2015年04月09日

ザ・ウェイブ 第13章:存在する全ては学び(多少の付論)

ザ・ウェイブ 第13章:存在する全ては学び(多少の付論)
http://cassiopaea.org/2010/05/12/the-wave-chapter-13-all-there-is-is-lessons-some-further-remarks/


多少の付論

私たちが住み、動き、存在している、この物質世界が、実はもっと深いリアリティにとっての象徴体系であるという考えに同意する人々は少なくない。しかし、その解釈となると多岐に亘っている。

ある人々の信じるところでは、この象徴体系はハイアーセルフが意識とコミュニケートするために顕現させた、自らが創造したリアリティである。一切が究極的には神/一者であると考えれば、これは最もシンプルかつ正しい説明だろう。人間が例えば、サイコキネシス(念力)の能力を確かに備えていることからしても、これが紛れもない事実であることが分かる。

だが私はこのことを、異なる視点・レベルから述べてみたい。実際的な観点に立つ私にとって唯一可能な方法は、私自身の奇妙な幾つかの経験を詳述することだ。読者を退屈させたくないので、そうすることにはためらいがあったのだが、他人が体験に照らして共感できるよう、多少具体的な例を公にする以上に、実用的な方法は無いのである。できるだけ簡潔に述べてみようと思うが、宇宙のドラマが持つ誠に奇妙な複雑さをお伝えできるくらいには、十分詳細なものとなろう。だが、こうした情報の全てを実際に示す前に、触れておくべき重要な事がいくつかある。

前章で私たちは、グルジェフ、カスタネダ、カシオペアンが皆、第3密度は牢獄だと言っていることを見てきた。グルジェフによれば、これは諸力が人間に働いてコントロールするせいであり、これらの力は幾分漠然としたもので、別のレベルすなわち創造の世界に属しているという。ドン・ファンによれば、私たちが牢獄に居るのは、捕食者どもが私たちを餌にしておくために、「自分の心をわれわれに与えた」からであった。彼は高次の世界について、未知および不可知という言葉を使って語っている。カシオペアンが言うには、私たちが牢獄に居るのは本質的に私たちが学び、経験を積むべく、それを選んだからである ― そして、神/宇宙は、レベル7で制作され、脚本家、プロデューサー、監督、俳優等々を備えた劇であるかのように、密度の諸レベル全体を通して上演されているこの壮大な宇宙のドラマを、いわば「楽しんで」いるという。これら全ての役を「演じる」のは一者なのだ。

その一方でウスペンスキーは、私たちがどの力ないし法則の下で(すなわちドラマの役どころ)生きるかを選ぶことができると言う。「力が体内に入り込むと、人はこれを自分が欲望、共感、誘惑を感じているのだと思います。しかし、それは単にあらゆる方向から力が入り込んでいるだけ」なのである。

このような場合、人は「偶然の法則」の下で生きているのだと彼は述べている。カシオペアンによれば、このようにランダムな状況となっているのは、人間を支配下においているコントロール・システムの企みである。コントロール・システムは高次密度の存在が人間を食料とし続けられるよう、彼らを混乱させ気付かせないようにしているのだ。ドン・ファンが言っているのも結局同様のことだ。これを「カオスの法則」と呼ぼう。

そしてグルジェフは、このような混乱と偶然に満ちた状況も、私たちが目覚め始めるとき、消えだすと言う。彼は指摘する。「この法則は非常に大きく、かつ、多面的です。程度の問題なのです。物事が絶対的なのは絶対の中においてのみです。私たちにとっては長い階段を昇って行くようなもので、法則から逃れるのは1段ずつなのです」(※ウスペンスキー『第4の道』)。彼によれば、人は真に何かを為すことはできないという。すなわち、私たちは高次のレベルに達するまでは、自らの選択や方向性を何らコントロールすることができず、そうできるようになるための唯一の方法は、これらの影響について理解するよう努力し始めることであると。というのも彼が言うように:「そのことを知っていれば、私たちは何かを変えることはできる」からだ。(※同上)

彼が言うのはどうやら、「知ること」こそ、私たちが高次の諸力に対して自らを開くプロセスの一部だということのようである。彼は述べる:「高次の力、すなわち高次の影響とは通常宇宙からのものです;しかし、私たちはこれを受け入れることもできれば、これに対して身を閉ざすこともできるのです。私たちが眠っていれば、さらにこれに対して身を閉ざすことになります。そして、眠りが深ければ深いほど、益々これに対して身を閉ざすのです。私たちは目覚めることで、高次の影響を受け入れられるのです」(※同上)

この「高次の諸力に対して自らを開く」というのがどうやら重要な要素らしい。というのもそうすることで私たちはどの高次ソースからどんな影響がもたらされているのか識別し始めることや、自分がどの影響に「支配」されたいかを選べるよう、ある種の意識的なシフトを行うことが可能になるからだ。

ここで思い出されるのが、私自身が経験した「リアリティの消失」の例だ。
http://takapachi1962.seesaa.net/article/362261776.html
あの時私は、これらのリアリティとは、全ての密度に浸透している思考センターなのだと言われた。ウスペンスキーは以下のように述べている:

「人間は切り離されて単独で存在するのではなく、全有機的生命の一部なのです。地球には有機的生命 − 人間、動物、植物 − 全てが必要です。創造の光は育ちゆく枝であり、有機的生命が仕えている地球と惑星との間のコミュニケーションは、この枝がさらに育っていくために欠かせません。全てがつながっていて、切り離されたものは無く、小さな存在と見えるものも、もっと大きな目的に仕えているのです。。。有機的生命は宇宙固有のユニットであり、人間はこの有機的生命という大きな塊の1ユニットなのです。彼にはさらに進化する可能性がありますが、それは人間が努力し理解を深めるか否かにかかっています。ある数の人間が、宇宙の目的である進化を遂げるでしょうが、全員ではありません。それでは宇宙のもう1つの目的に反することになるからです。人類が地球上に存在して人生を送り、苦難に遭うべきであることは疑いありません。しかし、逃れられる人間の数は限られています;この脱出は宇宙の目的に取り組むことでもあるのです。。。(原注1)
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原注1:ウスペンスキー『第4の道』


「高次の諸力に対して自らを開く」方法はというと、カシオペアンが言うには「リアリティーというシンボル」の意味に気付くことである。私たちは最初、これらのシンボルが自分の内に ― 肉体的・霊的・感情的・精神的に ― 顕われるのに気付くのだが、やがてこの気付きは外へと広がって、私たちは周りの環境を理解するようになる。どうやら私たちの環境・経験は、個人的にも集合的にも、選び取る影響を反映するようだ。かくして私たちはまず初めに、私達自身や私たちの思考・行動が実際に起こってくる場所について、言うならば、どの影響が支配的なのかについて調べることから始めなくてはならない。そうすればやがて、この影響とのやり取り − 上演 − を続けるのか否かについて選択を始めることが可能になるのだ。そうすることで私たちの環境・経験は、このような選択の結果を示すようになってきて、それによって私たちは、選択が正しかったことを確証し、あるいは否定するフィードバック系を手に入れるのである。私たちのリアリティに関する選択は、外部についての知覚に依拠して行われることもあれば、内部についての知覚に依拠して行うこともあろう。ウスペンスキーは語る:


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「もし、無知について理解できてきたら、私たちは1つの法則から逃れられるのです。。。ですから、諸法則の支配を脱するには、まずは自分を解放してくれる法則を1つ見付けてそれから自由になることが不可欠です。こうして1つの法則から自由になったら、次の法則を見付けます。そして、これからも解放され、以下同様に続けていきます。これが法則について学ぶ上での実践的なやり方です。。。何かにつけて私たちの邪魔をし、主観性に捕われたままにしておこうとする法則は様々です。。。(原注2)
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原注2:前掲書。


このようなカオスの法則や偶然の法則から自由になる方法は数多くある。このことは、数多くの宗教や哲学の文献を広く研究してみれば実証できる。しかし、膨大な書物を研究する際、比較によってのみ明らかになる事があり、グルジェフはこの問題についてかなり明確に説いている。彼はそれらを「4つの道」として述べているのだ。

私たちは心と幻想について語り、全ては「1つ」であると述べた。確かに、全ては心/意識なのだが、私がこの作業の間中強調してきたのは、実際的でなければならないということ、そして、進化途上の私たちのレベルでの方がアクセスしやすい物事に面と向き合わねばばらない、ということだった。

私たちは第3密度に生きている。それは事実だ。私たちが現在持つ意識の断片はここにフォーカスしている。だから第3密度から、宇宙の観点で「1つになる」ところまで跳ね上がろうとするのは、とんちんかんなことである。直接第7密度のコンセプトに飛び込もうというのだから。確かに私たちは限定的にはそのコンセプトについて知ることが可能だ ― 私たちはそれらを想起して楽しむことはできる ― だが、あらゆる点から考えて、私たちが次の段階に進むには、今ここで学ぶべき事を学ばなくてはならないのである。これも法則の1つだと思われるが、錯乱させられた人々にはそれが分からない。だが、これから見て行くように、またしてもこれには訳があるのだ。

数多くのチャネリング・ソースが、「1つになる」よう、そして、心でもって幻想を生みだすよう説いているが、これらはいずれも正しい!では騙しが始まるのはどこかと言うと、そうしたソースが、「私たちは菩提樹の木の下に座して、自分のへそを見詰め、仏陀のようになりさえすればいいのです」と言うときなのである。確かに極くまれには、それが可能な例もあるだろうし、そうすることでパワーを手に入れることが可能な場合もあるだろうが、「果実による判定策」に則り、文献を丹念に調べて行くうち、このような教えには幾つか小さいながらも奇妙な不具合が見つかるのだ。

『ラー文書』でお馴染みのカーラ・ルカート=マッカーティは、最近私たちのeディスカッション・グループに転送されたメールの中で次のように述べている:


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この密度におけるスピリチャルなワークの仕方には2つあるように思われます。愛の道と知恵の道です。一般的に言って、仏教は知恵の道に専心し、キリスト教は心の道(※愛の道)に従事するものと言えるでしょう。知恵の道では、知識、平和、無執着が求められ、信徒は空や無の境地に達しようとします。とても平和で穏やかではありますが、愛の道に比べて歩みがゆっくりしていると思います。愛の道では、憐みと情熱の純粋さ、それを貫こうとする意志が求められ、信徒は全てが満たされ統合されたという感情を得ようとします。私に関して言えば、この密度でのワークとは、現時点の愛に専心し、現時点、およびそこで育みつつある愛に対して心を開くことに従事することだと思っています。これは普通、平和でも穏やかでもありませんが、正しいと思えるのです。好みの問題でしょう。どちらの道の学びも有益です。
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これはかなり標準的なニューエイジ流の解釈である。原理主義キリスト教の観方よりもいくらか広く、素直なものだが、大いにという訳ではない。だがこれは、実は修道僧、すなわち、聖人の道なのである。

既に述べたように、本当は2つより多くの道がある;既述の通り4つだ。(原注3)
グルジェフが説いたのは、修道僧の道、ヨーギの道、ファキールの道、そして第4の道であるが、どうやら彼は、長きに亘って接触していたスーフィーの教えからこれを得たらしい。第4の道とはおおよそ、通常の生活の備える全ての状況をうまく利用する人間に対して開かれている道で、確かに(ある所までは)ドン・ファンの唱導しているものに、そしてまた、カシオペアンの述べるものにかなり似ている。


原注3:実は第5の道もあるのだが、
http://www.gurdjiefflegacy.org/40articles/mouravieff1.htm
ここでは立ち入らないでおく。第5の道のワークはまれであり、人類史の節目に現れる、まれな人々だけのものであるとだけ言っておく。確かに私たちもそんな節目に居るのだが、一般の読者に対して第5の道について述べてもあまり意味がない。


修道僧の道とは、カーラが選んだ行き方として述べられているものによく似ている。これは信仰の道であり、宗教的感情、宗教的犠牲の道である。(※『奇蹟を求めて(ISOTM)』浅井訳82ページ)強烈な宗教的情緒、強烈な宗教的想像力を持つ人にとっての道だ。長く困難な道であり、その点についてはカーラ自身も「これは普通、平和でも穏やかでもありませんが、正しいと思えるのです」と述べている通りである。

この道を行く修道僧は、何年、何十年という期間を自分自身との闘争に費やす。感情との戦いである。彼/彼女は、他のすべての情緒を1つの情緒、つまり信仰に服従させることによって、内部に調和を発達させる。この人は情緒をコントロールする意志の発達に努めるのである。カーラはこの点について、はっきりとこう言っている:「愛の道では、憐みと情熱の純粋さ、それを貫こうとする意志が求められ、信徒は全てが満たされ統合されたという感情を得ようとします」

しかし、グルジェフによれば、この人の肉体と思考能力は未発達のままなのであり、修道僧/聖人として獲得したものを活用できるためには、彼は肉体と思考能力を発達させなければならない。だが、これは新たな一連の犠牲によってのみ達成することができるのだ。修道僧はヨーギとファキールにならなければならないのである。だが、そこまで辿りつく者はほとんどいない。彼らの殆どはそこに至る前に死ぬからだ。この道にはもう1つ問題がある。結晶化が誤った土台の上でも起こりうるのだ。これについては、対処法と共に前章に引用しておいた通りである。

カーラが「知恵」の道と呼んだもの、すなわちヨーギの道として知られるものは、知識の道、精神の道である。この道は精神を発達させる努力から成るのだが、カーラも正しく述べているように、結果的には、肉体と感情が未発達のままで終わることになろう。彼女はこう言っていた:「知恵の道では、知識、平和、無執着が求められ、信徒は空や無の境地に達しようとします。これはとても平和で穏やかな道です」。だが、肉体と感情が未発達のままのため、この人が獲得した成果を活用するには、肉体と感情に対する支配力を手にしなければならないだろう。このような人はすべてを知っているが、何一つすることができないのだ。彼/彼女は新たに修練を始め、長時間努力してその成果を手に入れなければならない。

ヨーギの道と、ファキールおよび修道僧の道との主な違いは、ヨーギが自己の立場を知っており、また自分が何を欠き、何をしなければならないか、どの方向に進まなければならないかを知っているという利点をもっていることだ。これは修道僧の道で達成する以上のものだ。というのも、修道僧は自分が何かを達成したと信じて死んでいくのだから。だが、知識の勝利もまた空しいものである。彼もまた、目標を達する前に死んでしまうため、次の段階に進むことができないからだ。

ファキールの道は肉体との闘いの道である。これは長く困難だ。目的は、肉体に対する意志と力を発達させることにより超越的な域に達することである。これは肉体を責めさいなむことからくる、ものすごい苦痛によって得られる。ファキールの方法全体は、信じがたいほど困難なさまざまな肉体訓練から成っている。ファキールは、同じ場所に何時間も、何日も、何カ月も、何年も動かずに立ち続けたりするのだ。病気になったり死んだりしなければ、彼は何かの目標を達成する。何を達成するのか?彼は肉体的意志を手に入れるのだ;しかし、彼は意志こそ獲得したが、それを適用する対象をもたない。彼は意志を知識や自己完成のために活用することもできない。というのも、概して、彼は新たな仕事を始めるには年を取り過ぎており、死が待ち受けているからだ。

ファキールの道には、普通、師はいない。この道を志す人は、自分の見たファキールが意志の力で行っている、信じられない離れ業に感銘を受け、それに取り憑かれた結果、まねしてみたくなったのかも知れない ― 自分でもそんな偉業を成し遂げたくなったのだ。

修道僧の道では、師を持つことが肝心である。修道僧の道における仕事の一部は、師への絶対的な信頼を持つこと、彼に絶対的に服従すること、従順であることだ。この道は概して、神への信仰、神への愛を探し求める。そして、何があっても愛を表明することによって、神に服従し仕えようとするたゆみない努力に対する信頼を探し求める。もちろん、宗教の歴史から分かる通り、神の観念に対する理解、神に仕えることについての理解の中には、主観的で矛盾したものがたくさんあるだろう。

幸いなことに最近では、この修道僧の道が別の背景の中でも営まれ得るという考えが益々受け入れられるようになったために、神に関する特定の観念に従わない人々が殺害される傾向は少なくなった。(原注4)


原注4:本稿の書かれたのが、911および、「原理主義的イデオロギー」によるアメリカ乗っ取りの前であることに注意されたい。原理主義は異端審問の「すべて殺せ。神は己の者を知り給う」という考え方を推し進めるのだから。


だがそれでもなお、この道に従う人々は概して、これこそが他の道に比べ「ベスト」ないし「ベター」だという考えに固執している。カーラも本質的に同じことを言っているのだ。彼女は、心の道こそが「エリートコース」であり、自分にとっても他の多くの人々にとっても、「不死なるもの」になるためのエリートコースであるとの考えを述べている。

ヨーギの道を志した者は、1人ないし多数の師につくことから始めるが、しかし後になると、次第に自分自身の師にもなっていく。彼は師の方法を学び、次第にそれを自分で使えるようになっていくのである。

これら3つの道に共通する重要な点は、普通の人々の生活からリタイア(引退、隠居)する必要があるということだ。不可欠な闘争の多くは、「隠遁」すなわち、一人きりでの瞑想の中で行われる。これらの方法はいずれも、何らかの重要な点において日々の生活の仕方に反しているため、実践者は「実社会」に適応するには何らかの困難を抱えるのが普通である。

第4の道は、グルジェフ、そしてカシオペアンやスーフィーが唱導するものだが、実社会から隠遁する必要が無い。そしてまた、ファキールや修道僧、ヨーギの道のような、ある確固たる形式を全く持っていない。

第4の道における「ワーク」は、人がそれを始めるときに置かれている状況を活かすことが重要で、それが彼のあらゆる側面に同時に影響を及ぼす。彼は肉体をマスターし、精神的に発達し、感情を統合しコントロールできるようワークに励む。これを達成するには覚醒が必要で、さらに正しく理解された知識と意志と愛も無くてはならない。彼は肉体、精神、感情をマスターしなければならないのである。

第4の道に最も必要なのは、スーフィーの教えやカシオペアンの情報のいずれにおいても、理解だとされる。私たちは可能な限り、このリアリティに対する気付きを増大させ、さらなる発見と理解のために実験としてやるのでなければ、理解できないことは何一つやってはいけない。自分が何を、どうして、どのように行っているかを理解すればするほど、努力の結果は大きくなる。感情の浄化は理解によって加速される。

第4の道では信仰は全く要求されない。それどころか、キリスト教的な意味における信仰はこの道に反する。第4の道では、人は、「語られたことが真実であることを」調査、探究、そして実験によって、「自ら確かめなければならない」(※ISOTM、87ページ)。そして得心するまでは何もしてはならないのである。だが、このワークの結果、信念が築かれる。全く別の種類の信念である。

「この4つのうちでは、ファキールが最も粗野なやり方をする」とグルジェフは言う。彼はほんのわずかしか知らないのに、強烈な苦行を通して信じられない程度にまで肉体をマスターするからだ。

「修道僧」はもう少しよく知っている。彼は宗教的感情、自ら選んだ宗教の伝統や、目的達成すなわち救済への欲望に導かれている。彼は(イエス、仏陀、その他誰であれ)自分が選んだ師が体現している宗教を信じており、自分の努力と犠牲は神を悦ばせていると確信している。

