2013年08月31日

ザ・ウェイブ 第72章・完:愛と複雑系の非線形力学:宇宙をデバッグする

http://cassiopaea.org/2012/04/01/the-wave-chapter-72-the-nonlinear-dynamics-of-love-and-complex-systems-debugging-the-universe/
ザ・ウェイブ 第72章:愛と複雑系の非線形力学:宇宙をデバッグする


さて、次に移る前に、幾らか他のコメントを行いたい。少々「愛」について話そうと思う。

読者の多くは、愛に関するカシオペアンズの発言を大いに誤解しているようである。この主な理由は彼らが、言葉でもってあなたが「気持ちよく」なるような脳内物質を刺激する遊びをしないからなのだ。彼らは「真の愛は正確にはホルモンによるものではない」(※950107)と言ったことがある。これに関連して、後日私は以下のように質問した:


950902
---
Q: (L) 愛こそが鍵だ(love is the key)とか、愛こそが答えだ(love is the answer)とか広めている多くの教えがあるわ。彼らに言わせれば、悟りや知識その他もろもろ全てが愛によって達成されるのよ。

A: 問題なのは「愛」という言葉ではなく、その言葉の解釈だ。第3密度の人々は、この問題に恐ろしく混乱する傾向がある。結局のところ、彼らは沢山の事を愛と混同する。実際にあなた方が知っている愛の定義も正しくないからだ。それは必ずしも人が抱く、1つの感情として解釈できるような感覚ではなく、むしろ、以前も言ったように、知識である光の本質が愛なのであり、愛が悟りへと導くというのは工作によって歪められた考え方だ。愛とは光であり、その正体は知識である。あなた方の環境で共通に用いられている定義によるとき、愛は意味を成さない。愛するためには知らなくてはならない。そして、知るとは光を抱くことである。そして、光を抱くとは愛することである。そして、知識を持つとは愛することである。
---


さて、どうかちょっと立ち止まって、これらの言葉について慎重に考えてみて欲しい。

カシオペアンズが知識という言葉を用いるとき、彼らはそれを、言葉の最も深い意味で用いている。事実を把握したり、物事を記憶できたり、物事を相互に関連付けたり、記憶していることや関わっていたことを使って創作したりというのは、カシオペアン的な意味で知識という言葉が持つ意味とは全く関係がない。彼らはこの言葉について注意深く考えるよう求めた上で、以下のように問いかけてきた:


941022
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=28263167
---
A: 「知識」という言葉によって表される概念のどこかに限界があるだろうか?限界が無いこの言葉の価値はいかばかりだろうか?無限だ。この1つの概念、1つの意味が、どうやってあなたをあらゆる限界から解放してくれるかわかるだろうか?知識という言葉、その意味するものが、かつてあなたが必要としてきたあらゆるものを提供してくれることを、第六感を用いて想像してみなさい。慎重に考えれば、どうしてこれがこの上なく正しいのか、ちらっとは分かってくるだろう。

。。。この1つの単語がどうしていとも簡単に沢山の意味を持ち得るのか考えられるかな?あなたは完全には分かっていないのが感じられる。あなたは悟りの光を垣間見ることができるだろうが、悟りは知識によってもたらされる。知識を得、それを集めようとたえず努力するならば、かつて起こりえた、どんなネガティブな出来事に対する守りも、身に着けることができるだろう。なぜだか分かるかな?知識を得れば得るほど、どうやったら身を守れるかについて、益々気付くからだ。やがて、この気付きはとても強力になって、すっかりあなたを取り巻くので、身を守るのにお勤めや儀式さえ行う必要が無い。守りは気付きのみによって自ずともたらされる。

。。。知識にはあらゆる内容が含まれる。それはあらゆる存在の核心へと至る。。。人の存在に対して、望ましい全てのものを加えるというのも、知識の働きに含まれる。そしてまた、あなたが光を念じ続けるうち、光とは知識であることが真に理解できるだろう。全ての存在の核心にあるものこそ知識である。あらゆる存在の核心にあるからこそ、知識は存在の内にある、あらゆる形態のネガティブさからの守りをもたらす。光は全てであり、全ては知識であり、知識は全てである。あなた方は、随分と知識の習得に努めている。あと必要なのは、知識の獲得こそが必要だと信じ、理解することだ。単にそう信じさえすれば、誤った知識を得ることはないだろう。そんなものは無いのだから。
---


つまり、カシオペアンズの定義による知識とは、誤りでないものを言うのである。後で誤りであることが判明した事実は、たとえ誤って「知識」とみなそうとも、最初から知識ではなかったのだ。


---
誰か、あるいは何かが、あなたに誤った知識、誤りの情報を与えようとしても、失敗するだろう。知識はあらゆる存在の根底にあるが故に、知識が呈する実質のお蔭であなたは、知識ではない、誤った情報の吸収から守られるのだ。

これが意味するのは、私達が獲得する知識の各々のレベルが、私達に次のレベル、そのまた次という具合に、準備してくれるということである。知識を探し求めながらも、受け取る知識の準備が出来ていない人々は混乱してしまうものだ。単にオープンに知識を得るよう求めるならば、誤った情報を吸収するのでないかと恐れる必要はないのである。
---


この最後の言葉は極めて重要である:「単にオープンに知識を得るよう求めるならば」

探求している人がみな、自分がオープンだと思っているのは知っている。しかし、自分の考えを注意深く検討してみれば、あなたは自分が探求していることを確かめたいと大いに信じ、仮定しているのが分かるだろう。次のコメントはこのことについて詳しく述べている:


941022
---

A: 知識はあなたがかつて必要としたあらゆる守りを形作る。。。 [信じることで知識を受け取っていると主張しながら、後で誤った情報を受け取っていたと気付く人々は]。。。本当は知識を集めてなどいない。こうした人々は、進歩の道のりのどこかで滞っているだけであり、彼らはあなた方の言うところの妄想が、密かに顕現するのを経験しているのだ。妄想は知識ではない。妄想とは停滞である。だから、人が妄想にとらわれているときは、実際には真の知識の獲得をもたらすような吸収であるとか、魂の成長や進歩も止めてしまう。妄想にとらわれているときは、守りが低下するため、問題や悲劇やあらゆる困難に身をさらしている。だから、これらを経験することになるのだ。
---


この手掛かりを文字通りに受け取ると、もし人が問題を抱え、あるいは攻撃されていると感じ、あるいは何らかの苦難を味わっているなら、彼らは自分たちの心を探して彼らが信じ仮定していることが、実際は妄想であることに気付きさえすればいいのである。他の人々の人生のみならず、自分自身の人生を振り返ってみても、これが正しいことが分かる。問題や病気、あらゆる種類の困難に見舞われている人は、何らかの形で、誤った信念にとらわれているのである。例外はない。

知識の第3密度への適用とはもちろん、気付きである。カシオペアンズは、この点についてもコメントしている:


950902
---
前に言ったように、7つの密度レベルが存在していて、それらに含まれている身体的、霊的、エーテル的、物質的な状態だけでなく、特に重要なのが気付きの状態である。知っての通り、気付きの状態とは創造されたあらゆる存在にとって重要な要素だ。これが結局は大いなる幻想だと言ったのは間違いなく憶えているのではないかな?という訳で、これが大いなる幻想だとしたら、身体の構造と気付きの状態とでは、どちらがより大事だろうか???

。。。さて、あなたが理解できるよう、もちろんながらきちんと系統立てて説明してきた、1から7までの密度レベルの数え方からすればもちろんのこと、鍵となる概念は気付きの状態である。これは各レベルを通じてそうだ。だから、一度あなたが高次の気付きの状態に達すれば、肉体的限界のようなものは雲散霧消してしまう。それが消えれば、あなたにとって遥か遠く感じられた距離は存在しなくなる。だから、あなたが見ることができず、理解できないからといって、それは実際に可能かどうかとは何ら関係がなくなる。あなたが居る密度内は別だが。このことが、現在あなたが居る密度レベルの殆ど誰にも理解できないのだ。もしあなたにこれが理解でき、彼らに伝えることができたら、あなたは、あなたの仲間がかつて見た中でも、最も偉大な奉仕を行うことになるだろう。このことをしばらく考えてみなさい。それをあなたの意識に浸透させなさい。分析することだ。注意深く観察したら、再び元通り組み立て直してみるんだ。

Q: (L) 私達の気付きを制限するものとは何?

