2017年09月11日

CassWiki:「現在」ないし「現在すること」

CassWiki:「現在」ないし「現在すること」
https://thecasswiki.net/index.php?title=Presence_or_being_present


エソテリックな事柄に関する議論の多くで、「現在する」という概念を見かけるものだ。このテーマに関して行われている様々なアプローチや、そこでかけられているツイストについて見てみたい。

この概念で表現される最も簡単な意味合いは、「行動できるのは今だけである(It is only possible to act in the now)」ということだ。過去を変えることはできないし、未来はまだ起こっていない。だから、行動できる唯一の機会は今なのである。今は過去の結果であるが、未来もまた現在の結果なのだ。

しかし上に述べた考え方が意味を成すのは、その人が実際に今存在している場合だけである。というのも、「今」は客観的な存在だからだ。例えば、「想像上の今」というのは、現在とみなすことはできない。ここで述べている「現在」は、自己想起を行う上でも、状況を知覚する上でも、多少なりとも客観的な存在を前提としているからだ。

「現在する」ということと、ご都合主義的な「今日を生きる」ないし「カルペ・ディエム」(※Wikipedia:その日を摘め(ラテン語: Carpe diem、カルペ・ディエム)は、紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句。「一日の花を摘め」、「一日を摘め」などとも訳される。また英語では「seize the day」(その日をつかめ/この日をつかめ)とも訳される。ホラティウスは「今日という日の花を摘め」というこの部分で、「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に使え」と言おうとしている。)
の概念とを混同すべきではない。「現在に生き」、「現在する」からと言って、結果を無視していいことにはならない。それどころか、「現在」というものはやがて拡大して行って、元々結び付いていたあらゆるものを包含するのだとみなすことができる。諸々の行動の結果と責任は、現在の行動と結び付いているのだ。他方、現在の瞬間と結び付いていない物事について、それが何であり、何になるのかという風にめぐらす空想は、現在からの心の中での飛翔であって、現在の生を構成するものではない。

ニューエイジ・カルチャーの中には、「この瞬間に現在している」という妥当な疑念を取り上げながらも、それにツイストをかけて、ドラッグを注射する場合のような、目先の利益や快楽を最大化するという意味に理解しようとする輩が存在する。結局のところ、大事なのは現在のみであって、他には何も存在しないから、というのだ。このような考え方が実際に唱導しているのは、作為/不作為と有機的に結び付いている結果を、自分の都合のいいように主観的に否定する行為である。

もし人が、現在を真剣に意識して、否定や自己満足あるいは空想という<緩衝器>を通さずに直視するなら、日々の経験という触媒をより効果的に活用して、化学反応を加速させることができよう。例えば、ゲオルギイ・グルジェフは、やるべき事を先延ばしにする「明日」という病気を取り上げて、ただでさえ不完全な人間の能力をさらに低下させるものだと論じている。
(※『ベルゼバブの孫への話』浅井訳231ページ
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この奇妙な病気<明日>は恐るべき結果をもたらした。これにかかった不幸な3脳生物たちは、自分はきわめて望ましくない事態に直面しており、そこから脱出するためにはある努力をせねばならないことを、いやそればかりかいかに努力すればいいかまで身体全体で知り、心底納得しているにもかかわらず、この厭うべき病気<明日>のために絶対にこの必要な努力をすることができないのだ。
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自分は何かを為し得るのだという幻想は、特にそれが将来の己の姿に投影される場合、自己沈静的な薬物として作用し、自分がどれほどまでに習慣や環境の奴隷となっているか理解するのを妨げるのである。ほぼ普遍的に見られる、このような状態を否定することそれ自体が、現在と接触を保ちつつ客観的であることにとっての障害となる。つまり、自分に嘘をつくことは、現在することにとっての障害なのだ。

「現在していない」他の症例としては、否定的な想像や未来に関しての、不必要かつ非生産的な憂慮、あるいは、過去の栄光に拘泥る/恥辱を引きずるというものがある。ここでもまた、物事の客観的な知覚と想像の産物とは区別しなくてはならない。唯一のリアリティは現在だけであって、過去も未来も表象なのだと言っていいだろう。それでもこのような表象は、日々の生活を送る上で欠かせないものであり、現在と両立しうる表象は、現在とは無縁の表象よりも、行動の役に立つものだ。

より抽象的な意味において、「現在」や「現在すること」は、時間の本質についての考察につながる。時間は、出来事や計測の概念から切り離すことはできない。グルジェフはこの点について、『ベルゼバブの孫への話』の中で、時間とは、創造自体と共に生まれていながら、知覚のされ方は主観的である、独自の現象だと述べている。時間の客観的な定義はどれも、7の法則で表わされるオクターヴに相当する、因果的に連続した諸段階を踏むプロセスに依拠する。つまり、時間とは観察されたプロセス中の不連続な各段階に相当する不連続なユニットで構成されているのだ。この意味で時間とは、リニアであると同時に不連続なのである。
(※浅井訳90ページ『16章 時間の相対的理解』
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時間それ自体は存在していない。存在するのはただ、ある場所で起こるすべての宇宙現象から生じる結果の集積だけだ。。。