この辺りの心理については、上掲のメールにも幾つか手掛かりが示されている。カーラは、「知恵の道では。。。信徒は空。。。の境地に達しようとし」、「心の道では。。。信徒は。。。満たされ。。。たという感情を得ようとします」と述べている。ここで思い出されるのが、捕食者に関してドン・ファンが語った言葉だ:


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われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは。。。自分の心をわれわれに与えるのだ!。。。捕食者どもの心は粗野で矛盾だらけで陰気だ。そして、今にも発見されてしまうのでないかという恐怖に満ちている。

おそらくおまえは飢えを経験したことがないのではないかな。にもかかわらず、食料への不安を抱いているだろう。それは捕食者の心にほかならない。捕食者はいつなんどき自分の策略が見破られて食料を得られなくなるかと心配でならんのだ。そこで心を通して、それはつまるところやつらの心なのだが、捕食者どもは人間の生活のなかへ自分たちに都合のいいものを注入する。そうやってある程度の安全を確保し、恐怖にたいする緩衝物とするのだ。
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※カルロス・カスタネダ『無限の本質』結城山訳。


心の道を選ぶ人々は、自分が内心において、まさにこのような感覚を抱いていることに気付いている:矛盾、罪(今にも発見されてしまうのではないかという恐怖)、そして飢えである。彼女たちはこのようなネガティブな感情に直面し、内心の空虚さを埋めるために絶えず愛の顕現を求めるのだ。「これは普通、平和でも穏やかでもありませんが、正しいと思えるのです」という言葉にカーラの抱く葛藤が表現されている。

このような人々が通常辿る心の動きは次のように述べることができる:「気付いてみると、私の周囲をあらゆる種類の苦痛で悲惨な状況が取り巻いている。気付いてみると、人々や状況がネガティブであり、あるいは私の生活に顕われた状況がネガティブで苦痛に満ちているのを感じるのだ。だが私は、このような悲惨な状況にある全ての物事や人々に対する愛を ― 意志を通じて ― 顕現させることで、これを克服することを選ぼうとしている。そうすることで私は、『憐みと情熱の純粋さ、それを貫こうとする意志を求め、全てが満たされ統合されたという感情を得ようとしているのだ』」

つまり、「身体の内外、まわりじゅうから責めさいなまれることもあろうが、私は神の愛を受けられるように、愛を与え愛を感じるつもりだ。そうすれば私は、どんなものの中にだろうと、このような全幅の愛を蓄えることに集中できるだろう!」というのだ。

こうして彼女は、矛盾や陰気さ、罪、飢えを受け入れるのを拒むことによって、捕食者の心を克服するのである。そして確かにこれは諸法則を克服し、<イエス>と<ノー>の間の葛藤をうみだす方法の1つなのだ。これは確かにあの文献(※ISOTM)が示しているような結果をもたらすだろう。グルジェフの言葉を言い換えてみよう:


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比較論で言えば、ファキールが1カ月の苦行で生み出したものを、修道僧は1週間の断食、継続的な祈り、愛の顕現を集中的に念じることを通じて獲得する。こうして彼は捕食者の心から自由になるのである。

ヨーギはさらによく知っている。彼は捕食者の心が存在しているという知識を得、自分がそれから自由になりたいということも知っている。彼は自分がなぜそれを求めるか知っている。だから彼は、どうすればそれが為し得るかについての知識を得るべく研究するのだ。彼が学びを続け、ついに「宿題」すなわち「諸法則」の支配からの脱出を果たすとき、ある「物質」が彼の内部に生み出されるに違いない。

彼は、ある種の精神的訓練や意識の集中を通して ― それに合わせて、ある種の感情の状態となることで ― この物質を1日で生み出すことができることを知っている。もちろん、方法の習得には一生かかったのだろう ― 同じく一生をかけて、修道僧も必要な感情を生み出す方法を習得する。だが、彼には必要な意識の状態が欠けている。一般的に言って、修道僧の進歩はずっと少ない。というのも、ヨーギがつく師は既に一定のレベルを達成済みであり、その知識の多くが実践的な教えとして伝えられる結果、時間を省略できるからだ。

かくして相対的な関係はどうなるかというと、ヨーギは、ファキールが1か月、修道僧が1週間かかったのに対し、わずか1日で同じものを手に入れる。
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※ISOTM 89ページ参照。


だが、これは他の条件が同じとしての話だ。ある人が、既に過去のある生で1つの道の「ワークを終えて」いて、今生では別の道のワークを行う準備が出来ているという可能性を排する訳にはいかない。おそらくカ−ラはこのケースに当てはまるのだろう。彼女が儀式に取り憑かれていることから、そうは解されないかの如くであるが、誰かとその人の信じる「神」との間にあるものを裁くことを許される者はいない。ある道が「正しいと思え」て、その上を早足で進むような人物は、過去生または今生で、ヨーギの道やファキールの道を既に終えているものと思われる。ある人々にとって心の道は、自己の統合というパズルの最後のピースなのかも知れないのだ。そのような人々には、確かにある道が全く正しいと思えるのだろう。

人によっては、心の道は既に修めていて、今度はファキールないしヨーギの道に取り組んでいるという場合もあろう。さらに別の人たちは、3つの道全てを終えていて、今生では様々な道を非常に素早く巡りながら、様々な結晶を1つに融合させているところなのかも知れない。誰もある道が「正しい」とか、別の道は「間違っている」とか判定を下すことなどできないのである。各人各様、状況もそれぞれ違う。

ここで取り上げている内容と、自分の心底感じ、ないし知っている事とが、共鳴あるいは同期していることに気付かれた読者は、ファキールや修道僧、そしてヨーギの道を既に修めていて、今はそれらの気付きを融合するために、統合し実用化する機会を探しているところなのだろう。

グルジェフ、そして、関連するスーフィーの文献(それらはわざと曖昧に書かれているのだが)の裏付けるところによれば、第4の道の求道者は体内に生み出されなくてはならない決まった物質があること、それには他の方法があることを知っている ― これらの物質は1か月の肉体的苦痛、1週間の祈りと断食、あるいは1日の精神的訓練によって生み出されるのだが、彼はそれらの物質が別の方法で生みだされ得ることも知っているのである。これもまた第4の道なのだが、私が言っているのは必ずしもグルジェフとウスペンスキーが説いた第4の道のことではない。

では何の事を言っているのだろうか?

宗教現象や超常現象の文献を渉猟していると、幾つかの奇妙なつながりに気付くものだ。

通常の理解を超える程度にまで肉体の機能をコントロールできるようなファキールやヨーギが存在している。彼らは代謝の速度を低下させたり、心拍をコントロールしたり、極端な高体温や低体温になったり、空中浮揚したり、止まらずに何日も走り続けたり、バイロケーション(一身二ヶ所在)をおこなったり、心の働きでもって物質を顕現させることさえできるようなのだ。中には、瞑想するうち、弟子や信徒仲間の目の前で目がくらむばかりの閃光の中、パッと消えて二度と見かけられなかった人さえいると聞く。程度の差こそあれ、彼らが第3密度における法則の幾つかの支配を脱したのは明らかである。加えて、キリスト教の聖人が同じ事を行ったとも本に書いてある。同じ偉業を成し遂げたと証言するシャーマンや、様々な魔術や儀式の実践者も居る。これらの道しるべから読み取れるのは、グルジェフが述べたように、修行と奇蹟の間には一定の関係があるということだ。

次に、自然発生的に起きたと思われる、変則的な奇蹟というものがある。このようなケースでは、超常現象と遺伝子、そしてDNAとの関係に繰り返し言及される。不思議なパワーを持つ人々が繰り返し言うのは、「おお、私は叔母(か祖母か母か叔父か誰それ)の視界を受け継いでしまった」というセリフだ。これは「視界」に限らない。このようにコメントする人々が発揮するパワーは数多くあるのだ。

さらに、内分泌系と超常現象とのつながりという奇妙なものもある。ポルターガイスト現象に関する真面目な研究の多くによれば、この現象は、常にとは言わないまでもほとんどの場合、思春期の若者や更年期のいずれかの段階にある場合を含む、セックスを抑圧して情緒不安定となっている女性の前に現れている。内分泌系によって作られるホルモンがDNAのオン/オフを行う役割を果たしているのだ。

長年の研究の末、私にとって一つ明らかなのは:ヒーリングであれ、物質を出現させること、バイロケーション、その他何であれ、超常現象とその人の霊性の状態とがほぼ無関係であるということだ。私は仕事で、手で触れるだけで血の流れを止められるという家系の人々に出会ったことがあるが、家族のほぼ全員がアルコール中毒で、乱交の気があり、パートナーや子供に乱暴するような、どうみても倫理観に欠けた人達だった。それでいてこの家系の何人かにはこの興味深いパワーがあり、しばしば隣人や友人たちによって人助けに呼び出されるのだ − たとえ彼等が正体もなく酔っ払っていて、そのためにバーから引き摺り出される必要があったとしてもである!

もう1つ奇妙なのは、頭部に対するひどい外傷や強烈な電気ショックを受けた後、超常現象を起こすようになった人の記録が数多くあることだ。電流が神経細胞膜の透過率に影響を与え、あるいは、神経伝達物質のバランスないし構成を変えることによってDNAを変化させる結果、DNAをオン/オフできるようになるのである。(本シリーズの後の方の巻では、読者がこれを各自の生活状況に適用できるよう、よりテクニカルな詳細について述べるつもりである。)どうやら、物質界とエーテル界、第3密度と第4密度との間に介在していて、その状態が私たちの気付きに反映するものとはDNAらしい。DNAは私たちの魂が身体という道具を通じて、どれだけたっぷり、どれだけ良く、どれだけ完全に第3密度に顕現できるかを決定するインターフェースないしオペレーティングシステムであるようだ。確かに上で論じた、エクスタシーの技術とでも呼ぶべき3つの道を含む修業は、体内の電流にも、ホルモンや神経伝達物質を含む化学物質にも影響を及ぼすことが明らかになってきている。

しばしば、私たちの身体を作り上げているタンパク質の合成に関与しているのはDNAのうちのわずか2%に過ぎないことが注目されてきた。残りは「ジャンクDNA」と呼ばれる。そうである理由には諸説あるが、その中には、人間とはDNAの繁栄のためにDNAが創造した単なる乗り物に過ぎないと仮定する「利己的な遺伝子」理論というのまである!