A: あなたの環境だ。そしてその環境は、あなたの進歩のレベルによってあなたが選んだのだ。それが全てを制限する。高次密度レベルに達すれば、制限は取り除かれる。

Q: (L) 制限する環境を生み出したのは何?

A: 学びのために存在している、大いなる幻想だ。
---


さて、ここで立ち止まって、しばらく考えてみよう。私達のeグループへの最近の投稿に曰く:


---
もしあなたが騙されて人生には愛よりも重要で強力なものがあると信じさせられてきたのなら、基本に帰った方がいいだろう。愛は一切の枠組みであり、決して悪くはない。確かに多くの人々にとって、愛は本物ではなく、憑き物やコントロールのようだけれど、もしあなたが本物の愛や、それが貫流する道具となる術を学ばずに今生を終えるなら、それは自分を見くびり過ぎというものだ!。。。全身全霊で自分を愛せるまでは、他人を愛することができないし、あなた自身の幻想以外の何か、あるいは誰かに奉仕することもできないだろう。

あなた自身を知ることだ。。。あなた自身を理解しなさい!そうすれば、提供できる価値ある何かを手にすることができるのだ。「愛とは光であり、その正体は知識である」だって?うまいこと言ってのけたつもりだろうが、もっとずっと正確な言い方はこうだ。愛から光がもたらされ、光から知識がもたらされる。違いが分かるかな?
---


これを書いた人は本物の愛や、愛の道具となる術を知ることこそが生きる目的だと言う。続けて彼は「あなた自身を知ることだ」(自分自身を愛するためにそうしなくてはならない)と述べ、自分を知ることは自分を理解することに等しいとした。それから彼はそれまで言ってきたことから完全に方向を変えて、光へと進むには愛から始めるべきで、そうすればやがて知識へと至ると言う。彼は気付いてさえ居ないのだろう。学び、知り、理解することについての彼の情熱的な宣言は、カシオペアンズが以下のように言っていたのと全く同じことなのである。「愛するためには知らなくてはならない。そして、知るとは光を抱くことである。そして、光を抱くとは愛することである。そして、知識を持つとは愛することである」

彼はいくらか時間をかけて、カシオペアンズによるセックスに関する言明につきコメントしているが、自分が群盲象を撫でるが如き一面的な観方に終始しているのが分かっていない。カシオペアンズによる愛についてのコメントと同様に、セックスに関する言明もまた曲解され誤解されている。本シリーズで私が既に暗示してきたように、愛の営みを行うことはセックスするのとは違うのだと言えば十分だろう。多くの人々が、自分は愛し、また愛されていると思っていながら、実際にはそうではないのと同様、多くの人々は、自分達が愛の営みを行っていると思っているものの、そうではないのである。この人が上でコメントしているように、カシオペアンズが唱導するプロセスは、「本物の愛や、それが(あなたを)貫流する道具となる術を学ぶ」ことに関係がある。そして彼が「あなた自身を知ることだ。。。あなた自身を理解しなさい!そうすれば、提供できる価値ある何かを手にすることができるのだ」と言っているのは全く正しい。

結局そういうことなのだ。カシオペアンズも言っている:


950902
---

Q: (L) 幻想を置いたのは誰?

A: 被造物でもある創造主。それはまた、あなた方や私達全てでもある。前に言ったように、私達はあなた方であり、逆もまた然りだ。それは他の誰も同じ。

Q: (L) 全てが幻想だということが大事なの?

A: 基本的にはそうだ。以前言ったように、しばらく辛抱していれば分かる通り、宇宙は単なる学校に過ぎない。そして、学校とは学ぶためにある。だからこそ、全ては存在している。他に理由は無い。さて、この言葉の本当の深さを理解できさえすれば、あなたは見ることができるようになり、自分で全ての密度レベルを体験でき、その結果、全てに気付くだろう。この言葉が持つ意味を最大限に理解できた人は悟るだろう。きっとあなたにも話して聞かせた筈だ。そして永遠に続く瞬間の間に、この人は知るべき全ての事を完全に知ることになる。

Q: (L) それじゃあ、悟りへの道は知識であって愛ではないと言うの?

A: その通り。

Q: (L) 感情は間違った方向に導くために利用可能で、感情は歪められることがあり、厳密には肉体や誤ったプログラミングによって生じるというのも正しい?

A: 感情を制限するのは進歩の妨げになる。感情もまた第3密度で進歩するのに欠かせない。それは自然なものだ。仮定に基づいて感情を制限することと、感情によって制限のない可能性に対して心を開くこととを区別するようになれば、次の密度への準備が進んでいる。
---


「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(※ヨハネによる福音書 / 8章 32節)これは一見簡単な言葉のようだが、歴史的に言えば、しばしば騒乱、殺人、大量殺戮へとつながった、あらゆる類の紛糾する問題や思想を盛り沢山に含んでいる。問題は何を知るべき、あるいは知るべきでないか、それをどうやって知るか、どうしてなのかという定義について意見が様々であるためのようである。

知る(know)という言葉はラテン語根gnoscereに由来し、それは「知ること、はっきり知覚したり理解する、確信したり精通している」という意味である。

しかし真理(truth)の方はもっと難しい。これは実は木(tree)と同じ語根に由来するのであり、この言葉にまつわる問題は直ちに明らかになる。最初の定義は「現実や事実に一致するもの」である。しかしこれはまた「話し手によって本物だとみなされる特定の信仰や教説」をも意味する。木々の中には他よりも頑丈なものがあるのだ!

最初の定義が持つ問題は、現実についての私達の定義に関係している。さらに、事実とは何だろうか?私達の世界に関する事実は世代によって変化すると思われる。何年も前には最も速い手段で大西洋を横断するのに何週間もかかったというのは事実だった;今では数時間しかかからない。だから、事実とは私達の現実を定義するものだと言えよう。しかし、事実は現実でもなければ、絶対的でもない。事実は知識に基づくようであり、知識はどんな類の問いが問われているか、そして、どれほどオープンに探求者が答えを受け入れるかに基礎を置くと思われる。

だが、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という言葉に戻ろう。真理とは特定の宗教や思想によって信じられたり教えられたりするものだと考える人々は、膨大な数の相異なり、しばしば対立し合う信仰があっても、それらを抱くことの意味とは結局、「皆が正しい」、あるいは、「何人かは正しい」、あるいは「この現実創造というものには何か学ぶべきものがある」のうちのいずれかであるということが分からないのだ。

カシオペアンズは基本的に知識には制限が無いと言っているが、その意味合いは、人間が心に抱くことのできる全て、そしてそれ以上のことがありうるだけでなく、ありそうだということなのである。にもかかわらず、ここで取り上げている小さな問題に戻れば:私達はたまたまこの惑星上に居て、宇宙の中の天の川銀河の腕のところにあるティルタ・ワール
http://www.geocities.jp/ask_majo_p/t.html
に乗っているかのように揺れ動いていて、好むと好まざるとに関わらず、そのうちの多くが言葉で言い表せないくらい様々な苦悩を強烈に味わっているのだ。あなたはどうか知らないが、このことは私の悩みの種である。そして何かに悩まされると、私は生来それが何であり、どうして私を悩ませるのか、解明したい性質なのである。そして、それに関して何かが分かると、私は実行に移してしまう。そうせずに居れないのだ。私は行動するタイプなのである。

何千という大勢の人々が、人生の問題に対する答えは何かということについて様々な観方を提唱している。彼らは先ほど引用したeグループへの投稿者と同じような活動に従事する。彼らは問題になっているケースについて論理的な一連の考えを提示し、答の基礎となる知識を明らかにしておきながら、明らかにそうすることができるにもかかわらず、彼らの高度に発達した認知プロセスを用いずに、感情的な信念に基づいて結論をひっくり返すことにより、それまで述べてきた事をごちゃごちゃにするのだ。そういう訳だから彼らの答えは問題を改善するのに役立つような明確な手段の積極的な追究や、ましてや宇宙を変える解決には至らないのだろう。もし彼らの魂や心が澄んでおり、かつ、首尾一貫しているならば、結果は行動として表れるだろう。彼らもまた行動するタイプとなる筈だ。

