉仕を追及する限りにおいて、そのような者に対してのみ、様々なあり方で顕現するものだが、それ自体を目的とする場合は無理だ、と書いている。不可欠な1つのパワーは虚実の別を本能的に認識できることであり、それは人が高次の感情センターへのアクセスを手に入れるときに形成される。ラーが言うには、「知的無限への入口」を見い出して開くことが収穫の基準であるということだが(紫上訳272ページ)、これは第4の道にいわゆる、高次の知性センターにアクセスするという概念にほぼ相当する。

その代わりこれは、「高次の水素」の特殊サイキック代謝と関係がある。(※「知性センターは<水素>48で働き、動作センターは<水素>24で働く」ウスペンスキー、前掲書305ページ)

ニューエイジ業界では、アセンションをスピードアップするための肉体への作用や薬物、演習が大いにもてはやされている。「悟りをもたらす効き目」を謳い文句に売られているモノアトミック・ゴールドがその適例である。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=70957985
私たちはこのようなテクニックの全てを、学びという基本問題を避けるものと見做し、レッスンに専念して、どのようなものであれ創造的側面における個々人の天賦の才を発揮させるように努めている。

カシオペアンによれば、DNAが変化することが第4密度への移行の一環だという。
http://takapachi1962.seesaa.net/article/453859536.html
少なくとも、DNAの何がしかの機能が、卒業の可能性に関わりがあるということであろう。遺伝が一般的に人間の可能性を決定づけると言っても、これはほとんど驚くに値しない。カシオペアンは、転生が起こるにはDNAと魂の相性が合わねばならないこととの関連で、「魂は、出くわしたシステマティックな構造と結合する」と述べている。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=78892167

卒業は一般的に、人の内部状態としてのみではなく、壮大な外部の出来事と関係するものとして描かれる。カシオペアンによると、移行の時期辺りになると、過去に起きた超新星爆発の光が地球に届いて、内部的な極性化が十分に出来ている人々の進歩を加速させるであろう、という(※980905)。

そしてまたウェイブも、移行を促進する、特定かつ別個の出来事だと述べられている。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=30288965
かくしてラーとカシオペアンは間接的ながら、中間試験での卒業者が殆ど居ないからと言ってそれが直接今回の収穫規模の見積りにはつながらない、と示唆する。人数見積もりこそ示さないものの、各ソースは一様に、卒業者の数は全人口に比べてごく少ないとの見方で一致している。

ラーは、魂が自らにとってふさわしい密度へと向かう卒業というものは、輝きを増して行く光に向かって歩みをすすめるようなものである、と述べている。魂にとって、光が強烈過ぎる密度に至って、魂は立ち止まる。(※セッション48.6か?) 密度間における境界に対応して、その階梯もまた不連続である。

人が自らの努力によって卒業試験に合格するということは、俗世にあろうと隠遁していようと、殆どまれであることが分る。努力の効果や経験というものは現れるかもしれない。だが、これだけでは違いは生まれない、STSの熟達者にとっては、実際、独りでワークを実践するのが唯一の方法である。というのも、STSはコントロールすることのみを求め、シェアしようとはしないからである。STOにしてみれば、グループでのワークは自然なものである。結局、同様の指向を持った他者に対してでなければ、他者への奉仕(STO)はできないのである。(STS指向の人々や、混合志向の人々の内なるSTS性に奉仕することは、STS原理への貢献にしかならない。)かくして、バランスのとれた、すなわちSTOとのやり取りによってこそ、大いなる支援が得られる。このようなやり取りは、個々人の欠点を補い、個々人単独では満たせないような基準にも適うグループ体を生み出すのである。FOTCMはグループでもって集合的に取り組めば、一人の4D STOの能力に近づけるという考えを実践しようと試みているのだ。

しかしながら、フリーライド(ただ乗り)というものは無い。というのも、必要となる神秘主義的/形而上学的特質を相互にやり取りしないでは、効果的なメンバーシップは存在し得ないということに自ずとなるからである。やってみないことには詳細などわからず、各自のタスクについてのチェックリストなど書けるものではない。これはキリスト教における、信徒がキリストの体を造り上げる、という考えに相当するものである。
(※エフェソの信徒への手紙/ 04章 10-13節
この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
11:そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
12:こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、
13:ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 ※※)
頭の行くところに、身体もまた従うのである。
https://www.goodreads.com/quotes/1204832-where-the-head-goes-the-body-follows-perception-precedes-action
一人が得、または失うときは、全員によって得られ、あるいは失われるのである、とはグルジェフのグループについての言葉である。
(※ウスペンスキー360ページ
---
何よりもまず、グループの中では全員がお互いに責任があるということを理解する必要がある。一部の手落ちは全体の手落ちとみなされる。。。1人が手に入れたものは全員によって獲得されたのだ。。。
--- ※※)