もう1つ注目されるのは、私たちはどうやら、脳のわずか5-10%しか使っていないらしいということであり ― この理由についてもまた諸説ある。私はこの2つの事実は結びついていると言いたい。

という訳で、私たちが取り組むべき奇妙な一連の要素はいずれも、DNAとは私たちが思っていたよりも遥かにずっと興味深くもあり謎めいてもいるという方向を、指し示しているようなのだ。

このように、遺伝で超能力を得る人々が居る一方で、一時的または永続的に生理機能の一部を変えるような活動にいそしむ人々もいる ― どちらの人々も結果としてはどうやら、第3密度の法則から逃れられるようなのだ。唯一つ問題なのは上で述べたように、このようなDNAの変化が、全ての人々におしなべて訪れるものでない以上、それは単なるレーダースクリーン上の輝点 − 逸脱 − あるいは何かが起こりつつあることを示す道しるべにすぎなくなり、カシオペアンの言う「4つの身体」で生かすべき知識を持たない人にとっては、何の実用価値もないということだ。カシオペアンとの交信記録から以下に引用する部分は、本章の物語が進むに連れて重要になってくるだろう。この時のセッションでは、「リアリティというシンボル」は、何らかの病気に関係する身体の痛みとして現れるということについて議論していた。


981010
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=59382265
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A: 人が痛みというメッセージを受け取るとき。。。それが新しい身体に発達する可能性の象徴だということはあるだろうか?

Q: (L) 痛みを抱えてる人は沢山知ってるけど、みんな不幸な人々よ。

A: でもどうして不幸と言えようか?あなた、考えてみなさい。。。いいかな、あなた方の意識は1つだけでなく、4つのレベルで機能している! 物理体、意識、遺伝子体、霊-エーテル体だ。

Q: (L) それらが、第3密度に人間が現れる際の混合要素なの?

A: 第3密度と第4密度にだ。人が1段「上がる」準備をするとき、肉体での活動によるのと同様に、霊体での活動によってもまた「障害」を抱えるようになる。
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ウスペンスキーの言葉を思い出されたい:


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4つの道は無用な法則から逃れる手段です。あなたに道筋を示すことはできます。。。しかし、あなたは自分でワークしなくてはなりません。私たちが従わねばならない法則の殆どは、私たちが眠り、無意識で居ることの結果です。より意識をはっきりさせようと1歩を踏み出すごとに、私たちはさらに自由になるのです。
機械的な生活に満足している人を想像してみて下さい;彼は目覚める方法を教えてくれる筈の高次の影響から自分を切り離し、自分の好みを始めとする、低次レベルからの影響ばかりを受け入れるのです。
間違いなくこの人は、高次世界からの影響を受け入れる人よりも劣位に立つでしょう。機械的に受け入れ可能な影響は数多いですが、それ以外の多くの影響を受け入れるには努力が必要なのです。。。(原注5)
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原注5:P.D.ウスペンスキー『第4の道』


という訳で、全ては高次の影響とのコンタクトから展開するようなのだ。世界中で行われるチャネリングが、日々、量もバラエティも増え続けていることについては既に述べた。その殆どとは言わないまでも幾つかがまんまと低次レベルからの影響を受けているという事実についても述べてきた。これで私が言いたかったのは、私が「亡者のコミュニケーションと高次密度ソースとの違い」と呼ぶものだ。

どうして私はこのように区別するのだろうか?「亡者」だって「第5密度」の魂ではないのか?「亡者」とのコミュニケーションは、正式な第5密度とのコミュニケーションではないのか?亡者となることで彼らは「高次」存在とならないのか?第4密度の存在とのコミュニケーションはどうなのだ?明らかに彼らは「高次」に居る。これは気付きを得て、どんな影響の下にありたいかを「選ぶ」という問題の一環であり、人々が考えているほどたやすいものではない!

既に述べたように、私の知る限り、エルキンズ、ルカート、マッカーティによって『ラー文書』がもたらされるまで、第4密度の概念は明らかになっていなかった。確かにグルジェフがそれについて語っていたのは明らかで、彼の知識は中央アジアにあった古代の秘密の神秘学派に由来すると考えられる;だが、それに関して彼が説いた内容にも、一定のツイストがかかっていたように思われる。

夫のアークとグルジェフの言動における様々な違いについて議論しながら、彼が自らの体験について書いたものや語った事を検討した結果、私自身はこの件について、こう考えるに至った。すなわち、実はグルジェフは、西洋文化に属する普通の人々の心を高度の理解に対して開かせようと、彼らのライフスタイルに受け入れ可能なやり方を様々に試みた可能性が高いのだ。彼はこれを行うよう託されていたのかも知れないし、単に彼自身のアイディアだったのかも知れない。そうは言うものの、密度に関する考えが明かされる前には、存在に関する考え方の選択肢はそう多くなかった:物理体かアストラル体か;死んでいるか生きているか;体内にあるか体外か;地上か天国/地獄かといった具合である。これらが選択肢だったのだ。人が地上で死ぬと、エーテル体かアストラル体か、あるいは似たような何かになるしか選択肢がなかった。人は「霊体」か「物理体」のいずれかの中に居たのである。

もちろん、事はそう簡単ではない。地上に貧富の差や階級差があるように、あまたのソースもアストラル界における進歩のレベルや段階という、複雑で込み入った体系をひねり出していた。ヘレナ・ブラヴァツキーや、ルドルフ・シュタイナー、アリス・ベイリーといった神秘家や、こんにち毎週出される「選り抜きのチャネリング」に至るまでのソースが、このようなプレーンやサブプレーン、階層世界を際限なく付け加えたり入れ替えたりしてきたのである。

これらの説明は、あの世に関して言われている事はどこかインチキくさい!という気付きが増大するのを受けて作り出されてきた。かつては人が死ぬと、突然天国へと上げられて、神か仏陀か何かと席を同じくするのだとか;長く待たされるんだろうかと考える間もなしに地獄に落ちるんだとかいう風に誰しも考えたがったものだが、これは本当ではないのかも知れないという事が益々明らかになってきたのだ。多くの「霊界通信」によって、あちらでは人智の及ばないとても複雑な活動が行われている事が極めて明白になってきたのである。その中には極めて不愉快なものもあった。

そこで、プレーンやサブプレーン、因果界、因果中間界が、この問題に対する解決策として人類にもたらされたのである。この結果、情報の妥当性や有用性を決定するため、コミュニケートしている相手がどのレベルの実体なのか判定することが、今やカギとなったのである。当然ながら、このような階層が定義された以上は、知ったかぶりの霊が自分こそは最高位の一員であると主張することは避けられなかった!

こうして混乱が続いたが、ある時、チャネリングの歴史で大きな一歩を踏み出すソ−スが現れた:「セス」である。マイケル・トッパーはセス
http://www.sethnetworkjapan.org/seth-guide
http://www.sethnetworkjapan.org/q-albums
について、こう述べている:


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どうしてセス文書がそれほどまで注目に値し、そしてまた、どうしてこんにちでも通用するかというと、それはチャネラーであるジェーン・ロバーツと大いに関係がある。彼女は − チャネリング文書と共に − チャネリング現象全体やチャネリング文書の中身に関して、彼女が心中で葛藤している様子も継続的に記録したのだ。

セスの教えは、(こんにち様々に出て来る、1回限りのソースと比べると)何年にも及ぶものでありながら、統一された質、一貫性、高潔性を持っていたが、これは「初期」に分類される当時の意識を訪れた霊としては、奇異で耳慣れないくらいに理知的 ― 批判的で、当初は極めて懐疑的だったにせよ ― であったことや、ジェーン・ロバーツのパーソナリティーに正面から立ち向かうセスの姿勢によるところが大きい。

ロバーツが自らの体験を踏まえて述べているように、極めて異常な現象にいやいやながら参加した彼女が抱いた当初の深い留保が均衡を保たせ、かくして、潜在的には落とし穴となり得るエゴイズムや還元的合理主義と交信との位置を絶えず正しく保つことを可能にしたのである。

誰でも見分けることができるようにこれらの注意深く聴き取られ、精査され、仕上げられたセッションと、「セスの召喚」以降に出た、節度を欠いた、傲慢に編集された作品との間には、歴然たる違いがある。そうした最近の本の1つの主な特徴はチャネラー自身であると思われる。彼女の姿は本の中の写真ページにふんだんに出て来るのだが、キャプションは遠慮がちに「子ども時代から大人になった現在まで」となっている(ある時は単なる気紛れからピラミッド型のとんがり帽子を被っていたかと思えば、突然具現化した何らかの実体の幸運な宿主となった写真もあるという具合だ。この霊も初めのうちは、悟りの言葉を告げ、極めて有用に物事を解明していたのだが!)(原注6)

セス文書を全体として考えた場合、蓋然性という重要なキー概念を心理活動の現れとしての現実という分野に導入した点で(今でこそ当たり前だが、当時としては極めてユニークだった)、実に有用な内容のみを含むと言え、一読を薦めたい。これが出る前は、このような考え方は、「電子の位置と速度」について記述する、ハイゼンベルクの不確定性レベルでのみ起こる深遠な物理現象だとばかり考えられていたからだ。

