2016年02月07日

ザ・ウェイブ58章: エイリアン・リアクション・マシン

ザ・ウェイブ58章: エイリアン・リアクション・マシン
http://cassiopaea.org/2012/02/03/the-wave-chapter-58-alien-reaction-machines/


さて、こうして私たちは、計り知れないほど重要なテーマへとやって来た:すなわち、「エイリアン・リアクション・マシン」としてのサイコパスについてであり、これはフランク・スコットやヴィンセント・ブリッジス、あるいは、本シリーズが進行する中で出会うことになるその他の人物たちの行動から私達が学んだ全ての事に直結するテーマなのだ。前章で述べたように:不寛容と残酷さは、「隠蔽」を担保する上で必要である。ある種の「人間」たちが、この隠蔽のための活動をしている。ある種の人間たちが、「神々による秘密のゲーム」の駒として活動しているのである。

そして、再び注目していただきたいのが、このような「自動機械」の動作、および、それらに呼応する私達の反応の危険性を指摘するグルジェフの言葉だ。


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そういうわけで、人類の現況には、進化が進みつつあることを示すものは何1つない。それどころか、人類を個人と比較してみるなら、本質を犠牲にして人格が、つまり人工的で真実でないものが生長していること、また、自然で真実なその人本来のものを犠牲にして外部からきたものが生長していることをきわめてはっきりと見ることができる。

これらとともに我々は自動性の増大を目にする。現代文化は自動機械を必要としている。。。1つだけ確かなことがある。人間の隷属状態は拡大しつづけているということだ。人間は喜んで奴隷になっているのだ。彼にはもう鎖はいらない。彼は奴隷であることを好み、誇りさえ感じているからだ。これこそ人間に起こりうる最もいとわしいことだ。
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ウスペンスキー『奇蹟を求めて』浅井訳


このような人々の「動作」について、最新の調査結果並びに私達自身の経験を踏まえ、理解を深めることで、彼らが作動する「ルール」が明らかになり、読者がこうした人々を見分けて対処する態勢を整えられるように願っている。ML等でのやり取りを見ても、この種の遭遇が、私達の思う以上に頻繁に起こっていることは明らかであり、状況は今後さらに悪化の一途を辿るだろうと、読者にもすぐお分かりいただけると思う。

だが、こうしたゲームの駒そのものについて分析を始める前に、私達が次のように理解するに至った意味における「ゲーム」が発生するまでの大まかな経緯を素描してみたい:すなわち、このようなゲームは、人類がこのリアリティに対して効果的に向き合う上で必要な知識を得させないようにするプロセスの一環として行われているのであり、このゲームは数千年以上に亘って、タイムトラベルさながらのサイクリックなタイムループの中でプレイされているのである。

『世界秘史』でも述べた通り、シャーマニズムを研究することで私達は、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=41590236
仮説上の古代テクノロジーに最も近い手掛かりが得られるようだ。だが、それが数千年来の変化によって、改竄されているのは間違いないので、あくまでそれは手掛かりに過ぎないことを忘れないのが重要である;こんにちのシャーマンたちの営みを額面通りに受け取ることはできないのだ。

一例を挙げてみよう:ヘルメスの神話に出て来るのは、空を飛ぶためにサンダルを履かねばならない「神」である。彼は姿を見えなくするための兜も持っている。ここで問われねばならないのは:どうして古代の人々は、神が姿を見えなくするために何かを頭に被り、空を飛ぶために何かを足に履かねばならないと思ったのだろうか?

いいだろうか。他の神々にはそんな物は必要ない ― 何と言っても、彼らは「神々」なのだから、好きな事ができたのである。とすると一体、これらの物体は何に由来するのだろうか?もちろん、サンダルや兜の由来の話などではない。大事なのは、この神話はこれらの能力に喩えられるべき何かのことを表しているということである。それは、テクノロジーだ。

私はこのことについて、長い間考えてきた。こうした物体が何だろうと、それら自体に意味は無い;意味があるのは、何らかの道具についてのおぼろげな記憶がかつて保たれており、これらの物体によって伝えられてきたということなのだと。

聖杯伝説の秘宝(hallows)といえば、
http://pensieve.exblog.jp/5411302
私達は剣/槍と盃/大皿のことを考える。剣というのは、命を奪う道具ではないか?ならば銃だ。あるいは「殺人光線」だ。銃は大きな音をたてる。だから多分、かつてのテクノロジーが何だったか分からなくなった古代の人々は、大音響と閃光を発する銃か、それに似た道具を、稲妻あるいは何か騒々しいものに変えてしまったのだろう。だが、聖杯の秘宝としての剣は、明らかに違う何かである。実際、剣や槍、曲がった柄の牧羊杖はいずれも幾分アンテナに似ている。おじいちゃんが孫に、信号を拾って伝達するものについて説明する様子を想像されたい。
「小僧よ、これは細長いもので。。。土台があって。。。金属で出来ていて。。。あそこにあるナイフに似たものじゃ。もっと長いが。。。剣みたいにな」

衛星のパラボラアンテナだったらどうだろう?エネルギーを集めるための何かとは?盃や大釜だろうか?最古の表現は、「井戸」であり、「再生の釜」
http://55096962.at.webry.info/201206/article_26.html
である。エネルギーを誘導し、治療や回復の効き目があり、タイムトラベルすら可能にするような小部屋というのはどうだろう?

伝説とは、どれぐらい単純化されているのだろう?

ノアの洪水後に現れた最古の古代部族社会においては、シャーマンが極めて重要な存在だったと推測しなくてはならない。彼は、人間界と超自然的パワーの世界との間における、予言者・まじない師・調停者を合わせた役割を果たしていた。ここで重要なのは、シャーマンがこの立場にあったのが、司祭職が生まれ、あるいは、占星術師、風水師、占い師といった「魔術の専門家」が確固たる地位を占める遥か以前だったということである。

もう1つ覚えておくべき重要な事は、シャーマンの地位が世襲だったことである。より最近では地域によるばらつきがあるが、今も存在しているシャーマンたちの殆どがそうであることから窺えるように、古代において、その地位は完全に世襲だった。世界的に見た場合、シベリアのシャーマンはそうであるし、ネイティブ・アメリカのシャーマンにおいても、同様の例は数多く見られる。この特徴は、一般社会や権力からの分離をもたらし、その結果、シャーマンは通常の時空の境界を超えた存在や出来事を見る能力を獲得保持できたのである。

世襲制が重要でなくなった地域では、堕落のプロセスが始まった手掛かりとなる要素が見られるものである。このタイプのシャーマンは、生まれながらにしてシャーマンなのではなく、「イニシエーション(秘儀伝授)」を受けるのだ。このような例の殆どでは、シャーマンになるべき人たちは、地元の聖なる山に連れて行かれ、あるいは何処か人里離れた地に赴く。そして、然るべき場所に着き、時が至れば、職務用の衣装や太鼓、杖を渡され、指導役の老シャーマンに対して誓いを立てるのである。老シャーマンは彼にシャーマンとしての召命/天職の秘密を明かし、儀式を教え、最後は生贄の動物の血をふりかけ、多くの場合、それから剥いだ皮を着せる。

最古かつ最も純粋な形態においては、イニシエーションは存在しなかった。シャーマンの地位は、父親からその息子へ、あるいは母親からその娘へと受け継がれ、指導は生まれたときから始まる。イニエーションには殆ど何の重要性もなく、血統こそが重要至極だった。アルタイ・シャーマンは、就任するや自然と上位ソースから「イニシエーション」を受け、儀式などなかった。

また注意すべきなのは、世襲シャーマンと、ブリテン島のワーテース(ケルト語/ラテン語vates、単数形がvatis)
http://naming-dic.com/word/la/77304063
すなわち、「シャーマンたる占い師」との結びつきである。そこでも、イニシエーションは存在しなかった。バードとドルイドにはイニシエーションがあり、バードでは弟子の身分の伝授があり、ドルイドの場合は、司祭職の伝授があった。だが、ワーテースには、イニシエーションがなかった。ワーテースは「生来の」ものだったのである。彼は伝統主義者や根本主義者ではなかった。彼は価値があると思われるような、新しい事は全て取り入れ、そうすることで、環境の変化に対応しつつ、自らの技術を向上させた。

シャーマンはまた、体外へと旅立つことで知られる。この旅は、肉体的であると同時にエーテル的なものと言われていた。この実践によって、彼は物質界およびエーテル界の数多くの風景を自分で理解できたのである。この旅の間にシャーマンは、非物質界の住人たちと話をして、自分や部族にとって貴重な知識を得たり、エネルギーを集めることが出来たのだ。この言わば、「空中へと」旅する能力のゆえに、シャーマンはしばしば、鳥の姿で描かれた。鳥は、「幽体離脱」経験すなわち「飛行」の象徴だった。注意すべきことに、母なる女神を象った像の中には、彼女の頭を鳥として表現したものがある。

他領域の存在との直接のコミュニケーションは、神託(占い)の最古の形態である。それは後に、シャーマンの血統でない人々にも同じ「パワー」を与えようという試みの中で様式化されたシステムに堕落した。神託が、こんにちの様式化された宗教と共存するのは容易なことでない。それはどうしてかと言うと、私達の体験する宗教は、神の摂理および世界の安定という考えに基づいているからだ。神託は、このようなシステムには許容されない。というのも、神託は不安定な要素があって、出た結果が司祭の望むものと食い違う可能性があるからだ。

公式の宗教が確立されるに従って、神託は、ある血統の巫女が他領域を見る行為から、公認された司祭のみが神にアクセスする行為へと変わって行った。格子すなわち市松模様が占い師のシンボルとなったのはこの時だった。この格子(グリッド)は、古代の数多くの神々や聖人の姿と共に見受けられる。メソポタミア、中央アジア、ヨーロッパの男神はいずれも、世襲のシャーマンから、司祭職のシャーマンへの転換を表すものだ。司祭職のシャーマンはこの格子のシンボルによって時空を支配し、民と神の仲立ちを行う。古代ユダヤ教のウリムとトンミムは、その典型的な例だ。

世襲にせよ、司祭が行うにせよ、神託は、超次元のパワーが自らの考えを述べる、すなわち、私達のリアリティをコントロールすることを前提としている。この観方は、早くもAD1世紀にローマの政治家セネカによって批判されている。曰く:「我々とエトルリア人とは以下の点で異なっている:稲妻の放出は雲の衝突の結果であるとわれわれが思うのに対し、彼らは雲は稲妻を放出するために衝突するのだと考える。というのは、彼らが信じるところでは、すべては神に起因するのであって、物事はそれらが起きたかぎりにおいて意味を持つのではなく、むしろ意味を持っているに違いないから、それら物事は起きるのである」
(邦訳出所: http://gairo.net/Toscana2012/etruria.html )

カシオペアンは、こうした事に関して興味深い手掛かりを与えてくれているので、ここに差し挟むとしよう。読者はこうした事柄をうまく結び付けて考えていただきたい。


970621
Frank, Laura, Alice
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Q: テーマを変えるわよ:私、色々な言語やアルファベットの歴史的変遷を辿ってるところなんだけど、 ルーン文字( http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32693440&comm_id=2590126 の写真左)、ギリシャ文字(写真中)、エトルリア文字(写真右)のうちで、他に先立って現れて、他がこれから派生したのはどれかしら?

A: エトルリア文字。

Q: エトルリア人って、誰だったの?

A: テンプル騎士団員の担い手。

Q: どういう意味?

A: 探せよ、さらば汝見出さん。

Q: どういう風にやればいいってのよ?エトルリア人について、他には何も見つからないのよ!

A: No.

Q: 「ノー」ってどういう意味よ?巷にはエトルリアに関してもっと情報があるってこと?

A: Yes.

Q: Okay. 「テンプル騎士団員の担い手」って何?

A: 悔悟する鳥の神。

Q: どういう意味?

A: 自分で調べなさい。全てのものは、その幾らか古い形態から導き得られる。
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970816
Frank, Laura, Andromeda
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Q: 不死鳥、鶴、鷺、鳩、大鴉はいずれも、何らかのかたちで話すことや書くことに関係してるわ。どうしてこれらの鳥が全部こんな風に関係してるの?

A: メガネに適った。

Q: 「メガネに適った」とはどういう意味?

A: 見つけなさい。

Q: 書くことは、切ることや刻み込むこと、刈ることを表す言葉や鮫とも関係してるわ。あなたたち、エトルリア人を「悔悟する鳥の神」だとか、「テンプル騎士団員の担い手」とも呼んだわね。これは鳥のイメージに関係あるの?それと、話すことや書くこと、刈ることと関係ある?

A: メガネに適った。

Q: それじゃあ、書くことの結果、メガネに適えば(=テストに合格すれば)、不死鳥だとか、鳩とかになれるの?

A: 見つけなさい。

Q: アークが、エトルリア人はアルファベットを鏡像としてイメージしてたんじゃないかって言うんだけど、彼らが鏡の「反対側」に住んでたってことなのかしら?

A: 後者が近い。
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上のやり取りでは驚くべきことに、「鳥の」すなわち「小鳥のような」が「テンプル騎士団」と並んで出て来ていた。テンプル騎士団員は、一部の聖杯伝説において「聖杯の守護者」と名指されていた。ということで、またしても見出されるのは、聖杯と、中央アジアやストーンヘンジへと時間を遡る1本の筋 とのつながりである。

鳥の飛翔はしばしば、シャーマンが体外に出た状態あるいは、鳥の形をした守護霊と見做された。遠目の利く使者としての鳥の伝説は、ノアが放った鳥やオーディンの鴉をはじめとする数多くの伝承の中に保存されている。鳥のイメージは後に矢に置き換えられ、さらには杖や棒、そしてルーン文字となった。

だが、セネカによる超次元のリアリティに関するネガティブな観方に戻るとしよう:彼は超自然的パワーは稲妻や嵐、地震、奇妙な天象、鳥の飛翔、さらには自分達人間を通じて顕現しているという考え方を批判した。しかし、セネカ以外にも多くの人々が、司祭職のような占いの様式化されたシステムによって正しいと判定された事に基づいて決められた人生の意義を快く受け入れていたのだ。

既に見たように、初期のシャーマンの営みにおいては、人々はどうやら神々のことを慈悲深く、話好きな存在だと想像していたようだ;自分達の生活のあらゆる面に関心を寄せ参加する存在としてである。「惚れ惚れするマルト神の群れ」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=42714440
はシャーマンがするように「踊り」、天は賜物を与える。神は人々と共に踊り、平和と豊穣があった。

そうこうするうち、状況はドラスチックに一変し、神々は恐ろしくて、報復的な、潜在的に危険な存在となった。この時点で、人間と超次元の存在とは正しい関係を保つことが重要であるという考え方は、興味深い展開を見せた。それまでのシャーマンは、危険な神々が居たら、それらと戦い、それらを倒して、それらが働く略奪行為から民を守る権限があった。しかし、この時点になると、シャーマンが闇の勢力と戦うことができるという考えは、生贄を捧げてこれを宥めようという考えに取って替わったのである。これは、外からのイニシエーションによってシャーマンが誕生するようになり、やがて様式化された司祭職へと変わった時期と一致している。司祭が登場すると、明確な規則と規制によって、司祭のみが有効な宥めを行うことができるようになった。この点で、神と人間との正しい関係は、所定の儀式とタブーが適切な場所と時間を守って執り行われるときに達成可能なのだった。この考え方の最初の例を古代エジプトの「星時計(star clocks)」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%9F%E6%99%82%E8%A8%88-1592307
に見ることができる。これは、夜でも正しい時間に適切な儀式ができるよう、星を観察するものだ。
(※世界秘史原書435ページ(第10章の「鋭い歯をしたソティス」の節の未訳部分)によれば、矢野道雄・斎藤潔訳ノイゲバウアー著『古代の精密科学』恒星社厚生閣にstar clocksの話が書いてあるようですが未参照です。以下の記述がそれの要約かも知れません。 ※※)

聖職者すなわち「観察者たちの長」は、天上に現れる予兆の観察と解釈に気を配る。これらの予兆は、聖域(テンプルム)と呼ばれる屋外の見晴らし塚から観察された。空は、リトゥース
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/divinatione_1.html
という儀式用の道具越しに見ることで4等分される。さらに、腕を伸ばしてこの道具を持つことで、地平線も区画に分割される。予め分かっている地平線上の目印との関係から、観察者たちの長は、観察されている現象が空のどの区画で起きているかを、この道具で判定するのだ。これはまた、昼と夜の時刻や、太陰暦の日付にも関係していた。こうした事の全てが、予兆の解釈方法に関する材料を提供したから、恐らく、神々を宥めるためということで、司祭が生贄や贈り物を増やすよう求めるということが頻繁に行われていたのだろう。4区画への分割は、後に地面に対して行われるようになり、空に予兆を観察するやり方に代わる占い法が考案され、予兆の数は増えた。

こうしてざっと見ただけで分かる通り、「ゲーム」あるいはゲーム盤の発生は、闇の、機械的な力の「印」なのだ。私達が「ゲーム」と呼んでいるものの殆どは元々、本来のシャーマンと対立するものとして、司祭が神託を様式化するための手段として編み出されたのである。チェス盤も元来は、時空の「位置を決めるための道具」だった。この神々は「測る者」として知られていたのであり、このような「神々による秘密のゲーム」のシンボリズムは、メーソンや、他の「オカルト」信仰における、市松模様の床に見られるものだ。

これに比べると、プレイヤーたちの正体はやや明確さに欠けるものの、こう言い表されよう:すなわち、慈悲深い女神を崇拝するシャーマンの血統VS.報復する神に仕える儀式的な司祭職なのだ。ここで思い出されるのが、前章に私が書いたコメントである:いきさつはどうやらこういうことらしい。すなわち、彗星衝突という大災厄が繰り返すうち、人類は歴史を、低い、闇の地位に格下げしてきたのであるが、それでも自分達を取り巻く環境について、客観的に研究・分析を行う機運となった丁度その頃、宗教もまた介入してきて、このような思想に終止符を打ったのである。

繰り返し繰り返し私たちは例の些細な問題に逢着する:宗教や信念体系は、客観的証拠や他人の信仰から守られねばならないというものだ。「数千年に亘り科学の、哲学の、あるいは宗教の体系を構築するうち、どうして人間はこうも頑なに道を踏み外し、破滅的な結末へと向かって来たのだろう?。。。答えは、組織化された宗教によって深く覆い隠された、我々の手の届かない存在領域のどこかにある。すなわち、それはおそらく、人間を支配する宇宙エネルギーと我々との関係の中にあるのだ」(ライヒ『エーテル、神、悪魔』)

注意して欲しいのは、ライヒが使った「破滅的な結末」という言葉である。宗教の歴史に通じていて、物事を客観的に見れる人なら、宗教の導入/浸透/強要こそが、この地球にはびこる悪の殆ど全ての原因なのだと確信されるだろう。単純明快である。イエスはこう言っている:「あなたがたは、その実で彼ら(=偽預言者)を見分ける」と。(※マタイによる福音書/ 07章 16節)
これはかなり苦い実を結んだ。カルロス・カスタネダは、より直接的な表現でもって、これと同じ事に私達の注意を向けさせる:


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しばらく考えてから、事を巧みに処理する人間の知性と、その人間の信念体系の愚かしさ、もしくは人間の一貫性を欠く行為の愚かしさとの矛盾を、どのように説明したらいいか話してみろ。呪術師たちは、捕食者がわれわれに信念体系や善悪の観念や社会的慣行を与えたのだと信じている。成功や失敗へのわれわれの希望と期待と夢とを仕組んだのは、やつらなのだ。やつらがわれわれに強欲と貪婪さと臆病とを与えたのだ。われわれを自己満足におちいらせ、型にはまった行動をとらせ、極端に自己中心的な存在にさせているのが、やつら捕食者どもなのだ

われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは素晴らしい策略を用いる。素晴らしいってのは、もちろん、喧嘩好きの策士の観点からしてだぞ。受ける側からすれば、恐ろしい策略だ。やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ!おい、聞いているのか? 捕食者どもは自分の心をわれわれに与える。そしてそれがわれわれの心になる。捕食者どもの心は粗野で矛盾だらけで陰気だ。そして、今にも発見されてしまうのでないかという恐怖に満ちている。。。そこで心を通して、それはつまるところやつらの心なのだが、捕食者どもは人間の生活のなかへ自分たちに都合のいいものを注入する。
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(Castaneda, 1998; this author’s emphases)
『無限の本質』結城山訳。