。。。大宇宙では、1つの例外もなくすべての現象はどこで生起し発現したものであろうと、もともと<至聖絶対太陽>に生じたある1個の包括現象が合法則的かつ連続的に断片化していった<小部分>にすぎないということだ。

だからあらゆる宇宙現象は、どこで起こるものであろうとすべて<客観性>の感覚を帯びておる。

そして合法則的、連続的に断片化していくこれらの<小部分>は、主要な宇宙法則である聖<ヘプタパラパーシノク>(=7の法則)のおかげで、あらゆる点において、またその退縮や進展という意味においても現象化するのだ。

ところが時間にだけはこの客観性という感覚がない。というのも、これは宇宙現象が断片化した結果生まれたものではないからだ。そもそもこれは何かから生じてくるものではない。そうではなくて、これは常にあらゆるものと混じり合って、自己充足的に独立したものとなる。だから宇宙広しといえども、<理想的に唯一無比の主観的現象>と呼んで賞揚することができるのは時間だけなのだ。
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カシオペアンは、「本当の時間の尺度とは拡張された現存だ」と語った。


941016
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=27924927
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Q: (L) 「拡張された」現在って何?

A: 本当の時間の尺度。


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http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=28092972
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Q: (L) 物質宇宙に存在する全てのものは、言わば「x歳」ということになるの?

A: No. 永遠の今だ。かつて起こったのみならず、起こりつつあるし、これからも起きる。拡張された現存だ。
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この拡張された現存というのは、起こり得る全てのタイムラインの鳥瞰図として理解できるかも知れない。個々のタイムラインは、7の法則に従った不連続な段階から成る不連続なプロセスの一続きである。これらのプロセスは厳密に決定論的ではないので、各タイムラインは、起こり得る様々な軌跡に枝分かれしている。これらの軌跡は全体として、P.D.ウスペンスキーとボリス・ムラヴィエフが「永遠の平面」と呼んだものを形作っている。これを上から見ると、さながら拡張された現存という眺めであり、そういう言葉使いが許されるならば、かつて存在した全てと、現在存在している全て、そして、これから存在するであろう全てが同時に併存している格好となろう。そしてまた、現在(present)ではなくて現存(presence、プレゼンス)という言葉が使われているのは、観察者がその場に居ることと無関係ではないことをも示唆していよう。

ニューエイジの文書の中には、リニアな時間というものは幻想であって、単に無視でき、またそうすべきだと主張することで、このような考え方を単純化し過ぎるものが多くある。たとえこれが高次元の視点からは感覚的なリアリティであるとしても、人間の視点からすれば非現実的である。

時間から自由になって、そのような概念が人間の言語においては重要な意味を持つものだと見極めるには、時間についての意識や、時間あるいは歴史的出来事についての知識が必要である。その簡単な例が、『過去に学ばない者は、過ちを繰り返す』(※ジョージ・サンタヤーナ)という格言である。意識がアクセスし得るコンテンツだけが、選択の対象となり得るのだ。カルロス・カスタネダによる「反復」の概念は、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=78324677
その反復を行う人が意識にとって利用可能なタイムスパンを長くしようとして、言ってみれば、その全てを現在に持ってくるという意味で、人を時間から解放する類のものである。第4の道の意味における「自己想起」(『奇蹟を求めて』浅井訳、465・476ページ)とは、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=78324677
現在見えていないアイテムの持つエネルギーを探らないことで、時間から自由になろうとする試みである。これらの考え方は、最初は逆のように思えるのだが、基本的にそうではないのである。

人間「機械」は、時間を理解するために、時間を知覚のリニアなモードに編成する。この意味において、リニアな時間の感覚というものは、カシオペアンが述べるように、人類の落下の結果であって、人間のDNAが「改竄された」状態にある結果なのだと言えよう。高次密度の存在のような別タイプの存在は、時間を理解するために時間をリニアな一続きのものとして投射しないで済むような精神的能力を持っているのだろう。という訳で、宇宙が全く同一であろうとも、知覚は知覚者の本性と能力次第で、根本的に異なるのだろう。

いずれにしても、広義における拡張された現存という体験は、それに先行するものや、その結果、そしてその代替物という点から必要となる全てのものを踏まえるならば、客観的意識に向けて一歩を踏み出し、幻想から自由になるということなのである。鳥たちの言葉では、「現在(present)」という語には、「今」と「贈り物」という二重の意味がある。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=60530231
拡張された現在をありのままに知覚するというのは、単なる概念ではなくて、「上位密度からの贈り物」なのだ。
posted by たカシー at 11:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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