2017年08月29日

歴史を動かしたサイコパス(ハーヴェイ・M・クレックレー著『正気の仮面』第43章)

歴史を動かしたサイコパス(ハーヴェイ・M・クレックレー著『正気の仮面』第43章)
https://cassiopaea.org/2011/02/21/the-psychopath-in-history-excerpts-from-the-mask-of-sanity-by-hervey-m-cleckley/

(これはクォンタム・フューチャー・スク−ル
http://www.cassiopaea.com/cassiopaea/psychopath.htm
https://cassiopaea.org/cass/site_map_qfg.htm
が非営利かつ教育目的で、原著第5版を複製したものである)


何十年来、精神医学者や、時には他分野の著作家たちが、歴史上の偉人たち ― 君主、軍首脳、有名な芸術家や著作家 ― を精神障害やその他様々な精神疾患に関係ある症状を抱えた患者に分類しようとしてきた。最近では、専門職や素人の観察者が、第2次大戦のナチス総統アドルフ・ヒトラーや、その他の幹部について報告されている態度振る舞いについて、サディスティックだとか、偏執狂的だとコメントしている。精神医学者のウォルター・ランガーは、比較的最近の著書の中で、ヒトラーは「おそらく、神経症サイコパスと精神分裂症との境界例であり、基地外ではなかったものの、感情的に病んでいて、反社会的行動に対する正常な抑制力を欠いていた」と結論付けている。タイム誌に載った同書の書評者は、ヒトラーが「生涯に亘って、無力感と劣等感を埋め合わせようと試みるが果たせず、恐怖、疑念、孤独、罪の意識に付きまとわれた、ひどく不幸な男だった」という印象を受けたと述べている。

上記引用では、ヒトラーについてサイコパスという言葉が使われているが、これは、本書におけるよりも広い意味合いにおいてであろう。普通でない、不愉快で、アブノーマルな性格だったと言われるヒトラーだが、本書で言うサイコパスには当てはまらないようだ。ヒトラー以外でも、その行動が歴史書で永久に語り継がれるであろう人々の多くが、様々な点で極めてアブノーマルだったと言われる。誰にもお馴染みの適例としては、
ネロ帝、
太陽神エル・ガバルを信仰した性的倒錯者でローマ史上最悪の君主と言われるヘリオガバルス帝、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%B9
殺人鬼青ひげのモデルと言われるジル・ド・レ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC
「血の伯爵夫人」の異名を持つ、シリアル・キラーのバートリ・エルジェーベト、そしてもちろん、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%88
マルキ・ド・サド
を挙げることができる。だが、私自身が研究を行う中で本物のサイコパスと診断した、実際の患者たちに共通する特徴に合致すると言い切れる人物は、この中からは見出せない。

歴史に名を残した画家、彫刻家、詩人、著作家の中には、矛盾の多い無責任な性格と窺われる人物が多く見受けられるが、時には典型的なサイコパスと思われる例もある。詳細な自伝を残しているベンヴェヌート・チェッリーニは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B
http://takapachi1962.seesaa.net/article/315988123.html
創造的で名声が長く続いている他のどの芸術家よりも、おそらくは多くの点で、私の患者と似たパターンに従っているだろう。にもかかわらず彼は一貫して創作に励み、数世紀経っても依然として愛され続ける傑作を数多く生み出した。

さて、同じ歴史上の人物でも、ずっと昔の時代の、ある軍指導者/政治家に目を転じてみるとしよう。この地上に我々の文明が続く限り、忘れられることはないと思われる人物だ。私が最初に彼と出会ったのは、高校時代の古代史の時間だった。当時の私は、サイコパスのことなど聞いたこともなかった。歴史の教師は、この人物を病的タイプに分類したり、心理学の見地から、彼の矛盾に満ちた経歴を説明しようとしたりはしなかった。だが私は、ペリクレス時代のアテナイを背景に、才気と魅力に溢れつつも、気紛れで無責任な行動を繰り返したアルキビアデスの人物像が授業の中で明らかになって行くうち、この有能な教師なら私の興味と困惑も分かってくれるだろうと感じていた。私の未熟な分類概念(善人か悪人か、賢者か愚か者か)は、そのいずれによっても、アルキビアデスを正確に定義できず、彼の不可解なイメージの手掛かりにすらならないように思われた。

