2017年09月09日

CassWiki:他者への奉仕(STO)と自己への奉仕(STS)

CassWiki:他者への奉仕(STO)と自己への奉仕(STS)
https://thecasswiki.net/index.php?title=Service_to_others_and_service_to_self


他者への奉仕(STO)、自己への奉仕(STS)の両概念は、最初ラーの教えにおける中心的な要として登場したものであり、その後のカシオペアンの教えにおいてもそうだった。これらと同じ基本概念は、エソテリック文化の至る所で、様々な言葉で表現されている。これらの概念の本質はごく基礎的であり、その意味合いも幅広い。その結果、どちらもあらゆる物事に何らかの形で反映しているため、これらを定義するのは難しい。

我々人間の住む第3密度レベルでの用語法が、STO vs. STSを語る上で最も適切であるとラーは述べる。というのも、人間は行為とその道徳的基礎という観点から物事を考える傾向があるからだ。STSは「吸収」し、STOは「放射」するという風に喩えることもできよう。いずれにしても、これらの原理は言葉では言い表せない。

宇宙論においてカシオペアンは、思考は一者から「二元的に発生する」と言う。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=59366866
一者こそは存在する全てのソースであり、最初の二重性はそこで生まれるのである。自由意志の原則は、様々なレベルに顕れるが、これらの中間に存在している。これは、ゲオルギー・グルジェフが言うところの至聖絶対太陽の放射物=聖テオマートロゴスの3つの神聖なる源泉=偏在するオキダノク=創造の光に相当するものと言えよう。(※浅井訳『ベルゼバブの孫への話』99ページ)
https://gnosticteachings.org/glossary/o/2679-okidanokh.html
最も抽象的な意味合いにおいて、存在する2つの異なる力ないし傾向に自由意志を加えたものが、永遠に膨張を続ける宇宙誕生の最も単純な基礎なのである。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=47850669
これら3つを始原として創造の過程が始まり、その後、存在における制約すなわち機械的レベルが増すに従って、あらゆる形態が出現するのである。これらのレベルは、ラーとカシオペアンの言う密度や、第4の道に出てくる複数の宇宙に相当するものだ。

STO/STSの二重性の顕れ方は、文脈次第で様々である。本Wikiの他の項目の多くは、この二重性の特定の側面について述べたものだ。以下に掲げるのは、二重性の様々な顕れ方、および、それらをSTO/STSとの関係でどう見做し得るかのリストである。我々が居る第3密度レベルでは、STO/STSについて包括的に述べることは不可能であり、比喩に頼らねばならない。

・精神 vs. 物質。STSなる存在は、物質宇宙を崇拝している(シーズ)。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=28123687
存在する全ては意識なのだが、意識の半分は、物質という形で眠っていると言えよう。一方の半分が、眠っている半分を創造におけるキャンバス、すなわち材料として使うのである。純粋なSTSは、何らかの形の物質性無しでは存在できない。それゆえ、第4密度止まりで、そこより上には存在しない。
(※シーズ:「第4密度レベルは、ネガティブな思考パターンである自己への奉仕派(STS)が存在する最高次の例。。。だ」 ※※)
http://takapachi1962.seesaa.net/article/306164013.html

・創造 vs. エントロピー。 創造とは形態の多様性であり、エントロピーとは同一性ないし同質性である。コントロールに執着するSTSは、最後はエントロピー状態(無秩序)を招く。

・実在 vs. 非実在。「実在 vs. 非実在」の項を参照のこと。

・重力の分散 vs. 捕集。 カシオペアンによると、重力とは全密度中のあらゆる存在を結び付ける骨組みだという。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=79252526
重力を分散させるのがSTO、重力を捕集するのがSTSである。(※960629。未訳出) つまり、ブラックホールこそがSTSの概念を具現しているのだ(シーズ)。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=25640720
光は重力のエネルギー的表現であり、この意味で、光の放射とブラックホール内部への捕捉とは、それぞれSTO/STSを指す喩えである。

・バランス vs. アンバランス。
シーズ:「STOはバランスである。というのも、他者に奉仕することによって自己に奉仕するからだ。 STOとはバランス、STSはアンバランスだ。。。STOは外に流れ出て、原点を含む全てに接触する。STSは内側へと流れ、原点にしか触れない」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=30613322

上の引用中の最後の1文は、「STOは他者に奉仕することによって、自己に奉仕する」とか、「STSは自己に奉仕することによって、他者に奉仕する」という定義がしばしば行われる理由を説明している。自己の内なる神を崇拝しようが、創造する神を崇拝しようが − 全ては結局、一者を崇拝することに帰する、とラーは述べる。

・光 vs. 闇。闇は、光が輝き差し込むための背景幕である。どちらを定義するにも、他方が必要となる。「重力」の項を参照のこと。

・放射 vs. 吸収。STSはエネルギーの吸収ないし捕集に対応する。STOはエネルギーの外部への放射に対応する。

・自由 vs. 制限(コントロール)。 STSは自己および他者のあらゆる面をコントロールすることに腐心する。STSはまた、自分たちの定めた法を課すことは、宇宙が一者に還る上で役立つと信じ、それゆえ自分たちの行動は他者への奉仕だと考える。STOは創造には本質的に限りが無いことを理解しており、他者にとって何が「良い」か決めることに腐心しない。

・拡大 vs. 収縮 ― 可能性の探究はSTOに対応し、他者に制限を課すことはSTSに対応する。

・ネットワーク vs. ヒエラルキー ― 社会組織の点では、STSは当然ながら、リソースとパワーを内輪で奪い合う競争のためのヒエラルキーを志向する傾向がある。STOは受け取ったものをシェアし分配する傾向がある。「ネットワーキング」の項および「自己への奉仕派のヒエラルキー」の項を参照のこと。