かつて私は、「悪魔」と称する実体が語ったとされる言葉を引用したことがあるのだが、(※ナンシー・オズボーンの『デーモン・シンドローム』からの引用。ウェイブ1巻に引用したと言われてますが、↓の文章の間違いでしょう。)
http://cassiopaea.org/cass/demons.htm
それを読んで私が強く感じたのは、それがいわゆる「エイリアン」にそっくりだということだった。この「クリーチャー」が語った言葉を最初に読んだ時、私はかなり驚いたものだが;その後、もっとこの類の事を学んだ後では、これは実際、本当なのかも知れないと気付いた。私はこのケースにすっかり魅せられたので、本の著者にコンタクトして、作り話やオーバーな書き方になっている部分がないか、見極めようとしてみた。それで実際に分かったのは、原稿にはもっと物議を醸す様な部分があったのだが、編集者によってカットされていたということだった。実は、私がとても面白いと思った部分を残すよう主張した時、著者はひどいサイキック・バックフラッシュに悩まされたという。このクリーチャーは「レディー」と呼ばれ、(数多くのアブダクティーがかわいいグレイ・エイリアンとやり取りしたのと同じようにして)彼女とやり取りしていたのが、アン・ヘイウッドだった。ある報道関係者とのインタビューで、アンは、レディーが彼女を遠い過去へとタイムトラベルに連れて行く様子を説明しようとしていた:


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「彼女が私にローブを羽織らせると、私の心は身体から離れたわ。私が振り返ると、私の身体はそこに横たわっているの。それから私たちは、天井を通り抜け屋根を飛び出し、宇宙へと飛び立ったのよ。ある晩、このレディーは時間をさかのぼって私を連れだしたの。私たちは異国に居て、人々は時代遅れの服を着ていたわ。すると、かのレディーが、青いローブをまとった美女に見えてきたの。彼女は、彼らに対して奇跡を行ったのよ。。。」

突然アンの顔が青ざめ、彼女は許しを乞うた。彼女はバスルームに逃げ込んだが、そこから苦痛の叫びが聞こえてきた。アンが出てきたとき、彼女は泣きじゃくっていて、お腹を押さえていた。このレディーのようなクリーチャーが、歴史上随所で聖人として姿を現してきたことを暴露したせいで、アンは猛烈な攻撃を加えられたのだ。それから彼女たちは人類の騙されやすさを利用して、彼らが奇跡の行われるのを見たと信じるよう、人々を間違った方向に導き誤解させたのである。アンはレポーターに、インタビューのこの部分をカットしてくれるよう頼んだ。
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実際、宗教や、宗教におけるビジョン、新興宗教の登場について学ぶと分かるのだが、これらが起こる経緯とは殆どいつも、いわゆる「エイリアン」とのやり取りとさして変わりがないのである。そんな訳だからカール・ユングは、UFOとは元型の表象であり、ある種の壮大な伝説の創造/回復を理解する手掛かりだと唱えたのである。

しかし私達は、エイリアン現象が超次元的なものであり、超次元の存在は時空を恣に移動する能力を持って居ることを知っているので(おそらく、何らかの限界はあるのだろうが、確かなところは分からない)、宗教とはいずれも、このような存在が、慈悲深い奇跡を起こす風を装って姿を表すことによって「でっち上げられた」のだろうとしか考えようがない。

実は、こうした存在とはどうやら、グルジェフが語った「秘密のマスターたち」のことらしい。グルジェフはまた、このマスターたちが、私達を助けられるかどうかということについても語っている。


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(浅井訳480ページ)
人間の歴史について話したときに指摘したが、我々の属す人間の生活は2つの異なる源泉からくる力に支配されている。1つは惑星の影響で、それは完全に機械的で、個々人にも集団にも何気なく無意識に受け取られる。もう1つは人間の内なるサークルからくる影響で、大多数の人々は、この影響の存在と重要性に惑星の影響と同様気づいていない。。。

(476ページ)
「人類の進化に対して闘う意識的な力があると考えることはできませんか」と私(ウスペンスキー)は聞いた。

G − ある観点から見ればそうも言える。

機械的な力に対する闘いのかわりに、ある時点で、先程のかなり強力な意図的抵抗に対する闘いが起こることもあるが、もちろんその抵抗力は進化のプロセスを導く力とは比較にならない。これらの抵抗力は時には勝ちさえするかもしれない。なぜなら、進化を導く力には手段の選択範囲がより限られている、言いかえれば、ある手段、ある方法だけしか使うことができないからだ。抵抗する力は手段の選択範囲が限定されておらず、あらゆる手段、一時的な成功しか生み出さないような手段でも使うことができ、最終的な結果として進化、退化の両方を、今問題としている時点で破壊してしまうのだ。。。
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ここで思い出されるのが、自由意志に関する極めて重要なポイントである。進化を導く力は、自由意志を侵すことができないのだ。グルジェフが上の一節で言わんとしていたのは、この「制約」のことだと思われる。しかしながら、抵抗する力、すなわちSTS(自己への奉仕)勢力、すなわち「闇」サイドは手段の選択範囲が限定されていない。嘘やトリック、奇跡、そして、あらゆる「ポジティブな」もののイミテーションが許されているだけではない;イカサマを行って、自分に都合のいいような不正なカードの切り方をする方が、「ゲーム」は素晴らしくなると考えられているのだ。マキャベリズムの最も深い意味合いを考えれば、このような勢力が、宗教の誕生の背後に居たとしか考えようがないし − 実際、不可欠だったのである。


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我々の属す人類、つまり科学や文明に知られている歴史的、先史的人類全体は、実は人類の外側のサークルだけを形成しているのであって、人類の中には他にもいくつかのサークルがある。だから、既知の人間も未知の人間も含めてその全体を、いわばいくつかの同心円を構成するものと考えることができるわけだ。

内側のサークルは「エソテリック」と呼ばれている。このサークルは、人間に可能な最高度の発展を達成した人々によってつくられている。彼らは最も完成した個性を有している。つまり、分割不可能な「私」、人間に可能なあらゆる形態の意識とその完全なコントロール、人間に可能なあらゆる知識、自由で独立した意志などをもっている。彼らは、自分の理解に反する行動をとることはできないし、行動によって表現されない理解をもつこともない。また同時に、彼らの間には何の不和も、どんな理解の相異もありえない。だから、彼らの行動は完全に協調的で、いかなる強制もなく1つの共通目標へと進んでいく。というのも、それは共通かつ同一の理解を基盤としているからだ。
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同上、浅井訳


上の一節でグルジェフが述べているのは、まさしくカシオペアンの言う「ネットワーク」であり、「同一線上」での理解のことである。そしてまた思い出されるのは、彼らがストーンヘンジについて語った言葉だ:


961208
Frank, Laura, Terry, Jan, Alice
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Q: (L) 前にストーンヘンジの話をした時、それはいわば、エネルギーの変換器だということだったわ。ということは、ストーンヘンジがあそこにあるのは、場所のせいかしら、それともストーンヘンジが。。。

(T) どうしてストーンヘンジとはどんなものなのかと訊かないんだい?

(L) Okay, ストーンヘンジとはどんなものなの?

A: ストーンヘンジの場所が、これに相応しい振動数をしていた霊的タイプの人々を惹き付け、今度は、そのような人々が、コード化されたピクトグラフ(絵文字、岩壁画、象形文字)を追い掛け回して、田舎じゅうを解読して歩かなくても、コード化された交信をテレパシーで受信できるように、石を正しい場所に置いた。

Q: (L) このサークルの人々が、情報をテレパシーで受け取るためには、どんな技術が用いられたの?

[プランシェットが内側に、そして外側へと螺旋を描く]

A: 並外れた集中による念波の分離。。。螺旋は念波を減速させて、念波移動エネルギーを集中することによって、メッセージを翻訳するのに役立つ。これは、意志を伝える宇宙言語の信号を分析し、音声的プロファイルを持った言語に翻訳することで、導管としてのEM波を利用し/移動させる。これは複数ユーザーの必要性に応える。

Q: (L) 複数ユーザーの必要性というのは、沢山の人々が螺旋運動をしなくてはならなかったという意味で合ってる?

A: No. 複数が同じ内容を正確に聞き、感じ、理解する必要性だ。石の分子構造は、適切な形に整えられれば、あなたに歌いかける。
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ここで重要な事が言われているのでどうか注意して欲しい:「複数ユーザー」というのは、沢山の人々が「同じ内容を正確に聞き、感じ、理解する」という意味なのである。これはまさに、グルジェフがアセンデッド・マスターたちの属する内側のサークルについて語っていることだ。


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(480ページ)
次のサークルは「メソテリック」、つまり中央と呼ばれている。このサークルに属する人々はエソテリック・サークルに属する人々がもつあらゆる特質を有しているが、そこにはわずかな違いがある。つまり彼らの知識はもっと理論的な性格のものなのだ。これはもちろん、宇宙の性質に関する知識にもあてはまる。彼らは、たくさんのことを知っているし理解もしているが、その知識はまだ行動にまでは表れない。すなわち、彼らの知っていることは彼らのすることを上まわっているのだ。しかし、彼らの理解はエソテリック・サークルの人々の理解と全く同じように正確で、それゆえ全く同一のものだ。彼らの間にはいかなる不和も誤解もありえない。1人は他のみんなが理解するのと同じように理解し、みんなは1人が理解するのと同じように理解している。しかし前に言ったように、この理解はエソテリック・サークルの理解に比べれば幾分か理論的なのだ。

第3のサークルは「エクソテリック」、つまり外側と呼ばれている。なぜなら、これは人類の内的な部分の外側のサークルだからだ。このサークルに属している人々も、エソテリック・サークル、メソテリック・サークルの人々がもつ多くのものを所有しているが、彼らの宇宙に関する知識はもっと哲学的な性格のものだ。言いかえれば、それは、メソテリック・サークルの知識よりさらに抽象的なのだ。メソテリック・サークルのメンバーは計算し、エクソテリック・サークルのメンバーは熟考する。彼らの理解は行動で表されることはないかもしれない。しかし理解の上では彼らの間に差異はない。1人が理解したものは他のみんなも理解するのだ。
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浅井訳


上の一節から読み取れるのは、どうやらこれは、ヨギ、聖者、ヒーラー等々のような「アセンデッド・マスター」と私たちが考える人々のことを言っているのだろうということである。明らかに、このような事に関する私たちの理解は、とても限られている。


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エソテリシズムの存在を認めている文献では、人間は普通2つのサークルに分けられ、「エソテリック」に対立するものとしての「エクソテリック・サークル」は普通の人々と呼ばれている。実際には、今示したように、「エクソテリック・サークル」は我々から遠く隔たった非常に高次のものだ。普通の人間にとってはこれさえすでに「エソテリシズム」なのだ。

「外側のサークル」は機械的な人間のサークルで、我々はそれに属し、またそれしか知らない。このサークルの第1の特徴は、これに属する人々の間には共通の理解がなく、またありえないということだ。誰もが自分勝手に、さまざまに理解している。このサークルは時には「混乱した言語」のサークルと呼ばれる。つまり1人1人が勝手な言語で話すサークルということで、そこでは誰1人他人を理解しないし、またしようと骨折る者もいない。このサークル内では、まれな機会や大して重要でない事柄を除けば、相互理解は不可能で、それも彼らの存在の範囲内に限られている。もしこのサークルに属している人々がこの理解の全般的欠如を意識し、しかも相互に理解しあいたいという欲求をもつなら、彼らは内側のサークルの方に無意識のうちに傾斜したことになる。というのも、相互理解はエクソテリック・サークルの中で初めて始まるものであり、またそこでのみ可能だからだ。しかし、理解が欠如しているという意識は普通全く違った形で人々のところへやってくる。

だから人々が理解できるかどうかは、理解というものが始まるエクソテリック・サークルへ入りこめるかどうかにかかっている。
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同上


続けてグルジェフが述べているのはどうやら、内側のサークルへと ― 外から中に ― 入って行ける「3つの道」に加えて、第4の道と呼ばれるものが存在しているらしいということだ。ここでは、マスターたちの居る内側のサークルから、一般人が居る外側のサークルの何人かに対して、直接的なコミュニケーションが行われる結果=内側から外側へと、不可欠な「ワーク」がうみだされる結果、門が見つかることが暗示されている。


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人類を4つの同心円として考えてみると、内側の第3のサークル、つまりエクソテリック・サークルの円周上に4つの門を想像することができ、機械的なサークルに属す人々はここを通って中へ入ることができる。

この4つの門は前に述べた4つの道に相応している。

第1の道はファキールの道、人間第1番、肉体的な人間の道、知性や心情の方はあまり豊かでない本能・動作・感覚型人間の道だ。

第2の道は修道僧の道、宗教的な道、人間第2番、つまり感情的な人間の道だ。知性と肉体はそれほど強くない。

第3の道はヨーギの道だ。これは知性の道、人間第3番の道だ。心情と肉体はそれほど強くはない。でないとそれらはこの道での障害物になりうるからだ。

これら3つの他に第4の道があり、前の道のどれにも進めなかった人もこの道なら進むことができる。

最初の3つの道、つまりファキールの道、修道僧の道、ヨーギの道と第4の道との違いは、前の3つは、歴史上の長い期間、ほとんど変化することなく存続してきた恒久的形態に結びついているという点にある。これらの集団の基礎は宗教だ。ヨーギのスクールがあるところでは、それは宗教的なスクールと外見上ほとんど違わない。また歴史上のさまざまな時期にファキールの種々の共同体や教団がいろいろな国に存在したし、いまだに存在している。これら3つの伝統的な道は、歴史の範囲内にある恒久的な道なのだ。

2、3千年前には今はもう存在していない他の道もあったのだが、今あるいくつかの道は互いにそれほど隔たってはおらず、非常に接近している。

第4の道は次の点でこれら新旧の道とは異なっている。つまり、それは決して恒久的な道ではないという点だ。それはいかなる一定の形態ももたないし、それに結びついた集団もない。それはいくつかの独自の法則に支配されて現われたり消えたりするのだ。
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浅井訳


最後の部分で言われていることは、ワーテースのワークの定義を反映したものだろう:「彼らは天才の特権として資格を持っていた;弟子となることは必要なかった」
https://books.google.co.jp/books?id=zYZCAAAAcAAJ&pg=PA649&lpg=PA649&dq=having+his+degree+under+the+privilege+of+genius&source=bl&ots=yPHz5Ay60f&sig=K8HGtY9mmK1cjganXeNG7XjD7k8&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi_2N685bnKAhVFjpQKHYUyDNoQ6AEIGzAA#v=onepage&q=having%20his%20degree%20under%20the%20privilege%20of%20genius&f=false
ストラボンはポセイドニオスから次の1節を引用している:「あらゆるガリア人のうち格別に敬われている人々は、一般に三つの階級がある。バルドイ(バード)と預言者(ワーテース)とドリュイダイ(ドルイド)である」(ストラボン『地理誌』4.4)(中沢 1997, p. 342)(Wikipedia『ドルイド』の項より)


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第4の道は明確な重要性をもつワークを伴わずには決して存在しない。それは必ずある企てを伴い、その企てのまわりに、またそれとの関連においてのみ第4の道は存在しうるのだ。このワークが終われば、つまり設定された目標が達成されれば、第4の道は消滅する。すなわち、その場所から消え、その形態も消えてしまうのだ。たぶん別の場所で違った形で存続するだろうが。だから第4の道のスクールは、もくろまれた企てに関わるワークをやりとげるのに必要な場合にだけ存在する。教育や指導のためだけに独立してスクールとして存在することは絶対にない。
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浅井訳


上の1節を読んだ時に私が考えたのは、中東に生き、人類のために偉大なワークを行った、今では正体不明の人物のことである。この人物に関する消息は、エジプトの宗教が広まった後、イエスと呼ばれる男の伝説によって雲散霧消してしまった。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=76662968
そしてふと考えるのが、「神々による秘密のゲーム」のことである。こちらサイドが駒を動かすと、あちらサイドも、いかさまとダマシの能力を十分に発揮して駒を進める。私たちが聖書と呼ぶ文書として編纂された神話以上に明らかな証拠はない。


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第4の道のスクールのワーク自体、非常に多様な形態と意味をもちうる。生の普通の状態の真只中にあっては、人間に残された「道」を見出す唯一のチャンスは、この種のワークの始まりにめぐり合うかどうかにかかっている。。。

しかし、ワークの基本的目標がいかなるものであろうと、スクールはワークが続く間しか存在しない。ワークが終わればスクールも閉鎖される。すでにワークを始めている人は、その活動舞台を離れるわけだ。スクールから学びうるものを学び、この道を進み続ける可能性を見出した者は、個々それぞれにいろいろな形でワークを続けることになる。

しかし時には、スクールが閉鎖されるとき、ワークのまわりをうろつき、その外観をながめ、しかもワーク全体をこの外観からしか見ていなかった人々が大勢取り残されるということが起こる。自分自身に、あるいは自分の結論や理解にいかなる疑いも抱かないので、彼らはワークを続けることを決心する。そのために新しいスクールをつくり、自分たちが習ったことを人々に教え、自分たちがされたのと同じ約束を彼らにする。しかし当然、これらはみな上っ面のまねでしかない。
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浅井訳


ここでまた思い出されるのが、オリジナルの「イエス」のワークのことである:


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(浅井訳485ページ)
しかし歴史を振り返ってみると、どこで本ものが終わり、どこから模倣が始まっているのかを区別するのはほとんど不可能だ。厳密に言えば、さまざまなオカルト、フリーメイソン、錬金術などのスクールについて我々の知るほとんどすべてのものが、この模倣に関係している。我々は実際、本当のスクールについて、そのワークの成果を偽ものや模倣から区別できたときに初めて知ることができるのだ。。。

(486ページ)
偽エソテリック組織を通して我々に届く秘儀伝授の観念は、同時に、全く誤った形で伝えられる。秘儀伝授の外面的な儀式に関わる伝説は、古代の<秘教儀式>に関する情報の切れはしからでっちあげられたものだ。この<秘教儀式>は特殊な方法を表わしており、その中には、困難な長期にわたる研究とともに、人間と宇宙の進化の全過程を寓話的な形で示す特殊な演劇的描写が盛りこまれている。

存在の1レベルから他のレベルへの移行は、特殊な授与儀式、つまり秘儀伝授によって表わされる。しかし、儀式は存在のレベルを変えることはできない。儀式はただ移行の達成を象徴しうるだけだ。儀式に独立した意味をもたせるのは偽エソテリック・サークルだけで、そこには儀式以外には何もない。

儀式は秘蹟に変容することで、入門者にある力を伝達、伝授すると考えられている。これもまた模倣の心理学に関係している。外面的な秘儀伝授などというものはなく、またありえない。実際にはただ自己伝授、自己授与があるだけだ。組織やスクールは方法や道を示すことはできるが、人間が自分でやらなければならないワークを代わってやることはできない。内的生長、存在の変化は、人間が自分に働きかけねばならないワークに全面的にかかっているのだ。
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上のグルジェフの言葉の文脈の中で、本シリーズ中に引用したカシオペアンの言明の幾つかについて考えると思い至るのは、カシオペア文書こそが、真の第4の道のワークだろうということだ。そのような性格上、それは当然ながら、一定の原理と理解によって制約を受けている。しかし、私たちはまた、「あちらサイド」の勢力はさして制約を受けていないことにも気づく。ということで、私が子供の時に、「経済的な軍隊」と関わりがあるとされる人間によって、自滅プログラムおよび知識へのカギをインストールしようとして誘拐された訳が、益々明らかになってきた。そして、なぜフランク・スコットが私を破滅させ/道を踏み外させるために遣わされたのか、また、どうしてフランクが失敗した時、1人の経済学者が「私を詳しく調べ」ようとして遣わされたのか;さらに、どうしてその直後に、ヴィンセント・ブリッジスが助演プレーヤーたちと共に、神々による秘密のゲームの次の1手として遣わされたのかも、今や明らかである。カシオペアンのワークか私たちのいずれかを破壊/破滅させようとしてのことだったのだ。

さて、ゲームの理論および、どのような人たちがこれらの「ルール」を開発し、それらに従って活動しているのかについて見てみるとしよう。私にとって、これは最も興味深い疑問だったのだ。このようなものを思い付くのは、一体どんな人なのだろうか?