複雑系の話に戻るが、非線形的モデルを用いることで、複雑系における、潜在的に危険な臨界点の位置を突き止めることさえ可能だったことを思い出されたい。このような臨界点とは、グルジェフがオクターヴの法則
http://blog.livedoor.jp/yoyochu/archives/53519764.html
の中で「半音」ないし「インターヴァル」(※原文では”stopinder”で、これは調べてみると、『ベルゼバブの孫への話』の17章他に出て来る言葉である由)と呼んでいるものにおそらく関係があるのだが、小さな変化でありながら途方もないインパクトを及ぼすもののことだ。

それは今、ここで起こりつつある。

というのも、この特定のリアリティにおける歴史の中の、この特定の時期にたまたま、カシオペアンズと称する伝道者がどこかに居て、神の元へと戻る道を探す人生を送っていた私の前に、彼らが偶然にも姿を現したからである。

たまたま私は、他の多くの人々同様、他者の自由意志を冒すことなしに彼らに奉仕しようという強力な意志と衝動を含む精神的な特質の持ち主だった。彼女はまた、速読術に習熟し、殆ど写真記憶のような正確な記憶力を持ち、かなり速いタイピング技術を獲得していた。上述の存在がコンタクトするのに、殆ど理想的と言える人間ではないだろうか?メッセージを公にしたいのなら、「歩く百科事典のようなワーカホリックのおしゃべり」と組むべきである。そして彼らはそうしたのだった。

同時に現れたのが、よく似た特質を持った世界クラスの物理学者で、彼は私とは異なるものの相補う流儀で、同じ答えを求めて地球じゅうを探し回っていたのである。という訳で、歴史上のこの特定の時期に、科学者と「歩く百科事典のようなワーカホリックのおしゃべり」とが出会ったのだ。2人は自分達が、それぞれの内心の衝動から、肌の色や目の色に至るまで、極めて似た存在であると気付いた。殆どまるで同じ生き物の2つの半身のようだったのである。

それだけではない。彼女は地球の変容という考えにとても夢中であり、彼は非線形力学の複雑さと複雑系を知っている。彼女は霊的な箱舟(ark)を探しており、彼の名もアーク(Ark)だ。彼は存在の本質であるエーテルを探しており、彼女の名前もローラ(L’aura)すなわち気(air)である。彼はフィレンツェに;彼女はフロリダに居る。彼は重力波に取り組んでおり:彼女は重力波の説明を探している。彼はマグリットの『ピレネーの城』という絵
http://hayurusakisaka.blog64.fc2.com/blog-entry-456.html
をあしらったウェブページを作ることに決めている;彼女はカシオペアンズに促されてピレネー山中の秘密の錬金術師たちを探すうち、アルカディアの(Arcadian)牧童の絵に引き寄せられている。カシオペアンズは彼女に対して、一度インターネットに接続すれば、彼女の人生は突然ドラマチックに変わるだろうと言うのである。彼のフルネームはアルカジス(Arkadiusz)だ。

これ以上に不思議な人々が居るだろうか?

さらに重要なのは、この2人が元来、何があっても他人の言葉を信用できないことである。そしてもし彼女たちが、何かのあり方を好まないときには、彼女達はなぜそうなのかを解明し、それからそれに対して非線形的に何か手を打つのである。

ここで思い出すのが、どうしてカシオペアンズが、私達の現実についてあのような恐ろしい事を言ったのかという疑問である。どうして彼らは、この世界にだけでなく、私達には知覚すらできないレベルにも、直視したくないような恐怖が存在すると教えたのだろうか?多分本当だろうがそんなことはどうでも良い。何と言っても恐ろしいのだ!どうして彼らは私達を怖がらせるのだろうか?

ジャガーを憶えているだろうか?ジャガーに出くわすと、永久に世界観が変わるということだった。

そして思い出されたいのが、一番重要な要素である:彼らがこれらのことを告げた相手が考える人々であり、さらに重要なことに、行動するタイプの人間であるということだ。迷路からどうやって抜け出したらいいのか考えている地球上の多くの人々のうちの、そのまた多くは、私達がここで行っていることに対して批判的であるが、そんな人々のうちどれくらいが、彼ら自身、違いをもたらすと思えるような事を行っているだろうか?彼らのうちどれくらいの人々が非線形的力学や複雑系についての知識を持ちつつ、ローカルなデバッグ・ユニットとして活動しているだろうか?

彼らのうちどれくらいが、1日10時間以上もかけて文書を集め、たとえ完璧でもなければ、正解でないとしても、助けになるような何かを書き、製作しているだろうか?彼らのうちのどれくらいが、個々人のリアリティや集合的リアリティという複雑系の中に、非線形的な変化をもたらそうと励んでいるだろうか?私達は既に、現在のリアリティが私達の欲するものでないと知っている。私達は既に、私達が1個のニューロンをもう1個と接触させれば、古い宗教や思想が機能しないことを理解している。というのも、連中は数千年来試みていながら、殆ど全く成功していないからだ。このような妄想に取り憑かれた批評家たちのうちのどれくらいが、希望を抱きつつ ー あえて言えば ー 自分達を信じさえしているだろうか?

私達がここで行っている事に対して一瞬でも時間とエネルギーを費やして攻撃している1人1人が日々、かっきりそれだけの時間をかけて、自分自身が情報を提供するためのウェブサイトぐらいは作っているのか知りたいものだ。どうか口に出したことを実行して、私達のように、本や学会誌、コンピューター、インターネット・アクセスに年間100万円をかけ、本当に他の人々の助けになるような情報を蓄積してもらいたいものだ。それから情報発信だ!だが、私がふさわしいと思うやり方で情報発信する自由意志を侵害しようとしないでもらいたい。信念があるのだろうから、仕事を見せて欲しい。

という訳で私達は、2つの地殻プレートがギザギザに噛み合うヘリに自分達が居るのに気付く。今まさに臨界エネルギーが流入しようとしており、爆発が起るのは分かっているのだ。この結果は予測できない。

さて、知識を求めることとは真理を求めることであるという考えに戻るとしよう。

私達はこの問題について多少の手掛かりを持っている:自由になるということだ。もし、求める知識が真理なら、それは人を自由にするのである。

しかし、自由になるとはどういうことだろうか?この自由(free)という言葉は、インド-ヨーロッパ基語のprieに由来し、これは「好きである、大切にする」という意味である。これはサンスクリット語の「望ましい(priya)」に関係がある。また、友達になるという語と同じ語根を持つ。

だから、自由になるというのは、友情や愛情のこもった親切心に満たされ、見ること経験することの全てを愛しく思うことなのである。自由になるというのは、どんな権力も私達からこのような感覚を取り上げることができず、オープンで、私達の知っていること全てを受け入れる知識のレベルに達していることを意味するのだ。そして知ることによって、私達は無条件に愛することが出来るのである。

友人の概念が自由や知識と関係あることは、古代の多くの教えの中に見つかる。スーフィーの師たちは「神の友達」と呼ばれた。だから、自由になるというのは、神と友達になることだと考えていい。しかし、友達に関して一番大事なのは、それがオープンであり、制限無しに受け入れようとするお蔭で知り合えた誰かであるということだ。という訳で私達は、一巡りして帰って来た。そして、自由になるために知る必要があるものとは神であると言ってよい。

使徒パウロは書いている。「なぜなら、神について知りうる事柄は。。。明らかだからです。。。神の永遠の力と神性は被造物に現れて。。。(い)ます。。。」 (ローマの信徒への手紙 / 1章 19-20節)。

