2013年08月31日

ザ・ウェイブ 第71章:たとえ、人々や天使、はたまたジャガーの異言を語ろうとも:愛と複雑系の非線形力学

http://cassiopaea.org/2012/03/30/the-wave-chapter-71-if-i-speak-in-the-tongues-of-men-and-angels-or-jaguars-the-nonlinear-dynamics-of-love-and-complex-systems/
ザ・ウェイブ 第71章:たとえ、人々や天使、はたまたジャガーの異言を語ろうとも:愛と複雑系の非線形力学

(※コリントの信徒への手紙一 / 13章 1節
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル)


マレイ・ゲルマンは著書『クォークとジャガー』に書いている:


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(25ページ)
私はまだ野生のジャガーを見たことがない。中南米の熱帯林に何度も出かけ、そこを流れる川を船で行ったり来たりしたが、この斑点を身にまとった巨大な動物を目の前で見るという、心臓が止まるような一瞬を、まだ経験したことがない。ジャガーに出くわすと世界観が変わるよ、と友だちはいうのだが。

(34ページ)
。。。アーサー・シーの詩に曰く、「クォークの世界は、夜に徘徊するジャガーと、あらゆる点でかかわりをもっている」

ジャガーは、私たちの住む世界の複雑さ、とくに複雑適応系に見られる複雑さを表わしている。。。クォークとジャガーのイメージは、私が単純なものと複雑なものと呼ぶ、自然の2つの面を申し分なく表わしているように思える。一方には、物質と宇宙の基礎をなす物理学の法則が、もう一方には、私たちがその一部であり、直接感じることのできる複雑に入り組んだ世界がある。。。ジャガーは。。。とらえがたい複雑適応系のメタファーとなっている。。。複雑適応系を解析的に扱うことはまだできないが、その刺激臭をやぶのなかに嗅ぐことはできる。
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野本訳。


この前の数章で、私たちはジャガーに出会った。そこではあなたの一番ひどい悪夢から生まれた現実について述べた。あなた方の中には、本当にジャガーの姿が見え、その刺激臭を嗅いだ人たちも居るだろう。中には自分の目を覆い、鼻を覆って、恐怖から逃れ、もっと居心地の良い信念体系の安全さの中に避難した人も居るのではないか。後者の人々はカシオペアンズが提示しているのもまた「この世界は呪われていて、救われるのはほんの一部だけ」という長広舌の1バージョンに過ぎないと結論付けてしまったのだ。この点に関して、イギリスの小説家ドナルド・ジェームズ(またの名をドレスデン・ジェームズ)の言葉を引用しよう:


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嘘が深く信じられていればいるほど、真実が明らかになったときの興奮も大きい。人々は地球が丸いことに興奮したのではなく、平らではなかったことに興奮したのである。巧妙に包み隠された嘘八百が世代を超えて、大衆によって徐々に受け入れられていった時代には、真実は全く非常識に思われ、語り手は荒れ狂う基地外とみなされた。
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あなたがジャガーを見て、匂いを感じたにせよ、あるいはその存在を否定し、鼻を巧妙に包み隠された嘘という香水付きのハンカチで押さえたにせよ、いずれにしても少し時間を割いて、昨今の状況について話すべき時だろう。1994年7月16日に「新人類創造プロジェクト」に関する情報がもたらされ、プロジェクトの終わるのが13年後の未来だと言われたのだった。それは2007年頃にあたる。私たちは逃げ場所を求めて走るか、ひざまずいて祈るかするべきだったのだろうか?見事に直線的な思考パターンだ。

2007年は過ぎて行った。本巻を印刷のために編集していた頃、このように考えていた人にぴったりの内容のセッションがあった:


100722
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=55036654
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A: 前に言ったのを憶えているかな?地球変化が起こる直前に人々は「侵略」に対抗すべく団結するだろうってね?

Q: (L) ネフィリムがスタンガンを持ってやって来るとか、その類のことについて話してたわね。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32086395&comm_id=2590126
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=28741606&comm_id=2590126
だけど、どうやらサイコパスが新ネフィリムだということのようね。連中は既にスタンガンを使ってるわ − テーザーをね。
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2625893/4406538
それから私達は、連中がニセのエイリアンによる侵略を演出しようとしているのかと聞いたのよ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27165070&comm_id=2590126
このディスクロージャー問題とは全て、人々にエイリアンによる侵略が起こるだろうことを示そうとし、何らかのニセのエイリアンによる侵略に備えさせようとするものだろうってね。そしたらあんたたち、そうだ、だけど、その前にホンモノの侵略の方が起こるかも知れないし、あるいは地球の変化が起こるかも知れないって言ったのよ。今では重くのしかかって来ていて、益々はっきりとしてきた事実があるんだけど、それはエイリアンの密度越えのエージェントとしてのサイコパスがこの世界を支配していれば、エイリアンによる侵略なんて必要無いということよ。ふと思ったんだけど、あんたたちがずっと前にこのことを言った時には、殆ど既に侵略は起きてたのね!それって、今、ここでのことなのよ。サイコパスが政権の座に居るってことがそうなんだわ!

みんな、何らかのエイリアンを予期し待ち受けてたわ;そう、エイリアンは超自然現象だと思ってね。そう、ある程度の物質性は備えているけど、私の印象では、そんな物質性というのは必ずしも備えていないのよ。。。何て言うのかしら?持続力はね。その物質性は、私達のリアリティでは、ちゃんと「振動し」ないのよ。出たり入ったりはできるんだけど、ここに留まることはないの。だから連中にはエージェントが必要なのよ。連中は常にエージェントを必要としてきたの。連中はコントロールや操作を行うのに、いつだって外見は人間であるような存在を必要としてきたのよ。さらには憑依ないし、起動するよう「ダウンロードさせる」ような奇妙なことまでしてね。連中ったらまるで、どこか次元を超えた場所にある、コントロール用のコンソールか何かの前に座って、私達がリモコンのおもちゃをコントロールするみたいに、連中のエージェントをコントロールしてるのよ。

いずれにせよ、これこそ私がずっと考えてたことなのよ。みんな、ディスクロージャーだとか、ディスクロージャー後の何かが起こるのを待ち受けてるけど、それは既に起きてるのよ。それって、今、ここのことなのよ!どんな、いわゆる「ディスクロージャー」もペテンだわ。政府関係者が出てきて、これは超自然的ないし超次元的現象なんだと言うのでなければね。だけど、連中は言いっこないわ。だって、それでは物質宇宙を崇拝する、連中の世界観全体に全く反することになるんだもの。そのような世界観からこそ、ダーウィニズム、物質科学、超常現象の科学的研究の排斥等々が生まれて来たのよ。その手のことが誠実に研究されるなんてあり得ないわ。だって、それじゃあ連中のリアリティの成り立ちからして、ぶち壊しだものね。

(Perceval) 何とも大がかりな隠蔽だね。

(L) Yeah, 連中は「ディスクロージャー」と称して人々に、肉体を持った、物質的なエイリアンに対する覚悟をさせようとしてるのよ。だって連中ときたら、エイリアンによる侵略、あるいは「エイリアンの神」で一杯食わせようとしてるんだもの。こう言ってね。「エイリアンの神を拝みなさい!列の後ろに加わるんだ!我々は彼の大祭司だぞ!」だけどそうはいかないわ。

(Perceval) 必要に備えてとっておいた策ということみたいだね。連中は人々にエイリアンという概念に対して覚悟を決めさせたんだ。

(L) さながら巨大なコインテルプロという感じよ。見たところ連中が対抗しようと専ら取り組んでるのは、この現象が超自然的なものだという考え方、概念、理解なの。はっきりさせておくと、私達がいつも超自然的と呼んできたものは、必ずしも「超自然」じゃないの。実際には超次元ということなのよ。私達この事に ― このような別のリアリティに ― 数千年来気付いてたのよ。連中は行ったり来たりしてるの。まるで二次元空間に指を突っ込むみたいにね。
http://www.returntogod.com/Science/Dimensions.htm
私達は二次元空間なのよ!この理解で正しいかしら?

A: 直接的な予測とならない範囲で、ほとんど最高度に正確。

Q: (L) この科学者は誰だったかしら。。。連中はエイリアンによる侵略に関する幻想を作り出そうとしているけど、全て大嘘に過ぎないと言ってたのは。ヴェルナー・フォン・ブラウンだったかしら?彼がそう述べた本当の理由とは、それが超常現象ないし超次元的現象であることを知ってたからなのよね。それが彼の真意だったの?

A: Yes.

Q: (L) だって、そう考えれば説明がつくもの。私達は既に侵略されてるのよ。とっくに既成事実となってるんだわ。

(Perceval) サイコパスによる侵略だ。

(L) Yeah.

(Ailén) 人間として責任を取らないための完璧な口実だわ。連中はこれをエイリアンのせいにして、こう言うのよ。「我々も立場は同じだ。我々は皆犠牲者なんだ!知らなかったんだよ!」
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これまでに、以下のような疑問が寄せられた:もしカシオペアンズが善玉であり、彼らが主張するように、他者への奉仕を通じて自分達に奉仕しているのなら、一体どうして、彼らは現実に関してあれほど恐ろしいことを私達に言うのだろうか?私達の心にあのような現実を植え付け、あれが現実だと納得させて私たちから希望を奪うことによって、実際にあのような現実を創造するのが彼らの目的なのだろうか?人々を恐れさせるのは、お馴染みの嫌らしい第4密度STSのコントローラー達に対して、恐怖という素晴らしいご馳走を提供させることになるのではないだろうか?彼らはそれを望んでいるのでは?もしそうだとしたら、カシオペアンズは善玉に扮している「連中」の仲間であって、恐怖というご馳走を連中に提供しているのだ!

他方、カシオペアンズが、安全で、救われた、心温まると感じるような、数多くの情報やシステムや信念のソースを示唆するときには、彼らはあなたが堕落するよう仕組んでいるのかも知れない。他の証拠からすれば、彼らは私達が信ずべき平和と調和の真のソースから私たちを遠ざけているのではないだろうか?

それではあなたに質問である:荒野にハイキングに行くとき、あなたはそれに相応しい服装と道具なしで出掛けるだろうか?もし誰かが、森のハイキングで起こり得る恐ろしい事の全てを教えてくれたら、あなたはハイキングを止めにしないだろうか?クマやヘビ、あるいはジャガーに出くわすかも知れないと脅されたら、家に居ようとするのではないか?あるいは、必要な知識と道具でもってきちんと装備して安全なハイキングを楽しむのでは?

この喩えが当てはまるのもここまでだ。というのは偶然にも、私達は既に荒野の真ん中に居るからであり、私達の周りには、こう繰り返す教師がごまんと居るからだ。「外にはあなたに危害を加えるものなど居ない!怖がらなければグリズリーやヘビなど現れはしない!たとえ居たとしても、あなたが恐怖を感じなければ、それに悩まされることなどないんだ」と。

このような思想が効果を発揮したように思われるケースで、遭遇から生き残った人々は「見ざる、言わざる、聞かざる」的態度のお蔭で助かったと確信するのだ。唯一問題なのは、グリズリーやヘビ、あるいはジャガーがこの人々を襲わないでおいたのが、ただ単にこれらの獣が、ちょうどその時、空腹では無かったか、あるいは他のもっと美味しい餌に気を取られていたからなのかどうかを知る手立てが無いということである。より根源的な疑問はこうだ:これらの獣がそのように振る舞ったのは、これらの人々に彼らの信念体系が機能すると確信させ、その結果彼らが家に帰ったときに、この信仰と無知の福音を賛美して、隠蔽を続けさせるためではないのか?そして当然ながら私達は、この思想を実践して生き残れなかった人々のことを耳にすることはない。フロイトは宗教について、「現実の拒否と希望的な幻想がないまぜになった体系であり。。。このようなものは。。。至福の幻覚による混乱以外では見ることができない」と記している。

そしてもちろんながらカシオペアンズは、自己への奉仕の本質が「ウイッシュフル・シンキング」であると喝破している。

さて、カシオペアンズが語ったことについて、別の解釈を提案してみたい。見るための目を持ち、聞くための耳を持っている人々のために彼らが語った言葉に実際に含まれている意味合いをである。彼らが語った通り、彼らは私達自身の未来の可能態であって、私達が知識を獲得しさらには適用するレベルが上昇することに正比例して、彼らが第6密度の存在として直面するリアリティが良くなるということがあり得るのだろうか?つまり、私たちが相手にしているものを、あり得る未来ではなく、私達の経験する未来に確定するただ1つの方法とは、現在に関する正確な知識に基づいて選択することなのだろうか?

カシオペアンズが広めている情報が正しいと、それなのに私達がそれを無視していると想像してみて欲しい。そんなことだから私達は、まさに彼らが語る通りのリアリティの影響を受けることになるのではないだろうか?逆に、もし私達がそれが正しい、あるいはおそらく正しいとして受け容れてしまい、その情報に基づいて行動する限り、私達は現実を変えることができないのではないだろうか?つまり、この現実は集合精神が目覚めていない結果だとしたら、気付きの臨界点に達することは可能なのだろうか?

要するにこうだ。私達の可能態としての未来の自我が ― 僅かな人々が目覚めることでそうなる可能性が向上するとして ― 私達の現実とやり取りできる結果、私達は助けを得ることになる。ただしそれは、私達の何人かが接点としての役割を受け入れて、未来を変えるために人々を目覚めさせるのに必要な情報を受け取って広めればこそなのである。こう考えるのは理屈に合わないだろうか?

