2015年01月25日

SOTTフォーカス:ビザロワールド

SOTTフォーカス:ビザロワールド
http://www.sott.net/article/291441-Bizarro-World

ローラ・ナイト=ヤズィック
Sott.net
Fri, 16 Jan 2015 15:43 CET


自分が誰に支配されているか知りたいなら、批判することが許されない相手が誰かを思い起こせばよい − ヴォルテール
(写真)


我が家で最も面白い会話が交わされるのは、私たちがその日のワークを始める前の、朝食の食卓を囲む時間である。話題は、動物の奇妙な行動から政治動向、そしてその間の一切に及ぶ(うーん、実は、「動物の奇妙な行動」と「政治動向」には、当初考えていたよりも共通点の多いことがわかってきた!)。いずれにせよ、今朝の会話の結論として落ち着いたのは、家族の1人の発言だった。つまり、何事も『ザ・ウェイヴ』
http://cassiopaea.org/category/volumes/the-wave/
http://takapachi1962.seesaa.net/article/295090386.html
のある章で私が16年ほど前に書いた通りだというのである。すなわち、窓の外を見ると、車が走り過ぎ、鳥が跳ね回り、人々は仕事に取り掛かっていて、恰も万事は依然として同じままのように見える。だが、そうではないのだ。そして、それが同じでないということを知ることは人に、深く心底から影響を与えるのである。

『ザ・ウェイヴ』の中で私は、証拠を集め、点と点を結ぶことによって私たちは、このリアリティが何やら奇妙な「超次元のリアリティ」の中に埋め込まれているのかも知れない/そうに違いないこと、そして私たちの人生とは、プラトンの『洞窟の比喩』のようなものだと気付くと述べた。プラトンのイデア領域のような議論について読むのは、興味深い知的訓練である。だが、私にとっては、そして、他の多くの皆さんにとってもそうだと思うが、それは理屈抜きの体験なのだ。いずれにしても、問題の一節とは、以下の部分である:


---
何世紀、いや、何千年もの間、単純化された宗教と社会的ダイナミズムが世界の殆どの地域で支配的だった。これが可能だった理由であるが、このような超次元の存在たちの1体が私達のリアリティに侵入し、いわばディナーのためにひょっこり立ち寄ったような時ですら、人種・種族間にコミュニケーションが無かったせいで、連中は容易に身を隠せたからなのである。

私達が居心地の良いマイホームのイスに座って現実=リアリティを眺めるとき − それには窓外の景色も含まれるのだが − 目に入るのは安定した、うわべの様子である。クルマが通りを走り、様々な日々の活動に従事する人々を送り迎えし;太陽は輝き;子供達は走り過ぎ、話し、笑う。誰もが自分たちの生活に、刹那的かつ、分かり切ったやり方で関わっている。そんな生活こそが本来のものだと信じて。

だが、時折、何か奇妙なことが誰かに起る。すると人々は時空連続体における変異に対して懸命に対処するのだ。普通は抑え込んでしまい、忘れてしまえるくらい些細な事であるから、何としてもそうしなくてはならない。というのも、通常受け入れられている物事の成り行きの中では、それはあまりに常軌を逸しているからである。そんなものは、うやむやにされなくてはならない。

時たま、もっと大きな事件がこのリアリティで起きることがある ― 超次元のコントロール・システムが介入してきた証拠であり、どうかすると、私たちの見ている画面が真っ暗になる ― すると、これはニュースとして報道される。チャールズ・フォートは長い年月をかけて、世界中の新聞や雑誌から、この類の事件を収集した。

こうした事が起きると、人々が皆それぞれの集合的幻想に耽っていられるよう、一般に受け入れられている信念体系は、大急ぎでほとぼりを冷まそうとする。事件は局地的であって、隠蔽するのがたやすいからだ。また昔はそれがこんにちよりもずっと容易だった。

チャールズ・フォートが集めた情報を読むと、エイリアンの活動は、それらが広く報じられている今日と同じくらい、当時も盛んだったことが分かる。実際、それは幾分 周期的ですらあるようだ。私達が種蒔き・成長・収穫という食糧生産のサイクルを持っているのと同様、超次元の存在が私達を収穫する場合も、何らかの「季節的な」規則に従っているのかもしれない。

いずれにしても、一般の人々が読み書きできるようになる以前には、事態の混乱を防ぐのはずっと容易だった。やがて、本や新聞、雑誌が発行され流通するようになった。旅行が手軽にできるようになり、私達のリアリティへの奇妙な侵入に関する世界中の情報が収集可能になった結果、正常ではない出来事のあらゆるパターンが出揃ったのだった。