・与える vs. 奪う。シーズによれば、「開明された」(「賢い」という意味)存在は、STSであることもSTOであることもあり得る。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=33026579
開明されたSTOなる存在は与えるのみである一方、解明されたSTSなる存在は奪うのみである。シーズはまた、STSを定義づける収奪/費消/食餌に関しても以下のようにコメントしている:「STSは作法に従っては食べない。STSは可能なら何でも食べる。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=78892167
求める人たちには全てを与えるのがSTOだ」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=77150844
最後の発言に関しては、「求める人たちには全てを」の項を参照のこと。

・客観性 vs. 主観性。ウィッシュフルシンキングはSTSのお家芸である。彼らは、自分たちが見たいものしか見ない。(シーズ)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=51483133
STO/STSの二重性とメンタリティのこの側面に関しては、「客観性と主観性」の項を参照のこと。

・善 vs. 悪。人間の倫理観からすれば、一般に悪だと考えられていることの殆どはSTSに当てはまる。しかし、善悪という言葉は多分に主観性に左右されるものであり、ある人にとって良いことも、他の人にとって悪いということが有り得る。だから、このような観方は人をた易く誤解に導くものである。STO/STSの極性は、倫理観という外部的な規範だけに還元することはできない。そこで考慮に入れねばならないのが、3の法則である:すなわち、善と悪が存在する他に、状況次第でどちらかが決まる − そういう特殊な状況というものがあるのだ。

宇宙の立場からすれば、どちらの極性も欠かせない。かと言って、人間のレベルで両者の対立に簡単に折り合いが付けられる訳ではない。かくして、各人に対する宇宙からの呼びかけによって、人はどちらかに選ばれることになるのだ。

グルジェフはSTOとSTSについて、『ベルゼバブの孫への話』の中で、以下のように論じている:


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(浅井訳692ページ)
このボールマルシャーノ(=アトランティス大陸に存在していた。現代の人間たちが<本>と呼んでいるものに相当する)
に記録されている概念を普通の言語で言い表わすならば、次のようになるだろう。

『明らかにわれわれ人間は、世界に存在しているありとあらゆる構成単位と同様、常に同じ3つの独立した力によって形成されており、またそれらの力によって存在するすべてのものの間には相互維持のプロセスが進行している。3つの独立した世界力とは以下のものである。

第1の力は、第1源泉そのものの中で活動する諸原因から、そしてまた新たに生まれたものの圧力によって絶えず生じ、惰性の力で生じ続けながらこの第1源泉から流出している。

第2の世界力は、最初の力が受けた惰性の力ではもはや進まなくなり、それが生まれてきたもとの源泉と再融合しようとする時に生まれる力である。この再融合を促すのは、<ある原因から生じた結果は必ず再びもとの原因に戻らなくてはならない>と呼ばれている根源的な世界法則である。

この2つの力は相互維持のプロセス全体の中では完全に独立しており、それぞれの現われにおいては常に、またいかなるものにおいても、それ自身の特性と特殊性を発揮する。

2つの根源力のうち第1のもの、つまりそれ自身ではどうにもできない必然的な力によって、常にそれが生じる源泉の外部で顕現する力は、絶えず退縮しなくてはならない。逆に第2のものは、それが生じたもとの原因と再融合しようとして、常に、またあらゆるものにおいて進展しなくてはならない。

さっき言った3つの独立した力のうちの最初のものは、存在するあらゆるものを生み出す母体そのものの中で進行する活性力あふれる活動から生じ、それゆえ生命力を生み出す可能性の芽をその中に宿している。以上のことから、この力を<善>と考えることができる。つまり、逆行的結果を生み出す要因とみなすことができる。一方この逆行的結果は、第1の力との関係から、<悪>と考えることができるし、またそう考えなくてはならない。

さらに、第1源泉そのものの中に生じる必然的かつ不可避的原因から現われる第1の力は、この見地からみるならば、受動的と考えることができる。一方、第2の逆行的な力は能動的と考えなくてはならない。それはなぜかというと、逆行しうる可能性、あるいは少なくとも、第1源泉内の諸原因から惰力を得た第1の受動的な力の流れに耐えられるだけの力を手に入れるために、絶えず抵抗を続けなければならないからである。

第3の独立した世界力は、先の2つの根源的な上昇する力と下降する力とが、あらゆるところで、またすべてのものの中で衝突する結果生じる力にほかならない。

第3の独立した力は、先の2つの力が生み出す結果にすぎないとはいえ、それは世界のあらゆる形成物の霊化の源泉であり、調和の源泉なのである。

なぜそれが世界のあらゆる形成物の霊化の源泉であるかといえば、全く逆方向に流れる先の2つの根源的な力の間に起こる、相互に及ぼし合う種々の特殊な抵抗から生じた結果が存在している間ずっと、この第3の力はそれらの形成物の中に1つの存在物として誕生し、そしてとどまらなくてはならないからである』

というわけでだな、坊や。あの不幸なマカリー・クロンベルンクジオン(=地球に存在していた、ある3脳生物(=体内に3つの調和していないセンターあるいは脳を持つ生物、すなわち人間)の名前)
が初めて<善>と<悪>という言葉を使った時には、今話したような概念と意味をこめて使ったのだ。
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※『ベルゼバブの孫への話:人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』G.I.グルジエフ/著、浅井雅志/訳、平河出版社より
posted by たカシー at 08:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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