セスが紹介してくれた、このようなコンセプトは、厳格な因果的条件付けや行動論における決定論仮説への固着から人類が脱却することを可能にした。セスによる多次元性や、
http://www.sethnetworkjapan.org/q-albums/experiencing-all-that-is
覚醒時および入眠中の夢を通した意識のナビゲーションの際の、蓋然的現実界の分岐に関する議論は、
http://www.sethnetworkjapan.org/classroom/gellis01-03
これらに参加したサイキックへのパワー・シフトに貢献し、これによってたちまち、支配的な行動主義心理学の締め付けを緩め、長年の懸案だった、宗教やスピリチャルによるカルマの強調を正す一方で、過去の行動や記憶による条件づけ等々がもたらす圧倒的なプレッシャーの是正をも成し遂げた。

よって、この点に関してセス文書は見事にその目的を達したといえる;すなわち、意識が霊的に全く新たな段階へと向かう上で不可欠な、次の大きな一歩を踏み出す手助けをしたのである。
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トッパー『チャネリング、UFO、および、この世界の彼方なるポジティブ/ネガティブ領域』
http://www.cassiopaea.org/forum/index.php?topic=1256.0)

原注6:マイケル・トッパーが、『ラムザ』のことを遠まわしに当てこすっているのが、何とも可笑しい。


とは言っても、多年に亘って憑依霊解放セラピーを行ってきた経験から請け合うが、霊は嘘をつくことができるし、しばしばそうするものだ。ウィリアム・J・ボールドウィン博士は書いている:


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霊が憑依するのに、宿主の許可は求められない。自由意志の侵害が行われているようなのだ。人はそれぞれ自らの現実創造に関与していて犠牲になる者はないという流行思想に対する反証もある。このような矛盾した事態を惹き起こす原因は、「許可」および「自由意思による選択」という言葉の定義だ。霊の干渉について無知であったり、その可能性を否定したからといって、憑依に対する防御にはならない。押し行ってくる実体の存在を信じ、あるいは信じないからといって、そのような実体が存在し、あれこれと振る舞っているという事実には何の影響もない。

霊を否定したり、それについて無知だったりする結果、大抵の人々はこのような物理体を持たぬ侵入者に対し許可することを拒まない。独立した個々の人々は、他の存在による侵害や侵入を否定する権利を持っている。霊界や非物質的リアリティの本質に関する知識があったとしても限定的であり、知覚が歪んでいるために、多くの人々は自らの現実を創造する一環として、侵入されるがままの状態で居続け、自分の脆弱さを創造しているのだ。こんにち、熱心な多くの「ニューエイジ」の人々の間で、何らかの高次のパワー、霊的な師ないしマスターにチャネリングを試みることが流行している。こうした存在は「賢明なアドバイス」を語ろうという人の声帯を通じて語りかけるのだ。チャネリング相手の霊を呼び出すときに、「私にとって最も善きものを」という文句を唱える人々がいる。この行動が物理体を持たない霊を招き、その侵入を許可することになるのだ。「マスター」とか「師」といった識別名や、「私にとって最も善き」というような修飾句を使うと、こうした霊はそれらこそ自分に当てはまる素性、特質、属性だと主張するのである。

。。。宿主は普通、憑依されていることに気付かない。憑依霊の考えや欲望、行動が、宿主自身の考え、欲望、行動として経験されるのだ。長い間憑依されている場合 − それは子供時代からのことすらある −、思考や感情、習慣、欲望は他人のモノのようには感じられないのである。霊による憑依が否定され、霊の干渉という現象が受け入れられないことの大きな原因はこれなのだ。

憑依霊が解放された後になってようやく、自分が実際に経験していた症状に気付き、白状するというクライアントが殆どである。解放セッションから数か月後、以前はよくとっていた態度や抱いていた欲望、嗜癖、仕草を自分がしなくなっていることに突然気付いて、憑依されていたことが分かるというのもよくある。

霊憑依による症状は非常に微妙なことがある。憑依している霊が何ら目立った症状を発現させないことがあるのだ。

。。。クライアントによっては、何十、いや、何百という霊に憑依されていることがある。霊は物理空間を占めないからだ。霊は人のオーラに取り憑いたり、人体の外にあるオーラの中に浮かんでいることもできる。もし宿主の身体のどこかに弱いところがあると、霊はその部分に取り憑く。というのも、その霊は生前、身体の同じ場所が弱かったり、病気だったりしたからである。宿主のどれか決まったチャクラが発するエネルギーや、身体のそのレベルの構造に惹きつけられて、宿主のチャクラに宿る霊も居る。

。。。憑依霊による、精神、感情、肉体への影響のせいで、元々カルマ清算を選ぶ道を辿る筈だった宿主が、方向を変えられることもある。死を早められたり、延ばされたりして人生の計画を妨害され、その結果、チェックアウト・ポイント(※身罷るべき時期)を邪魔されることもある。憑依霊が異性の場合、宿主の性的嗜好や同性に対して抱く感情に影響を及ぼすこともある。憑依霊が結婚相手や不倫相手の選択に影響を与えることだってあるのだ。(原注7)
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原注7:ウィリアム・J・ボールドウィン『霊解放療法』


巷では確かにこの類の事が随分と起こっているようだ。ボールドウィンは、常時いくつかの霊に憑依されている人々の割合がほぼ100%だと言っている!この数字を読んだとき、私はかなりショックだった。実はセラピー法テクニックの実験を始めたのは、この数字が大いに疑わしいと思ったからなのだ。ただ、私のリアリティに対するアプローチがいかに偏見のないものであるとは言え、憑依霊を相手にするのは、あまりに突飛で荒っぽいように思われた。

そこで1種の実験として私が用い始めたのが鑑別診断法だった。
http://takapachi1962.seesaa.net/article/386055939.html
予めクライアントから実験的セラピーに対する同意はもらうのだが、施術の詳細については話さないでおく。彼女たちは多かれ少なかれドラマチックな何かを予想していただろうが、私が行ったのは憑依されているかを明らかにできるよう巧妙に仕組まれた、ちょっとした一連の質問だった。そして、憑依霊を見分けるための質問に入って行くときには、他の当たり障りのない一連の質問の中に、それらを巧妙に織り交ぜることを心がけた。何としても実験の質を落としたくなかったので、私は細心の注意を払った!ボールドウィンの説がまやかしかどうか、暴いてやろうと決心していたのだ!

結果は確かに度肝を抜くものだった。クライアントというクライアントが皆、憑依されていたのだ。それもふつう2つ以上の霊に。やってみて一番びっくりしたのは、憑依霊解放セラピーの驚異的な効き目だった!反復暗示や後催眠暗示(効く時も効かない時もある)を用いた標準的な催眠セラピーで良くならなかった障害が、憑依霊を解放するやたちまち解消したのである。

とても不満足で、悲惨と言えるような結婚生活を送りながらも、離婚するのがいいのだろうかと「自問自答するうち、優柔不断になってしまい」、その結婚から抜け出せずに居たクライアントの何人かが、そのような怖れや共依存等々から突然自由になったのである。このようなセッションを何度か行ううち、クライアントが不満足な結婚を強いられている、当の相手と一緒に居たいと思っている憑依霊が、頃合を見計らって彼女に憑依したこと、そもそもその男と結婚するようクライアントに影響を与えたのがこの憑依霊だったことが確信されてきたのである!「コアの」人格、すなわち宿主が関係を解消しようとする度ごとに、これ以上はないというくらいに内心の葛藤が起こり、宿主の願いが優勢になることはなかったのだ。この声は常に、離婚の結果を疑い怖れるパートナー自身のものとして知覚されたのだ。

身体の不調、恐怖症、嗜癖、各種の精神的な不調が、殆ど魔法が解けたかのように解消したのである!私はすっかり唖然となった!そればかりか、それまで私が抱いていた、子どもたちには霊が入り込むことはないという考えを、捨て去らなくてはならなくなった。というのも、憑依の多くは、ごくありふれた子供時代のトラウマ状態の中で起こることが次第に明らかになってきたからだ!

だが重要なのは、これもまた人類が牢獄に居るという状況の一環なのだろうということだ!ボールドウィン博士は上の引用で:「霊を否定したり、それについて無知だったりする結果、大抵の人々はこのような物理体を持たぬ侵入者に対し許可することを拒まない。。。多くの人々は自らの現実を創造する一環として、侵入されるがままの状態で居続け、自分の脆弱さを創造しているのだ」と述べていたではないか。何という事だろう!

嫌々ながら認めざるを得ないのは、この一文が長い事私に当てはまっていたということだ。実際、これは私達全員に多かれ少なかれ当てはまるのであり、だからこそ私は、自分が目覚めていく状況を物語ろうと思うのだ。それらは多くの人々との間の複雑な相互作用で作用点も多く、様々な登場人物はいずれも、目覚め、その結果選択を行うという同様の機会を持っていた。これから見て行くのは、これらの選択がなされる様子であり、リアリティというシンボルの中で、それらが作用する様子だ。様々な選択の結果が結ぶ「果実」も見ることにしよう。これらの物語を語り終えたとき、願わくば読者諸賢が、サインはどう読むことが出来、それぞれの結果がどうなるのかについて、明確な理解を得られんことを。とはいえ、教訓への反応の仕方、望ましい結果が何かということについては、各人の考え方があるだろうが。

ある程度は『アメイジング・グレイス』で述べておいた通り、私達という存在 ― あるいは単に私という存在(というのも、私の知る限り、自分以外の一切は幻想なのだから) ― に関する真実と意味を発見したいという思いこそが、それまでの私の人生を内的/外的な探究プロセスに駆り立ててきた原動力だった。

どんな活動を行っていても、どの時点においても、何らかの答えを神から学ぶことだろうと、常に私は考えていた。完全に無神論の段階にあった時でさえ、それは実験だった。若い頃、私はウィッカや様々な形のシャーマニズム、儀式魔術等々を研究した。私はこうした事を実地で試すのには及び腰で、もっと深く研究して対象を相互に比較する方を好んだ。だから私は、あまり多くのトラブルに巻き込まれずに済んだのだと思う。というのも、その後、私のように「実践」を保留にしなかった人々がどういう目に遭ったか見てきたからだ。

