2013年12月27日

SOTTフォーカス:ナルシズム(自己愛)とサイコパスの心的構造論

http://www.sott.net/article/154258-A-Structural-Theory-of-Narcissism-and-Psychopathy
SOTTフォーカス:ナルシズム(自己愛)とサイコパスの心的構造論


ローラ・ナイト=ヤズィック
ソット・ドットネット
2008年4月20日


(写真)
乳房で眠る
コピーライトマークUnknown
乳児は母親/乳房/食べ物、そうした全てが自分の一部だと信じている;神経からの入力こそが、乳児の体験している全てだ。


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集団的暴力は社会が直面している最重要課題の1つである。これはアメリカ社会にとってのみ非常に重要なテーマである訳ではない。こうした事件には世界中のあらゆる大陸、あらゆる国の人々が直面しているのだ。。。
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*『集団的な無力感および憤怒』
http://www.selfpsychology.com/papers/wolf_2001b_group_helplessness_and_rage.htm


2001年5月、9・11の4か月前にドイツのドライアイヒで行われた「国際自己心理学シンポジウムにおける講演で、アーネスト・ウルフ博士はこのように語った。

この小論は、ウルフによる自己愛憤怒に関する記述を取り上げようという、はっきりした目的でソット・フォーラム
http://www.sott.net/signs/forum/viewtopic.php?id=8651
に最近投稿され、私達の注目するところとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E6%84%9B%E6%86%A4%E6%80%92
(※上のURLの内容を保存:
自己愛憤怒(じこあいふんぬ、英: Narcissistic rage)とは、自己愛者が、主観的評価よりも少しでも低い評価や冷遇を他者から受けた途端に爆発させ、攻撃行動へ結びつく怒りのこと[1]。

「自己中心的な人間は、自分の利益や快楽を優先するので、その過程で他者を傷つける可能性が高い」[2]。自己中心的な人間には、他者を気にし過ぎるあまり攻撃的になる自己愛者と、他者の評価がまったく本当に気にならないので自分の欲望を他人に押し付けることが出来るサイコパスの2つのタイプがある。自己愛憤怒は、前者が持つ怒り[2]。

攻撃行動とは、「他者に危害を加えようとする意図的行動」[3]のこと。攻撃行動には2つのポイントがあり、「行為者本人に相手を害しようという意図があるかないか、被害者本人に意に反して害されたという意識があるかないか」[4]「第三者からみて攻撃しているとみなされるかどうか」[5]という点と、危害を加えようとしている[5]という点である(未遂か、成し遂げられたかは関係ない)[5]。「他者を傷つける行為」であっても、たとえば外科手術、格闘技、自傷行為、サディスト−マゾヒストの関係、何かの事故の場合は、それぞれ、傷を加える側の目的が「被害者」の治療で「被害者」の目的も同じ、嫌がっているのを無理矢理リングに上げさせられたのではない、行為者と被害者が同一人物、行為を受ける人物が事態を避けようとしていない、加害者の意図した行動でなはいので、社会心理学でいう「攻撃行動」ではない[5]。

参考文献[編集]
『なぜ人は他者が気になるのか』 永房典之 編著 金子書房 2008年9月30日 ISBN 978-4-7608-3028-2  
※ただし、サイコパスや自己愛憤怒が出てくるのは、この『なぜ人は他者が気になるのか』という本では、第8章ぐらいのようです。 ※)
率直に言って、上に掲げたのがこの小論の一番いい部分であり;残りは救いようもなく混乱した素朴な内容となっている。

なぜだろうか?

ウルフ博士はハインツ・コフートの「自己心理学」
http://www.cassiopedia.org/wiki/index.php?title=Heinz_Kohut
(すなわち、自己に関する精神分析的心理学)の枠組みを用いて、悪 ― 個人レベルおよびマクロな社会レベルでの ― の原因について、説明を試みている。
http://kongoshuppan.co.jp/dm/dm.php?cd=0712_3
コフートとウルフの両博士には大変失礼ながら、この理論は、健康に生まれ、基本的に健全な環境に住んでいる正常な人間に関して論じる場合にはそう悪くない、という程度のものだと思う。この理論は私達の社会における病原性因子 ― サイコパス的形質のキャリアである人間たち ― については考慮していないのである。連中はといえば、諸々の集団、さらには社会全体にまで病原菌を撒き散らし、マクロな社会的スケールで悪を蔓延させているというのに。そればかりか、この理論は全ての人々に「責任をなすりつけ」ようとする結果、道徳的な悪と精神生物学的な悪とは、実際には原因と結果の関係にあり、多くの相互作用を及ぼしつつ結び付いていて、抽象的に論じる際にのみ分離されうるに過ぎないという事実を無視している。確かに、社会という身体は病気に感染する際には弱っているに違いない。しかし、感染する病原体が存在しなければ、単に弱くて無力であるのに過ぎない。

つまり、ウルフの小論は、せいぜい自己愛パーソナリティー障害(Narcissistic Personality Disorder)とサイコパスを正当化するものに過ぎず、このようなタイプが人類に押し付けている問題が破滅的なものに他ならないことを考えると、今の時代に混乱を招くばかりなのだ。

だが、先ほど述べたように、ウルフは優れた自己愛憤怒(Narcissistic Rage)という概念を提示している。これは実際素晴らしいものなので、ざっと見てみることにしよう:


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憤怒に駆られた行動に関してコフートは、憤怒の陰にはしばしば理想的な他人の完全さに対する、強いこだわりが潜んでいると述べている。乳児は未だに無限性、力、知識の状態を体験し続けている。部外者である我々が、非難がましく幼児期の誇大性、誇大自己と呼ぶ状態だ。

もし様々に考えられる理由のどれかのせいで、この幼児期の自己愛的な誇大性状態が健全な自尊心へと成熟するのを妨げられた場合には、大人の外見をしていながら、過敏な神経と傷つきやすい名誉感情とが揺れ動きつつ結び付いたナルシストが誕生することになる。

リベンジの必要性に関する狂信や、侮辱を受けた後に恨みを晴らさねばならないと感じる、果てしなく、かつ抑え難い衝動は、このような次第で、自我の成熟という目的に結び付いた攻撃性の属性ではない ― 反対に、このような苦悩が示すのは、攻撃が蒼古的な誇大自己に奉仕するために動員されており、それが蒼古的な現実認識の枠組みの中で繰り出されているということなのである。

このような名誉の傷つきやすい人は、自己愛損傷(narcissistic injuries)としての挫折を経験しがちであり、そのような場合には飽くなき憤怒でもって反応しがちである。侮辱行為を行ったとたまたま誤解した敵を、彼は独立した自発性を持つ人間だと認識しない。攻撃というものは、分別ある人が動機を抱いて行う際にも、容赦ないものだ。しかしながら、このような攻撃は盛んに行われるものの、その狙いは限定的かつ有限である:すなわち、大事な目標への行く手を塞ぐ敵を打ち負かすことで狙いが達せられるや、憤怒は去ってしまう。

他方、自己愛損傷を負った人の場合には、大胆にも彼に反対し、賛同せず、あるいは彼にまさろうとした、経験の浅い犯人を消し去るまでは気が休まることがない。この人の気は決して休まらない。というのも自分がユニークで完全であるという確信と矛盾するような証拠を消し去ることができないからだ。この蒼古的な憤怒はずっとずっと続く。しかも、自己愛的に脆弱な人の蒼古的な憤怒を呼び起こした敵は、彼から見れば刺激の自律的な源ではなく、自己愛的に知覚された現実の中の欠陥なのである。このような敵は、拡大された自己のうちの、自己愛的に脆弱な人が完全にコントロールしたいと思っていた、反抗的な部分として経験される。つまり、他の人は独立ないし異なっているという単純な事実が癪に障るという風に、強烈な自己愛的要求を持った人には感じられるのである。

かくして、自己や自己愛的に経験している世界を十分にコントロールできない結果、この悩める人は、全くの無力感を味わうことになる。このような世界に対する無力さの感覚は、どんな手段を用いても終わらせねばならない、耐え難くトラウマ的な経験だ。目障りな他人は消し去らねばならない。

自己愛憤怒は様々な形で現れる。しかしながらそれらはいずれも、ある特有の心理学的な趣きを共有しているため、人間が行う、広範囲に亘る攻撃の中でも、独自の立場を築いている。どんな手段を用いてもリベンジを行い、不正を正し、傷を元通りにする必要性や、これら全ての目標を追求する中で、深く碇を降ろした執拗かつ抑え難い衝動のせいで、自己愛損傷を負った人は気の休まることがない ― これらがあらゆる形の自己愛憤怒の特性であり、それによって自己愛憤怒は、他の種類の攻撃から区別されるのだ。

自己愛損傷に対しては誰もが、困惑と怒りを感じるものだが、蒼古的な環境に対する絶対的な支配の感覚を何としても得たい、この人々の中に去来しているのは、最も強烈な恥の経験であり、最も暴力的な形の自己愛憤怒なのだ。というのも、自尊心 ― そしてもちろん自我 ― を維持できるかは、賛同する鏡映的な自己対象(mirroring selfobject)あるいは、融合を許容する理想的なそれが無条件で手に入るか次第だからだ。(Search for the Self, vol.2, pp.643 etc.)
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※ウルフ、前出論文


ウルフは自己愛的/サイコパス的憤怒について巧みに述べている;もしあなたが、ナルシストやサイコパスのターゲットになったことがあれば、それがどんなものかはもうお分かりだろうし、上の引用を読んでいる間じゅう、しきりにうなづかれたことだろう。問題なのは、ずばり要点を言い当てつつも、この文章には他の見当違いな概念や誤解が混入していて、これをすっかり取り除くのは、さながらモヘアのセーターについたトゲトゲを取り除くようなものだということである。彼は、私達が「エナジャイザー・バニー(◆電池のイメージキャラクターとして使われたウサギの人形=疲れ知らず)効果」と呼ぶ、ナルシストやサイコパスによる攻撃の信じ難い執拗さを見事に述べている。

しかしながら、ここのところである区別について注意しておきたい。私は人生の中で3人、「自己愛障害」と診断された人と身近に知り合ってきた。「トリガー」となることが起ると、この人達がターゲットを消し去ろうとするのは、確かに本当である。実は、彼女達はすぐ簡単に平常の状態に戻ってしまうのだが、このこともまた問題なのだった。彼女達はあなたに対して激怒し、最も忌まわしい事を言い、行っておきながら、30分もしないうちに正気に返って、「そうね!素晴らしい!もう大分気分がいいの。例のストロベリー・ショートケーキを食べない?」と言うのである。彼女達にはあまりに完全に思いやりが欠如しているので、自分の憤怒のターゲットとなったあなたの苦しみなど考慮しないばかりか、後からそのことで怒られる理由があるとも思わないのだ。

さて、これを聞いて、あなたは何を思い出すだろうか?