グルジェフの言葉として、ウスペンスキーは書いている:


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(58ページ)
そのうえ、以前に脱出したことがある人々の助けがなければ、誰一人牢獄から抜けだすことはできない。どうすれば脱出できるかを教えたり、道具やその他必要なものを送ったりできるのは彼らだけなのだ。しかし囚人1人では、このような人々を見つけたり、連絡をとったりすることはできない。組織が必要だ。組織なくしては何事も達成することはできないのだ。
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P・D・ウスペンスキー『奇蹟を求めて』浅井訳。


カシオペアンズが私達に与えてくれた、最も重要な原理が、「自由意志」そして「知識は守る」であることを思い出されたい。これら2つの概念は切り離せない。あなたの持つ知識が増えるほど、あなたの気付きも増え;あなたの気付きが増えるほど、あなたの自由意志も増えるのである。カシオペアンズとやり取りするに連れて進歩してきた、彼らからの情報を理解する唯一の方法とは、非線形力学および複雑系について理解することなのだ。

この問題について、夫のアークは推測している:いずれ私達は「気付きのレベル」を測定できるような、気の利いた機械を手にするだろう。そうなれば、「あなたの気付きが増えるほど」という言葉は、血圧やコレステロール値、あるいはあまり正確ではないがIQレベルのような、専門的な意味合いを持つことになるだろうと。

まず第一に、自由意志の法則の中には、非線形性の状況が明らかに含まれていることに注目するのが重要である。そして、私達は第4密度STSによって支配されているとカシオペアンズが言うからには、自由意志など存在しないのだと主張して、私の言葉に異議を唱える人々は、以下のことに留意されたい。すなわち、第2密度の生物が第3密度の私たちとの関係で持っているのと同じくらいの自由意志を、私達も第4密度との関係で持っているのである。ある第2密度の生物が、ある第3密度の人物に関してより多くの気付きを獲得するほど、彼に捕まって食べられるのを避けられる見込みが高まるのだ。だからこの点に関して、「4割1毛学」に陥らないようにしたい。(ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』に出て来る造語;「1本の髪の毛を4本に割く技術で、重箱の隅を楊枝でほじくる技術など足もとにも及ばないもの」である。)(※文春文庫版藤村訳上巻133ページ。)

非線形性に内在しているのは、カシオペアンズが千回も言っているように、未来は未定だということである。未定であるだけでなく、可能性は多数ある。彼ら自身の言葉では、疑似量子論的傾向性は数えきれないほど無限に存在しているのだ。

時として互いに対立し合うとはいえ、還元主義や機械論に対する信念と、宗教への信仰とは手を携えながら進んで行く。神か、あるいはダーウィンが天に居るから、世界は問題なしだ。諸現象は秩序に従い、何事も微分方程式で表わされた、ある種の因果論的スキームでもって説明可能である。一方に言わせればこうだ。神が時空のある点で万物を始動させ、1本の直線的な道に従わせる。そして、それを終わらせる地点では、彼の命令に従う適者が生存するという法則に従って、ある人々は救われ、他の人々は救われない。もう一方が言うには、万事はビッグバンに始まり、自然選択すなわち進化論的な適者生存則という直線的な道に従ってきた。歌詞は違うが曲は同じである。

ニュートンは私達に対してこれらの考えを、彼の有名な運動の法則によって紹介した。この法則は、運動量の変化率を様々な力に関係付けるものである。あっと言う間に科学と宗教とは、線形微分方程式に依拠するようになった。野球のボールが描く弾道や、世界の終わり(必然的にある魂を特定の軌跡に乗せて落下させ、他の魂を救うことになる)のような現象は、微分方程式によって記述可能となった。あなたがある状況の下で、一定の力を込め、一定の方法でボールを投げれば、ボールは決まった場所に落ちるだろう。あなたがある宗教を信じていて、その信仰を固守し、あるいは反対にその信仰を否定すれば、あなたは最後には天国か地獄に居る;ないしは、ポールシフトで死ぬか、壮大な新ユートピアへと移るだろう。このような系では、小さな変化が小さな影響を生み出し、大きな影響は数多くの小さな影響が足し合わされることで得られる。

このような還元論的な思考法は、ほぼ全世界を席巻したが、それも1970年代までで、その頃には数学が進歩し、高速コンピューターが出現して、科学者が非線形方程式の複雑な内部を探れるようになった。(注意:新たなトレンドは、1950年代のロスアラモスにおいて、フェルミ・パスタ・ウラム問題のシミュレーションが当時最新式のマニアック1コンピューター上で行われた時、既に始まっていた。)

非線形方程式は、トワイライトゾーンからやって来た数学で、そこでは普通の数学的な展望が、突如として代替的現実となってしまうのである。非線形方程式においては、1つの変数の値を僅かに変えただけで、他の変数に対して不釣り合いな影響を及ぼすのである。これは破滅的であることも、偶然の幸運となることもあるのだ。

さて、このような事を詳細に説明しているカシオペアンズ文書を、私は提示しようと努めているのだが、これは然るべき時に、然るべきコンテクストにおいて行われるだろう。しかし、この提示を妨げようとする多くの試みに対抗して、続巻で交信文自体を提示する前に、その内容を説明することで、私は近道をしようと思う。

アメリカにやって来る以前、非線形力学・複雑系学部の長だった私の夫、アルカジス・ジャズィックの資質は、カシオペアンズの抱いていた、ある種の具体的な計画の一環だったようである。この計画には、まさしく彼のようなバックグラウンドを持った物理学者の参加が不可欠だったものと思われる。さらにはこうも推測できよう。すなわち、彼と私は2人とも転生してくる前からこの計画に気付いており、私達が異なった道を辿ることも、カシオペアンズの直接的な介入によってそれらが1つになることも、言ってみれば今このウェイブ・シリーズとして実を結ぶための種子を、未来の私達が準備する上で不可欠な経験だったのだろう。

非線形系に戻れば:非線形方程式は、2つの構造プレートが互いに押し合って、断層線に沿って不規則な圧力を鬱積させる結果地震が起る様子をモデル化するのにも用いられる。この方程式は、地下の地形が固く閉じるに連れて、波状的な圧力が何十年にも亘って加わって行き、ついには最後の1ミリを動いて臨界値を迎える様子を示すことができるのだ。この値に達すると、圧力が急上昇し、一方のプレートが滑りながら他方の上に乗り上げ、全てがガタガタと振動し、不安定となった余波で転がりだすのである。これは確かに、「たとえわずかでも度を越せば一大事になる」という諺に新しい意味を持たせるものだ。

さて、科学者はこのような複雑な出来事がどのようにして発生するかはモデル化できるものの、どこで、いつ、次の地震が起るのか、正確に予測することはできない。これはどうしてかと言うと、非線形的な世界 ― 現実世界の殆どが含まれる ― においては、長期的な予測が、実際的にも理論的にも不可能だからだ。非線形性が科学者の抱く還元主義的な夢を粉々にし、未来の未決定性が予言や決定論に立脚する、スタンダードな宗教あるいは思想への信仰ないし信念という夢を打ち砕くのである。非線形方程式中に様々な数字を代入することによって、システム論科学者は、都市の進化や企業の成長、ニューロンの発火、フォトンの放射、経済の動き等々といった事に関する、様々な政策や戦略の影響をモデル化することができる。非線形モデルを用いることによって、このようなシステム内で潜在的に危険な臨界点の位置を突き止めることだって出来るのだ。このような臨界点では、小さな変化も途方もないインパクトを及ぼし得るのである。

カシオペアンズの教えは、非線形的/複雑/自己参照的/自己組織的な宇宙観に基づくものである。つまり、彼らが私達の質問に答えるときはいつも、質問を行った時空における、その瞬間の宇宙の支流にとって正しい答えがもたらされるのである。しかしながら、そのような情報を活用することで、誤差逆伝搬すなわちフィードバックのプロセスによって複雑系は変化し、宇宙は枝分かれし、非線形的に変化しうる。これが起っていることは、私が叙述を進めて行くうちに明らかとなろう。そして、私達の行動あるいは系内のフィードバックによって、おそらくこれは既に何度か起っている。どんな種類のフィードバックか?とあなたは尋ねるだろう。

非線形方程式には、それらのとる値を繰り返し増大させるフィードバック系が含まれている。しかし、フィードバックには2つのタイプがある。シンプルなフィードバック・ループの例は、あなたの家にあるサーモスタットだ。部屋が一定温度以下まで寒くなると、サーモスタットのスイッチが作動する。サーモスタットはこれに反応して暖房スイッチを入れ、やがて部屋が暖まる。部屋が設定温度まで温まると、サーモスタットは暖房のスイッチを切るよう信号を送る。サーモスタットの動きが暖房装置に影響し、暖房装置の動きがサーモスタットに影響するのである。サーモスタットと暖房装置との結び付きを専門用語で負のフィードバック・ループ(negative feedback loop)と呼ぶ。

負のフィードバック・ループは、早くもBC250年には、水時計内の水位の調整に用いられていた。1930年代、フィードバック・ループは捕食者および、その餌となる生物の関係をモデル化するのに用いられた。1950年代、(主としてサイバネティクスと制御理論の)科学者達は、正のフィードバック・ループ(positive feedback loop)に意識を向け始めた。

PAシステムから聞こえる耳をつんざくようなキーンという音は正のフィードバックの例である。(そう、これは確かに妙な言い方である。というのも、あの雑音には何のポジティブさも無いのだから!)しかし、これが意味するのは、PAアンプからの出力が、マイクに拾われてアンプへと1周して戻り、それが大音量に増幅されてスピーカーから発せられるのである。あのカオス的な音は、プロセスのある段階での入力に、前の段階の出力が加わった結果なのだ。

だからこれをポジティブと呼ぶのは単に増幅が繰り返されるからであり、同様にネガティブというのは振れを抑える制御系という意味に過ぎない。これら2つのフィードバック系について注意深く考えてみて欲しい。これら2つのタイプのフィードバックは世界じゅう至る所で用いられているのだ。そして、非線形性はどこにでも潜んでいる。

私達の現実をフィードバック・ループという観点から考えると、部屋が寒くなり過ぎるのと同様に、人々が動揺し質問し始めたとき、調節のために一定量の熱を送り込むかの如く、教義の量を減らすことが可能なのも分かるだろう。この状態が数千年来続いているのである。人類が目覚め始めるのは、部屋が寒くなるようなものである。そこでコントロール・システムが、古い教えに対する新しいバリエーションの形で、幾らか熱を加え、系が安定に保たれるのだ。十分な熱が加えられるや、供給は止まる。振り返ってみれば、過去のスタンダードな宗教や、「エイリアンによるラプチャー説」を擁する新宗教の中に、すぐさま負のフィードバック・ループの実例を見ることができる。

正のフィードバック・ループはもう少し厄介であり、非線形力学の代物である。私達が関心を抱いている正のフィードバックに対する観方の手掛かりは、カシオペアンズの教えに直接関係がある。彼らの通信は、アンプである「未来の私達」からの出力になぞらえることができ、それがマイク、すなわち「過去に居る私達」によって拾い上げられ、それからそれがアンプである「過去の(今の私達から見れば現在の)私達」へと入力されて再び増幅され、スピーカーから大音量で発せられる、すなわち、現実を非線形的に変えるのだ。この点は以下から明らかになる:


960609
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Q: (L) アル=アラビは、「神の名前」としての統合思念態について述べているわ。彼の解釈は、あなた方の言ってることと同じだと思うの。ということは多分...

A: 私達はみんな神の名前を持っている。いいかな。これは導管なんだ。これは、終了点と開始点のどちらにも等しい価値、重要性があるという意味だ。.私達を神と崇めてはいけない。あなたがこれを伝えている人々にも、このことをわかってもらえるようにしなさい!

Q: (L) 私達のどんな特質、どんな事のお蔭で私達はコンタクトできたのかしら。だって、これにトライした多くの人々が、明らかにガラクタをつかまされてるんだもの。

A: あなた方は依頼(ask)した。

Q: (L) 沢山の人々が頼んでるわ!

A: 彼らはそうしていない。彼らは命令している。

Q: (L) 頼んだり、乞うたり、嘆願してる人は大勢いるけど、彼らは得られた答えに混乱してるってことね。

A: No, 彼らは命じている。よく考えてみなさい。あなた方は乞うたり、嘆願したりしなかった。。。それが命じているということなんだ。
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ここが重要なポイントである。信奉することが命令の1形態であると理解できるまで、人が宇宙に対して真に問いかけ(ask)られる見込みはない。小説家のアン・ライスは、『ヴァンパイア・レスタト』において、この問題を雄弁に語っている:


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本当に知識を探し求めようという者はきわめて少ない。。。それどころか未知のものから、自分の頭のなかででっちあげた答えを無理やり引き出そうとする。正当化、確認、慰め − そんなものがなければ彼らは前に進むことができないのだ。真にたずねる(ask)ということは、扉を開けて旋風に身をさらすことに等しい。その答えが質問と質問者を破滅させることだってあり得るかもしれない。
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柿沼訳、下巻198ページ。


上の点を強調するために言わせてもらえば、カシオペアン情報をシェアする上で最も手強い困難さを感じたのは、多くの人々にはエソテリックな理解というものができなかったことである。現実および存在の本質を探るのが大好きだと言う人は実に多いのだが、彼らの好奇心は束の間のものなのだ ― 彼らは理解の外側のサークルの入り口までしか達しない好事家である。当節、グレイやレプトイドとして姿を現している恐ろしい「境界の住人たち」は、彼らの道をブロックしてしまい、好事家たち自身もまた、神殿に入るには線形的な思考モードに重きを置き過ぎたことに気付くのである。

この考えは、一般的となったスピリチャル的思考の民主平等主義に逆行するものであるが、事実はと言えばこうである:


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単なる好奇心からオカルトを詮索している人々に対しては、何も言う事はない。彼らは自分達に値するだけのものを手に入れるだろうが、それ以上は無理である。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイによる福音書 / 7章 7節) というのは、エソテリックな知識に関しては2000年前と同じく、こんにちも正しい。。。これは相変わらず嘆願者や門を叩く者が極めて真剣であり、彼らが不死の魂という深い切望を満たすことだけ求めていることを前提としている。門番、すなわち、真理の神殿の守護者は、他人全てに対して御影石のように無言である。彼らは嘆願するだろう。彼らは喉がかれるまで叫びわめくだろう。彼らは叫び声でもって国民を奮起させるまで、扉を叩くだろう。だがもし彼らが、不死の魂という深い切望を満たそうと真剣に願う以外の、他のいかなる霊的アプローチを行っても、それは全て徒労に終わるだろう。我々は決して騒乱によって天の王国を手に入れることはできない。

サイクルおよび期間という強力なシステムの持つ崇高な趣旨を理解できない学徒たちは。。。彼らの思考領域に適した他の研究を採用するため、オカルト研究を遠ざけることにいそしむ。。。彼らは人類を継ぐスケールに状況が進展するまで、すなわち、今は隠れている魂の属性が発展し、芽を出し花を咲かせられるような状況が進展する時までは、これに満足していることだろう。

。。。宇宙全体にも平等性というものは存在しない。代わりに存在するのがヒエラルキー(階層)である。これは専制的なものではなく、特に、生まれや富、あるいは力の強さというパワーに基くものではないのであり、物事の本性によって是認される「聖なる権威」に基づく。存在する唯一の特権階級、唯一の貴族制度は:知性に関するものだ。。。これのみが、宇宙を均衡と幸福に導くことができるのである。

。。。また多くの学徒は、真理を知覚し、自然の壮大な謎の重要性を知覚するにふさわしい状況にあるものの、彼らの生まれ持ったものとは言え、悲惨な基本的好みのせいで、全くこの知識を知覚する資格がない。この恐ろしい霊的状況の結果。。。オカルト的なパワーが発達しても、純粋に利己的で世俗的な目的に用いられることになる。。。

この部類の学徒のうち、実際にパワーを手にする者はごく少数である。というのも、それとは反対に、支配することを非常に熱心に模索し、パワーのカモや奴隷になる者ばかりだからである。

このような全ての人々に対して、我々は熱心にこう言おう:霊的交わりに関する全ての考えを捨てよ、悪疫を避けるように、オカルティズム、スピリチャリズムから退散せよと。そして、人類の聖なる守護者が、おそらくは無意識のうちに休息していた奈落の際から、あなた方の魂が奈落の底に落ちるのを守られんことを。
---
『ルクソールなるヘルメス同胞団の公準』
published in Revue Cosmique, III and IV, quoted by Godwin, Chanel, and Deveney in The Hermetic Brotherhood of Luxor, Initiatic and Historical Documents, 1995]
http://www.geocities.co.jp/modernpyramid/theosophy/hbl.html
http://www.geocities.co.jp/modernpyramid/theosophy/theosophical.html


カシオペアンズも同じテーマについて語っている:


941116 / 950107 / 940730
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=29017817
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Q: (L) この事に関して何らかの類のヒエラルキーはあるの?このような存在がある種の大評議会の上位に居て、計画を立てて議論したり、決定を下して実行したりするの?

A: No.

Q: (L) じゃあ、物事はどうやって起こるの?物事は単に、言ってみれば物事同士やエネルギーの自然なやり取りによって起こるの?

A: Yes.

Q: (L) リジーがこれまでもしばしば私達のエネルギーを食べていて、この星にやって来て乗っ取りたいと企んでるのなら、どうして30万年前の落下による支配を行ったときに、ここにやって来て居を構え、直轄にしなかったのかしら?

A: 同じ領域に住みたいとは思っていない。。。あなた方は第3密度、彼らは第4密度だ。

Q: (L) 連中は今、何を企んでるの?

A: あなた方を第4密度でも支配したがっている。

Q: (L) 人類が元々種蒔かれた母星が燃え尽きて灰になったんだとしたら、どうやって燃え尽きたのか教えて頂戴?

A: 星が膨張した。

Q: (L) うーん、星が膨張したっていうことは、最近のことだったに違いないわね、合ってる?

A: あの領域では、そういう時間の測り方はできない。

Q: (L) どんな領域なの?