ジョン・フォン・ノイマンが初めてゲームの理論に関する著書を書いたのは、1920年代末のことだった。経済学および、それとゲーム理論との関係という問題が浮上して来て以降、私は数多くの原著を読んでいたのだが、フォン・ノイマンが有名かつ独創性に富んだ研究で実際に提唱していた内容を読んで、私はすっかり面食らってしまった:


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(第1巻冒頭。邦訳029ページ)
本書は、経済理論の根本問題のうち、これまでの文献にみられたものとは違った取扱いを必要とするいくつかの問題について、1つの分析視角を提出しようとするものである。。。これらの問題は。。。最大効用を獲得しようとする個人の努力、あるいは、最大利潤を追求しようとする企業家の努力を正確に記述しようとするさまざまな試みから生じてきたものである。。。

(042ページ)
われわれは、個人の行動やごく単純な交換形態について、できる限り多くのことを知る必要があると考えている。。。
(046ページ)
これらの概念(※効用や選好)が、物理学のなかで十分に確立された、不可欠ないくつかの概念、たとえば力、質量、電荷などと比べて質的に劣っているとは、われわれには思えない。すなわち、これらの概念はいずれも、直接的な形においては単に言葉だけの定義に過ぎないが、実は、その定義のうえに築き上げられる理論全体を通じてはじめて経験的統制に従うようになるのであって、それ以外の方法でそうなるのではない。。。

最大の効用や満足を獲得しようと努力する個人はまた、<理性的に>行動するといわれている。しかしいまのところ、理性的行動の問題を満足できる形で扱ったものはないといっても過言ではない。たとえば、最適な状態に達する方法がいくつかあるかもしれないし、それらの方法は、個人のもっている知識や理解力に、また個人のとりうる行動の道筋に依存しているかもしれない。。。

しかし、交換の問題をまったく違った角度から、つまり<戦略ゲーム>の視点から研究するならば、この問題を本当に理解することができるのではないかと思われる。。。

(049ページ)
<ロビンソン・クルーソー>のモデルによって表わされる型の経済、すなわちただ1人の孤立した人間の経済、あるいは単一の意志のもとに強固に組織された経済を、さらに綿密に考察するとしよう。。。問題は最大の満足を獲得することにある。。。クルーソーには、ある種の物質的データ(欲望と財)が与えられており、かれの仕事は、結果として最大の満足が得られるように、これらの物質的データを組み合わせ、利用することである。。。したがって、クルーソーが直面する問題は、通常の最大化問題であって、この問題の困難点は。。。概念的なものではなくて、まったく技術的なものに過ぎない。

つぎに、社会的交換経済の参加者について考察することにしよう。もちろん、かれの問題にも、通常の最大化問題と共通する要素がたくさんある。しかし、この問題には、それとはまったく性格の異なったある種の非常に重要な要素も含まれている。かれもやはり、最適の結果を手に入れようと努力する。しかし、この結果を達成するには、かれは他の人々と交換関係に入らなければならない。2人ないしはそれ以上の人々が互いに財を交換する場合には、各人に対する結果は、一般に自分自身の行動に依存するだけでなく、他の人々の行動にも依存する。それゆえ、各参加者が最大化しようとする関数(上記の各人の<結果>)は、自分がすべての変数を制御するわけにはいかないような関数なのである。これは、もはや単純な最大化問題ではなくて、いくつかの互いに矛盾する最大化問題を特殊な錯綜した形で組み合わせたものである。この場合は、いずれの参加者も前とは別の原理によって導かれるのであり、だれも自己の利害に影響を及ぼすすべての変数を決定するわけにはいかないのである。。。

この疑似最適化問題についてのよくある誤解を、とくに鮮明に表明しているのは、社会的努力の目標が<最大多数の最大幸福>にあるという、あの有名な命題である。しかし、2つあるいはそれ以上の関数を、同時に最大にするという要請に答えるような形で、指導原理を定式化することは不可能である。

このような、2つないしはそれ以上の関数を同時に最大化しようという原理は、文字通り自己矛盾である。。。
(053ページ)
一般理論というものは、そうしたあらゆる可能性、あらゆる中間段階およびそれらのあらゆる組み合わせを包含するものでなければならない。。。
(055ページ)
実際、どの参加者にも、1組の変数、つまり<各自の>変数群が割り当てられている。この1組の変数は、その参加者の行動を完全に記述しており、その参加者の意志を正確に表している。
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J.フォン・ノイマン/著 O.モルゲンシュテルン/著 銀林 浩/監訳 橋本 和美/監訳 宮本 敏雄/監訳 阿部 修一/訳 橋本 和美/訳 『ゲームの理論と経済行動』ちくま学芸文庫;フ29−1


つまり、経済学に適用されるゲーム理論とは、他人の自由意志をコントロールすることが全てなのである。もちろんこれは「経済学」を「装って」はいるが、世界を支配しているのがおカネであるのは言うまでもない。読み進むうち、私は聖書の次の1節を思い出さずにはいられなかった:「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた」(ヨハネの黙示録/ 13章 16節)

だが、これは聖書の1節ではないのか?神の預言じゃないのか?「善玉」からの警告じゃないのだろうか?拙著『世界秘史』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47418154&comm_id=2590126
に慣れ親しまれた読者の皆さんなら既にご自分の考えを組み立てておられるだろう。そうでない皆さんも、聖書を分析して、それが何時どのようにして編まれたか見極められれば、聖書で神がどんなものだと述べられていようと、そんな記述のせいで神への信仰を失ったりしないと決めておられるかも知れない。第一、神とは聖書を超えた存在ではないのだろうか?そして、神への信仰は聖書に左右されたりしないのでは?

キリスト教徒にとって万事を理解する体系である聖書が、神々による秘密のゲームにおける布石となるように、タイムトラベルによって仕掛けられたものだとしたらどうだろうか?前章で私は、グルジェフがどんな真実を暴露したか分かったら、機械的な力のコントロール下にある、強力なエリートたちはどうするだろうか?と書いた。もちろん、すぐに思い浮かぶのは隠蔽である。だが、それだけにはとどまらず、連中としては、連中の有利になるよう、間違いなくこの「出来事」を堕落させたいと思うことだろう。つまり、連中としては他の約60億の人々に隊列を組ませ、ある時点で、ある事をするように仕向けねばならないのだ。

だが、圧倒的多数の人々を操作するというのは、クロケットの試合を開催するように簡単なことではない。その上、これは一発勝負であり、おカネをかけてでも必要な頭脳を持つ人々を抱き込んで、確実にできる方法を解き明かさねばならなかった。という訳で、タイムトラベルという結論になるのだ。未来をコントロールするには、過去を操作しなくてはならない。ここで、グルジェフが何か重要な事を言っていたのが思い出される:


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死の直前、1人の生徒が彼に尋ねた:「グルジェフさん。。。私が育もうと苦心している『私』ですが。。。これが死後も生き残る魂なのですか?」

暫く経ってからグルジェフはこう尋ねた「あなたは私の所に来てどれぐらいになるかな?」

「約2年です」

「それは短すぎる。あなたにはまだ理解できない。現在を使って、過去のあらゆる過ちを正し、未来を作りなさい。
http://gurdjieff.la.coocan.jp/literature/work/Record_of_Meetings/meetings_remorse.pdf
実践を続けなさい;私が言った事を全て思い出すんだ」
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邦訳:ウィリアム・パトリック・パターソン『グルジェフを求めて <第四の道>をめぐる狂騒』(古川順弘訳、コスモス・ライブラリー)は未参照。
http://homepage1.nifty.com/pdo/lefthandreview.htm


未来をコントロールするために、過去へとタイムトラベルする際の目標とは何だろうか?そのための一番簡単な方法とは、ある宗教をこしらえて、それの「魅力」となるような奇跡を幾つか起こし、多分、新たな信者たちが敵対勢力を粉砕する手助けをすることだろう。だが、これから引用する、あるマインドコントロール手順の記述を読んでみると、宗教をこしらえることには、もっと油断ならない理由があることが分かる。以下の文章を初めて読んだ時、そこに書かれているのが、超次元の操作によって、人びとが「宗教という檻」の中へと「追い立てられる」典型的な様子だと分かって、私は大いに「なるほど!」と思ったものだ。宗教が最高機密組織によるコントロールのために利用されているという説は忘れなさい ― それは、私たちの注意を、超次元のリアリティから逸らし、全てを人間の機関のせいにするために仕組まれた、単なるディスインフォメーションに過ぎない ― そして、超次元の存在が人生にかけてくるプレッシャーや感情の操作について考えるのだ。こうしたもののせいで人は、「生まれ変わること」が答えであり、「信仰」がカギだと確信させられることになる。私の自伝『グレイス』を読まれたい。そうすれば、私に影響を及ぼすために、このようなプレッシャーがどんな風にしてかけられるのか、そしてある時点で、私がどんな風に「プログラムに従ったか」お分かりになるだろう;ただ私の場合は、探究的な性質だったために、そこを通り越して向こう側まで行ってしまい、その体験によって賢くなってしまったのだ。だが、勇気が無い人々の場合、このようなコントロールから逃れられる人はどれぐらいいるだろうか?

ということで、これ自体が超次元によるコントロール・アジェンダによるディスインフォメーション・モデルの可能性が高いことに留意しつつ、宗教がマインドコントロールやソーシャルプログラミングのツールとしてどう使われるか、次の文章にざっと目を通してみて欲しい:


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1. NSA(米国家安全保障局)による行動修正のプロセスは、対象者を識別し認定することから始まる。元々NSAは対象者を、その一般からの認知度、保有資産、政治的影響力がNSAに対して持つ正味現在価値や、その他のスパイ(諜報活動)的/対スパイ的理由に基づいて選んできた。これに加えて考慮されるようになったのが、発覚による国家安全保障上のリスクの最小化、対象者(犠牲者)の後催眠暗示指数、犠牲者の諜報活動および推論能力、道徳的心情と迷信深さ、犠牲者の社会的地位、一次的支援グループ(家族)の弱さである。さて、3月26日付(※本文章のカバーレターは1999年8月付)オレンジ・カウンティー・レジスター紙のビジネス欄に載っていた、最近の国立睡眠財団の報告によれば、アメリカ人の40%が睡眠障害を経験しているという。このニュースは、NSAが広く大衆にも影響を広めていることを示すものかも知れない。本文で(※これら8項は『要約』と題されています)説明するように、NSAが行動修正プロセスに着手するときは、レム睡眠欠乏から始めるのが常である。

2. 選別された犠牲者は、長期に亘って、レム睡眠欠乏状態におかれ、強力かつ拷問的な後催眠暗示をかけられる。このため、犠牲者は意志力、自信、倫理観が低下する。同時に犠牲者は、家族や信頼している仲間たちから段々と引き離されるので、憂鬱、無気力を感じ、ついには、社会的にも財政的にも破たんをきたす。

3. 体験者が語ったところによると、後催眠暗示によって誘導される典型的な妄想は、電磁ビームを照射されているせいで、身体のあちこちがヒリヒリ痛むという思い込みだという。さらに、壁や天井、壁時計、照明からカチカチという音やドシンという音が聞こえたり、ヒビが入ったり等々の幻覚を抱かせられ、隣人が陰謀を企てたり、犠牲者を尾行しているものと思いこむ。時として犠牲者は、様々な知覚、感情、体験が体内に「インプラント」を埋め込まれた結果だと信じさせられる。犠牲者たちは、このようなNSAによるコントロールは、核ミサイルを発射可能な地下のシェルターから使用されているテクノロジーの結果であって、隣人は犠牲者の体験とは無関係であると理解することが重要である。電子銃を持って犠牲者をつけまわし、身体のあちこちが痛くなるようにする暇や好みを持った人など存在しないのだ。

我々は、テレビ局や通信衛星が発する電磁波を常時浴びているが、何の症状も出ない。というのも、電磁波には我々の脳内で局所的なシナプス反応を惹き起こすことはできないからだ。それに、犠牲者が何人もの人々に囲まれた室内に居るのに、犠牲者だけが、「妄想」や痛み等々を体験しているというのだから、犠牲者だけに影響するような方法が用いられているのは明らかである;高速音響が催眠状態をもたらしているのだ。

4. しばらくすると、犠牲者は情緒的に衰弱してきて、犠牲者の周りには新しい支援グループが形成される。新たな支援グループは、典型的には聖書中心主義的な教義を持つ教会だが、NSAはカルト等の社会集団を利用することもある。NSAはキリスト教会を好む。というのも、それらの教義が、「神あるいはイエスが犠牲者に直接語りかけている」からであり、ネガティブな増派隊はサタンに属し、ポジティブな報酬は神の祝福だという考えを可能にする結果、NSAのテクノロジーとプロセスが蔽い隠されるからだ。NSAは、犠牲者を宗教に目覚めさせ、「キリストに人生を捧げ」させるような関係を用いて、犠牲者を全面的にコントロール可能にする場合もある。

5. 犠牲者は徐々に、ダメージを与えられた不愉快な催眠から解放され、それは「神とイエスは暮らしの中で働きかけてくれる」というポジティブな報償的な催眠で置き換えられる。すぐに犠牲者は、イエス(ことNSA)に対して全面的に忠誠を感じ、イエス(NSA)の命令とあらばどんな事でも行うようになる。

6. 犠牲者は、日報を提出するよう求められるのだが、これは、彼らの自宅やオフィス、あるいはクルマの中でこっそりと祈りという形で行われ、こうした祈りをNSAの電子監視装置が捕捉して、「キーワード」に従って分類するのである。「日報」の内容次第でNSAは、「神の意志」によるものと犠牲者に信じさせつつ、懲罰や報償や指示の形で、さらに催眠を加える。犠牲者がNSAの指示に反抗するようなことがあれば、さらに懲罰が追加で加えられる。

7. 教義/指示に従わないようなことがあれば、他の「クリスチャン」が監視し、批判し、祈りの形でNSAに報告を行うというシステムに、犠牲者は組み込まれる。かくして、新たに接近してきたこの仲間たちは、予め施された訓練に従って、犠牲者に問題があればNSAに報告を行う行動強化メカニズムとして機能するのだ(これは、第2次世界大戦におけるナチスのゲシュタポその他の、ファシストのアプローチに似ている)。

8. NSAの行動修正プログラムが成功裏に完了した場合、犠牲者はイエス(NSA)に対して奉仕しながら、その後の平凡な人生を生き延びることになり、NSAによる報復を恐れて、教会あるいはニュースメディアに波風が立つようなことは決して行わない。犠牲者の人生は比較的に非生産的なものとなる。というのも、彼らの関心は専ら「来世」にあり、生きている間に何を成し遂げるかはどうでもよくなるからだ。彼らは「現世での活動」を避け、普通は混乱状態のまま、合理的思考や概念に関わろうとしない。例えば彼らは、聖書に出て来ないもの、すなわち、恐竜や進化、宇宙旅行など信じない。そのくせ、聖書には出て来ない飛行機に乗ったり、テレビを見たりするのだ。
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※ジェイムズ バムフォード (著), 滝沢 一郎 (翻訳) 『パズル・パレス―超スパイ機関NSAの全貌』からの引用とされていますが、実際は
http://www.whale.to/b/nsa4.html
からの引用です。。


このような情報のリークが「許された」事が、またしてもディスインフォメーションのルールに従いつつ、これらの団体によって宗教が利用されていることを意味するとしたら、真に隠されている問題は、宗教が超次元の存在の行うタイムトラベルによってでっち上げられたことだと考えてよいだろう。だが、人的要因もまた無視することはできない。

ここで私は、ゲームの理論がどんな風に応用されているか、タイトルから読者が幾らかでも理解できるよう、この理論に関する本と論文を選んだ短いリストを提供したい。

これらは出版が許されたものだけであることに留意されたい:


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1928年、ジョン・フォン・ノイマン『ゲーム理論』

1930年、F・ツォイテン『独占および経済戦争の諸問題』

1944年、ジョン・フォン・ノイマン&オスカー・モルゲンシュテルン『ゲームの理論と経済行動』

1950-53年、ジョン・ナッシュの4論文:
『N人ゲームにおける均衡点』(1950);『非協力ゲーム』(1951);『交渉問題』(1950);『2人非協力ゲーム』(1953)

1953年、H・W・クーン『展開型ゲームおよび情報の問題』;モデレーターが各プレーヤーの決定を行う順番を指定する展開型ゲームと、ゲームの全ての段階においてプレーヤーが持っている情報に関して仮定を行う場合の問題を扱っている。

1954年、L・S・シャープレイ&M・シュービック 『委員会システムにおける権力分布を評価する1つの方法』 シャープレイ値を提唱し、国連安保理常任理事各国の権力を判定した。

1954-55年、『軍事追跡ゲームの形成と解決における諸問題』 ランド研究所のR・アイザックスによる研究覚書。全4部;いずれもタイトルに「微分ゲーム」という言葉を含む。

1955年、R・B・ブライトバイテ『倫理哲学者のための道具としてのゲーム理論』

1959年、マーティン・シュービック『戦略および市場構造:競争、寡占とゲーム理論』

1960年、トーマス・C・シェリング『紛争の戦略』

1961年、リチャード・C. レウォンティン『進化とゲーム理論』

1962年、D・ゲール&L・シャープレイ『大学入学と結婚の安定性』

1965年、ルーファス・アイザックス『微分ゲーム:紛争、追跡、制御、最適化への数学理論の応用』

1966年、ジョン・ハーサニ『ゲーム状況における合理的行動に関する一般理論』 取引 ― 合意、約束、脅迫 ― が完全に拘束的かつ強制的である場合、ゲームは協力的となる。取引に強制力が無い場合、それは非協力的となる。

1967-68年、ジョン・ハーサニ 『不完全情報下におけるべイジアン・ゲーム』 経済学およびゲーム理論の1大テーマとなった、情報の経済学の理論的基礎を築いたもの。

1972年、ジョン・メイナード・スミス『ゲーム理論と闘争の進化』

1973年、ジョン・メイナード・スミス&G・プライス『動物たちの闘争の論理』

1973年、アラン・ギバード『投票スキームの操作:一般的結論』

1974年、ロバート・オーマン&ロイド・シャープレイ『ノン・アトミック・ゲームが取り得る値』 個々のプレーヤーがいずれも重要性を持たない、大規模ゲーム(ノン・アトミック・ゲーム(プレイヤーを分割可能な主体とみなしたゲーム))が取り得る値を扱ったもの。

1976年、ロバート・オーマン『見解の相違を認め合う』 全員がある出来事を知っており、そうであることを全員が知っており、それをさらに全員が知っている。。。と無限に続くならば、その出来事は当事者間で周知の事実である。

1981年、ロバート・オーマン『繰り返しゲーム概観』 繰り返しゲームのプレーヤーにオートマトンの概念を初めて適用した。

1985年、J・F・メルテンス&S・ザミル『不完全情報ゲームに対するベイジアン分析の構築』 各プレーヤーが持っている筈の全ての私的情報を含むに十分な組み合わせが原理的には構築可能だと示した。
http://www.econ.osaka-cu.ac.jp/kitahara/micro/151125Bayesian.pdf

1988年、タン&ベルランク『ゲームの解概念のベイジアン的基礎』 ナッシュ均衡と合理化可能性の概念の背後にあるプレーヤーの知識に関する仮定を正式に論じるもの。
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偶然ながら、私たちを訪ねて来て、カシオペアン交信文を手にして去って行った経済学者は、ベイジアン計量経済学(ベイズ理論)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=39852
の専門家だった。

2人かそれ以上の人たちがやり取りするとき、戦略的行動が発生し、各人の決定は、その人がゲーム相手にどうして欲しいかによって決まる。不完全情報はゲーム理論の中心問題である。どんな情報が手に入り、活用されるか否かをコントロールする結果、その情報をコントロールしている人の有利に「札が配られる」ことになる。人々は「利得」に基づいて選択する。彼らは、利得の低い結果よりも利得の高い結果を常に選好するという意味において「合理的」である。人々は、他人が何をするかに関する信念に基づいて決定を行う。信念の問題に出くわすとき、いわゆるベイズ理論によってコントロールされる領域に、私たちは足を踏み入れることになる。この解決策は、様々なプレーヤーの知識ないし信念を仮定するという考え方の上に築かれている。

ゲーム理論においては、プレーヤーたちがどんな知識や信念を持っているかを知るベストな方法も、必勝法を編み出そうとするプレーヤーに役立つような情報を隠ぺいするのに役立つ信念をでっち上げることで、いとも簡単にコントロールされてしまうのである。

ニューエイジの宗教をこしらえ、ないしはニューエイジのコインテルプロを実行するのも、おそらくは人類の持つ情報を限定し、信念を操作可能にするゲーム戦略の一環だろう。このようにしてコントロールシステムは他のプレーヤーたちが正確に反応してくるという自信を持って、「支配戦略」をプレーできるのである。