「普通種の自己愛」は6歳児を扱うようなものだと、この現象の観察者の1人は指摘している。
http://www.halcyon.com/jmashmun/npd/six.html
一方あなたはこれが、サイコパスやもっと深刻なタイプの「自己愛パーソナリティー障害」患者による、病的な執着のことだとは思わないだろう。

疑問なのはもちろん、6歳児のように振る舞うことと、「集団的な無力感」や「暴力の根源」、そしてマクロレベルの社会悪がどう関係あるのかということだ。これは皆に共通したことなのだろうか?私達の各人が何らかの原始的な防衛メカニズムに取り憑かれてしまい、西部劇ごっこをして遊んでいる子ども達のように、取り憑かれた憤怒のせいでヘトヘトになったり、ゲームに飽き飽きするまで、リベンジと仕返しの冷酷な暴力行為を続けるということがあり得るのだろうか?私はそんなことはないと思うのだが、それでも確かに、先ほど言った通り、このような病的に逸脱した特質を持つ人々は存在しているのであり、彼らは社会の身体が弱っているときに攻撃をしかける、社会の病原体なのである。無力感は正常な社会を弱体化させる原因だという考えに異を唱えるつもりはない ― それはきっとそのような病理現象の一部なのだろう。しかし、病原体の原動力とそれが受ける指令は、体内の健康な肉体の原動力や指令とは異なるし、このことは社会という身体にも当てはまる。ウィルスやバクテリアを、体内の筋肉細胞や器官どれかの細胞と比べた場合、たとえそれらが何らかの形でくたびれ老朽化しダメージを負っていようとも、ウィルスやバクテリアと同じではないのだ。

ウルフは、彼とコフートによる自己愛憤怒の解釈は、様々なスケールでそこかしこに見られる、あらゆる暴力行為の原因を説明するものだと言う;それは誰にでもあり、程度の問題に過ぎないと。そして詰まるところ、それは根本的には無力感の問題だと言うのだ。前掲論文のある箇所でウルフは、善良なドイツ国民を殺戮者のナチスに変えたのが無力感であるとまで言う。


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第1次大戦での敗戦処理のために経済不況に見舞われていた際のドイツはこれと似た動力学的状況にあった。それは無力感を助長し、彼ら自身の重要さや正しさが脅かされるように感じる環境だった。自己が弱体化した状態においては、カリスマのある雄弁な総統のリーダーシップの下で、軍服を着たり軍歌の中を行進することで、人はたやすくそのような自己が高揚し強化されるのを経験し、無力感をもたらす経験を払いのけたのかも知れない。ナチス運動の一切は、国家的自尊心を喪失した全ドイツ国民が示した自己愛憤怒的反応と見做すことができる。
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※ウルフ、前掲論文


上の引用で注意されたいのは、ウルフが少なくとも建前上は、無力さを感じている大衆と「カリスマのある雄弁な」ヒトラーとの間の違いを認めていることである。しかし、自分が表明した所見に従うどころか、ウルフは自説の適用範囲を広げ続けて行く。。。一体、どこまでだろうか?ウルフは自己愛ゆえの傷害による集団的無力感が社会的暴力の原因の根底にあると言うのだが、この問題に対して彼はどんな解決策を提示しているのだろうか?彼は書いている:


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どう対処したらいいのだろうか?心理学的に考えれば、憤怒を減らすには、無力感を味わう機会を減らすよう努め、幾分でも力を得る経験へと徐々に置き換えて行くようにすべきだということになる。そのための第1歩はおそらく、互いの言葉に真剣に耳を傾けるよう努力し、他人の経験を理解するようにすることだろう。自分が見られ、自分の言うことが聞かれていると真に感じられれば、殆どの場合、理解されていると感じる結果となる。理解されているという経験は、自己に力を与える経験である。理解されていると感じさせてくれるスタッフと治療の時間を過ごす結果、彼らはたちまち力強くなることが分かっている。
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ウルフは、個人レベルとマクロな社会レベルとのいずれにおける悪の現実も呑気に無視しつつ、「人生に必要な知恵はすべて幼稚園で学んだ」(※ロバート・フルガムの著書名)学派心理学の説明を続ける。この小論の全文はここ
http://www.sott.net/article/154119-Group-Helplessness-and-the-Roots-of-Violence
(※上はデッドリンクのようです。なお、前掲論文は
http://www.sott.net/article/153983-Group-Helplessness-and-Rage-With-Commentary
にもあります。)で読めるので、私がここに掲出する必要はないだろう。もし、自己愛憤怒に関する素晴らしい記述がなかったら、この論文について語ることもなかっただろう。というのも、彼が述べている他のことはみな実に馬鹿げているからだ。しかし、驚くほど正確な記述がここには含まれているものだから、考えさせられもし、説明が必要だとも感じるのである。1つの事だけは実に正しく論じている人が、他はいずれも間違っているということが、一体どうしてあり得るのだろうか?

実は、コフートによる自己愛憤怒の解釈は、まさにそれが説明すると主張しているナルシストの憤怒の、外的な振る舞いを説明し述べているのだ ― だが、このような憤怒と、感情的には6歳児のままである普通のナルシストのそれとの間には、明確な区別が存在するのである。深刻なナルシストは、どんな犠牲を払ってでも、彼のターゲットを破滅させることに固執することが出来、またそうするものであり、彼(女)は30分で普段の状態に戻って苺タルトを探したりしないのである。そればかりか、このような破滅には、くだんのナルシストが銃を手にしてターゲットを撃つぐらいに深刻な物理的破滅も含まれるのだ。このような事実があるからこそ私は、「ナルシスト」とみなされながらも、本当はサイコパスである人物が多く存在していると考えるに至ったのだ。重篤なナルシズムはサイコパスの重要な要素であり、こんにちの専門家の多くが自己愛性パーソナリティー障害(NPD)をサイコパスの1形態だと論じているので、私達はコフートとウルフによる、ナルシストの憤怒の記述に立ち戻ってみたい。その結果、それが実際にはサイコパスの憤怒であり、彼らの研究は単に、この世界におけるサイコパスの本性を真に暴く道を遠回りさせ、それを無害化するような試みだったことが分かるのである。

コフートとウルフに立ち戻って彼らが述べている行動の説明を読むと、本質的に2つのことが言われているのが分かる。1つ目は、自己愛憤怒の発作の際、ナルシストは他の人々のことを客体として見、有為な主体とは見ないことだ。つまり、彼らは完全に自己中心的で、何の思いやりもないのである。2つ目は、ナルシストが情け容赦ない多動性でもって自分の目標を追求することだ。つまり、彼らには(攻撃やセックス、自己保存、独占、優位に立つ必要性等々のような単純な衝動や本能によってインスパイアされた)目標を追求する上で、通常の人間には見られる抑制的な資質が欠けているのである。

2人が述べているのは実際には、サイコパスの特質であって、「自己愛障害」のものではない。ナルシストの場合には、完全にコントロールが出来ないからと言って、「全くの無力感を味わうことになる」訳ではないのだ。それどころか、ナルシストは彼の行動をコントロールする基本的な衝動や気紛れに完全に身を任せているのである。彼の意識と知性は、ある時点において彼を捉えている衝動が何であれ、その満足を追求してフル稼働しているのだ。つまり、ナルシストは完全に「自己」中心的で、元来、己を知ることができないのである。彼らは「自分の殻から」抜け出し、他人の身になって、その気持ちや感情を慮ることができないのだ。彼らが劣等感を抱くのはただ、他の誰かが彼の持っていないもの(何らかの財産や名声、権力)を持っていると知ったときだけである。それから彼は、典型的な冷酷さと攻撃でもって、自分より「優れた人」からそれを取り上げるのだ。

つまり、コフートのモデルで述べられていないものこそが、深刻なナルシストやサイコパスの内心風景なのである。

どうしてそう分かるのだろうか?「自己愛的」憤怒と「サイコパス的」憤怒の、奥深さや強烈さ、持続期間の違いについては既に見た。内心の動機を推し量ることが可能な他の特質が存在するが、このような動機もまた自己愛障害に関するものではないのだ。時として、これらの特質を評価する材料を集めるのには長い時間を要し、困難を極めるものである。というのも、嘘をつくのがサイコパスの主要な性質だからだ(そして、これは自己愛障害者の場合、常に当てはまる訳ではない)。しかし、それは可能だ。

ロバート・ヘア、ハーヴェイ・クレックレー、マーサ・スタウト、アンナ・ソルター、
http://en.wikipedia.org/wiki/Anna_Salter
http://homepage1.nifty.com/ta/sfs/salter.htm
サンドラ・ブラウン、アンドリュー・ロバチェフスキー、その他多くのサイコパス専門家によれば、サイコパスの診断は、対人関係における感情的な兆候を度外視して、見た目の行動における兆候だけ観察しても無理だとされる。というのもこのような手順ではどうしても、単に人生あるいは社会から傷を負わされただけの多くの人々をサイコパスだと診断してしまい、うまく作り上げた「正気の仮面」を着けた本当のサイコパスを探知し損なうことになってしまうからだ。増え続けている文献によれば、多くの(ないし殆どの)サイコパスは、安定した、裕福な家庭に育ち、ホワイトカラー犯罪を犯すようになるという。連中はカネと地位のせいで、プライベートにおける破壊的な行動を公衆の目に曝すことなく、繰り返し司直の手から逃れて来たのだ。このタイプの連中は、社会に甚大な被害を及ぼしていながら自由の身であり、現在の診断プログラムの下ではサイコパスに「分類される」ことがないのである。

サイコパスやソシオパス、そして反社会性パーソナリティ障害(および関連ないしオーバーラップしている幾つかの障害)に関しては、このような診断上の問題が多年に亘って弊害をもたらしてきた。問題は病気の症状を見誤ったり、いずれかの症状を単独で研究する結果、様々なグラフや数字がもたらされたことである。その後、別の症状が出てくると、これも同様にして研究され、グラフや数字は、最初の症状に焦点を合わせた研究とは矛盾を来す。まるで、まじない医みたいなものだ;人が倒れ、口から泡を吹いている。だから、悪魔に取り憑かれたに違いない;病原菌のリッサウィルス、すなわち、ウィルス性の動物原生感染による急性脳炎を惹き起こす神経侵襲、つまり狂犬病だとは気付きようがないのだ。

サイコパスおよび自己愛性パーソナリティー障害(NPD)に関するまじない理論が横行する、このような状況にはもううんざりなので、私はここで、サイコパス(および深刻なナルシズム)の心的構造論を述べたいと思う。到底完全とは行かないが、千里の道も一歩からである!

これを論じるためには、コフートによる幾つかの概念に立ち戻って、彼が正しく理解している点について述べることが不可欠である:すなわち、サイコパス的憤怒に関する驚くべき記述だ。そこから始めて、様々にもつれた論旨を解きほぐしてみて、どんな結論となるか見てみるとしよう。コフートの業績は、彼の理論の支持者によって以下のように述べられている:
http://www.selfpsychology.com/whatis/gossmannwolf.htm


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自己心理学は、現代の幼児研究による、心の発達に関する理解から導かれた発達心理学である。加えて自己心理学は、人間の心理的機能とは常に社会的相互関係の一部であるという立場を取る。(マーチン・グロスマン医学博士)

。。。フロイト理論とは異なり、自己心理学は欲動モデルを採用せず、エディプス葛藤を人間の動機や病変の中心に置かない。コフート理論において、有害な発達体験の結果起きる最も深刻な心理的問題は、自己愛憤怒と呼ばれる、コントロールされない怒りだとされる。コフートによれば、自己愛憤怒は極端な恐怖に起因し、脅かされた脆弱な自己を強化しようとして、弱った、脆弱な自己に対し、一時的な強さ、凝集性、自尊心を与えるものである。関係性を持ち、また、創造的・生産的活動に従事することで、価値を認められ賞賛される感覚という、必要な自己対象的経験がもたらされるのだ。

コフートが1959年に、共感および自己心理学に関する著作を発表し始めると、彼の理論は、精神分析学者やサイコセラピスト(精神分析医)のみならず、哲学や人類学のような人文学の学徒の間でも、高い関心を集めた。心理分析の臨床例への適用がうまく行くよう、理論的な基礎として開放系の構造を提供したことに加えて、自己心理学は日々の診察、あるいはサイコセラピーやカウンセリングにおける概念形成を行う臨床医のガイドとしても役立っている。(デイヴィッド・ウルフ心理学博士)
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「自己愛憤怒は極端な恐怖に起因し、脅かされた脆弱な自己を強化しようとする」というのを読んで、ウルフの考え方の理由と由来が分かったと思う。さらにそれは、「弱った脆弱な自己に対し、一時的な強さや凝集性の感覚、あるいは自尊心を」与えると言うのだ。ある人の中でもし、恐怖から憤怒が生じて、弱った脆弱な自己が強くなると言えるならば、極端な社会的恐怖もまた憤怒に姿を変え、よって、社会に一時的な強さの感覚をもたらすことになろう。しかし上で述べたように、忘れられているのは病原体という決定的な要素だ。確かにドイツ人は無力感を感じ、これは彼らの社会という身体が弱ったことを意味したのだろうが、それが「自己愛憤怒」となったのは、社会がヒトラーおよびナチスに感染し食い物にされた時だったのである。ハリソン・ケーリはマーサ・スタウトの『パラノイア(妄想症)・スイッチ』
http://www.amazon.com/Paranoia-Switch-Rewires-Reshapes-Behavior/dp/0374229996/ref=pd_bbs_sr_1/104-7147592-1024707?ie=UTF8&s=books&qid=1193693894&sr=8-1
の書評の中でこう述べている:


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トラウマとなる出来事は我々の大脳辺縁系に過剰な負荷をかける。このような場合、出来事の感情的な重要さを記録している扁桃体の反応性が高まる結果、普段は情報に優先順位をつけ、感情的な重要性に基いて、高度な脳中枢に首尾一貫した記憶を作らせている海馬の反応が低下するのだ。だから、トラウマ的な出来事は高度な脳中枢によって本当の記憶としては統合されないのだが、その代わりに、非統合的な記憶の断片:すなわち、孤立したイメージと興奮を残すのである。その後これらの記憶は、類似のイメージが「トリガーとなってよみがえる」ことがある。このようにして、クルマのバックファイアーを見た退役軍人がパラノイア状態になるということが起るのだ。彼の「パラノイア・スイッチ」が入ったのである。


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我々の経験の中で、トラウマになることが圧倒的に多いのは、事故(偶然の爆発あるいはクルマの衝突)や不可抗力(地震、火山の噴火等々)ではなくて、むしろ、暴行や誘拐、レイプないしテロのような、他の人間による意図的な行為である。どういうわけか、我々の身体は害悪の中でも、自分と同じ人間の手によって悪意で起こされた脅威に対して、最も恐怖を感じるようにできており、この種の恐怖が最も伝染しやすいようなのだ。(原書62ページ)
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スタウトが本書の後の方で説明しているように、恐怖の仲買人達は、人間の弱さを利用することによって力を維持している。皮肉なことに、我々が遺伝的に恐れるよう「プログラミングされている」この人々(すなわち、サイコパスたち)は往々にして、恣に選んだ手頃なグループに焦点を当てることによって、このような恐怖心を利用するのである。ヒトラーは無政府主義者や共産主義者、それにユダヤ人を用いた。ブッシュは「テロリスト」やイスラム教徒、そして彼の政策に対する批判者を用いている。。。

テロリストの攻撃によって直接影響を受けるのが人口のごく一部だとしても、国じゅうの人々がその影響を感じるものだ。この現象は我々の大脳辺縁系に起因している。「大脳辺縁系は我々の感情や記憶へのアクセス、行動の意欲、経験に意味づけする能力、さらには我々の意識を調節する上でも、支配的な役割を果たしている(77ページ)」。「良心とは抗し難い義務感であるが、常に他人と親密な絆を結んでいたいという我々の性向に基くものだ。。。道徳的な性格を生み出すのは、我々の愛着を抱く能力に他ならない。。。(75ページ)」


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大脳辺縁系によって処理した、五感全ての情報から、我々は他の方法では「見ることのできない」、他人の内心の状態 ― 彼(女)の心理的/感情的な状態 ― を知覚することができる。。。大脳辺縁系は我々に他者の感情を知覚することを可能にするだけでなく。。。それはまた、我々が周りの人々と感情的に連帯したりされたりすることも可能にするのだ」(78ページ)
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このように、テロによるトラウマは伝染する。我々はみな、周囲の人々の感情の状態に影響され;みながトラウマを負うのである。「リーダーを選ぶ際に、人柄、特に性格を専ら考慮すべき理由の1つは、大脳辺縁系共鳴の存在である。良くも悪くも、人の注意を惹く様なリーダーは、沢山の人々に対して感情的な影響を放つものだ」(83ページ)。。。

リーダーがこのような伝染病を沈静させ癒すのではなく、利用することを選ぶとき、彼はスタウトが「大脳辺縁系戦争」と呼ぶものに従事しているのである。「もしリーダーがグループの注意を『グループ外の人々』を恐れることに向けさせると ― 彼(女)がトラウマの結果インストールされたパラノイア・スイッチをバンバン叩くと ― グループの恐怖レベルは長い間、上限を超えたままになりやすく、そのリーダーが有能であろうとなかろうと、メンバーの知覚上、彼(女)の権威は保たれる。。。集団でトラウマを負った後には、意図的であろうとなかろうと、ほんの一握りの人々が騒ぎだし、感じやすい人々の怒りとパラノイアを招く結果、大規模な社会的変化が始まることもあるのだ」(92-3、95ページ)
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ということで、マクロレベルの社会悪や社会の無気力というものが、ウルフやコフートが唱えたように単純なものでないのは明らかだろう。恐怖を抱いた人々が放っておいても結集して、何らかの自己愛憤怒に駆られ、「一時的に」強くなったように感じるなどありそうにない!病原体、扇動者、感染菌が必要なのである。

「パラノイア・スイッチ」を繰り返しバンバン叩くことについては、イワン・パブロフの研究があり、彼は一切の「スイッチが入る」瞬間を「超限抑制(transmarginal inhibition)」と呼んだ。
(※090913
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=46473083 )
超限抑制(TMI)とは、生体が圧倒的な刺激に対してとる反応である。皮肉なことに「TMI」というのは一般には情報過多(too much information)の頭文字だが、これはこんにちの文化においては、超限抑制の共通した要因ともなり得るのだ。

パブロフは、様々な刺激に対して生命体が耐えられるレベルが、こんにちでは広く無視されている要素である、気性の基本的な違いによって、著しく多岐にわたることを発見した。彼は、「遺伝によって受け継ぐものの中で最も個人差があるのは、このようなシャットダウン点への到達のしやすさであり、『シャットダウンしやすい人』は基本的に異なる神経系をしている」とコメントしている。このことから彼は、実験的な条件付けを行う前に、遺伝した気質によって被験者を分類する必要性に対して、より注意を払うようになったのだ。

こうして再び思い出されるのが、目に見える行動と内心の状態との違いである。人が倒れて口から泡を吹くのは、狂犬病に罹った時だけではない。卒中を起こした時もそうなのだ。科学的な原因を混同することは、何の科学的所見も無く必要な処置も取らずに何かの処置を講じるのと同じくらいのダメージを患者にもたらす。

それでは振り出しに戻って、コフート理論がさらに依拠している、大元の考え方を幾つか見てみるとしよう。

専門家によれば、乳幼児の頃の私達はみな、自分が宇宙の中心であり、自分が全知全能の存在だと感じている。当初、私達は両親を単なる自分自身の「延長」として知覚している。どういう意味かと言うと、私達に何か不愉快なことがあると、この影のような人達、宇宙の景色の一部が、私達のために行動してくれるのだ。このように、発達の最初期の段階では、私達の要求に対する「宇宙の反応」が、私達自身や生活自体に関する最も深い信念となる ― 言葉を使う技術が発達する前に叩き込まれる信念である。これが、現代の「愛着理論」(◆精神医学の理論の一つ。子どもの発達には親あるいは世話をする人への親密な愛着が重要だとする)
http://www.cassiopedia.org/wiki/index.php?title=Attachment_theory
の中心的概念だ。

もし私達が空腹だったり、寒かったり、暖か過ぎたり、あるいは寂しくて手で触れて安心させて欲しいとき、母親としての宇宙が適切な解決策で即座に応えてくれれば、私達が抱く最初期、最奥の存在感は、宇宙は安全で良いものであり、それは私達に反応し、私達は自分自身や環境に対して「力」を持っているというものになり、このような信念が健全なタイプの幼児期自己愛(すなわち、「安全な」愛着)の発達を支えるのである。これは私達が人生活動を営む上での基礎的な土台となるのだ。私達は宇宙が安全であり、私達にとって良いものであり、手を伸ばして大声で叫べば、宇宙やその中の全てが与えてくれることを学ぶ。しかし、その後もちろん、私達は成長して、自分が宇宙の中心ではないことを学ばなくてはならず、この成熟の過程においてこそ、健全な幼児期の自己愛が健全な大人の自尊心に変わるのだ。

ここまではいいだろう。

こうして、宇宙を信頼する人が出来上がる。というのも、幼児期における母親その他の人々という宇宙が、常に肯定的で愛情のこもった反応をしてくれたからだ。後の人生において、たとえ何がこの子どもに対して起ころうと、この子がこのような「安全な宇宙」を内心に持っていて、それが常に最後の頼みになるだろうと予想できる。

興味深いことに、自己愛的な両親の多くは、幼児の面倒見が良い。というのも、幼児が全く無力で依存的である限りは、彼女達は自分達の努力が完全に良く思われていると感じられるからだ。そしてもちろん、彼女達が行っているのが「ままごと」であるため、彼女達は映画のスチール写真や偉大な油絵に描かれているような、幼児と母親との絆の理想化したイメージを演じようとする。両親としての大いなる業績を目撃した証人たちから、賞賛を得んがためだ!

これはナルシストを親に持つ子どもにとっては幸運なことである。というのは、もちろんながら、子ども達がすっかり大きくなって、母親や父親に対して「いやだ」と言ったり、不賛成あるいは、両親の意志に反しても好きにしたいという態度を示すや否や、両親は自己愛のために子ども達を傷つけ始め、子ども達は解離して、豊かなファンタジーの世界に引きこもるプロセスを始めるからである。

子どもはまた、ナルシストの攻撃を避け、自分に対する愛情や(正常な)関心を得ようとして、周囲にとても気を使うようになる。しかし、ナルシストから愛を得るのは、存在しないターゲットを撃つようなものである。だから、ナルシストを親に持つ子どもは「状況を読み取り」、自分の行動をしかるべく調整するのがとても上手くなる。というのも、彼らの生活は全くそのような能力頼みだからだ。彼らはまた大いなる無想家になる。というのも、ナルシストの両親と直接関わっていないとき彼らは、とても素晴らしい愛と関心を得られる世界を自ら創造しているからだ。もちろん、彼らも感染してナルシストになる危険はある。彼らはまた、重篤なナルシストあるいはサイコパスとロマンスに陥る危険も大いにある。というのも、彼らは生まれてこの方、「狂気の愛」しか知らないからだ!『自己愛家族 アダルトチャイルドを生むシステム』の中で、ステファニー・ドナルドソン-プレスマンとロバート・M・プレスマンは次のように記している(※岡堂哲雄監訳,竹前ルリ・山口恵美子・真板彰子訳は未参照。
※100222
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=50945146 )


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幼児時代の体験と、それらが大人になってからの行動に及ぼす(時として永続的な)影響との繋がりは、長きにわたって人間行動の観察者達を魅了してきた。とりわけ興味深いのは、ある人の発達における、彼(女)の家族的来歴のインパクトだ。1980年代には、「アルコール依存家族で育ったアダルトチャイルドの大人(adult child of alcoholism, ACOA)」という概念が登場し、アルコール依存家族で育てられた場合と似た、予測可能な影響の理解が進んだ。セラピストとして我々の多くは多年に亘り、自尊心が低いまま変えられない、他人との親密さを保てない、あるいは自己認識の道を閉ざすといった症状を患う人々を分析してきたのであるが、ACOAという概念はこのような症状を理解する上で、新たな扉を開くものだった。。。

ACOAおよび虐待モデルへの取り組みは、ご利益と共に1つの謎をもたらした。ACOAの特質を示しながらも、両親が酒を飲まず、レイプや虐待もされなかった人々についてはどう理解すべきだろうか?このような人々の育った家族には、確かに機能障害があるのだが、共通する問題となると捉えどころが無かった。機能障害的(だがアルコール依存は無く、虐待も無い)家族で育ったアダルトチャイルドの中には、かつてはACOAモデルの一部と見做されてきた一団の人格的特質を持つ人々が居ることが分かった。この人々には慢性的な鬱、優柔不断、自信の欠如が見られた。

この人々には、共通する行動的特質も見られた:慢性的な満足の必要性;感情/欲求/要求の識別不能;絶えず確証を得る必要性である。このグループの患者たちは、彼らに起こる悪い事は甘受すべきである一方、良い事が起った場合には、おそらく何かの間違いか事故なのだろうと感じていた。彼らは自己主張することに困難を覚え、広がる憤怒の感覚を怖れ、それがばれるのではないかと密かに感じていた。彼らは自分が張子の虎みたいだと感じていた ― しばしば激高するのだが、簡単に疲れ切ってしまうのだ。彼らの対人関係は、不信と疑い(パラノイアすれすれの)によって特徴づけられつつも、そこにはしばしば、思慮分別なく完全に他人を信頼して自己を開示してしまうという悲惨なエピソードが散りばめられている。

