2015年02月27日

SOTTフォーカス ホロコースト2.0:最終的な良心の決断

ホロコースト2.0:最終的な良心の決断
http://www.sott.net/article/292712-Holocaust-2-0-The-ultimate-decisions-of-conscience


ハリソン・ケーリ
Sott.net
Sun, 08 Feb 2015 22:02 CET


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私にとっては全世界が見知らぬ、気味の悪いものになっていた。壮大なゲーム(※この時点では第1次世界大戦)は明らかに、私の知っている魅惑的な諸規則の他にまだ、私の見落としていた秘密の規則を持っていたのだ。その秘密の規則の表面に、何か見せかけで偽のものがあったに違いない。しかし、もしも世界の出来事がそのように底意のあるものならば、勝利に次ぐ勝利が最終的な敗北へと通じるならば、そして、出来事の真の規則は公に知られるものではなく、後になって初めて、人を打ち倒すような出来事のなかで明らかになるのであるならば、頼りとなるものはどこにあったのだろうか。確信、信念、信頼はどこにあったのか。私は深淵をかいま見た。生活に対して恐怖を感じた。
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(Defying Hitler, p. 27)
邦訳27ページ
※英訳書名直訳『ヒトラーを拒む』。
原著名:Geschichte eines Deutschen. Die Erinnerungen 1914–1933
邦訳『ナチスとのわが闘争 : あるドイツ人の回想 : 1914-1933』
セバスチァン・ハフナー著 ; 中村牧子訳
東洋書林, 2002.12

(写真)
セバスチャン・ハフナー

ナチス・ドイツへと至る一連の出来事の体験について、当時のドイツの1青年はこのように述べている。彼の名はセバスチャン・ハフナーである。後にジャーナリスト/歴史家となった彼が若き日に認めていた回想録『ナチスとのわが闘争』は、ナチズムの真の影響に関する、率直かつ洞察に富む見方を提供してくれる:それを体験した人々の精神生活に対する影響についてだ。

種としての人類が<裕福さ → 無知 → 抑圧 → 互いに滅亡>という終わりの無いように見えるサイクルから抜け出す術を学ぶには、『ナチスとのわが闘争』のような本は不可欠だろう。無味乾燥な軍事史、政治家の回想、学者の分析、新聞記事 ― いずれも重要な細部について何がしかの情報をもたらしてはくれようが、ピントがずれている。これらはファシズムを重大問題たらしめているところの、問題の核心、状況の本質を見逃しているのだ。つまり、心理的な深みに欠けるのである。

経済政策や党の綱領/政策、政界の諸派、大きな地政学的出来事 ― これらは全てうわべに過ぎず、こうしたうわべの陰に、人々が殆ど本能的に恐れや憎悪を抱く、あるものが隠れているのだが、誰もそれを何と呼んでいいのか分からない。それは深淵に「秘密の規則」のように隠されたままだ。ニュースを通して見る出来事の様子から、私たちが窺い知ることができるのは、進行中の事態のごく僅かな手掛かりのみである。

このことをハフナーはこの本の前の方で、以下のように述べている:


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前述のように、科学的な実践を志向する歴史叙述は、歴史的事件のこうした強度差については何も語っていない。それについていくらかでも体験しようと思う者は、伝記を読まなくてはいけない。しかも政治家たちについての伝記ではなくて、無名の私人たちの伝記 − そのようなものは非常に稀だが − である。そこに見出されるのは、次のようなものであろう。ある「歴史的事件」は、雲が海上を進んで行くように、私的な − すなわち現実の ー 生活の上を越えて行く。何かが生まれることもなく、はかない像が海面に映ることすらない。別な「歴史的事件」は、嵐や雷雨のように海を荒れ狂わせ、もとの姿を留めなくする。第3の「歴史的事件」はおそらく、本質的に、すべての海を干上がらせる性格のものである。
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邦訳書6ページ


コピーライトマーク Unknown
(写真)
2014年5月、ウクライナ東部(※南部?)のオデッサでキエフ政府軍によって虐殺された人々の死体

ある出来事は比較的穏やかな曇りであり、もう1つは雷雨となる、この違いはどこからくるのだろうか?一部は少なくとも、私生活への影響の仕方によるものだ。人々が大量に死んでいると報じられてはいるが、僅かに良心の痛みをもたらす以外、それが私たちの人生にどう影響すると言うのだ?何が起ころうとも人生は続く。仕事、人間関係、趣味。人生は依然として正常だ。