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宗教は悪魔が成し遂げた中でも最大の業績である。宗教の名の下で、彼は大胆不敵なクーデターを起こした。酷い事に、彼は神をよそおった。彼は我々に身を屈めさせ、彼を拝ませた。彼は神聖であると称して、我々にあらゆるタイプの悪を行わせた。彼は自分の偏見を神の意見だと言い繕った。彼は人類を仕向けて、同胞を「内」と「外」、信者と無信仰者、救われる者と呪われた者に分けさせた(※「我々」対「彼ら」)。彼は我々に、神が好きなのは我々であって彼らではないと思い込ませた。そして、彼らには、神が好きなのは彼らであって我々ではないと思い込ませた。それから彼は、暗く輝く鞭を振り下ろしながら、忠実な羊たちの群れに警告するのである。「私の他は誰にも注意を払わないよう気を付けなさい。というのも悪魔はずる賢いオオカミで、きっとあなたたちを騙すからだ」
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ティモシー・フリーク
http://starpeople.jp/hensyu-bu/20150401/3499
&ピーター・ガンデイ『イエスと失われた女神 原始キリスト教の秘密の教え』
http://masaharu-takenaka.jp/data/200306-01.htm


第2次世界大戦は「科学者の戦争」として知られていた。ロックフェラーとバンバーガーの資金が、プリンストンをこの地球上における数学という宇宙の中心にすべくお膳立てをした後、プリンストンの数学者たちは、暗号解読や、弾道の科学、敵陣の統計分析等々に従事していたのだ。プリンストン出身の科学者たちは、レーダーや、赤外線探知、爆撃機、長距離ロケット、魚雷、その他の破壊兵器の開発においてブレークスルーを成し遂げた。兵器の効果測定や兵器の効果的な使用法、最大の殺傷効果は何トンの爆弾で得られるかといったことの評価には、数学者が必要だったのである。

もちろん、やがて登場したのが原爆である。

第二次大戦が終わる頃には、数学が科学の王様だということを疑う者は、アメリカ政府には最早居なかった。新理論と洗練された数学によって、彼らは戦争を優位に進め勝利することができたし、数学者 ― 主としてプリンストンの ― は、それに続く繁栄を謳歌したのだった。さらに重要なことに、数学は最早、暇な紳士のためのものではなかった ― 才能ある人々に広く門戸を開放した分野だったのである。ユダヤ人、あるいは異国人であろうが、ブルックリンの路上生活出身であろうが、関係なかった。才能さえあれば、プリンストンは欲しがったし、食べていけた。この当時、数学者が食べていけない分野はなかった:位相幾何学、代数学、数論、コンピュータ理論、オペレーションズ・リサーチ、そしてもちろん、ゲーム理論もあった。

当然ながら、彼らはナッシュを欲しがった。そこでまた浮かぶのが「なぜか?」という疑問である。

私は、シルヴィア・ナサーが十分な調査の上で書いたジョン・ナッシュ伝を、大いに興味を抱きながら読んだ。中でも実に引きつけられたのは、彼の子ども時代の部分だった。引用注記(※邦訳書では省かれているようです)から判断する限り、ナサー女史は、情報を得るために、オリジナル・ソース ― ナッシュの姉や先生、子供時代の知人、学校の記録、地元紙等々 ― に当たっている。彼女は情報収集は徹底的に行う一方、それの解釈は殆ど試みていない。彼女は言われた事や発見した事を単に物語っているだけなのだ。これは素晴らしい出来栄えの純粋なレポートとなっているのである。そして、前章でも述べたように、私は自分が読んでいるのが殆どそのまま、フランク・スコット自身が語った彼の子ども時代の物語であることに気付いたのだった。

私たちは最近、サイコパス(またの名を「反社会的人格障害」)について調査を行ったので、私はナッシュ伝を読んでいて、ナサーが詳細に述べているのがサイコパス人格なのだと気付いた。有り体に言えば、ナッシュは「後年MITの同僚の数学者には、『子どものころはときどき動物を痛めつけて楽しんだよ』とも語っていた」(ナサー著塩川訳『ビューティフルマインド』48ページ)のだ。

この本を読み終えた時、ナッシュのいわゆる「妄想型精神分裂病」は、サイコパスと「マインドコントロール」の結果だと言った方がうまく説明できるだろうと私は思った。その始まりも、症状も、後に寛解した事も、幾分謎めいているからだ。ナッシュ伝を読んでいる間私は、サイコパスが「エイリアン・リアクション・マシン」だと述べている、別の記事(ジョン・B・ホーン、2000年)
http://www.friedgreentomatoes.org/articles/psycho_personality.php
のことを考えていた。

これからご紹介するように、他にも幾つかの結び付きがあるのだが、これが意図的な陰謀なのかどうかの判断は、読者にお任せしたい。これから暴くことになる全体像が恐ろしいものなのは確かだ。

もちろん私は、精神科医でも心理学者でもない。私は催眠術の「技術者」としての腕はかなりいい方だと思うが、どんな具合だとうまく機能していて、どんな具合だとそうではないのかを判断する上では、自分が学び、実施し、観察してきた職業的臨床医のためのセラピー・モデルに従うことを常に支持してきた。だからここでもまた、「問題の本質についてはこう思う」というような大胆な意見を述べることはしないでおこうと思う。それは、私が人さまの精神状態を診断する訓練を受けている訳でも、資格を認められている訳でもないからだ。私としては単に、このテーマに関して集めた情報を提供するにとどめ、読者の判断に委ねたいと思うのである。

私が読んだリサーチによれば、こんにちのサイコパス問題はどれだけ誇張してもし過ぎることはないのだ。端的に言って、この現象は拡大しつつあり、きっと近いうちに、私たち皆にとって、個人的にも集合的にもインパクトを及ぼすことになろう。そしてサイコパスについて理解することはまた、ゲーム理論および、現今、神々による秘密のゲームで駒を動かす際の基礎動力学としてそれがどのように利用されているか十分理解するうえでも極めて重要である。このテーマに関しては非常に多くの文献が存在しており、私がこれから紹介するのは、ほんの上っ面をなでる程度である。だが、読者各位におかれては、出来る限り早い機会に、このテーマについてご自分でリサーチすることをお勧めしたい。カシオペアンが言うように「知識は守る」のであり、サイコパスの機能の仕方に関する知識は、あなたの命を救うことになるだろう。

沢山の書籍や論文を読み、他の人々との数多くの経験を思い出して検討を加え、そうしてやり取りを評価する手掛かりを探した結果、私の好みに合ったのは、ロバート・ヘア博士の著作だった。私自身の経験からして、彼が公表している専門的意見が、最も簡にして要を得ており、実に現実的で、実践に役立つ内容が簡潔な言葉で述べられているという風に私は思う。彼の著作に関して最も重要なのは、サイコパスが環境の産物であるという言い訳ができないことを極めて分かりやすく説明していることだ。「生まれか育ちか」論争では、「生まれ」の圧倒的勝利となっている。このことが持つ私たちにとっての意味合いは実に深い。何か、あるいは誰かが、歴史上の現時点で、広く増殖し多くの「子孫」が生まれるように、この種の遺伝子を仕込んだらしいのだ。ナッシュを見てみれば、私たちが直面している、連中のプログラムの中の「実験」がどんなものであるかが、ずっとよく分かってくるのである。


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(サイコパス)というのはひとつの人格障害であり、いくつかの特定の行為や人格特性によって定義されるが、その大半は社会から悪いものと見なされている。したがって、ある個人を軽々しくサイコパスと診断することは許されることではない。ほかの精神障害と同じように、診断は、すくなくともその障害を決定づける最低限の基準を満たしているという証拠の積み重ねに基づかなければならない。
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ロバート・D・ヘア/著 小林 宏明/訳 『診断名サイコパス 身近にひそむ異常人格者たち』11ページ


ヘアがサイコパスの心理については、「いくつかの行為」から推し量ることしかできないと述べていることに注意されたい。これがこのテーマの孕む大問題の1つなのだ。サイコパスは、自分に欠陥があるなどと考えすらしないのであり、この結果、たとえ誰かを騙そうと計画し、勾留されて精神鑑定されようと、進んで精神科医の助けを求めようとは思わないのだ。そうした場合でも、サイコパスという本性のゆえに、このような面接で彼らが明かしている内容が彼らの心中に実際に去来している事を正確に表しているかどうかは、大いに疑わしいのである。だから、本物の生きたサイコパスが自首して、心中に去来している事の真相を述べたとしても、それは真実ではないのだ。しかし、近年、サイコパスである囚人についての先進の脳研究テクノロジーを駆使した研究も数多くなされており、こうしたテクノロジーは、「真実」と「偽り」を区別するのにかなり役立っている。

多くの人々は、サイコパスというものは全て、テッド・バンディやジョン・ウェイン・ゲイシーのような危険な犯罪者だと考えているが、これは、私たちが知っているサイコパスが犯罪者だけだからである。言っておきたいのだが、全ての犯罪者がサイコパスである訳ではないし、殆どのサイコパスは犯罪で有罪となっていないらしいのだ。事実はと言えばどうやら、事例研究の対象となっているようなサイコパスは言ってみれば「あまり出来のよくない」者たちだけであり、だからこそ捕まって投獄されているということのようなのだ。本当に出来のいい連中は刑務所に入っていない。何とも恐ろしいことではないか!全人口中における本物のサイコパスの数を見積もるのはとても難しいが、1つだけ確かだと思われるのは:その数が急速に増えているということだ。


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1世紀以上にわたる臨床研究や考察、それに数十年にわたる科学的調査にもかかわらず、サイコパスの謎はいまだに解明されていない。最近の研究の進歩によってこの人格障害には新たな光があたってきたし、その境界はさらにはっきりはしてきた。しかし、ほかのおもな障害とくらべて、サイコパスに関しては体系的な研究がいままではほとんどなされてこなかった。たとえそれがほかのどんな精神医学的障害よりも社会不安や崩壊を引き起こしているとしてもだ。
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小林訳277ページ


これは驚くべき言葉である ― サイコパスは、ほかのどんな精神医学的障害よりも多くの有害な影響を社会に及ぼしているというのだ。だから、この事に気づいている人は殆ど居ない。人びとは、統合失調症(精神分裂病)や双極性障害、それにADHDについてはよく知っている。というのも、これらにはいずれもつける薬があるし、ある程度コントロール可能だからだ。そしてまた、これらが無力にするのは当の個人である。逆にサイコパスで重要なのは、他の要因がない限り、これらが無力にするのは当の個人ではないということだ。サイコパスの場合は概して常に、連中自身はうまくやって行くのである。皆さんは「サイコパスは不適応ではないのか?」と問われるだろう。答えは恐るべきものだ:サイコパスは社会に対しては不適応かも知れないが、連中自身にしてみれば、適応しているのである。

サイコパスの顕著な特徴は、驚くほど良心が欠けていること、そして、他人を犠牲にしてまで、自らの欲求を満たそうとすることだ。サイコパスは冷淡で計算高い合理性を持つ一方で、他の人々を、考え/感じる存在だとは想像すらできない。このような不可解な行動を目撃した私たちが感じるのは、困惑と無力感である。しかし、重要なのは、十分な回数だけ傷つけられて、何ごとも見た目通りではないらしいと鋭敏に察知し気付くまでは、このような「内面の」光景を「目撃」したことにはならないということだ。このような連中を実際に見分けるには気付きを十分に高め、疑わしい相手がとっているのが、言葉とは裏腹の行動 ― ドン・ファンが「システマチックな嫌がらせ」と呼ぶもの ― であって、実際には私たちのためなど思って居ないかどうかを「テスト」しなくてはならない。このようなテストを行うことで、サイコパスの本性を十分に「暴き出す」ことができるのだ。しかし、その正体が十分明らかになっても、殆どの人は、自分の見ているものを信じられないだろう。犠牲者だけが真実を知っているのであり、これから見て行くように、犠牲者たちの洞察は概して無視されるのである。


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善良な人たちが疑い深いことはまれである。自分にはとてもできないことを、ほかの人がやるなんて想像もできないからだ。通常、彼らはドラマチックでない解決を正しい解決策として受け入れ、問題の原因などはそのままにしておく。さらに、まともな人たちはサイコパスを、心のなかと同じように外見も怪物的だと思いがちだが、事実はまったくそれに反している。。。通常、現実のモンスターたちは、ほんとうにノーマルな彼らの兄弟や姉妹たち以上にノーマルに見えるし、実際、そのようにふるまう。彼らは、徳そのものがもっている内容以上の徳をもっているかのごとく人に思わせてしまう ― ちょうど、蝋でつくったバラのつぼみやプラスティックでできた桃のほうが、実物は不完全な形であったのに、私たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういうふうでなければならないと私たちが思い込んでしまうように。
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ヘアの小林訳前掲書の扉に引用されているウィリアム・マーチの『悪い種子』。


このテーマに関する文献を読むだけでも、普通の人ならば、本物のサイコパスと一緒に暮らし、あるいは、付き合う悪夢の日々について分かってくるだろう。嘘、ダマシ、操作が、連中の生まれ持った才能である。連中は連中自身と連中の欲しいものを手に入れる事にのみ全面的にフォーカスした想像を逞しくし、嘘が発覚する可能性 ― それが確実な場合もある ― になど、信じられないくらいに無関心なのだ。嘘がばれたり、真実を突きつけられても、連中は殆ど全く戸惑わない!連中は問い詰めた人の注意を逸らし、ストーリーを変更し、あるいは、元々の嘘と、より整合のとれた事実を作り直すだけである。その結果、問い詰めた人の方が混乱してしまい、混乱したのは自分の落ち度だと思いこむような目に遭うことになるのだ。

サイコパスのつく嘘にはまた、聞き手が完全に信じ込んでしまう、感情の「引き金となるような言葉」が大量に散りばめられている。事情に通じた心理学者や精神科医でさえ、サイコパスにはしょっちゅう騙されているのだ!ヘアが挙げている、あるケースは面白いぐらいに恐ろしい。というのも、ある面接官のノートに、つぎのような記述があったというのだ:「他人にとてもいい印象をのこす」、「誠実で率直」、「人とのコミュニケーションがうまい」、「知的で頭脳明晰」等々。けれども、自分の記録を読み返したあとでその面接者が学んだことは、彼の言ったことがどれひとつ真実ではなかったという事実だった。(小林訳91ページ) 彼の記録の一語一句が、まんまと騙された結果だったのである!

感情を伝えようとしてサイコパスが使う言葉の研究は示唆に富む。シルヴィア・ナサーがジョン・ナッシュについて書いているようにだ:


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(582ページ)
ナッシュの人間関係のなかでたびたび見られるように、彼の気持ちはかならずしもいつもそのまま相手に伝わり、相手を喜ばせるようには作用せず、息子を自分のほうへ引きよせようとするときでさえ、冷淡でよそよそしい、と言われかねない言いかたしかできなかった。。。自分を笑いものにした彼のユーモアは、自分の立場をはっきり自覚していることをうかがわせる。悲しみや喜びや愛着心を友人たちに隠すことなく打ち明けるのは、それだけ心が豊かになった証拠である。誰をも公平に扱い、そのことを人々が要求するのを、すなおに認めようと不断に努めている現在の彼は、青年時代にしばしば冷たくて横柄な態度をとった人間とはまったく別人のようだった。
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塩川訳


上の1節から推測できるのは、今や老成した彼は、他人を模倣しなくても生きて行けるようになったということである。ナッシュもまた、本物のサイコパス同様、「適応した」のだ。サイコパスはごく頻繁に、かつ長々と連中の「感覚」について語り、強い感情を味わったと主張する。しかし、注意深い聞き手や質問者が、賢明な質問を行えば分かる通り、サイコパスは様々な感情の機微を述べることが出来ない。連中は、愛と性的刺激を、悲しみと欲求不満を同一視する。研究者が達した結論によれば、サイコパスの抱く感情は、「原始的感情」すなわち、自己中心的なニーズへの原始的な反応に毛が生えた程度の、極く浅いものだという。

「ノーマルな人々」の場合、傷つけられたり、他人を傷つけたりする結果が恐ろしいと感じる気付きが、生活における行動を導き、選択を促している。他者と関わり合いになる場合に、「内なる声」が「どうしたらいいか」教えてくれるのだ。何と言っても、相手には、複雑な社会システムによって培われた権利も感情もあるのだから。これが「良心」と呼ばれるものだ。これは、たとえ外からのコントロールが無くても、私たちの行動を規制する、一種の「内なる警察官」のように振る舞う。これは他人が自分に何を期待し、そして、自分が自分に何を期待しているのかという一連の知覚をもたらしてくれる、一種の内なる自分である。サイコパスはどうやら、この「内心の誘導システム」を持っていないようである。連中は、何が起こり、何が起こらないかについて、冷淡なぐらい冷静に計算することはできるようなのだが、当座の満足/快楽/安堵の類を得ることを第一に行動するのである。

どうか注意いただきたい:サイコパスは他人の権利や感情への配慮によって行動しないのだ。連中は良心を持って居らず、私たちが餌食になるのは、私たちの良心のせいなのである!私たちが連中を感情を持った人間だと知覚するせいで、私たちの行動が抑制され、その結果、私たちは自分が配慮されたいと思うのと同様に連中に「配慮」するのだ;だが、連中の方では、終始抑制など感じていないのである!ゲーム理論の観方で言えば、連中が採るのは、支配戦略である。すなわち、犠牲者には良心という弱点があって、それが邪魔して連中と同様の反応ができない点を、連中は考慮に入れるのだ。

サイコパスは社会のルールや期待を、連中のニーズや要望に対する不便かつ不合理な障碍だと考える。だが、既に述べたように、連中は法を犯して獄につながれるとは限らない。連中は概して賢いからそんな目には遭わないのだ。その代わり、連中は、法に触れないようなやり方で、非倫理的で不道徳な、他人を害するような事を行うのである。このような振る舞いで問題なのは、連中が周囲の人々を残酷に傷つけるのに、犠牲者の方では、外部の人たちに証拠を示したり説明するのが殆ど不可能であるということだ。

義務やコミットメントはサイコパスにとって何の意味も無い。連中は、人や組織、あるいは主義主張に対する正式な/言外のコミットメントというものに敬意を払わない。連中はまた、親としても無責任である。連中は、子どもたちを愛していると主張するかも知れないが、典型的には、子どもたちを長い間、一人っきり、あるいは、信頼できない不適切な人々と一緒にしておくのである。ナッシュが彼の愛人(子どもを産ませておきながら、「養子に出す」べきだとほのめかした相手)や、妻との息子(1年間名前もつけられず、母親と祖父母の間を行ったり来たりして、人生の殆どを過ごした)に対してとった行動の物語から明らかな通り、ナッシュは単なる「無責任な親」などではない ― 残酷な怠け者である。もちろん、「精神異常者」だったという釈明がなされてはいる。だが実に興味深いのは、彼の精神病が、2番目の息子が生まれる直前、養育と責任に対する社会からの期待が彼に寄せられたに違いない、結婚生活の開始とともに始まったということだ。それはまるで、彼のものである何かを、他の人間に与えることを期待されていると考えただけで、自滅に追い込まれるに十分であるかのようだった。


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(塩川訳257ページ)
ナッシュはエレノアに、ジョン・デヴィッドを養子に出したらどうか、とほのめかしたことがある。。。たしかにこれは、不人情この上ない言葉で、ナッシュに対してかすかに残っていたエレノアの愛を断ち切らせるものだった。ただ、ナッシュが養子の話を進めようとしたのは − 息子に対する経済的責任をすべて免れようとして、エレノアに「取るだけ取ってなんのお返しもしない」と言わせたことは別として − 息子は、仕事を抱えた女性がひとりで育てるより、どこかの中流家庭の夫婦が育ててくれたほうが、人生でより大きなチャンスがつかめるだろう、と本気で考えていたらしいことがせめてもの救いかもしれない。。。(ナッシュは、付き合いはじめたばかりの女が妊娠したと聴いて、若い男がたいていするふたつの反応のどちらもしていない。やむをえない結婚という男らしい態度も、もっとよくある、自分が父親ではないとい言い張って女から逃げ出す卑劣な態度も、とらなかった。むしろ、)どこから見ても利己的で、冷酷とさえ言える道を選んだ。息子を貧困から守ることもせず、断続的ではあれ母親から引き離すにまかせながら、自分が父親であることだけは主張して、いつまでもつながりを維持しようとしたのだ。ジョン・デヴィッドや他の人たちは、こうした態度をまぎれもないナルシシズムの証、とのちに考えるようになる。
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上の1節で気付くのは、ナッシュが発した言葉と彼の行動が明らかに食い違っているということだ― サイコパスの兆候の1つである。