A: 時空のワープ。

[…]

Q: (L) で、膨張した末に母星は灰になってしまったのね。そういうことだとするとつまり、時間という概念を緩やかに使えば、それが灰になったのは人類が創造された直後のことに違いないわね?

A: 時間を緩やかに使うことさえできないくせに。。。オーケー。それでは「衝撃的な事実」だ。その星は未だ灰になっていない。

Q: (L) Okay. 何それ?その星は灰になったって言ってたじゃないの...燃え尽きたってね...じゃあ、真相はどうなってるのよ?

A: 炎上が起きるのは、あなた方が第4密度に移行するのと同「時」だ。人類は今、ダンキアーで造られているところだ。。。その結果、領域のグランドサイクルが閉じる。

Q: (L) 今まさに、そのダンキアーで人類が創造されてるっていうことなのね?

A: Yes, あなた方がだ。あなた方の種族がそこで生まれつつある。。。領域のクロスだ。分かるかな?

Q: (L) そこで第4密度の物理体が作られてるっていうことなの?

A: No. 3rd.

Q: (L) 第3密度の物理体ですって...私達は今の身体を離れて、別の身体に入るってこと?

A: 話が逸れている...よく考えなさい。領域はリアリティの派生物。サイクルだ。

Q: (L) それじゃあ、現在、そっちの星で、人類が造られてるのね...

A: Yes.

Q: (L) そして、領域の境界がクロスするとき、そのもう1つの星は灰になる...燃え尽きるのね...

A: Yes.

Q: (L) 領域の境界がクロスするとき、その星で造られてる人類は、どこに行くの?

A: 古代の地球。。。知っての通り、時間は存在しない;全ては集合意識の学びのため。

Q: (L) それじゃあ、グランドサイクルが閉じるとき、全てはまた最初からやり直しってことなの?

A: そうではない;知っての通り、始まりは無い。

Q: (L) 地球上の沢山の魂は、地球に出現することになる、その新しい物理体の中へとリサイクルされるの?

A: Yes.

Q: (L) 古代の人類として?

A: Yes.

Q: (L) で、全てがまたやり直し?

A: Yes.

Q: (L) それじゃあ、沢山の人々が振り出しに戻るってこと?

A: Close.

Q: (L) これは罰なの?

A: No. 自然。

Q: (L) その時点で、魂のうちのあるものは、上の密度レベルへと移って行くのね?

A: Yes.

Q: (L) それって何パーセントぐらいなのかしら、教えて頂戴?

A: No. 現時点では未定。

Q: (L) じゃあ、惑星の話に戻るけど、もし、サイクルのある時点でそのダンキアーで物理体が造られ、地球に運ばれたんだとすると、誰が運んで来たの?

A: 領域のクロス。

Q: (L) それは、「誰」じゃなくて、「何」でしょ?

A: 全ては「誰」であり、かつ「何」だ。。。選ばれるとは何かな?あなた方だけが選ぶことができる。選択は、自然に自由意思を持って見聞きするうちに訪れる。あなたがどこに居るかは重要ではない。あなたが誰であり、何を見ているかが大事だ。
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ということで薄々分かって来たのは、線形的な思考は窓から捨てるべきであり、その中で私達が非線形合流点としての役割を演じている、この場所に働いている力を測るため、私達は知性と直観力の全てを尽くして、自然に対して取り組まねばならないということだ。

フランスの数学者であるアンリ・ポアンカレが、ニュートン力学の閉鎖系的考え方の問題点を最初に暴露した。古典物理学すなわちニュートン物理学によると、閉鎖系とは完全に秩序を保っており、かつ予測可能である。真空内の振り子は、摩擦と空気抵抗がなければエネルギーを保存する。振り子は永久に行ったり来たり振れ続けるのだ。系内のエントロピーは、系の持つエネルギーを周囲の環境に返させることによって系を侵食するものだが、真空内の振り子はエントロピーによるエネルギー損失を免れる。惑星もまた振り子のように、わずかな可能性を除き、妨げられることがなく、太陽の周りを変わらずに巡り続けるに違いない。

しかしポアンカレは、太陽系の安定性に関して疑問を提出した。どうしてこんな問いを発したのかは分からないが、彼はそうしたのだ。そして彼の問いに対する反応は、スタンダードな線形的信念による素っ気ない拒絶、すなわち、「もちろんそれらは安定している!長い間ずっと安定しているのだ。ふん、数年先の日食だって予測できるんだから!」というものだった。「ニュートン力学の法則を知っている、まともな科学者ならば、力と質量との関係を予測できる」というのが科学主義の教条だった。「惑星にはたらく引力の大きさは、惑星の質量に比例し、太陽からの距離の 2乗に反比例する」という万有引力の法則は、素敵でこぎれいなパッケージに包まれている。

しかしポアンカレは、密かに計算を行った結果、そこには小さな難点があることを知った:二体だけを含む系においては、ニュートンの等式は機能する。理想的な二体系では、軌道は安定している。二体から、等式に太陽を含めた場合のような三体になると問題が起きる。ニュートンの等式は実際には解けなくなるのである。数学の形式推論を行う上で、三体等式は近似値を導く以外には役に立たないのだ。

近似値でOKだと思う人も居るかも知れない。それで十分やっていける。眠れなくなるほど悩むには及ばないではないか?ポアンカレは、最初に何体か加えるだけなら近似値でもうまく行くらしいことは知っていた。しかし、天体の数が増え、系内の天体を増やして行くと、小さな小惑星が系内でわずかに摂動するだけでも、長い時間が経つうちには、ある時点で軌道がシフトし、太陽系は内部の力によって崩壊を始めるのだった。

数学的には、この問題は非線形的であり、積分不能である。二体系に条件を加えると、非線形的な複雑さ、すなわち、系内のフィードバックが増加する。ポアンカレは積分を行い、三体系が依然としてかなり安定したままであることに一旦は満足した。小さな摂動がどうしたと言うのか?太陽と地球、そして月があれば、夜も安心して眠れるではないか?

間違いだった。次に起こることは衝撃的だ。ポアンカレは、最小の摂動があるだけでも、軌道の幾つかは不安定になり、カオスにさえなることを発見したのである。彼の計算では、第3体からのわずかな引力のせいで、惑星は揺動し、千鳥足で軌道内をよろめき、結局太陽系外に飛んで行ってしまうことさえあるのだ!


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この数字の複雑さにショックのあまり、私は書き出そうとさえしなかった。求積できない力学問題全体の中でも、三体問題以上に複雑なものは思いつかない。

(シュレーダーの引用によるアンリ・ポアンカレ)
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※『フラクタル・カオス・パワー則 : はてなし世界からの覚え書』マンフレッド・シュレーダー著が邦訳と思われるが未参照。


ポアンカレは、カオスが非線形系の本質であることを発見した。彼は、太陽系のように完全な確定系でさえ、ごくわずかな刺激によって滅茶苦茶になり得ることを明らかにしたのである。ほんのちょっとした影響も、正のフィードバックによって増幅されることがあり、単純な系も、爆発的にショッキングな複雑さを示すことがあるのだ。

これは、私達の実生活の中で温度をコントロールしている、負のフィードバックによる調節メカニズムとは全く異なる問題である。

さて、ちょっと違った方向から眺めてみよう。長きに亘って、質量と運動は現実の基礎と考えられてきたし、依然としてその考えは支配的である。ビッグバンないし宇宙の爆竹理論は、この観点から説明される。信じられない様な密度の始原原子(物質)が爆発して運動が始まったのである。始原原子がどこから生じ、それが爆発した宇宙がどうやって生まれ、この出来事の起動力がどこから生じたのかは依然として構想段階にある。にもかかわらず、私達の宇宙およびその中の生命は、言わば偶然に発生したと考えられているのだ。人間は命がけの生物進化の目的であって、進化は道徳とは無関係なのである。心と魂は、生存競争の不可解な副産物なのだ。聖書では「初めに、神は天地を創造された」(創世記 / 1章 1節)と述べられている。聖書も科学も、始まりの前に何が起こっていたかについては多くを語っていないのである。聖アウグスティヌスはかつて、「神は万物を造らない前に、どうしておられたのか?」と尋ねられたことがある。
http://6304.teacup.com/mitubasanokageni/bbs/2378
この司教は、「あなたのようなくだらない屁理屈を言って議論を発する者を入れる地獄を造られた!」と答え、この問答を終わらせたという。それ以降、このような質問は殆ど問われなくなった。

しかしながら、物理学すなわち、実在という深遠な現実の研究は、物質-運動説を立証できていない。普通の人にとって、テーブル、イス、オレンジは実在する物体である。これらは次元を持っている ― 厳密に3つだ ― これらは実在している。だがそうだろうか?物理学者は(そして、物知りの素人も)物体が原子でできていることを知っている。だがここからが難しい!原子をバラバラにすると(量子)、しばしば何やら非常に気がかりな特性を呈するのである。

物理学者のニック・ハーバートは著書『量子と実在 不確定性原理からベルの定理へ』の中でこう述べる:


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(98ページ)
原子を結びつけているエネルギーの何兆倍ものエネルギーを用いて、電子をもっと細かい小片に分割しようとする現代的な試みにもかかわらず、電子は頑として要素的であることをやめない。どうやら、電子はいかなる部分品ももっていないようである。
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※はやし はじめ訳


ある実験によって、電子は粒子であることが示された。別の実験で、電子は波の特性を示した。結論としてはどうやら、人間の能力の及ぶ限り現実を追求して行くと、現実の世界は、数学の対象として以外は存在しない「粒子的-波動的実体」から出来ていることが分かったのである。デンマークの物理学者ニールス・ボーアは「深遠な現実など存在しない」とまで言い切っている。

それでは、私達が存在しているこの状態は何だろう?現実は、見えなくなると、無くなるのだろうか?明らかにそうではない。というのも、電気その他の、宇宙内の諸々の力は目に見えず、物質への作用によってのみ測定可能だからである。このような諸々の力は、私達の感覚や器具によって探知できなくなったからと言って、無くなるだろうか?私達の心や感覚器官の精妙なメカニズムによって探知できる事物は、目に見えず、あるいは測定できないからと言って、存在しないのだろうか?そしてアークは1994年に、
http://web.archive.org/web/20041211003115/http://quantumfuture.net/quantum_future/jadpub.htm#blaja95a
論文審査がある専門誌、『ドイツ物理学年報』(アインシュタインの有名な1905年の3論文が載ったのと同じ学術誌である)に発表した論文の中で、あえて「それにしても『我々』は何者なのか?」と問うたのである。

これは物理学の危機であり、また、私達の世界の危機でもある。と言うのも、物理学および宇宙論という象牙の塔における有力な宇宙観とは、最終的には私達の国内の社会的・政治的パターンに浸透し影響を与えるからだ。

しかし、科学が私達に対する説明に失敗するぐらいなら、ましてや宗教にそれが出来るだろうか?

宗教の幾つかは、人生の唯一の意味とは、私達の苦難が来世あるいは将来の生において、より良き未来を創造すると信じることにあると言う。他の宗教は、人生の意味は、エゴを無の中に解消するよう勤めることにあると言う。ある思想では、人生の目的とは自己が創造した現実に連なり愛と光の中で1つになる結果、種としての統合を達成することであり、そうすることで私達は、諸物が通常の崩壊状態へと低落して行く辛うじてその前に、千年来予言されてきた天変地異を越えて生き残れるのだと述べる。当然ながらこの効果は、ポジティブな考えでもって世界じゅうの人々を爆撃し、世界の思考を支配するという集団的努力によってのみ始めることが出来、保たれうる。これらに良く似た他の思想やそれらの組み合わせもある ― これら全ては私達をどこへと導くのであろうか?

「科学と矛盾する宗教、宗教と矛盾する科学は等しく誤りである」(※ウスペンスキー『ターシャム・オルガヌム』高橋訳280ページ)

きっとこの2つに折り合いをつける方法が幾つかあるに違いない。

私達は本当に、偶然的な宇宙における、進化という偶然の産物であって、向かう先としては、忘れ去られるのみなのだろうか?あるいはさらに悪いことに、私達の心は ― 私達の知識欲は ― 私達の敵であって;信仰に欠けているせいで私達を破滅させようとしているのだろうか?選択はどうやら、悪趣味な冗談と誤りとの間にあるらしく、どちらも信仰には導かないようだ。

しかし、助けはこちらに向かって来ている。1966年、理論物理学者のジョン・スチュワート・ベルは、以降「ベルの定理」として知られるようになる証明を行った。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page017.htm
(Reprinted in Speakable and Unspeakable in Quantum Mechanics.)
この定理は、もし量子力学が正しいとすると、現実は非局所的であるに違いないと言う。すなわち、宇宙のどこで何が起ろうと、それは瞬時に宇宙の他の場所全てにある他の全てのことに影響し得るのである。彼は、もし私達が量子力学の主張を真剣に受け容れるならば、ある原子の測定された属性は、それが実際に存在している場所で起きている出来事ばかりか、宇宙全体に起きているあらゆる出来事によって、同時かつ瞬時に決定されることを示した。

上のキーワード、「瞬時に」に注意されたい。これは超高速、すなわち、光のスピードより速いことを意味する。しかし、どんな信号も光のスピードより速く伝わることがないと仮定すれば、これは、出来事同士を分け隔てている距離が実際には存在しない、ということになる。ベルの定理は、過去、現在、未来において存在する一切のものは、単一の実体に結び付いていて、最も遠い部分同士であっても即座にこの紐帯に参加してくるという考えを示すものと解釈できる。つまり、私達の知覚する世界 ― 星や惑星、大地や海、木々、動物、建物、人々 ― はいずれも、紛れもない単一のプロセスとして顕れているのだ。


950111
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Q: (B) このコンタクトの目的は何だろう?

A: あなた方の学びを手助けすること。この結果、あなた方は知識を得、守りを手にし、進歩するだろう。

Q: (B) カシオペアンズが、このコンタクトから得るものは何だろう?

A: あなた方を手助けすることで、私達もあなた方他全員との統合という、私達の運命の成就に向けて進み、よって、グランドサイクルを完成させられる。

Q: (B) それは、あなた方にとって未成就な単なる可能性なのかな?それとも、最もありそうな事かな?

A: 両方だ。

Q: (B) あなた方は、我々から何光年も遥か遠くに居るのかな?

A: 距離というのは第3密度の概念だ。

Q: (B) 光年というのも第3密度的?

A: Yes.

Q: (B) ウェイブに乗って旅するというのは、どういう事なんだろう?

A: 思考による旅行。

Q: (F) 僕らの思考か?それとも、あなた達の思考かな?

A: 正しい概念ではない。

Q: (L) 正しい概念とは何?

A: 全ては学びに過ぎない。

Q: (L) それは誰の思考なの?

A: 思考は存在し分有されている全ての現実を統合する。

Q: (S) あなた方は、あらゆる思念態によって創造されたエネルギーのウェイブに乗って旅しているの?

A: 思念態こそ存在する全てだ!
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しかし、私達は3次元ではないのか?テーブルやイス、イヌ、そしてディナーのステーキは、長さと奥行、高さを持ち、時間の中に存在している固体ではないだろうか?過ぎゆく時間の中、私たちが空間中に固体として存在を知覚する、これらの物体は一体何なのだろう?物体を隔てると定義される空間とは何なのか?それらは時間の中でどのようにつながっているのだろう?もし物理学が全ては1つだと言うのなら、私達を深遠な現実から隔てているものとは何 − 私達のどんな特性 − だろう?そして、この現実の本性は何だろうか?

私達が知覚する空間には、3つの次元のみが存在する:長さ、幅、高さである。私達はこの状況を3つの独立した方向として定義する。すなわち、各々の長さが他の2つに対して、それぞれ直交しているのである。しかし、再び量子力学の主張を真剣に受け取るならば、私達の居る空間とは他の空間の、おそらくは無数に存在する次元の1側面に過ぎないであろう。

もし空間が無限なら、互いに直交し、かつ、平行ではない無限の直線が含まれねばならない。それでは、無限など愚にもつかない考えであって、空間は必然的に有限なのだろうか?もし有限なのだとすると、私達の宇宙はどの空間にあるのだろうか?