この1節が明らかに示しているのは、世界とその中にある全ての事を研究することこそが、万人に可能な神への道だということである。それはまた、存在する一切は神であり、それゆえ、知るに値し、無条件にオープンであるということも正確に述べている。パウロは、信仰を捨てて「むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」(21節)人々についてコメントしている。というのも、神についての真の知識は、創造の研究と観察によって得られるからだ。彼はこのような人々が、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することも」(21節)しないと述べる。ここで私達が直面している考えは、知ることを拒絶し、知識を集め、学び、成長することを拒絶するのは、神を拒絶するに等しいというものだ!パウロは、「すべて人を裁く者。。。は、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」と述べる(2章 1節)。それでは、裁いて罪に定めるとはどういうことだろうか?知識に対するオープンさを制限し、予め形成された意見、仮定、あるいは答を持って問うことである。

このように語られた考えをより詳細かつ明らかに説くのがイブン・アル=アラビによるスーフィーの教えである。そこには、パウロがロマ書の第1章で述べたままの内容が見られ、このことから、存在する全ては存在しているという事実によって、神の臨在を何がしか顕しているということが言える。神とは定義によって、存在する全てを包含するものだからである。かくして、神はどこでも、万物の中に見つかり、あらゆる知識は神の知識なのである。

創造の原理を理解すると分かることがある。「知る」というダイナミックな行動は、神が創造を通して彼自身を知ろうと願ったが故に、創造の中に顕れているのだ。スーフィーが言うように、神は独りきりだったので、愛し愛される友達が欲しかった。この願いから創造は行われた。それ故、私達が宇宙やその中の何かについて制限や仮定を行うのは、神に制限を課すことになるのだ。

スーフィーの文献においては、発見は意識、自己への目覚め、知識を持つことと同義である。知識は集められるべき偉大な恵みであるが、誰もがそれを等しく持てないことは明らかである。このことは、『タラントンの喩え』(※マタイ25:14-30)の中で明らかに述べられている。この物語でイエスは、知識を3人の下僕に預けられた「財産」と表現している。2人の下僕は、預かったタラントン金貨すなわち財産を運用して増やしていた。実際の表現だと、彼らは投資したのである。すなわち、与えられたものを諦めてでも、何倍にも増やすリスクを取った。そして、死にもの狂いで自分の持つ僅かばかりの知識、すなわち財産にしがみついた下僕は、主人が気難しく要求が多いのを恐れて、それを地面に埋めたため、自分の僅かな分さえ失ってしまった。彼は、より多くの知識を得ることに対して心を閉ざしてしまったのだ。彼は自分が十分に持っているものと一人合点して、より多く求めるのを止めてしまったのである。彼は知識を否定することで、自分自身を否定してしまったのだ。

不公平に思われるかも知れないが、趣旨は明らかである。怖れを手放して、リスクを負う程度にまで多くの知識を求め、レベルを上げるため、たとえ一時的にあるレベルを諦めてでも、それを手に入れようと励むのが、神と友達になるための鍵なのだ。神が欲しいのは友達であって、こびへつらう、怖気づいた奴隷ではない。そして、知識を持っていない人が相手では、神はどうやってコミュニケートして友達になれるだろうか?

イブン・アル=アラビの啓示によれば、神はこう語ったという。「私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起った。。。」と。ここから分かるのは、神の愛とは、知識のための愛だということである。知り、また知られることである。真の愛とは知識を伴う愛なのだ。知識が無くては、愛は方向を見失ってしまう。それは砂漠に染み込む水のように分散し、バラバラになって、荒地を残す。スーフィーの愛は神に向けられている。これは神についての知識があってこそ可能だ。

という訳で、知識を獲得することの目的の1つは神の友達になる方法を知ることであると考えていいだろう。ここが実につまずきやすく、仮定に陥りやすいところだ。私達が宇宙の中に見出す属性やクオリティの1つ1つは、神の属性ないしクオリティであるに違いない。スーフィーはこれを「神の名前」と呼ぶ。神は多くの名前を持っているのだ。それぞれの名前は1対の反対の意味を表わす。「慈悲深き」神は「許し」によって知ることができ、「怒れる」神は「復讐」によって知られる。これらは単に2つ例を挙げただけだ。神の中に見分けられる関係の多様さは、宇宙の中の関係が多様であることの理由であり、根本原因である。万事は神の名前すなわち属性が無数に組み合わさった顕れであり効果である。神は沢山の顔を持ち、それらの全てが必ずしも見て気持ちがいいものではない。

あらゆる存在は、どうにかして神を探し求めている。私達の求め方が私達が抱く友情のタイプを決める。神は、私達が宇宙の友達であるのと同じタイプの友達である。この言明の重要性は計り知れない。私達が所与のいかなる顕現の本質的な属性をも真に見分け、分別できるのは、私達の経験の裏にある意味についての知識を通してのみであり、この結果私達は、「神の美しい顔」として知られる人々に向けて自由意志を行使できるのだ。これらは元型、すなわちザ・ウェイブ上の集中点である。

人はどうやって真理を獲得するのか?人はどうやって幻想を振り払うのか?人はどうやって光の知識と闇に通じる知識とを区別するのか?

これは諸要因の組み合わせによってもたらされる。最初はあらゆる形と種類の知識を獲得し集めることである。あらゆる科学と芸術はそれらが神の知識の器となることを意図してアプローチされる以上、知識が増大してこそ価値がある。というのも、実は全ての知識が神のものだからである。あなたの世界にある物質に関して、あなたが知識を多く持つほど、神の知識を受け取るためにあなたが準備した器は大きくなるのだ。

多くの人々にとって、様々につまずきの石となる言葉がここで登場する:信仰である。しかし、信仰とは、結局そんなに難しいことなのだろうか?それは純粋な意味では、経験と試練のお蔭で知識を心強く感じるということである。

しかし、もし信仰を経験し試すための知識を持っていないのならば、どうやって信仰を経験し試せばいいのだろうか?もし信仰が小さいのであれば、知識を通じて確固たるものにしなくてはならない。もし証拠が与えられれば、その証拠によって信仰が得られるとするならば、誰にでも信仰が、さらには信仰の徳が得られるだろう。だがこのようなやり方では、信仰に知識を結び付けることによって、内なる光を形成し輝かせているのに過ぎず、そんな事をしても、上昇の道をさらに進む上で何の価値もないだろう。信仰とは内なる光という自明の知識なのである。信仰とは知識の獲得によって真理および神を知ろうとする努力を通じて、自己の内に育まれる光なのだ。

全ては、信じることなく問いかけ(asking)つつも、答を全くオープンに受け入れることから始まる。というのも結局、仮定や回答の予想なしに求めるというオープンさが信仰の本質だからである。

そしてどうやら、このような質問を問うか問わないかが意識と無意識との違いを生み出すもののようである。もちろん、問うと主張しながら本当はそうしていない人々が居る;彼らは既に、彼らの心の中に住み処を持っている信念体系によって作られた答えを持っているのだ。しかし本当に問う人々は、迷路を進むために、その時々に行わねばならない決定や選択に直面している。彼らはこのような選択の方向次第で、迷路の中心か出口に出られることを期待しているのである。かくして、もし人が全くオープンな心で問うならば、彼らがオープンである各瞬間に、彼らは意識的で居られるのだ。問わない人々は無意識である;彼らは恐れの状態にある。

かくして、私達が問うた質問に対する答えを理解できるような、実際的な計画、知覚の様式が必要となる;私達の1人1人が、パワーを外部の何らかの、支配的な宗教や思想に手渡すことなしにである。私達は個人的なやり方で、宇宙と直接に交流することを学ぶ必要がある。というのも、このような存在の持つ創造的な力との直接的な交流においてのみ、私達は真の自分で居られるからだ。私達が、自らの力でもって選択を行いながら、迷路を進んで行くとき、私達は存在の自由を味わっている。1つの道が目的地に導かないことが分かると、私達は自由に方向転換して別の道を試すのだ。物質的であれ、あるいは思想的、宗教的であれ、あえて外部の何らかのパワー・ソースを信仰して目隠しされることを認めれば、壁に向かって、どこに着くかも分からないまま進んで行くよう強いられることはないだろうが。私たちは自由に存在しているのだ。

でも、どうやって?