彼らは慢性的に不満を抱いているのだが、本当の感情を表わしてしまって、泣き言や不平を述べる人間だと思われるのが怖いのである。彼らの多くは極めて長期間に亘って怒りを抑えたまま過ごすのだが、やがて、比較的つまらないことに対してかんしゃくを起こすようになる。彼らは自分の業績に対して、空虚さと不満を感じている;これは、外からは非常に成功しているように見られている人々においてすらそうなのだ。このような人々のリストには、自分の仕事に取り憑かれたようになりながらも、自分で満足できるレベルに達することができないでいる専門職の人々が含まれている。対人関係では、このような人々はしばしば行き詰った状況に繰り返し陥る。原則的な手掛かりとしては、アルコールの濫用は無いものの、(近親相姦や暴行、感情の無視、家を空ける、といった)他の形の家庭を崩壊させるような子育ての結果、似たような症状が生まれるものと思われる。。。

このような障害を生き残った人々の両親に共通して見られる特質を辿ってみたところ、我々が自己愛家族と名付けた交流パターンを発見した。確認可能な虐待があるかどうかに関わりなく、このような家族には、共通した特質が見られた:両親の要求が子どもの要求より優先されていたのである。

このような自己愛家族においては、子どもの要求は(両)親のそれに対して二次的に扱われるだけでなく、親にとってしばしば深刻な問題として受け取られていることが分かった。自己愛家族を(マズローやエリクソンによる)お馴染みの発達尺度に照らしてみると、子どもにとっての最も基本的な要求、すなわち、信頼と安全性に関する要求が満たされていないことが分かる。しかも、要求を満たす責任が、親から子どもにシフトしているのだ。。。

このような家族の状況では、子どもは親の要求に対して敏感でなくてはならず、その逆ということはない。実際、自己愛家族は、両親の感情的な要求を持て余して崩壊するのである。。。

やがてこのような子どもたちは、自分達の感情には殆ど価値が無いか、あるいはマイナスの価値しかないことを学ぶ。彼らは自らの感情を切り離し始め、その声に耳を傾けなくなるのだ。このような感情の否定はしばしば、自らの感情表現の誤解に関して、火に油を注ぐ結果となる。自分自身の要求を理解し、認め、評価する代わりに、このような子ども達は、(両)親の要求に対して彼らがインパクトを及ぼしているという、大げさな感覚を発達させる。実際彼らは、両親の感情的な要求を反映する存在となるのだ。親の要求は子ども達が何とか焦点を定めようと躍起になっても動き回るターゲットになる。というのも子ども達は状況を正そうとする責任を感じるものの、そうするために必要な力もコントロールも持っておらず、子ども達の抱く挫折感は大きくなって行く。その上、子ども達は、自分自身の感情を確認し自分の要求を満たす術を学び損なうのだ。いつしか子ども達は、半永久的に感情を麻痺させてしまう。大人になってもこのような人々は、様々なレベルの絶望や不満あるいは欲求不満以外には、自分の感情が分からなくなるようなのだ。
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http://kongoshuppan.co.jp/dm/dm.php?cd=0543


要するに、ナルシストによって育てられた人は奴隷となるよう訓練され、ナルシストないしはサイコパスの歩くターゲットとなるのである。これは悪い知らせだ。良い知らせは、そんな彼らを救うことができるということだ。この種の自己愛による傷害は修復可能である。というのも、上で述べたように、何やら奇妙な理由から、ナルシストは新生児に対してはしばしばまともな両親役を果たすため、子どもはとりわけ宇宙に対する信頼の基礎を受け取り、それが子どもの、後の人生において極めて重要となるからだ。もちろん子ども達は後々、信頼は悪い事だと学び、信頼感は上に引用したようにして取って代られる:悲惨な自己開示は秘密主義に取って代わられるのである。

さて、別の子どもの場合を見てみよう;この子の両親はとても気を使う ― おそらく気を使いすぎる ― 教養ある人々で、我が子を善良なクリスチャンで、知性も十分、男(あるいは女)らしさも十分で、泣き虫でなく、辛抱強い、質実剛健な人間に育てるよう「科学的に」考案されたスケジュールと育児法をかたくなに信じている。勤勉こそ美徳ということで、この赤ん坊は最初から怠けることなど許されない!

両親のこのような態度のせいで、新生児はたちまち精神的にまいってしまう!

人生のごく最初の段階で、「型にはめて作る対象」として扱うようなしつけを行うのは(幼児虐待の1形態であり)、子どもの本質的自己に対する恐ろしい、存在の最も深いレベルにおける犯罪である。スケジュールで決められたエサの時間でないからと飢えたまま放置された子どもは、宇宙は泣き声に応えて食物を与えてくれないと信じるよう条件付けられる。彼を保護する「誇大性」は粉々になってしまう。上に引用した著者が言うように、「子どもにとっての最も基本的な要求、すなわち、信頼と安全性に関する要求が満たされていない」のである。この結果、不安定な愛着が生れる。おびえたり、驚いたりし、あるいは単に心細くて接触が必要な時に、抱き上げて慰めを得なかった子どもは、宇宙に対して何らかの方法で手を伸ばしたり、ふれあいを求めても仕方ないと信じるよう条件付けられる。自分は強いという感覚は、深刻なダメージを受ける。だから、デカルト流の「人間機械論」モデルやキリスト教の「むちを惜しめば子どもを駄目にする(=かわいい子には旅をさせよ)」モデルに従って育てられた子どもには、安全さや満ち足りているという感覚が無いのである。

「医学/精神医学理論」を鵜呑みにして、「やるべきこと」をやっていると思っている両親によって、厳しい恣意的な「スケジュール」に従わされた幼児は、ついには根源的自己にひどい傷を負う。このような傷は深刻かつ修復不能な場合があり、超限抑制(TMI)状態をきたすことがある。子どもをあまりに長い間泣きっぱなしで放置したり、あまりに重いトラウマを定常的に負わせたりすると、本当に脳障害が起ることもあるのだ。内側前頭前皮質や、
http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6
原始的防衛機制(primitive defense mechanisms, PDMs)は、このような人々に元のトラウマを思い出させるような何かがあるときスイッチが入るのだが、それらの殆どはいいだろうか、言語能力習得前のものなのだ。そして確かに、多くの症例で子供たちは、誇大的で全能の代替人格への解離を起こすだろう;このような解離はこのような人々の人生を支配する程度にまで繰り返し起こるだろうし、このようなナルシストたちは、無力さを感じさせられることで煽り立てられるというのもおそらく本当だろう。そしてこの人々は、広大な海原のように広がる憤怒を抑えることができるのだが、それはダメージを負っているのが、もっぱら脳機能の最も原始的なレベルにおいてだからだ。

「1次性対象(primary objects)」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/33/2/33_106/_pdf
と呼ぶべき両親による親身の扶養が、この初期の段階では重要である。それが存在しないと、大人になってからの自尊心や自負心が、幼児期の自己愛的モードに退行することによる自己の過大評価と、たとえ善意からではあれサディスティックな仕打ちをする親の奴隷である無力な子供という過小評価の間を、激しく揺れ動くことになりがちである。

このような子どもは宇宙全体に対するつらく激しい失望感や徹底的な幻滅を抱きながら大きくなるものだ。彼らはしばしば、自分に対する制限や失望、挫折、失敗、批判、幻滅を優雅かつ寛大に受け入れることができない。彼らの自尊心はむらがあり、ネガティブだ。彼らに起る事は何でも外部の出来事の結果であり、あるいは何事も何らかの点で彼らの過ちであると彼らは思いがちである。神経過敏
http://www.hsperson.com/
ないし興奮し過ぎ
http://members.shaw.ca/positivedisintegration/
の反応を示してばかりなのだ。

成長の最初期の段階で無視されたり虐待された子供たちがその後の人生で何らかの問題を抱えるのはかなり明らかだと思われる。回復するかどうかは、虐待された期間の長さやひどさ、どんな種類の矯正が、いかに迅速かつ徹底して行われたかにかかっている。そしてそれはとりわけ、良くなろうという本人の意志次第なのである。しかし、それだけでは済まない問題もある。マーサ・スタウトは『おかしい人を見分ける心理学 -PTSD、ウソつき、多重人格-あなたの身近な人の心の闇をのぞく』(喜須海 理子/訳)でこう述べている:


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(邦訳書285ページ)
わたしは仕事柄、悪い、よいなどの人間の意味と価値のシステムについてよく考える。それが解離性障害からの回復に成功するかしないかに関係するからだ。それで治療後の経過に差に出るのだろうか。何年にもわたって見てきたわたしの患者たちのことを考えると、答えはイエスだ。患者の回復と、自分だけが何かに対し責任をもつことができるという確信のあいだには、驚くほど深い関係がある。それは、何か夢中になるものだったり、特定の人だったり、あるいは自分の人生でおこなうことである場合もある。自分の行為に対し責任感をもち、それによって動こうとする人は、回復することが多い。

逆に、悲しいことだが、直接的な意味のシステムにそうした感覚をもたない人は、回復することはあまりなく、解離してばらばらのまま、つまり自分を見失ったままでいることが多い。。。責任を本人の行動にあるとみて個人でリスクを負おうとするか、あるいは肉体的、感情的な安全に最大の価値をおき、責任の存在を無視するかの違いなのだろう(もしわたしが子どもや友人、考え、地域社会に対する責任を認識したら、わたしはそれを無視できない)。

トラウマ心理はいろんな形でやってくる。そもそも解離機能とは自分の身を守るためのものだが、自己防衛を最優先する患者の治療は、彼らが治したがっている解離反応がたとえ些細なものだったとしても、失敗に終わることが多い。。。

心の自己防衛システムは、行動面ではさまざまな形をとる。もっとも一般的な3つの方法は、行動を避け、他人や一連のルールに依存すること、他者への繰り返しの非難に夢中になること、そして他人の問題と自分のそれを正しく評価できないことからくるある種の行動と不平である。解離性同一性障害ではそれぞれの人格の「責任」はそれぞれ違う形をとるが、こうした行為は、さまざまなスタイルで、すべての人格に見ることができる。先にあげた自己防衛心の3番目は − 他人の問題と自分のそれに対する相対的な見方を欠くことが特徴 − 「被害者意識」というよく知られた形で、広く社会一般に見られる現象だ。。。

トラウマ経験者はもちろん被害者だが、被害者であることが、その本人やほかの誰かのアイデンティティの全体を構成するわけではない。トラウマ経験者を助けようとする人は、ふたつの癒しの過程を支える必要がある。回復しようとする人は、自身が被害者であることの自覚に耐えねばならず、そして、そこから自力で抜け出さねばならないのだ。このふたつともが重要で、どちらも自己防衛を目的としてはいけない。本人が長年もっている被害者としてのアイデンティティを容認することは、自分の人生に責任を持つという重要な人権をその人から奪うことでもあるのだ。。。

わたしたちは自分を守りながら、同時に人生を存分に経験することはできない。。。このふたつの要求は、互いにぶつかりあい、排除しあう。わたしたちは極端に自分を守ろうとすると、本当の意味で生きることはできない。そして積極的に生きようとすると、自己防衛を最大限にすることはできない。この教訓は新しいものではないが、このテーマが神経学的にも意味を持つことは大変興味深い。多大なリスクをともなうことになるが、おそらく個人の責任のうえに存在する意味のシステムの外には、救済などないのだろう。だからわたしたちは、役割モデルや親やリーダーのなかに、責任とは何かの見本をさがすのだろう。
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さて、人生の初期の段階でのあらゆる要求がかなえられるような自己愛的でない家族に育ちながらも、ひどいナルシストやサイコパスとなる子どもたちについてはどうだろうか?