『ラー文書』から引用する:


---
(紫上訳329ページ)
他者への奉仕の最善の方法は、内なる自己のすでに知るところである「創造主」の愛を、つねに分かち合おうと心がけていることです。それには自分の資質を自覚していることや、他の自己に対して躊躇(ためら)いなく胸襟を開く技量を有することが含まれます。また、心/身体/霊複合体の真髄あるいは内奥の部分が、言うなれば燦然と輝いていることも含まれます。

あなたの質問の意図するところについてお話ししましょう。第3密度において探究者ひとりひとりが他者への奉仕を生きる最善の方法は、それぞれの心/身体/霊複合体独自のものになります。これは心/身体/霊複合体が、他の自己に奉仕しうる最善の方法を見分けるという独自の知性を自分自身のなかに探し求めなければならないことを意味します。これはひとりひとりみなちがいます。。。
---
セッション17.30


カシオペアンから引用する:


960224
Frank, Laura, SV, PZ, SZ, MM, W
---
。。。どう思うかな?いいかな、あなた方は一旦「周波数が合えば」指数曲線的な増加量で学ぶのだ。これはつまり、あなた方が次第に宇宙意識にアクセスできるようになることを意味する。どうか、自分の高まり行く気付きを信じる術を学びなさい。ここに居る皆の進歩のサイクル上の位置を比べると、何人かは他の人たちよりもずっと先を行っている。もし、あなた方が偏見無く適切にネットワーキングするならば、あなた方は皆、最終的にはサイクルの同じ点に行き着くだろう。また、あなた方は宇宙意識にアクセスして、そうしなくては知り得ない真実の答えを見付けることもできよう。。。

020928
---
人生は宗教だ。人生における経験は、その人がどのように神とやり取りしているかを反映している。眠っている人々は、創造とのやり取りという意味での信仰を殆ど持っていない。また、ある人々は、世界とは自分達が征服し、無視し、閉ざすために存在していると考えている。このような人々にとって、世界は終わるだろう。彼らは自分達が人生に対して行った仕打ち通りの目に遭うだろう。彼らは単なる「過去」の夢になるのだ。客観的現実の到る所に厳しく注意を払う人々は、「未来」の現実となるだろう。
---


上記の要約は、ごく部分的なものとせざるを得なかった。本テーマに関してより理解を深めるために以下を読むことをお勧めする:

・ザ・ウェイブ・シリーズ
http://takapachi1962.seesaa.net/article/414985821.html
・カシオペアンセッション交信録
https://www.amazon.com/Cassiopaea-Experiment-Transcripts-1994-Volume/dp/1897244991
(それらからの多くの抜粋を、背景事情とともに解説している『ザ・ウェイブ・シリーズ』全巻をまずは読まれることをお勧めする。)
・ラー文書(ナチュラルスピリット、紫上はとる訳)
・ボリス・ムラヴィエフ『グノーシス』三部作
http://www.eleutheria.com/mystic/gnosis2.html
・フルカネリの全著作
(邦訳:『大聖堂の秘密』、国書刊行会、平岡 忠 (翻訳))

以上の他に、上の各著作に掲げられた参照文献も読まれたい。
posted by たカシー at 11:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月10日

CassWiki:生は<私が存在し>て初めて真実となる

CassWiki:生は<私が存在し>て初めて真実となる
https://thecasswiki.net/index.php?title=Life_Is_Real_Only_Then,_When_%27I_Am%27


『生は<私が存在し>て初めて真実となる』(浅井雅志/訳、平河出版社)は、G.I.グルジェフによる3部作『全体とすべて(森羅万象)』の3作目で、未完に終わったものの、1974年に自費出版の形で刊行された。3部作の他の2作は、『ベルゼバブの孫への話:人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』(浅井雅志/訳、平河出版社、原著刊行1950年)と『注目すべき人々との出会い』(星川淳訳、めるくまーる、原著刊行1963年)である。

この本は、ジャンヌ・ド・ザルツマンによる序文、プロローグ、著者による5つの「講演」(1930年11月28日から同年12月19日にまでの間に行われたもの)、そして、「人間の外なる世界と内なる世界」と題された最終エッセーから構成され、未完のまま終わっている。

ド・ザルツマンによる序文から引用する:


---
------
(浅井訳7ページ)
この最後の著作をとおして私は、これまで私が偶然学ぶにいたった神秘、すなわち人間の内なる世界に関するこれまで知られていなかった神秘のほとんどすべてを、私と同種の、われらが共通なる父の他の被造物と分かち合いたいと思うのである。
------