さて、空間には無限本の互いに直行する直線が存在しているなら、どうして私達は3本しか認識できないのかと問うべきであろう。もし私達が、3つの次元だけしか知覚できない心的状態にあるとしたら、宇宙の属性とは、私達の持つある種の特質によって生み出され、ないしは識別されるのかも知れない。何らかの理由で、私達は全体にアクセスできないのだ。カシオペアンズは、これが「欲望に根ざしたアンバランス」に付随する選択であり、この欲望は私達と全体との一体化を加速させると言った。

長きに亘って、物質主義的科学は、2つの重要な概念、すなわち物質と運動の存在を認めてきた。物質とは運動するものであり、運動とは物質における変化である。しかしながら、ベルの定理は「万物」がシンプルであることを示しているように思われる。よって、変化は私達自身の中から生じるに違いない。

量子力学の世界を私達の現実世界の何かに喩えることができないので、私達はその中に入り込んで、ありのままに述べるしかない。一番の謎は二重スリット実験(原注1)と呼ばれる、次のようなものである:

小さな穴が2つ開いているコンクリートの壁のような壁を想像されたい。穴は細長いものでも、丸でもいい。壁の一方の側にはこれからこの穴を通るように私達が送り出すものに対して敏感な探知機を備えたスクリーンがある。穴の反対側には、量子 ― 光子(フォトン)、電子、その他何でもいい ― を発射する装置がある。

私達の現実世界では、同様の装置に水を張れば、波が壁を回折する様子が観察できる。波を立てる機械からコンクリートの壁に向かって波を送る。波は2つの穴を通過し、穴の反対側には小さな2つの同じ形の波紋ができる。個々の波紋の強さは、穴のどちらか1つを閉じた場合、H2すなわち、高さ(振幅)の2乗で表わされる。しかし両方の穴を開けた場合、2つの穴に並んで、極めて大きなピーク強度が1つ生じ、これはI=(H+J)2と表わされる。つまり、2つの波の強さの合計がH2+J2ではないということである。2つの小波の波紋が互いに接する場所では、干渉縞ができるのだ。だから、等式に加えられた追加的な項2HJは、干渉による結果であり、正であれ負であれ、エネルギー全体を説明するためのものである。水槽の場合、振幅は実数であるが、「量子の波」の場合、これらは複素数となり、2乗したものがその大きさとなる。だから、干渉縞は2つのケースで幾らか異なるが、考え方は同じである。波についてはこれぐらいにしておく。

さて、固体の場合だが、例えばマシンガンからコンクリートの壁に向かって弾丸が発射されたような場合には(原注2)、干渉項はない。沢山の弾丸がそれぞれの穴の反対側のある点近くに(穴の内側に跳ね返ることもある)集まるのだ。これについては以上だ。

さて、穴を通して量子を発射したとき、何が起こると思われるだろうか?個々の電子あるいは光子が弾丸のように、どちらかの穴を通り抜けると思うのは当然のことだろう。特に量子銃をゆっくりと撃ち、1度に電子1個のペースにした場合にはなおさらである。だが、そうではないのだ。

どちらかの穴を塞いだときは、穴1つの実験の場合と同じ、普通の縞模様となる ― つまり、電子は全部、同じ場所に当るのだ。ところが、両方の穴を開くと、弾丸のときのような縞にはならない。波の回折像になるのだ。そして、たとえ1個だけの電子が放出されるようにして千回実験しても、全部合わせると、またしても波の回折像になるのである。1個の電子あるいは光子は壁に向かう途中、他方の穴が開いているかどうかを知っているかのように、統計法則に従うのである。(原注3)

電子がどちらの穴を通ったか観察してみると、電子は常にどちらかの穴を通っており、決して両方同時には通っていない。そして観察を続けていると、探知機上の模様は弾丸の場合と同じになる。だから、電子は、どちらの穴が開いているかだけでなく、私達が見ているかどうかも分かっているのだと結論せざるを得ない。(原注4)


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原注
1:
http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/articles/ekspong/

2:
http://www.physics2000.com/PDF%27s/Quantum.pdf
http://web.archive.org/web/20001002125911/http://www.physics2000.com/PDF's/Quantum.pdf

3. アークによる注:物理学者のアルフレッド・ランデは別の説を唱えている:すなわち、いずれか、または両方の穴が開いているかどうか知っているのは電子ではなくてむしろ壁の方であり、この知識に従って、壁が電子を散らばせているのであると。どちらの解釈もあり得、いずれに従っても、干渉縞の効果とモデル式は同じである。

4. アークによる注:1個の電子を発射する際に回折像が形成されるプロセスは、通り道が観察されている場合も、そうでない場合も、非線形量子力学によってモデル化可能である。例えば位置と速度ベクトルのような、複数の不釣り合いな物理特性を同時に観察すると、カオスやフラクタルの模様となる。
http://web.archive.org/web/20041211003115/http://quantumfuture.net/quantum_future/papers/garda.htm
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私達が観察しようとすると、電子は素粒子と化すのだが、見ていないときには、両方の穴を通過するようなのである。あたかも、観察される最後の瞬間まで、世界はどちらを選ぶか未定のままといった風情だ。だから、私達が観察する結果、沢山の幽霊的 ― つまり潜在的な − 電子の中から、1つが具現化し、波が崩壊するのである。

それでは、私達が五感で見て体験しているのは何だろうか?もしかして現実の各瞬間は、回転式スライド映写機の1枚のスライドのような、「万物」の断面みたいなものなのだろうか?

テーブルやイス、サラダやイヌを見るとき、それらは固まっていて安定しているように見える ― だが、物理学者が請け合うところによれば、それらはたえず入れ替わっては居なくなる原子のダンスであって − 今テーブルを構成している原子は、おそらく、一瞬前の原子と全く違うグループのものなのである。

だから、現実とは、さながら、スライドを透過してスクリーン上に像を結ぶ光のようなもので、瞬間瞬間に対象物を通り過ぎて行く継続的な流れ、あるいは目に見えない何かであると言えるかも知れない。この場合のスクリーンとは何か?と思われるだろう。それについては物質自体の性質を議論する際に述べよう。だがさしあたり、スライドが私達の心であり、光源は私達の意識だと言っておく。しかし、このような意識の究極の源はカシオペアン交信文からの以下の抜粋から分かる様に厄介なものである。


950617
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Q: (L) 少しばかしシンクロニシティについて聞きたいんだけど。シンクロしてる出来事の出所について知りたいのよ。それは複数の出所を持つの?それとも、知覚者自身の心から出て来る何か、あるいは。。。

(J) ランダムなの?

A: それは融合しつつある現実のあらゆる想像しうる状態の側面を含んでおり、精一杯うまい言い方をすれば、視覚的には完全なバランスを保った壮大なモザイクである。だが、これではあなた方の質問に対する回答としては不十分だろう。けれども、示された視覚イメージを見詰めることはおそらく出来ようから、より完全な答えを自分で学ぶ手掛かりにして欲しい。

Q: (T) 何回か前のセッションで、僕らが「直角関係にあるリアリティ」について話し合ったとき、キミたちは僕に起こった何事かに触れつつ、僕は人生を振り返って、ある時点から今に至るまでに出会った他人との交友関係を分析しなくてはならないと言い、そしてキミたちはこれを、直角関係にあるリアリティと呼んだんだ。直角関係にあるリアリティの定義とは何なのかな?

A: 直角関係にあるリアリティとは、第一義的には、他の定義を許さないものではないのだが、同様の人生の道を辿る人々と結び付いた、人の人生の道筋のことであり、また、人の人生の道筋がサイクルないし輪に、どのようにマッチするかに関するものだ。そして実に面白い事に、これはシンクロニシティに関する、前問ととても密接な関係がある。円の中に円を描いて、嵌め込まれた輪を表現し、完璧なバランスとなるよう、隣接する小間に仕切ることが出来たら、直角関係にあるリアリティのベストな表現となるだろう。というのも、これは個人の経験を完全に含むものではなくて、個々人から成るグループが、より偉大な目的に向けて前進する際の集合的な経験を意味するものだからである。言っていることが分かるかな。「直角関係にあるリアリティ」というのは、こういう意味だ。繰り返せば、円の中に円を描いて、完全なサイクルとなるよう、隣接する小間に等間隔で仕切る。これが直角関係にあるリアリティだ。

Q: (T) キミたちは、僕らにこのシンボルを描かせ、7本のスポークないし仕切りを、2つの円の間に置かせたんだ。

A: 正しい。

Q: (T) 7が最適な数なのか?

A: 7は常に最適な数だ。密度の数も7レベルある。これがリアリティの全ての段階に亘って反映している。

Q: (T) キミたちは、僕らのグループの各人は、ある1つの直角関係にあるリアリティの出身であるとも言っていた。

A: その通りだ。

Q: (T) これは今こそ僕らが、それぞれの異なる直角関係にあるリアリティを一体化させて、互いの体験に学ぶためなのかな?

A: 正確にはちょっと違う。

Q: (L) (1)あの時言われてたのは、内側の円は、このリアリティとの結び付きであり、外側の円およびつながってる小間は、直角関係にあるリアリティが「ウェイブに繋がる」ところだということだったわね。この言明が意味するのは、これらの直角関係にあるリアリティを通して導管を作ることが出来れば、(2)このウェイブを、(3)この変化を、(4)この次元のシフト、(5)あるいは密度のシフトを生み出す上で、役に立つということかしら?(6)そして、これは、他の場所でも行われているようなことなのかしら?

A: 1つの文で6つの質問をしたあなたにおめでとうを言いたい。

Q: (T) あと1問で完璧な直角関係となる質問だったのに!愉快!

(L) 私達は個人として、そして、グループとしても、どんな風にか、ウェイブにつながってるの?

A: もちろん、あらゆるものはウェイブとつながっている。

Q: (L) 私達は、この輪につながることで、言ってみれば、ウェイブを何らかの方法で活性化させているのかしら?

A: あなたの興味深い解釈の意味は不明瞭だが、あなた方がウェイブと相互にやり取りする関係にあるというのは正しい。。。しかし、前にも言ったように、ウェイブは、現在・過去・未来、常にあなた方のリアリティの一部であるという意味では、常にあなた方とやり取りする関係にある。そしてもちろんそれには、あなた方がグランドサイクルにおいて前進するという意味合いがある。繰り返せば、直角関係にあるリアリティも、もちろん、中核部分から外側への前進であり、あらゆるリアリティや、存在する一切のもう1つの反映に過ぎない。さて、前に述べたビジュアルな表現に戻りたい。中心の円が7つのセクションで外側の円に繋がっていることに注意しつつ、思い描いて欲しいのだが、外側の円がどこまでも拡がって行く円であり、 7つのセグメントがそれぞれどこまでも拡がって行く線だとしたらどうだろうか。もちろんここでは、循環的ないしサイクリックに外側に広がるものとする。ビジュアルに、拡がって行く外周と拡がらない内周を思い描いていただきたい。よく考えてから、何を表わしていると思うか、感じたことを教えていただきたい。

Q: (L) これは、私達の知識と意識が拡大することを表わしているの?

A: それもある。

Q: (L) 私達の本質によって、周りに居る人々が受ける影響が拡大中であることも表わしているのかしら?

A: その通り。

Q: (L) 他にも表わしてるものがあるの。。。

A: おっと!あなた方の視覚化している内容がずれていることを探知した!さあ、考えられるかな。外周がずっと広がって行き、内周はそのまま。もちろん7つのパーティションも外側に向かって動いて行く。あなた方の想像では、どんな形になるだろうか?

Q: (L) 車輪?

A: それで終わりかな?

Q: (T) パイ?

A: 続けて。

Q: (L) 目。

A: じゃあ、周から球形に変えてみよう!どうして球形にしないんだい?

Q: (L) どうやったら球形になるのよ?

A: どうしてできないんだ!

Q: (SV) 全ての方向に広がって行くのよ。ただの平面ではなく...

A: 直線は直線のままだろうか、それとも...

Q: (L) あら、円のことじゃないのね?

A: 円のことを話している。もし、円を永遠に外側に広げていったらどうなるだろう?

Q: (T) 外周はずっとずっと拡張してるんだった。

A: で、どんな形になって行くだろう?外側へと拡大していく外周に目を向けて欲しいんだ。

Q: (J) 7本のスポークは、外周に比べて小さなままということでいいの?

A: その質問に自分で答えなさい。

Q: (L) オーケー、平面を表してると考えればいいのね。平らな表面みたいに。

A: さあて、無限に外側に広げていったら、平らな表面はどうなるだろうか?

Q: (L) 分からないわ。それは、きっと。。。

(SV) どこまでも広がり続けるのよ。

A: どこまでも広がり続ける?

Q: (L) ええ、どこまでも、大きく平らにね!

A: そうかな?じゃあ、無限に伸びて行く線の方はどうなる?

Q: (L) 伸び続ける。

A: そう?どこに向かうんだろう?

Q: (L) ふーむ!

A: どこに向かうんだろう?

Q: (SV) 永久に。

(J) 戻ってくる。

(L) それは分からないわ。

A: おお、誰か「戻ってくる」と言ったね。

Q: (J) 自分の尾に噛み付くヘビみたいにね。

A: どうして「それは分からない」のかな?

Q: (L) だって分からないもの。宇宙が曲がっていると推測しての話でしょ...

A: 「だって分からないもの」って、じゃあ、どうして分からないのかな?

Q: (L) そんなとこ、行ったことないもの。

A: コロンブスはイタリアやスペインの外に行った事があったかな?

Q: (L) Okay, 広がり続けると、最後にはそれ自体のところに戻って来ると考えていいのね。。。

A: No, no, no 待ちなさい!こっちが聞いているんだ!

Q: (L) ええ、もちろんコロンブスは、外の世界に何かがあると考えてたけど、行った事は無かったわ。だけど、出かけて行って確かめたのよ。

A: 彼は考えていただけかな?

Q: (L) 大体そんなところでしょ。

A: うーん、私達の記憶しているのとは違う。私達の記憶ではこうだ。彼は本能とイマジネーションを抱いていて、彼がこの本能とイマジネーションとを結び付けたとき、それは現実となった。そして、それが現実となったとき、彼は自分が物質的な第3密度のリアリティに現れると十分確信していた現実を創造した。確信していたと言うより、彼はそうなることを知っていた。彼はこの問題に対して先入観を抱いて止めてしまうことはなかったが、あなた方ときたら、「ええと、そこには行ったことがないから、どうなるかは分からない!」と言って、やめてしまう。どうか論理的に考えて。全てはグランドサイクルであるとあなた方に何度も言ってきた。円の中の円について語ったのがグランドサイクルだとしたら?私達はサイクルについて、短波動サイクルと長波動サイクルについても話した。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=28126159&comm_id=2590126
あなた方に尋ねられ、この上なく喜んで、私達があなた方にもたらしてきた、これだけの情報があるんだ。直線は無限にどこまでもどこまでも伸びて行くと思うかな?どうしてそうなるのだろうか?第3密度の地球上で、直線を東に、あるいは西に、あるいは北に、あるいは南に引いて行くとどうなるだろう...

Q: (J) ぐるっと回って元に戻って来るわ。

A: そうだ。。。

Q: (L) オーケー、そうよ、私達は大きな天球に住んでるのよ!

A: そうかな?

Q: (L) ええと、それって、大きな円みたいじゃない?