私達は学ぶことに戻って来た。ここで私達は学ばなくてはならない。愛のごく僅かな違いと調子さえ分かれば十分なのであれば、実はここに居る意味は無い。しかし、先に出て来たeグループへの投稿者が指摘していたように、私達は愛し方を学ぶためにここに居るのである。彼との唯一の違いは、とんちんかんなことをして生徒に失敗させ挫折を味あわせる代わりに、カシオペアンズが私達に基本を教えてくれると約束してくれたことである。このような事は数千年来広められてきた殆どの教えでは、痛ましいことに、おそらく故意に省かれていたのだろうと思う。気付きの算術が出来ない私たちに、どうやって愛の微積分を学ぶことができようか?

博物学者で著述家のダイアン・アッカーマンは書いている:


---
(10ページ)
ガラスのプリズムを窓枠に置き日光をあふれさせると、色鮮やかなスペクトルが床に踊る。いわゆる「白」とは、とりどりの色からなる虹を小さな空間に押し込めたものだ。プリズムがその色を解放する。愛とは、感情の白色光だ。そこには、多くの感情が含まれるが、怠惰と困惑から、私たちは感情をわずか1語に押し込めてしまう。。。誰しも、愛がすばらしいものであり、なくてはならぬものであると認めている。ところが、愛とは何ものなのか意見の一致を見ることはないのだ。。。

愛。それは、歴史の流れを変え、怪物の気持ちをなだめ、芸術作品を生み出す刺激となり、孤独な人間に気力を与え、国家的なスキャンダルをあおりたて、成金を破産させ、国王たちを骨抜きにしてきた。かくも測り知れぬ強力な観念を表わすのに私たちは何とささやかな言葉を使っているのだろう。。。この言葉の起源を探ってみると、サンスクリット語のlubhyati(「彼は欲する」)にまでさかのぼる不明瞭で混乱した歴史がある。さらにその道をたどれば、きっと心臓の鼓動のように重い1音節の単語にまで行きつくのだろう。愛とは大昔から精神的な混乱であり、神秘の暗黒時代へとまっすぐに伸びていく根を持った文明誕生以前からある欲望なのだ。

愛という単語の使い方はずさんなので、ほとんど意味を持たないか、それこそあらゆるものを意味してしまう。。。愛は、犯罪の動機としてどこででも人々から納得されてしまう。「ああ、奴は恋をしていたんだ。ならば分かる」と私たちはため息をつく。実際、ヨーロッパと南アメリカには殺人ですらも「情熱ゆえの犯罪」ならば情状酌量される国がある。愛とは、真理と同様に、破りがたい防壁だ。
---
『「愛」の博物誌』岩崎・原田訳。


この愛と呼ばれるものに関して、私達はどんなことが言えるだろうか?愛が私達の人生に及ぼす影響は数多いのだが、それでもそれらを同じ言葉の下に一括りにしていいのだろうか?愛というテーマに関して書かれた最も有名な文章の1つが、使徒パウロによるコリント人への手紙の第13章である:


---
If I speak in the tongues of men and of angels, but have not love, I am only a noisy gong or a clanging cymbal.
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

And if I have prophetic powers – that is, the gift of interpreting the divine will and purpose; and understand all the secret truths and mysteries and possess all knowledge, and if I have faith so that I can remove mountains, but have not love I am nothing – a useless nobody.
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

Even if I dole out all that I have to give food to the poor, and if I surrender my body to be burned, but have not love, I gain nothing.
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

Love endures long and is patient and kind; love never is envious nor boils over with jealousy; is not boastful or vainglorious, does not display itself haughtily.
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

It is not conceited – arrogant and inflated with pride; it is not rude, and does not act unbecomingly. Love does not insist on its own rights or its own way, for it is not self-seeking; it is not touchy or fretful or resentful; it takes no account of the evil done to it – pays no attention to a suffered wrong.
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

It does not rejoice at injustice and unrighteousness, but rejoices when right and truth prevail.
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

Love bears up under anything and everything that comes, is ever ready to believe the best of every person, its hopes are fadeless under all circumstance and it endures everything without weakening.
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

Love never fails – never fades out or becomes obsolete or comes to an end. As for prophecy, it will be fulfilled and pass away; as for tongues, they will be destroyed and cease; as for knowledge, it will be superseded by truth.
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

For our knowledge is fragmentary and our prophecy is fragmentary.
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

But when the complete and perfect comes, the incomplete and imperfect will vanish away – become antiquated, void and superseded.
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

When I was a child, I talked like a child, I thought like a child, I reasoned like a child; now that I have become a man, I am done with childish ways and have put them aside.
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

For now we are looking in a mirror that gives only a dim reflection of reality as in a riddle or an enigma, but then, when perfection comes, we shall see in reality and face to face! Now I know in part; but then I shall know and understand fully and clearly, even in the same manner as I have been fully and clearly known and understood by God.
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

And so, faith, hope, love abide; these three, but the greatest of these is love.
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
---
コリントの信徒への手紙一 / 13章1-13節
(※ローラが引用しているゾンダーヴァンの敷衍版(amplified)聖書と日本の新共同訳とではこれぐらい訳文の長さが違います。以下では必要に応じて、ゾンダーヴァンからの和訳を付記します。)


先ほども言ったように、パウロによる愛の議論は、愛に関する文献の中で最も有名であり、また、そうした文献に最もしばしば引用されるものの1つでありながら、最も十分理解されていないものの1つでもある!

どうしてそうなのだろうか?ジェームズ王欽定訳聖書においては、上の訳で「愛」と訳されていた言葉はエリザベス朝の英語でcharity(※現代の意味は「慈善」)と訳されていた。だから、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」の”Faith, Hope, Love”は何百年もの間、“Faith, Hope, Charity”だったのである。クリスチャンは何世代にも亘って、慈善的行為に従事してきたが、これは、それが求められていると信じてのことだった。そしてこのような、愛を慈善とする概念化が私達の意識に繰り返し教え込まれたのである。他にも幾つか可能な言葉があったのに、どうして翻訳者がcharityを選んだのか私には分からない。しかし、charityの語源は、インド-ヨーロッパ基語のkaroであり、「好むこと、願うこと」という意味である。これが後にゴート語のhorsとなった。姦通者という意味である。

いずれにせよ、ギリシャ語のagapeeを表わすのにcharityが用いられたのであるが、「アガペー」の実際の意味は「懇親会」である。これは「初期のキリスト教徒たちが一緒に食べた食事」のことだと言われる。この「懇親会」に関しては、多くの注解や後代の解釈が存在しているが、それらのいずれもパウロがここで語っている通りのことを適切に説明していない。彼が抱いていたのは、明らかに私達からヴェールで隠された、何か非日常的な概念だった。

だから、今すぐこの愛に関するエッセーから、本質的な構成要素以外を取り除いてみよう。それにしても、私達の社会における愛の基準は基本的に、新約聖書のこの章に基礎を置いているのである。特に以下の部分に注意されたい:「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」

愛とは、経済的ないし霊的に貧しい人々に施しを行うというのとは明らかに違った何かである。キリスト教の歴史において、貧しい人々に与えた事や、「わが身を死に引き渡(した)」事は確かに多くあろうが、その殆どは操作と支配のために行われたものだ。


990828
---
Q: 例えば:肉体とは罪深いものだと信じて、すすんで荒行にいそしむ人々も居るわね。これこそトカゲが仕組んだ企みなのよ。何世紀もの間、連中は人々に苦行をさせたかった。連中のこの重大な企みによって、セックスその他、快をもたらすものや望まれるものが否定されてきた。その結果、人々は苦行にいそしんで来たってわけよ。そして実際、人々を。。。

A: 苦行を求める人は、将来報酬を得ることを期待してそうする。彼らとて、結局は何かを所有したいことに変わりはない。
---


苦難に耐えると言えば、パウロのエッセー中で関連する部分とはもちろん:


---
Love endures long and is patient and kind; love never is envious nor boils over with jealousy; is not boastful or vainglorious, does not display itself haughtily.
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

It is not conceited – arrogant and inflated with pride; it is not rude, and does not act unbecomingly. Love does not insist on its own rights or its own way, for it is not self-seeking; it is not touchy or fretful or resentful; it takes no account of the evil done to it – pays no attention to a suffered wrong.
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
---


確かに、謙虚さ、忍耐、親切、自己犠牲等々といった外見的な振る舞いに磨きをかければ天国に行けると考えて、行動を変える人は多い。これらもまた以下の例である:「苦行を求める人は、将来報酬を得ることを期待してそうする。彼らとて、結局は何かを所有したいことに変わりはない」

無条件の愛。これはあらゆる種類の宗教や思想、昨今では特に、ニューエイジの知恵の御用商人によって宣伝されている。それは万能薬すなわち、私達の抱える問題全てに対する解決策だと考えられている ― 私達が無条件に愛することさえできれば、生活中のあらゆる障壁は崩れ去り、私達は邪魔されずに宇宙意識の山頂へと登ることができるのである!