だが、出来事の背景にある原因を認めることができず、理解できないなら、そしてそれらを別の方向に向けるための効果的な行動がとれないなら、このような出来事は1つの方向へと進展していくものだ。というのも、そのような諸原因 ― 例の「秘密の規則」 ― は依然として深淵に隠されたままであり、私たちとしては、知覚できる症状を病気そのものだと思い込んだまま、歴史が展開して行くのを傍観するほかないからだ。パターンぐらいは分かるかも知れないが、実際に何か変化を起こせる望みはない。出来事が起きては通り過ぎて行く ― それらは新聞の見出しやRSSフィードの中にあるに過ぎない。嵐が自分の身に襲いかかってくるまではそうなのだ。

もし私たちが壮大なゲームの秘密の規則を学ばなければ、私たちは、ハフナーや無数の彼の同世代人のように、「歴史」の容赦ない行進を受身的に見やることになるだろう。穏やかな雲が凝集していくのが見え、最初の雨粒を感じたかと思うと、いつの間にか空は巨大な雷雲におおわれていて、私たちの個人/社会生活はズタズタに切り裂かれるのだ。ハフナーは書いている:


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[1933年までの]これらの歴史的事件はすべて、当然のことながら、私の同国人のすべてのなかにも、そして私のなかにも、その痕跡を残した。このことを理解しなければ、後に何が起こりうるかを理解することはできない。しかし、1933年よりも前に起こったすべてのことと、その後にやって来たものとのあいだには、ひとつの重要な違いがある。より早く起こったすべての事柄は、私たちのそばを通り、私たちを越えて行った。私たちはそれに没頭し、それによって激動した。それによって死に追いやられた人もいたし、貧乏になった人もいた。しかしそれが、最終的な良心の決断を迫ることはなかった。最も内面的な生の区域は、触れられぬままだった。人は経験を重ね、確信を持つにいたった。けれども人は、かつてと同じままの人であった。ところが、自らの意志で、あるいは不本意ながら第3帝国の装置に入って行った者のいずれも、正直に、自分がそのようであったと言える者はいない。
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邦訳4ページ


見る見るうちに暗雲が垂れ込めてきている。この数年の間にである。今の私たちも、ハフナーと同じ「最終的な良心の決断」を迫られているのだ。自分たちは正常さを保っているといくら考えようとも、「かつてと同じままの人で」あり続けることはない。そうではあり得ないのである。嵐の中の暮らしについて、ハフナーはこう述べている:


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恐ろしい脅迫のもとに、この国家はこの私人に要求する。おまえの友人と絶交せよ。おまえのガールフレンドを見捨てよ。おまえの信念を捨てて、指定された信念を受け取れ。習慣とは違う仕方であいさつをし、好みとは違う仕方で飲み食いをし、自由時間をおまえの憎む仕事のために使え。おまえという人間を、同意できない冒険のために提供せよ。おまえの過去とおまえの自己を否認せよ。そしてとりわけ、これらすべてに対し、非常な熱狂と感謝の念を表明しつづけよ、と。
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邦訳1ページ

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ナチスの数字(※得票/議席数)は常に上昇した。生活の喜び、愛情の価値、無邪気さ、好意、理解、親切、度量の大きさ、そして機知はもはやなかった。
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邦訳93ページ


まるで小説『1984年』の世界のようだと思われるのももっともだ。オーウェルが暴き警鐘を鳴らそうとしたのも、そのような現実だったのだから。確かに彼には文才があったが、彼の新造語はそのものズバリとは行かず、秘密の規則に関する知識も彼には欠けていた。ニュースを聞いたり、こんにちの西側の地政学的政策立案者の書いた本を読めば、このような「ニューリアリティー」が発生する可能性が最も高そうな地域がどこなのか、聞かされたのではないだろうか:権威主義のはびこるロシアと中国、イスラモファシズムの台頭する中東とアフリカだというのだ。「文明化した」こちら西側諸国:北米、ヨーロッパ、オーストラリアでは起こりえないだろうと。

残念ながら、とんでもない間違いだ。このようなニューリアリティーは既にここに存在しているのであり、最も顕著な例が、殆ど誰も予測していなかった場所:ウクライナなのである。先に引いたハフナーの記述を心に留めつつ、この記事を読まれたい。
http://www.sott.net/article/292292-Heartbreaking-stories-Letter-from-a-Ukrainian-girl
そこには、昨年のクーデター直後に、あるキエフの若い女性が書いた、以下のような手紙が紹介されている:


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私の同僚は、VK(※ロシア版フェイスブック)の自分のページにウクライナ暫定政権を支持しないと書いたために、アパートの入り口の前で殴られました。学校では先日、隣の家の男の子が、休み時間中、ケータイで自分の親にロシア語で電話したところ、同級生たちにケータイを取り上げられ壊されました。彼らはカバンを壊し、教科書とノートも全部破ると、彼を殴り倒したのです。同級生たちは彼にウクライナ語だけを使うよう迫りました。さもないと「見付け次第かたわにしてやるから、一生気を付けるんだな」と言うのです。この男の子は7年生です。

時折通りで目にする光景があります:1人で居る人が徒党を組んでいる人たちの近くを通ったりすると、こう尋ねられるのです:「お前はウクライナ暫定政権を支持するか?」。「しない」と答えようものなら、連中は無情に殴る蹴るの暴行を加えます。

ウクライナ暫定政権発足後、キエフに住むロシア人およびロシア語を話す人々の大部分は、ソビエト時代を思い出さずにいられません。当時は「壁に耳あり」で、黙っていなくてはなりませんでした。キエフは、ドネツクやルガンスクのような地域とは違って、ウクライナから分離・独立する見込みがないからです。

...

キエフは完全に分裂しています。ここではロシアとの連携は不可能です。。。

他の人たちも皆、知人である筈の人に対しても警戒し用心しています。ウクライナ暫定政権反対派だとして暴行を受けていないロシア人やロシア語を話す人達は、公の場では沈黙を守ろうとしているだけです。彼らは血迷った人々の攻撃の的にならないようにしているのです。

既に暴行を受けた人たち、あるいは、少なくとも実際にそういう目に遭ったのを私が知っている人たちは、自分の家族を守ろうと必死に口をつぐんでいます。

だから表向き、キエフの「様子」は極めて安全で、春が来た等々と言われています。でも本当は、街の一部(ごく一部という訳ではありません!)は恐怖に静まり返っているのです。

黙っているのは不可能です。でも、キエフに住むウクライナ暫定政権反対派で、暴虐な目に遭った人たちは、自分が反対派だなどとは公言しません。自衛本能からです。
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以下は彼女の手紙に呼応して書かれたものである:


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「キエフからの手紙」を読みました。全部本当です。。。あれを書いた人が、全てを捨てて置いてくるには1日では無理だ、と書いたのは正しいです。新しい家と新しい職は1日で手に入るものではありません。隠し通す必要があるのです。これは実に嫌な気持ちになります。「壁に耳あり」という警句を覚えているだけではなく、いい気分で居るように見せかけることも忘れてはならないのですから。例えば、春の日差しが輝くのを喜ばなくてはならないのです。ウクライナ暫定政権発足後は、そのように振る舞わなくては危険になりました。人々は監視を行い、ウクライナ暫定政権を支持しない者を探しているのです。ここではもはや法律は機能していません。人々は全く無防備で、運命のなすがままなのです。

...

一番とんでもない組織が「ストップ・センサーシップ(=検閲)」です。
http://mymedia.org.ua/en/news/appeal_from_stop_censorship_movement_about_creation_of_public_service_broadcasting.html
最初は独裁者ヤヌコビッチと戦っていたのですが、その後、ウクライナ暫定政権に同調しない発行元を閉鎖させる方向で動きだしたんですから。人権擁護活動家も、「国境なき記者団」すらも、1人としてこの事を述べていません。恐ろしい悪夢を見ているような気持です。

ここに私はこの事実を公表します。これは普通にファシズムです。
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コピーライトマーク Unknown
(写真)
2014年7月、「中東で唯一の民主主義国家」イスラエルの「プロテクティブ・エッジ作戦」で虐殺されたガザの子供たち

この1年で事態は大きく変わっていない。それどころか、さらに悪化している。キエフ政府は、ウクライナ東部のドネツク、ルガンスク、ドンバス、ノヴォロシアの住民に対して、金に糸目を付けずに雇った傭兵による暴虐的な「反テロ作戦」を行ってきた。住宅街や病院、学校、工場に砲撃を行ったのだ。キエフ政府の正体が醜悪、人種差別的で圧政的な体制であると正しく見抜き、地域を守ろうとして立ち上がった市民や義勇軍の兵士に対して、同政府は拷問を行ってきた。

