2015年07月02日

ザ・ウェイブ36章: 不道徳な迷信

ザ・ウェイブ36章: 不道徳な迷信
http://cassiopaea.org/2011/11/20/the-wave-chapter-36-a-vile-superstition/


カシオペアンとのやり取りが進むにつれて、私達には、ゆっくりだが確実に、リアリティのマトリックス的性質というものが分かってきた。もちろん初期のうちは、私達が学びつつあるものを何に喩えればいいのか分からなかったし、魂の動学というテリトリーの地図も殆ど描けなかった。ポジティブ志向とネガティブ志向、それぞれの神ないし高次レベルの存在の間での神学的ドラマというのが、一大テーマだったのだ。

確かにこれは全く新しい考えという訳ではなかったが、超次元物理学という科学的観点から示されたのだし、ごく単純な「気付き」を得るという理由から、探り、知覚するよう促されていた。カシオペアンによれば、私達をこのリアリティに結び付けているのが気付きなのであり、高次のリアリティと双方向的に気付き合うことによって、私たちは人間が通常持つ限界を超えることができるのだった。そして、私達が気付きを拡大し、同時に高次の気付きに働きかけるとき、私たちは自分達の一部を育んで行き、それが最終的には高次のレベルに「合致」して、卒業となるのだ。

誰かがこんなことを言っている。「人間というものは、ものごとに対し常に二つの理由をつけるものだ。ひとつは『まことしやかな理由』。もうひとつは『本当の理由』」
http://systemincome.com/tag/%EF%BD%8A%E3%83%BB%EF%BD%90%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3
私達の考えでは、「心理学的理由」を超えた所に深い理由があり、これは言ってみれば「神学的理由」で、それが方便として顕現させるのが「本当の理由」であって、私達は神学的リアリティを見通そうとしているのである。

私達メンバーはみな、神秘主義思想の様々なテーマに亘る文献を広く渉猟し、ある程度は科学をも学んだのだったが、みな一様に、理解のカギとなる重要なピースが欠けていると感じていた。私達はそのカギを探し求めた。人が自分の置かれた状況を、心理学の動学を考慮しないで、厳密に人間の観点から見るとき、「本当の理由」というワナに陥るのだと、私たちは知っていた。愛と光の教えは、長きに亘って広められてきたけれども、何らかの理由からこの考えは、一層悲惨な状況を招くのみであるらしいことを、私たちは知っていた。

私たちは原理的な観点から始めて、徐々に神学的ドラマを見分ける術を身に着けてきたのだったが、この時点では確かに、もっと多くのものを極めて深い所まで学んでいた。フランクに関しては、心理学的問題のあることが私達みなにとって常に明らかだった。私達はフランクに関する心理学的問題を、専ら同情心の観点から、そして、フランクおよび私達自身に対する同情心との付き合い方の学びという観点から考えた。フランクの問題が彼の本性を解く手掛かりだなどと、私達は考えたくなかったのだが、そういう観方をする結果、私達は妄想に取りつかれ、真実を見るのを拒んでしまった。人間関係の迷路を抜け出す術を学ぶ事、すなわち、私達と交流のある人々の行動の裏に隠された本当の理由を見抜く事が、私達の初期の関心事だった。既に述べたように、不幸にもこのための学びは、多くの人々に対するフランクの強力なネガティブ反応によって歪められがちだったし、鬱陶しい事になるので、フランクに対して、誰かを好きか嫌いかと単刀直入に訊こうというような気も概ね失せた。その典型例がリチャード・ホーグランドだった。

この頃までには、私たちの全員が『ラー文書』を読んでいた。それはごく早い時期にシーズに勧められたからなのだが、その頃はまだセッションをテープに録音したり、ノートに取ったりしていなかったので、言われた通りを再現することはできない。ただ、言われた内容としては、ラー文書を手引きに使えば、「自己への奉仕(STS、service-to-self)」と「他者への奉仕(STO、service-to-others)」という根本的な概念を把握する上で大いに時間を節約できるということだった。この一見簡単な概念の中に、「本当の理由」の裏にある理由、すなわち、神学的ドラマが顕現していたのである。