こうした研究の裏側を縫うように走っているのは、もちろん、私の家系の宗教的バックグラウンドである(ごく小さい頃に熱心に聞かされたものだ)。私は、長く説教師や宗教学者を輩出してきた家系の出なのだ。この影響はとても強力で、ある分野を研究し尽くした結果、単に答えの断片しか得られなかったような時には、やがて他の何かの研究が手招きしてくるまでは、この家系的な宗教の道に戻るよう私はプログラミングされていた。つまり、私の多年に亘る研究と知識への専心は、「修道僧の道」を辿る時期によって中断されることがしばしばだったのである。十代の頃、私は大きくなったら修道僧になることを夢見ていた。どうやら、頭による冷めた分析の時期と、神との親密で情のこもった関係を熱烈に追求する時期とが周期的に去来してきたようである。奇妙なのは、私がどちらの道にも、等しい熱意と専心をもって入って行けたことだ。

だから私は、カーラが言う「憐みと情熱の純粋さ、(そして)意志を求め、全てが満たされ統合されたという感情を得ようと」しての苦しい戦いについてはよく知っている。「現時点の愛に専心し、現時点、およびそこで育みつつある愛に対して心を開くことに従事する」というのも心底分かるのだ。「これは普通、平和でも穏やかでもありません」という事だって経験した。程度の差こそあれ、修道僧の道を成し遂げるとはどのようなものなのか、そして心と身体にどんな負担を与えるかも知っている。私はこの道に大いに通じているのだ。

だが、私は実際的な人間であり、思考と感情のバランスのとれた組み合わせを見付けようとして、特に苦心してきた。私は「わが身を死に引き渡そう」、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそう」、あらゆる方法で殉教者として命を投げ出そうという衝動を抑えなくてはならないのだ。
(※コリントの信徒への手紙一/ 13章 01節:たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
3:全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 ※※)
私にとって、こうした衝動を抑えるのは、情緒をコントロールする意志を発達させるために、すべての情緒を1つの情緒、つまり信仰に服従させることよりずっと難しいのである。

『アメージング・グレイス』に書いたように、人生のある時期に私は、心の道こそ自分のとるべき道であり全霊をかけてこれに取り組むことを決意した。その時私は30歳で、知識でもって神を探し求めようとして精神がかなりすり減っていた;あるいは少なくとも、そのやり方では満足できる結果を得ていなかった。だから、前夫から古風な原理主義的信仰に立ち返るよう熱心に勧められた時は、立ち止まるよう手招きする碇のように思われたのだ。という訳で手短に言えば、私は「信仰の旅」へと猪突猛進したのである。

何事も中途半端にできない性質なので、私は思考の全て、知識の全てを捨て、信仰が連れ帰ってくれるという考え方を喜んで心底信じ、自ら服従した。これがいかなる効果をもたらしたかを示す1つの奇妙な出来事をお話ししよう。

猪突猛進の最初の頃、私は前夫や子供たちと一緒に教会に座っていた。礼拝しなさい、起立、着席、何ページを開いて讃美歌を歌いなさい、跪いて祈りなさい、等々の命令に私は従っていた。すると突然気付いたのだ。ヒプノセラピストとして訓練を積んだ私から見れば、こうしたプロセス全体は一種の催眠術なのである。集団催眠を学ぶ際に教わるのが、いわゆる「イエスセット話法」である。
http://www.standby7.net/12.html
イエスセットとは、人々を軽いトランス状態にして脳機能を同調させ、続けて深いトランス状態に移行させて、与えられる暗示を受け入れるよう仕組まれた話法のことだ。これは、人々の集団に否定のしようがない一連の質問をして「イエス」で答えさせたり、あるいは、当たり障りのない一連の事を頼んで同意させることによって行われる。そうするうちに、人々は頼みごとに同意するようになるのだ。

これを使う1つの例がカリスマ演説で、殆ど誰もが同意せざるを得ないような質問をわざと幾つか(最低3つ)投げかけるのである。例を挙げよう:政治家はキャンペーン演説を始めるときに次のような3つの質問を行うだろう:


「税金の高いのにはうんざりでしょう?」

「国じゅうで犯罪や暴力事件が起きて居ます。もう沢山でしょう?」

「一生懸命稼いでも使えるお金は週を追って減って行く。皆さん、うんざりでしょう?」


これらの質問に同意しない人はまず居ない。だが、続けて3回「イエス」と同意することで ― たとえ意識ある状態においてではあれ ― 誘導の第1段階は達成されたのである!

ということで、教会のベンチに居た私は、そこで行われているのが ― そして世界中の教会で何世紀にも亘って行われてきた事が ― 人々に対する催眠だったことに気付いたのである。それで、私はどう思ったかって?猪突猛進すると決めたからには、催眠術にかかってやろうじゃないかと覚悟を決めたのだ。催眠も正しい理由があってやっているのだろうから!そうだとも!この私が何かをすると決めたからには、とことんやってやる!するとたちまち、私の人生は崩壊し始めたのだった。

もちろん、この道に専心するということは、天国に行こうと試みたにも拘わらず人生の地獄を見ることになったという現象も、神が私の信仰を試しているのだという風にしか解釈できないことを意味する。およそ臆病とは無縁な性質なので、健康状態の悪化、長い闘病生活、愛する人の死、繰り返す経済的困窮というような事があろうと、立ち止まるような私ではない!それは御免こうむる!私が断食し、祈り、思考と情緒の修練に精進してそれらを従わせるものはただ1つ:「憐みと情熱の純粋さ、(そして)意志を求め、全てが満たされ統合されたという感情を得ようと」。。。「現時点の愛に専心し、現時点、およびそこで育みつつある愛に対して心を開くことに従事する」こと、すなわち信仰に対してだけなのだ。

ぶち当たる壁が高いほど、被る苦難がシビアなほど、身体の内/外からの攻撃が激しいほど、私の決心は固くなるのだ。私は「どうしてなのですか?」と問うことすら拒んだ。ヨブ記を繰り返し読み、こんな目に遭っているのが少なくとも自分だけでないという慰めを得た。私は十字架上のキリストの受難を身代わりとなって経験したいと常々求めていたので、それに比べたら私の経験など、どれも苦難のうちに入らなかった!意図的である/ないに拘わらず、受けた攻撃に腹を立てたりしなかったし;相手を許し、愛し、苦難という試練の中で、それらを神、イエス、そして全人類に対する純粋で情熱的な愛へと変えることで自分の心を慰めた。

苦難に遭うなどと抽象的に言うのはた易いけれど、私が言う「苦難」とはどういう意味だろうか?苦難と言っても相対的なものである。「履く靴が無いと泣くのは、足が無い人を見るまで」という古い諺の言う通りなのだ。全シーンを再現しようとは思わない。手短に述べるとしよう:

私は1980年に熱病に罹り、心臓弁に障害が残った。1984年には肉体労働で何とか家計を支えつつ、3人の子供と、年老いた祖母の面倒を見ていたのだが、手を出した事業が今にも倒産しそうになって、心理的な負担がかかり過ぎていたところに、4人目の子を妊娠したと分かった時は、心が折れそうになった。「こうなるとは思わなかったの?」と言われるかも知れないので先に言っておくが、ちゃんと避妊していたのに出来てしまったのである。

「信仰の旅」の途上にあるからにはもちろん、子どものためなら健康上の配慮も犠牲にする覚悟だった。(原注8)
腎臓の具合が悪くなり、十代で背中に負った2つの傷の後遺症が出てきた(スケートしていた時に転んで腰椎に重傷を負ったのと、馬の背から振り落とされた時に負った骨盤/仙骨の傷である)。これまで3回の妊娠の際には、満足の行くケアを受けられる境遇だったが、今回は経済的に余裕がないために最小限のケアしか受けられなかった。


原注8:おそらく今の私なら同じ選択はしないだろうが、この選択を悔いる気持ちは全くない。3番目の娘と4番目の息子は注目すべき人間なのだ。
http://www.sptimes.com/News/webspecials/exorcist/exorcist-epilogue.html
読者諸氏が本稿を読めるのも、彼女が原稿を整理してくれたお蔭なのである。


そしてまたこの頃私たちは、ある種の怪奇現象に悩まされていた。幼い娘が彼女の部屋の窓の外にワニが居るのを見たり、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=29090187
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=28982973
家族が家の中に「コールド・スポット」があると感じたり、「出る」のをチラッと目にしたりということがあったのだ。今にして思えば、アブダクションのような事が行われている手掛かりが随分と存在していたのだが、当時の私のナレッジベースにその項目は無かった。

こうした折も折、11年間寛解していた祖母の癌が転移したのである。私の肩の荷は重く、担いきれない状況だったが、それでもどうにかやっていた。(振り返ってみると、一体どうやっていたのか分からない!)妊娠高血圧腎症と妊娠糖尿病にかかり、日に数回は心臓弁を血が逆流するために起きる動悸、息切れに耐えながら、3人の幼児と、破産寸前の状況でどうしたものかとさまよい歩く意気消沈した夫、それに、死の床についている、私にとっては母親以上の存在である祖母の面倒を見なくてはならない。私はいつもヘトヘトだった。

また一方では、あの頃はビジネスパートナーだった、私の実母。。。私達が最大限に信頼し、私達の全財産の運用管理を任せていた母が、銀行口座をすっからかんにし、クレジットカードを限度額まで使いきった上に、わが家にかけていた抵当権を実行するという訴えを起こそうというのである!そして彼女は本当にそうした!詳細な状況については、『アメージング・グレイス』を読んでもらうしかない。(※この頃ローラは、母親に勧められて漁業を営んでいたようです。)
http://cassiopaea.org/2011/11/15/chapter-twenty-five-the-boat-ride-to-damascus/
http://cassiopaea.org/2011/11/13/chapter-twenty-one-parties-mosquitoes-hives-hypnosis-and-fishing-boats/