チャールズ・フォートの前にも既に数人、何か臭いと薄々気付いていた人々が居たが、フォート氏は親切にも私達の鼻先にそれを突き付けたのである。これに対する反応は極めて興味深いものだった。隠蔽マシンは、主流派科学および宗教という、最も効果的な媒介物を通じて、フル活動を行ったのである。

しかし、異臭はたちこめてきて、ふたで隠すことが出来なくなってきた。開いた窓から臭いがし続けるのだ。そうしてある人々は、異臭の出所を探し始めた。彼らは知識と情報を集め始めたのである。

さらに注目されるのは、このような隠蔽マシンによるダメージ・コントロールがどのようにして始まるかという点である。社会運動や宗教運動および、それらの変遷に関する歴史を研究すると、人類による発見や理解が進む都度、コントロール・システムがそれらを歪める様子が分かる。ダメージが、旧来の宗教や単純な説明の手に負えなくなると、新しい宗教が導入される。まさに適切なタイミング ― リアリティの本質に関する科学が発展し知識が増大して、旧来の宗教観が深刻な問題を露呈し始めるタイミング ― で、一連のスピリチャルな運動が始まり、その結果、コントロール網の穴に継ぎを当てることを狙ったチャネリング情報が出て来るのである。高次領域についての、より新しく、より詳しい説明が私達のリアリティにもたらされるのだ。新たな疑問が提起されるたび、コントロール・システムは新しい答えを用意して、皆が鎮まりリラックスして質問を止めるよう促すのである。

現在では、このことは驚くほど明らかである。数年前、私達が初めてカシオペアンからの情報を皆さんにシェアし始めた時、私達が取り扱った問題の多くを、このような他のソースは取り上げもしなかった。しかし今では、私達が情報を流す都度、向こうサイドも新説をひっさげた候補者を繰り出して来て、連中のリアリティという建物に私達が明けた穴に継ぎを当てるのである。
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[出所]
http://cassiopaea.org/2010/05/18/the-wave-chapter-27-stripped-to-the-bone-the-shamanic-initiation-of-the-knighted-ones-technicians-of-ecstasy/
http://takapachi1962.seesaa.net/article/366290946.html


やがて911が起きた後、『カシオペアとの冒険』というタイトルのシリーズもの(今では全部を『ザ・ウェイブ』に統合し、書籍として刊行済み)を書いている時に、
http://www.amazon.com/Laura-Knight-Jadczyk/e/B004MP6KEE/ref=sr_ntt_srch_lnk_1?qid=1421420137&sr=8-1
私はほぼ同様の文脈で以下のように書いた:


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私たちの殆どが気付いているように、2001年9月11日に、この星でそれまで認められていた自由は、大々的に「制限された」。それは転換点となる出来事だったのであり、私たちの生活は二度と従来に復することはない。国家警備隊が空港をパトロールし、国会議事堂や上院議員室の建物は炭疽菌を撒かれる恐れのために閉鎖されている。ホワイトハウスに通じる通りはバリケードで塞がれた。FBIは数百名の容疑者を拘留中であり、最近成立した『愛国者法』によって、権利章典中の重要な複数の条項の効力は停止され、「国土安全保障省」が設置されたほか、『モデル州非常事態における保健管理法』がじき国法になる見込みである。殆どの人々が、今起きつつある事態を受け入れている。自由を守るためには、生活様式を変えて、政府による監視を受け入れなくてはならない、と言われたからだ。これ以上の嘘があるだろうか。新法案は、私たちの自由を制限し、憲法を弱体化させ、ニューワールドオーダーの先触れとなるべく企図されているのだ。
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[出所]
http://cassiopaea.org/2011/11/20/the-wave-chapter-39-the-court-of-seven/


当然ながら、当時の私はまだアメリカに住んでいた。私が、様々な理由から移住先候補を挙げていった際、主な選択理由となったのが、アメリカについての不吉な前兆を外から見られる場所であることだったが、フランスが、この「悪の帝国」の要求に従うのを潔しとしない旨表明し、アフガニスタンおよびイラクに対する、違法で先制攻撃的な戦争への参加を拒んでいたので(所詮、大馬鹿とただの馬鹿の違いに過ぎなかったのだが、理由は詳述しない)、私たちは一切合財、荷物をまとめてフランスに移住した。私はかなり早い時期に、ここでの「言論の自由」の意味合いが、アメリカでのそれとは大いに異なっていることを学んだが、それでもまだ、動物の奇妙な行動から政治動向、そしてその間の一切について書くことができたので、但し書きは問題と思わなかった。