最初、徐々に分かってきたのは、心理的に問題を抱えている人であってもSTOを志向する場合があることだった。そのような人はもちろん、STS志向のこともある。反対に、心理的に障害が無さそうな人が、全くのSTS志向ということもある。私達を欺こうとしてかけられる言葉には耳を貸さず、人々の行動だけを観察するのがSTO/STSを見分けるカギだということが私たちには分かって来た。

このSTOとSTSという言葉は、愛の概念と、切り離せないほど絡み合っている。私達は一人ひとりの人について、誰それを愛しているので奉仕したいと言うものである。だが、ここで疑問が生じる:彼らのどの部分に対して私たちは奉仕しているのだろうか?霊的に成長しようとし、神と一体になっている高次の部分だろうか?それとも肉体で生き残ろうとしている低次の部分だろうか?同じ過ちを繰り返している人を助けるとき、私達は明らかに、その人が学ぶのを邪魔しているのだ。そのような場合、私たちは何に奉仕しているのだろうか?それは私達自身に対してであるとみてまず間違いない。というのも、「辛抱強く」「自己犠牲的」であることで、私たちは「いい気持ち」になれるからだ。私達の自己満足的な努力のせいで、相手の人が全く進歩できないのは、見れば明らかである。特に相手が、自分の愛する人である場合には、「苦しむ姿を見るのが苦しい」ために、援助を断ったり、傍にいるのを拒否したりする方が遥かにずっと難しいかも知れない。だが、相手が成長するためには、まさにそうすることが必要なのだろう。相手に自ら手出しせず、十分な苦しみを味わわせてこそ、その人たちも困難から抜け出す方法を見出すことができ、魂を強く鍛え、その人たち自身の強さと潜在能力にアクセスできるようになるのだ。

だが、ここで逢着するのが、裁きの問題である:私達は、相手が本当に魂のレベルで求めているのか、それとも肉体のレベルでなのかと判定していないだろうか?私達が間違うことはあり得ないのだろうか?

私達が他人に何かを与えるとき、それが相手の自由意思を侵害していないか、どうしたら分かるのだろうか?「求めること」に関する古代の教えの中に、多少の手掛かりがある。そうした物語では「求めなさい。そうすれば与えられるだろう」と述べられている。だが、もっとよく調べてみると、本当はこう言われているのが分かるだろう。「求めて、求め続けるならば、与えられるだろう;探して、探し続けるならば、見つかるだろう;門を叩いて、叩き続けるならば、門は開くだろう」

この点を明らかにするイエスの喩えは数多くあるが、特にはっきりと説かれているのは、ルカによる福音書11章5-13節の「真夜中の友」の話だろう。
(※5:また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6:旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7:すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8:しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
9:そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12:また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 ※※)
インドやチベットのヨギの教えでも、同じような流れが一般的である。嘆願者が十分な努力を尽くしてはじめて、答えがもたらされるのだ。場合によっては、何年もの間求め続けなくてはならないのである!だから、従うべき優れた一般的ルールは、真に求めたと言えるには、求める側の方で誠実な努力を行い、求めるもののために力の限りあらゆる事を行わねばならないということなのだ。

ということで分かってくるのは、人間界における他者への奉仕は、時として、単に相手のSTS的部分、すなわち、第3密度の肉体への奉仕に過ぎず、高次のバランスを達成するという意味での真のSTO的なものでないということである。いくら子どもを愛しているからといって、頼まれる度にあなたはキャンディーを与えるだろうか?どんな求めにも応じるのが、本当の「奉仕」なのだろうか?常にキャンディーを食べ続ける結果、彼らがついには糖尿病に罹って死んでしまうとしてもそうなのだろうか?あなたの子どもが生きて行く間、無作法を働くたびにとりなしを求めて、無作法の結果起こる事を彼が経験するのを妨げてしまったら、彼はどうやって成長すればいいのだろうか?