サイコパスは難を逃れるのが途轍もなくうまい。連中は「教訓になったよ」とか、「約束するよ。こんな事は二度と繰り返さない」とか、「こんなことは誤解も甚だしい。忘れて前に進もうじゃないか」といった言葉を何度も繰り返すものだ。これは普通うまく行くのであり、これが効かないと分かるまで、ナッシュは一体何度、このような言葉を使って難を逃れたことだろうか。だが、実際にはついに年貢の納め時がやって来て、彼はクリアランス(極秘機密取扱許可)も、実入りのいいコンサルタント契約も失うことになるのだった。

1950年、ナッシュは、空軍の出資で作られた秘密の民間シンクタンクであったランド研究所にコンサルタントとして雇われた。そこでは秀才たちが、核戦争やゲーム理論のような難問の解明に取り組んでいた。ランドの理想は、軍備による生存の合理化崇拝という、地政学的妄想/パラノイア/誇大妄想だった。そのミッションは、合理的分析および最新の計量的手法を、核兵器 ― 破壊ないしは抑止の道具 ― の最も効果的な使用方法という問題に適用することだった。ナサーは、ランドが、「高度に知能の発達した社会科学者(心理歴史学者)たちが、銀河系を混乱状態から救い出す様子が描かれているアイザック・アシモフのSF小説『ファウンデーション』(『銀河帝国興亡史』シリーズの1)のモデルともなった」と述べている。(塩川訳149ページ)

ナッシュは、他の多くの数学者と共に、ランドという秘密世界に仲間入りした。第2次世界大戦後、沢山の数学者と科学者が、戦争継続のため、軍の研究機関にリクルートされた。しかも、ゲーム理論は、戦争中に現れたあらゆるアイディアの中でも、最も高度なツールと見做されていたのである。ランドは軍の極秘機密に関与していた。

ナッシュはランドの奇人たちの中でも傑出していた。「青い制服を着たランドの警備員と管理人は、格好の気晴らし対象にされた。彼らはいつも、建物を出て4番街を北に向かうナッシュを見守っていた。ナッシュはひどくわざとらしく爪先立って歩き、鳩の群れにしのびよると、やにわに走り出して『蹴ちらそう』とするのだ」(塩川訳164ページ)

実にイカした男のようだ。幼少期に動物に残酷であることは、サイコパスであることのほぼ決定的な証拠である。大人になってから、連中は他人に子ども時代の残酷さは、成長過程で起きる「普通の出来事」だと話すのだろう。連中はそれが「楽しかった」と語り、おそらくは大人になる過程で共通の特徴だとすら見做すかも知れない。ナッシュが生き物とは、つきまとって傷つける対象だと、長じた後もなお見做していたというのは、真剣に憂慮すべき事実である。

1954年、ナッシュはパリセーズパークで逮捕された。「公然猥褻罪」に問われたのだ。ランドの保安部長リチャード・ベストが逮捕の知らせを受けた。ナッシュが公衆便所に入って男を誘ったというのだ。
ベスト「ナッシュは、猥褻物陳列罪で逮捕されました。アレの頭を出して、男を誘ったのです。つまり、ペニスを出してそれをさすった、ということです」(塩川訳268ページ) 唯一問題だったのは、その男が警官であることだった。

ナッシュはクリアランスを持っていた。「新ガイドラインは、同性愛の疑いのある人間がクリアランスを持つことを厳禁している。犯罪行為および『性的倒錯』は、クリアランスを拒否または没収する大きな理由となっていた。脅迫に弱い − これは、オープンにしているいないに関わりなく、同性愛者すべてに対する見方だった − ことだけでなく、『分別に欠ける軽はずみな性格』をちらとでも示すこともりっぱな理由とされた」(塩川訳266ページ) ベストがナッシュに向かって、「クリアランスは取り消しだ。あなたはすぐにここを出て行かなくてはならない」と言ったその時、ナッシュは動揺も当惑もしなかった。これもサイコパスの兆候である。連中は感情を持って居ないので、困惑することなどあり得ないのだ!

「ベストは述べている。『ナッシュは、事態を大したこととは思っていないようでした。警官を誘惑しようとしたことなどないと突っぱね、自分をホモだと考えるのはばかげている、と嘲笑う様子さえ見せたのです。「わたしはホモじゃありません」』 ベストは、ナッシュの言ったとおりを繰り返した。『「わたしは女性が魅力的だと感じます」』。そう言いながら、体をもぞもぞさせるので、ベストは何ごとかといくらか驚いた。『ナッシュは、財布から写真を1枚取り出しました。ひとりの女性と、男の子が写っているものです。「これが、わたしが結婚を考えている女性と、わたしたちの息子です」』」(同268ページ)

ベストは明らかなサイコパス的策略を無視して、ナッシュに対して、この「事件」をどう説明するかと尋ねた。ナッシュは「筋肉たくましい男たちの、行動特性を観察していました」と繰り返したという。(※ランドのあるサンタモニカの埠頭近辺はマッスル・ビーチと呼ばれるボディービルダーのたまり場だった由)
確かにそうだろう。その後で、1ドル払ってしけこむという寸法だ!

シルヴィア・ナサーは、本件について、一体ナッシュは内心どう思っていたのだろうと疑問を発しつつ、こう述べている:


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その(=ランドを去ろうとしていた)期間中、ナッシュの心をよぎったのはどんなことだったのだろうか?怒りか?落胆か?怯えか?。。。ランドに、決定を再考してもらおうとはしなかったのか?もちろん、普通は誰もそんなことはしない。ナッシュの立場に立たされたら、スキャンダルが表沙汰にならないよう、不面目を誰にも気取られないよう、何ひとつ文句を言わずにこっそりと立ち去るのが一番、と考えるものだ。

ナッシュは、これまでに似たような状況 ― これほどひどくはないが − で学んだ方法で身を処した。不気味なほど静かに、何ごともなかったようにふるまったのだ。さながら、いっさいは一種のゲームか、人間の行動に関する興味深い実験ででもあるかのように、自分が演じたドラマの観客役に徹し、自分はもとより周囲の人間の感情には目もくれず、事態の成り行きとその波紋だけを見守った。。。(その年の9月に、家に書き送った。。。はがきで彼は。。。)ランドにおける自分のクリアランスに関して、ちょっとした問題が起きたが、それはMITの指導教授ノーマン・レヴィンソンが元共産党員で、その年HAUCに引き出されたためだ、と記した。。。
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塩川訳269ページ
(※Wikipedia:下院非米活動委員会、The House Committee on Un-American Activities、HUAC)は、アメリカ合衆国議会下院委員会のひとつ。冷戦時代、いわゆる「赤狩り」の舞台となった。)


サイコパスの行動として、これ以上典型的なものは殆ど想像がつかない。しかしナサーも、私たちとは異なり、ナッシュの行動が他の人々と同様のものだったという仮定のもとに、答えを探し求めた。彼女は、ナッシュがスキャンダルや不面目を怖れたのではないかと思った。彼女には、ナッシュに良心が無いとは理解できなかったのである。だが、そのようなものは彼という人間の構成要素には無かった。

良心は結果を想像する能力に依存するのだろう。だが、殆どの「結果」は何らかの形で痛みに関係があり、サイコパスは感情的な意味での痛みを理解できないのである。連中は、自分が欲しいものが手に入らないことによる欲求不満は理解できる。それが彼らにとっての痛み(苦痛)なのだ。しかし、事実はと言えば、連中はゲーム論的な状況評価のみに基づいて行動しているようである:すなわち、それから何が得られ、コストはどれくらいか?というものだ。ここで言うコストは、恥をかくとか、痛みを伴う、将来をダメにする、その他、通常の人々が選択を行うときに考慮するような可能性とは関係がない。つまり、サイコパスの内面生活など、通常人には想像することさえ殆どできないのである。

こうした内面を持つサイコパスは、真に際立った能力を発揮する:連中が熱心に興味を持った何かに専念する能力だ。臨床医たちはこの能力を、獲物を追いかける捕食者の集中力に喩えている。これは変化の殆どない環境では役に立つが、実生活の殆どの場面では、同時に沢山の事に注意を払うことが求められるものだ。サイコパスはしばしば、連中が欲しいと思うものに集中しすぎるあまり、危険信号を見落としがちである。


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例えば、サイコパスの中には、第2次世界大戦中、くるぶしに噛み付くテリアのように執拗にターゲットに食い下がるということで、怖れを知らぬ戦闘機乗りとして評判を得た者たちが居る。だが、このようなパイロットはしばしば、燃料補給や高度、位置、ターゲットでない敵機の居場所といった、些末な情報に対する注意を怠った。彼らはヒーローになることもあったが、死んでしまうことの方がずっと多かった。さもなければ、自分の興味ある事しか気にかけない御都合主義者、1匹オオカミ、あるいは、名手ではあるが信頼のおけない奴として知られるようになった。
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(Hare, 1999)
※邦訳書ページ?


ナッシュはこの特質を、数学の分野で如何なく発揮した。しかし、ナッシュは数学のための数学には興味が無かった ― 彼が取り組む問題は他の人から見て重要であり、その結果、それを解くことで注目され、彼に栄光が帰せられるものでなくてはならなかった。ナッシュは、注目に「値する」ほどに、十分重要だと確信できない問題には取り組もうとしなかった。だが一旦やると決めた時の彼の「集中力」は並大抵でなかった。


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(塩川訳234ページ)
孤独に耐えられ、自分の直観に確固たる自信を持ち、周囲の批判を無視できるナッシュの性格 − 若いころは鼻もちならないものだったが、いまでは顕著で侵しがたい特質となっている − が、非常に有効に作用した。。。難問に挑むナッシュのひたむきな姿を、もっとも的確に描写したのは、ユルゲン・モーザーであろう。


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(レヴィンソンが指摘した)困難は、まともな人間なら尻ごみをし、問題を投げ出してしまうものでした。でも、ナッシュは違いました。ひとつの予感さえあれば、ありきたりの批判には耳も貸さなかったのです。ナッシュに、特別の背景知識があったわけではありません。ただ、一種の超自然的な触覚に動かされていたのです。どうしてそんなことができるのか、誰にもわかりません。わたしの知るかぎり、ナッシュはそうした能力を身につけている唯一の人間です。野獣的な精神力の持ち主、とでも言ったらよいのでしょうか。
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塩川訳


サイコパスは極端なほどに人の気を惹く ― エキサイティングですらある! ― という事を今一度強調しておくべきだろう。連中は聞き手が席を立てなくなるくらいに、魅惑的なエネルギーを発するのだ。たとえ、サイコパスの言う事にショックを受け、反発を感じるような通常人が居たとしても、彼らはいたぶるためにネコが催眠術をかけたネズミ同然である。走って逃げ去るチャンスがあっても、彼らはそうしないのだ。サイコパスの多くは、犠牲者の信頼を得ようとして、魅了したり、詐欺、操作といった手段を用いることによって、「生計を立てている」。連中の多くは、ホワイトカラーの専門職に就く。大抵の人々は、社会的/専門的資格を持った、この階級の人間が信用できると思っているため、悪事を働きやすいからだ。弁護士、医者、教師、政治家、精神科医、心理学者は、一般的に、その地位のお蔭でいちいち私たちの信用を得ようとする必要がない。しかし実際には、このような高尚な専門領域にも、サイコパスは見つかるのである!

それと同時に、サイコパスは詐欺の名人である。連中は、名声と権力をもたらす専門職に就くためなら、経歴を偽造したり、ずうずうしくも印象的なように改竄することに何の躊躇も感じない。連中は、必要とされるスキルがある風を装うことがた易く、専門用語が覚えやすく、経歴を徹底してチェックされることが無いような専門的職業を選ぶ。サイコパスは、会計コンサルタントや、大臣、心理カウンセラー、心理学者に見せかけるのが極くた易いと気付いている。何とも恐ろしい考えだ。

サイコパスは、人びとをダマして連中のためになることをさせ、その結果出世を果たす;人びとからお金や名声や権力を獲得し、真実を暴かれそうなときには、人々のために立ち上がりさえするのだ。だが、これは連中の得意技である。これが連中のやり口であり、連中は上手にやってのける。しかも、これは実にた易い仕事である。というのも、大抵の人々はうぶで、人間は生来善良なものと信じ切っているからだ。

操作は、サイコパスが征服を行う上でのカギである。サイコパスは共感を誘おうとして偽の感情を装うことから始めるのだが、結果、その多くは、「共感」というテクニックを行使できるようなトリックを学ぶ。サイコパスは往々にして、人々の同情を買うことができる。というのも、連中は、グーゲンヴィル=クレイグが述べているように、「途方に暮れた人」に見えるからだ。だから、同情という要素は、しばしばこの「気の毒な」人々に犠牲者が騙される理由の1つである。

ヘアは、1人のサイコパスが、自身の住む小さな町の「マン・オブ・ザ・イヤー」となって、商工会議所の会頭に就任した有名なケースを取り上げている(ジョン・ウェイン・ゲイシーが、最初に殺人で有罪判決を受けたその年に青年会議所(JC)の会頭に立候補した!ことを思い出されたい)。この男は、バークレーで博士号を取得したと主張していたのだ。彼は教育委員会の要職にも立候補し、その後、郡政委員になる計画に全力を注いだ。こっちの方が実入りが良かったのだ。

そのうち、ある地元のレポーターが突然、この男を ― 経歴が本物かどうか ― 身元調査しようと思い付いた。その結果、この新進気鋭の政治家の「偽の経歴」のうち、正しかったのは出生地と生年月日だけであることが判明したのである。他の全てが架空のものだった。彼の経歴は完全な偽造だっただけでなく、長い事反社会的行為や詐欺、なりすましを行い、刑務所にも入っていた。彼と大学との唯一の接点は、レブンワース連邦刑務所に収監されていた時に通信教育の公開講座をとっていたというものだった。さらに驚くべきことに、彼は詐欺師になる前から、「詐欺少年」だったのである。20年に亘って彼はアメリカじゅうを逃げ回り、詐欺を働いた相手に追いつかれるのを、あと一歩のところで逃れてきていたのだ。その間に彼は3人の女性と結婚して、彼女たちとの間に4人の子どもをもうけていたのだが、彼女たちがその後どうなったかすら知らなかった。そしてついに、彼は賭けに勝ったのだ!ところが、そこに現れたのが、例の忌々しいレポーターという訳だ!

正体がばれても、彼は全く心配しなかった。「私を信頼してついてきた人々の応援が得られるだろう。うまい嘘がつけないようでは、人を裁くことなどできないのだから」と彼は語ったという。驚くべきことに、彼は正しかった。彼が、何から何まで騙し、完全に嘘をついていた事に憤激するどころか、彼に完全に騙されてきた地元のコミュニティの人々は ― 彼がまだ手にしていなかった未払いの給料を支払い、勲章を与えようとして ―、大挙して彼の支持に回ったのである!

嘘ではない!それは「形だけの支持」ではなかったのだ。地元の共和党責任者は彼についてこう記している:「私は彼の誠実さ、高潔さ、職務への献身は、エイブラハム・リンカーン大統領に並ぶものだと思っている」。ヘアが皮肉っぽく述べているように、この間抜けな責任者は、言葉には簡単に心を揺さぶられたものの、行いは目に入らなかったのだ。


私たちは、直接的かつ個人的経験から、この現象が理解できる。上のケースは、ほぼ悉くヴィンセント・ブリッジスとのやり取りそっくりだからだ。彼の経歴に関して疑問を抱くようになった私たちは ― 並行して、彼の行動の多くを観察したのだが、そうした中には、これ以上犠牲になるのを拒んだ犠牲者たち(私たち)に対する声高な非難もあった − ようやく彼が嘘に長けていることを痛感したのである。実際、彼が公に投稿した嘘や、そしてまた、私たちや他の多くの人々に宛てられ、目撃された、彼およびその一味の嘘が、彼の本性を知る手掛かりとなったのである。彼が違う振る舞いをしていたとしても、私たちが無知から与えた善意に付け込んで、もっと多くのずる賢い詐欺に及ぶまではあと少しだっただろう。しかしながら、私たちは観察によって、彼がしたためた議論が詐欺的な性格を帯びている ― 嘘の上に嘘が際限なく積み重ねられている ― と気づいたので、彼の言うことは、経歴も含め、全てが嘘であるという考えに至ったのは当然の事だった。この考えは正しいと判明したのだが、それはどうやら問題ではなかったらしい。驚くべきことに(少なくとも私たちにとってはそうだった)、ブリッジスの「誠実さ、高潔さ、職務への献身」のゆえに、彼をエイブラハム・リンカーンになぞらえようとする人々には事欠かなかったのである。これはもちろん、サイコパスの成功に寄与する要因だった。

私たちはこれを数か月に亘って観察しながら、一体どれだけの数の人々が、自ら進んでかつがれ、ばかにされようとするものだろうかと首をかしげたものだったが、そんなこともあって、私たちはこの現象をもっと深く研究したのだった。私たちは、どんな類の心理的弱点の結果、人びとが真実よりも嘘を好むよう駆り立てられるのか知りたかったのだ。

これは「認知的不協和」と呼ばれるものと何か関係があるらしい。レオン・フェスティンガーは、1950年代に認知的不協和の理論を開発したのだが、この頃、彼はどうやら中西部の、とあるUFOカルトに出くわしたらしい。このカルトは、世界的な天変地異と「エイリアンによるラプチャー」を予言していた。誰もラプチャーされず、天変地異も起こらなかった時、信者たちがみせた反応を研究した彼は、その結果を著書『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』に詳述したのである。フェスティンガーの観察によれば:


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堅固な信念を持っている人の心を変えるのはむずかしい。もし、私はあなたとは意見が違うんだなどと言おうものなら、その人はそっぽを向いてしまうであろう。その人に事実や数字を示したとしても、その出所に疑問を呈するだろう。論理に訴えたとしても、その人は肝心な点を理解できないことであろう。

私たちは誰でも、がんこな信念を変えさせようとして、むだな骨折りをした経験があるものだ。特に、そのがんこな人が、自分の信念に打ち込んでいるような場合はそうである。私たちは、人々が自分たちの信念を守り、これ以上ないほどの過酷な攻撃からさえも、信念をなんとか無傷なままに保持しようとして、実にいろいろなうまい防御手段を考え出すということをよく知っている。

しかし、人間の機知というものは、ただ単に信念を守るだけでは終わらないものである。たとえば、心からあることを信じている人を考えてみなさい。さらに、その人がその信念に打ち込み、それ故に取り返しのつかない行動をとったとしてみなさい。そして、最後になって、まぎれもない否定のしようもない証拠によって、その人の信念が誤りであったことがわかったとしよう。そのとき、いったい何が起きるだろう?その人は、信念がゆらぐどころか、以前よりもいっそう自分の信念を確信して、人前に立ち現われることが多いことであろう。実際、その人は、他の人々を確信させ自分と同じ考えに改宗させようとすることに、新たな情熱を示しさえするかもしれないのである。
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※実際は3名の共著。水野訳第1章冒頭部分。なお、訳者解説によれば、予言(洪水が1954年12月20日に起きるというもの)が外れた人物とは、シスター・セドラことドロシー・マーチンで、その後の1987年にはマウント・シャスタに本部のある『サナンダおよびサナット・クマラ協会』を率いていたそうです。


どうやら、エゴ、および「正しく」なくてはならないというのが問題の一端であるらしい。「正しく」あるいは「完璧で」ある必要性を強く感じている人々の場合、騙されたと認めることができないようなのだ。「ひねくれたアメリカのカレンダーに書かれている、犯罪への注意を促す言葉の中でも、『カモられる』以上に屈辱的なものはない」(※マックス・ラーナーという人の言葉で、ヘアの原著に引用されているようです。カレンダーに書かれているのは忠告?格言?占い?アメリカ人はこの1文だけ引用して意味が分かるようです。。)
のだ。人々は、騙されたという証拠を突きつけられても、サイコパスに同調し、これに従うのである。というのも、彼らの自我構造が正しくある事に依存しており、自分が間違っているという判定を認めることは、注意深く築き上げた自己イメージを破壊することになるからだ。

さらに驚くべきなのは、騙されたと認めるのを怖れないような人が、サイコパスの悪事を暴露しても、連中は犠牲者を「真犯人」に仕立て上げる達人だということだ。私たちも、フランク・スコットとヴィンセント・ブリッジスから直にこういう目に遭わされたし、これから見て行くように、それ以外の連中も同じやり口を使ってきた。実際私たちも、こういう目に遭ったのが自分達だけではなかったと知って興味深く感じたものだ。ヘアは、40歳の高校教師の3番目の妻のケースを紹介している:


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(小林訳201ページ)
「夫は5年にわたって私を欺いてきました。そして私に恐怖を与え、私の銀行口座の小切手帳まで偽造しました。でも、私の医者や弁護士や友人たちまで、私が悪いように言うんです。彼は、自分がりっぱな男で、私の気が変になりかかっているのだとみんなに思いこませたので、私まで彼の言い分が正しいのではないかと思いはじめています。彼が私の銀行口座を空っぽにして、17歳の女子生徒と逃げても、ほとんどの人はそれを信じてくれようとしません。なかには、彼にそんな奇妙な行動を取らせたのは私がなにかしたからではないかと思っている人もいるんです」

(以下は邦訳書になしか?)
サイコパスは、他人をうまいこと騙すのに必要な素質を持っているのだ:彼らは口が達者で、魅力的であり、自信に満ちていて、気楽な社交家であることが多い;彼らはプレッシャーの下でもクールで、バレないかとうろたえたりせず、全く冷酷である。仮に、悪事をバラされるような事があっても、彼らは何ごとも無かったかのようにし続け、告発した人間が、彼らの犠牲者から告発されるよう仕向けることもしばしばである。

私は、ある囚人の論理に唖然としたことがある。彼は自分の犠牲者が、この犯罪から、「人生についての厳しい教訓を学ぶ」という恩恵を被った、というのだ。
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犠牲者たちはこう問い続ける:「どうして私はこうも間抜けなんだろう?信じられないような出鱈目ばかりなのに、どうして私は引っ掛かってしまうのだろう?」 犠牲者が自問しないようなら、もちろん、彼らの友人や知人がこう尋ねると思って間違いない:「一体どうしてキミはここまで、されるがままにダマされたんだい?」 普通返って来る答えは ― 「その場に居ないと分からないわ」 ― というものだが、これでは全ては伝わらないだろう。ヘアは書いている:


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(邦訳書になしか?)
サイコパスが他の全ての人々と違う点とは、極めて簡単に嘘をつき、広範囲に亘ってダマすというのを、冷淡にやってのけることである。

(小林訳165ページ)
サイコパスの話を聞いていると、こちらがまごついてしまうような発言が多い。彼らの話はしばしば矛盾だらけだが、それでもつじつまの合わない話はけっこう見逃されてしまう。けれども、最近はサイコパスの言葉づかいについての研究が進み、聞き手がとまどいを感じる原因や、言葉や人をいともかんたんに操る異常な才能について、いろいろとわかってきた。
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以下はその例である:


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(小林訳166ページ)
暴力を行使した犯罪を犯したことがあるかと訊かれて、窃盗で服役していたある男は答えた。「いや、でも人を殺さなきゃならなかったことはあるよ」

人をだましたり、たぶらかしたり、嘘をついたり、平気で約束を破ったりしてきたある女性は、仮釈放委員会宛の手紙の結びに、つぎのように書いていた。「私は大勢の人々をがっかりさせてきました。。。けれど、そのひとりは名前負けする評判倒れの女でした。それだけはまちがいなくたしかです」

武装強盗で服役していた男は、目撃者の証言に対して、つぎのように答えた。「彼は嘘をついているんです。おれはあそこにはいなかった。あいつの腐った脳みそを吹き飛ばしてやりゃよかった」
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以下は、連続殺人犯エルマー・ウェイン・ヘンリーへのインタビューからだ:


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(小林訳168ページ)
インタビュアーが言う。「あなたは自分が連続殺人犯の被害者だと言いますが、記録を見ると連続殺人犯なのはあなたですよ」
ヘンリーは答える。「ちがうね」
「あなたは連続殺人犯じゃない?」
「おれは連続殺人犯じゃない」
「あなたは連続殺人犯じゃないと言うが、現実に連続して人を殺してきたじゃないですか」
「いや、それは意味の歪曲ってやつですよ」
(↑1991年5月8日、CBS『48アワーズ』のインタビュー)
(同167ページ)
まるで、サイコパスはときに自分がなにを言っているのかわからなくなり、互いにつながらない言葉や考えが入り組んできてもいっこうにかまわないかのようだ。サイコパスはまた、ときに言葉を奇妙な方法でつなげる。たとえば、ジャーナリストと連続殺人犯クリフォード・オルスンのつぎのやりとりを考えてみてほしい。
「それからおれは、彼女と年1回のセックスをした」
「年に1度の?」
「いや。年1回の(肛門から)だ」(※annual/anal)
「まさか。だって彼女は死んでたんだぞ!」
「いや、ちがう。彼女はふまじめだった(気絶してた)だけだ」(※unconscientious/unconscious)
いままでの数多くの体験について訊かれて、オルスンは答えた。
「本に書けば5、6冊分になるほどの解毒剤(逸話)がある − 三部作になるほどのな」
(※antidote/anecdote)
どんなに「移住する(いいかげんな)事実」を書きたてられても、(※migrate/denigrate)
彼はけっして「エスケープ・ゴート(スケープ・ゴート)」にはならないとかたく心にきめていたのだそうだ。
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サイコパスを体験したことがある人は、サイコパスの言語には2次元しかない事を知っている。誰かが言っていたのだが、連中の言葉は「裁縫用の指ぬきほどの深さしかない」のだ。サイコパスは、色に満ちたこの世界で働く方法を、特殊な戦略を使って学んだ色盲の人に例えることができる。色盲の人は、「自分は赤信号で止まったんだ」と言うかも知れないが、彼らにとっての、これの本当の意味合いは、彼らが天辺のライトは「止まれ」の意味だと知っているから止まったということだ。他の皆と同じように、彼らはそれを「赤」信号と呼ぶのだが、彼らは本当の「赤」を体験している訳ではないのである。

色盲でも、このような対処メカニズムを発達させた人は、正常な人から殆ど気付かれることがない。兄と私のきょうだいが、いずれも30代になった時、兄が、「色盲のせいで、海軍の飛行関係の訓練を受けさせてもらえなかったよ」と言った時、私はショックを受けた。この時私の頭に浮かんだのは、私たちが子供の頃、兄が沢山の模型自動車を集めていた事だった。しかも、兄は模型に塗る色を何と慎重に選んでいたことか。その間じゅう、兄は私に、「この赤、きれいだと思わないか?」と言っていたのだが、すると兄は、「赤」とは本当は何なのか分かってなかったのだ。海軍に入って、テストを受ける段になって初めて、彼は自分が色盲だと知ったのである。彼は今でも、「赤い」とはどういうものか知らないけれども、私たちは色の感覚について、際限なく話し合ったものだ。

サイコパスが感情についての言葉を使うときの使い方は、色盲の人が、自分では知覚できない色についての言葉を使うのと同じ具合なのである。サイコパスは、おおよそ適切な言葉使いを学ぶだけでなく、感情をパントマイムで表現する術も学ぶ。だが連中に感情はない。

サイコパスの心の質は、被験者を脳電図(EEG、electroencephalogram)につないで連想語検査を行うという方法で徹底して調べられてきた。通常人の場合、感情的な意味を内容とする言葉は、中立的な言葉よりも、大きな脳の反応を惹き起こすが、これは、感情的な言葉には多くの情報が含まれていることを反映するものだろう。(小林訳174ページ) 私たちの殆どにとって、「癌」という言葉は即座に病気の症状を喚起させるだけでなく、恐怖とか、痛みとか、不安等の様々な精神的に不穏なイメージをも喚起させる。これは、癌に関する経験や、愛する誰かが罹ったかどうか、そのために生活に影響があったか等々にもよるだろう。同じことは、私たちが集合的/個人的に持っている語彙の多くにも当てはまる。これに対して、トラウマ的な体験でもない限り、「箱」とか「紙」のような言葉は中立的である。

サイコパスはどんな感情的な言葉に対しても、恰もそれが中立的であるかのように反応する。まるで、連中は永久に「子供向けの辞書」を使う運命ででもあるかのようだ。ヘアは書いている:


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(同176ページ)
私は先に、良心を育ててそれを働かせる『内なる声』の役割について書いた。良心に「訴え」、自らの行動をしっかりと管理し、違反行為に罪悪感とか良心の呵責を感じさせるのは、感情に裏うちされた思考、想像力、そして心の内部での対話なのだ。サイコパスにはこのことが理解できない。彼らにとって、良心は自分以外の人がつくるルール以上のものではなく、それこそがむなしい言葉なのだ。ルールに力をもたせるのに必要な感情が、彼らにはない。
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それだけではない。判定テストを受けさせられるまで、色盲の人が自分は色盲だと分からないのと全く同じで、サイコパスは自分が感情に乏しいということに気付いてすら居ないのだ。連中は、自分の知覚が他の皆と同じだとみなす。連中は、自分に感情が欠けているのが、他の皆も同じだと決めてかかるのだ。間違いない:連中の感情を傷つけることなどできないのだ − 連中には感情が無いのだから!連中は、そうすることが目的に適い、欲しいものを手に入れる役に立つときには、感情があるフリをする。連中が悔恨の情を言葉で述べても、言葉と矛盾した行動をとるものだ。連中は「悔恨の情」が重要であり、「謝罪」が有益であるとは知っているので、これらを惜しみなく与える。だが概してその言葉は、謝罪せねばならない犠牲者を咎めるような言い方となるものだ。

そういう訳だから連中はゲーム理論の活用が得意なのであり、私たちが連中の思考法のルールを学ばない限り、連中は私たちにそれを使い続けて、散々な目に遭わせ続けるだろう。通常の人は残酷/冷血な仕打ちを受ければ傷つく。これに対して、サイコパスは殆どの人々が経験しているような具合の「痛み」を装うことしかできない ― というのも、欲しいものが手に入らない時しか連中は「痛み」を味わわないからであり、連中は操作を行ってそれを得ようとするのだ!

『暴力への愛着』という本では、
http://www.amazon.com/Violent-Attachments-Reid-J-Meloy/dp/0765700611
精神医療従事者に対してインタビューを行ったところ、男性71%、女性84%がサイコパスに凝視されて鳥肌が立ったことがあるという結果が紹介されている:
http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2157.html
それは犠牲者すなわちターゲットをこれから破滅させてやろうという、烈しく、かつ冷酷な凝視だ。特に女性は、このような凝視が「捕食者の」(爬虫類の)凝視のようだと報告している;サイコパスはまるで強烈な征服欲の全てをむき出しにするような目を向けてくるので、ある女性などは、「食べられそうな」感じがすると報告している。連中は突然に侵入してきたり、あるいは、威圧するような視線を向けて寄越すことによって、人々のスペースを侵す傾向がある(女性の中には、これを性的なものと混同する者も居る)。

もう1つ極めて興味深い研究がある。サイコパスが話すときの手の動かし方に関するものだ。研究者はこの、手の動きを「思考ユニット」と呼び、多くの事を解明している。このような研究の結果、サイコパスの思考やアイディアは小さな脳内パッケージに整理されていることが示された。これは嘘をつくには便利なものだが、全体的に首尾一貫した、統合された複雑な深い思考を行うことは殆ど不可能になる。

大抵の人は、一貫した思考テーマを持った考えを結びつけることができるが、サイコパスはこれを行うのが相当難しい。これもまたサイコパスが、私たちが「子供向けの辞書」と呼んだものに生来制限されていることを示すものだ。連中の使用する定義が極端に限られているというだけでなく、連中は脳の働きのせいで、それ以外のやり方ができないのである。サイコパスに関する研究の殆ど全てが明らかにしたところでは、連中の内面世界は、つまらない未熟なもので、通常の人々の内面世界には一般に存在して居る色彩や詳細を欠いたものであるという。これは、連中の会話に不一致や矛盾が見られることを説明する上で大きな役割を果たす。


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この状況は映画に似ている。すなわち、曇り空の下で撮影されたシーンがあった後、次のシーンは ― 数分後には場面転換が起きると推測される ―、輝く日差しの中なのだ。。。映画ファン ― サイコパスの犠牲者たち ― 殊にアクションに夢中になってしまう人々の中には、不一致に気付かない人も居るのだろう。
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ヘア前掲邦訳書になしか?


サイコパスは訊かれた質問に答えないことで悪名が高い。(小林訳181ページ) 連中は何か他の事を答える。すなわち、訊かれた事に直接は答えないのである。連中はまた、話の一部が難しくて理解できないような言い回しをする。これは誰でも時にやってしまうような不注意な会話ではなくて、精神活動がおかしいことを示すような、根本的な状態が続いて居ることを示すものだ。連中の本性についての真相をもたらすのは、何を話すかではなくて、どのように話すかなのである。

しかし、ここでまたもや疑問が浮かぶ:もし連中の会話がそれほど奇妙であるなら、どうして利口な人々でも騙されてしまうのだろうか?どうして不一致に気付き損なってしまうのか?

それは1つには、その奇妙さがあまりに微妙なため、普通私たちにはそれらを聴き分けることができないからだ。だが、私自身の経験では、連中の会話の幾つかは「スキップされ」、言葉が奇妙にアレンジされたり誤用されている結果、私たちの脳は、それを自動的に解釈し直すのである。それは、文字の1つが消えているネオン・サインの「空白を自動的に埋める」のと同じ具合だ。私たちが夜中にドライブしていて、遠くに「モ(空白)テル」という看板が見えると、私たちの脳は空白部分に「―」を補って、「モーテル」と読むものである。これと似たようなことが、サイコパスと犠牲者との間でも起こるのだ。私たちは自分が考え、感じ、言わんとする事に基づいて仮定を行い、空白を埋めることによって、「欠けている人間らしさ」も穴埋めするのである。このようにして、「空白」部分を、私たちの内なる性質で補ってしまうために、私たちはサイコパスが素晴らしい人だとた易く納得してしまうのである ― だって、彼は私達みたいではないか!私たちは信頼するよう、常に「疑わしきは罰しない」よう条件付けられてきた。だから、たとえ空白があっても、「疑わしきは罰せず」、自分の武器で撃たれる結果になるのだ。


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(小林訳188ページ)
サイコパスはいかなる人間同士の交流も、「餌をまく」チャンス、競い合い、あるいは相手の意志を試す機会として見る傾向があり、そこにはひとりの勝者しかいない。彼らの動機は人を操作し、奪うことなのだ。非情に、良心の呵責など感じずに。
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ある面接で、私たちが調査していたサイコパスのひとりである詐欺師は率直に語っている。「仕事にかかるときまず最初にするのは、相手の観察だ。ある角度から相手を見て、弱みを見つけ、なにを必要としているか見定めると、それを与えてやる。それから払い戻しの時間だ。利益ものっけてな。ネジをしっかり締めるってわけだよ」 (別の)サイコパスの教師、ウィリアム・ブラッドフィールドは「きれいな女を追いかけまわしたことは一度もなかった。。。彼は豚がトリュフのにおいを嗅ぎつけるように、餌食となる女性の不安定な精神状態や孤独を嗅ぎつけることができた」と語った。(小林訳194ページ)


年老いた人や孤独な人、無防備な人、公民権をはく奪された人、社会から無視された人を情け容赦なく利用するのは、サイコパスのトレードマークだ。(小林訳195ページ)こうした犠牲者は、事の次第に気付いても、概してあまりにも当惑してしまい、不平を言えないからだ。

サイコパスが他人を餌食にする主なやり方の1つが、通常人なら抱く、人生の意味/目的を見つけたいというニーズを利用するというものである。連中はグリーフ・カウンセラー(=喪失を体験した人に精神的援助を行うカウンセラー)ないしは、答えを探し求めている人々の注目を引くような、様々な種類の「専門家」のふりをするのだ。連中は、殆どの人々が経験するような「悩みの種」や自信喪失を見分ける名人であり、後に使える「フォロワー」を手に入れるため、人々の弱みにずうずうしくつけ込む。ヘアは、サイコパスである患者によって破滅させられた、精神科心理士のケースについて述べている。この男は彼女の銀行口座を空っぽにし、クレジットカードを限度額まで使い切って、行方をくらましたのだ。どんな手を使ったのだろうか?彼女が男に「私の人生はずっと虚しいものだったわ」と言ってから、男が繰り出してきた甘い言葉や言葉による愛撫に、彼女は圧倒されてしまったのだ。もうお分かりのように、このような言葉はサイコパスにとって、小銭を払うようなものである。連中は単に自分を印象付けるだけのために、「キミのために祈ってるよ」とか「愛してるよ」と言えるのである。実際は何の意味も無いのだ。だが、中にはあまりに孤独で絶望している人が居て、イミテーションだって何もないよりましだと思ってしまうのである。

それからもちろん、あまりに心理的に傷ついているために、サイコパスこそ明らかにふさわしいパートナーだと思いこむ人も居る。こうした人たちは、ひどい扱いを受けたり、危険に興奮したり、あるいは、魂が明らかに危機に瀕している誰かを「救助」ないし「手当」する必要を感じるものらしい。


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(前掲書202ページ)
サタンを崇拝していた”ナイト・ストーカー”リチャード・ラミレスに関する本のなかで、著者は正式事実審理前審問のあいだじゅう、ラミレスにラヴ・レターと自分の写真を送りつづけていた若い女子学生がいたことを書いている。「すっかり彼に同情してしまったの。彼を見た瞬間、だれも導いてくれる人がいなかったために人生を誤ったハンサムな男に見えたわ」と彼女は言っていた。
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悲しむべきことにサイコパスは、以下で見るように、犠牲者には事欠かない。というのも、その役割を演じる気満々の人が大勢いるからだ。非常に数多くのケースで、犠牲者は自分が犠牲になっていると信じるのを拒むのである。否定心は、苦痛と感じられる知識を排除するものであり、空想に多くの時間を費やす人は往々にして痛みに耐えきれず、自分が騙されていることを認められないものである。殆どの場合、このような人は女性で、伝統的な女性の役割に頑なにこだわって、「良き妻」であることが務めだと強く感じている人たちである。彼女は自分がもっと懸命にこらえ、じっと待ち続ければ、夫は心を改めるだろうと信じている。夫が妻を無視したり、DVを働いたり、不倫したり、彼女を利用しても、彼女はこう決心するのだ。「もっとがまんして、2人の関係にもっと多くのエネルギーを集中させて、もっと彼の面倒をみなくちゃ」 彼女は自分がそうするなら、最後は夫も、彼女が如何に貴重な存在であるか気付き、彼女の気持ちを理解して、感謝の心から膝まずいて、彼女を女王のように扱うだろうと信じているのだ。

寝ぼけた事を。

このような男に凄まじいまでに献身し、きちんとした妻で居ることに専念するこのような女性は実際には、このようなおとぎ話のせいで、現実に対する感覚が歪んでしまっているのだ。現実的には、彼女は「死が2人を分かつまで」一生、虐待と失望を経験しながら生きて行く運命なのである。

患者は心理的にも情緒的にも痛みを伴う問題を抱えており、それに対する助けを必要とし、それを求めているというのが、心理療法の基本的な立場だ。(小林訳262ページ) サイコパスは自分が心理的あるいは情緒的な問題を抱えているとは思っていないし、自分が同意できないような基準に従うために行いを改める理由など無いと思っているのだ。連中は自分に十分満足していて、他人から見れば荒涼とした自己の内部のありようにも満足感をおぼえている。自分の考え方、行動の仕方には悪いところなどなにもないと思い、過去を後悔することもなく、将来に不安もいだかない。自分は敵意にあふれた世界のなかですぐれた人間であり、他人は力と富を争う競争相手であると感じている。サイコパスは自分の欲しいものを手に入れるためなら人を操作したり、だましたりしてもいいと感じている。

ほとんどのセラピープログラムは、新たな言い訳と、他人の弱みの新たな発見以上のものをサイコパスに与えることができない。おかげで連中は、他人を操作する新たなもっといい方法を学ぶことになるが、そういう自分の見方や態度を変える努力は全く行わない。

ヘアは、ある刑務所のグループ・セラピー・プログラムに参加していたサイコパスの受刑者についての研究を紹介している。刑務所の心理学者はつぎのように書いている。「彼はりっぱに進歩した。。。以前よりも他人に関心をもつようになり、犯罪者的な発想の多くを捨て去った」(小林訳265ページ)

2年後、この受刑者はヘアの調査スタッフに面接を受けた。明言しておくが、調査の正確を期するため、被験者がヘアやスタッフに話した内容は、刑務所の当局者には他言されない条件となっていたし;被験者がヘアたちに気楽に話せるようにするため、当局の方でも、これに合意していた。サイコパスは、何を言っても罰が無いと知ると、実に幸せそうに他人を騙す腕前を自慢するものである。先ほど述べたように、刑務所の心理学者が顕著な向上を示したと評価していた男について、ヘアの調査スタッフは、いままで会ったうちで「もっともおそろしい犯罪者」で、自分が社会復帰に向けて回復しつつあると刑務所の職員をだましたことをあからさまに自慢げに話したという。「あいつらにはすっかり驚いたよ」と、彼は言った。「だれがあいつらに免許を与えたんだ?おれなら、あいつらには飼ってる犬だって診せないぜ!まったく信用できないやつらだからな」