パウロの上の言葉は貧しい人々に施したり、わが身を死に引き渡したり、謙虚であったり、無私無欲だったり等々といった、私達が普通無条件の愛に結び付ける特質の全ては、彼の言っている愛無くしては何の価値も無いことを示している。だから、パウロの定義に従えば、私達が愛の行いと定義するようなこれらの行いは、明らかに愛ではないのである。

私達は彼が、人々の外見的な行為だけを見て論じており、内心の本当の気持ちを顧慮していないと主張することもできる;しかし、私はそう簡単なことではないと、すなわち、彼はそんなつもりではないと思う。答は前述の言葉の中に見つかる:


---
Love never fails -– never fades out or becomes obsolete or comes to an end.
愛は決して滅びない − フェードアウトしたり、陳腐化したり、終わったりしない。
As for prophecy, it will be fulfilled and pass away; as for tongues, they will be destroyed and cease;
預言に関して言えば、それは成就し、廃れるだろう;異言に関して言えば、それらは滅ぼされ、止むだろう;
as for knowledge, it will be superseded by truth.
知識に関して言えば、それは真理に取って代られるだろう。

<新共同訳>愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
---


ここでパウロは、愛はフェードアウトすることも終わることもないと言っている。それから彼は終わってしまう事をリストアップし、これに続けて、知識も真理に取って代わられるだろうと述べる。つまり、愛と真理は同じものなのである。

しかし、知識は真理ではないのか?それはあなたの言葉の定義次第である。パウロは言う:


---
For our knowledge is fragmentary and our prophecy is fragmentary.
というのも、わたしたちの知識も断片的だし、わたしたちの預言も断片的だからだ。
But when the complete and perfect comes,
しかし、完全なものが来たときには、
the incomplete and imperfect will vanish away
不完全なものは消え去るだろう
– become antiquated, void and superseded.
― 時代遅れの虚しいものとなり、取って代られるのだ。

<新共同訳>わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
---


多くの人々はこの1節を、イエスが来るとき不完全なものは消え去るという意味に解釈している。しかし、この前の節でパウロは既に、来たるべきものが何か述べていた:真理である。断片的な知識と断片的な預言は、真理に取って代られるのである。だから、パウロが述べているのは、知識と預言の完成についてなのだ。これまた注意すべきなのは、彼の預言という言葉の使い方から、知識が神意と目的を表わしていることが分かる点であり、故にこれは、実際にはレベルないしタイプが別の知識のことなのである。つまり、パウロが述べているのは、第4密度における存在状態のことだと思われる。彼は言う:


---
For now we are looking in a mirror that gives only a dim reflection of reality as in a riddle or an enigma,
というのも、私達が今見ているのは鏡であって、そこにはリアリティが謎としてぼんやり映っているだけだからである。
but then, when perfection comes, we shall see in reality and face to face!
しかしその後、完全なものがやって来て、私達は実際に顔を合わせて見るだろう!
Now I know in part;
今の私には部分的にしか分からない;
but then I shall know and understand fully and clearly,
しかしその時には、私は完全かつ明らかに知り、理解するだろう。
even in the same manner as I have been fully and clearly known and understood by God.
それは、神がこれまでも私のことを完全かつ明らかに知り、理解しておられたのとさえ同じ様にである。

<新共同訳>わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
---


最初に彼は、私達のリアリティについての私達の知識は断片的だと ― 鏡にぼんやりと映ったもの、謎だと言い、また、「完全なものが来たときには」、すなわち、上述の彼の定義だと真理がやって来たときに、そのときになって初めて、私達は「実際に顔を合わせて!」見ることができるのである。さらに彼は敷衍してこう言う。「今の私には部分的にしか分からない;しかしその時には、私は完全かつ明らかに知り、理解するだろう。。。神がこれまでも私のことを完全かつ明らかに知り、理解しておられたのと同じ様にである。」

これで分かるように、パウロが懸命に伝えようとしたのは、愛と真理とが同じものであり、絡み合っていて、切り離せないということなのである。そしてこれは、カシオペアンズが知識について説明した時の定義なのだ。「愛するためには知らなくてはならない。そして、知るとは光[すなわち真理]を抱くことである。そして、光を抱くとは愛することである。そして、知識を持つとは愛することである」 私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起った。だから私は、私が知られるように人間を創造したのだ。


哲学者のP.D.ウスペンスキーは書いている:


---
(197ページ)
生命は目に見える部分だけで汲み尽くされるものではなく、その背後に「目に見えない」世界、新鮮で理解を超えた関係性や力をもつ世界全体があることを知った上で生命に近づくならば、新たな予期せぬ無限性を露わにしないような側面は何もない。最初の鍵は、目に見えない世界の存在を「知ること」である。
---
※『ターシャム・オルガヌム』高橋訳


人生のある側面においては他の側面におけるよりも、神の目に見えない性質とより直接に触れるものである。愛と死とは、このようなものの2つである。

ヒンズー教の神話では、愛と死は1なる神が持つ2つの顔である。自然の再生力の神であるシヴァは同時に、暴力的な死、殺人、破壊の神でもある。彼の妻パヴァーティーは美と愛と幸福の女神であるが、彼女はまた邪悪、不幸、病、死の女神であるカーリでもある。そしてシヴァとパヴァーティ/カーリは共に知恵の神であり、善と悪の知識の神なのである。


---
愛と死は我々の世界をあたかも別々のものの如く進んでいく。それらは真にこの世界の底流にあり、至る所に存在するが、存在の別の様式に属しているように見える。

エドワード・カーペンター『愛と死のドラマ』
---
※ウスペンスキー、『ターシャム・オルガヌム』高橋訳197ページ。


死の哲学を知っている、あるいは教えると主張する人々は常に存在してきた ― 曰く、私達は1度だけ死に、救われるか、地獄に落ちるかすると。曰く、私達は死んで転生すると。あるいはまた曰く、私達は死ぬと無に帰すのだと。実際、全ての宗教は死についての説明の仕方に過ぎないということもできる。

問題は愛である。愛の問題は私達にとって、通常既知のものとして、すでに理解され、知られたものとして受け入れられている。様々な宗教や哲学体系も愛についての教えには比較的違いがない。だが、愛は死と同じくらい大きな神秘であるという事実に変わりはない。

ダイアン・アッカーマンが述べる通りである:


---
(16ページ)
戦争や憎悪、犯罪、偏見などについては数え切れないほどの研究がある。社会学者たちは、マイナスの面を持った行動や感情の研究のほうがお好みなのだ。ひょっとすると、愛それ自体を研究することになると落ち着かない思いをするのかもしれない。ここで、「それ自体」と書いたのは、社会学者たちもじつは愛の研究をしているからだ。彼らの研究は、愛が不足し、裏切られ、ねじ曲げられ、奪われたときに何が起きるのかの研究であることが多いのだ。
---


だが、本当にそうだろうか?P.D.ウスペンスキーは書いている:


---
(199ページ)
実際には愛は「宇宙現象」である。その中では人間、そして人類は単に付随的なものでしかない。この宇宙現象は人々の生活や魂にはほとんど関心を持たない。太陽が人間の取るに足りない出来事や目的に利用されるために光を放射するのではないように。もし人間が、その意識の片隅ででもこのことを理解するならば、彼の前には新しい世界が開け、人生を通常の観点から眺めることが非常に奇妙なことのように思われるだろう。そして人は理解するだろう。「愛」とは普通考えられているのとはまったく異なったものであり、この世の人生の小さな出来事とはまったく異なった序列に属していることを。

時々人々に乗り移って彼らを支配し、人間を道具として自らの不可思議な目的を果たそうとするのは、おそらく、特別な世界に住む精霊たちなのかもしれない。。。もしかしたら愛とは偉大な賢者による錬金術の業であって、その中で人々の魂と体は、何か神秘的な目的を果たすために誰かにとって必要な「賢者の石」、「生命の錬金薬液」、あるいは何か特別な「電気」をその中から取り出すための要素としての役割を演じているのではないだろうか。

。。。人は、霊的にも物質的にも、愛を何とかして服従させようとし、自らの目的に従わせようとする。しかし愛は何物にも従属することはあり得ず、神さえも自らの目的に従わせようとする取るに足りない死すべき者たちに容赦なき復讐を浴びせる。

愛の「起源」について誤解しているために、人は愛の「結果」についても誤解している。。。「種の存続」である。しかしこの客観的結果は、生まれるかどうかは別として、いずれにせよ愛の外的、客観的側面の結果であり、受胎という物質的事実の結果にすぎない。

。。。しかし、この観点から愛を見るならば、そこには必要以上の力が働いていることを認めざるを得ないだろう。この中に愛の真の本質への鍵がある。そこには必要以上の力がある。それも無限に多くの。実際には、種の存続という目的のためには、人類に内在するこの愛の力はほんのわずかな部分が使われているに過ぎない。

では、残りの大部分の力はどこに行ったのだろうか?

ロウソクを考えてみよう。それは光を発する。しかし光以上に多くの熱を放射する。光を発することがロウソクの直接の役割であり、熱の役割は間接的なものであるにもかかわらず、光よりも熱のほうが多い。ロウソクは光のための炉である。光を与えるためにはロウソクは燃えなければならない。燃焼はロウソクから光を得るために必要な条件である。燃焼なしで済ますことはできない。しかしその燃焼によって熱が生じるのである。一見すると、ロウソクによって生じた熱は非生産的に浪費され、時には余計な、不快で邪魔なものに思われる。もし部屋全体がロウソクで照らされたら暑くなりすぎるだろう。しかし、ロウソクの光は燃焼 ― 熱の発達と発達したガスの白熱光 ― がなければ存在しない。

同じことは愛についてもあてはまる。子孫を生じさせるために使われる愛のエネルギーはほんの一部に過ぎない。エネルギーの大部分は父親と母親の個人的感情に費やされるように見える。

春、愛の感情の最初の目覚めと共に、鳥は歌い始め、巣作りを開始する。もちろん実証主義者はこのすべてを単純に説明しようとするだろう。鳥が歌うのは雄と雌を引きつけるためだとか何とか。しかし実証主義者ですら、この歌には単なる「種の存続」に必要な以上のものがあることを否定することはできないだろう。もちろん、実証主義者にとって鳥の歌は「付随的」な「副産物」にすぎない。しかし現実にはこの歌声は、この種にとっての主な役割、存在意義かもしれず、自然がこの種を創造したことの目的なのかもしれない。そしてこの歌声は雌を引きつけるために必要なのではなく、我々が時々漠然と感じるだけの何らかの自然の調和に寄与しているのかもしれない。

だから、個人の観点からは愛の付随的な役割と見えるものが、種の主な役割に役立っているのかもしれないということが分かる。

。。。愛は活動への渇望を呼び起こす。「本能」がこの活動への渇望を支配する。。。愛の最初の目覚めと共に − 活動が始まる。

人間の中にも同じものが見られる。愛は創造的な力である。そして愛の創造的な力は1つの方向だけでなく、様々な方向に表現される。おそらく、まさにこの愛の力(エロス)によって、人類はその主な役割を果たすよう促されるのではないか。我々はそれが何かわからず、時々漠然と感じるのみであるにしても。

創造、すなわち「思想の誕生」が愛から来た光だとすれば、この光は「偉大なる焔」から来る。全人類と全世界がその中で燃焼しているこの永続する焔の中で、あらゆる人類の精神と天才が発展させられ、精錬される。そしておそらく、まさにこの焔から、またはその助けを借りて、物質の束縛を逃れる者たちを導く新しい力が出現するのであろう。

私は愛を理解するという問題に長く留まり過ぎたかもしれない。しかしそれは決定的に重要なことなのである。神秘の門口に近づいている大部分の人々にとっては、多くのものが明らかにされ、また閉ざされるのはこの側面からであり、多くの人々にとってまさにこの問題が大きな障害となっているのである。

愛の中で最も重要な要素は、存在しないところのものであり、普段の日常的な物質的観点からはまったく存在しないものである。この存在しないものを感じること、そして、奇跡の世界(真の実在世界)との間に成し遂げられた接触の中に、人間生活における愛の意味の核心がある。

(260ページ)
。。。すべての人生、あらゆる出来事、事故、興奮、誘引などは人を常に何らかの知識へと導くものである。あらゆる人生体験は知識である。人間の中にある最も強力な感情は、未知のものへの欲求である。愛でさえ(そのためにすべての他の感情が犠牲にされるのであるが)、未知のものへの誘因、新しいものへの好奇心なのである。

人は「自己」の存在と、自己がその一部である「世界」の存在を認識する。自己と自己との関係、自己と世界との関係が「知識」と呼ばれる。自己と世界に対する関係の広がりと深まりが知識の拡大である。

人のあらゆる知的能力、内的生活のあらゆる要素 − 感覚、表象、概念、理念、判断、結論、感覚、感情、そして創造でさえも − これらすべては我々が所有すべき知識を得るための道具である。

進化論者。。。は、生存競争と自然淘汰が現代人の知性と感情を創造したと主張する。すなわち、知性と感情は生活に役立ち、個々人の生命や種の生命を保護するためにあり、その目的を離れて、それ自身では何の意味も持たないと言う。

これに対しては、(以下の)反駁。。。が可能である。というのは、もし知性が存在するのであれば、知性なしに存在するものは何もないからである。生存競争と適者生存が、真に生命の創造においてそのような役割を果たしているのであれば、それは偶然ではなく、我々の知らない知性の生み出したものなのである。そして、他のすべての物と同じように、それもまた知識に役立っているのである。

しかし我々は自然現象や自然法則の中に心が存在することを認めていない。なぜなら我々は常に全体ではなく「部分」を見ており、我々が研究しようとする「全体」を見ないからである。人間の小指を研究しても人間の知性は分からない、同じことが自然にも当てはまる。我々は常に自然の小指を研究しているのである。このことを認識して、すべての生命は全体の中の部分の顕現であるということを理解すれば、その時に初めて全体を理解する可能性が生まれる。

(262ページ)
個々人の人生は、「我々の内に生きている偉大なる存在」の生涯の1刹那なのである。。。これら高次の存在の心は低次の生命と離れて存在するのではない。それらは同一物の2つの側面である。3次元世界では「単一」に見える人間の心が、低次元世界では多くの生命という幻想を生み出しているのかもしれない。

我々は物の見方、考え方を知らないので、生命と心はお互いに異なる分離したもののように思っている。このような考え方が生まれるのは、我々が自分自身でつくりあげた区分の枠組みから抜け出すのが極めて困難なためである。我々は木の生命を「この木」の生命として見る。そして、木の生命は何かの心の表現であると告げられると、我々はそれを、「この木」の生命が「この木」の心の表現であるという風に解釈する。

これはもちろん3次元的思考、「ユークリッド的知性」から来る愚かさである。「この木」の生命はその種または類の心の表現であり、おそらくは全植物王国の知能の表現なのである。

同じように我々の個人的な生命も何か偉大な知性の表現である。その証拠は、我々の人生は知識を獲得するという過程を抜きにしては何の意味も持たないということである。思慮深い人間は、このことに気づいて、以前は無意識に従っていた方向を意識的に辿り始める。そしてそのときに初めて、人生の意味の欠如に苦痛を感じなくなるのである。