さて、ここで話題を変えるとしよう。


ビザロワールド

私はマンガの『スーパーマン』を読んで育った。バートン・L・マックは、マンガのヒーローのような世俗的神話の主人公は、例えばマルコ福音書のイエス伝のような「聖書の叙事詩が有する特徴への神秘的な類似性からエネルギーを引き出す」傾向があり、「問題を解決できない世界にやってきて」奇跡を行って回る類の人として奉仕するものだ、と指摘する。(原注1
スーパーマンの生みの親である2人は、どうやら当時ティーンエイジャーだったらしい。
http://kingink.biz/archives/1755
その頃ユダヤ人は英雄的な人物を切望しており、スーパーマンはメシアすなわち救い主のあらゆる特徴を示した。スーパーマンの本名である「カル・エル」からは「エマニュ-エル」が想起されるが、これは「神はわれらとともにいる」という意味であり、カル・エルとはヘブライ語で、「神なるもの全て」というような意味なのだ。


原注1
誰が新約聖書を書いたのか 単行本 – 1998/2 バートン・L. マック (著), Burton L. Mack (原著), 秦 剛平 (翻訳)


だが、ここで私にとって興味深く思われるのは、今を遡る1960年代に、DCユニバース
http://www.ahozora.sakura.ne.jp/amekomi/dc-universe.htm
に導入された、『ビザロワールド』
http://www.world-movie-collection.com/?pid=17512899
http://ameblo.jp/takatan1107/page-619.html
である。
(※【WIKIより抜粋】
スーパーマンの偽者。
初代はルーサーの作ったクローンだが、不完全なため身体が崩壊し死亡。
現在のそれはジョーカー(バットマンの宿敵)が作った異世界からやって来た。
善悪の概念が正反対で悪事を好む。
アメリカのDCコミックスに登場するヴィラン(悪役)。
ビザロ(Bizarro, ビザッロとも発音される)の名は「奇妙な奴」という意味。
初出は『スーパーボーイ』#68。1958年登場と意外と古株である。
スーパーマンのクローンや同一存在(何人かいて、設定が微妙に違う)であり、宿敵の一人。
だが、単なる悪役と一言では言い表せないようなキャラクターでもある。
二人目は、レックス・ルーサーが生み出したクローン体。
こちらもスーパーマンに戦いを挑んでいくが、次第にロイス・レーンに惹かれていく。
とうとうロイスを誘拐してしまうところまで行くが、最終的にはロイスが自分に複製光線を使い、
ビザロは彼女とともに立方体状の異世界「Htrae」へと旅立っていった。
三人目は、よりにもよってジョーカーが作ったもの。
こちらもスーパーマンといろいろあったが、最後にはHtraeへ行き、
多くの人が移住したそこで偉大なヒーローになった。 ※※)
ビザロワールドは「ヒートレイ(Htrae)」
http://mirror.uncyc.org/wiki/Htrae
(地球(Earth)の綴りを逆にしたもの)の名でも知られる。それは、ビザロと手下たちの住む、立方体の形をした星なのだが、彼らはスーパーマンと取り巻き達のビザロ・バージョンになっているのだ。ビザロワールドの社会は、ビザロ法典によって支配されているのだが、それはこんな具合である:「我々は全て地球の事と逆を行う!我々は美が大嫌いだ!我々は醜さを愛する!ビザロワールドでは、大犯罪が全てを完全にする!」 ある回では、セールスマンが元気良くビザロ公債を売りながらこう言う。「損すること保証つきだぜ」
http://shimizuyuji.com/walk-a-mile-in-somebodys-shoes/
その後の方では、市長が「ビザロ#1」に犯罪捜査を指示して言う。「お前ならビザロ警察全員をあわせたよりも馬鹿だからだ」 これは本気の発言であり、大いなる賛辞なのだ。
[英文ウィキペディア参照]
このようにビザロワールドとは、異様に逆転し、あるいは、期待とは真逆の場所や出来事の象徴となったのである。


ダブルシンク(二重思考)、ダブルスピーク/ダブルトーク(二重語法、曖昧話法)

「ビザロ人」でない人が、ある朝目覚めるとビザロワールドに居たという場合や、あるいは、ビザロの住人が地球上に着陸して世界を乗っ取ったという場合には、何らかの適応が必要になる人が多く出て来るのは明らかである。もちろん、当局のいかなる声明や行動に対する適応も不要な人々が圧倒的多数であることにも、私たちは気づく。このことについてかなりうまく説明しているのが、心理学者ボブ・アルトメイヤーの「権威主義的パーソナリティー」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=63126675
に関する著作である。自身のウェブサイトでアルトメイヤーは、自著『権威主義者たち』の内容について説明している:


---
それは、最近アメリカ政府に起きている事について述べる。それは、政府が行った悲惨な決定について述べる。それは議会を腐敗させた堕落について述べる。それは伝統的な保守主義が、権威主義により、いかにしてほぼ壊滅させられたかについて述べる。それは「宗教右派」が、非道徳な権威主義的指導者たちと一致協力の上、どうやって非民主的なアジェンダを国民に押し付けたかについて述べる。。。

以下の発言を例にとってみよう:「我が国政府の指導者たちや当局が、社会中の危険分子を糾弾するような場合には、我が国を内部から毒する腐敗を踏み消すことが、全ての愛国的市民の務めとなる」 ヒトラーの言いそうなことだと思わないだろうか?政治家の何人が、アメリカ議員の何人が、これに賛成すると思われるか?彼らの共通点とは何だろうか?

あるいは当局が、自分たちの好まない政党や少数派、ジャーナリストを刑務所に送り、拷問したり処刑しさえして迫害するという、政府のプログラムはどうだろうか?そんなものは誰も承認しないだろうか?これまた考えてみて欲しい。

自分には関係ない、などと一瞬たりとも考えないことだ。それではお聞きするが、こうして過ごしている間にも、邪悪な権威者が、不当にも心底から服従しない者に行き当たるまで、何人の普通の人々に対して、あなたを殺すよう命じる必要があると思われるだろうか?彼らときたら、権威者から単にそうしろと言われただけでそうするのだから。このような命令に一番従いそうなのは、どんな類の人々だろうか?目的に適う限り、このような命令を一番出しそうなのは、どのような当局の人間だろうか?私が行った実験結果を見て欲しい。。。

本研究は、このような人々について実に多くを説明する。そう、本研究は彼らがとてもアグレッシブであることを示す。だが、なぜ彼らはそれほどまでに敵対的なのか?そう、実験結果は、彼らが殆ど全く、推論や証拠には影響されないことを示す。だが、どうして彼らはそれほどまでに教条主義的なのだろうか?そう、研究の結果、宗教右派には、上から下まで普通以上に偽善者の多いことが分かる;だが、どうして彼らには陰・日向があり、どうして一方の顔は決して他方に気付くことがないのだろうか?そう、彼らの指導者は、自分が働いた悪事に関して、実に見え透いた言い訳をし、あからさまな嘘さえつく。だが、どうして庶民はそれらを信じるのだろうか?自分たちを導く権威者が、共に歩むよう懇願していると、権威に従う人々が気付いたとき、一体何が起きるだろうか?(原注2
---
原注2
2 http://home.cc.umanitoba.ca/~altemey


権威に従う人々は、しばしば基本的に礼儀正しい人々であるという問題を考えたときに想起されるのは、ダブルシンクの問題である。ジョージ・オーウェルは、小説『1984年』で、ダブルシンクという新語を造った。(原注3
(※二重思考
Wikipedia:二重思考(にじゅうしこう、ダブルシンク、Doublethink)は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する思考能力であり、物語の中核をなす概念。それは「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」[1]である。作中の例でいえば、舞台となっている全体主義国家では民主主義などは存立しえない、という事実を信じながら、なおかつ、国家を支配する「党」が民主主義の擁護者である、というプロパガンダをも同時に信じることを指す。  ※※)
この小説中では、典型的市民の間でダブルシンクが行われるようになった原因は明らかにされていないが、アルトメイヤーの著作はそれを解明する上で非常に役に立つ;オーウェルは、人々が同僚からのプレッシャーや、党内に「適応」し、あるいは地位を得たいという欲求から、ダブルシンクやニュースピークを学ぶ様子を明示的に描いている ― 愛国的な党員と見られたいのだ。
(※ニュースピーク[編集]
詳細は「ニュースピーク」を参照
ニュースピーク (Newspeak、新語法)は、思考の単純化と思想犯罪の予防を目的として、英語を簡素化して成立した新語法である。語彙の量を少なくし、政治的・思想的な意味を持たないようにされ、この言語が普及した暁には反政府的な思想を書き表す方法が存在しなくなる。
付録として作者によるニュースピークの詳細な解説が載っている[17]。 これによるとニュースピークにはA群B群C群に分けられた語彙が存在し、A群には主に日常生活に必要な名詞や動詞が含まれ、その意味は単純なものに限定され文学や政治談議には使用しにくいもののみがイングソックによる廃棄をまぬがれる。B群には政治に使用される用語が含まれ少なからずイデオロギーを含んだ合成語が含まれる(例: goodthink(正統性)、crimethink(思想犯罪))。C群にはほかの語群の不足を補うための科学技術に関する専門用語が含まれる。 ※※)