長年の調査をふまえ、ロバート・ヘアは読者にこう念を押している。「サイコパスは『脆い』人間ではない。彼らが考えることやすることは、外からの影響に極度に抵抗する、岩のようにかたい人格構成の延長線上にある」 多くのサイコパスは、善良な家族や友人によって、自分の行動がもたらす結果から守られている。彼らの行動はいつまでたってもチェックされないし、罰せられない。なかには一生ほとんど不便を感じないでやっていける者もいる。(小林訳263ページ)

研究者の間にはサイコパスが、幼年時代に何らかの事情で、愛着ないし親との結びつきが希薄だったことに起因すると断言する意見もある。だが、ヘア博士は長きに亘ってサイコパスが生まれる原因を探ってきた末、考えを改めたという:「子供のなかには、親との絆を結べないことが(サイコパスの)症状になる者もたしかにいる。だが、このような子供たちは人と絆をつくるのが苦手なだけかもしれない。親やまわりの人に愛着を感じないのは(サイコパスの)結果であり、原因ではないように思える」(小林訳234ページ) つまり:連中はそのように生まれてきたのであって、治すことなどできないのである。

多くの人々には、サイコパスの子供が存在するということは考えられないかもしれない。(小林訳211ページ) しかし実のところ、本当のサイコパスは生まれてくるものであって、成るものではない。まあ確かに、「成った」サイコパスも居るが、そうした連中は一般に、「生まれつきのサイコパス」と多くの点で異なっている。

実際、臨床試験の結果がはっきり示しているように、サイコパスは、成人して突如なんのまえぶれもなく現れてくるものではない。その兆候は幼いころに現れるのだ。のちにサイコパスと診断された子供のほとんどの親が、就学まえから子供に深刻な問題があるときづいているというのは本当らしい。ある種の子供たちは社会に順応していくことを頑強に拒みつづける。連中はどういうわけか正常な子供たちと異なっている − 気むずかしく、かって気ままで、攻撃的で、人となじむのがむずかしく、近づきがたく、冷たく、よそよそしくて、うぬぼれが強いのである。(小林訳212ページ)

ある母親はこう語っている:「まったく、娘のすることなすことわけがわかりません。もっと幼いころから、自分の思いどおりにならないと気がすまない娘でした。好きなようにさせないと、癇癪を起すのです。。。娘はいま13歳で、ときどきかわいらしく後悔したようなそぶりを見せるもの、私たち夫婦は彼女のやることにひどく苦しめられています。。。」(小林訳213ページ)

実際、サイコパスの子供が存在するというのは冷厳な事実であり、サイコパスであることを特定する人格特性を子供が持っていることを見逃した場合、親は、自分の子供はいったいどこが悪いのか、自分たちはいったいどこが悪かったのかと、答えの見つからない疑問にいつまでもさいなまれることになる。(小林訳217ページ) ヘアは書いている:


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(同220ページ)
社会の崩壊がこれからもさらに進むのなら、ある種の子供たちが(サイコパス)の特質をもっていることを私たちはもう無視していられない。半世紀まえ、ハーヴェイ・クレックレーとロバート・リンドナーは、世間にサイコパスが存在しているという認識が欠如しているために、社会崩壊はすでにはじまっていると警告していた。今日、学校、裁判所、精神衛生クリニックなど、私たちの社会施設は毎日のようにいろいろなかたちで危機に直面している。にもかかわらず、(サイコパス)に目をつむっている現実は、依然として存在する。。。

過去10年、私たちは無視できないおそろしい現実の出現をまのあたりにしてきた。青少年の犯罪が劇的にふえ、私たちの社会施設が脅かされているという現実。。。かつては心ないおとなの犯罪だった非情な暴力を平気で振るえる10歳以下の子供たちのことを報道で知るたびに、私たちは胸が悪くなり、悲しみに襲われる。。。
(同222ページ)
この本を書いている時点で、西部のある小さな町では、ナイフの切っ先を突きつけてほかの子供に乱暴してレイプした9歳の男の子をどう扱うべきかけんめいに考えている。幼すぎて彼を起訴することはできないし、さりとて保護施設に入れることもできない。なにしろ、「そのような措置が取られるのは子供が危険にさらされているときで、彼は被害者ではないから」だと、子供の保護官は言っている。
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サイコパスが発生する本当の原因とは何だろうか?社会生物学は、サイコパスを遺伝によって決定づけられた種の保存手段の1表現であるというふうに見ている。(同上224ページ) 端的に言えば、殆どの人たちは子供を少数もうけてだいじに育てることに時間と努力を費やすのだが、サイコパスはシステマチックに大勢の女性と関係を持っては捨ててしまう。連中は子供を育てるのに殆どエネルギーを使わないのであり、このようにして、サイコパス遺伝子は野火のように広まって行く。「社会生物学者たちも、人間の性的行動が、遺伝子プールに遺伝子をのこすことを意識しておこなわれるものではないことは認めている。自然(が)私たちに遺伝子をのこす」効果的な手段として与えたやり方がこれなのだ。(同226ページ)

女性のサイコパスの戦略にもこれが反映されている。「『子供なんていつだってつくれるもの』と、大勢の愛人のひとりに2歳の娘をなぐり殺されたある女性のサイコパスは、こともなげに答えた(年上のふたりの子供たちは、そのまえに保護施設に引き取られていた)。3人の子供に対する関心が明らかに欠けているのに、また子供をつくりたいと思うのかと訊かれて、彼女は答えた。『だって、あたしは子供が大好きなの』 私たちが調査したほかの多くの女性のサイコパスと同じく、子供に対する彼女の愛情表現は行動とまったく相容れない」(同226ページ)

ダマシのスキルは、私たちの社会で高い適応度を持つらしい。実際、サイコパスはしばしば、最後はトップに上り詰める ― ジョン・フォーブス・ナッシュがいい例だ。

現今、何か実におそろしい事が、神秘主義コミュニティで進行中である:いわゆる「インディゴ・チルドレン」というのがそれである。この考えの主唱者の1人であるウェンディー・チャップマンは書いている:


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インディゴ・チルドレンとはこんにち誕生しつつある世代であり、彼らの殆どは8歳かそれ以上である。彼らは異なっている。彼らはユニークな特性を持っていて、その点で、以前の世代の子供たちとの違いが際立っているのだ。。。この子供たちはしばしば権威に反抗し、非協調的で、極めて感情的であり、時として肉体的に繊細ないし脆弱である。非常に才能があり、あるいは学力が高く、しばしば、神秘的能力にも恵まれている。ふつう直観的で、ADD(attention deficit disorder、注意欠陥障害)だと診断されることはしょっちゅうであり、とても同情的で思いやりがあるか、冷淡で無神経であるかのどちらかで、歳に似合わず賢い。あなた自身か、あるいは、あなたの子供みたいではないか?

インディゴは克服すべき難問を抱えて、この世界に転生してきた。彼らの神経過敏さは極端なレベルであって、共通の特性を持っていない両親には理解したり真価を認めたりするのが難しい。彼らは普通ではない大天才なのだ。彼らが体制やしつけに従わない結果、子ども時代は苦難の連続となり、おそらくそれは大人になっても続くだろう。それはまた彼らが、例えば教育システムを変えるというような大きな目標を成し遂げるのにも役立つだろう。インディゴである事は、彼らにとってた易いことではないのだが、これはあるミッションを予告するものだ。インディゴ・チルドレンは、我々の地球の振動数を上昇させるために転生してきたのである!彼らこそ、我々がアセンションするための悟りをもたらす主要な存在なのだ。
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私に言わせれば、否定とウィッシュフルシンキングの重症例という感じである。しかし、既に見て来たように、心理的リアリティとは、「神学的リアリティ」のための単なる道具に過ぎない。おそらく読者の皆さんは、既に私を飛び越して先を行き、この「インディゴ・チルドレン」なるものが、大々的な詐欺だと理解されたのではないだろうか。チャップマン女史はご親切にも、「インディゴ・チャイルド」判定のチェックリストまで提供している。サイコパスについて学んだことを思い出しながら、彼女のリストを眺めてみるとしよう:


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ソースにつながっているという自尊心が強い。

ここに居るのは、他の指示が出るまでだと知っている。

自己についてのはっきりした感覚がある。

しつけや権威には困難を感じる。

命令や指示に従うのを拒む。

一列に並んで待つのを拷問と感じ、忍耐に欠ける。

創造性をさほど必要としない儀式志向のシステムに欲求不満を感じる。

家や学校での物事のやり方についてしばしば改善策を思い付く。

大抵、非協調的である。

罪悪感に駆られることなく、適切な判断を欲しがる。

割当られた仕事にはすぐに飽きてしまう。

かなり創造的である。

簡単に気を取られてしまうが、沢山の事を同時にできる。.

強い直観力を発揮する。

他人に強く共感するか、あるいは全く共感しない。

ごく幼いうちから抽象的な思考力が発達している。

学力ないし才能に恵まれ、知力が高い。

しばしば、ADDあるいはADHD(attention-deficient hyperactive disorder、注意欠陥・多動性障害)と診断され、あるいはそれを疑われるが、したいときには集中できる。

空想の才能がある。

老いていて/深い/賢そう。。。に見える目をしている。

霊的知性ないしサイキックスキルを持つ。

内に秘めるよりは、しばしば怒りを外に表し、怒りのせいでいざこざを起こすかも知れない。

自分を発見するのに、我々のサポートを必要とする。

この世界を変え、我々がより大きな調和を果たし、互いに平和に生きるのを手助けし、地球の振動数を上昇させるため、ここに居る。
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上で見たリストの中には、天才児の行動に混じって、間違いなくサイコパスの行動と思われるものが含まれていたようだ。これら2つを織り合わせようとする試みが、不思議に感じられてならない。

この「インディゴ・チルドレン」という考え方は、どこに由来するのだろうか?「インディゴ・チャイルド」というフレーズを考え出したのはナンシー・アン・タッぺで、
http://josei-bigaku.jp/spiritual/indhigochir35849/
1982年の著書『色を通じてあなたの人生を理解する』においてであり、これは子供たちのオーラの色のことだった。タッペ女史はジャン・トーバー
http://angelicharmony.com/clair05-08.htm
が1999年に出した『インディゴ・チルドレン』という本のためのインタビューに答えて、こう語っている:「これらの幼児たち ― ここまで見てきた全員が学校の友達や両親を殺してるんだけど − 彼らはインディゴだったわ」

それでもトーバーが本の執筆を止めることはなく、彼女はこれらの子供たちが「智慧に満ち、我々に新しい存在のあり方を教えに来たスピリチュアル・マスターたち」なのだと宣言した。彼女の説の信奉者たちは、インディゴがとても特別で、デリケート、感じやすいので、彼らには「特別な」優しい扱いが必要だと宣言することにより、「全てのインディゴが無条件の愛、寛大さで満たされ、偏らない態度であるとは限らない」という事実を正当化した。

とんでもないことだ。インディゴはサイコパスであり、彼らがここに居るのは、全く違う理由のためだ。何らかの勢力が、どうにかして自分達の子孫がきっと手厚く面倒を見られるようにしているのであり、数多くのサイコパスが、正体を見破られぬままちゃんと成長できるようにしているのである。

それにもかかわらず、(インディゴを扱った本には)「狂信者たち」が弁解できない事についての弁解を見つけるために訴えた、思い切った手段についての説明がない。南カリフォルニアに住む女性実業家で、「神秘主義を21年間学び実践してきた」というエリザベス・カービーは書いている:


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学校での銃乱射事件に関して耳にしたのですが、私はインディゴ・チルドレンが引き金を引いていたのを知っています。コロンバイン高校銃乱射事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%B3%E9%AB%98%E6%A0%A1%E9%8A%83%E4%B9%B1%E5%B0%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6
はとても恐ろしいものだったので、皆さんご存知でしょう。当時、一番上の娘が私にこう言いました。
「彼ら(エリック・ハリスとディラン・クレボルド)はインディゴだから、あれをやりたくなったの。それでやったのよ。良心の呵責も、罪の意識も無いまま、彼らは計画を実行に移して、みんなを撃ったの。だって、彼らはそうしたかったし、そうする必要があると感じたんだもの」
インディゴは罪悪感を感じないので、行動を抑えることがありません。というのも、彼らは権威を嫌がり、ルールに従わなくてはならないとは思わないからです。

ジョナサン・ケラーマンのようなアメリカでも主流の作家が、学校で銃乱射事件を起こすインディゴをサイコパスと同列に見做しています;サイコパスとは、いじめっ子、詐欺師、ストーカー、加害者、連続殺人犯である闇の存在で、スリルのために人を殺す連中です。私は、武器を学校に持って行って他の子供たちを撃った、このインディゴ・チルドレンがサイコパスだとは思いません。彼らはずっといじめにあっていたので、自分達が負わされた怪我の復讐をして正義を貫こうとしたのです。彼らは単に人殺しのスリルのために殺したんじゃありません。この子たちは、学校の組織体制内に変化を起こすべきだと分かっていたので、声明を行うつもりで暴力に訴え、私たちに注意を喚起しようとしたのです。神秘主義者のインディゴ・チルドレンの中には、このように変化をもたらし、私たちを啓蒙するためなら躊躇わずに暴力を行使する子も居ます。

インディゴによる暴力が現在行われていますが、これは、少なくとも、インディゴ・チルドレンである現世代の間は続くことでしょう。私たちは現在行われているインディゴによる暴力を見て、学校組織体制の変革がいかに必要か、そして、学校におけるいじめや脅しの問題への取り組みがいかに急を要するものであるかを痛感します。インディゴ・チルドレンが大人に成長して行くに連れて、彼らのアジェンダの対象も学校の組織体制から、他のシステム、私たちの社会/政治/司法システムへと移って行くことでしょう。オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の主犯であるティモシー・マクベイはインディゴです。
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http://www.dailyom.com/cgi-bin/discuss/displaydiscussion.cgi?beg=60&did=1328


何とも驚きではないか?気付いただろうか?「神秘主義者のインディゴ・チルドレンの中には、このように変化をもたらし、私たちを啓蒙するためなら躊躇わずに暴力を行使する子も居ます」というのだ。これは少し矛盾しているように思われないだろうか?少々拡大解釈し過ぎだろうか?ストレートに否定へと進んだらどうだろうか?

やれやれ。

人類の歴史の中でも、今ほど人々がサイコパスに魅せられたことはない。サイコパスを描いた映画が大流行なのだ。ヘアは問う:「問題は、なぜか、ということだ。良心のない人格が私たちの想像力を圧倒的に刺激するのは、なぜなのだろうか?」(小林訳133ページ) ある精神科医は、サイコパスを称賛し、優れていると思い、映画を観ながら自分をそれに重ね合わせるような人々は、彼ら自身サイコパスなのだと唱える。「『映画は。。。のぞきの代償行為に私たちを引きずりこんでいきます。暗い室内は私たちの道徳観を抑え込み、超自我[良心]による抑制に支配されない心の領域に焦点をあてます。。。私たちは。。。なんの犠牲も払わずに攻撃的で猥褻な快楽を楽しんでいるのです』

このような映画による体験は、心理学的に見て健康な人たちにはプラスの効果をもたらし、サイコパスによって引き起こされる危険や破壊をあらためて思い起こす役割を果たす」 彼らは、首筋に息を吐きかける冷たくて暗い何かの感覚に震えるのだ。だがいっぽう、精神的発達が未熟な人たちの場合、このような映画やサイコパスの行動に対する賛美は、他人に暴力を振るい食い物にするような深刻な破壊行為の強力なモデルとして働くばかりである。

ここで思い出されるのがナッシュである。ナッシュがどんな具合だったか、覚えておられるだろうか?シルヴィア・ナサーは、ナッシュによるサイコパス的な振る舞いを少々正当化しようとして、彼は「過剰に干渉してくる大人に対して自分だけの殻へ閉じこもり」がちの「内向的な子ども」だったと述べている。(塩川訳37ページ) 奇妙なことに、私もフランク・スコットに関して同じ事を考えていたのだ。子どものころにトラウマを負わされたり、虐待された証拠も無いからと述べて、ナサーはナッシュの精神的異常が環境によるものとは認めない。両親はきわめて愛情深い、教育を重視する人たちだったのであり、ナッシュの分裂気質は「生得的なものとしか言いようがない」という。

それは確かに納得できる!しかし、家族関係によって唯一違ってくるのはどうやら、サイコパスが自分を表現する仕方のようだ。安定した家庭で育ち、ポジティブな社会的/教育的リソースが利用できたサイコパスは、ホワイトカラー犯罪者、すなわち、おそらくは幾分いかがわしい企業家、政治家、弁護士、判事、その他の専門的職業家となるのだろう。同じサイコパスでも貧しい家庭に育った連中は、よく見られるようなペテン師か流れ者、傭兵、暴力的犯罪者になるものと思われる。

要するに、社会的要因や両親の行動は、この障害の発現の仕方に関係するだけであり、当人が共感したり、良心を発達させたりできないことには、何の影響もないのである。

ナッシュの場合は、数学者になったのだった。これがどのようにして実現したかの物語は極めて興味深い。皆さんには練習として、ロバート・ヘアの『診断名サイコパス』を読み、その後すぐにシルヴィア・ナサーのナッシュ伝を読まれることをお勧めしたい。1人のサイコパスがどのようにして科学の発展にこうも貢献し、ノーベル経済学賞を受賞したのか、すぐに明らかになるだろう。

ロバート・ヘアはかつて、「ある科学雑誌に研究論文を投稿した。(小林訳25ページ) その論文は、成人男子のグループが言語活動をしているときの脳の働きを」脳電図(EEG)でとったデータを含んでいた。雑誌の編集者は論文を送り返してきて、「あのEEGはほんものの人間のものであるとは考えられません」と言ったという。だが、それは確かに「ある種の人間たちから採取したのだった」。それはサイコパスのEEGだったのである。

研究者の中には、サイコパスを統合失調症(精神分裂病)になぞらえる人々も居た。しかし、これらの間には、以下のような決定的な違いがあるのだ:


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統合失調症とサイコパスはいずれも、衝動的で、計画性に乏しい行動によって特徴づけられる。このような行動はおそらく、調整能力的に劣った/不完全な行動抑制
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%8A%91%E5%88%B6
システムに起因するものと思われる。我々は、統合失調症およびサイコパスは、不適切な行動を抑制する際の神経による情報処理過程の異常に関係があるとの仮説を立て、これを検証した。

実験の参加者は、統合失調症患者、精神病ではないサイコパス、精神病でもサイコパスでもない健常対照者(ヘアが作成した『サイコパス・チェックリスト(改訂版)』
http://www.psy-nd.info/diagnosis.html
による定義)であり、全員、最高度のセキュリティを持つ閉鎖精神病棟に入ってもらった。参加者には、ゴー・ノーゴー課題を行ってもらい、その間の行動反応と事象関連電位(ERP)を記録した。

結果:統合失調症患者は、サイコパスでない犯罪者よりもエラーが多かった。予想通り、精神病でもサイコパスでもない参加者は、ノーゴー刺激に対して、ゴー刺激の場合よりも大きな前頭野否定ERP(N275)を示した。この効果は、統合失調症患者では小さく、サイコパスでは認められなかった。サイコパスでない参加者の場合、P(肯定)375 ERP部位は、ノーゴー試行のときよりも、ゴー試行のときの方が大きかったが、これは統合失調症患者には認められず、サイコパスの場合は正反対の結果となった。

結論:本実験の結果は、統合失調症とサイコパスのいずれにおいても、行動を抑制する際の神経による情報処理過程に異常があるという仮説を支持するものである;しかし、これら2つの障害の間にはどうやら、処理過程に質的な違いが存在するものと思われる。
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K. A.キール、A. M.スミス、R. D.ヘア、P. F.リドル 『統合失調症およびサイコパスにおける行動抑制の事象関連電位による研究』「生物学的精神医学」誌、2000, vol. 48, no 3, pp. 173-183 (2 p.), pp. 210-221.)