彼について読むほど、そしてその人物像について思案を巡らすほど、彼は一層私の注意を惹き、私の想像力に挑戦した。あらゆる文献は、彼こそBC5世紀、最も偉大で古典的輝きに満ちていた時期のアテナイにおける軍/政治指導者の1人であるという観方で一致していた。この男のせいで私は、ごく若い頃から数多くの疑問について思案を巡らすことになったのだが、それらに関して、私は未だに満足の行く答えを見付けられずにいる。私の高校時代の教科書にはこう書かれている:


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彼の家柄はアテナイの最高実力者の家門、つまり大政治家ペリクレス一門に属していた。高貴な生まれと魅力的な性格のために、彼はまだ若い頃から影響力を発揮した。彼はあらゆる方面で素晴らしい才能を示した;だが、彼は乱暴な無法者で、その行動の全ては私利私欲と我がままから出たものだった。彼の影響力によってアテナイは、アルゴス、エリス、マンティネイアと同盟を結び、ラケダイモン(=スパルタ)およびその同盟都市と対峙した。
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この同盟締結の結果、アテナイは敗北の憂き目に遭ったのだが、アルキビアデスは幾度も抜群の才能を発揮し、軍人/政治家として輝かしい成功を数多く収めた。どうやら彼は偉大な個人的魅力を持っていたようで、彼に接した人々はた易く称賛と親愛の情を催したらしい。

どんな目標を選んでも、普通なら簡単に達成できる彼だったが、どうやら気紛れによって自ら災難を招いたり、おそらくは些細な衝動に従う結果、わざわざ回り道をして、プロジェクトに失敗することも多かったらしい。プルタルコスの『対比列伝』は彼についてこう述べている:


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世間では、アルキビアデスがソクラテスのお気にいりになってかわいがられたおかげで、すっかり名をあげたといわれているが、それはあたっている。たとえば、ニキアス、デモステネス、ラマコス、フォルミオン、トランシュブロス、テラメネスといった人たちはみんな、彼とおなじ時代の有名な人物だったが、ひとりとして母親の名がわかっているものはない。だがアルキビアデスのばあいには、母親の名はむろんのこと、乳母はスパルタの女で、名はアミュクラ、付きそいの名はゾピュロスといったことまで、われわれのあいだに知れわたっているのだ。こういったことは、それぞれアンティステネスとプラトンが伝えている。
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※プルタルコス英雄伝 上 ちくま学芸文庫 安藤訳 318ページ


プラトンは、彼の最も名高い対話篇である『饗宴』にアルキビアデスを登場させているのだが、アルキビアデスは、哲学的議論が行なわれている宴席に大勢の酔っ払いを引き連れて乱入した男として描かれている。プラトンがここで描いているアルキビアデスは、外見の美しさや束の間の喜びを擁護し、それらが永遠の真理とは対照的なものの象徴だと述べる。それでもプラトンはアルキビアデスに次のような役割を与える。すなわち、アルキビアデスは、ソクラテスの内面的な美徳や霊的価値を認め、詳述する。そして、アルキビアデスは外見的にずっと魅力的で、一見印象的な人々の持つ、直ちにそれと分かる美点よりも、ソクラテスの美徳の方が遥かに優ると賛美するのである。プラトンは、饗宴の最後の1/4の殆ど全てを使って、アルキビアデスおよび、彼とソクラテスとの会話について述べているのだ。アルキビアデスの大いなる魅力と肉体美が、そこでは繰り返し強調される。アルキビアデスの容姿の魅力については、プルタルコスも詳述している:


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さて、アルキビアデスの見目かたちのあでやかさについては、いまさら口にするにはおよぶまい。ここではただ、それが、少年、青年、壮年とあらゆる時期を通じて花とひらき、人の心をなやましくほれぼれとした気分にひきずりこんだ、とだけいっておこう。エウリピデスが語るように、「すべて、うるわしきもの、その晩秋もまた、うるわし」と決まったものでもなかろうが、アルキビアデスや、その他のごくわずかな人たちだけにかぎり、生まれついてのかっこうよさとか体格の見事さからいって、この文句はぴったりあてはまる。
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安藤訳318ページ


キャリアの初期からアルキビアデスは、アテナイに重要な勝利をもたらす上で大事な役割を演じていた。後に、自らの故郷アテナイと戦い、ついには実質的に打ち破ってしまったアルキビアデスは、その後さらに一転してアテナイに味方し、祖国を再び重要な勝利に導いて、その高官に就く栄誉に浴した。ブリタニカ百科事典(1949年版)には、こう書かれている:


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アルキビアデスは大いなる魅力と卓越した才能の持ち主だったが、全く節操が無かった。彼は、アテナイであれ、スパルタであれ、寡頭政・民主政を問わずアドバイスを行ったが、それらは利己的な動機によるものだったので、アテナイの人々は彼を十分に信じて、その才能を生かし切ることができなかった。
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トゥキディデスもこう述べている:


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(。。。アルキビアデスは遠征軍の指揮官職につきたかったし、またシケリア島とそれを通してカルケドンを押えて個人の富をふやし、自己の名声を得ようとしたのである。それはアルキビアデスが市民に人気があり、実際の自分の財力には過ぎた欲望を競走馬の育成やその他の消費で満たそうとしたからであった。そしてこのことが後にアテナイ市を滅す大きな要因となったのであった。)多くの市民はアルキビアデスの放縦な生活ぶりとその行動の動機となった欲望に恐れを抱き、彼が僭制君主になることを狙っているとしてアルキビアデスを敵視した。公的にはアルキビアデスは戦争の有能な指揮官であったが、個人的には彼の態度は人に嫌われ、他の人々に政治の責任が委ねられたために、(アテナイ市民たちは)時を経ないでアテナイ市を失ったのであった。
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トゥキディデス『戦史(ペロポネソス戦争の歴史)』第6巻15章2節以下
※『歴史 下』 ちくま学芸文庫 ト15-2 トゥキュディデス/著 小西訳 86ページ


プルタルコスは、アルキビアデスが印象的かつ優れた資質を持っていたと繰り返し強調する:


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もう、そのころには、お家がらの面々が、アルキビアデスのまわりに、わんさとむらがってきて、ちやほややりだしていた。その連中はみな、うたがいなく、彼のすばらしい若さのかがやきにおどろきの目を見はり、お世辞たらたら言いよってきたのだった。しかしソクラテスだけはちがっていた。彼がアルキビアデスを愛したことは、この若者には生まれつきすぐれた徳性の素質があったことを、つよく証拠だてるものであった。ソクラテスは、この美質が若者の見目かたちにも反映し、かがやきわたっているのを見た。そしてアルキビアデスがゆたかな富や名声によって毒されることを気づかったし、また、まわりにむらがってきては、お世辞やら、ひいきやらで、われさきにとこの若者の心をつかもうとしているアテナイの町衆や同盟の町の者たち、それに外国の連中のことを気に病んだ。そこで、すすんでアルキビアデスをまもり、このように、いまを盛りの花木が本来の果実を青いがままにふりおとして枯れてしまうのを、むざむざと見すごしにはすまいと思った。
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安藤訳323ページ


同じプルタルコスが、彼のみっともない振る舞いについてもまた多くの例を挙げている。アルキビアデスは、彼に敬意を表しようとした人々に対して、理不尽で気紛れな横柄さで応えることもしばしばだった。そうした出来事の1つを述べよう:


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この(アンテミオンの子)アニュトスはアルキビアデスに思いをもやすひとりだったが、あるとき食事にいく人かの客をまねいた。そしてアルキビアデスも、その席によばれた。ところがアルキビアデスは、このまねきをことわったばかりか、家で仲間の者とへべれけに酔っぱらい、あげくのはては、どんちゃんさわぎをやりながらアニュトス宅におしかけた。さて、部屋の戸口に立って、ながめると、テーブルいっぱいにならんだ金銀の酒杯だ。そこで奴隷に、「あの半分とって、家にもってこい」と言いつけた。しかし、みずから直々には中にはいろうとはせず、こんな悪さをやらかしたあげくのはて、家に引きあげていった。こうなると、だまっていられないのは御客さんたちのほうで、主人にむかい、「アルキビアデスのやつ、あなたにたいして、なんたる思いあがったふざけようだ」と言った。だがアニュトスの答えというのは、こうだった。「いや、ほどあいなるものをわきまえた心やさしいやり口ですな。あの人のことだ。なに、ごっそりさらっていったって、べつにかまいはせんのだが、とにかく半分だけは、ここにのこしてくれとるしね」と。
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安藤訳325ページ


溢れる才能と数多くの魅力的な特徴を備えていたにも拘わらず、アルキビアデスが幼少時から起こしていた事件の幾つかからは、彼の感情的な不安定さや社会的ルール/約束事に対する関心の無さ、その時々に心惹かれるものを恣に手に入れようとする向う見ずな性向が窺われた。プルタルコスは述べる:


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それはレスリングあそびの最中のことだった。彼は相手におさえこまれて、たおれそうになった。すると、負けてはたまるかとばかり、のしかかってくる相手のきき腕に口をもっていって、がぶりとかみつこうとした。びっくりした相手は思わず手をはなし、「こいつ!女みたいにかみついたなっ!」とさけぶと、「ちがわいっ!ライオンみたいにだい」とやりかえした。
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安藤訳320ページ


これまた幼少の頃の話だが、ある日、アルキビアデスは仲間の少年たちと路地でサイコロあそびをしていた。ところが、ちょうど彼の番になったとき、積荷を積んだ荷車がやってきた。再び、プルタルコスから引用する:


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そこで彼は、はじめ、その車引きに「ちょっと待ってえ」とせがんだ。サイコロを投げると車の通りみちにころがるからだ。しかし、その男が気のきかないやつだったもので、うんとは言わず、そのまま車をかりたてた。これには他の子供たちはいっせいに道をあけたが、ただアルキビアデスひとりは、車のまえに、ぺたんとうつむけになり、ながながと寝そべると、「やい、通りたけりゃあ、通ってみろっ!」と怒鳴った。このけんまくには、その男もおそろしくなって車を引きもどし、肝をつぶした見物人はわーっとばかりはしりよってきた。
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安藤訳320ページ


アテナイでも最も重要な人物の1人だったアルキビアデスは、称賛に値する重要な成功を幾つも収めた、極めて影響力ある指導者だったが、ペロポネソス戦争の転機となった、重要なシケリア遠征の主唱者となって行った。彼はアテナイの人々を煽り立て、自ら司令官となって、熱心にこの冒険的遠征に乗り出した。戦略的動機と個人的功名心が入り交じっていたようだ。この遠征は悲劇的結末に終わり、アテナイの権威と栄光が終焉を迎える主な原因となったが、多くのアテナイ市民は、もしアルキビアデスが司令官としてシケリアに留まっていれば、彼なら大艦隊を勝利に導いただろうに、と感じた。もしそうなっていたら、アテナイはいつまでも古代世界に、最強国として君臨することが約束されただろう。アルキビアデスはしばしば素晴らしい才能を発揮したので、このような意見がまことしやかに述べられたのである。だがその一方で彼が見せる、無責任で気紛れな振る舞いのため、彼という存在がアテナイの大義に成功をもたらす上で不可欠だと確信するのは実際、困難だった。ペロポネソス戦争におけるアテナイの敗戦が持つ重大な意味合いについて、最近の歴史学者ピーター・グリーンは著書『アテナイからの大艦隊』で、次のように述べている:


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それは単なる敗北に留まらない;それは冒涜だった。無思慮で野蛮だが、怯えてもいたアテナイ兵たちは、威厳もプライドもなく、獣のように死んで行ったのだが、彼らはペリクレスの同胞、ギリシャ史上最大の海軍力を誇ったアテナイの市民たちなのだ。この壊滅的敗北の結果、アテナイは海軍国としての威信を永久に失った。うわべだけの燦然たるプライドは打ち砕かれた:海軍以上の何かが、シケリアで死んだのだ。軍事大国としてのアテナイの威信は損なわれ、以後は安易にでしゃばることもなくなった。アイゴスポタモイの海戦(BC413)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6
で既に雌雄は決しており、シケリア島のアシナルス川堤でシュラクサイ軍に喫した大敗北(BC405)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%82%A2%E9%81%A0%E5%BE%81#.E3.82.B7.E3.83.A5.E3.83.A9.E3.82.AF.E3.82.B5.E3.82.A4.E5.8B.9D.E5.88.A9
は起こるべくして起こったものと言えよう。詩人ピンダロスがニオイスミレの花冠をつけた市と讃えたアテナイは、
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%AC-845697
身の程を思い知らされ、ペリクレス時代の輝きも、醜い汚点によって今やくすんでしまった。アテナイによる壮大な実験の結果、あらゆるパラドックスの中でも最も奇妙な、民主的な軍事大国は可能か、という命題に対してついに反証が挙げられたのである。
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もしアテナイが、シケリア遠征でシュラクサイ軍に勝っていたら、ギリシャの歴史、そしておそらくはヨーロッパ全体の歴史までもが大きく変わっていたことだろう。

アテナイ兵を乗せた大艦隊がシケリア遠征に出発した直後に、ある事件が起きたのだが、アテナイが未来を切り拓くべく、歴史的かつ危険な冒険的遠征に打って出た今、市民が一致団結して、3人の司令官(※アルキビアデスの他は、ニキアスとラマコス)を信頼することこそが至上命題だった。ところが、アテナイで緊張が高まっていたこの時期に、この上なく悪いタイミングで、アテナイじゅうの神聖なヘルメス柱像が
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E
大規模に切断・冒涜される事件が起きたのである。