---
ダブルシンクとは、普通の人々が、往々にして社会的背景の異なる、相反し合う2つの信念を同時に正しいとして受け入れることである。この矛盾を最も簡潔に表現しているのは、本小説に出て来る、党の3つのスローガンである:
・戦争は平和である。
・自由は屈従である。
・無知は力である。
この言葉は、ある状況(仕事の中で、特定のグループで、ビジネスで、等々)では一方の考え方をし、別の状況(家で、別のグループで、私生活で、等々)ではもう一方の考え方をしながらも、両者間に存在している何らかの矛盾を必ずしも感じない能力について述べるために、広く用いられている。(原注4
---
原注
3 Martin Secker & Warburg Ltd, London]
・『1984年』 新庄哲夫訳、早川書房〈ハヤカワNV文庫〉、1972年2月。ISBN 4-15-040008-3。 - 現在は絶版。
・『1984年』 新庄哲夫訳、早川書房〈Hayakawa novels〉、1975年3月。ISBN 978-4-15-207249-8。
・『一九八四年』 高橋和久訳、早川書房〈ハヤカワepi文庫〉、2009年7月18日。ISBN 978-4-15-120053-3。 - 新訳版。タイトルも「一九八四年」と漢数字に改められている。解説はトマス・ピンチョン。

4 McArthur, Tom, ed. (1992). The Oxford Companion to the English Language, Oxford University Press. p. 321
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/989986.html


幾分関連しつつも、これと殆ど反対の状態が「認知的不協和」である。これは、矛盾する信念を抱く結果、心の中で葛藤が起きるというものだ。ダブルシンクは、認知的不協和が起こらない点で注目に値する ― かくして、このような人は、いかなる葛藤や矛盾にも全く気付かない。このような、目が覚めた時に、自分がビザロワールドに住んでいると分かっても認知的不協和に苦しまない人々(しかも、その数は多く、どの国でもおそらく45%はそうである)には、何かが欠けているように思われるのだが、ここではこれ以上詮索しないでおく。

ダブルシンクから想起されるのは「ダブルスピーク」である。実はこれはオーウェルの小説には出てこないのだが、彼は随筆『政治と英語』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%81%A8%E8%8B%B1%E8%AA%9E
の中でこれに言及している。「破廉恥な政治家や広告主、似非信者、その他どの筋の者であれダブルスピーカーたちは、操作しようという目的で、誤った言葉使いを続けるのだ」(原注5


原注
5 Kehl, D.G.; Livingston, Howard (July 1999). Doublespeak Detection for the English Classroom. The English Journal 88 (6): 78. JSTOR 822191

(※六つの規則[編集]
オーウェルは彼の同時代の人々が彼の述べる類の悪文に陥り易い事に同意し、無意味で陳腐な決まり文句の使用への誘惑は、「肘先にいつも置かれたアスピリンの箱」の様なものだと述べている。特に、決まり文句は書き手が明晰に考えて書くという手間を省いて思考をまとめるのに、常に都合が良い。しかしながらオーウェルは、悪文の生成過程は非可逆的ではないという結論の上で、彼が随筆の前半で提示した悪文の例の中にある誤りのほとんどを避けるのに役立つと言う、六つの規則を読者に提供する。[11]
・印刷物で見慣れた暗喩や直喩、その他の比喩を使ってはならない。
・短い言葉で用が足りる時に、長い言葉を使ってはならない。
・ある言葉を削れるのであれば、常に削るべきである。
・能動態を使える時に、受動態を使ってはならない。
・相当する日常的な英語が思い付く時に、外国語や学術用語、専門用語を使ってはならない。
・あからさまに野蛮な文章を書くぐらいなら、これらの規則のどれでも破った方がいい。 

『伝道の書』の翻訳[編集]
オーウェルが述べている事の一例として、オーウェルによる『コヘレトの言葉』第9章11節の「翻訳」がある。
“ I returned and saw under the sun, that the race is not to the swift, nor the battle to the strong, neither yet bread to the wise, nor yet riches to men of understanding, nor yet favour to men of skill; but time and chance happeneth to them all.
(私は再び陽の下に見た。速い者が競走に勝ち、強い者が戦いに勝つとは限らず、賢い者がパンにありつくのでも、聡い者が富を得るのでもないし、器用な者が好意に恵まれるのでもない。しかし時と機会は誰にでも与えられている)”
これが「現代英語でも最悪の種類の文章」では、以下の様になる。
“ Objective considerations of contemporary phenomena compel the conclusion that success or failure in competitive activities exhibits no tendency to be commensurate with innate capacity, but that a considerable element of the unpredictable must invariably be taken into account.
(現時点での諸現象の客観的な問題は競合的活動における成否が生得の能力に見合う傾向を示さないという帰結を強制するが、予測不能な要素の可能性を普遍的に考慮せねばならない)”

