2017年09月10日

CassWiki:ベルゼバブの孫への話

CassWiki:ベルゼバブの孫への話
https://thecasswiki.net/index.php?title=Beelzebub%27s_Tales_to_His_Grandson


『ベルゼバブの孫への話:人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』(浅井雅志/訳、平河出版社)は、G.I.グルジェフの著した3部作『全体とすべて(森羅万象)』の第1作で、1950年に原著初版が刊行された。3部作『全体とすべて』の残りの2作は、『注目すべき人々との出会い』(星川淳訳、めるくまーる、原著初版1963年)と『生は<私が存在し>て初めて真実となる』(浅井雅志訳、平河出版社、原著初版1974年)である。

本作品はグルジェフの代表作であり、『全体とすべて』シリーズの第1作目となっている。

グルジェフ自身の『親切な助言』には、こう書かれている。「私の書いたものを3回読みなさい。1回目は、少なくともあなた方が現代の本や新聞を読むのと同じように機械的に、2回目は、誰かに声を出して読んであげるようなつもりで、そして3回目に初めて、私の書いたものの要点を把握するつもりで読みなさい」(浅井訳2ページ)。1回は思考の機械的な部分のために、1回は動作センター(moving center)
http://gurdjieff.sakura.ne.jp/interview_j.html
のために、1回は「思考活動(being mentation)」のために、である。
https://thecasswiki.net/index.php?title=Being_mentation

『ベルゼバブの孫への話』は、若い頃に反逆罪に問われ宇宙の辺境に追放された天使ベルゼバブが、追放を許されて老齢の政治家になった今、ある会議に向かう宇宙船による長旅の途中で、地球の人類に関する彼の観察結果を、教育のために孫に語り聞かせる、という体裁をとっている。

だが、この『ベルゼバブの孫への話』は、グルジェフ自身が彼の生涯を語った、一種のカルマ的自伝だろうと推測されてきた。「孫」という言葉は、本作が未来に向けて送られたメッセージであることを示すものだろう。実際、1940年代以降に生まれた世代の人々は、少なくとも可能性としては、グルジェフの孫と喩えることができる。

グルジェフ自身、比較的近い将来、人類の意識の核となるものを作り出すことの必要性を非常に意識していた。恐らく彼は何らかの宇宙的好機、すなわち、カシオペアンの言う「ザ・ウェイブ」が到来すること、そして、そのために準備が必要なことに気付いていたのだろう。グルジェフの当初の計画では、「生きている伝統」たる教師が教えを伝えるための、世界的な学校ネットワークを創設することになっていたようである。だがおそらくは、1924年に彼が自動車事故を起こし危うく一命を取り留めるほどの怪我を負ったことと、そして彼が弟子たちにすっかり失望していたこと、という2つの事情から、彼は著作を行って現在へと壜に入れたメッシージを送る方に方針変更したのだろう。

この著作の要点は、人間が意識ある存在であって、自らの運命に責任があるという神話を破壊することにある。この目的実現のために、『ベルゼバブの孫への話』ではエソテリックな諸原理が語られているのであるが、この著作は体系化された教科書でも履修過程でもない。そのようなものとしては、ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』や、ムラヴィエフのグノーシス・シリーズの方が、ずっと利用しやすいし、相応しい構造となっている。

どうしてグルジェフがこのような書き方をしたのかは、必ずしも明らかでない。分かっているのは、彼が本書の著作にとても長い時間を費やし、一度全篇に亘り書き直しているということだけだ。何ごとも理由があってそうなっているのだとすれば、これも彼が意図した結果なのだろう。本書の著作中、グルジェフは原稿を弟子たちに大声で朗読する場を定期的に持ったのであるが、分かり易過ぎるような部分があると、「もっと深く『犬』を埋めなくては」と弟子たちに語っていたという。このため、本書を読み通して、より深い原理を垣間見るためには、人間のうぬぼれに対してグルジェフが与えようとしたショックや回りくどい表現、そして数多くのユーモラスな文体に取り組む必要があるのだ。

著者の序文から引用する:


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(浅井訳13ページ)
それでは、慣習的なまえがきのかわりに、きわめて単純に1つの警告から始めることにしよう。この方法は実に賢明なやり方であるといえよう。なぜかというと、これは私の方針、すなわち、有機的、心霊的、さらには<片意地な>方針とも矛盾せず、また同時に全く正直な − もちろん客観的な意味でだが − やり方でもあるからだ。つまり、私自身も、私をよく知っている人たちもみな、いささかの疑いも抱かずあることを予期しているのであるが、そのあることというのは、私のこうした書き方のおかげで、たちまちのうちに、あるいはそれが無理でも遅かれ早かれ、大半の読者の中から、彼らの<財産>、つまり先天的なものであれ後天的なものであれ、彼らに無邪気な夢を見させたり、現在の生活や将来の見込みを美しく思い描いたりさせるしか能がない、彼らの心の奥底にひそんでいる観念が完全に消え失せるであろうということである。
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『ベルゼバブ』の狙いは「何世紀にもわたって人間の中に根づいてきた、この宇宙に存在するすべてのものに関する信念や見解を、いかなる妥協も許さず、情容赦なく、読者の思考および感情の中から駆逐すること」(浅井訳1ページ)だと述べられている。

第48章「著者より」から引用する:


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(浅井訳737ページ)
<人間>の名に値するためには全一にならなくてはならない。