こうして私達は分岐点にやって来た:自己愛による傷害とNPD(自己愛性パーソナリティー障害)/サイコパスとの違いである。

ナルシストに傷つけられた子どもたちの特徴に注意して欲しい:このような子どもは宇宙全体に対するつらく激しい失望感や徹底的な幻滅を抱きながら大きくなる。彼らはしばしば、自分に対する制限や失望、挫折、失敗、批判、幻滅を優雅かつ寛大に受け入れることができない。彼らの自尊心はむらがあり、ネガティブだ。彼らに起る事は何でも外部の出来事の結果であり、あるいは、何事も何らかの点で彼らの過ちであると、彼らは思いがちである。

私達が「自己愛による傷害」を全てのナルシストが生れる原因に用いようとし、また、恥と神経過敏を、このような「蒼古的な憤怒」を惹き起こす中間段階として用いようとするとき、私達は理論的/論理的のみならず経験的にも深刻な問題に行き当たる。

論理的な問題を見てみよう:もし幼児が無限の力と知識の状態、「誇大性」と呼ばれる状態を経験するのだとすると、どうしてそれが、過敏な神経と傷つきやすい名誉感情(すなわち精神神経症)とが「揺れ動きつつ結び付いた」大人の人格構造に変化するのだろうか?これはかなり著しい変化である。述べられているように、この幼児の状態が「成熟するのを妨げられ」ているのなら、それはそのままであり続け;変わらないに違いない。そうだとすれば、大人のナルシストとはまさしく未発達の赤ん坊みたいなものに違いない:彼(女)は無限の力と知識の状態を経験しているのであり、それは反論を受け付けない;それは岩のように強固な構造であり;揺るがないのである!「過敏な神経」や「傷つきやすい名誉感情」などある訳がない。というのも、感受性や恥は成熟する過程で学ぶものだからだ。

トラウマを負った人々の多くは、ある種のストレスに曝される結果、このような自己愛的状態へと退行するのだろう。彼らがこの退行を行うとき、それは解離と呼ばれ、それを何度も行うほど、将来も繰り返すようになりがちであり、それはたやすく自動的に起るようになって行く。(マーサ・スタウトの『おかしい人を見分ける心理学』参照。)

だから、このようなナルシストは、コフートが述べているように、通常の成熟のどこかの段階で発育が阻まれ、あるいは歪められた人なのだ ― というのも、発育の中には、その結果、恥を感じる能力をもたらすものもあれば、敏感になるもの、進歩や退行、結合や解離をもたらすものもあるからだ。よって、自己愛憤怒を「過敏な神経」や「傷つきやすい名誉感情」に裏付けられた代償反応の結果だと考えることは、自己愛憤怒を原初的な幼児期の自己愛の結果と考えることと同じではない。要するに、これらは両立しないのである。憤怒の原因となるような幼児期における自己愛が未発達なら、それが部分的に発達することはあり得ない。というのも、その時には、幼児期の自己愛は憤怒の原因ではないからだ。

だがしかし、コフートとウルフは、目撃したことがあれば誰でもそれと分かるようなナルシストの憤怒、サイコパスの憤怒について記述している!(だからこそ私としてはもちろん、この理論および、これに関わった人々全てを疑わしく思うのだが、今はこれ以上詮索しないでおく。)

結局、こういうことだろう。コフートとウルフはきっと、ナルシスト/サイコパスの憤怒そのものについて述べているに違いない。ウルフはこう述べている:


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コフートは、憤怒の陰にはしばしば理想的な他人の完全さに対する、強いこだわりが潜んでいると述べている。乳児は未だに無限性、力、知識の状態を体験し続けている。部外者である我々が、非難がましく幼児期の誇大性、誇大自己と呼ぶ状態だ。

もし様々に考えられる理由のどれかのせいで、この幼児期の自己愛的な誇大性状態が健全な自尊心へと成熟するのを妨げられた場合には、外見だけの大人が誕生し。。。
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もうお分かりと思うが、この後のツイストのかかった結びの部分は完全に捨ててしまって構わない:「過敏な神経と傷つきやすい名誉感情とが揺れ動きつつ結び付いたナルシストが誕生することになる」のところだ。

それから:


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リベンジの必要性に関する狂信や、侮辱を受けた後に恨みを晴らさねばならないと感じる、果てしなくかつ抑え難い衝動は、このような次第で、自我の成熟という目的に結び付いた攻撃性の属性ではない ― 反対に、このような苦悩が示すのは、攻撃が蒼古的な誇大自己に奉仕するために動員されており、それが蒼古的な現実認識の枠組みの中で繰り出されているということなのである。このような名誉の傷つきやすい人は、自己愛損傷(narcissistic injuries)としての挫折を経験しがちであり、そのような場合には飽くなき憤怒でもって反応しがちである。侮辱行為を行ったとたまたま誤解した敵を、彼は独立した自発性を持つ人間だと認識しない。
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ここでは、「このような名誉の傷つきやすい人は、自己愛損傷(narcissistic injuries)としての挫折を経験しがちであり」という部分を捨てねばならないが、どのような言い方に置き換えようか?

カール・フランケンシュタインは、サイコパスになる人は、「自我拡大」の状態に陥るのだが、これは安全を感じるために彼の自我が、外部世界にある全てのものを自分の一部として取り込む状態だという。彼は書いている:


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サイコパスは、(ポジティブであれネガティブであれ)客観的な関係や人との効果的な絆を築くことが生まれつき出来ない人、あるいは、(知的障害と対比して)意志や感情に生まれつき障害を持った人と定義されてきた。

自己同一性の欠如;乏しい自我概念定義;他人の行動をそっくり真似る傾向;超自我意識や、不安、罪悪感、および葛藤や欲求不満に対する神経症的反応の不在;空想的創作物の浅はかさ;客観的事実に対する関心の欠如;時間の概念の薄弱さがサイコパスである子供の主な特徴であると言われる。。。

大人のサイコパスの行動を現象的に捉えると、他にももっとひどい逸脱が明らかになるというのもまた、確立された事実である。すなわち、しばしば残忍な犯行につながる、倫理的怠惰;性的ないし物質的欲望に対するコントロールの欠如;真理や原理、理想のためらしく装ったヒステリックな熱狂(実際には自分が注意や称賛あるいは恐怖の的でなくてはならないという飽くことの無い要求の反映);有名なペテン師や詐欺師タイプを生み出す、上と同様の要求;自己愛的な興奮性;あるいは、ほとんど無制限に誘惑に駆られることが挙げられる。ごろつきや変態、麻薬中毒者もサイコパス・タイプのリストに時折含まれる。
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※カール・フランケンシュタイン『サイコパス:臨床像の比較分析』


上の引用の中で「客観性」という問題が2度述べられていたことに注意されたい。「時間の概念の薄弱さ」というのも客観性の問題であろう。ナルシストおよびサイコパスで主に問題なのは、対人関係を築けないことのようである。対人関係を育む能力は、幼児期における健全な自己愛から生じるもので、幼児が自己と他人との区別を学ぶに連れて、それが徐々に大人の妥当な自尊心へと変わるのだ。健康な子どもは成熟するに連れて、彼の世界および現実との関わりにおける真価の「合理的かつ正確な」表象を抱くようになる。自我が全く存在しない状態から、自我を識別し、さらには自尊心へと至る過程において障害があると、通常の健全な「取り込み(introject◆無意識のうちに他人の価値観や態度を自分のものとすることで、その人に自分を認めさせ、受け入れてもらうために行うもの)」(内なる自己)の獲得や超自我(内なる親)の形成の過程に支障を来す。これら2つの要素が無いと、不安や罪悪感、神経症等々も無いのである。つまり、中には誰も居ない。これがサイコパスである子供の知的特性が呈する顕著な症状なのだ:客観的事実に対する関心の欠如、適切な時間の概念が形成できない、正しく時間を経験できない、浅はかな空想生活。サイコパスには内的な心の環境が欠けているのだ。

これらが意味するのはいずれも、サイコパスやナルシストの問題とは自分自身を自己の外側の環境にも、内側の環境にも関係付けることができないということに他ならない!だから、サイコパス/ナルシストとは、機械にいくらか毛が生えたような状態で止まってしまっている、内なる自己も外なる自己も持たない2次元の構造体、鏡に映りもしなければ影も無い幽霊、吸血鬼なのである。彼は真実や客観性の明るい陽光の中では消えてしまうのだ。

サイコパス/ナルシストの概念から想起させられるのは、幼児期の段階である。幼児は何らかの理由で、自己と他者との間の違いを築くことができないのだった。「外界」の全てはサイコパスにとって、自己の延長のようであり自己のポテンシャルに取り込むためだけに存在しているように感じられるのだろう。ある意味、それは母親、乳房、食べ物、全てが自分の一部であって、自分の喜びのために存在していると信じている乳児のようであり、この感情的でわがままな状態から決して成長することがないのだ。フランケンシュタインは書いている:


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学習とは、非自我を内面化し、現実の内容を自我の概念的・感情的・機能的部分に変容させることを意味する。自我が調整しているのは単に意識の内容だけではない(それらを意味の様々な文脈の中で互いに関係付けることによる)。その機能をも調整しているのだ(それらを互いに関係付けるだけでなく、所与の状況との関連性に従って、意識の実際の/潜在的な内容とも関係付けることによる)。
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つまり、学習とはあなたの内側 ― あなたの脳の中 ― に、「外界」にある全てのものの地図を描いて、現実の中をうまく航海できるよう、その地図の読み方を学ぶようなものなのだ。地図に描いた外の景色の正確さ度合いによって(地理的な場所を記した地図が訪問先の実際の場所の特徴を教えてくれるのと同様)、内部の地図が客観的である度合いは決まる。

もう1つ大事な特質はどうやら、地図は地図であり、外界の現実は地図ではなくて現実であると理解できることのようである。

サイコパスは現実の地図を作らないのだろう。というのもどうやら、彼らには地図と現実の違いが分からないようだからだ。彼らはどうやら外部のものと内部のものとを区別できないらしい。サイコパスによる現実の航海法はあまりに奇怪で、私達には到底想像できないようである。


氏か育ちか?

生れか育ちかの問題は解決していないと思う。一方の言い分はこうだ。全ての人々は生まれつき殆ど同じなのだが、子どもの頃にひどい扱いを受けた人々は大きくなると他人にひどいことをするようになる;彼らは自分達を虐待した大人の例に学び、侵略者と一体感を持つ;これが「育ち」派だ。「生まれ」派に言わせれば、様々な気質は遺伝し、ひどい扱いを受けた人々の多くが長じて後他人にひどい扱いをするのではなく、そんなことをする人々はたとえ良く扱われたとしても、いずれにせよ人にひどいことをするようになる;というのも、彼らの生まれが「悪い」からだ、と主張する。彼らはまた、虐待された生い立ちを持たないナルシストやサイコパスが多く存在するという、無視できない証拠を挙げる。

サイコパスの専門家であるロバート・ヘアは、生れと育ち、両方を裏付ける証拠は様々に存在するが、生れ ― 遺伝性 ― が最も強力な要因であると言う。 この考え方に反対する人々の挙げる理由は簡単である。サイコパスが遺伝ということになると治療できない病になってしまうからだ。リアン・リーダム
http://blogs.yahoo.co.jp/toumyouline/folder/269383.html?m=lc
も私信でこう述べている:


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多くの研究家が、サイコパスとなる最も悲惨な条件の1つは遺伝によるものだと宣言しつつも、この事実に対処するアドバイスを与えていないことに弁解の余地はないわ。巻き込まれた女性とその子供に直に会えば、非人格的で非人間的な宣告も、非常に個人的な意味合いを帯びてくるものよ。
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こう聞くと高貴で共感させられる、人道主義的な発言のようであるが、情深くあって欲しいという私達の願いを、自然が常に聞き入れてくれる訳ではない;自然はしばしば、古い諺に言うように、「歯と爪を赤く染めている」。現実について理解しようとするなら、正確で客観的な地図を作製しなければならない。

これは事態を混乱させ、サイコパスの「ディメンション的な(dimensional)」モデルを奨励しようという試みの1つだ。
http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%93%8D%E4%BD%9C%E7%9A%84%E8%A8%BA%E6%96%AD%E5%9F%BA%E6%BA%96%EF%BC%88%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%96%BE%E6%82%A3%E3%81%AE%EF%BC%89
というのも、そうすれば連中がより「人間味豊かに」見えるからだ。もちろん、リーダム博士もこの見解に既得権を持っている。というのも彼女は、相手がサイコパスとは見抜けずに結婚して、心理学者としての評判を落とし、おそらくはサイコパスと思われる子供を儲けたことで有名になったからだ!そう、もちろん彼女は「我が子を救う」ために、この問題を解明したいのだと主張している。リーダムはサイコパスがカテゴリー的なものではなく、ディメンション的なものであって欲しいのだ。彼女は、サイコパスには精神薄弱者と同様の問題があると指摘する;他より明らかに機能障害の甚だしい人々も居るとはいえ、精神薄弱者たちの間での病状もまた連続的だと言うのだ。このような精神薄弱者たちが上記の何らかの理由でカテゴリー的に異なるという限界点は存在するだろうか?ある精神薄弱者は、テストの点数は大分低いかも知れないが、点数の高い精神薄弱者より、ずっと能力があるかも知れない。イディオサバン(◆特殊な才能を持つ精神薄弱者)と呼ばれる人々が存在するのだ。
(※090704
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=44765957 )