※ウィキペディア『リストラ』
解釈[編集]
そもそもは事業規模や従業員数の増減を問わず、単に「組織の再構築」が行われることに対して使われる言葉であるが、実際の「リストラ」は、現状の事業規模や従業員数を維持、もしくは増強した上での組織(企業)再構築ではなく、組織再構築のために不採算事業や部署の縮小(ダウンサイジング)を行い、またそれに伴う従業員解雇(特に整理解雇)が行われる事が多かった。
このため、日本を含め多くの国では組織再構築の実施による不採算事業や部署の縮小に伴う「従業員削減」のみを意味することになり、本来の意味から大きくかけ離れてしまい、単に解雇と解釈されるケースが多い。アメリカでは「reduction in the work force」(就業規模縮小)と表現されることがある。
また、日本においては 1990年代初頭バブル崩壊以降、デフレ経済の進行に伴って、整理解雇を行う事例が官民を問わず急速に増加したが、当初は意図的に日本語を英語で言い換えることで経営側の心理的後ろめたさを軽減することを目的にしていた(ダブルスピーク)[要出典]。しかし、現在ではこの様な解釈が一般的になったため、大手企業や外資系企業を中心にあえてこの言葉の使用を避け、「組織再構築」や「組織の建て直し」など、改めて日本語で表現してさらなるダブルスピークをする事も多い。 ※※)


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現代では、政治演説/文書は概ね、擁護不可能なものの擁護に使われている。。。この結果、政治で使われる言葉には、主として婉曲表現や論点を回避し、あるいは全く曖昧な言い方が用いられるのである。。。明瞭な言葉使いの大敵は、言行不一致だ。そのような人の真の狙いと、宣言するところの狙いの間にはギャップがあり、彼らは言ってみれば無意識のうちに、長い言葉や陳腐な決まり文句に頼っているのである。(原注6

ダブルスピークというのは、言葉の意味を故意に偽ったり、歪めたり、あべこべにするような言葉使いのことである。ダブルスピークは婉曲表現の形を取ることもある(例えば、レイオフを「ダウンサイジング」と、爆撃のことを「ターゲットへのサービス」と言ったりする[『ペンタゴンが賞を受賞 ただし褒章ではない』 ニューヨーク・タイムズ])。
http://www.asahi-net.or.jp/~IR4N-KHR/orwell/ncteaward.html
http://www.nytimes.com/1991/11/24/us/pentagon-is-given-an-award-but-it-s-no-prize.html
この場合、聞こえの良くない真実を、耳に心地良い表現に改めることが専ら意図されている。あるいはまた、故意に曖昧な言葉使いをしたり、実際とは逆の意味で使用する場合もある(例えば、戦争状態を「平和」と名付ける)。
http://www.mdsweb.jp/doc/1327/1327_01a.html
(※安倍政権の「積極的平和主義」)
このような場合、ダブルスピークは真相を隠ぺいする。ダブルスピークは、政治における言葉使いと非常に密接な関係がある。(原注7
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原注
6 Orwell, George (1949). 1984. New York:Signet Books. p. 163
ジョージ・オーウェルの随筆
7 Wikipedia
ウィキペディア 英語版


政治経済学者でメディア・アナリストであるエドワード・S・ハーマンは、著書『偽善の域を超えて』の中で、ダブルスピークの主な特性について述べている:


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ダブルスピークの世界で真に重要なのは、意識的であれ無意識であれ、嘘をつき、しかも、罰せられずに嘘をつき通す能力であり;嘘を用いて事実を選択しでっち上げて、アジェンダやプログラムに合わない事実から人々の目を逸らす能力である。(原注8
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原注
8 Herman 1992. p. 3.


ウィリアム・ルッツは述べる:「教え子たちがダブルスピークに出くわしたときに憤怒を覚えられるようにするには、英語教師が彼らに、言葉使いに対するリスペクトと愛を教える他ない。生徒はまずもって、言葉を効果的に用いねばならず、その美しさと力を理解しなくてはならない。。。言葉を上手に使うことによってのみ、我々はダブルスピークに内在するこじつけを正しく理解できるようになるのだ。(原注9


原注
9 Lutz, William (March 1988). Fourteen Years of Doublespeak. The English Journal 77 (3). JSTOR 818411]