知識の獲得が世界における我々の機能なのであるが、それは知能によってのみ達成されるのではなく、我々の全存在、全生命、人間社会の全生命、また組織、制度、全ての文化、全ての文明、そして人類の中で知られていること、知られていないことすべてがそれに関わっている。我々は知る価値があると思うことを知るのである。

人間の知的側面に関して、その目的が知識の獲得にあるということについては、疑いは起こり得ない。人間の知性は、そのあらゆる従属的な機能を含めて、知識の獲得のために存在しているということについてはすべての人が同意する。もっとも非常にしばしば「知る能力」は従属的なものとみなされているのだが。しかし感情についてはどうだろう。喜び、悲しみ、怒り、恐れ、愛、憎しみ、誇り、共感、嫉妬などについてはどうだろうか。美的感覚、審美眼、芸術的創造に関してはどうか。倫理的感覚や宗教的感情、信仰、希望、崇敬などの人間活動に関しては、事情は明らかではない。一般に、あらゆる感情やあらゆる人間的活動が知識に役立つとは思われていない。

通常「感情的なもの」は「知的なもの」に対立させられる。「ハート」は「理性」に対立する。「冷たい理性」あるいは知性が一方に置かれ、他方の側に感覚、感情、芸術的感覚が置かれる。そして、それとはまったく別に、倫理的感覚、芸術的感情、「霊性」が置かれる。

ここでの誤りは、知性と感情という言葉の解釈の中にある。

(265ページ)
霊性は知性や感性に対立するものではない。それは知性や感性のより高度な表現であり、飛翔なのである。理性には限界がない。

人間にとっては理性の成長は知性の成長であり、審美的、宗教的、倫理的感情のような高次の感情の成長を伴っている。それらは成長するにつれてますます知性化されていく。同時に知性は感情に満たされるようになり、知性は「冷たく」あることを止める。こうして知性と高次の感情との融合から「霊性」が生まれる。知性は感情から霊化され、感情は知性から霊化される。

(267ページ)
理論的には、あらゆる感情は知識に役立つ。すべての感情は何らかの認識の結果として生じる。。。疑いなく、恐怖によってしか知り得ない関係性というものが存在する。恐怖を経験したことのない者は自然や人生における多くの物事が決して理解できない。。。

(268ページ)
感情の成長の徴は、個人的な要素からの解放と、その高次の界への移行である。感情が個人的要素から自由になることは感情の認識する力を高める。なぜなら感情の中に個人的要素があればあるほど、錯覚へと導かれやすくなるからである。個人的感情は必ず歪められたものであり、常に不公平である。なぜならそれは自分を他のすべてのものと対立させるからである。

(270ページ)
だから、正しい感情的知識のための課題は、個人的な立場以外の立場から人々や世界を感じることである。ある人が感じる範囲が大きくなればなるほど、その感情が与える知識は深いものとなる。

寺院から両替商を追い出し、ファリサイ派の人びとを非難したキリストはまったく柔和でも穏健でもなかった。柔和さや穏健さがまったく美徳ではない場合というものがある。愛、共感、憐れみという感情は非常に容易く感傷主義、弱さに変化する。そうした場合それらは当然「知識の欠如」、すなわち「物質」に役立つに過ぎない。

感情を純粋な感情と不純な感情に分ける方法もある。その区分は誰もが知っており、実際その言葉を使っているが、その意味はほとんど分かっていない。。。

通常の道徳は。。。感情を外的な特性に応じてア・プリオリに純粋なものと不純なものに区分する。さらに、すべての「肉欲」は「不純」のカテゴリーに入れられる。しかし実際には、当然のことながら、「肉欲」は他のすべての自然な感情と同じくらい純粋である。。。

不純な感情は、汚れたガラス、汚水、濁った音とまったく同じであり、無色透明ではなく、異質物や他の感情の名残が含まれた「不純な混合物」である。。。純粋な感情は、知識が伝えようと意図する明確で純粋なイメージを与える。

。。。少しでも通常の道徳的な枠組みを捨てるよう試みるなら、物事はもっと単純であること、それ自体の性質として不純な感情というものは存在しないこと。。。が分かるであろう。

「ソロモンの雅歌」の官能性のように、純粋な官能性というものも存在する。それは宇宙生命の感覚にまで達し、それによって人は大自然の鼓動を聞くことができる。そして他の感情と混ざった不純な官能性もあり、それは道徳的観点からは善いものだったり悪いものだったりするが、等しく官能性を濁らせる。

純粋な同情、そして見返りを計算した不純な同情というものがある。知りたいという純粋な欲求、知識そのもののために知識を求める渇望があり、知識から得られる利益や得を考慮した知識の追求がある。

外的な表現としては純粋な感情も不純な感情もほとんど違わない。チェスを指す2人の人間は、外的な態度は同じに見えても、一方は野心に駆り立てられ、勝利を熱望しており、対戦相手に対する不快な態度(懸念、良い手への妬み、苛立ち、嫉妬、憎しみ、勝利への期待)で一杯である。しかし相手の方は自分の前にある複雑な数学的問題を解くのに没頭して、対戦相手のことなどまったく念頭にないかもしれない。

外面的には同じに見える感情についてのこのような区分の例は、人間の芸術的、文学的、科学的、社会的活動の中に、そして霊的、宗教的活動の中にさえ見ることができる。すべての領域において、自己中心的要素を完全に克服することによってのみ、世界と自己の正しい知識に達することができる。自己中心的要素に色づけられたあらゆる感情は、光線を屈折させ、世界像を歪める凹凸ガラスのようなものである。

よって、感情的知識の問題は、知識の道具として役立つような感情を適切に準備することにかかっている。

「幼子のようであれ。。。」「ハートの純粋な者は幸いである。。。」という福音書の言葉は、まず感情の浄化について語っている。不純な感情によって正しく知ることはできない。従って、世界と自己の正しい知識を得るためには、人間の中で感情の浄化と昇華の仕事が進行しなければならない。

。。。人に知識をもたらす感情や、人を迷わせる感情というものがある。。。
---
※『ターシャム・オルガヌム』高橋訳


ウスペンスキーが論じているこうしたことの全ては、まさに私達が感情の生物理学的基礎の研究で明らかにしようとしていることである。プログラムされた感情は不純であると彼は言う。自己中心的要素は、このような感情の中に大いに注ぎ込まれ、それらの大部分は私達の行動を無意識のうちにコントロールするのである。ここで私達が試みているのは、捕食者による心のコントロールを克復するための基礎を打ち建てることであり、霊性という高次の感情を経験的に確固たるものにすることである。上でウスペンスキーが言っているように、「霊性は知性や感性に対立するものではない。それは知性や感性のより高度な表現であり、飛翔なのである。知性と高次の感情との融合から『霊性』が生まれる。知性は感情から霊化され、感情は知性から霊化される」

思い出されたい:ジャガーに出くわすと世界観が変わるのである。そして一度ジャガーに出くわし、一度私達には「私達なりにしかできない」ことが分かったら、アークの日記にあった言葉を思い出そう:


---
だから、仮説を述べるとしよう。私が述べることの出来る唯一の理に適った仮説は、グルジェフの教えにある知られざる体系からもたらされるものだ。この体系によれば、世界にはある目的があるという。これによれば、必ずしも万事が上手く機能していないという。これによれば、宇宙の構造には何がしかのバグがあるという。

メタ言語を用いれば、このようなスケールのどんなプログラムにも必ずバグがあると証明することが十分できそうだ。だから、宇宙はバグのあるプログラムである。だが、その中には自己改善能力がビルトインされているのだ。

かくして、このような特定の目的を持って生まれてきたユニットが存在する:デバッグの方法を発見できる程度まで十分に自己進化するという目的である。
---


それでは、今から私達は何をしようか?もちろん、宇宙のデバッグである。まずは私達の心から取り掛かるとしよう。


(ザ・ウェイブ終わり)
posted by たカシー at 12:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。