そうなるためには、まず第一に、自分の身体全体を構成しているそれぞれ独立した部分から生じる、疲れを知らないねばり強さと抑えようにも抑えきれない欲求という衝動をもって、つまり思考、感情、有機体的本能から同時に生じる欲求をもって、自分自身に関する全般的な知識を獲得するよう努めなくてはならない。そしてその後、自分の中に定着した主観性の中にひそむ欠点、およびそれと闘う可能性を有する明確な方法に関して、自分の意識だけを使って得た結果を土台として、自分自身に対していかなる容赦もせず、この欠点を根絶することに全力をあげなくてはならない。

いかなる偏見も排して率直にいえば、われわれの知っている現代人は時計仕掛けの装置以上でも以下でもない。ただしその構造はきわめて複雑である。

人間の機械性に関しては、あらゆる角度から、すべての偏見や先入観を捨てて深く考え、そしてよく理解しなくてはならない。そうすれば、この機械性およびそれが引き起こすすべての結果が、自分の将来の生活にとってのみならず、自分の誕生と生存の意味と目的を正当化する上で、いかなる意味と重要性をもっているかが完全に理解できるであろう。

人間の機械性全般について研究し、明確にしたいと望む者にとって、最良の研究対象は自分自身、つまり自分の機械性である。そしてこれを実際に、ただし<精神病的>に(※psychopathically)ではなく、つまり自分のどこか一部分でだけではなく全存在でもって研究し、明瞭に理解することは、正しくなされた自己観察の結果としてのみ可能なのである。

さてそれでは、この自己観察を正しく行えるように、つまり、適切な知識ももたずにこれを行う人々に時おり見られるような有害な結果を誘発する危険を冒さないでこれを行えるように、ある種の警告をしておく必要がある。これは同時に情熱過多を防ぐためにも必要であろう。その警告とは、われわれのもっている広範かつ正確な情報に基づいた経験が示すところによれば、自己観察は一見して思えるほど簡単ではないということである。だからこそわれわれは、正しい自己観察の土台に現代人の機械性の研究を置くのである。

機械性および正しい自己観察の諸原則を研究する前に、人間はまず次のような断固たる決意をしなくてならない。すなわち、自分に対して絶対的に誠実であること、いかなるものにも目をつぶらないこと、どんな結果が生まれても回避しないこと、いかなる推論も恐れないこと、これまで自分で自分に押しつけてきた限界で自分をしばらないこと。そして第二に、この新しい教えの信奉者たちがこれらの原則に関する説明を適切に受け止め、消化吸収できるように、これにふさわしい形態をもった<言語>を造ることが必要である。というのも、現在使われている言語の形態はこのような説明には全く適していないことが判明したからである。

これを始めるにあたって、第1の条件に関してもう一度注意を促しておかなくてはならないが、自己観察の原則に従って考えたり行動したりすることに慣れていない人は、そこから導き出される推論を真摯に受け止める勇気をもち、そして決して落胆してはならない。それを甘受し、自己観察に絶対必要な持続力をさらに強めて、これらの原則に従って続けていかなくてはならない。

こうして導き出された推論は、人間の内部深くに根を張っている確信や信念、それに彼の通常の思考活動の全体系をいわば<ひっくり返す>かもしれない。もしそうなると、これまで彼の生活を穏やかで安楽なものにしてきた基盤である、いうなれば<彼の心にとってかけがえのない快適な価値>そのものが、根こそぎ、しかも恐らくは永久に奪い去られてしまうであろう。

正しい自己観察を行えば、その最初の日から、まわりの文字通りすべてのものに直面した自分が、完全に無力でどうしようもない存在であることを明確に把握し、疑いの余地なく納得するであろう。

彼はあらゆるものが自分を支配し、指図していることを自己の存在全体で確信することだろう。彼自身は何も支配したり指図したりできないのである。彼が引きつけられたり反発したりするのは、彼の中に何らかの連想を生じさせる力をもっている生命体だけでなく、ぴくりとも動かない無生物からも彼は影響を受けるのだ。

現代人からはもはや分離できなくなっている衝動、すなわち自己空想癖と自己沈静を脱するならば、彼は、自分の人生とはすなわち、この誘引と反発に対する盲目的な反応にほかならないことを悟るであろう。

そして自分のいわゆる世間体とかものの見方、性格、嗜好等々が、どのようにして型にはめられてきたか − つまりいかにして自分の個人性というものが形作られ、またどのような影響を受ければその細部が変わるのかをはっきりと理解するであろう。

次に第2の必要不可欠な条件、すなわち正確な言語の構築についてであるが、これは次のような理由から必要である。比較的新しく造られ、いわば<市民権>を獲得した言語、すなわちわれわれが現在話したり、知識や観念を他人に伝えたり、本を書いたりするのに使っている言語は、われわれの意見では、多少とも正確な意見交換にはもはや全く用をなさなくなっている。

現代の言語を構成している語彙は、人々がそれに勝手な意味をくっつけて使うために、不正確であいまいな考えしか伝えることができず、そのため平均的な人々はこれを<伸縮自在に>受け取っている。

人間が生きていく過程でこの異常な事態を生み出していることに関しても、われわれの見るところでは、やはり例の、成長しつつある世代に対する歪んだ教育制度が一役かっている。

なんでこれが一役かっているかというと、この教育制度は、前にも言ったように、若者に強制的に<丸暗記>させることを、それもできるだけ多くの言葉を、それにこめられた意味の精髄によってではなく、単にその響きから受けた印象によって区別できるように丸暗記させることを基礎にして成り立っているからである。その結果人間は、自分が話していること、あるいは耳にしていることについて、熟考したり省察したりする能力を徐々に失ってきた。
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posted by たカシー at 09:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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