A: おや、まあ、まあ、まあ。あなたはもっと勉強しなきゃならないねえ。もっと勉強しなくては。あなた方のアルバート・アインシュタインですら、起こる事を理論化していた。

Q: (L) ええ、だけど、あれはただの理論だわ。

A: おっと、この話はやめなくては。あなた方は知らないんだった。ただの理論だ。忘れるとしよう。

Q: (T) 僕はまだ円を拡げてるよ。。。

(SV) 私もよ。

A: 大変よろしい。それが狙いだった。それはどこまでも、どこまでも、どこまでも伸びつづける。

Q: (L) 私のもよ。だけど、戻って来やしないし、何にも出くわさない。で、狙いは何なの?

A: 狙いがなくてはならないのかな?

Q: (L) もちろん!

A: そんな事誰が決めたのかな?私達はあなた方の学びを手助けしているんだ。いつ、このプロセスを終わらせるつもりかな?

Q: (J) 終わらせないわ。

(L) う〜ん、終わらせる気はないわよ。

A: それじゃあ、狙いなんて無い!

Q: (J) 了解よ!

(L) 狙いは無しねw ええと、円を外側に広げて、あらゆる方向に広げ続けて行くと、7本のスポークも引っ張られて、それぞれの切断面もどんどん広がって行き、やがて1回転して球になるわ。

A: その通り。だけど、ローラはそのことを、私達は大きな天球に住んでいると言った。多分そうかも知れない。

Q: (T) まあ、大きな天球とは言えないだろう;円の中の大きな天球に過ぎないだろうね。もし、円が拡がり続けるなら、それも外へ外へと拡がって行って、天球もどんどんどんと大きくなって行き...

(L) イライラするわね。。。

(T) でも、それは永久に外に向かって行くんだ。。。だって、行く先に終わりはないんだから。。。

A: 無いのかな?

Q: (SV) 無いわ。

A: ああ、それなら多分始まりも無いだろう。始まりも終わりも無いのなら、何があるのかな?

Q: (J) 今、ここ、だけ。

A: 今、ここ、というのはまた、未来や過去でもある。かつて存在したものは、今も在り、これからも在る。みな同時だ。第3密度に居るあなた方のうち、宇宙旅行について理解できる人がごく僅かである理由はこれだ。というのは、第3密度での宇宙旅行はあらゆる点で第3密度的で、夜中に快適なわが家で眠っているようなものだろうけど、基準時間は取り払わられる。あなた方が、まるで母親の乳房のように抱いているものだ。これこそ、あなた方の抱いている最大の幻想なんだ。これまで繰り返し、何度も何度も話してきたように、時間は存在しない。もちろん、にもかかわらず、あなた方はこの概念で随分と洗脳されてきたもんだから、どうやってもこれを拭い去れないんじゃないかな?宇宙空間に出たと想像しなさい。全てが完全に1つであるという現実に直面したら、途方に暮れるんじゃないだろうか?宇宙空間に漂っているところを思い描いてみなさい!

Q: (T) 球は拡がり続けるのか...円が拡がるとき、180度回せば球になる。球が拡がり続けるとき、球自体を掴もうとして、球の外縁上の1点を掴んでも、実際にはドーナツ状をしていて、内側のチューブもずっと広がって行く。それを掴んでよじればずっと大きなチューブになる。これまた、広がり続けて、もっと空間を拡大して行き...

A: さて、密度を融合し、あるいは、密度間を行き来するとき、あなた方が体験するのは、物質的リアリティとエーテル的リアリティとの融合である。後者は、物質性と対立するところの思念態を含んでいる。あなた方がこれらを完全に融合できたときに気付くのは、始まりも終わりも無いという道理だ。それというのも単に、発達を完成し終えた後のあなた方には、始まりとか終わりについて、考える必要は無くなるからだ。あなた方が第7密度で一者と統合するときとは、あなた方がこれを成し遂げるときなのだから、そうなればもはや、物質的、エーテル的という形態の違いも必要無くなる。

Q: (L) 時間というテーマについては、私達、先日議論したわね。私達が言ったのは、一定して光速で飛び続ければ、時間は無くなり、物質も重力も無くなる、だけど、ユニットのどれかが、光速で一定のまま無限に小さくなって行くと、突然重力が生まれ、突然物質が生まれるということだったわ。そして私達は、光のエネルギーからこの物質を、言ってみれば析出させたのは何かと尋ねたのよ。そしたら確か、それは第7レベルからの意識だというのが答えだったわ。私達の密度で、この一定速度を達成して、その先まで行くか、少なくともそこで固定するのは可能かしら?非物質化しないでね。光速は無時間、無重力の状態と互いに関連あるの?

A: 絶対に無理だ。第3密度的意味では。

Q: (L) Okay, 例えば第4密度では、全てが光速で運動していて、そのせいで時間も重力も無いの?

A: No. 不正確な概念化だ。。。

Q: (T) 光速なんて無いさ。光はどこにでもあるんだ。

A: まさしく。第4密度に光速は無い。と言うのも、いかなる「速度」も必要ないからだ。速度自体、第3密度の概念だ。いいかい、存在するもの全ては学び。それだけだ!他には何も無い。全てはあなた方が知覚するため。私達が知覚するため。全ての意識のため。それが存在する全てだ。

Q: (L) それでも、それの正体を理解したいのよ。この重力の出所、この時間がある状態をね。だって、これらは密接に関係してる気がするから。

A: それでは質問だけど:あなたは小学校時代を覚えているかな?

Q: (L) Yes.

A: 3年では何を習った?

Q: (L) 沢山習ったわよ。行書体を習ったし、掛け算も割り算も習ったわ。

A: 1年で何を習ったか覚えているかな?

Q: (L) Yes.

A: 1つ挙げて。

Q: (L) 数え方を何通りか習ったわ。読み書きも習った。

A: Okay. 掛け算や割り算をしているときに、ペンか鉛筆を落としてしまい、突然1年生の気持ちに帰って、どうしてアルファベットを学ばなくてはならないのか突き止めようとしたことはあるだろうか?

Q: (L) 無いわ。

A: どうして無いのかな?

Q: (L) だって、もう知ってたから。

A: もう知ってたんだ。つまり、アルファベットを習う必要は無かった。というのも、あなたは既に知っていたからだ。そうだね?

Q: (L) Yes.

A: もはや光速など無いのに、光速について学ばなくてはならないのかな?

Q: (L) まさにそれをしようというのよ。一度学べば、多分もう学ぶ必要がなくなるでしょ。つまり、示された概念を理解してそれを吸収し実際に使えば、自分の身に付いてそれで次に進めるのよ。

A: Yes, だけどあなたが尋ねているのは、第4密度およびそれ以上の密度レベルに関する光速のことであり、私達はそこには光速など無い、というのも、それは必要ないからで、一度第4密度レベルに到達すれば、第3密度レベルでの学びは終えているからだと言ってるんだ。

Q: (L) もし第3密度の人が、何かの乗り物に乗り込んで光速を達成したら、自動的に第4密度に移るの?

A: そんな乗り物を挙げられるかな?

Q: (L) そんなものはまだ。。。無いわ。

A: 第4密度に行く前に、手に入れたいかな?

Q: (L) No.

A: それじゃあ、学びは済んだのではないかな?

Q: (L) 幾らかはね。

A: あなたが尋ねた事に答えて、私達が言っていることを信用するなら、学びは済んでいる、さあ、考えなさい。存在する全ては学びなんだ。

Q: (L) あなた方、時間は幻想だと、時間は私達が母親のように大切にしてるものだとかその類の事を言ってたけど、私は時間を手放せて全く幸せよ。。。

A: やれるとも!手放しなさい!

Q: (L) それは心の中でやりたいと思ってる事の1つだけど、システムの中でも、内部のオペレーティング・システムの中でもやらなくちゃね。

A: あなたの中のオペレーティング・システム?

Q: (T) それはDOSかい?WARMかい?

A: 内なるオペレーティング・システムとは何なのか説明して?

Q: (L) 潜在意識でしょうね。

A: そうかな?

Q: (L) 多分ね。

A: おやまあ。

Q: (T) 潜在意識には時間の概念は無いよ。

(J) 時間は人工的な制限でしょ。。。

(L) 例えば:ある人が意識の上では裕福だと信じることが出来、口でもそうだと言い、自分に対してあらゆるポジティブなことを言ってても、何らかの理由でその人は、貧困に瀕して生き続けてるのよ。というのも、何か彼を貧困のレベルに締め付けておくような事が起り続けてるからなの。それでその人の潜在意識を探ってみて分かるんだけど、心のどこかで貧困がいいと思っているか、あるいは過去生の繋がりがあって、貧しくなくてはならないとか、そうあるべきだとか思ってるのよ。という訳で、内部のオペレーティング・システムが意識的な信念や考えに優先するのよ。そういうことを言ってるの。

A: Yes, だけど要するにどういうことかな?

Q: (L) 要するに、時間を取り除きたいと言い、概念的に理解できても、内なる何かがそれを結び付けたままなのよ。内なる繋がりはどうやったら取り除けるの?

A: 内なる何かが結び付いたままだって?

Q: (J) 概日リズムみたいな、身体のものよ。

A: あなたは焦点がずれていると思う。

Q: (L) 多分、そうかもしれないわね。

A: いいかな、これはあなた方全てに言いたいことだ。今こそ一人一人が、出来る限り移行しようとすべき時なのだ。もちろん、無理やりと言うわけではないが、自分のペースでできる限り第3密度の制約から移ろうとしてみなさい。あなた方は皆、第4密度への備えを始める準備が出来たという以上のレベルまで、学びを終えている。第3密度には物質性と制限と抑制といったあらゆるものが含まれ、また、それらと共に生きる人々が居るが、これらはあなた方にはもはや必要ないものだ。だから、時としてここにしがみついているのが快適に感じられるのもわかるけど、今こそ、その時だ ― 繰り返すが − 今こそ先へと進むことを考え、第4密度に備えなさい。そして、時間だとか、どうしたら時間の幻想から逃れられるかとかいうことに、かかずらわっていてはならない。それは全くもって重要でない。それはあたかも3年生が算数の勉強を徹底的に行ううちに何事も全部中断してしまい、ABCはどうしてCBAとかBACじゃないんだろうと考え込むようなものだ。意味の無い事だってある。単にそうなのだから。それらはあるがままのものなのだ。

Q: (L) それこそ知りたかったのよ。それって何?

A: 何で、これを知る必要があるのかな?

Q: (L) 好奇心からよ。時間って何なのかしら?

A: 前にも言ったように、そんなものは存在しない。あなた方が居る、ないしはかつて居たレベルでの学びのポイントでの幻想上の人工的な産物だ。そのレベルを終えたら、もはやあなた方には必要無い。

Q: (T) 多分、時間のことなど心配しないのも学びの1つなんだろう。時間が本物じゃないと学んだ以上はね...

(SV) ボスに言ってよ!

A: 本物じゃないなら、それが何なのか気にすることが重要かな?ビリーとジーンの2人の会話を考えてみなさい:ビリーがジーンに言う、「時間なんてものは無いんだ」ジーンは言う、「えっ、ホント?だけど正体が知りたいものね」ビリーは言う、「だけど、今、そんなものなど無いと言ったじゃないか。時間は存在しないんだよ。実際のどんな形でも無く、どんな準拠枠にも無く、どんな現実態でも無く、どんな密度レベルにも無い。単に存在しないんだ」で、ジーンが言う、「まあ、面白い。じゃあ聞くけど、時間って何なのかしら?」

Q: (L) 分かったわよ。

(T) キミは腕時計してる?

(L) No.

(SV) 私はスケジュールがあるのでしなきゃならないの。

(T) でも、他の人たちが時間の存在を信じてるから時計をしてるんだろう?

(SV) Yes.

(T) 彼らの信念に対する好意からで、キミの信念ではない。

A: まさにその通り。未だこの第3密度に居る以上は、第3密度領域を、より居心地良く感じている人々のやり方に、まだある程度は従う必要がある。だが、先に言った通り、そろそろあなた方は、第4密度への準備を始める「時」であり、第3密度の現実の、どこだとか、何故、何のためなんてことにかかずらわっている必要は全く無い。今やそれらは本当にあなた方にとっては過去のことだ。私たちには分かる。というのも、私達は第1から第6までの全レベルを全サイクルに亘って見通せるからだ。

Q: (L) ということは、そう前のことじゃないけど聞いたことがあったじゃない、このグループの目的は何かってね。そしたら答えは、もし私達にそれが分かれば、より正確には、私がそれを知ったときには、私は「引き離される(unglued)」だろうということだったわね。文字通りの意味にとっていいのかしら?

A: おお、確かにその通り。あなたの骨の1本1本まで、他の人から引き離されるだろう。

Q: (L) あなた方がそう言うってことは、今こそ私達は第4密度に備え始めるべき時、おそらく、その質問に取り組むべき時なのね?

A: おそらく今やあなたが私達の話の舵取りをしようとしてるね。面白いじゃないか。なぜってもちろん、当初は私達の助けを求めていたあなたが、今やあべこべに私達の立場に立とうというんだから。だが、実はある意味、これは既に起こっていたことだ。というのも、もう1度思い出して欲しいのだが、私達は未来のあなた方であり、私達はあなた方が経験しつつあることを、全て経験してきたんだ。そして、もちろん私達の経験しつつあることも、常に経験済みだ。だが言っておかなくてはならないのだが、私達が時折注意を与えてはいるものの、あなた方は進歩を遂げた。あなた方の進歩を実に誇らしく思う。そしてまた、これも思い出して欲しいんだが、進歩の程度だの方向だのを心配することはない。なるにまかせなさい。この進歩を保つのに、必要不可欠な習得すべき知識は、適切な[声を揃えて]「時」が来ればちゃんと手に入るだろう!だから、前から話しているように、心配しなくても万事落ち着くべきところに落ち着くんだ。さて、あなた方を見ているとまだ準備が出来てないように感じる。今はまだ、あなた方の究極の目的が何かも、それがあなた方に必要だということも、知る必要はない。どっちみち、そんなこと知ったって役には立たない。だからまたお願いするけど、どうかそんなことは心配しないように。だって、知るべき「時」が来たら、分かることだから。

Q: (SV) 1つ質問したいんだけど:もし時間というものが無く、過去も未来も、過去生も未来生もないとなると、転生のようなものもないのかしら。だとすると、あなた方はどうして未来の私達だと言えるの...

A: Yes, 確かに転生はある。あなたは先回りし過ぎだ。転生が無いなどとは言っていない。

Q: (SV) でも、時間が無いんだったら?

(J) 私達の知覚の問題よ。

(L) 全ては同時に起こるの。私達はそれらの人生を同時に体験しているのよ。

(SV) 私達の自己を他の全ての自己と繋げる方法はないのかしら?