理解が必要なもう1つの側面は:第3密度では、私たちはどうやってもせいぜい自己への奉仕しかできないということである。生きて行くには摂食しなくてはならない、肉体の中の存在という本質上、私たちは純粋なSTOの存在ではあり得ないのだ。それが結論なのである。このことを理解し、受け入れ、私達が居るこの状態での学びにフォーカスしつつ、最低限の気付きを得、その気付きに従って行動してこそ、私達は「STO候補」になるチャンスを手に入れられるのだ。

これを達成するには、STSとSTO、それぞれを志向する高次レベルの存在間における戦いを表す、魂の動学に気付いて、どちらの動学と連携したいか選び、その選択に従って行動することである。カシオペアンは、「知識は守る」と言うが、彼らの観方からすると、実際に適用するまでは知識ではない。それまでは、単なるデータあるいは事実の集まりに過ぎないのだ。

こうして私たちは人がもし、ここで論じているような状況を、その内に含まれている魂の動学を考慮することなしに見るならば、きっとそれは「コップの中の嵐」、「些細な口喧嘩」あるいは「調和が欠けている」という程度にしか見ないだろう、ということが分かった。人間の観点では、人間同士の動学におけるやり取りで起こることの殆どは、そのように判定される。この人間の判定こそ、私達が本質を見極めるよう試されているものだ!見えざるものを見てこそ、私達は高次レベルの存在に気付けるようになる;ありきたりな人間同士のやり取りの中でこそ、STS勢とSTO勢との間の戦いを経験できるのだ!そしてこの要素こそが、マトリックスのコントロールシステムが何としても隠したいものに他ならない!

私達が生きているこの時代について、そして、私達が論じているテーマについてイエスは、こう言っている。
4:「人に惑わされないように気をつけなさい。。。
11:偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。。。
24:偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。。。
25:あなたがたには前もって言っておく」(マタイによる福音書24章4、11、24-25節)
34:「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35:わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
36:こうして、自分の家族の者が敵となる」(マタイによる福音書10章34-36節)

使徒パウロはエフェソの信徒への手紙6章11-12節にこう書いている:
「11:悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
12:わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」
ヘブライ人への手紙4章12節はこうだ:
「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」

フルカネリ他の錬金術の著作を読まれた方なら、「偉業」の要素が「イエス」と「パウロ」からの引用の中に現れていることにすぐ気付かれよう。

聖書の中のこれらの章節は、キリスト教の諸派によって概ね殺人や戦争を正当化するのに用いられてきた。だがこれこそまさに、私たちがここで扱っている問題なのだ。これらは物理的な剣と憎悪というSTSバージョンの解釈を施され、誰が救われ、誰が救われないかを裁く権威を教会が持つ根拠とされた。もちろんながら、「救われ」、教会の保護を受ける人々とは、「平和と調和」および「愛と光」の教えにのみ従わねばならなかった:「反対の頬をも向けよ」とか、「無視しているうちに、そんなものはどこかに行ってしまう」とか、「些細な口喧嘩だ」といった具合である。真実しか述べないことを選ぶというのは、自分の言動に責任を取ることを選ぶという意味である。このような事に対して普通の人々が概して行う解釈は、「どうして私達は愛想よく振る舞って、仲良くできないのか学派」の思想に従う機械的反応である。それこそまさに、マトリックスのコントロールシステムが推進するものだ。

教会は自分たちに都合のいい無抵抗の教えを広めてきたのだから、上に挙げた聖書の言葉(および、類似のもの)が既に広く知られていて、削除したら人々に気付かれてしまうというのでなければ、聖書の中に残しておいたりしなかったに違いない。確かなのは、教会の人々が自分たちの学びの中で、超次元のリアリティに気付き、高次の真実という手掛かりに従って行動することを理解するための努力を行わなかったということだ。

「剣」とは、イエスの用語法で「真実」(あるいは神の言葉)という意味だと分かれば、さらに納得がいくだろう。「父母に対する憎悪」を、STSに連なる勢力の代理人である以上、家族によるコントロールや操作も拒絶すべきだという意味で理解すれば、全く違った意味合いとなろう。

私達のリアリティが私達を牢獄に閉じ込めており、私達を食物やエネルギーとして利用しているのだというカシオペアンの説明は、当然ながら気の滅入る話である。もちろん私はこのテーマに関するグルジェフの教えにすっかり親しんでいたので、これは新しい考え方ではなかったが、人間同士の交流によって、どのようなメカニズムでそれが行われるか指摘する、かくも臨床的な説明には、殆ど耐え難いものがあった。私はまだカスタネダを全部読み終えていなかったので、彼の遺作で、それまで彼がすっかりは明らかにしていなかった、これと同じ事が述べられているとは知らなかった。フルカネリも未だ全部は読んでいなかったので、本テーマに関する彼の教えも見極めていなかった。それらはいずれも、この2人が暴露しようとしていた当のシステムによって、彼らが加えられるであろう危害を考慮した上で、この明らかな真実を可能な限りベストな時期と背景において明かしたものだった。だが、イエスの教えに関して、分かってみて一番驚いたのは、彼がカシオペアンと全く同じことを言っているらしいことだった。

