2017年09月13日

CassWiki:意識的な苦悩 vs. 機械的な苦しみ

CassWiki:意識的な苦悩 vs. 機械的な苦しみ
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第4の道には1つ複雑な概念がある。これは意識的苦悩と自動的(機械的な)苦しみに関するもので、前者と後者では克服のための努力が正反対に評価されるのだ。
(※『奇蹟を求めて』第6章「センター」より
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(浅井訳187ページ)
しかし、Gは動作センターに統御されている行動を<自動的>とは呼ばなかった。彼は<自動的>という名称を、人間が気づかないで自分自身のためにする行動だけに使った。。。たとえば<自動的思考>や<自動的感情>などだ。私が反射作用について聞いたとき、彼はそれを<本能的行動>と呼んだ。。。
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※23章 ベルゼバブ、惑星地球での4度目の滞在 より
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(浅井訳182ページ)
さてそこでだ、坊や。その後、地球の3脳生物のほとんどは、彼らの組成に合せて大自然が種の存続という目的のために定めたある一定の期間中には、この絶えず体内で作られている聖なる物質(=精子)を体内から放出するというプロセスを行わなくなった。それに加えて、彼らのほとんどは、この聖なる物質を彼らの高次存在体を意識的に形成するのにも使わなくなった。以上の結果、当時すでにきわめて機械的になっていた方法でこの物質を体外に放出する時以外は、彼らは自然に<シルクリニアメン>と呼ばれる感覚を経験するようになった。これはおまえのお気に入りたちが<機嫌が悪い>と呼んでいる状態で、しかもこの状態は必然的に、いわゆる<機械的な苦しみ>を伴っていたのだ。
--- ※※)

ゲオルギイ・グルジェフは『ベルゼバブの孫への話』の中で、神聖な「パートクドルグ義務」について述べている。これは、「意識的努力と意図的苦悩」から成ると定義され、人間が客観理性を備えた存在へと変容する上で欠かせない衝動だとされる。
(※13章 なぜ人間の理性は空想を現実として知覚するのか
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(浅井訳77ページ)
「惑星地球の3脳生物がこのように特殊な精神をもつようになったのは後年のことで、そしてこの特殊性は次のようにして生じた。すなわち、すべての3脳生物と同様彼らの中にも形成されている中心をなす枢要部分がしだいに緊張を失って、身体全体のこれ以外の部分が、新しく入ってくるすべての印象を<パートクドルグ義務>と呼ばれるものを伴わずに知覚するのを放置したこと、つまり一般的にいえば、この3脳生物の中にセンターという名称で存在している各々独立した部署がこれらの印象をバラバラに知覚するのを徐々に許すようになったこと、あるいは彼らの言葉を借りるならば、彼らは誰が言うことでもすべてうのみにして、自分の健全なる熟慮の結果知りえたものだけを信じるという本来の姿を失ってしまったことによるのだ」
---  ※※)

これと、普通に感じられる何らかの傷みに対する感情的/肉体的反応である「機械的な苦しみ」とを混同してはならない。こちらは「月の食料」となるものだが、他方、「意識的努力と意図的苦悩」は永遠の価値がある何ものかを結晶化させる上で欠かせない内心における軋轢を生み出すものなのだ。2つの苦しみの違いはかなり微妙であり、しばしば曖昧である。

以下は、P.D.ウスペンスキーが『奇蹟を求めて』に引用しているグルジェフの言葉である:


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(浅井訳427ページ)
G − 。。。この世に人々が理解しないものがあるとすれば、それは犠牲という観念だ。彼らは自分のもっている何かを犠牲にしなければならないと思っている。たとえば私はかつて、<信仰><平安><健康>を犠牲にしなければならないと言った。人はこれを文字通りに理解する。ところが問題は、彼らが信仰も平安も健康ももっていないということだ。これらの言葉はみんなカッコつきで考えなければならない。実際は、自分がもっていると想像しているが本当はもっていないものだけを犠牲にしなければならない(ことになる)。つまり空想を犠牲にしなければならないのだ。しかしこれは彼らには難しい。大変難しい。実際にあるものを犠牲にする方がずっと簡単だからだ。

犠牲にすべきもう1つのものは、苦しみだ。自分の苦しみを犠牲にするのもこれまた非常に難しい。人間はいかなる快楽でも放棄するだろうが、苦しみだけは手放さないだろう。人間は何よりも強く自分の苦悩に執着する。そのようにつくられているのだ。