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サヴァン症候群(savant syndrome)とは、何らかの発達障害を持つ者や精神薄弱者のうち、殆どの人々には見られない様な、抜きんでた知能を持った者の症状を指す。これは普通(全てのケースではない)、一般的知能(IQ)が平均以下ながら、限られた幾つかの分野では極めて高い知能を持つことを意味する。サヴァン症候群において見られるスキルとしては、目を見張るような記憶や算術計算の離れ業、時として美術や音楽の並大抵でない能力がある。
(ウィキペディア)
http://en.wikipedia.org/wiki/Autistic_savant
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
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実際、精神薄弱はNPD(自己愛性パーソナリティー障害)やサイコパス(および、その他の関連し、ないし重なり合う人格障害)と対比する上で、とても有益なモデルである。というのも、これを患う人はある面で確かに知能が遅れており、その症状にもディメンション的な側面があるからだ。遺伝性のダウン症(蒙古症)や、甲状腺機能障害が原因で脳障害を招くクレチン病もある。甲状腺機能障害を惹き起こす原因としては、誕生時の怪我、栄養不足の食事、ジフテリアのような病気等々が挙げられる。

水頭症による精神薄弱も脳障害を起こすし(ある種の水頭症の原因を調べると、多岐に亘る理由があることが分かるだろう)、妊娠初期に母親が子宮内感染したり骨盤への放射線照射を受けるといった幾つかの要因により罹る小頭症という病気もある。遺伝子の関与も疑われるが、その役割は明らかでない。

フェニールケトン尿症(PKU)という珍しい代謝異常によっても精神薄弱になることがある。PKUに罹った赤ん坊は誕生時には正常に見えるのだが、タンパク質を含む食物中にあるフェニルアラニンというアミノ酸を分解するために必要な酵素が欠乏している。このような状態に気付かないでいるうち、血液中のフェニルアラニン濃度が上昇し、脳障害を起こすのだ。この結果起こる精神薄弱は、発見されるまでにこの病気がどの程度進行していたか、どの程度の矯正措置が取られたか次第で、穏やかにもなればひどくもなる。PKUは劣性遺伝子が関与する代謝変調の結果と考えられ、70人に1人がキャリアと考えられる。

そしてまた、「アデレード大学産婦人科病院の主席研究員であるゲッツ博士は国際調査チームと共同で、X染色体のごく一部が様々に突然変異する結果、精神薄弱が起ることを明らかにした」
http://www.adelaide.edu.au/news/news23961.html

ということでお分かりのように、精神薄弱には沢山の病因因子が存在するのだが、結論としてはやはり、かなり特有のメカニズムがあって脳が正常に発達できないのであり、これが精神薄弱の定義である。脳の発達が遅れるのだ。

それでは、私達の疑問に立ち戻るとしよう:このような精神薄弱者たちが上記の何らかの理由でカテゴリー的に異なるという限界点は存在するだろうか?

こうして精神薄弱についてざっと見た結果、確かに、精神薄弱者たちはカテゴリー的かつディメンション的に互いに異なっており、これは彼らに対するケアをいかに行うかという点で大きな意味を持っている。遺伝的な精神薄弱には複数の種類があり、物理的な精神薄弱にも複数の種類がある。しかしどのケースでも、知恵遅れは依然として決定的要素であり、それは変わらない;完治はできないが、だからと言って管理できないとか、管理不要ということではないし、このような悲劇を避けるための研究が不要ということにはならない。それどころか、もちろん人間として私達は、精神薄弱者や何らかの物理的な原因で精神にダメージを負った人々を排除することが認められるなどとは少しも思わない。それは身体的なハンディキャプを持って生まれてきた人々を排除することが認められないのと同じである。

問題は同様のアプローチがサイコパスやNPD(自己愛性パーソナリティー障害)、および、その他の関連し、ないし重なり合う人格障害に対しても採られねばならないことだ。精神薄弱にも様々なバリエーションがあるのと同様、おそらく様々な「重なり合う」人格障害は、感情的な発達遅れの単なるバリエーションであり;遺伝子に起るダウン症が精神薄弱の1形態であるように、サイコパスは偶然にもそれらの1つなのだ。

セラピストはある人の病態に関するいかなる定義も正確なものではあり得ないと主張するだろう。というのも、それぞれの患者はとても違うからだ;それぞれの患者は異なる臨床像の「ミックス」である。個々の患者に関する徹底的かつ精緻な分析の方が、診断書のような大局的/抽象的/構造的な視点よりも遥かにずっと重要なのだということが言われる。このようなセラピストは絶えず統一化概念よりも、むしろ差別化概念に目を光らせていて、逸脱的行動に特有の構造的な本質よりも、そこに見られる普通の人間的な要求や衝動、精神的原動力、行動のメカニズム ― 脳構造/化学 ― を探しているのだ。それは医師が、ダウン症患者とPKU患者の間に、知恵遅れという概念の統合的な意味合いを求めるようなものである。確かにこれらの患者たちはいずれも知恵遅れであり、外から見ている限りは似た症状かも知れないが、内部的には両者はダイナミックに異なっており、双方の患者に対するケアの進め方は、どんな診断がなされるかに大いに依存しているのだ。ここで想起されるのは、カール・フランケンシュタインが明晰に述べる主張である。彼はこう書いている:


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構造という概念さえ用い、構造的傾向の把握や構造化を若干試みさえすれば、人間の行動は理解できるようになると私は考える;構造と原動力は、矛盾し相互に相容れない概念同士などではなく、両者がいずれも他方の条件であり結果である限りにおいて、相補的である;病気による様々な形の行動は、その原動力、精神内部の関係やプロセスにおいてのみならず、構造因対環境因ないし、構造化対変形という、相対的な役割においてもまた互いに異なる;そして、先行して「際立った本質」の分析、すなわち、臨床的現象学を行った結果に基くのでなければ、いかなる臨床的記述も有意義ではない。。。

実践志向の臨床医にとって、サイコパスは単に何らかの形の反社会的行動が見られる不治の患者に過ぎない。だが我々にとっては、不治であるということは定義の本質的な要素ではなく、ある構造的かつダイナミックな要素を操作した必然的結果に他ならない。このような諸要素は、多くの行動的な病変の中に存在しているのだが、それらに特有の布置、サイコパスの本質を構成するものである。
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臨床心理学者のアンドリュー・ロバチェフスキーは、このような神経解剖学的構造を人間の「本能的基層」と呼ぶ。ロバチェフスキーは述べる:


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しかしながら、人間性について理解するためには、まずは人類の本能的基層について理解し、それが個人生活や社会生活において果たす顕著な役割を正しく認識しなくてはならない。この役割はたやすく見落とされてしまいがちだ。というのも、我々人間種の本能的な反応は自明至極と思われていて、十分な興味を感じなくても当然だと勘違いされているからだ。人間の観察を教え込まれた心理学者でも、専門家としての経験を何年か積むまでは、この永続的な自然現象の役割を完全には理解できないものである。

人間の本能的基層は、動物のそれと比べて、僅かに違った生物学的構造を持っている。エネルギー的なダイナミックさが少なくなり、より見せ掛け的になったために、それは行動における主たる独裁者としての仕事を諦めてしまったのだ。しかしながら、論理的思考のコントロールを受け入れやすくなったとはいえ、それは豊かな独特の内容の多くを失ってはいない。

それこそはまさに、我々の経験の基礎として系統発生的に発達してきたものであり、その感情的なダイナミズムは個々人が感情や社会的な絆を育むことを可能にし、我々が他の人々の心理的状態や、個人ないし社会心理的現実を直観的に知ることを可能にしてきた。かくして、人間の習慣や倫理的価値を知覚し理解することが可能となるのだ。幼児期から、この基層は心の高度な機能が発達するよう、様々な活動を刺激する。つまり、我々の本能こそ、我々の生得的な最初のチューターなのだ。適切な子育てとは、かくして、本能的な多感さゆえの過度に乱暴な反応をコントロールするよう子どもに教えることには限られない;彼らにはまた、本能的な天分に含まれ、それを通して自然が語りかけて来る知恵に感謝するよう教えるべきだ。
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※『政治悪の科学』


特に注意したいのはここのところだ:「エネルギー的なダイナミックさが少なくなり、より見せ掛け的になったために、人間の本能的基層は行動における主たる独裁者としての仕事を諦めてしまったのだ。それは論理的思考のコントロールを受け入れやすくなった」

人間以外の殆ど全ての動物には十分発達した、強力な本能的衝動がある。それらの中には、生まれて間もなく立ちあがって歩くものも居る;自力で食料源へと辿り着くことができるのだ;無数の生物に見られる、あらゆる種類の驚嘆すべき「生得的」行動は、人間においては存在がうかがわれるのみである。というのも見せ掛けの基層は、人間が生き残る上で役立つ生来の行動よりも、訓練に頼るところが大きいからだ。

さて、人間の本能的基層の適切な発達を妨げ、あるいはダイナミックな、見せ掛けでない役割を果たすのを制限し、さらには進化の樹における動物のいとこたちによく似た役割を生み出しすらした条件 ― トラウマによるものであれ、遺伝によるものであれ ― を想像してみよう。人間の中にワニの感情があると想像できるだろうか?「爬虫類」脳(レプティリアン・ブレイン、R脳)というもの
http://en.wikipedia.org/wiki/Reptilian_brain
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=24729634
が全く新たな意味合いを持ってくるのではないだろうか?

発達の遅れた、あるいはダメージを負った本能的基層を前提にすると、心理的な逸脱の発現は大いにあり得ることであり、その程度たるや、ある人の感情の発達が完全に最初の幼児期の状態で凍結しているように見えてもおかしくない。このような患者たちはおそらく、現在の医学では救いようがなく、その多くは、反社会的で暴力的ないし犯罪的な行動に至るであろう。動物にとっては正常な本能的基層も人間にとっては正常でなく、私達はそのような行動から内面を推し量ることしかできないことに留意されたい。ここで重要だと思われるのは、自己愛的/サイコパス的憤怒によると思われる行動がある種の動物の、本能に駆られた状態での感情的行動とダイナミックに似ているということだ。そして、私がここで焦点を当てているのが感情であって知性ではないことに注意して欲しい。

しかしここが難しい所だ:大人のサイコパスを考えてみると、彼の要求や願いを満たすのに役立つものを学ぶプロセスを速やかに進める、高度に複雑な神経回路が存在しているのである。複雑で、聡明ですらある知性が制限され逸脱した情緒のために利用されているのだ。しかし、どうやら神経による入出力を束ねる中心にあると思しき内側の幼児的なコアは飢えに他ならず、固定的であって変化することはない。つまり、コアとなる自我というものが存在せず、全てを中へと吸い込みたい/そうしなければならない、一種のブラックホールなのである。

こうしてついに、飽くなき憤怒の理由が分かった。

このような内部構造 ― この絶えることのない、決して満たされない飢え ― の影響の下、サイコパスは他の人間の欲求や要求、微妙な空気を正しく理解することや、曖昧さを我慢することができないのである。外部の一切の現実は原始的な衝動に奉仕する、この硬直的かつ原始的な内部構造によってフィルターされ ― それに従わされ ― る。

サイコパスが欲求不満になる、すなわち欲しいものが手に入らず、飢えを満たすことが否定され、ないしは遅らされるとき、連中はどうやら、自分は悪くないのに「外部」世界の全てが反抗してくると感じるらしい。これはもちろん「自分は善良で辛抱強い性分であるため、愛や平和、美、温もり、飽食がもたらす心地よさといった理想を追い求めてばかりだ」という思考ループに形を変えるのだろう(連中には決して達成できないことなどお構いなしだ)。しかし、これに関して最も基本的なことは、「乳児は未だに無限性、力、知識の状態を体験し続けている。誇大自己と呼ばれる状態だ」ということである。すなわち、サイコパスが不快な、あるいは飢えをもたらす何かに直面するとき、その対象(人、考え、集団、その他何であれ)は「まるきり悪い」カテゴリーに置かれるのだが、それは新生児がネガティブなトラウマあるいは欲求/要求の否定に反応する様子と同じなのである:思慮のない、本能的な、金切声をあげての憤怒はとても不愉快なものであるため(おそらく進化の結果そうなったのだろう)、世話をしている人は(何としても)幼児の憤怒を終わらせ、その飢えを満たそうとして必要なことは何でも直ちに行うのだ。