西側諸国が、民主主義を表明するウクライナ暫定政権を擁護する一方で、彼らが支持するこの政権は、罪なき市民たちに砲撃を加え、拷問し、強姦し、殺しているのだ。このような政権は「民主主義」とはほど遠い。だがおそらく私たちは「民主主義」という言葉の使用をすっかりやめてしまうべきなのだろう。使う者が欲する意味を帯びる、単なるスローガン、専門語がまた増えたということなのだ。これは感情をカプセルに包み込む働きをする。「民主主義は良い。ウクライナ暫定政権は民主主義を表明している。よって、ウクライナ暫定政権は良い」。これが言葉による感情の論理的処理の結果だ。だがこれは正しくない。

幾つか例を挙げよう:アンドレイ・ビレツキーは、元「アゾフ」大隊司令官であり、ウクライナの国粋主義者、ウクライナ最高議会の代議士だった(ビクトリア・ヌーランドのペットであるアルセニー・ヤツェニュクのお蔭である)。アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』のインタビューで、彼は次のように述べている。
http://foreignpolicy.com/2014/08/30/preparing-for-war-with-ukraines-fascist-defenders-of-freedom/


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不幸なことに、今日ウクライナ人民の中には、多くの“ロシア人”(血でなく精神構造によって)、ユダ公、アメリカ人、ヨーロッパ人、アラブ人、中国人などが混じっているが、生粋のウクライナ人はあまりいない。…こうした危険なウイルスどもをわが国民から根絶するには、どれくらいの時間と努力を要するか明らかでない。
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※邦訳出所:www.dcsociety.org/2012/info2012/150102.pdf


2010年に書いたエッセー
http://web.archive.org/web/20100216231547/http://rid.org.ua/?p=256
で彼は、自らが抱く国家社会主義議会構想の骨子を述べているが、この中には以下のような記述がある:


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このような危急存亡の時における、我が国の歴史的使命とは、世界の白人種が生き残れるよう、彼らを最後の聖戦へと導くことである。「セム人に率いられた劣等人類」に対する聖戦だ。現世代の任務は「第3帝国」の樹立である。
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ウクライナのポロシェンコ大統領は、他ならぬこのビレツキーに「勇気勲章」を授与している。首相であるヤツェニュクの考えていることも似たり寄ったりだ。去年の6月15日に彼はこう述べている:


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ルガンスクで戦ったウクライナ兵は、侵略者および奴ら劣等人種から資金提供を受けた者たちによって死の脅威にさらされた老若男女を守ろうとして命を失った。まずは彼らを殺した奴らを皆殺しにして、この英雄たちを偲ぼう。そして、国土から悪を一掃するのだ。
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http://www.moonofalabama.org/2014/06/ukraine-echoes-of-the-third-reich-yatsenyuks-subhumans-.html


そして、ウクライナじゅうで聞かれるようになった、スローガンがある:
http://www.reddit.com/comments/2597kd

(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=5VRli1Ybah4

・「ジャンプ」していないお前はモスクワ人だ!
[「モスクワ人」というのはロシア人の蔑称である]
・ウクライナに栄光あれ!
・1つの言語、1つの国家、1つの祖国!
・モスクワ人は吊るしてしまえ!

この人々は歴史の「韻を踏」んでいるのではない。かつてと同じリフレインを歌っているのだ。
http://takapachi1962.seesaa.net/article/413334705.html


ハフナーはこのような群集心理について幾らか見識を示している:


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群衆異常心理と子どもの心理は、その反応において非常に似ているのである。群衆を養い群衆の心を動かす思想は、決して十分に子どもらしいものではないと思われるかもしれない。しかし真の理念が、群衆を動かす歴史的な諸力となるためには、一般的に、まず子どもの理解力にあわせて平易に単純化されなくてはならない。
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邦訳16ページ


もちろん子どもだって、知恵や同情を示すことがある。だが彼らはまた、利己的で無知で残酷にもなり得るのだ。子どもの持つどちらの面に注意を向け、発達を促すかはその国の指導者の決定次第である。

(写真)
セバスチャン・ハフナー
ハフナーは、全ての大政党が役立たずで不適切な姿をさらした後もなお政治に関心を寄せ続けた人々に関する、面白くて洞察に富む秘話を提供している。