苦しみから解放されていない人、自分の苦しみを犠牲にしない人はワークを行うことはできない。苦しみについてはもっと後でたくさん言うことがある。犠牲なしでは何1つ獲得することはできないが、同時に、人は苦しみを犠牲にすることから始めなければならない。さあ、これの意味するところを解読してみなさい。
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次は、『ベルゼバブの孫への話』からだ:


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(浅井訳162ページ)
。。。彼(聖仏陀)ははっきりと次のように言った。
『おまえたちの本性の中に存在する、器官クンダバファー(※『奇蹟を求めて』における<緩衝器>)の特性の諸結果が結晶化する傾向を効力のないものにする最良の手段の1つは、<意図的苦悩>である。そしておまえたちの身体が体験しうる最大の<意図的苦悩>とは、<自分自身に向けられた不快な表現行為>を耐え忍ぶよう自分を強いる時に生じるであろう』

[...]

(同237ページ)
『3脳生物の体内で良心という衝動が発現するための因子は、われらが《すべてを愛し、長く苦しまれている永遠なる創造主》から<放射される悲しみ>の粒子がある局所に集中することから生じる。3センター生物の中で真の良心を生み出す源泉が時として《創造主の代理人》と呼ばれるのはそのためである。

そしてこの悲しみは、われらが《すべてを維持する普遍なる父》の中で、宇宙において絶えまなく進行し続ける喜びと悲しみの間の闘いから生まれるのである』

さらに彼(非常に聖なるアシアタ・シーマッシュ(=天より地球に遣わされた聖人))
は次のように続けた。『われわれの宇宙全体の、われわれ人間もその1員であるすべての3脳生物においては、一個の例外もなく、われわれの体内に良心という神聖なる衝動を生み出すために結晶化しているデータのおかげで、<われわれのすべて>、そしてわれわれの本質全体は、そもそもの誕生当初からただ苦しみのみであり、またそうでなくてはならないのだ。

なぜわれわれ3脳生物が苦しまなくてはならないかといえば、われわれの中ではこの良心という衝動は、全く対極的な起源をもつ2つの源泉から生じる、相対立する2つのいわゆる<機能の複合体>と呼ばれるものの絶えまない闘争からしか完全には発現しえないからである。2つのものの闘争とは、つまりわれわれのこの惑星自体の機能のプロセスと、それと並行する機能、すなわちこの惑星体の中に高次存在体を形成し、完成させるにつれて漸進的に生起する諸機能との間の闘争のことであり、これら後者の諸機能が全体として3センター生物の中のすべての理性を生み出すのである。

その結果、この地球上に存在するわれわれ人間も含めて、われらが大宇宙のすべての3センター生物は、<客観的良心>という神聖なる衝動を生み出す目的でわれわれの中にも存在している因子があるために、われわれの体内で発生し、進展する2つの全く対照的な機能と常にまた必然的に闘わねばならず、そしてこの闘いの結果生じるものは、常に<貪欲>もしくは<無欲>として感じられるのである。そしてこの内的な闘いの過程に意識的に手を貸し、<無欲>が<貪欲>を支配するよう意識的に努める者のみが、われらが《普遍の父なる創造主ご自身》の本質と調和しつつ正しい振る舞いをすることができるのである。逆に意識がそれと反対の状態を生み出すように手を貸す者は、《彼》の悲しみを増すだけであろう』
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機械的な苦しみは、主観性と自己への配慮に根ざしていると言うことができよう。他方、意図的ないし意識的苦悩は、客観性を獲得するための内的な闘いに根ざしているのだ。それは例えば、下の方の場所の代わりにもっと高い場所を選び、内心における配慮の代わりに外部への配慮を選ぶのである。ただし、これら選択肢の違いが分かるようになっていなくては、もちろん無意味である。

それでは、苦痛を犠牲にしなくてはならないと偶々感じたから、自分は有徳だという幻想を抱くだけのことである。そうではなくて、客観性を獲得するための内的な闘いに取り組まなくてはならないのだ。一般法則(※ムラヴィエフ)
https://thecasswiki.net/index.php?title=General_Law
の発動は言うに及ばず、人間の生来の習い性である自己満足や機械性は、意図的苦悩を妨げようと、あらゆる欲求を突きつけてくる。上に引用した部分でグルジェフが言っているように、真理を追究して内的な闘いに努めることこそが創造主の喜びなのである。内心における闘いなくして喜びが得られないのは、選択肢が存在しなければ自由意志が認められているとは言えないのと全く同じである。
posted by たカシー at 06:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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