A: このように思い描いてみなさい:あなた方のメモリーバンクのいくつかにアクセスして、別の観点を与えよう。それは、前に言った直角関係にあるリアリティの輪のイメージにも、ちょうどぴったり来るような面白いものだ。スライド映写機がどういうものか知っているかな?現実が帯びている拡大していく性質をいくらかでも感じられるよう、映写機には巨大なスライドの輪が回っていて、あなた方は、巨大なスライド映写を見ているところだ。映写途中のどの時点をとっても、あなた方は特定の1枚のスライドを観ている。だけど、残りのスライドも輪の上にあるんじゃないのかな?もちろん、この喩えは直角関係にあるリアリティにも当てはまり、円の中の円、サイクルの中のサイクルにも当てはまるし、グランドサイクルにもまた当てはまる。そしてこれはまた、以前話した、「存在する全てのものは学びである」ということにも当てはまる。存在するものはみなこのようであり、スライド映写を観ているかのように、楽しんで欲しいものだ。

Q: (J) そのアナロジーで言えば、スライドを通って輝く光、スクリーンに投影するそれこそが、私達の知覚なのね。

A: そして、振り返って映写機の真ん中を見れば、そこには、あらゆるものの創造自体の源であり本質が見えるだろう。これこそがレベル7、一者とあなた方とが統合している場所だ。
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もし、意識の光の源が第7密度にあって、そこから意識ユニットすなわち個人の知覚を通して投影が行われているのなら、元型的イメージが極めて重要であるに違いないと思われてくる。元型は、高次密度の存在によって想像され、創造された、人間・社会・国家の交流パターンである。そしておそらく、このような元型的イメージは予言者として知られてきた人々によって視覚や知覚でとらえられるのだろう。

ずっと最近になって、私は上の交信の中でカシオペアンズが言っていた「引き離される(unglued)」だろうという言葉に対する奇妙な言及を発見した。著書『旋回するダーヴィッシュ』で、アイラ・フリードランダーは書いている:


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世界の全てのものは、我々が半ば見えるようにしたもの以外、見えない。気付きを招き入れることによって、全てが見えるようになるのだ。ダーヴィッシュの狙いは、心の眼を開き、永遠の中の無限を見ることである。彼の目標は、彼を縛り付けている地面の糊(glue)から自身を解放し、神と一体になり、神の光のためのチャネルになることなのだ。
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The Whirling Dervishes: Being an Account of the Sufi Order Known As the Mevlevis and Its Founder the Poet and Mystic Mevlana Jalalu'Ddin Rumi (Suny)
by Shems Friedlander
http://mitsuokuroha.net/work/cb/Jindex.html
http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/0709/feature02/notes/index.shtml


西洋人の解釈とは異なり、スーフィーの観点では、いかなる意味においても心の眼を感情や愛には関連付けないことに注意すべきである。実際、東洋の神秘主義において心という言葉は、魂の意識 ― 気付き ― という意味合いを持つのであって、これが歪められてニューエイジの教えで使われている場合の「心のあり方」という意味ではない。神秘家、革命的著述家、スーフィーの師であるハッジ・マンスール・アル=ハッラージュ
http://emikikuchi.exblog.jp/5821800
はこう語った:


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真理が人間の心を圧倒したとき、それは真理でないもの全てを消し去る。神がある人を愛するとき、彼は自分でない全てを殺し給う。
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これで想起されるのは、カシオペアンズによる以下の言葉である:


950617
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A: 直角関係にあるリアリティとは、第一義的には、他の定義を許さないものではないのだが、同様の人生の道を辿る人々と結び付いた、人の人生の道筋のことであり、また、人の人生の道筋がサイクルないし輪に、どのようにマッチするかに関するものだ。そして実に面白い事に、これはシンクロニシティに関する前問ととても密接な関係がある。円の中に円を描いて、嵌め込まれた輪を表現し、完璧なバランスとなるよう、隣接する小間に仕切ることが出来たら、直角関係にあるリアリティのベストな表現となるだろう。というのも、これは個人の経験を完全に含むものではなくて、個々人から成るグループが、より偉大な目的に向けて前進する際の集合的な経験を意味するものだからである。コロンブスは本能とイマジネーションを抱いていて、彼がこの本能とイマジネーションとを結び付けたとき、それは現実となった。そして、それが現実となったとき、彼は自分が物質的な第3密度のリアリティに現れると十分確信していた現実を創造した。確信していたと言うより、彼はそうなることを知っていた。彼はこの問題に対して先入観を抱いて止めてしまうことはなかったが、あなた方ときたら、「ええと、そこには行ったことがないから、どうなるかは分からない!」と言って、やめてしまう。。。中心の円が7つのセクションで外側の円に繋がっていることに注意しつつ、思い描いて欲しいのだが、外側の円がどこまでも拡がって行って。。。

Q: (L) これは、私達の知識と意識が拡大することを表わしているの?

A: それもある。

Q: (L) 私達の本質によって、まわりに居る人々が受ける影響が拡大中であることも表わしているのかしら?

A: その通りだ。
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ここで、以下のように問うべきだろう:どうして私達は、物質的な滅亡が現実として起り得るような世界を作ってしまったのだろうか?どこで人類は間違ったのだろうか?そして私たちは本当に、断崖絶壁でバランスを失っていて、二度と出て来れない様なとても深くて暗い穴に落ちようとしているのだろうか?

意図し/願ったことと、物質としての顕れとの間にある、かくも謎めいたギャップは何だろうか?どんな闇が私達の潜在意識の中にあって、それが世界をこうも敵対的で冷淡なものにしたのだろうか?どんな力が私達を、自己の内なる創造的な知識から引き離し、苦難と苦痛に曝されるままにしたのだろうか?

現実を ― 自分が創造した顕現、あるいは、私達に押し付けられた既成事実としてであれ ― どのように定義付けようとも、苦難という現実は、この分離の結果起ってくるのに違いない。そしてもし、物質世界が私達によって創造され、維持されているのだとしたら、私達はそれについて、どんな新しい事、違った事を行っているのだろうか?

数千年来、私達は苦痛と苦難はあえて現実に従おうとしない結果であるという考えに取り組んできた。もしそういうことなら、人間の存在は宇宙の破滅の元だろうが、確かにこれは、あらゆる思想や教えの中につきものの核心的な信念体系であって、あれやこれやの救世主や救いの在り様に対する信仰を推し進めてきた。そして注意すべきことに、これに頼って来たが故に私たちの人生はうまく行かなかったのである。

いかなる理由からであれ、私達がこの考えを受け入れれば、創造のいくつかの側面は、私達が意識の在りかとみなす、限りある3次元を顕現させることになる。この状況とその変化への潜在力をどう説明したらいいのだろうか?

普通私達は、過去がもはや存在しないと考える。未来もまた存在しておらず、現在とは、無から無への瞬間的な移行のことだとされる。いかに馬鹿げていようが、結局は直線的な観方でもって、これを理解しようとすることになるのだ。

量子物理学を真剣に受け取った自然科学者のジョン・アーチボルト・ホイーラーは書いている:


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要するに宇宙とは、偉大な総合であって、常に全体を一まとめにしたものである。その歴史は、通常我々が考えるような歴史ではない。それは次から次へと何かが起るのではない。それは全体性であって、その中では「今」起っている事が、「かつて」起った事を現実たらしめ、恐らくは、かつて何が起ったか決定すらしているのである。
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Wheeler, J. A. (1998) Geons, Black Holes and Quantum Foam, Norton.


しかし、もし今だけが存在するというのが正しいのなら、問題は私達の時間の概念にある。私達は時間を直線的で、長く、短く、あるいは終わりなき線であって、過去から未来へと進むものとみなしている。しかしこれは解決できない問題を生み出す。線上において、「今」は、数学的に極小の点であって、大きさを持たない。科学の論理では存在しないことになるのだ!

ロシアの哲学者であるP.D.ウスペンスキーは、著書『ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範)』においてこのことを、旅に出たカタツムリの例を用いて説明している:


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我々はカタツムリの内的生活について何も知ることができないが、その知覚が我々と非常に異なっているだろうことは確信できる。ほとんど確実に言えるのは、カタツムリの周囲に対する感覚は非常に曖昧模糊としたものであろう。おそらく暖かさ、冷たさ、光、闇、空腹などを感じるだろう。そして本能的に(快―不快の導きの下で)まだ食べていない葉っぱの端に這っていき、枯れた葉っぱから離れていくのであろう。その動きは快―不快によって支配されている。常にあるものに向かって前進し、あるものから後退する。それは常に1本の線上を、不快から快に向かって動く。そして、ほとんど確実なのは、カタツムリはこの1本の線以外のものは何も知らないだろうということである。カタツムリにとってはこの線が「全世界」なのである。外部から入ってくるあらゆる感覚はこの線上における「運動」として感じられる。それらは時間の外からやって来る。「可能性」であったものが「現実」となる。カタツムリにとって、我々の全宇宙は時間(過去と未来)の中に存在する。
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高橋弘泰訳、120ページ。


カタツムリにはおそらく自意識が無い ― すなわち、広大な景色の向こうへと広がって行く、いずれも同時に存在しているという意識が無く、何らかの変容プロセスを経て、意識を拡張させ、庭の上高く視界を広げることができたなら気付くことができたであろうような意識を持たないのだろう。しかしカタツムリは、様々な現象 ― 葉っぱ、草、小枝、砂、散歩道といったもの ― を、それらに触れる瞬間に知覚することしかできない。それらは過去から未来に向けて、長続きするものもあれば、短時間のものもあったが、体長せいぜい数インチのカタツムリに「起こった」事だった。

同様にして私達は私達の世界を経験するのだが、私達の五感の感覚器は、脳という数学的な構造体および、3次元の意識という制限された観点を通して世界に触れ、それを解釈する際に用いる、単なる触角に過ぎない。科学的な道具機械は私達の触角をほんの少し延ばすに過ぎないのである。


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(40ページ)
感覚知覚の条件によって制限されていない意識を想像してみよう。そのような意識は我々が動いている平面を上から見ることができるだろう。そして我々の通常の意識によって照らされた円の境界の外を見ることができるだろう。またそのような意識から見れば、我々がその上を動いている線ばかりでなく、我々が現在横切っている、または以前に横切り、これから横切るすべての他の垂線も存在していることが分かるであろう。平面から立ち上がることによってこの意識は平面を「見る」ことができ、自分が動いているのは実際には平面の上であって線の上ではないことを確かめることができる。そして、過去と未来が並びあって同時に存在していることを知るであろう。。。

過去と未来は非存在ではあり得ない。。。それらはどこかに共に存在するに違いないが、我々がそれを見ることができないだけである。。。我々は過去、現在、未来はいかなる意味でもお互いに異なるものではないことを認めなければならない。存在する唯一のものは現在 ― インド哲学の言う永遠の今だけである。
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初めと終わりなのだ。だが私達はこれを見ようとしない − 少なくとも、そうしている人は殆ど居ない − その上、私達は不十分にしか見ていない。「鏡におぼろに映ったものを見ている」だけである。(※コリントの信徒への手紙一 / 13章 12節) 私達は宇宙の景色を横切って行くカタツムリであり、意識できる大地や、葉っぱ、花、あるいは行く手の雨粒は、ほんの束の間のことに過ぎない。いかなる瞬間にも、私達が気付いているのは宇宙の断片のみであり、私達は他の全ての存在 − すなわち、過去と未来との共存、そして、それを知覚する可能性 − を否定し続けているのだ。カシオペアンはこれを人が密度を融合させ、密度を横断する状態と呼ぶ。それは物質的現実とエーテル的現実との融合であり、そこに含まれるのは、思念態と物質性の対立である。つまり、未来の自己との超光速通信なのだ。


950114
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Q: (L) 前にあなた方、あなた方が未来の私達であり、私達と合体するためにこちらにやって来るところだと言ってたわね。

A: Yes.

Q: (L) 私達の時間で言うと、どのぐらい未来の私達なのかしら?

A: あなた方の時間では決められない。

Q: (L) それってつまり、ウェイブが地球に到着する、来るべきイベントの時期については、あなた方がもたらしてくれた情報から、到着予測時期をプロットでき、そのときに、あなた方が私達と合体して、未来の私達になるということかしら?

A: No, それは正確な概念ではない。

Q: (L) だって、ウェイブが到着したときに、あなた方は私達と合体するんだと言ってたじゃないの。それと、あなた方が未来の私達であると言ってるのとは、同じことじゃなくって?

A: No. あなたはまたしても、高次密度レベルの現実に適用するのに、第3密度の論理を紛れ込ませている。 私達は、皆が進歩するのを手助けしようとしているんだ。

Q: (L) じゃあ、同じイベントについて話してるんじゃないのね。。。

A: 一体、「未来」とは何だろう?

Q: (L) 未来というのは、同時に起きている出来事で、単に時空における場所が異なっているか、単に意識の焦点が異なっているかよね?

A: Yes, だとしたら、どうして直線的な考え方をここに適用するのだろう? 私達は今も、あなた方と合体しているんだ!

Q: (T) つまり、キミたちが言わんとしているのは、ウェイブがやって来たとき、僕らに準備さえできていたら、それは僕らを第4密度に連れて行くけれど、その時点では、僕らは第6密度のキミたちと実際に合体するのではなくて、ある合体を経験するということなのかな?だって、ある密度から他へと移行する間には、全ての焦点が結合するんだろうから。

A: 部分的には正しいが、部分的には見当違い。

Q: (J) どの部分が正しくて、どの部分が間違ってるの?

(T) ウェイブは僕らの中から、その時点で準備が出来ている者を連れて、第4密度へと移動させるんだよね?

A: Open.

Q: (T) どの部分が未定なんだろう?

A: あなた方は第4密度の候補に過ぎない。

Q: (T) それじゃあ、僕らが第4密度の候補であるというのは、必ずしも第4密度に行けるとは限らないということなんだね?

A: 一部は。

Q: (T) 第4密度の候補であって、しかもウェイブがやって来たときに、正しい周波数の振動に達していて、ウェイブが連れて行けるポイントまで自らを引き上げていたならば、その時点で彼は第4密度に移るんだよね?

A: いい線いっている。

Q: (T) それじゃあ、そのような人々が第4密度へと移るとき、その時点で彼らは完全性ないし、彼らの他の全ての密度の存在との合体を、たとえ短時間であれ経験するんじゃないのかな?

A: 限り無く短い瞬間は。それが「悟り」という言葉の意味だ!

Q: (T) だけどそんな短い瞬間でも、実際には時間は存在しないのだから、個人次第で一瞬にも永遠にも感じられるんだろう;僕らは自分自身との一体感を経験するんじゃないかな?

A: 「永遠に」続くように思われるかも知れない。

Q: (L) それが「ラプチャー」として知られているものかしら?

A: 本能的な思考パターンのことを、そう説明しようとした人々がいた。
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未来の本質について、2つの主要な説がある − 未来は運命付けられているという説(=決定論)と未来は未決定であるという説(=非決定論)だ。決定論は、あらゆる未来の出来事は過去の出来事の結果であると主張する。仮に過去の全てが分かれば、あらゆる未来が分かるだろうというのである。非決定論は量子論的確率に基礎を置いている。だが、未来は部分的に決定済みであるか、あるいは未決定であるかのいずれかである。というのも、どの時点においても様々な相互作用が起こり得るからだ。

自由意志説は、完全に意図的な行動は、引き続き起こる出来事に変化をもたらすだろうと述べる。決定論を支持する人々は、いわゆる自由意思に基づく行動なるものは、実際には因果性に対する不完全な理解の結果にすぎなく、因果的にそれらは必然的行動だったのであり、要するに偶然的なものは何も無いと説く。非情な決定論が、例え何が起ころうと何事も変わりはしないとする一方には非決定論があって、私達にとっての現実とは、現在という名のある種の針の先の点に過ぎず、これは非存在の深淵によって周りをすっかり取り囲まれていて、刻一刻、生まれては死んで行く世界であると言う。

ウスペンスキーはこれらの観方を統合して言う:


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(43ページ)
あらゆる瞬間において、すべての未来は決定され、すでに存在しているが、それは条件付きの未来である。すなわち、ある瞬間の出来事の方向に沿った一定の未来は存在するが、それは何も新たな要素が入ってこなかった場合である。そして新たな要素は、意識と、その結果生まれる意志によってのみ生じる。これを理解し、心に植え付けるのは重要なことである。
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つまり、カタツムリも本能的な快楽への衝動と苦痛の回避を克復することによって、彼の進む方向を変えるような選択が出来るのである。しかし、これが起るには自分が向かっている方向に気付く以外にない。もし生まれながらの性向が、彼を奈落の底へと突き落とすことになり、その下に炎熱地獄が待ち受けているのであれば、それを避けるには何が必要なのか学ぶ必要があるだろう。


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(44ページ)
過去の中には、過去にそうであったものばかりでなく、そうであり得たものも含まれている。同様に、未来の中にはそうであり得るものも含まれている。
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全ては同時に存在しているのであり − 意識の焦点を、単独でも集団としても変えられるのは私達だけなのである。そして私達がこの変化を成し遂げられるのは、現実の真の状態について私達が客観的な気付きを持っている場合だけなのだ。

さて、こう問わねばならない:なぜ私達は現実をありのままに知覚できないのか?なぜ私達は知覚を拡大できないのか − どうして私達は現実と呼ぶ苦痛に満ちた存在に繋がれているのか?私達の意識は物質的存在における根本的な変更なしでも、3次元の状況を超えることができるのだろうか?どれくらいの間、私達はそこで持ちこたえられるのだろうか?そのような拡張された意識の状態で生きるためには、私達個々人の実在の基本的な性質がドラマチックに変わる必要があるのだろうか?きっとそうなのだろう。

量子力学は過去、現在、未来に存在する全てが最も遠くにある部分までも、即座に結び付くような具合に単一の実体として結び付いていることを示したのだろう。このワンネスには、場のメカニズムは何も要らない。おそらくこの実体こそがウェイブを運んでいるのだろう。しかし、カシオペアンズはこう指摘する:


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http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=30528522
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A: ウェイブは輸送モードだ。

Q: (L) その輸送モードって、沢山の生命体が利用してるの?