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全米英語教員協議会(NCTE)の「公人のダブルスピークに関する委員会」が1971年に発足した。政治スキャンダル「ウォーターゲート事件」(※1972年)に象徴されるように、当時は国民と、政界/軍部/財界いずれとの関係においても、真実さを疑うムードが充満していた。NCTEは2つの施策を決定した。1つ目は、広告主による、誠意のない非人道的な言葉や文献の使用を研究し、不正行為に対して国民の注意を喚起し、さらには、子供たちが商業的宣伝に対処するのに備えるテクニックを学校で教える手段を講じるというものだった。もう1つは、言葉使いと社会政策との関係を研究する手段を講じるというもので、これは官僚や、公職の候補者、政治評論家、その他、マスメディアによって発信を行う全ての人々による、意味を歪める行為を記録し、公表して、これと戦うためのものだった。2つの施策は、公人のダブルスピークに関する委員会を発足させることで実施に移された。発足以来顕著な成果を挙げて義務を果たしてきた委員会である。(原注10

NCTE公人のダブルスピークに関する委員会の設立メンバーの1人であるチャールズ・ウェインガートナーは書いている:「公人によって用いられた言葉が、隠ぺいし、歪め、ミスリードするものだという認識が現実の問題だということを、人々は十分に知らない」 別の専門家も書いている:「英語の教師は生徒に対して、言葉とは物事ではないが、最終的には物事に還元できなくてはならない、物事の表象ないしサインであって、それが表している対象を確かめなくてはならないことを教えるべきだ。生徒は、言葉の濫用の可能性に対する健全な疑念を教えられるべきだが、それだけでなく、不健全な不信感を抱くことの危険についても、十分警告されるべきだ」(原注11
---
原注
10 http://www.ncte.org/volunteer/groups/publiclangcom/doublespeakaward
11 ibid Kehl, D.G
既出


ルッツは公人のダブルスピークに関する委員会に対する主な貢献者の1人であるだけでなく、ダブルスピークが帯びている、人を騙す性質を大衆に知らせるために「ダブルスピーク」という言葉を広めている。彼は書いている:


---
言葉の効果的な利用を心がけるならば、懸垂修飾語、主語と動詞の不一致、あるいは怪しげな用語法に遺憾の意を表明する以外にも、もっと沢山すべきことがある。言葉を使う者は誰でも、発言と事実が一致しているか、オーウェルを引くならば、「専ら擁護不可能なものを擁護するような」言葉使いでないか、「嘘が真実らしく、殺人がリスペクトすべきもののように聞こえるよう、また、ただの風にすぎぬものに実体があるかのような見せかけを与えるよう」仕組む言葉使いでないかに注意を払うべきである。(原注12
---
原注
12 A new look at 'doublespeak. Advertising Age. November 6, 1989.


ルッツはさらに述べる:

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人間は、嘘をつき、だまし、誤り導き、操作するために言葉を発明したのではなく、言葉の目的とは、真実を伝え、社会グループの結成を容易にすることなのだ。
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かくしてルッツによれば、ダブルスピークとは、言葉が発明された目的を台無しにするような使い方の1形態なのだ。というのも、ダブルスピークは真実を伝えないで、その反対のことをしようとするのだから。ダブルスピークが言葉の世界に生み出したこのような問題を是正することが、公人のダブルスピークに関する委員会の任務である。


NCTEのテレンス・P・モランは、
http://cinemanote.jp/books/newmedia.html
マスメディアにおけるダブルスピークの使用を、ラットに対して研究室で行なった、ある実験のようなものだとする。ラットを2グループに分け、半数には砂糖と水を与え、もう半分にはサッカリン液を与えておいて、絶食させるという実験である。
(【名】サッカリン◆砂糖の数百倍の甘味。栄養は無い(糖尿病患者の調味料に)。原料はコールタール。白色・半透明の結晶体。)
どちらのグループでもラットたちは、飢えが満たされたような様子だったが、2番目のグループ(サッカリン液を与えた)のラットたちは、栄養失調で死んでしまった。モランはダブルスピークの構造特性に焦点を当て、マスメディアのような社会的慣行は、意見の管理に、積極的なトップダウンアプローチを採用していると述べる。そしてモランはダブルスピークを、幻想を見せることになぞらえる:


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この実験が示しているのは、科学者によってラットにあてがわれた環境と、言葉や様々なマスコミによって人間にあてがわれた環境が似ているということである。サッカリンをあてがわれた環境同様、ダブルスピークが生み出し、あるいは浸透した環境は、見た目の栄養と、生存の約束をもたらすものの、見た目は幻想であり、約束は嘘なのだ。
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原注
13 Moran, Terrence (Oct 1975). Public Doublespeak; 1984 and Beyond. College English 37 (2): 224