あまりの恐ろしさに記憶も曖昧なこの経験こそがまさに、わが「人生の転機(Boat ride to Damascus)」(※直訳は「ダマスカスへの船出」。パウロの「ダマスカスへの道」をもじったもの)だったのである。

夫と私は、漁船を停泊地から出し、家から65キロほど北にある競売が行われる予定のマリーナへと運ぶ航海に出ていた。期日に間に合わせるため、夜の航海になった。65キロはクルマでなら遠い距離ではないが、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1219644782
大型漁船は時速30キロも出ないので、数時間はかかる船旅だった。夫が海上に設けられた鳥の巣棚(※メキシコ湾には、誰かが造ったカモメやウミガメのための休憩所があるようです)
http://www.fivay.org/bird_racks.html
等の障害物が無いかデッキで見張っている間、私が舵を取っていた。

赤く光る計器パネルと床下にあるディーゼル・エンジンの轟音以外に何も無い操舵室に私は1人きりだった。これはある意味、全てが失敗に終わったことを認める航海だった。私は辛さ、怒り、困惑と戦いながら、状況から来る蔽いようもない絶望感の代わりに、理解と憐れみと愛でもって心が満たされるよう熱心に祈った。

私は神の愛で満たされたかった。私は自分が味わわされている苦境の全てを「人知を超える平和」をもたらすという、かの一点集中的な献身的愛情でもって包み込んでしまいたかった。
(※フィリピの信徒への手紙/ 04章 06節:どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7:そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 ※※)
「おお神よ、救い給え!」私は何度も繰り返した。闘いの苦しさは心にたたえ得るよりも、言葉で表せるよりも深かった。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」8章 26節に書いている:「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。この節の始まりはこうだ:「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。。。」

すると、太陽神経叢
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=60042372
が熱くなってくる感じがし、同時に耳の中でうなるような音がし始めたのだが、すぐさまそれは、「耳には聞こえないブーン音」の類になったのだ!まるで全く耳の聞こえない人を大きな2枚の銅鑼の間に立たせておいて、それらを同時に叩いたような感じ、とでも言えばいいだろうか。長くゆっくりとリズムを刻む体内音が、暖かくて心地良い雲のように降ってきて私を取り巻き、魂深く響いたような感じだった。

そして声がしたのである:耳に聞こえた訳ではなく、頭の中で考える言葉とも違う、神が発したかのような豊かさを持った、天に上るような優しい声と言えるものだった。

「わかるだろう。私はあなたを愛しているのだ、わが子よ」とその声は言った。「しかし、あなたが私たちの間にある闇を追い出すまで、私は何もできない」身体の全細胞に響いた、この言葉をもたらした存在の居る場所の奥深さは言葉では述べられない。

「なんですって?!?」私は叫び声で訊き返した。私は大急ぎで、私の生活のあらゆる面を点検した。人が死ぬ前には、全人生が走馬灯のように駆け巡ると言われるが、恰もそんな感じで、私は自分という存在の全ての面を回想しつつ、神の意志を行うことのみを求めようとして行ってきた試みの全てを数え上げた。私には邪悪なものが入り込めるような1つの「契約」違反も見付けることができなかった。私はある意味、心の中の法廷で弁明するかのようにこれを行ったのである。

この時、答えがあったのだが、それは言葉によるものではなかった。それは私の心/魂/意識の中で上映された映画だった。それは私の子供たちを写した連続写真で、私が彼女たちに注いできた深い愛と献身が描かれていたのだが、その目的は明らかだった。すなわち、子どもたちに対する私の愛が自分にとってはいかに偉大なことに思われても、それは単に「人間」が抱きうるものに過ぎず、創造主が被造物に対して抱く愛とは決して同等でないということを私に理解させるためだったのである。私はこの愛によって満たされていた。それによって元気づけられ、暖かく慰撫された私は、言葉では言い表せない境地へと誘われた。

やがて場面が変わり、私が見せられたのは、私の子供たちが「蟻を放っておきなさい、蟻塚で『泥んこ遊び』をしないように」と注意されているところだった。だが、子供たちはと言えば、蟻塚への好奇心からそれに近づいて行き、蟻についての知識の無さに、無鉄砲さ、無警戒な勇気が相俟って、何が起こるのか見たい一心で蟻塚に飛びかかって行ったのだ。この結果、子供たちは突然現れた蟻の大群によって全身蟻だらけとなり、蟻に咬まれたり刺されたりしたので、私の方に走って来て、「助けて」と叫んだ。

そこで私は子供たちをなだめ、蟻を払いながら、「蟻を取ってあげて、痛くなくなるように薬を塗ってあげることもできるけど、あなたたちが蟻に咬まれた経験から何かを学ばなかったなら、こんな痛い目も何のためにもならないのよ」と説明したのだった。子供たちは蟻に咬まれるのがどんな感じなのかを決して忘れないだろう。肌に傷が出来るだろうし、心にも傷を負うに違いない。

だが私には、私の人生と子供たちの蟻塚遊びがどう関係するのか、まるで分からなかった!「蟻は何を表してるの?」と私は訊いた。「私の人生の中にある邪悪なものって何?」

すると声が再びしたのだが、今回の声には、厳しさと同時に悲しみの調子が込められていた:「学びなさい!」。やがて残響が消えて、エンジン音が私の意識に戻って来た。声とのやり取りの最初の方でもたらされた、大いなる愛に包まれた感覚がまだしていた。私がこれを声と呼ぶのは、ビジョンを見せられたとは言え、その姿自体を見た訳ではなかったからだ。

この愛の感覚は何週間か続いたが、私は確かにそれを必要としていた。

「抵当権が実行されたので、立ち退かねばならない」という内容の立ち退き通知書を執行官が持ってきた2週間後、祖母は亡くなった。40年以上祖母が持っていたこの家の所有権は、私が直接引き継いでいたのだが、母を信じて、節税のために母名義にしていたのだ(母は多くの控除を受けられたので、この方が税金が安かった。)

祖母の死は、癌のせいでもあり、また同じくらい、彼女の娘(私の母)の裏切りによる絶望のせいでもあった。

私たちは事実上ホームレスの破産者だった。私達は他にも自分たちの地所を持っていたが、それはどこに行くにも離れた辺鄙な場所にある未開地だったのだ。それを売ったお金で家を借りることもできたのだが、それでは一時的な解決にしかならないと、私には分かっていた。家を買うのも無理だった。前夫は意気消沈のあまり働くことができず、事業が破たんしたせいで、私たちは借金もできなかったからだ。

そこで私たちは設備器具を売り、そのお金で建築資材を買って、森に行って農夫になった。小さな家を建て、生活必需品だけを持ってそこに引っ越し、私の家具や蔵書、その他の財産の殆どは倉庫に預けた。手元に置いた唯一の贅沢品が私のピアノだった。森の中の、電気も水道も無い小屋だったが、隅には小型のグランドピアノが置いてあったのである。

この頃は、小さな子供たちがひもじいまま眠らなくてはならないということがないよう、彼女たちに十分な食べ物を与えようとして奮闘する毎日だった。彼女たちは大抵履く靴もなく、服もチャリティでもらったものだったのである。何軒も家を持ち、資産や事業に投資していた私達が、文字通りの一文無しになったのだ。

その上、作業に追われることになった。

読者の中に開拓地で暮らしたことのある人が居るか分からないが、やるべき作業は多い。家から12mのところに井戸はあったが、5人が使うだけの水を常時絶やさぬようにするのは大変な作業だった ― そのうち3人が小さな子供であればなおさらだ。

私の身体は既にボロボロで、作業が出来る状態ではなかった。それでも私は、生活水準を出来る限り普通に保とうと決めていたので、身体の機能低下を食い止めるのに必要な処置を続けるかどうかは、決断と意志の問題だった。だが、その話はもう沢山だろう!重要なのは苦難を客観的に捉えることだった。こうした事の全てを通して、私の信仰が試され、厳しい試練が課されていると確信していたと言えば十分だろう。私はくじけなかった。まあ、祖母を失い(本当のことである)、母を失なった(事実上そうだった)精神的・感情的苦痛、さらには子どもたちの将来についての心配(実際的なもの)のあまり、しばしば夜中に目が覚めてしまい、暗闇の中で起き上がってはよろよろと歩きながら、嘆き、涙するということはあった。それは認めよう。静かで1人きりになれる場所を探しては揺り椅子に座って啜り泣きながら、明日もやって行けるよう、今、愛を見付けようともがいたものだ。

私は、何カ月も前に船の上で与えられた「学びなさい」という命令について考え続けていた。私には再度のコンタクトが必要だった。大いに必要としている神の愛に永続的に包まれるための唯一の方法は、彼に対して真に心を開けるようになることであると判断し、それを成し遂げようと私が決心したのはこの頃だった。そして思い付いたのが、神の臨在を示す声が毎日聞こえるよう、自分の発する声や考える際の声を低くしなければならないということだった。

私は教義から外れない範囲でこれに取り組む方法に関する手掛かりを聖書の中に探し求めた。瞑想については知っていたし、それがコンタクトを成し遂げる方法の1つであることも知っていたのだが、「信仰の旅」の途上にあった私としては、ガイドラインの範囲内の方法を取る必要があったのである。私は次のような詩編の中の言葉を見付けた:「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ。。。」(詩編/ 019編 015節)

これで十分だった!それはそこ、聖書の中にあったのだ!