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カップ一揆の後、私たち少年のあいだでは、時局への関心は一般に弱まった。すべての信念は今では、同じように笑いものにされた。そしてすべての領域が魅力を失った。。。私たちの多くは、たとえば切手収集やピアノの演奏、あるいは芝居といった新しい関心領域を探し求めた。政治に対して忠実でありつづけたのは、数名の少年だけだった。しかも私は初めて、それが奇妙にも、むしろ愚かで粗野で不快なことであるのにショックを受けた。彼らは今では、「まともな」結社、たとえばドイツ国民青年団やビスマルク青年団に加入していた(ヒトラー・ユーゲントはまだなかった)。そしてまもなく彼らは学校で、殴り合いに使う鉄の手甲やゴム製の棍棒、あるいは「護身杖」さえ出して見せた。また、危険な夜のビラ貼りやビラ剥がしの仲間を自慢し、自分たちを他のすべての者たちから区別する特定の仲間言葉を話しはじめた。また彼らは、私たちのあいだのユダヤ人たちに対して、仲間らしくない態度をとるようになった。
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邦訳43ページ


「愚かで粗野で不快」。最終的にSSの将校となり、あるいは、こんにちで言えばウクライナの右派の一員になるような連中に、何とピッタリ当てはまる言葉だろう。しかし、このようなタイプの人々の、より正確で臨床的な呼び名がある:サイコパスだ。これが「壮大な秘密」なのである。サイコパスこそが、「政党」、「地政学的出来事」、「イデオロギー」、「諸原因」の下に潜む隠れた原因なのだ。若きセバスチャン・ハフナーを動揺させた、件の「何か見せかけで偽のもの」とはこれだったのである。

というのも、サイコパスは本性上、見せかけで偽のものだからだ。連中は合理主義的で、愛想が良く、強烈な個性を持った、能弁な人物という仮面をかぶっている。見分け方を知らない人にとって、その正体を見破るのは不可能とは言えないまでも困難なのだ。というのは、親しげな様子、理性、安心させる言動の下には、権力に対する抑えられない本能しか存在しないからだ:すなわち、欲しいものを手に入れるためなら、どんな言動も厭わない、支配し、コントロールしようとする冷淡な意思である。権力を握るためなら、他人の肉体、銀行口座、家族の絆、友情がいくつ崩壊しようと関係ない。連中は気にも留めないし、それを楽しんでいるのさえいる。

連中が目指すべき権力の座として、国際的な政治家ほど絶好の立ち位置があるだろうか?反体制的傑作『政治悪の科学』(写真)でアンドリュー・ロバチェフスキーはこのことを詳述している。意を決してこの本を読み、活用しようという人が殆どいないのは残念な事だ。この本には情報がぎっしり詰まっている ― 私たちが歴史と呼ぶ、隠されたテーマおよび、その変奏の原因、法則、可能な解決策がだ ― だが、覚えておくべき重要な点は簡単である:すなわち、サイコパスは権力の座を熱望し、それを手に入れる、ということなのだ。連中はそこに辿り着くためにはどんなイデオロギーでも利用する ― 共産主義、社会主義、民主主義、権威主義、ファシズム ― つまらないペテン師が犠牲者を騙すためにどんな役でも演じるのと全く同じである。そして、連中の一団が上部組織において十分な数に達すると、連中はサイコパス制統治を確立する。ロバチェフスキーは書いている:


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サイコパス制統治は社会構造や政治システムより以上に社会経済システムの性質を持っていない。それは国家全体を蝕むマクロ社会的な病気の進行過程なのだ。。。
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そして、サイコパスどもがどうやってこれを達成するかと言えば、人間の最善の特徴 ― 良心 ― を利用し、操作し、悪用することによってなのだ。

世論の形成者たちが注意深く作り上げている世論を私たちは信じるようになる。それが、ある政策ないし決定を支持したり拒否するよう、あるいは、ある種の行動を行うよう私たちを動かす確信となるのだ。そのやり方は、私たちの良心、善悪の感覚、ある事が他よりも良いという感覚に訴えるというものだ。私たちが自らの価値体系に抗えないことを政治家たちは知っている。私たちは推論において「倫理的」判断を省略できない:ある決定は(一定の理由で)他よりも良いのであり、ある声明は他よりも正しいのだ。私たちの判断する際の「ものさし」は私たちの良心 ― 真善美のような一定の価値の認識 ― であり、理性がこれと呼応しつつ、価値の目盛に従ってせっせとデータを比較し、対比し、分析し、総合するのである。