A: Yes. ウェイブは「混んでいる」

Q: (L) あなた方は私達を侵略しに向かってるの?

A: いや、融合だ。

Q: (L) 他の連中(アザーズ)は私たちを侵略しようとしてやって来てるの?

A: Yes.

Q: (T) それじゃあ、宇宙じゅうの地球利権を欲しがってる連中が、このウェイブに乗ってるんだ?

A: 領域境界のクロスに。UFO活動の巨大な波。あらゆる方法で到る所から出てくる。今に見ていろ、ゾッとしてきて胃に穴が空くぞ。沢山のエイリアンが出現し、私達も姿を現すだろう。エイリアンの大会だ。全てはこのことに気付かせるため、今まさに起こりつつある。すなわち、どこの住人も皆、自らの振動に従って個々の役割を果たしているのだ。まだほんの始まりに過ぎない。。。

Q: (L) あなた方とプレアデス人との関係は?

A: プレアデス人は、多くの地球人とコミュニケーションしている;一方、私達はと言えば、あなた方の前に突然現れた。だが、プレアデス人と私達は本質的には同じであり、フォーカスしている領域境界上の点が、わずかに異なるだけだ。

Q: (L) それじゃあ、このような活動がどうして今起こっているの?

A: グランドサイクルがまさに閉じようとしていて、またとない機会が出現している。

Q: (L) つまり今が、未来を変えるためのまたとない機会だということ?

A: 未来、過去、そして現在もだ。

Q: (L) えーと、ということは、グランドサイクルのこの時点で物事がどうにかして変わらないと、事態は本当に恐ろしい大失敗に終わるかも知れない気がするわ。合ってる?

A: でも、そうはならない。あなたは未だ分かってない。

Q: (L) あら、分かってるわよ。サイクルの一部だと言うんでしょ。やって来てるエイリアン達も私達の仲間だってことよね....

A: そうかな???[ウイジャボード上で、プランシェットが大きなクエスチョンマークを描く]

Q: (L) 何がよ?

A: 分かってると言ったね。本当かな?学びなさい。

Q: (V) 私は「大会」だというのが気になるわ。。。

A: 大会が開催される理由は、領域境界が交差しているからだ。

Q: (L) それで、領域境界が交差してエイリアン大会となっているのは、なぜなのかしら?つまり「一大ショウ」ね!

A: 好機が到来した。

Q: (V) それらの生命体がいっぺんにやって来れるよう、同時に全てのウィンドウが開いたようなもの?

A: 宇宙全体に影響を及ぼす好機だ。『威風堂々』こと『希望と栄光の国』が宇宙規模で演奏される様子を想像しなさい。

Q: (L) それじゃあ、領域境界というのは、場所と関係があるの?

A: 領域境界はウェイブに乗って来る。

Q: (L) で、これらのウェイブはどこからやって来るの?

A: 絶えず循環している。

Q: (L) 地球が動いてウェイブに入って行くか、ウェイブが動いてこちらに向かって来るかするせいなの?

A: どちらか。

Q: (F) この集会ないし収束は、この地球上に住人が居ることと関係あるんだろうか?

A: Yes. そして、あなた方が発達上の重要な局面にさしかかっているから。

Q: (L) 第6密度のオリオン人は、トランジエント・パッセンジャーズ(短期滞在旅客、TP)としても知られるけど、彼らは、私達を遺伝子的にエンジニアリングし、ここに置いたと言われてた、あのTPと同じなの?

A: まあね。彼らはウェイブに乗っている。

Q: (L) ウェイブに乗ってるそのグループはTPとしての役割の一環で、ウェイブに乗ってる訳?

A: Yes.

Q: (L) そんなウェイブなんかに乗っていたいのかしら?

A: あなただって、地球に住んでて「楽しい」かな?

Q: (L) あら、地球に住むのは大好きよ。でも、苦痛を受けるのは好きじゃないし、人間が同胞に対して行う残酷な行為は好きじゃない。あと、他人が苦しんでいるのを見るのもね。

A: あなたは、面白半分で地球に住んでるのかな?

Q: (L) 私だって面白おかしく地球に住みたいわよ。でも、今回ここに来てからというもの、大笑いしたことなんてこれっぽっちもないわ。楽しい星で人生を送ってみたいものよ。。。

A: あなたは誤解している。

Q: (L) あなた方の言いたいことはわかるわよ。誰だって、そこに住んでいるのには理由があると言うんでしょ。

A: Yes.
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ウェイブに関する上の議論の中で特に興味深いのは、どうやらウェイブ上の様々なフォーカス・ポイントから様々な情報ソースがやって来ているらしいということである。そのことと、直角関係にあるリアリティの考え方すなわち、ある人々はウェイブと相互交流的、ないしは合体するような繋がりがあるということ、そしてまた、元型とは、第7密度の意識が意識ユニットの中に自らを投射するスライドであるという考え方を一まとめにするとカシオペアンズが上で言っていたように、「どこの住人も皆、自らの振動に従って個々の役割を果たしているのだ」ということになる。つまり、各人は、彼らがウェイブに繋がっている振動数の顕れなのである。

波動の研究は精密科学であり、あらゆる波が同じ基本的法則に従っていることは、実際的にも数学的にも明らかに論証できる。このような法則の1つによれば、波は波立っている媒体の特質を帯びるという。そしてまた波は、厳密に決定されたサイクルを経過し、サイクルには、知ること、すなわち推定することが出来る位相があると言われる。こういう状況なので、私達が現実(リアリティ)として知覚しているものは、太古の波形、すなわち第7密度の無数の振動に他ならない。物理学では、波には普通、揺れがあるとされる。だから、私達の現実にも揺れがあると想定できる。

人間は絶対者の振動であり、そのようなものとして、エネルギーの他の波形の発現によって増大し、その結果、言ってみれば自らの気付きを拡大する可能性を秘めているということを私達は悟らねばならない。ちょうどある種の機械の助けによって、赤外線や紫外線、X線、電波のような、ある帯域の光の知覚が増すように、個人のエネルギーも霊的手段によって同調され得、あるいは、最も深いレベルで始原のウェイブ自体にさえ同調するのかも知れない。

これが、悟りをもたらし、あるいは、高次のソースから情報を受け取る、神秘的状態にある間に起っているのだと思う。ここで疑問が生じる:ウェイブを起こしているのは誰、あるいは何なのだろう?

時空を超えた大いなるリアリティは必然的に言語に絶するものである。多くの場合、このような情報を受け取っている人は、自分達の経験が説明不可能であると言う。だから私は、私達の肉体の脳が持つ有限性とはある意味、自己制限的なものと想定できるように思う。しかし、脳は確かに、普通に思われていることよりずっと多くの事をするのである。

脳は数学的構造物の中に在る現実にフォーカスするよう考案された道具であり、それは波形を有形物として解釈する。ある人々の持つ、生理科学の領域において、このような高次の意識状態を達成する能力は、日々、幻想的な例によって文書化されている。私達はこのような能力が、広大な始原のウェイブの動きを、他の方法で知覚できる領域にまで達しうることを理解すべきである。このような人々は、振幅およびエネルギー次第では、他の波形の効果を知覚でき、意識の方向次第では、おそらくとても正確な言葉で、ある運動の結果を予言できるかも知れない。

物理学の新研究は、古代の神秘的な教えのように、刺激的に聞こえるものだが、私達の世界の背後にあるリアリティの本性とは量子力学や場の理論を超越していると思う。もっと多くの真理が過去の人々には知られていたし、彼らは実際、詩の形をとったり、ぼやかしたメッセージの中で、深遠で神秘的なリアリティを表現していたことが分かるだろう。神秘家や予言者は量子的な状態を知覚していたのであり、それらは言語で言い表すことが明らかに難しかった。加えて、時の経過と用語法の変化があったために、理解するには実に大きな障碍があるのだ。

文学や歴史においては、このような意識の高揚を ― 少なくともある程度の間 − 達成したと主張する人が多く居る。この状態がいかにして達成されたかに関する情報は多くあり、壮大な自己修練や周到な準備について語っているが、それらはある環境下で自然に起こったもののようである。

因/果両方の実相を同時に見る体験を続けるのは、3次元的解釈によってたえず爆撃されている人にとっては極めて困難であり、これを言葉で言い表すのはさらに難しい。

カタツムリに1エーカー(約4046.8平方メートル)の土地の広さを説明する難しさを想像してみよ!神秘家と予言者は、数千年来これを試みてきたが、それは圧倒的多数の人類がこのような考えを全く誤解する結果に終わった。聞く耳を持つ人々によっても、真実が誤解されるなら、それは嘘も同然である。最大の嘘は、理解していない人々によって生み出された、宗教という闇と邪悪のシステムである。(もちろん、だからと言って、旧石器文明における宗教のように、きちんと理解している人々によって真実に基づく宗教が生み出されることがない訳ではない。)

ごく最近まで科学は、病的ないし不健康な心の状態という見出しの下に、サイキックあるいは神秘的状態を一まとめにしてきた。多くの科学者は未だにこの意見を抱いている。似非神秘主義的悪用や、純粋にサイコパス的状態、意識的な詐欺といった状態が世界じゅうの教会やカルト宗教において何世紀にも亘って存在してきたのである。

どうしたら本物と偽物を見分けることができるだろうか?

もし神秘的状態を、拡張された意識状態における認識と定義できたら、結果はどうなるだろうか?ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』を読むことでチェックリストが得られる:


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1. 神秘的状態は、他の経験では得られない知識をもたらす。

2. 神秘的状態は、現実世界が本来持っている、全ての属性をもたらす。

3. 様々な時代の様々な人々が、驚くほど似た、時として完全に同じ神秘的状態に置かれてきた。

4. 神秘的経験の結果は、通常の観点から見た場合、全く非論理的である。
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もう1つ疑問を提示したい:私達はおそらく、この地球上のリアリティを違ったやり方で見詰めるべきでないだろうか?人間の場合、おそらく生が死と異なるくらいに、誕生前の胎児時代は死後の生と異なっている。死は消滅を意味するのだろうか?きっとそうではあるまい。というのも、私達の物質世界は、見ることも測ることもできない存在から生まれたからだ。そしてもし、世界の真の深遠な現実が、相として3次元に入って来るのなら、現実自体にも同じことが出来るとは考えられないだろうか?すなわち、個々人の人生を小宇宙と見るならば、おそらく物質世界とは妊娠状態 ― 量子論的に全く違った条件における、全く違う秩序での生の準備 − だろう。物質自体が根本的な変化をする準備ではないか?

大掛かりな「超絶主義」運動というものがあるけれども、
http://gakuen.konan-wu.ac.jp/gallery/rarebook/transcendentalism.html
この運動は世界の基本的な力が、この物質的現実とは対極にあるために変わることができないのだ。私達は皆、ポジティブ・シンキングによって、世界を変えられると考えたいものだが、地球の変容は再三にわたる天変地異だったことを示す、膨大な科学的証拠が存在していることを忘れてはならない。この事実を無視する思想は、自ら災難を招く。

彼らがニューエイジにフォーカスするのは文字通り、科学の諸原理に従いつつ、今の時代における分離に精力を注ぎ込むものだろう。思考のみによって変化が起きると考えるのは、大変重要な科学的要素を無視するものだ。正体を掴む糸口 ― 科学、哲学、宗教における合意点 ― を探してみよう。

私達の経験する物質とは、霊とは反対と思われる。でなければ私達は、自分の霊的性質を現在の存在状態から容易に顕現させ確かめることが出来る筈である。研究によって、これが可能であることがいずれ示されるだろう。だがそれは、厳しいワークに励み、この追求に人生をかけた(つまり、深刻なトラウマを経験した)ごく限られたレベルの、ほんの一握りの人々にだけだろう。

それ故、予言され、あるいは計画された霊と物質との統合を実現するためには、霊的状態を鈍らせて、より物質的にするか、あるいは物質的状態を繊細にして、鈍さと物質らしさを減らすかしなくてはならないのである。そして、このような出来事が起きるようにするためには、ミクロ宇宙における量子力学の観察プロセスに従って、ミクロ宇宙の量子変化が起きなくてはならないのである。

いずれにしても、世界の終わりという考えは多くの観点からして本質的に正しい ― しかし、その結果は、大人の生活が胎児に分からないのと同じように分からないというのが私の考えである。明らかな結論は、予言的、終末論的シナリオのどれかが実現するためには、宇宙の基本的な3次元性が変えられねばならないということだ。

しかし、この考え方が正しいとしても、それを理解する結果明らかになるのは、魂も凍るような天変地異による大量死のせいで、魂が愚かな否定の中を彷徨うことなのだ。予言の成就する時が近づき、予言の真実であることが明らかになる結果、生まれるのは、最も目が離せない、辛い悪夢の向こうに見える、太古の滅亡のビジョンである;核戦争の忌まわしささえ子どもの遊びのように思われるような考えである。

だが、多分そうではない。それは多分、人類の心がウェイブ上のどちらの元型と連なるかによるのではないだろうか?