新約聖書を調べて、エジプト的な蘇りの神話という明らかな見せかけをとり除けば、後に残るのは明らかに「この世界の神」は「邪悪な魔術師である!」というグノーシス派の教えである。読者がこれら2つのテーマに関する事実の全てを知れば、新約聖書は情けないくらい読みやすくなり、「イエス」の語った原型と私たちの知るキリスト教をでっち上げた連中が付け加えた部分とを見分けられるようになるだろう。初期キリスト教徒に関するもっと詳しい議論については拙著『世界秘史』第5章を参照されたい。

中世のカタリ派は、イエスとして知られるようになった男の元々の教えの一部を信じていたようである。奇妙な事に、彼らの結婚観によると、この世界は、人々の心に侵入し、その結果魂を更なるワナにかける、人間の姿をした存在たちによって支配されているのだから、子供を産む=人間を増やすことは闇を永続させることになる、というものだったようである。この考え方は、最近になって実に興味深い進展をみた。テンプル大学の歴史学教授であるデビッド・ジェイコブス教授(博士論文のテーマはUFO史)が、エイリアンアブダクション現象について徹底的な調査結果をまとめたのである。ジェイコブス博士によれば、長年に亘る綿密な調査の結果、今では、エイリアンがやって来る、恐るべき理由が分かったという。ジェイコブス博士は、子孫を作ることが、アブダクション現象の背景にある、一番の目的なのだと言う。栄養たっぷりの子孫を作るというのは、私たちが家畜の肉付きを良くし、単位面積当たりの植物の収穫量を増やすために交配を行うのと同じような事なのではないかと懸念される。私達が推測する以上に、「上の如く下もまた然り」なのだ。

こうして、エイリアンアブダクション現象とカタリ派の教えとの間には、奇妙かつ恐るべきつながりがある事が分かる。もしカタリ派が、本当にイエスが説いた内容に、より近い形のキリスト教だとしたら、謎全体の意味が分かって来る。「イエス」が説いた事とはどうやら、超次元の生物が実在することなのだろう。しかも連中はタイムトラベルが可能で、人間の心に侵入してそれをコントロールすることができ、連中の一番の栄養源は人間の肉体、心、感情なのだ。ドン・ファンは、「やつらが乗っ取ったのは、わしらがやつらにとって餌だったからだ。わしらが栄養物だからといって、やつらは無慈悲に搾り取る。われわれ人間が鶏舎で鶏を飼育するように、捕食者どもは人舎でわれわれを飼育する。そうしておけばいつでも食い物が手に入るってわけだ」と言っていた。そして、ドン・ファンは連中が見付からずにこれをやってのけられるのはどうするからだと言っていただろうか?それは連中が「自分の心をわれわれに与える」からだった。

この「捕食者の心」について、ドン・ファンは何と言っていただろうか?

パズルの様々なピースをつなぎ合わせると分かるのは、カスタネダの「捕食者の心」=グルジェフの邪悪な魔術師の使う「催眠術」=マトリックスのコントロールシステムと私達の生体-宇宙コンピュターである身体とのインターフェースとは、私達のDNAなのだということであり、これらが、私たちの感情に対するコントロールによって脳内に特定の物質を生み出す結果、私たちはコントロールされ制限されているということである。こうして私たちの脳と神経系の成り立ちは決定され、それには、子ども時代の「刷り込み」も含まれる(このテーマについては、『ザ・ウェイブ』の後の巻で論じる予定である)。この刷り込みとは、ある年齢になった、何もコントロールできない状態の私達の脳内に回路/プロセスを形成する作用のことである。このような回路が一旦出来上がると、大規模なメルトダウンでも起きない限り変更はほぼ不可能で、以後永久に、入って来る情報のカテゴリー分けの方法が決まってしまうのだ。実際、私たちはレプティリアンDNAを持っているし、鳥のDNAも持っている。実のところ、私たちは正真正銘、周りに居るあらゆる生命体のDNAの寄せ集めなのだ。にもかかわらず、レプティリアンDNAをコントロールするような何かが進行中であり、そういう背景を踏まえてドン・ファンは「やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ」と言ったのである。