愚かで乱暴、理不尽極まりない行為はアテナイ全市民の知るところとなり、神々の支持が決定的に必要な時期に、神々はそれを取り消されるだろう、という迷信的な不安と恐怖に、市民は襲われたのである。アルキビアデスは、この無分別な冒涜行為の有力な容疑者だった。アテナイじゅうを混乱させた、この不届きな行為が彼の仕業だという証拠は無かったが、才気溢れる彼らの司令官/指導者であるアルキビアデスがこんな無意味で無責任な蛮行の容疑をかけられた結果、遠征軍と政府の信用は大いに揺らいだ。彼を知る人々の多くは、こんな事をするのはアルキビアデスかも知れないと思ったようである。何しろアルキビアデスときたら、自分の気に入れば、十分な理由が無くても衝動的に、そして、他人に見つからずにやってのけられるところを示すためだけに、虚勢を張るための無意味な振る舞いや悪ふざけを行うところがあったからだ。そしてこの時期、友人たちを楽しませるためにアルキビアデスが、エレウシスの秘儀を真似て風刺するという不敬を働いたという確かな証拠が出て来たのである。この結果もちろんのこと彼が、聖像の頭と大事な所を切り落とした事件の犯人だろうという疑いが強まった。

彼の判断の誤りや自己チューな気紛れがもっぱら原因となって、アテナイや彼自身に災難が振りかかるということは、他にも沢山あった。この才気にあふれた指導者は、しばしば熱狂的で高潔な愛国者のように見えたが、数えきれないほどの出来事が紛れもなく示す通り、それ以外の場合、彼は私利を第一に考えたし、何かちょっとした魅力に惹き付けられるか、単なる気紛れを起こしたせいで、彼は祖国の幸福や安全を無視し、忠誠と名誉に関する、あらゆる基準をた易く捨て去った。

冒涜的な柱像切断に関して、アルキビアデスが有罪であることを示すような実質的な証拠は現れて居なかった。彼は直ちに裁判を行うよう求めたが、本件のために艦隊の出発を遅らせないという決定が為された。そして、アルキビアデスがシラキューズに着いた頃になって、彼は法廷に出頭するために、アテナイに召喚されたのである。アテナイへの帰路、彼はアテナイの大義を捨てて、スパルタへと逃れ、祖国と戦う敵軍に参加した。

遠征の司令官であり、主唱者である彼が、遠征の成功を脅かすような、無意味で不信心な事を行ったというのは、いくらなんでもあまりに失うものが多いから、アルキビアデスが柱像切断の犯人である筈がないと論じる人々も多く居た。他方、彼のキャリアを見てみると、幾分は気紛れからか、おそらくは権威に対する反抗として、あるいは、普通の決まりや制限など自分は特権的に許されているのだと示すための傲慢なジェスチャーとして、数多くの理不尽な出来事や自分に不利になりかねない愚行を、彼が繰り返していることが分かった。彼が行う無益で不快な行為は時として、他の人々を縛る決まりに無頓着に反抗する姿を誇示したいとの誘惑に駆られた結果のように見えた。もしアルキビアデスが、このような甚だしい愚行に参加していたのだとすれば、本書で述べた患者たちと彼との類似性は大いに高まる。実際、サイコパスででもなければ、どうして彼のような立場の人間がこんな事を行うのか、理解するのは困難である。

スパルタでのアルキビアデスは、敵方の人間になりきろうとするかのように、流儀やスタイルの多くを変えた。アテネに居た頃の彼は、繊細な服装と現世的な豪華さ、そして贅沢で有名だった。こうした特質について、プルタルコスは次のようにコメントしている:


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しかし、アルキビアデスは、こういった政略、雄弁、それに気概や機敏さなどをしめす一方では、ひどく柔弱なくらしぶりを見せて、酒色におぼれ、着るものといったら女くさく、真赤な衣をぞろりと引きずって広場を通り、金はざぶざぶとつかいまくった。そのうえ三段橈船にのれば、甲板をきりとり、ふんわりと寝られるように寝具をかたい板のうえにしくかわりに綱でつりさげるし、盾をつくれば、それに黄金をちりばめて、家代々の紋章のかわりに、いかずちをふるう愛神エロス像をつけるといった調子だった。こんなありさまをながめると町の名士連中は胸くそわるくやりきれない思いがしたし、この人を人とも思わぬ無軌道ぶりを僭主じみた奇怪なふるまいだとして、おそれをなした。
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安藤訳342ページ