ダブルトークとサイコパス学

独創的な著書『政治悪の科学』(原注14)中、様々な箇所で、心理学者アンドリュー・ロバチェフスキーは、彼が「ダブルトーク」と名付けた問題について論じている。この言葉が最初に述べられているのは、イデオロギーに関する節においてであるが、そこで彼はこう述べている。すなわち、ある団体 ― 国家政府、国際組織、宗教団体等々、いかなる団体であれ ― にサイコパスが入り込むや、その主たるイデオロギーおよび目標は、元来の成長性あるものから、普通は全く反対の性格を帯びた目的へと、徐々に変わり始める。つまり、地球が「ヒートレイ」=ビザロワールドに変わるようなものなのだ。このプロセスが進展する結果、団体は一種の層形成を始める。すなわち、イデオロギーが分裂を来すのである。外側の層ないしサークルは、未だに当初、団体の目的として宣伝された、オリジナルの内容に忠実である;この層は、低位階メンバーおよび大衆向けだ。しかし、内側のサークル、団体の核の部分では、言葉が異なった意味を持つことが、完全に理解されている;同じ名称が異なる内容を意味するのである。ロバチェフスキーはこのような言葉の二重性こそ、ある団体がビザロワールドへと変容する兆候だと言う。ロバチェフスキーは書いている:


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ダブルトークは数多い兆候の1つである。他の兆候としては、暗示的な効果を持ち、事実上無批判のうちに受け入れられるような新しい名称を生み出すという、特異な機能を持つことが挙げられる。
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原注
14 Andrew Lobaczewski, Political Ponerology, Red Pill Press (September 20, 2012)


それから彼は、さらにいくつかの特徴を挙げるが、これらもまた、このような団体が示すサイコパス的な兆候である。


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このような名称には、似非道徳的性格および偏執狂的性質が頻繁に見られることを指摘すべきだろう。このような奇形的イデオロギーにおいては、誤謬推論や似非道徳が行われ。。。サイコパス的ルールを脅かすものは何であれ、全く非道徳的とされる。
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ダブルスピーク/ダブルトークの中にあっても身を守れるよう、私たちは流暢になる必要がある。ここに至ってロバチェフスキーは、この課題に対処する上で実に有益な示唆を与える:


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このように私たちには、適切な名称を考案する権利があるのだ。このような名称こそ、科学的方法論および意味論の法則に対する私たちの認識とリスペクトにふさわしいやり方で、諸現象の性質を可能な限り正確に表すものとなろう。このような正確な用語はまた、サイコパスが付ける名称や誤謬推論、そして後者に含まれるサイコパス文献が持つ暗示効果から、私たちの心を守る上で役に立つ。
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そしてさらに、彼は少々ユーモラスな例え話をするのだが、これはビザロワールドを完璧に描きつつ、さらにもう1つの示唆を与えてくれる:


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上で示したような、本質的サイコパスとして区別される異形は、十分に発達したサイコパス制統治における現象全般を想起させ、「赤緑色覚異常」すなわち、赤色と緑色に関する色覚異常ないし半色盲と呼ばれる、よく知られた現象との生物学的類似性を浮き彫りにする。知的訓練のため、赤緑色覚異常者たちが支配権を握るに至り、国民にこれらの色の区別を禁じた結果、緑色の(未熟な)トマトと熟れたトマトの区別が廃止された、ある国を想像してみよう。このような国では、拳銃と杭で武装した特別野菜畑監察官が国土をパトロールして、国民が熟れたトマトばかりを摘み取らないよう、目を光らせることだろう。もちろんのこと、このような監察官自身は、完全な色覚異常である筈はない(でなければ、彼らはこの極めて重要な職務を遂行できないだろう)。彼らは、この2色に関しては、半色盲以上を患ってはならないのだ。彼らは、色に関するどんな議論にも神経質である人々でなくてはならないだろう。

このような当局者に監視された国民たちは、緑のトマトも喜んで食べ、それらが熟れているとすっかり納得し確信した様子でいるのだろう。だが、厳しい監察官が、ずっと遠くの、どこか他の農園に行ってしまえば、本書のような科学書には書けないような、下品なコメントが大量に吐かれることになろう。そして国民たちは、素晴らしく完熟したトマトを摘み取り、クリーム・サラダにし、風味を出すために、ラム酒も数滴たらすことだろう。

サイコパスのルールの下で暮らすよう強いられている、全ての正常な人々は、上述のようなレシピに従って、あるシンボリックな慣行でもってサラダを盛り付けるよう強いられているのだ、と言えないだろうか。色や香りでもって、シンボルに気付いた客人も、コメントを控えるだろう。だが、このような慣行の存在は結果的に、正常人のシステムが再建されるのを加速することになるかも知れない。
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本稿こそまさに、このような「サラダ」なのだ。

あとはあなたの方で考えてみて欲しい。

(完)
posted by たカシー at 11:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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