だから私たちは当然のこと、政治的見解の決定、すなわち、ある政策が善なのか必要悪か、それとも容認できない悪なのかの判断を、良心に照らして行うようになる。解決すべき問題があるからと、私たちは最新の法案を支持する。脅威を及ぼすからと、私たちはある人々に対して特定の政治的見解を抱く。そうしない方がずっと悪いからと、私たちはあれやこれやの行動に出る。

だがそれには裏があるのだ。真実に基づくのでなければ、良心は良心的であり得ない。ある殺人犯が本当に罪を犯したのなら、良心に照らして、私はその男を支持することはできない。本当に罪を犯したのでないのなら、私はある人や団体を糾弾することができない。そこで世論形成者の出番となる:表面上はいかにももっともらしいが、実際には全くの嘘を前提とした決定や行動に対する支持を集めるため、この連中は黒いものを白だと人々を説得するのである。

いいだろうか、サイコパス制統治は本性上、見せかけで偽のものだ。ウクライナの惨状とキエフの政治家の口から際限なく発せられ、それを右から左にメディアが報じる嘘の数々に注目すべきだ。他方、ハフナーが切に望んだ確信、信念、信頼の裏付けには真実が必要である。何をどう言ってみたところで真実抜きではダメなのだ。私たちがこのことに気付いて、能動的に真実を探し求めなければ、私たちは雷雨に襲われることになるだろう。ドイツ人は1930年代にこれを経験した。人類はこんにちこれを経験しつつある。

(写真右)
コピーライトマーク National Archives of Norway
1937年、ヒトラーの権力は頂点に達した。一般のドイツ人はこれを喜んで受け入れたが、反対した人々は容赦なく弾圧された。

最後にもう一度、ハフナーから引用しよう:


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日常生活が、明瞭な認識の妨げになっていた − 生活は続いていたが、今ではもちろん決定的に幽霊のようで非現実的になってしまい。。。この機械的で自動的に進行する日常生活も、否まさにそれこそが、恐ろしいものに対する力強く激しい反応がどこかで生じるのを妨げる助けになったというのは、とても奇妙なことである。。。[恐ろしいものに対する反応が生じるためには]まさに日常生活の継続しているメカニズムが、邪魔だったのだ。もしも人間が今日なお、おそらく古代アテネにおけるように、全体との交渉を持ち自立した存在であったならば − そしてこのように救いがたく自分の仕事と毎日の計画に縛りつけられ、非常に多くのものに依存しており、統制しがたいメカニズムの一部分であり、いわばレールの上を走っていて、脱線した場合にはどうすることもできないのでなかったならば − おそらく革命は非常に異なっていただろうし、歴史全体が非常に違ったふうに推移したであろうに!毎日の決まり切った事柄のなかにのみ、確実性と存続はある − たとえその隣にジャングルが生ずるとしても。そんなふうに、20世紀のヨーロッパ人は皆、ぼんやりとした不安を伴いながらも感じている。ゆえに彼は、自分を「脱線」させるかもしれない何かを − 大胆なもの、非日常的なもの、まさに彼自身から発するものを − 企てるのをためらう。ゆえに、ドイツにおけるナチス支配のような、そうした莫大な文明の破局の可能性が生じるのである。
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邦訳138ページ


今とどこか違うところがあるだろうか。。。極めて重要な出来事が私たちの周りで起こっても ― 微妙な変化が私たちの生活に影響を及ぼしている場合でさえ ― 私たちは行動を起こさないものだ。自分にとって本当に大事な何かを取り上げられ、家の中に火がついて初めて、行動を起こす気になるのが普通だ。その時には普通既に手遅れである。

それでは、人類に何が出来るだろうか?自分にとって大事なものの範囲を広げて行けばいいのだ。自分たちが、もっと大きな全体の一部であることに気付くのである。世界じゅうで起こっている恐ろしい出来事を、生死にかかわる重大問題として見る必要がある。というのも、大きな見地からすれば、まさにその通りだからである。良心と真実。これらが無くては何も変わらない。事態は益々悪くなるばかりだろう。

(完)
posted by たカシー at 17:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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