アテナイの大義を捨てて、スパルタに移り住み、持てる輝かしい才能の全てを祖国との戦争に注ぎ込むようになったアルキビアデス。元居たアテナイという環境における出で立ちや習癖とは対照的な彼の様子について、プルタルコスは以下のようにコメントしている:


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こういった調子でアルキビアデスの公の名声はスパルタにたかまり、世間をおどろかせた。だが、さらに私行の面でも、これにおとらず、スパルタ風のくらしっぷりで当時の民衆をひきずり、まどわした。彼は髪の毛をかみそりでそったみたいに刈りこみ、冷水浴をやり、大むぎパンに親しみ、黒スープをすすった。そこで、こんな様子を見た人たちはおもわず目をこすり、この人物が、むかしは自宅に料理人をかかえ、香料づくり師に目をみやり、ミレトス産のウール上衣の肌ざわりに絶えずなじんでいたのだろうかと首をかしげるほどであった。それというのも、人が語っているように、アルキビアデスのゆたかな天分のひとつは人の心をとりこにしてしまう手くだだったからだ。つまり彼は、あのカメレオンよりもすばしっこく姿をかえることができ、他の人の習わしとか、くらしっぷりとかに、すぐさま、おなじ気持になって、とけこんでゆけたのだ。しかもカメレオンですら白一色だけにはどうしても肌の色をかえられないと言われているのに、彼ときたら、善悪いずれの人とまじわっても、およそ自分に真似のできぬことや、ぴったりとはまりこめないといったことなどは、なにひとつとしてなかった。そこでスパルタにいれば、このんで身体をきたえ、くらしはつつましく、いつも、むっとした顔つきでいたが、イオニアでは反対におごりをきわめる陽気ななまけものだった。また、トラキアでは飲んだくれ、(テッサリアでは)乗馬にふけり、さらにペルシア地方総督ティサフェルネスとつきあえば、ぎょうぎょうしさと金づかいのあらさとでペルシア風の豪気のさらに上をゆく勢いだった。そうかといって、彼はころりころりとひとつの流儀からほかの流儀へうつりかわっていったのではないし、また彼の本性が、そのたびごとに、すっかりかわってしまったというのでもなかった。ただ天性のおもむくがままにふるまっているうちに、つい相手の気持ちを傷つけそうになると、いつも、およそ相手の思いにかなうものなら、どんなさまや形にでも自分の身をよそおって、そのなかにかくれこんでしまうのだった。
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安藤訳358ページ


スパルタでのアルキビアデスは、敵となったアテナイを打ち負かし滅ぼす上で役立つような事なら、何にでも励んだようである。彼はスパルタがすぐにシュラクサイに援軍を送るように仕向けたり、さらにはスパルタがアテナイに対して直接戦争を仕掛けるように敵意を煽り立てた。デケレイアの地の軍事的重要性にまだ気づいて居なかったスパルタ人に対してアルキビアデスは、そこに要塞を築くことが重要だと教えた。アテナイにごく近いこの場所からの攻撃に、アテナイは極めて弱かったのだ。スパルタ人は、アルキビアデスのこうした助言に従い、彼の言葉通りの手段を講じて、アテナイの大義に深刻なダメージを与えた。才気溢れる売国奴の復讐心に燃えた、たゆまぬ努力は、ついにはアテナイが衰亡する上で大きな役割を果たしたようである。シケリアを後にしてアテナイに送還される途上スパルタに亡命する前にも、アルキビアデスはいち早く祖国の足を引っ張り始め、メッセネがアテナイの手に落ちるのを防ぐような措置を講じていた。

それでも最終的には、かなり多くのスパルタ人がアルキビアデスを疑い始めた。スパルタ王アギスも、そうした1人だった。プルタルコスは述べる:


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。。。スパルタ王アギスが遠征におもむいた留守中にアルキビアデスは王妃ティマイアをかどわかし、ついに彼の種をやどさせてしまった。しかし妃は事実を打ち消そうとはせず、やがて男の子が生まれて、表むきはレオテュキデスと呼ばれたが、妃が親しい女同士や腰元たちにそっと耳打ちしたその子の名はアルキビアデスであった。こんなはげしい恋の炎がこの女の胸をこがしていたのだった。ところが当のアルキビアデスはというと、人をばかにしたような調子で、こう、うそぶいていた。「おれがそんなことをやったのは、なにも、みだらな思いからではない。また快楽に負けたためでもない。ただ、おれの子どもたちをラケダイモン人の王にしたいからなのだ」と。
---
安藤訳359ページ