「データが益々蓄積してきた結果到達した結論は、サイコパスは独自の生物学的基礎をもった存在であり、数多くの病的特徴を有しているというものだ」と、アーヘン工科大学の精神医学者であるサビーネ・ハーパーツは述べている(ネイチャー誌2001年3月15日号)。

陽電子断層撮影法(PET)および磁気共鳴画像診断法(MRI)という脳画像撮影技術によって、サイコパス研究はさらに進展した。これらを駆使することで研究者は、サイコパスの心理的/感情的欠損が脳の解剖的な違いによるものなのか、それとも活動の違いによるものなのかを突き止めることが可能となったのである。

この分野で探究を始めた研究者の間で有力なサイコパス学説が2つある。1つ目は、ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学のエイドリアン・レインと、
http://extract.blog.shinobi.jp/Entry/3213/
アイオワ大学のアントニオ R. ダマシオ
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/yuurei52.html
が支持するもので、眼窩前頭皮質と呼ばれる脳の部位の働きを重視する。これは前前頭皮質として知られる脳領域の一部で、意識的な決断に関与している。

もう一方は、ロンドン大学のジェームズ・ブレア
http://blog.goo.ne.jp/yokohamaeigasa/e/6eb0ccc14c6191e8a247a9bfb3f116be
が推進するもので、感情処理や恐怖心の調節において重要な役割を果たす、扁桃体というアーモンドの形をした小さな器官に機能不全があるとする。最近のPETスキャンを用いた研究でブレアは、正常なボランティア被験者の扁桃体の活性化が、他者の悲しみや怒りに対する反応に関与していることを示し、扁桃体の機能不全によってサイコパスの示す恐怖感と共感能力の欠如は説明可能であるという仮説を立てた。

ブレアの指摘によれば、2つの説はおそらく互いに相容れないものではなく、眼窩前頭皮質が「思考」を、扁桃体が「感情」を司るものの、両者の間には深い相互関係があるという。

従来の刑事司法および精神保健制度では、危険なサイコパスに効果的に対処できないという懸念を受けて、複数の国々では、根本的な法制度改革を推進する動きが見られる。最も意見の分かれる提案は、たとえ犯罪を犯していなくても、重篤な人格障害がある人をセキュリティのしっかりした精神病院に収容可能にしようというものだ。このような条項を設けることに対しては、市民的自由の侵害だとする運動が繰り広げられているものの、このような法案の多くは、サイコパスを含む反社会的人格障害(APD)者の取り扱いを向上させようという大規模な刑務所改革の取り組みをも含んでいる。

サイコパスにいたぶられたことのある、ある人によれば、「世界にはたった1つの問題しかない。サイコパスだ。サイコパスには2つの基本タイプがある。社会的なものと反社会的なものだ。サイコパスの本質的な特徴とは、連中の妄想を他人に強制したいという、拡大していく、脅迫観念的な欲望を持っていることだ。サイコパスは他人の人権、中でも、他人と関わり合いにならない権利と愛する権利を含む、結社の自由を特に無視し侵害する」

こうして私たちは、一周して元の位置に戻って来た。繰り返し繰り返し私たちが逢着する、例の些細な問題である:宗教や信念体系は、客観的証拠や他人の信仰から守られねばならないというものだ。私たちは、かくも明らかに破滅的な、これらの信念体系が、どこに由来するのかと自分達に問いかけねばならない。次に考えねばならないのは、こんにち、こうした信念体系の多くが崩壊して、他のものに置き換わりつつあるのだが、それらもまた同様に、真相から私たちの注意を逸らしていることであり、ある特定の考え方を「押し付け」ずにはおかないということだ。これはサイコパスが最も得意とするところである。

サイコパスは、社会を支配し、社会における行動の基準を定める。私たちは、サイコパス的な、エネルギーを盗むという食物連鎖に基礎を置いた世界に住んでいる。というのも、それこそがまさにこの世界のありのままの姿だからだ。殆どの人々はダメージが大きすぎて、もはや、共生的なネットワークに基礎を置いた、異なったシステムを想像する力すら持っていないのである。


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人々は他人からダメージを被るだけでなく、彼らが生き残るために、他人に対して行った千もの些細な悪事によってもダメージを受ける。彼らがありのままのシステムを見るためには、自分達がそれを永続化させようとして担ってきた役割を直視する必要がある。それは傷つきやすい自尊心にとっては大きな要求である。そしてまた、サイコパスでない人間は、それでも人間との結び付きを保ちたいと思うものだが、騙され、エネルギーを盗まれるのが怖くて、それもおっかなびっくりなのだ。
[これほど明快な説明をしてくれたS.M.に感謝する!]
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ちょっとした歴史のおさらいの結果、私たちはこれが「現時点」に限った現象ではないと痛感した。これは、数千年をかけたプログラムであり、それが一歩一歩進められた結果、私たちは現在の位置に置かれることになったのだ。今日起こっているのは、た易く騙される人々の注意にフォーカスした、マキャベリ主義的陽動作戦である。これは聴衆の中の「付和雷同者たち」によって強化され、どうやら私たちに混じって、注意の方向を合せるベクターの役割を果たしている、サイコパスの軍隊が揃っているようである。このページの読者が違った種類の生き物を想像し、リサーチし、その概念を導入することを自分に許し、それと同時に自らを守るよう願いたい。


961214
Frank, Laura, Terry, Jan
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Q: (L) 最近取り組んできた物事の幾つかに沿って訊きたいんだけど、催眠状態へと誘導するストロボの効果および、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=70916690
私たちが見ることを妨げているものについて、もっと私たちに与えてもいい情報はないのかしら。これは、気付きという点において、私たちが次の密度へと拡大して行かないようにしているものの1つなのかしら?

A: それには関係ない。このような全ての「覆い隠す」テクニックによって影響されるような人々は、いずれにしても、低いレベルで振動しているものだよ。重要なのは、ブロック可能な人たちをブロックすることだ。

Q: (T) 僕らはブロック可能じゃないのかな?

(L) このブロック行為を避けるために、何かできないの?

(T) 僕らはブロックされてないんだよ。。。

A: あなた方はブロック可能ではない。

Q: (T) 僕らはブロックされてないんだ。僕らはブロックという行為を超えてるんだよ。

A: もしそうなら、あなた方はこれを行っているだろうか?

Q: (T) そのタイプのブロッキング・テクニックは、僕らには効かないんだ。他にもブロッキング・テクニックはあるかも知れないけど、ことこれに関しては、効かないんだ。僕らは物が見えたり見えなかったりするんだけど、それは、僕らがあえて見ようと思うか次第なんだ。僕らにはもうUFOが見えないけど、それはその必要が無いからだ。

A: そうとは限らない。

Q: (L) OK, どこがそうとは限らないの?どうして私たちにはそれがもう見えないの?

A: 「見えない」というのは、「見ることがないだろう」とイコールではない。もし1台のビュイックが通り過ぎなければ、それだってあなたには見えない!もしあなたが家の中で洗濯をしていて、その時、ジョーンズ氏が往年のビュイック「エレクトラ」で一っ走りすることに決めても、あなたには彼の姿も、彼の高級車も見えないんじゃないかな?

Q: (L) 気にならないわ。もう十分見たもの!

A: あなたは、気にするとも!!!

Q: (L) 分かった。気になるわ。でも、十分見たのよ。間違いないわ!!!

A: あなたがそれらを見たいかどうかは、あなたが決めることではない。もし彼らがあなたにそれらを見させたいなら、あなたは見ることになる!

Q: (T) それじゃあ、もし連中が僕らにそれらを見させたいのなら、僕らは見ることになるんだ!

A: Yes, そして彼らはそう思い、あなたはそうすることになる!

Q: (T) 連中はそうするだろうし、僕らも。。。確かにそうだろう。だけど、人々にはブロッキング・テクニックが使われていて、振動周波数が低くされてる結果、それらが見えないようにされてるのでは?

A: ブロッキング・テクニックの用途は数多い。

Q: (T) 周囲で何が進行中なのか人々に理解できないようにだね。

A: Yes. […] 一言で言えばそういうことだ。見て知って考えなさい、すなわち。。。望ましいものを見て、知って、考えなさい。
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970503
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Q: 私の理解だと、人間もEMベクターになり得るということなんだけど、それはあり得るの?

A: ベクターとは方向を合わせる者という意味だ。

Q: 単に居合わせるだけでEM波を誘導できるような人間が居るってこと?あと気付いたんだけど、人を混乱させたり、無力化させたり、その他の方法で私たちの学びを歪めるばかりか、私たちのエネルギーを抜き取ろうとしてるらしい人々や人間関係に、私たちの何人かは巻き込まれてるわ。基本的には、常に私達にストレスを感じさせて、私達に潜在能力を発揮できないようにさせてるのよ。このような観方は重要なの?

A: 基本だよ、ナイト君!。。。

Q: 1つ分かったのは、このような人たちは、どうやらある種の霊的フックによって取り付いて、私達が憐れみの反応をするのに付けこんで来るらしいということよ。この憐れみの本質についてコメントを頂戴?

A: 憐れむ者こそ憐れだ。

Q: でも、憐れと思われてる人達=憐れみの情を催させる人たちは、自分達以外、誰のことも憐れまないのよ。

A: Yes…?

Q: それじゃあ、息子の言う通りなのかしら。闇に魅せられた人々/不平を言い、自分では努力しないで「救われたい」と願う人々を憐れみ/愛と光を送るのは、虐待され操作されているようなもので、本質的には更なる崩壊/身勝手な収縮に力を与えることになるの?STSへの転落に力を与えてるの?

A: その通りだ!

Q: Yes. 私はそういうのを繰り返し見てきたわ。私達が人生で出会うこの人達は、憐れみを催させる極めて巧妙な能力のせいで選ばれたの?それとも、憐れさに反応するよう私達がプログラミングされていて、そのせいで、他の人々には明らかな何かに対して盲目になってるの?

A: どちらでもない。あなた方が、催眠的反応を惹き起こす人々と交流するよう選ばれたために、ついにはエネルギーを吸い取られる結果となった。

Q: (T) それは事実だ。だって、私のエネルギーは確かに吸い取られているからね。

(L) こうしてエネルギーを抜き取ることの目的は何なの?

A: あなたはどう思うかな?

Q: (T) 集中したり、何かを行うことができないようにだろう。何の目的も達成できないんだ。

A: あるいは、(全部でなくとも、)少なくとも重要な事は(達成できない)。。。

Q: (L) どうして、このような状況に逆らって行動して、相手を傷つけるのを避けるのが大事だと思うのかしら?。。。傷つけられていながら、どうして私達はそんな相手の感情を傷つけるのが怖いのかしら?

A: 正しい概念化でない。あなたは「相手や状況に逆らって行動する」必要はない。あなたは自分の運命を選ぶように行動する必要がある。

Q: でもそれを行うと、そうした相手が私達をとても惨めな気持ちにさせるので、別れる以外に選択はなくなるみたいね。

A: Yes, だが、これは「逆らって行動する」ことではない。全く逆だ。実際のところ、いいかな。タンゴを踊るには2人必要だ。2人でタンゴを踊っていて、ダンスホールが炎上したら、どちらもやけどすることになる!!!

Q: 私達がそんな「タンゴ」から抜け出そうとするとき、彼らが私達を人間だと思っていないのは明らかなのに、どうして私達は自由になることに激しい抵抗を感じるのかしら?

A: それは「彼ら」ではない。攻撃の導管だと言ってるんだ。。。

Q: このような人々と居合わせると、人はあるエネルギー=彼らの身体から発せられるものの影響を受け、混乱に陥り、その状況から抜け出すのはほぼ不可能だと考えることになるの?

A: 混乱に陥るのは、エネルギーを吸い取られるせいだ。

Q: このエネルギーはどこに流れて行くの?

A: 第4密度STS。

Q: 彼らが私達からエネルギーを吸い取って、第4密度STSが彼らからそれを収穫するの?

A: 「彼ら」は何もしない!!!! 第4密度STSが彼らを通じて全てを行う!

Q: (T) どうして我々は、そのような人々に惹かれるんだろう。

A: それが第4密度STSのアイディアだった。

Q: つまり、連中は私たちの思考と感情をコントロールして、私達に入れ知恵をすることができるので、私達は知らないうちに、誰かを「救う」のがグッドアイディアだと思ってしまうのね。宗教や文化でも、傷つくまで与えなさいと教えてるわ。実際、心が痛むから与えるのよね。全体の状況が別のレベルから仕組まれ、コントロールされてるんだわ。このテーマについて、さらにコメントはある?

A: プログラムについて本当に学んだら、プラグインしなさい。

Q: ここで言われた事について本当に学んだら、プラグインしなさい、でしょ?。。。

A: No. 私達が言いたいのは、あなた方は、行動パターンと微妙なサインを学べばいいということだ。そうすれば、常にそれを避けられるようになる。あなた自身のものと、他の人たちのものをだ。。。
教訓その1:常に攻撃を覚悟しなさい。
教訓その2:攻撃の形態を知りなさい。
教訓その3:攻撃に対抗する方法を知りなさい。。。
攻撃を受けたら、問題を惹き起こすような、予期せぬ出来事を覚悟しなさい。。。 だが、覚悟ができれば、「それを阻止する」方法が分かり、それを無害化できる。それがいわゆる用心であり、知識に根ざすものだ。そして、知識は何をしてくれるだろうか?
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数千年に亘り科学の、哲学の、あるいは宗教の体系を構築するうち、どうして人間はこうも頑なに道を踏み外し、破滅的な結末へと向かって来たのだろう?。。。答えは、組織化された宗教によって深く覆い隠された、我々の手の届かない存在領域のどこかにある。すなわち、それはおそらく、人間を支配する宇宙エネルギーと我々との関係の中にあるのだ。
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ヴィルヘルム・ライヒ『エーテル、神、悪魔』

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「わしはおまえの分析的思考に長けた頭に訴えようと思う。。。しばらく考えてから、事を巧みに処理する人間の知性と、その人間の信念体系の愚かしさ、もしくは人間の一貫性を欠く行為の愚かしさとの矛盾を、どのように説明したらいいか話してみろ。呪術師たちは、捕食者がわれわれに信念体系や善悪の観念や社会的慣行を与えたのだと信じている。成功や失敗へのわれわれの希望と期待と夢とを仕組んだのは、やつらなのだ。やつらがわれわれに強欲と貪婪さと臆病とを与えたのだ。われわれを自己満足におちいらせ、型にはまった行動をとらせ、極端に自己中心的な存在にさせているのが、やつら捕食者どもなのだ。。。

われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは素晴らしい策略を用いる。素晴らしいってのは、もちろん、喧嘩好きの策士の観点からしてだぞ。受ける側からすれば、恐ろしい策略だ。やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ!おい、聞いているのか? 捕食者どもは自分の心をわれわれに与える。そしてそれがわれわれの心になる。。。そこで心を通して、それはつまるところやつらの心なのだが、捕食者どもは人間の生活のなかへ自分たちに都合のいいものを注入する」
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カスタネダ『無限の本質』結城山訳。

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「そういうわけで、人類の現況には、進化が進みつつあることを示すものは何1つない。それどころか、人類を個人と比較してみるなら、本質を犠牲にして人格が、つまり人工的で真実でないものが生長していること、また、自然で真実なその人本来のものを犠牲にして外部からきたものが生長していることをきわめてはっきりと見ることができる。

「これらとともに我々は自動性の増大を目にする。現代文化は自動機械を必要としている。。。1つだけ確かなことがある。人間の隷属状態は拡大しつづけているということだ。人間は喜んで奴隷になっているのだ。彼にはもう鎖はいらない。彼は奴隷であることを好み、誇りさえ感じているからだ。これこそ人間に起こりうる最もいとわしいことだ」
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P・D・ウスペンスキー『奇蹟を求めて』浅井訳

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不寛容と残酷さは、「隠蔽」を担保する上で必要である。既に繰り返したように:ある種の「人間」たちが、この隠蔽のための活動をしている。この意味で、エイリアン・リアクション・マシンとしてのサイコパスは、神々による秘密のゲームの駒として活動しているのである。

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注:ジョン・ナッシュに関する本章を書き終えた後、私たちはポーランド人心理学者アンドリュー・ロバチェフスキーによる『政治悪の科学』という本を発見した。ロバチェフスキーによれば、ポーランドの心理学者たちは共産主義政体によって抑圧され破滅させられたために、サイコパスについて高度な理解に達しているという。彼の本を一読して分かるのは、彼らのサイコパスについての理解が、時代の先を行き過ぎていたということである。彼らは既にサイコパスが遺伝性の(行動による後天的なものではない、よって「治療」不可能)人格タイプであって、広範囲の特性を示すことを割り出していた。明らかなサイコパス(クレックレーやヘアが論じた連中のような)が大衆社会問題で演じる役割は大して大きくない一方、「社会的に補正された」サイコパスは見分けるのがずっと難しい。連中の「正気の仮面」はさらに一貫性があるのだ。ロバート・ヘアとポール・バビアクは、最近この「スーツを着た蛇」と呼ばれるタイプについて、共著書を出している。
https://www.tabisland.ne.jp/acfe/fraud/fraud_031.htm

この科学は、遺伝性の「サイコパス」に異なった様々なタイプがあることも理解している。これらの中には、西洋人に「境界性」、「分裂性」、「脅迫観念性」、「劇場性」、「依存性」等々として知られる様々な「人格障害」が含まれている。しかし、ロバチェフスキーの指摘によれば、西洋的な「諸タイプ」はしばしば重なり合う、不正確なものである。そういう訳で、西洋では真正のサイコパスと、様々な障害(脳前頭野損傷のような)が、しばしば混同されているのであり、ロバチェフスキーは前者を「本質的サイコパス」と呼んでいる。

そのようなサイコパスの1つが「分裂病質サイコパス」であり、これはジョン・ナッシュの病状をよりよく表すものだろう。ロバチェフスキーは、分裂病質サイコパスについて以下のように特徴を述べている:


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当初から、分裂病質サイコパスは、この遺伝性の病毒のより軽い形態として扱われ、精神分裂病に罹り易くなる原因だと考えられていた。しかし、精神分裂病との関連性は、統計分析を用いても肯定も否定もされず、このジレンマを解決できるような生体実験も見つからなかった。。。この異常のキャリアは、神経過敏で疑り深いが、そのくせ他人の感情には殆ど注意を払わない。彼らは極端な立場を取ったり、少々気分を害したからといって報復したがる傾向がある。時として彼らはエキセントリックで異様な言動を行う。心理状況や現実に対する感覚に乏しい結果、他人の意向を誤解し、軽蔑的な解釈を加えることがある。

彼らは、上辺は分別がありそうに見えるものの、実際には自分にも他人にもダメージを与えるような行動に容易に関与する。内心で抱いている世界観が貧弱なため、人間の本性に関しては典型的な悲観論を抱く。発言や書き物に現れているのを頻繁に見かける彼ら特有の考え方は、次のようなものである:「人間の本性は極めて悪質なので、人間社会の秩序は、何らかの卓越した思想を推進するという名目で、高い能力を持つ人々が組織した強力な権力によってのみ維持可能である」 。このような典型的な表現を「分裂病質宣言」と呼ぶことにしよう。

人間の本性は、分裂病質者のせいで他の人々の人生が辛いものとなるときには、実際に悪くなりがちである。しかし、彼らが深刻なストレスを感じる状況に置かれると、分裂病質の短所のせいで、彼らは簡単に挫折してしまう。その結果、思考能力は特徴的に抑制され、分裂病質者は病的な受動的状態に陥ることがしばしばである。これは精神分裂病患者の場合によく似ているので、誤診されることにもなる。

この異常にも様々なバラエティーがあるものの、共通した要素としては、ぼんやりとした冴えない感情と、基礎的な知能ありと判定する上で欠かせない要素である心理的実在感の欠如が挙げられる。風に流される砂丘の砂の上に建っているかのように、本能の基層が幾分不完全であることによるものだろう。感情的なプレッシャーが小さいときには、人間の活動領域以外においては、有益かつ正しい論理的推論ができるのだが、一方的な観方のせいで、彼らは自分が「普通の」人々より優れていると考えがちなのである。。。

分裂病質サイコパスの行動の邪悪性は2つの側面から評価すべきである。ミクロの側面では、この人々は家庭でトラブルを起こし、ずる賢い人々の下で、た易くその手先となり、一般に子育てはいいかげんにしか行わない。彼らには、人間世界の現実を空想的かつ単純に考える傾向がある。彼らはこのような考え方が「正しい」と思っているのだが、それは何ごとも「白か黒か」決めつける考え方だ。この結果彼らは、しばしば善意を抱きながら、悪い結果に終わってしまう。しかし、彼らの人間世界の現実に対する態度と壮大な教義を発明しようとする傾向が、書籍として執筆されて多くの版を重ねたら、彼らの邪悪な任務はマクロ社会レベルの影響を産むだろう。
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(本章終わり)
posted by たカシー at 08:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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