つまり、サイコパスの内部の現実が構造的に新生児のそれに似ている ― あるいは少なくとも似て見える ― と仮定するならば、この憤怒もまた構造的であることに気付かなくてはならない。そのトリガーを引いてしまったものは何であろうと、従わねばならない羽目になる。幼児/サイコパスを否定することは出来ないのだ;幼児が欲しい/求めるものを手に入れるか、あるいは、もはや奮闘できないくらい疲れ果てるまで、憤怒、叫び、発作等々は続く。そしてもちろん、大人になったサイコパスの場合、この構造的憤怒は人から支持され、長期に亘って続く可能性がある(非常に複雑な脳が利用できることもある):元々望んでいた憤怒の対象が巻き込まれるのに必要なだけ長くだ。

結論としては:サイコパスが「トラウマを負う」とか、「恥ずかしい」あるいは「無力だ」と感じるような瞬間はあり得ない ― 構造的な誇大性が、憤怒/否定の拒絶と共に絶えず存在しているのである。

大人になったサイコパスの場合には、もちろん、もう少し事態は複雑だ。というのも、上に述べたように、脳は感情面での成熟を伴わぬまま(これは個体によって大いに幅があるものの、構造は変わらない)、成長し発達し続けているからだ。もしサイコパスの脳が、彼(女)の何らかの選択や行動が問題を生んだとか、あるいは、彼(女)のせいで状況が悪化したという証拠の山に目を向けるよう強いられると、彼(女)らの脳は自己の一部であるとはいえ、「外部」から投射された感情に駆られて、これを否定するに違いない。

サイコパスの内部構造は、何の間違いも認めず(そんなことはあり得ない)、なんの悪も、なんの誤りも認めることはない。だから、「悪い」と定義されたものは何であれ、当然ながら ― 構造上 ― 他の誰か、あるいは何かに投影される。そして留意すべきなのは、連中がそうすることを選んだからそうなのるのではなく、連中にはそれ以外にやりようがないということである。連中のコアとなる部分には、神経の入出力に繋がり、感情的誇大さと永遠の完全さで包まれた「飢え」しか存在しない;そういう風に連中は出来ているのだ。

複雑な ― そして、時として聡明な ― 脳と併せて、このような原始的なコア構造を持つ結果、サイコパスは投影された同一性の主人となる。すなわち、連中は他の人々に全ての悪を投影し(その時々においてサイコパスが欲しいものに照らして「悪い」変化を思い出しながらだ ― それも構造の一部である)、そうした人々を投影した悪に導くための操作法を探して、「悪い」性質の現れと感じるこのような人々をコントロールしようとするのだ。このときサイコパスは、喜びと「支配感」を得、それが「腹を満たし」、あるいは「養育される」ことになる。

サイコパスが良いと考えるものは、真実や名誉、礼儀、他者への思いやり、その他何であれ、彼(女)がその時欲しているもの以外とは何の関わりも無いことに留意されたい。このようにして、他人の権利のどのような侵害、どんな禁じ手、邪悪な行いであれ、サイコパスは犯すことができ、そのくせ夜には、(文字通り)赤ん坊のように眠るのである。というのも、彼(女)は何も悪い事はしていないからだ!


(写真)エイドリアン・レイン
コピーライトマークUsha Sutliff
南カリフォルニア大学(USC)の研究者エイドリアン・レイン:「サイコパスにおいては、間違った配線が行われています。彼らは他の人たちと異なって配線されています。ある意味、それは、この場合では文字通り、本当のことです」
(※邦訳出所:
USC ニュース、故障 (2004年2月17日)
http://blogs.yahoo.co.jp/toumyouline/16290033.html
「キーとなる二つの脳構造における異常が、サイコパトロジー(精神病質病理)の発生基盤を与えるかもしれない」と南カリフォルニア大学(USC)のある神経科学者はいう。キーとなる接続における間違った配線が犯人かもしれない。

サイコパスは、「恐れ」の検出から情報処理にわたる機能に責任をもつ、キーとなる二つの脳構造において、身体的な異常を有する。(これを)USCの一人の臨床神経科学者が、その障害に対する神経発生上の基盤を示唆する二つの研究において発見した。

USCの心理学、神経科学教授、エイドリアン・レイン(Adrian Raine)博士は、調査を脳の二つの部位、即ち、攻撃性を調整し情報を記憶に変換する側頭葉の一部である海馬と大脳半球同士をつなぐ神経線維の橋である脳梁に絞り込んだ。

「科学者たちは、反社会的で攻撃的な振る舞いに、異なる脳領域を関連付けており、それらは全て重要で妥当なものです」とレイン博士はいう。

「しかし状況はそれらを超え、「配線」が問題になってきました。これらの脳の部位が互いに正しく配線されていなければ、それらは決して効果的に情報のやりとりをしないでしょうし、決して適切な振る舞いという結果にならないでしょう。」

サイコパスの神経学的な原因は未だ探求中であるが、サイコパスの鍵となる行動特性は明確に定義づけられている。サイコパスの犯罪的傾向は典型的に、抑制、感情、良心の欠如と結び付けられる。

「私たちが、悪いことをしないのは、それを悪いと感じるからです。」とレイン博士はいう。「サイコパスはそのような感性をもっていません。彼らには良心がないのです。それは、彼らが、冷淡で人を操ることができることを意味します。」

感情の欠如はしばしば、サイコパスが他の人と普通のやり方では絆を結ばないことを意味する。

「友情は彼らにとっては同じことを意味しません。彼らは「愛」という言葉を良く使いますが、「愛」が何を意味するかを本当は知りません。彼らはそれを正しく経験したことが決してないのです。」とレイン博士。

しかしサイコパスは内面は冷たいかもしれないが、その一方で外面では、彼らはしばしば、暖かく、人懐っこく見える。

「彼らは口達者です。言葉をうまく使い、魅力的でいられます。それが人々をよこしまな網(罠)に誘惑します」とレイン博士はいう。

「サイコパスは1分か1時間はパーティの花形になり得ますし、実際、彼らと肩を寄せ合うことは、すばらしい経験になり得ます。彼らが実は見かけとは違うと、あなたが気がつき始めるときには、すでに知り合って長い期間を経てしまっています。」

サイコパス的な振る舞いの身体的原因を調査するために、レイン博士と同僚は、ロサンゼルスの一時雇用リストから91人をリクルートして、認知力、情報処理能力、犯罪歴を査定する一連の試験を行った。

海馬の研究では、調査チームは、犯罪を犯したが決して逮捕されたことがない"成功したサイコパス"と逮捕歴のある "失敗したサイコパス"の二つのグループの脳を初めて比較することによって、従来の研究の範囲を広げた。海馬は、攻撃性の調整と、どの状況下で恐れるべきかを学習する、状況的恐怖条件づけ(contextual fear conditioning)と呼ばれるプロセスにおいて、決定的な役割を演じる。

サイコパスにとって状況的恐怖条件づけは、何をすべきか? また、何をすべきではないのか?という発想を学ぶ役割を担う、とレイン博士はいう。海馬と前頭前皮質を結ぶ回線の分断が、サイコパスに見られる衝動性、抑制の欠如、感情的な異常に寄与する可能性があると理論付けられてきた。

「それは、ある状況下で、何が正しくて、何が間違いかを学んでいます」と彼はいう。

彼は、海馬に欠陥をもつサイコパスが、予期される罰と逮捕の合図に鈍感になる可能性があるという理論をテストした。その結果、これらの"欠陥のある"サイコパスが、そうした欠陥のないサイコパスよりも逮捕されやすいということが分かったという。一般被験者と"成功したサイコパス"のいずれも、その半分以下が非対称な海馬をもっていた。"失敗したサイコパス"の94パーセントが、右の海馬が左よりも大きいという同じ異常を有していた。

レイン博士によると、この結果は、サイコパシーの神経発生上の原因を証明はしないが、示唆をするという。「早期の脳の異常発達が、サイコパシーの原因となる構造的な脳の異常を引き起こすのかもしれません」と彼はいう。

これらの発見は脳梁に的を絞った第二の研究結果によって支持された。脳梁は、二つの大脳半球を結ぶ神経線維の束で、情報を処理したり自律機能を調整したりするために、二半球が一緒に働くことを可能にしている。

「サイコパスにおいては、間違った配線が行われています。彼らは他の人たちと異なって配線されています。」とレイン博士はいう。「ある意味、それは、この場合では文字通り、本当のことです。」

彼は、サイコパスの脳梁が一般被験者より、平均で23パーセント大きく、7パーセント長いことを発見した。

「脳梁はより大きいですが、より薄い。このことは、それが異常発達したことを示唆します。」とレイン博士はいう。

サイコパスが、一つの大脳半球からもうひとつの半球へ、脳梁を通じて情報を伝達する効率は異常に高い、とレイン博士はいう。しかし、それは、何かがより良く機能することを意味しない。増大した脳梁に伴って、より少ない罪悪感、より少ない感情、より少ない社会的連帯、即ち、古典的なサイコパスの顕著な特徴が現れてくる、と彼はいう。

「このような人々は反応しません。彼らは気にしません。」とレイン博士はいう。「何故そういうことが起こるのか、我々はまだ完全には分かりませんが、我々は神経画像調査から手がかりを得始めています。」

この研究におけるレイン博士の同僚は、USC、グレン・オークスのヒルサイド病院、アメリカ航空宇宙局(NASA)のゴダード宇宙研究所を含む施設から派遣されている。海馬と脳梁の研究結果は、2004年1月に雑誌バイオロジカル・サイカイアトリー(Biological Psychiatry)、2003年11月に雑誌アーカイブ・オブ・ジェネラル・サイカイアトリー(Archives of General Psychiatry)に各々掲載されている。 ※)


このようなサイコパス的要素に起因するのが、あらゆる種類の反社会的、暴力的、犯罪的行為であり、ゆえに、「暴力と攻撃は専ら、ナルシストが内心深く傷つき、無力さを感じているせいで起こる」(ウルフ博士の論文は煎じ詰めるところ、こう論じている)という原則を当てはめることは、世間知らずにもサイコパス連中に対して、私達の同情という操作手段を与えることとなる。確かに暴力の多くは成長の過程で心理的に傷を負った人々により行われるのであるが、彼らは必ずしもNPD(自己愛性パーソナリティー障害)の判定基準に当てはまらない。用語法における明瞭さと一貫性こそが、この領域では心底求められるのである。

さて、アンドリュー・ロバチェフスキーの著作『政治悪の科学』に戻るとしよう。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=60583729
そこで彼は、サイコパスのカテゴリー的/ディメンション的モデル、および様々なサブカテゴリーを区別した上で、この集団的暴力という問題に対する、より合理的な答えを与えてくれる。彼はその本質を、社会の中の病的要素によって巧みに利用された、社会の適応障害の問題とみるのである。


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もし、ある人にとって、彼の才能を十分に活かせない職務を無理強いするような、(※かつての東欧共産主義国家におけるような)様々な社会的状況の組み合わせが生じると(こうした状況の例としては、不完全な心理学的世界観=人間観がある)、この人の職業的手腕は、満足の行く能力を持つ作業者のそれより劣ることはあっても上回ることは無いだろう;彼は自己実現の達成を妨げる職務に裏切られたように感じながら、それに追われることになる。彼の思考はしばしば職務から空想の世界へ、あるいはより大きな興味のある物事へとさまよい出る;空想の世界では、彼はあるべき人間、存在に値する人間なのだ。このような人は常に、彼の社会的/職業的適応が降格処分であると悟る;しかしながら一方で彼は、自分の才能の上限に関して健全で批判的な能力を発達させ損なうのである。空想の中で彼は、不公正な世の中を「治す」ことが出来る。「力こそ全てなのだ」。革命的で急進的な考え方は、降格による社会的適応がなされた人々の間に、肥沃な土壌を見出すのである。