アルキビアデスがスパルタで大成功を収め、未だに多くの人々の称賛の的だったにもかかわらず、この地は彼にとって次第に居心地が悪くなってきた。プルタルコスはこう述べる:


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しかし、スパルタ王アギスは、まえに妃の件でアルキビアデスににがい汁を飲まされて敵意にもえていたのだが、このころ、ようやくたかまってきたアルキビアデスの名声にも腹の虫をおさえかねていた。世間で、スパルタの成功はあらかたアルキビアデスの力だという評判が広まったからだ。一方、スパルタ人のなかでも、ぬきんでた勢力家で野心満々たる連中はアルキビアデスをねたみ、すでに、その存在を重ぐるしく感じはじめていた。そして、まもなく、この面々が権力をにぎり、国もとの高官連をうごかして、「アルキビアデスを消せ」という命令をイオニアにくだすことに、まんまと成功した。
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安藤訳360ページ


しかし、これを察知したアルキビアデスは、身の安全のために小アジアに逃れ、ペルシャ王の総督であるティサフェルネスの元に身を寄せた。この地が安全だと知るやアルキビアデスは、再び優れた手腕と類まれな魅力を発揮した。プルタルコスによれば、以下のようである:


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(彼は)見るまに総督の側近第1号にのしあがってしまった。もともと、このティサフェルネスという異人はひとすじなわではゆかぬ底意地悪い人物で、やくざものとつきあうのがすきな男だったが、さすがの彼もアルキビアデスのかわり身のはやさと人なみはずれたぬけ目なさとにはおどろいてしまった。事実、アルキビアデスと毎日いっしょに時をすごし暮らしをともにする魅力にとりつかれたら、どんな気性のものも心やわらぎ、どんな天性の人も、つい、まいってしまうのだった。それどころではない。アルキビアデスをこわがったり、ねたんだりしていたものでさえも、ひとたび、つきあって彼を見つめていると、なんとはなしに、うれしく、なつかしい気分につつみこまれるのだった。

こうして、ふだんなら、ペルシア人のなかでもことのほかに野蛮でギリシア人ぎらいのティサフェルネスも、アルキビアデスの口車にはかぶとをぬぎ、こんどはあべこべに自分の方からアルキビアデス顔まけのおべんちゃらをならべたてる始末になった。じっさい、ティサフェルネスは、自分がもっていた庭園のうちでも、とりわけ、すがすがしい草原や、せせらぎがあり王者らしく飛び切りうつくしく飾りつけられた遊び場や隠れ屋もそなわった極上の庭園を「アルキビアデス園」と呼ぶように命じた。そこで、ひとはみな、その庭園を以後ずっとそう呼びつづけてきた。

ところで、すでにアルキビアデスはスパルタの動静信ずるにたらずとして、これに見かぎりをつけたものの、やはりアギス王がおそろしかった。そこでティサフェルネスにむかってスパルタ人をそしり、けなしはじめた。こうして、あまり身をいれてスパルタを助けず、また一方のアテナイ人をたたきつぶしてしまうようなこともせず、こんな具合に援助をしぶりながら、この2つの町を苦境に立たせ、じわじわと力をすりへらさせて、ついに、おたがいにつかれはてたところでペルシア王に手なずかせようとしたのだ。
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安藤訳361ページ


アルキビアデスがやがてペルシャでの官職も辞したと知っても驚くには当たらない。だが、敵国に忠誠を誓い、嘆かわしいダメージを祖国に与えた、アテナイからの長い亡命生活の後に、彼がアテナイから喜んで迎えられることを熱心に望み、彼が再びアテナイ軍を華々しい勝利に導き、アテナイ陸海軍の最高司令官にまで任命されたというのは、何とも驚くべきことだろう。帰郷した彼はアテナイの人々から、熱狂的に迎えられた。プルタルコスによれば、「彼は黄金の冠をかぶせられて陸海両軍の全権をにぎる将軍に選ばれた」(安藤訳381ページ)という。 彼は、「追放され、あんなひどいうき目をなめたあと、ようやくにしてもどってきたアルキビアデス(だった)が。。。そのさま、あたかも飲んだくれがへべれけになってあばれこんだ、といった体たらくだった」(安藤訳379ページ)という風に述べられている。にもかかわらず、アテナイ人の多くは、完全には彼を信頼しておらず、
今回は正当な理由も無しに、最高司令官の職を解かれたようである。後に彼は小アジアに隠遁したが、その地で彼は46歳の若さで暗殺された。「ある名門の娘をかどわかした」(安藤訳394ページ)せいだという報告もある。