私は神の愛について瞑想を始めた。これは教義上も許されると思われた。すると、様々な事が起こり始めたのだった。

これは『アメージング・グレイス』にも書いたのだが、この時期のある日曜日、私は教会の牧会祈祷に参加していた。私は牧師に合わせて、自分が理解すべき全てのことを理解できるように神が聖霊を遣わされんことを強く祈った。牧師の夫人は才能に恵まれたミュージシャンで、牧会祈祷をドラマチックなものにしようと没頭している私達の羊飼い(牧師)の甘美な声に合わせて奏でる演奏は、天上のハーモニーを思わせた。ここは礼拝の中でも私のお気に入りの部分だった。というのも、彼は博学で明晰な話し方だったし、彼女も神への祈りのパートナーとしての才能に恵まれていたからだ。

すると突然、ブーンという雑音、あるいはパチパチという音が聞こえてきた;フライパンの上でベーコンがジュージューいう音にそっくりなのだ:さらに、牧師の声とこれに相和す信徒たちの「アーメン」が、遠くからの金属音のようになってきた。まるで水中でラウドスピーカーからの放送を聞いているような感じだった。
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005401123_00000&p=box

これは何ともショッキングだったので、私は自分が視覚障害になったのではないかと思って目を大きく開いた。てっきり脳卒中でも起こしたのだろうと思ったからだ。すると演壇上で聖書台を両手で握りしめ、牧会祈祷を深遠なドラマ仕立てにするべく、目を閉じ頭をのけぞらせている牧師の姿に重なって、チラチラと、生きたオオカミのイメージが見えたので、私はすっかり狼狽えてしまった!まるで彼の身体をスクリーンにしてオオカミの姿がカラーで映写されているようであり、オオカミが彼の代替人格で牧師の全ての表情はこれとマッチしたオオカミの表情によって汚され歪められているように見えた。牧師が手を動かしたり、頭を振ると、オオカミもそうした。地獄の化け物がご馳走にありつこうとパックリ口を開けた姿は、牧師の口の動き全てにピタリとマッチした!それは立体的な像ではなくて、言ってみれば光を投射したような感じだった。

これは完全に妄想ではないかと思い、すぐさま聖域内を見まわした私は、またもやショックを受けた。そこに居る全ての人々にも同様の映像が二重写しになっていたのである。彼らの多くは羊だったが、中には豚や牛、その他の生き物も居た。

私は慄然とした!「これはきっと悪魔の仕業に違いない!」そう確信した。教会のど真ん中に居たにも拘わらず、敬愛される牧師がオオカミの姿に見えたのだ!これは破滅間違いなしだ!

私は目を閉じて一心に祈った。音の変性は続いていたが、私はチラッと目を開けてみた。オオカミはまだそこに居て、心地よい牧会祈祷の詠唱を演じていた。

私は目をギュッと閉じ、祈りに祈って、悪魔をなじった。最後は主の祈りを繰り返して、私のリアリティからこのイメージを追い払おうとした。すると、それは徐々に弱まり始め、段々と消えて行き、私が再び目を開いた時には、オオカミの姿はなく、私は悪魔との戦いに勝ったことにすっかりホッとした。

それから2週間経った日曜、私達は少し遅刻してしまった。もう礼拝が始まっているとばかり思って、教会に着いてびっくり、信徒たちは皆教会の扉の外に集まっていて、迷える羊よろしく、辺りをうろついていたのである。

そして分かったのは、建物の支払いに充てたり様々な組織に義援金として贈ることになっていた基金の殆どを牧師が使い込んで教会に損害を与え、言わば夜逃げしたということだった。かなり大きなヨットを収容できるドックからの請求書もあった。信徒には内緒のまま、教会のお金で支払いを続けていたのだ。

豪華な牧師館の高価な家具調度も全て無くなっており、それと教会の建物との両方に設定された抵当権は実行される寸前で、電気も止められるところだった ― そして、牧師とその一家はどこかに雲隠れしてしまったのだ。羊の皮を被ったオオカミとはまさに彼のことだろう。

私は唖然となった。私が見たビジョンは、まさしく私が祈り求めたものだったのだ:聖霊が私に真実を明かし;私はそれをなじって取り除いたのである!

この結果、神、あるいは他の誰であれ、宇宙の責任者に「コンタクトする」自分の能力に対する考え方が変わった。私は明らかに、表面下にある真実を示されたのであり、私の自己不信と他人の権威に対する信頼が「私の聖霊との交わり」を妨げていたのも明らかだった。

私はある大事なことを理解した:あなたが導きを得ようと心底誠実に祈れば、それは実現する。しかし、それは聞きたくない、あるいは信じたくないことかも知れず、他の人々が言っていることや説くところに反する事かも知れないのだ。

だが、もちろんここで別の疑問が幾つか湧いてくる。中でも何としても知りたいのは、自分をミスリードするような影響をどうやったら見分けられるか?ということであり、本物の御託前をどうやって見分ければいいのか?ということだった。もし多くの人々が主張するように、彼らに与えられた啓示が「聖霊」によるものだったとしても、そうした啓示が互いに食い違うものだったら、誰かのは正しくて他の人のが間違っているか、全部間違っているかのどちらかということになる。私達が分析と比較に使えるのは自分たちの知識と理性だけなのだ。

そこで聖書に立ち返ってみよう。

ここで1つ強調しておきたいのは:私が信仰を持っていて熱心に祈ったことであり、神の愛を得ようと懸命に努力したこと、他の全ての感情をあらゆる所に行き渡る包括的な神の愛でもって包み込もうとしたことだ ― そしてそれは確かに何らかの結果をもたらしたのである!

この時期には、ビジョンやエクスタシーと呼べそうな他の出来事も実際にはあったのだが、相応しくないので今は立ち入らないでおく。それらの出来事も、「何を真実として受け入れるか知るためには、表面下の事も学ばなくてはならない」という考えをあらゆる点で裏付けるものだったとだけ言えば十分だろう。「口を通して偽りを言う霊」(列王記上/ 22章 22節)を見分ける唯一の方法は、できるだけ多くの客観的真実を判定できるような物差しを持つことである。つまり、チャネリング情報の正確度合をチェックすることで、「神から出た霊かどうかを確かめ」(ヨハネの手紙一/ 04章 01節)るのである。

その後まもなく、4番目の子供が生まれ、私は基本的に研究と瞑想に、より多くの時間を割くことを自らに強いた。そして、ご存知の人々も居られようがこの時期の体験と思索をまとめたのが、未刊の(※本稿執筆後に刊行されています)拙著『ノア・シンドローム』である。
http://www.amazon.com/The-Noah-Syndrome-Laura-Knight-Jadczyk/dp/1897244797
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=78019002

この時私は33歳になっていたので、この実験には3年かかったことになる。始めた時は実験のつもりはなかったのだが、やがてそうであることが分かった。

その時思ったのは、あなたが問いを発するとき ― それが喫緊の課題であれば ―、あなたの人生がその答えになるということだった。あなたが経験しやり取りする等全ての事が、あなたが魂で探し求めている答えを核として、その周りを取り巻き始めるのである。今回のケースでの質問とは:どうしたら神と1つになれるのか?であり、その答えは「愛こそが答え」なのだが、ただし、「真の愛とは何かを知るためには、人は知識を持たねばならない」ということだった。ヤコブの手紙に書かれている通りだ:


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01章 02節:わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
3:信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。
4:あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
5:あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。
6:いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。。。
02章 14節:わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。。。
02章 17節:。。。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。。。
02章 24節:これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
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私は分かった。私の貧困生活、苦痛と苦難、愛するものの喪失、その他多くの関連する複雑な出来事は、実は知ろうとすれば知ることができた事に関して、私の知識が貧困だった状態を表していたのである。私が「知識/行いが伴わない信仰」へと猪突猛進した時、私は死ぬことを選んでいたのだ。「行いが伴わない。。。信仰は。。。死」なのだから。

だが、このような行いとは何だろうか?神が惜しみなく与えてくれるものとは何だったか?知識である。


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ローマの信徒への手紙/ 01章 19節:なぜなら、神について知りうる事柄は、彼ら[人間]にも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20:世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。。。
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スーフィーの観方によると、神および神を知ることに関する知識以外に、神はない。しかし、神に関する知識を得るためには、創造という媒介を用いる必要があり、それこそが実は存在する全ての目的なのだが、それだけでは神ではなく神へと至る道である。神の方に見える全てを学ぶことが、求道者にとっての務めなのだ。神の元へと連れ戻されるためには、全ての被造物に関する知識が求道者のナレッジ(知識)ベースに集められねばならない。まさに「タラントンの喩え」の通りなのである。


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ローマの信徒への手紙/ 01章 21節:なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず。。。
25:神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
28:彼らは神を認めようとしなかったので。。。
[20:目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。]
02章 01節:だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
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どうやらこれこそまさに、私が経験したことだったようだ。私が信仰/愛と光の旅路に飛び込んだ途端に、全ての地獄が解き放たれたのである!

上で語った経験を振り返ってみて分かるのは、私が「愛と光と信仰」について考え、フォーカスしていたということだ。しかし、それは私が創造する中で経験したものではなかった!だが、奇妙な具合に、私の信仰に対して答えがあったのだ!それにしても何という答えだろう!私が期待していたものとは全く違っていた!

さて、最近、あるメル友が書いて寄越したのだが、私には生来、ある種の「顕現させる能力」が備わっていて、それがあまりに強力なため、私の環境と経験は私の内心状態に呼応して、突然かつドラマチックに変化するというのだ。確かにそうなのかも知れないが、それは私にだけ当てはまることではないと思う。誰にもある程度は当てはまるだろう。あなたが自分の現実を創造するというのは本当なのだが、あなたが考え、フォーカスすることによって現実を創造するというのは、幾分捻じれた意味においてなのである。。。これはどうあがいても解決策が見つからないジレンマであり、次はこれについて探究するとしよう!

(本章終わり)
posted by たカシー at 11:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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