カシオペアンズは私達に、この世の終わりの概念 ― 明らかに強烈かつ恐ろしい眺め ―に関して全く新しい観方をするよう求めている。終わりは確かに終わりだろう;私達が知っている通りの、この世の終わりである。つまり、とても基本的な意味ではそうだ。

しかしそれだけではなく、彼らは私達にそれは単なる文明の終わりであるだけではないと理解するよう求めているのだ ― とは言え、そうでもあるのだが。それは単なる新時代の始まりではない − そうでもあるのだが。しかし私達は可能性を考える。私達が現在知っているような物質の終焉が実現するかも知れない。観測される科学原理に従って、宇宙が量子的変化を遂げる結果、地球、生命、宇宙は新たな姿を顕すことが可能になる:完全さの回復とエデンの園的状態 ― 霊と物質との調和 ― である。始まりである終末だ。

パレ・ユアグローは『ゲーデル、アインシュタインに出会う:ゲーデル宇宙でのタイムトラベル』に書いている:


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存在論的な観点から、我々はこのように問う:すなわち、我々はどこから来たのだろう?(そしてどこへ行くのだろう?)と。子宮から生まれてきたばかりの赤ん坊は、発生直後の人体に関する生物学的な事実に慣れ親しんでいようが、それは現在の問いに答える役には立たない。だから私は、憂慮すべき事実を宣言する:我々は自分達が(赤ん坊として)どこからやって来たのか、本当は知らないのである。。。ゲーデルは手紙に書いている。「世界およびその中の一切の事物は、意味と理由を、特に正当かつ疑う余地のない意味を持っています。。。そこから直ちに帰結されるのは、我々という、この世界における存在は、それ自体がせいぜい疑わしい程度の意味しか持たないが故に、他の存在に終わりをもたらす手段でしかないということです。。。我々はある日、この世界に存在するに至ったものの、なぜなのかも、どこから来たのかも分からないのですから、同じことが別の世界で再び起こり得るのです」。。。

そして、誕生および死は、(生存に関する)変化であり。。。生活とは。。。時間の中で起こるプロセスであって、。。。誕生は明らかに死に先立つ。もちろん、だからこそ我々は当然ながら、生まれて来る前に存在していなかったことではなく、死の方を恐れるのだ。。。

。。。ゲーデルは、この世界に具現した我々と言う存在が、せいぜい我々の死後の不存在(すなわち、この世における死後の不存在)という状態における、もっと意味のある何かに向けての、混乱し、かつ曖昧な準備段階であるとみなした。「来生が無ければ、」と彼は書いている。「個々人の潜在能力および、今生における準備は本質を生み出す点(人間)にとって無意味なのです。そこでは個々人に見込まれる発達の幅はとても広い。。。しかし、その千分の1すら実現すべきではないのでしょうか?心(頭)は、用いることによって、静止せず、たえず成長し続けます。。。心の状態の数が、成長の過程で収束せずに、無限となっていけない理由はありません。。。学びのうちの、より大きな部分が次の世界で起こるのですから、我々がこの世界に存在した際には潜在的なものだった記憶を持って、次の世界に生まれるというのは大いにあり得るのです」
---
※邦訳がある『時間のない宇宙:ゲーデルとアインシュタイン最後の思索』とは別の本です。


さて、非線形力学の考え方をこの世界における、元型、思考、行動を演じる人間の観点から見てみよう。以下はアークの日記からの引用である。これは彼がフィレンツェで幾らか過ごした直後、彼の人生の転機に書かれた。数年前、ゲッティンゲンに居た際に肺炎で死にかけた彼は、この間あるビジョンを見、「冒険への召命」を経験した。彼が健康を取り戻し始めた時、彼は目覚めねばならないことが分かっていたのだが、彼にはこの召命が彼に何をせよと言っているのか確信が持てなかったのである。これは、1988年5月25日日曜日に、ビーレフェルトで書かれた:


---
決断が必要だ。何年単位ではなく、週や月の単位で考えること。必要なのは、目標を定めて、それを達成するよう努力することだ。というのも、このままでは、私は他の人々と何の違う所もないからだ。私は彼らが流されているのと同じように流されている。私の唯一のチャンスは違う道を見付けることだ。

故に私は優先順位を変えたいと思う。生き方を変えたい。どう変えるのか?

今は理想的な状況だ。これ以上良くはならないだろう。私は基本的に、完全に自由だ。それがどうした?

私には目標を定め実現する以外に方法が分からない。目標を定めて実現するんだ。設定と実現。設定と実現。

でなければ、流されるだけだ。「生は《私が在る》ときにのみリアルである」(※グルジェフ)もし意識的に生きていれば、私は自分が在ることが分かるだろう。

目標を定めても意識しないならば、注意をしないならば、賢くないならば ― 私達は流されている。そして遅かれ早かれ、逆戻りすることになる。これは避けたいものだ。だがまずは

「流される」とは何か理解する必要がある。

年月が過ぎて行く。私は流されている。それでも私は流されて行く。私は振り返る。何が良くて、何が悪かったのか?自分がどこに向かっているのか分かっていた時は良かったのだ。心の奥底から目標を明確にし、そこに辿り着こうと努力していた時は。こんにち、私の目標は何か?私はどこに行くのか?私はどこに辿り着きたいのか?私は人生について、自分自身と合意したのか?結晶化は起こったのか?
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-535.html
私はそれに満足したか?我が道は何か?

私はこの問いに答える上で理想的な ― とびきり最高の ― 状態だ。私は何を選ぶのか?そうして、その選択をどうやって実現しようというのか?

私は流されている。またしても私は流されている。というのも、まず初めに、「流されている」ことを理解しなくてはならないからだ。

いや、計画など無い方が良い。あるテーマを検討し尽くすまでは、自由な連想に従う方がいい。

西ドイツのビーレフェルト。ヨーロッパ。地球。太陽系。銀河系。宇宙。この見通しの中に私が居る。新時代がやって来る。もっと大きなスケールから物事を見る必要があるだろうか?いや、これで十分だ。そう、私はここ、太陽系の地球の上に居るのだ。私は宇宙の中の他の生命体については何も知らない。私が存在する目的は:不明だ。だから、仮説が必要である。反証、あるいは検証するための作業仮説が。一種のコンパスである。仮説を置いて、その仮説に基いてシステムを開発し、それが役に立つか、どこかに導いてくれるか、同じところを漂流していないかチェックすることにより検証するのである。

そしてどうやら、唯一の理に適った仮説は、グルジェフの教えにある知られざる体系からもたらされるようだ。この体系によれば、世界にはある目的があるという。これによれば、必ずしも万事が上手く機能していないという。これによれば、宇宙の構造には何がしかのバグがあるという。メタ言語を用いれば、そのようなスケールのどんなプログラムにも必ずバグがあると証明することが十分できそうだ。だから、宇宙はバグのあるプログラムである。だが、その中には自己改善能力がビルトインされているのだ。

その結果、このような特定の目的を持って生まれてきたユニットが存在する:デバッグの方法を発見できる程度まで十分に自己進化するという目的である。このような修復はローカルなスケールでのみ可能である故に、ローカルなユニットが作られる。もちろん、ローカル的でなく活動するという方法もある。しかしそのためには、ユニットはオペレーティングシステムについて幾らか知らねばならなくなる。よって、これは喩えに留まる。

私はこのようなユニットなのだ。私は生きており、幾らかの入力と出力、それに周辺機器に恵まれ;通信するためのモデムも持っている。コンピューターに喩えればだ。だから潜在的には、私は自己発達に必要な全てを持っているのだ。もちろん私の人生には、上手くいかない事もある。だから、接続の幾つかが間違っており、他の幾つかは致命的でさえある。しかしこれらの障害は、あるチャネルを閉じ、別のを開くことによって回避可能であり、そうしなくてはならない。いずれにしても、私にはできる事しかできない − それ以上は無理だ。

これは全般的な見通しだ。このような全般的な見通の下、私の狙いは宇宙を救うことである。いやむしろ:宇宙を救うのを手伝うことだ。そして、未来がどうであれ、私はこれをやらねばならない。不死の魂が存在し、それが意識的な努力と知的な苦しみによって発達しうるという事実とは関係なく、私には宇宙をデバッグするのを手伝うという以外の選択はない。

「初めに言があった。。。」(※ヨハネによる福音書 / 1章 1節 )今日ようやく、このメッセージを理解できた。これは、私達が大事な時代にさしかかっているという意味だ。ある意味、最後の時代へと:宇宙に属するか、属さないか決める時だ。これは全般的な見通しだ。

さて、この劇での私の役は:私は作業者だ;私には達成すべきミッションがある。私はここに遣わされた;この時代、この場所に、このかたちで遣わされたのであって、他のかたちでではない。最初に行うべきことは指定された指令を探して読むことだ。しかし、まだある。すなわち、私をここに遣わし、ミッションをコントロールしている存在とコミュニケートするための情報チャネルが存在する。高次の知性は何らかのコントロールを行わねばならないが、それ自身は作業出来ないというのがその理由だが、私にはできる。だから、ある情報チャネルが存在するのだ。

もちろん、私はそれを自由に使うことはできない。これらのチャネルを使っても害がないという保障が得られるまでは、私はそれを使うことが出来ない。

まとめ:宇宙はコンピューター・プログラムである。

自己組織化し、自己進化するユニットだ。その幾つかは

デバッグを行うローカル・ユニットであり、

ミッションを帯びている。

高次の知性と

通信チャネルが存在する。

もちろんこのプロセスの全ては大数の法則に基づいている。すなわち:全てをプログラムすることはできない。統計的な揺らぎは許容されねばならない。そうでなければ、何ものも自分では進化しない。そうでなければ、自己進化はなくなる!

従って、確率論、推計学、不確実性の要素、選択の要素が宇宙の構造の基礎にあるということになる。これは興味深い事実であり、これに取り組みたいものだ。これは非常に重要である。

この点には後で戻って来よう。だが今は、先へと進めたい:私の狙い、目標、タスクは何か?どんな種類の作業を私は行うべきか?どんな種類の作業を私は行いたいのだろうか?

宇宙とは決定論的なロボットだろう。にもかかわらず、このような複雑な行動をとるので、宇宙のプログラムを実行させて何が起こるか見る以外に、予測する手立てはない。よって、この意味で、我々が未来を予見したい時には、統計的な記述で満足しなくてはならない。これはラフな見取り図だと言っておこう。とは言え、自由意志はどこにあるのだろう?選ぶ能力は?予見するためには?だから、この見取り図には何かが欠けているのだ。

宇宙の働きである。

決定論と非決定論の問題。自由意志の問題と機会の問題。こうしたことの全ては、時間の問題、そして、他の次元の問題に関係している。それ故、私はこれらの事について、ごく簡単なレベルで論じてはならない。という訳で、我々は次のような問題の環を手にする:

時間 − 因果関係 − 決定論 − 機会 − 位相 − 他の次元 − 量子論と古典派 − 相補性 − 情報 − 組織。

ここで大事なのは、これらが一般的法則だということである − これらは客観的である。平均的に有効な統計的法則もあれば、個々人のケースに関わる法則もある。しかし、これらの法則はかなり大きな自由の余地を残している。この自由の中に本質が存在し、この自由の中で我々はフリーハンドを与えられている。かくして、全てが決定されてはおらず、未来の予測には形がある:これだと思えばこれ;そうでなければあれ、というものだ。

私はテクノロジーに基礎を置く世界に生きている。私はこのテクノロジーを使っている。我々にはコンピューターがある。我々はコンピューター・プログラムについて幾らか知っている。今ようやく、「初めに言があった」ということの意味が分かった。だから、我々はこのテクノロジーと疎遠であってはならない。我々の認知はテクノロジーを経由している ― だからと言って、何人かのいわゆる「選ばれた」人々には、これによらずに知識を得る可能性が無いとは言わない。しかしながら、これらは全人類を救わない可能性がある。

という訳で、私は自分のために成長しているのではないことに気付いている。私は救済や不死を求めてワークしているのではない。私はミッションを帯びてここに遣わされたのであり、私のタスクは宇宙の救済に拍車をかけることだ。私は人類を助けることでこれを行うことができる。しかしこれを行うためには、私には知識が必要だ。見分けられるようにならなくてはならない。だから目標はこうなるだろう:

宇宙の働きを発見すること。人間について、自分自身について学ぶこと。

宇宙を手伝うことを学ぶというのは、創造主を手伝うことを意味する。万物の創造主にとって幾らかの手助けとなることだ。存在する全てとは壮大である。だから、これは私の究極の目標である。この目標から、他の全ての目標が生じる。

さて、最初に戻ろう。これが私の目標だとすると、流されている時間も無ければ、楽しんでいる場所も無い。私には休息が必要だと言う人も居るが、為すべき仕事があるのに、休息は必要ない。どの瞬間にも、私は選択することができる。それらの瞬間に、何事もなるに任せないよう注意しなくてはならない。

ということで、究極の目標は明らかになった。次は、実現させねばならない。この目標が困難なのは心理的に明らかである。あらゆる種類の障害物があり、惑わしてくる幽霊が居る。。。私の神話は誘惑の物語で一杯だ!

この目標は高く、正しく、良いものであるが、ある理由から、それが分かる誰にでも手に入れられる目標ではない。ある種のフィルターが作動しており、選択の基準がある。この目標が達成できるのは、選ばれた人々、テストに受かった人々、誘惑に立ち向かえる人々、十分な強さを証明できる人々、神のご加護があると示せる人々だけである。そうでなければ、私は滅びるだろう。
---


私はこの日記ページが書かれた実際の背景を再現しようとした。というのも、それが重要だからだ。これから分かるのは、早くも1988年に、アークはカシオペアンズと「コンタクトして」いたということである。私が森の中に住んで、庭で瞑想しながら、私自身の目的に関して神と取っ組み合いをし、あるいは、手に負えない物理学の文献を読もうとしていた一方で、彼は既に、現在のテーマと強力に関わる構想を練っていたのである;すなわち、宇宙をデバッグすること;非線形的な変化を生み出す、ローカルな「デバッグ実施ユニット」だ。そして、現在このページの中に、デバッグのダイナミズム(力学)が示されている。プラグを抜かれ、デバッグされた心が、宇宙に対して持つ潜在的な影響は文字通り驚くべきものである。

さて、以下の言葉によく注意されたい:未来の予測には形がある:これだと思えばこれ;そうでなければあれ、というものだ。もし、ありのままの状況が分からないなら、誰も行動を起こさぬままに未来の予測が設定されただろう。しかしながら、もし変化が起きれば、おそらくは、ここでこうしてこの情報をシェアしているようなほんの小さな変化であろうとも、全ては非線形的に変わるかも知れない。カシオペンズが私達に教えようと努力してきたのはこのことなのだ。そう、彼らは質問の時点で私達が住んでいる宇宙の状態に関して、客観的かつ冷静に私達の質問に答えるのである。そうして彼らは私達には知識を持つかどうかの自由意志があると言うのである。それで私達が彼らに、自分達は何をすべきなのか尋ねると、彼からはせいぜい、「あなた方にはあなた方なりにしかできない」(※960504)という答えしか得られないのだ。

あなた方にはあなた方なりにしかできない。

物理学者ジュリアン・バーバーは論文『時間の終わり』に書いている:
http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=362


---
科学の探求者たちは、自由意志の問題に手を焼いてきた。『利己的な遺伝子』の第2版でドーキンスは問うている。「あなたは、非常に複雑なものではあるが、もしロボットでないとしたら、自分をいったい何だと考えるのか?」(日高・岸・羽田・垂水訳、増補新装版、422ページ)自分自身を省みても、私の意識が自由意志を行使しているとは思わない。確かに私は、難しい決定を行う際に長い時間考えるが、決定自体はいつも、他所の無意識の領域から意識に上ってくる。脳科学が請け合うところによれば、我々が自然発生的な決定だと、自由意志の活動だと考えているものは、我々がそれに気付く前から、無意識のうちに準備されているという。

しかしながら、<多瞬間的解釈>は様々に興味深く因果性をねじ曲げる。これが意味するのは、それは私達が普通思いもつかないようなやり方で働くということだ。古典物理学者でも、エヴェレットによる多世界解釈の元々のスキームにおいても、今起こっていることは、過去の帰結である。しかし、多くの瞬間の間では、それぞれの<今>は、他の全ての<今たち>と共に、時間を超えた美人コンテストに出場して、最高の可能性を競い合うのである。それぞれの<今>が他の<今たち>と「共鳴する」能力は重要である。それが存在するチャンスは、それの内部状態によって決まる。物事の構造は、時間を超えた世界における決定力である。

同じことは我々にも当てはまる。というのも、我々の意識的な瞬間は<今たち>に組み込まれているからだ。我々が何かを体験する可能性とは、その経験が組み込まれている、様々な<今たち>全てが持つ可能性の総和である。我々のあらゆる経験は、その本質によって存在するに至る。他ならぬ我々の本性が我々の生死を決めるのだ。。。我々は、我々の正体故に在る。我々の存在は、存在し得る他の全てとの関わり方(あるいは共鳴の仕方)によって決まる。。。ある日、進化論はより大きなスキームの中に包含されるだろう。ニュートン力学が、偉大かつ正しい科学であることを何ら止めぬままに、相対性理論に包含されたのと同様にである。。。私は我々がロボットだとか、物事が偶然に起るとは思わない。このような観方が興るのは、我々が物事に対する十分に大きな見通しを持っていないからなのだ。我々は、あり得る事の全体に対して最大限に敏感なものとは何かという問いに対する答えなのである。
---

あなたは何をしようというのだろうか?


(本章終わり)
posted by たカシー at 12:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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