アルキビアデスなら国の眠りを醒ますのもた易いだろうという風に広く称賛を博していたにもかかわらず、一番の過ちをしでかす前から、彼に対しては懐疑的なコメントもあった。プルタルコスも「詩人のアルケストラトスが、『ギリシャにアルキビアデスみたいなやつが2人もいたら、こいつはたまらんぞ』といったのは的はずれとは思われない」(安藤訳344ページ)と述べている。プルタルコスはまた、人間ぎらいのティモンの言葉も引用している。「やあ坊や、大きくなってなによりだな。このぶんでいったら、じきに、ここいらの連中をひとりのこらず、ひどい目にあわせてくれるだろうて」(安藤訳344ページ)。アルキビアデスに対するアテナイ人の態度について、アリストファネスは『蛙』の中で、「慕ってはいるが、にくんでもいる。だが、やっぱり町にはいてもらいたい人物だ」と書いている(安藤訳343ページ)。

アルキビアデスは歴史の曙光の中に現れた、矛盾した性格を持つ謎の人物である。彼が同時代の人々を当惑させ、途方に暮れさせたことや、彼の行動についての評価が大きく分かれたであろうことは疑いない。彼の死後何世紀もの間、歴史家たちは、彼の業績に魅了されてきたようだが、彼の人格については、全く解釈できなかった。才気溢れ、口がうまく、成し遂げたいと思った事なら何でも成功することができたものの、目覚ましい業績をあげた後に彼はしばしば、不注意で、あるいは殆ど故意に、愚かな決断や価値の無い行動に出て、手に入れたもの全てを失ってしまったらしい。こうした決断や行動を正当化するような動機を実証することは不可能であり、想像することさえまず無理なのだ。分別の無い悪ふざけや、単に嘲るような身振りのせいで、時には重大な責任を任されなかったり、大切な目標や忠誠心からの/名誉ある誓いを放棄せざるを得なくなったようである。彼の明敏さ、魅力、有望さはどうやら、一般に古代で最も偉大な教師であり最も賢かった人物だと考えられてきたソクラテスをも魅了したらしい。アルキビアデスはこのマスターのお気に入りの弟子であり、大切な友人だったと伝えられるものの、ソクラテスでさえも、
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日常生活における行動に人並みの知恵を働かせたり、馬鹿でも避けるような愚行を避けるよう、彼に教えることに成功したとは言い難い。

ブリタニカ百科事典(1949年版)には、こう書かれている:「ポティダイアの戦い(BC432年)でソクラテスに命を救われたアルキビアデスは、ソクラテスの崇拝者となり、デリウムの戦いで師に報いたが;アルキビアデスは師のような徳を実践できず、彼のような者が居たせいで、ソクラテスに対する、若者を堕落させているという糾弾/告発の声が高まったことは疑いがない」

アルキビアデスに関する記録を振り返ると、彼はあらゆる才能に恵まれていたものの、分別ある目標を達成したり、何かはっきりした理由のために、天賦の才を活かし続けることはできなかったのではないか、という疑念を禁じ得ない。我々が約2500年前に生きていたこの著名人に関して、医学的な診断や完全な精神医学的説明を成し得るなどと自信を持って主張するのはまず無理だが、我々の利用できる彼に関する不完全な記録の中にさえ、アルキビアデスがここ数十年の間に困惑と驚きをもってサイコパスと命名された病的人格の、注目すべき一例かも知れないと強く示唆する点が数多く存在する。

ギリシャ史のこの短い期間に、とりわけアテナイにおいて、優れた建築や彫刻、戯曲、そして詩が数多く生み出され、その後の歴史においてもこれらを凌駕するようなものは滅多に出なかった。おそらくギリシャはアルキビアデスの中に、最も印象的で才気に溢れながら未だに説明できないような人間パターンの、真に古典的な例をも生みだしたのであろう。


出所:
ハーヴェイ・クレックレー 『正気の仮面』(※邦訳なし)第5版
Fifth Edition
Copyright 1988 Emily S. Cleckley
Previous edition copyrighted 1941, 1950, 1955, 1964, 1976 by the C.V. Mosby Co.
Cleckley, Hervey Milton, 1903-1984
The Mask of Sanity
ISBN 0-9621519-0-4
posted by たカシー at 10:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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