そしてまた、このようなコントロールプログラム=食餌という化学作用は、他の人間、特に近親者とのやり取りによって刺激され、永続させられるというのが、科学の示す冷酷かつ厳然たる事実なのだ。

意識ある人間の約50%は非創造的な、不存在(※インヤンの陰の方)の思考から成り立っている(※無魂)。不存在の思考も含める形で「全」を定義する結果必然的に生まれる、この考え方からすれば、STSの辿り着く末とは「深い眠りについている物質」(※インヤンの陰の方)であり、魂を持つ、創造的な半数の人間は、このような「人々」と共演しているのである。意識のサイクルにおいては、ある物質は「霊化」され、ある意識は「物質化」されるのだ。

意識ある人間が、STSの道に従い、霊化する道を選ばず、物質化の道を選ぶのは、自由意思による選択であって、私達はそれが悪いとか、治療が必要だとか考えて、許したり、裁いたりする必要はない。しかしながら、既に見たように、物質化する意識は「ブラックホール」の思考センターの方向に向かう傾向がある。ダマシ、操作、コントロール、他人に取り込まれるというSTSの原理に基づく「愛」を教えるのが、この「捕食者の心」なのであり、その目的は、始原物質の再生というブラックホール的機能を果たすことなのである。それが私たちにとっての問題である。STSやOPと一緒に踊っていると、私達も物質化される危険があるのだ。このような交流によって、私たちは美点を失ってしまう。。。文字通り、交流=相互作用の結果だ。

意識を物質化する道を選んだ人々は、益々ウィッシュフルシンキングにフォーカスし、周囲のリアリティからワープして行っていることに、益々気付かなくなる。そして、私達がイエス、グルジェフ、グノーシス的スーフィー、カスタネダ、カシオペアンから学んだように、私達が住むこの世界のルールはSTSのヒエラルキーによって定められ、コントロールされ、大昔から存在してきた。コントロールシステムの暴露が試みられるたび、マトリックスが暴走して、それを阻止する。明らかにこれが現在の状況である。

つまり、私達が行っているのは些細な論争などではなく、他のレベルにおける戦いが ― いつもながら − 人間の動学の中に顕われているのである。

かくして、物質の道に従うか、霊の道に従うかという選択が行われねばならない、存在の重要なレベルには、はっきりとした境界線が設けられねばならない。実は、上で引用したイエスの言葉はこの問題に関するものだ。

私達のリアリティから少しずつ集まる手掛かりから、連携する相手として誰を選ぶかということ、そしてその知識に従って行動することこそが、どうやら私達に課せられた最大の課題であるらしい。誰/何と一緒にダンスを踊るか決めるのは私たちの責任である。というのも、悪魔からのダンスの誘いはとても頻繁にあるからだ。

カスタネダが小暴君による「システマチックな嫌がらせ」と呼んだものの持つ意味合いもこれである。自分が悪魔とダンスを踊っているという、ちょっとした手掛かり(あるいはその組み合わせ)を、手にしたときには、そうなのかどうか、すなわち、またしてもマトリックスによる単なるダマシなのか確認する必要があるのだ。だからこそ、システマチックな嫌がらせとは発見のカギである。本物のSTS派が相手なら、人間同士の動学的関係を介して行われる、このような人物によるSTSヒエラルキーの食餌行動を見分け、それを逃れるための戦略的行動の要点は、『内からの炎(意識への回帰)』で詳述されている通りである。

不幸にも、教会が「剣」および「家族への憎悪」に関するイエスの言葉を故意に誤解したのと同じく、「システマチックな嫌がらせ」の原理が、コントロールから自由になる道具であることを完全に理解している人は殆ど居ない。人間の半分は物質化という説明を言葉では理解できるが、自身が霊を持って居ないために、霊を知覚できないのだ。だが、本シリーズでは間もなく、このことについて述べるつもりだ。

本シリーズで述べる事件の詳細から、読者は私たちの人生で上演されている神学的ドラマに気付く事の本質について学ばれよう。このドラマに気付き、霊的気付きに従い、言葉や行為の一般的な定義に従わないようにしてこそ、私達は高次領域との絆を築くことができ、その結果、卒業生候補になれるのだ。

(本章終わり)
posted by たカシー at 09:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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