他方、ある人々は特権的な社会団体や組織に属しているがゆえに重要なポストへと達する;だから彼らの才能やスキルは職務をこなすには不十分である。困難な問題などなおさら無理だ。そこでこのような人々は、厄介事をかいくぐりつつ、見栄のために些細な事に専念するのである。どうやら、一種の演劇的要素が彼らの行動の中に段々と現れてくるようだ。実験の結果、彼らの論理的正確さは、たった数年このような活動に従事しただけで劣化することが分かっている。自分の地位を保つために、彼らは誰であれ自分よりも才能やスキルが高い相手に向けて攻撃を行い、相手をふさわしいポストから外し、この人たちの降格的な社会的/職業的適応処分に積極的な役割を果たすのだが、これはもちろん、相手方に不当な行為であるという感覚を惹き起こす。

昇格的な適応措置にあずかった人々はこうして、彼らの地位を守ってくれるように権力を振るう政府を支持する。

昇格/降格的な社会的調整措置、そしてまた定性的に不当な処分は、社会の基本的な資本、すなわち、そのメンバーたちの才能プールを荒廃させる結果となる。これは同時に、社会の個々人やグループの間における不満と緊張を高める;人間の才能やその生産性に関する問題を純粋な個人の問題としてアプローチするいかなる試みも、かくして、危険なほど素朴であると考えねばならない。文化的/経済的/政治的生活の全ての分野における発展ないし退行は、この才能プールが適切に活かされている程度次第なのだ。要するに、進化が起るか、革命が起るかを決めるのはそれなのである。。。

世界じゅうのどんな社会においても、サイコパスをはじめとする変質者が、悪の遺伝子の働きによって活性化する、共通の共謀ネットワークを張っており、それは通常の人々のコミュニティーからはある程度離れたところにある。このネットワークに属する本質的サイコパスの幾分鼓舞的な役割もまた共通的な現象のようである。彼らは人生経験を積むに従って、自分が他の人々とは違うことに気付き、自分の目標のために戦う上で違ったやり方に精通して行く。彼らの世界は永久に「自分達と奴ら」に分かれている;彼らの小さな世界は独自の法と習慣を持ち、道徳的観点から非難すべき思い上がった考えと習慣に満ちている。彼らの「道義心」は他の人間の世界をごまかし、その価値観を罵るよう命じる。通常の人々の習慣に反して、彼らは約束やサイン済みの契約を実行しないのが習慣だと思っている。彼らはまた、自分達の性格が通常の人々の性格に対して、いかにトラウマ的な影響を与えるか、また、目標達成のためにこの恐怖の根源をいかに巧みに利用するかについても学ぶ。このような2つの世界の分裂は永久的なものであり、たとえ彼らが、通常の人々の社会に対する支配権を手に入れるという若い時の夢の実現に成功しても、それが解消することはない。これは、この分離が生物学的に条件付けられていることの証明である。

このようなサイコパスは、若い頃、「幸福な」世界であるユートピアや、彼らを拒絶したり、彼らには意味が分からない法律や習慣に屈服するように強いることのない社会体制の夢を見る。彼らは彼らの単純かつ急進的な現実の体験/知覚が支配的であるような世界の夢を見る。そこでは、彼らはもちろんながら、安全と繁栄を保証されているのだ。このような「異種の人間たち」は我々と異なるが、技術的スキルもまた優れていて、このような目標の達成に向けて専念している。「自分達」は最後には新しい政府を、正義を実現する政府を作るつもりだ、と彼らは考える。彼らはこのような素晴らしい新世界のために戦い、苦難に立ち向かうこと、そしてまたもちろんながら、他の人々を苦しめることもやぶさかではない。このような観方は殺戮を正当化し、人民の苦難も彼らの同情心を動かさない。というのも「彼ら」は正確には我々と同種ではないからだ。彼らには、その結果世代を越えて抵抗を受け続けることになるということが分からないのである。

通常ではないサイコパスに従属する結果、通常人の人格は変質を来す:それはトラウマとノイローゼを惹き起こすのだ。これは一般に、十分意識的なコントロールの目を盗むようにして成し遂げられる。このような状況が続くと、やがて彼の生得の権利は奪われる:精神衛生を保ち、十分に自律的な人格を発達させ、常識を働かせることが出来なくなるのだ。自然法に照らして、それは一種の違法行為 ― どんな社会的規模の場合もある ― を構成するのであるが、法律にそのような罪は規定されていない。

ある種のサイコパス、例えば「大脳皮質前頭野欠損性サイコパス(frontal characteropathy)」
http://cassiopaea.org/forum/index.php/topic,24722.msg286530.html#msg286530
(※100130  http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=50199646 )
の性質については既に述べた。本質的なサイコパスは、このような病変の程度が並外れて大きい。

このようなサイコパスに翻弄される結果、被害者の人格は何やら不思議な変化にむしばまれ、やがて悪魔のような攻撃を受ける。彼はゾッとする感情を覚え、心理的な現実感は息の根を止められる。この結果、思考の基準逸脱および無力感へと至り、抑うつ反応は頂点に達する。これは実に深刻なことがあり、精神科医は時として彼らを躁うつ病と誤診するほどだ。

ずっと早いうちに反抗し、このような影響から解放される何らかの道を探り始める人々が多く存在するのもまた明らかである。

他の多くの人々の生活状況としては、正常な人々に起る、より不思議でない、その他多くの心理的異常があり(これらは常に不愉快で破壊的である)、これらのキャリアは、他人を支配しうまく利用しようという破廉恥な衝動に駆られることになる。不愉快な経験や感情、そしてまた自然な利己主義に支配されるのだから、社会がこのような障害を負った人々を排除するのは当然であり、彼らは貧困や犯罪といった最低の社会生活状態に追いやられることになるのである。

It is unfortunately almost the rule that such behavior is amenable to moralizing justification in our natural world-view categories.
不運にもこのような行動はほぼ例外なく、我々の自然的世界観のカテゴリーのうち、矯正の正当化の影響を受けることになる。社会の殆どのメンバーが自らの人格と財産を守り、その目的のために法律を制定する権利を持っていると感じているのだ。問題の客観的理解ではなくて、現象の自然な知覚と感情的な動機に基づくこのような法律は、我々が望む種類の秩序や安全を保護できるような代物ではない;社会の他のメンバーたちは、彼らを戦うべき勢力として知覚するのである。

正常な人々に支配された、このような社会構造や概念的世界は、様々な心理的逸脱を来した人々にとっては「力と抑制のシステム」と映りがちである。サイコパスは概してこのように結論する。

もし、ある社会の中に大量の不正が現実に存在するとき、サイコパス的な不公正の感覚やそれを思わせる発言は、実際に不公正に扱われている人々の間に共鳴を生み出すだろう。革命の教義は、やがて両方のグループによる賛同を受けるかも知れないが、双方の動機は実際には全く異なるものだ。
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最近のソット(SOTT)の論説で『学習性無力感』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%80%A7%E7%84%A1%E5%8A%9B%E6%84%9F
が取り上げられていた。
http://www.sott.net/article/152054-Our-Learned-Helplessness
昨今統制を強化しつつある、世界的なサイコパスによる統治を生き残ろうと奮闘している地球上の通常の人間の多くが、身を以って経験している現象である。

この学習性無力感という状態が心理学の分野における主流派研究者の多くに当てはまることは疑いない。サイコパスおよび悪の科学に関する知識は、「電気ショックから逃れるための檻の戸を開ける」ものなのだが、重度に条件付けられた主流派の心理学者や精神医学者は、「そこへと向かう」こと ― 檻を飛び出し、この知識が導く結果を見極めること ― が怖くてたまらないのだ。かくして、サイコパスという四角い杭を、「人間の見かけをした全ての生き物のコアの自我には画一的な性質がある」と主張する「人道主義のドグマ」という丸い穴に打ち込もうという、不可能な理論化の努力が際限なく試みられているのだ。時として、このウィッシュフル・シンキングは、さらに自己中心的な態度を増幅させることになる ― ロバチェフスキーはこれを「自然的世界観による自己中心主義」と呼ぶ:


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さらに我々は、文学的影響、宗教的考察、哲学的熟考を経て矢鱈と洗練された、心理・社会・倫理面に関する、発達した自然的世界観に恵まれた、考え方のしっかりした人々にしばしば出会うものだ。このような人々は自らの世界観の価値を過大評価する顕著な傾向があり、それがあたかも他の人々を裁く上での客観的基礎であるかのように振る舞うのである。彼らは人間の問題理解のための体系も、客観性が不十分で誤っている可能性があるという事実を考慮しないのだ。このような態度を「自然的世界観による自己中心主義」と呼ぼう。これまで、これは最も有害さの少ないタイプの自己中心主義だった。人間の経験に永遠の価値を認める理解方法に関する、単なる過大評価だったのである。

しかしながらこんにち、世界はこのような自然概念による言語によっては理解も記述もできない現象によって、危険にさらされている;この種の自己中心主義はかくして、客観的中和手段の可能性を削ぐ危険な要因となる。客観的な心理学的世界観が発達し一般的になれば、その結果、分別ある行動とピンポイントでの対抗手段によって悪に対処できる範囲は著しく広がるだろうに。

成熟した哲学的基準に基づく客観的な心理学用語は、その理論的基礎として求められる要件を満たし、個人およびマクロな社会レベルにおける要求に合致しなくてはならない。それは完全に、生物学的現実に基いて評価されねばならず、旧来の自然主義的科学、とりわけ医学が入念に作り上げた類似の概念言語の延長線上になくてはならない。その適用範囲としては、自然言語では不適当であることが証明されている、認識可能な生物学的要因によって条件付けられた、あらゆる事実や現象をカバーすべきである。このような枠組みの中でこそ、上で述べたような倒錯した世界観の中身や、それが誕生するに至った様々な原因も十分理解できよう。

どんな科学者の個人的な視野も遥かに越えた、このような概念言語作りを一歩一歩進めて行かねばならない;多くの研究者の貢献を得て、上に述べたような基礎を踏まえた思想の下でまとめられるならば、それは適切なものに成熟するだろう。このような作業は、生命人間科学および社会科学を、心理学者が想像力たくましく綴って来た自然言語の影響による制約や誤った傾向から解放することで、それらの発展に大いに貢献することだろう。心理学が過度に自己中心主義的な要素と結び付くとき、その弊害は甚だしいものだからだ。
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私達ソット・ドットネットは、長年に亘り、世界の悲惨な軌跡を記録してきており、私達の調査はそのような軌跡が描かれ続けるうえで、サイコパスおよび一連の病的人格 ― 例えば、自己愛パーソナリティー障害 ― が、果たしてきた役割を明らかにしてきた。主流派心理学によるサイコパス問題に対する統合的アプローチが、心底求められるゆえんである。ロバチェフスキーは私達に、その最初の一歩を示した ― サイコパスおよび関連する人格障害のディメンション的/カテゴリー的モデル化と併せた、客観的な心理学用語の構築がそれだ。この作業は数多くの研究者の努力によって達成されてきた。しかし現在、他人をコントロールするために精神医学を利用しようとする研究者も多数存在している。このような連中が仕立て上げた「患者」は普通、正常な人々なのだが、外的な振る舞いからそのように診断されるのであり、他方、驚くほど騙しに長けているサイコパスは、その「正気の仮面」の出来があまりに素晴らしいために、捕えられることがない。

集団的無気力が自己愛憤怒を導くのではなく、自己愛憤怒が集団的無気力を生み出すということは、上の引用でマーサ・スタウトが示している通りだ。そして、無気力な集団はどんな悪へと導かれることもあり、破滅することすらある。

そのような集団が向かう先はそこなのである。


(写真)
ローラ・ナイト=ヤズィック

ローラ・ナイト=ヤズィックは7世のフロリダ州人、歴史家/神秘主義者であり、14冊の著書のほかにも、印刷物やインターネットで多くの記事を公表している。彼女はSOTT.net(ソット・ドットネット)の創設者であり、カシオペアン実験を支える霊感の持ち主である。彼女は現在フランスで、夫のポーランド人数理物理学者であるアルカジス・ヤズィックおよび、5人の子供達のうちの4人、さらに家族同然の仲間達や8匹の犬、5羽の鳥、1匹の猫と共に暮らしている。
posted by たカシー at 13:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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