グルジェフがこの言葉を書いたのは1934年11月6日、そして早くもその日のうちに本書を書きはじめている。続く数カ月間というもの、彼はこの著作の執筆に没頭するのである。

そして1935年4月2日、彼は突然、しかも完全に執筆を停止する。

われわれはこう問わずにはおられない。なぜ彼はこの計画をこの時点で放棄し、2度と再び着手しなかったのか、と。

なぜ彼はこの「第3シリーズ」を未完のまま放棄し、また明らかに出版の意図をも放棄したのか。

グルジェフが行った集中的なワーク − その生涯の最後の15年間に一定数の生徒と行ったこのワークで、グルジェフは自分の考えを、直接、また実践的に学ぶのに必要な状況を、くる日もくる日も生徒たちのために作り出していった − に自らかかわった者でないかぎり、これらの問いに答えることはできない。

彼自身このことは、『ベルゼバブの孫への話』の最後のペ−ジではっきりと言明している。すなわちこの「第3シリーズ」は、このシリーズで「光を当てようと考えている真の厳正なる客観的真理」が理解できるとして選ばれた者にのみ近づけるものにする、と言っているのである。
---


グルジェフが「魂を持たない人間」=機械的な人間、すなわち、シーズがオーガニック・ポータルと呼ぶものについて論じようとしていた可能性は高い。
posted by たカシー at 14:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

CassWiki:自己沈静

CassWiki:自己沈静
https://thecasswiki.net/index.php?title=Self-calming


自己沈静とは、不愉快な思考や感情を脇へと押しやるプロセスである。これは人間の在り様として広く蔓延しており、数多くのレベルで見られる特徴である。
(※『ベルゼバブの孫への話』浅井訳78ページ
---
この責任(=なぜ人間の理性は空想を現実として知覚するのか)は彼ら自身にあるのであって、それも彼らが自分たちの通常の外的な生存形態を徐々に異常なものに変えていったこと、そしてそれが彼らの体内に、今では彼らの内なる<邪悪なる神>となっているもの、すなわち<自己沈静>と呼ばれるものをしだいに形成したことに原因があるのだ。
--- ※※)

最も基本的な意味における自己沈静とは、人が自分の行為や不作為に満足が行かない場合に、それを自己正当化するときに起きる。これは自分の良心を眠らせる結果となる。このような行為は、良心のみならず気付きにも反するものであり、眠りを深めるものだ。意図して計画的に行うと<緩衝器>が出来上がる。

しかし、自己沈静の言い訳は、単に自分の行動に関して行われるだけでは終わらず、もっと複雑な形を取るものだ。それは、「自分は何か他からの機械的影響を受けているせいで、怠けたり/疲れたり/酒に酔ったり/情欲を抱いているから」であり、あるいは、「皆が同じ事をしているから」であり、あるいは、「人間とは不完全なものだから」である。

スピリチュアルな自己沈静は、様々な現実否定の形を取る。原理主義的な(=聖典を文字通りに受け取るよう求める)神を盲信することは、自己沈静に陥るための極めて効き目の強い薬物ともなる。それは殺人や大量虐殺、略奪、レイプを正当化しがちだ。いかに堕落した人間でも、盲信という深い催眠に落ちた狂信者のようには振る舞えない。

これのさらに巧妙な形のものが、霊的至福状態になること自体を目的としてそれを得ようとする「行」に見られる。このような行では、自己沈静が起きる結果、「上位のリアリティ」にコンタクトしようという高貴な目標は陰に隠れてしまう。ニューエイジの教えが盛んに、「スペースブラザーは私たちを救うためにこの星にやって来ています」とか、「すべて世は事もなし」とか、「素敵な世の中にするためには素敵な事を考えるだけでいいのです」と言うのはいずれも、自己沈静の作用をもっているのだ。

通俗心理学の多くもまた、自己沈静の様々な方法を説いている。

こうしたあらゆる形態を通して自己沈静は主観性を推し進め、さらには現実(リアイティ)から個性を分け隔て、「小さな<私>」(ウスペンスキー『奇蹟を求めて』浅井訳103ページ)がさらに分離し数を増やすのを推し進めるのである。

とは言え、人間は絶望的な恐怖を抱いた状態では十全に機能できない。ゆえに、感情を調整する何らかの手段は欠かせない。人間の体は生まれつき、解離メカニズムや記憶の抑圧等によって、こうした手段を提供するように出来ている。これらはこの世界で生きる上である程度は必要なものだ。

何が自己沈静であり、何が生存のための反応なのかは、常に明確には分けられない。たとえ自己沈静が「これは他の何かである」と言って正当化しようと、一般的に自己沈静は安楽を求めて故意に行われるものであり、これに対してトラウマ反応は自動的かつリアルタイムである。
posted by たカシー at 22:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする