2013年07月21日

(その1)ザ・ウェイブ 第31章:シオン修道会とアルカディアの牧童

http://cassiopaea.org/2011/02/12/the-wave-chapter-31-the-priory-of-sion-and-the-shepherds-of-arcadia/
ザ・ウェイブ 第31章:シオン修道会とアルカディアの牧童


プリウレ・ド・シオン団すなわち、シオン修道会を世界の表舞台に引き出したのは、マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーンによる労作だった。事の発端は取るに足りぬ出来事から始まった。今を遡る1969年、TV作家のリンカーンが、ありふれた家族でのバケーションを過ごす際、それとは知らず、ちょっとしたミステリー本を手にしたのだが、彼の好奇心のために、これが集団意識内に爆発的に広がることとなったのである。3人の共著『レンヌ=ル=シャトーの謎(直訳:聖なる血、聖なる杯)』に、彼は書いている:


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。。。セヴェンヌ山脈に夏の休暇に出かける際、私はなにげなくペーパーバック本を買った。ジェラール・ド・セード作の『ル・トレゾール・モーディ(呪われた財宝)』という本は、史実や謎と推理が織り混ぜられた手軽なミステリー小説で、そのなかに妙に目立つ欠落さえなかったら、休暇が終われば読んだことすら忘れてしまったかもしれない。

題名の意味する「呪われた財宝」とは、1890年代にフランスの田舎司祭が、教会で見つけた暗号文を解読して発見したものらしい。この本にはふたつの暗号文が載せられていたが、それを解読した肝腎の「秘密の文」が欠けていた。解読文は再び失われてしまったのだろうか。ところが、この本に載せられた暗号文をざっと調べてみても、少なくともひとつの隠された文が浮かび上がってきた。きっと著者もこの秘密の文を見つけたはずなので、ほかの話題に内容を散らすよりも、この解読文にもっと集中すべきだったのではないだろうか。しかも、著者もまちがいなく見つけたはずの解読文は、この類の「通俗的な」ペーパーバックを売るのにまちがいなく役立つと思われるおもしろそうな「証拠」であった。どうしてド・セードはこれを公表しなかったのだろうか。
(林和彦訳、13ページ)
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続けてリンカーンは、このように、肝腎の「秘密の文」が欠けていたために彼は、「複雑なクロスワード・パズルを超えるなにかが秘められている感じ」に悩まされ続けたと語る。そこで彼は、TVショーを企画すれば、彼の仕事のスケジュールという制約の中でも、個人的な好奇心を満たすために探索を行う資金が得られないだろうかと、やってみることにした。探索に取り掛かろうにも、仕事が目いっぱいだったからだ。

このアイディアはBBCの制作責任者にも好意をもって受け入れられ、彼は短編番組を作るために、この謎を詳しく調べるべく、遣わされたのだった。リンカーンは1970年にパリで、例の本の著者であるド・セードと会う約束を取り付け、その場に臨むと、彼にこう問うた;「どうして羊皮紙に隠された内容を公表しないのか?」「どのメッセージだって?」ド・セードの答えにリンカーンは驚いた。


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こんな簡単なことにも気づいていないとは信じられなかった。どうして隠そうとするのか。突然、私も自分の見つけた内容を隠しはじめた。数分間、回りくどい会話を続けるうち、互いにその内容に気づいていることがわかってきた。もう一度、同じ質問を繰り返してみた。「どうして公表しないのか」。今度はド・セードも慎重で、「あなたのような人が興味をもって自分で見つけるかもしれないからだ」と答えた。

まるで司祭の発見した文書のように不可解な彼の答えから、レンヌ・ル・シャトーの謎には単なる失われた財宝以上のものがあるにちがいないと思いはじめた。
(同上14ページ)
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なんていい加減な答えだろうか?リンカーン氏が相手にしているのは、ずる賢い詐欺師、あるいは、何らかの未知の勢力だろうか?結局のところ、誰かが彼に、あの本を買って読むよう強制した訳でもなければ;誰かが彼に、隠されたメッセージに興味を持つよう強制した訳でもなく;誰かが彼に、更なる探求を行うようにと強制した訳でもなかった。全て偶然の出来事が続いた。あるいは、そう思われる。とは言うものの、最も奇妙な事実は、ジェラール・ド・セードの著書が出版され、あるいはヘンリー・リンカーンがこれに誘発されて興味を抱くのに先立つ数年前には、沢山の文書、いわゆる『秘密文書』が「公開されていた」(すなわち、パリのフランス国立図書館に保管されていた)ことだった。

このような文書の最初のものは、1965年の日付で、題名は『メロヴィングの末裔と西ゴート族ラゼの謎』だった。作者はマドレーヌ・ブランカッサルとされ、原著のドイツ語から、ウォルター・セルス=ナザレがフランス語に訳したといい、出版社はグラン・ロッジ・アルピナと書かれている。この文書には、聖書中の人物に由来するメロヴィング家の血を、20世紀のこんにち引いているのがプランタール家である、と書かれている。系図の作者として記されているのは、アンリ・ロビノーだ。

さて、当然ながら、ド・セードはヘンリー・リンカーンに対して予め有用な助言を与えてくれていた。「ロビノー」というのは偽名で、実際は「シドルフ」だというのである。リンカーンは他にも、「マドレーヌ・ブランカッサル」の「マドレーヌ」とは、明らかにマリア=マドレーヌ、つまり、レンヌ・ル・シャトー教会の守護聖人のことであり、「ブランカッセル」とは、レンヌ・ル・シャトー近隣のレンヌ・レ・バン村の南で合流する2つの小川、ブランク川とサル川から取られたものであると注意している。(同書、117ページ) もちろん、(「ウォルター・セルス=ナザレ」という名も、)レンヌ・レ・バン教会が捧げられた聖セルスと聖ナザレ(を混ぜ合わせた偽名であろう。)
(※ヤコブス・デ・ウェラギネ著『黄金伝説』平凡社ライブラリー版第3巻に「聖ナザリウスと聖ケルスス」の章があります。)
グラン・ロッジ・アルピナ、すなわち、フリーメーソンのスイス本部も、この小冊子については、全く知らないと主張したという。

奇妙な系図が寄贈されてから9か月後の1966年5月には、もう1つの文書が国立図書館に寄贈された。これまた、グラン・ロッジ・アルピナ刊行となっていて、タイトルは『レンヌ・ル・シャトーのメロヴィング家の財宝』、著者はアントワーヌ・レルマイト(Antoine l’Ermite)である。隠修士 聖アントニウス(アントニー・ザ・ハーミット、St. Antony the Hermit)の洞窟はレンヌから目と鼻の先である。

1か月後の1966年6月、国立図書館に、今度は『ラングドックの碑石』というタイトルの文書が寄贈されたが、これはかつて1884年に、オーストリアの歴史家ユージーン・シュトゥブラインが書いた本の再版であるとされている。シュトゥブラインは実在の人物で、1877年に『リムー地区のスパ施設旅行紀』という本を出している。彼が1884年に出した著作も、この1966年に再版されているらしい。

関係書類からも、系図の著者だったロビノーとは偽名で、本名はレオ・シドルフだということが分かった。彼はこの前の年にスイスで亡くなっていた。シドルフの娘によれば、彼は系図学者などではなかったという。これから分かるのは、死者の名前を用いることで、彼とはおそらく何の関係もないようなものに真実味を持たせようとしたということだ。

その後1967年3月、国立図書館に、また別の文書が寄贈されている。タイトルを『ル・サルパン・ルージュ(赤蛇)』といい、ガストン・ド・コケール、ルイ・サン=マクサン、ピエール・フォーゲルの共著である。この文書が公刊された日がいつであるかに関しては、納本制度という法定のお役所仕事の結果とは食い違う諸説がある。法定納本日は3月20日となっているのに対して、リンカーン他は1月17日としているのだ。この問題を探求している、もう1人の研究者、フランク・マリーは、出版日が2月15日だと主張する。寄贈日はともかく、著者達に関する事実として、ルイ・サン=マクサン、ガストン・ド・コケールが3月6日、ピエール・フォーゲルはその翌日に絞殺体で見つかったのである。

ド・セードが言うように、この3人は暴露に対する報復か、あるいは集団自殺の犠牲者なのだろうか?それぞれの家族が口を揃えて主張するには、3人はお互いに全く面識がなく、いずれも同じような時間に首を吊ったのは恐ろしいことだが、単なる偶然の一致だというのである。ここから明らかな結論は、誰かがフランスじゅうの新聞から、互いに無関係ながら同じような時間帯に自殺した人を3人選び出し、彼らの名前を本の著者にした上で、さも、国立図書館に納本されたのが3月20日であるかのように寄贈札を偽造した上で寄贈したということである。またしても、死者が彼らの専門でもない本の著者に仕立て上げられたのだ。

ジェラール・ド・セードのペーパーバック本『レンヌ・ル・シャトーの呪われた財宝』が出版されたのとほぼ同じ頃、『秘密文書』というタイトルの、アンリ・ロビノー著とされる、もう1つの文書が国立図書館に寄贈された。リンカーンたちはこれがどんなものだったかについて述べている:


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パリ国立図書館に保管された内部資料用の出版文書でもっとも重要なものは、『秘密文書』の題のもとに一括して束ねられている。このファイルは、「4番 Im 249」と分類されたマイクロ・フィルムになっている。これは最近まで特徴のない薄い冊子で、新聞の切り抜きや裏打ちされた手紙、小冊子、多数の系図、明らかになにかの本から抜き出した半端の印刷ページなど、一見なんの関係もないばらばらの内容を集めて硬いカバーに挟んだものであった。これらのページは定期的にばらばらにされ、新しいページが挿入される。ときおりページに小文字の楷書で書き込みや訂正が加えられる。あとでこれらのページは以前の修正も含めて印刷され、新しいものと取り替えられる。
(同118ページ)
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この奇妙なアイテム・コレクションの主な目的は、679年に暗殺され、その事実に関しては何ら論じるに値する問題もないとされてきたダゴベルト2世の直系の子孫が、ピエール・プランタール・ド・サン=クレールであると証明することだった。「ロビノー」という名はパリの聖シュルピス教会の前を走るロビノー通りに由来するのだろう。聖シュルピス教会とは、ベランジェ・ソニエールの物語で重要な役割を果たした教会である。

だが、先に進む前に、この物語自体を概観しておくこととしよう:1885年、33歳だったベランジェ・ソニエール司祭は、レンヌ・ル・シャトーの教区司祭となった。彼は、マリー・デナルノーという少女を家政婦として雇った。彼女はソニエールの生涯腹心の友となった。教会はひどく荒れ果てており、村の財政も貧しかったので、ソニエール司祭には貧しく暗澹たる人生が待ち受けているかに見えた。

しかし、彼は寄付を受ける幸運に恵まれ(寄付の出所は研究者ごとに様々である)、少しばかり教会を修復することにした。修復作業の間に、彼はどうやら暗号化されたメッセージを含む謎の文書を発見したものらしい。それから彼はパリに赴き、パリのオカルト界と関わりのある何人かの人々と共に過ごし、ルーブル美術館から奇妙な取り合わせの複製画を買い込んで、レンヌに戻った。それから彼は実に奇妙なことを始めたという。彼ははるか遠くの国境を歩き回り、一見何の価値もなさそうな石を集めて来て、夜中に秘密の儀式を行いながら、教会を修復し、ついには、教会を実に異様な趣きに模様替えしてしまったと伝えられている。ある時には方々を旅して回り、旅先で獲得した資金が家政婦のもとに潤沢に届けられた。その出所は、ヨーロッパじゅうの様々な修道院であると言われる。伝えられるところでは、その後20年以上に亘って、ソニエール司祭は彼の複数の建築プロジェクト、豪勢な娯楽、贅沢三昧の生活、その他の活動に驚くべき金額を浪費したという。

以上が物語の梗概である。もちろん、余談として、複数の殺人がこの間にあったし、もう1人の神父との断続的な友情物語もあった。この人物もまた同様に謎であり、彼もまた明らかに当時進行中だった動きの渦中にあった。

この地域には元々財宝が埋まっているという伝説があったので、ソニエール司祭がついにそれを、少なくともその一部を見つけたのだと人々は考えた。そこでレンヌ・ル・シャトーの「呪われた財宝」という奇妙な物語は、ヘンリー・リンカーンの働きによってBBCで取り上げられ、世界の注目を集めることとなったのである。

ド・セードと会ったリンカーンは、ちょっとしたTV番組を放送したい旨、仄めかした。ド・セードは、集められる限りの情報を集めてリンカーンに送って、このプロジェクトを支援することに同意したのだった。


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最初は、画家のプッサンとテニエについて述べた実に魅力的な解読文で、信じられないほど複雑なものであった。彼はこれをフランス軍暗号解読局の専門家がコンピューターを使って解読したと教えてくれた。しかし、この暗号の符号をいじくっているうち、この話はあまりに疑わしいと確信し、イギリス情報局の暗号の専門家にこれをチェックしてもらった。彼らも私と同意見で、「この暗号はコンピューターでは解読できない」と答えた。暗号は解けなかった。だれかに、そしてどこかに暗号の鍵があるのにちがいない。
(同14ページ)
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つまり、この文書の暗号を解いた人物は、文書と鍵の作者自身であるか、あるいは彼から受け取った鍵も持っていたに違いない。


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そのうちド・セードは2番目の爆弾を投下した。プッサンの有名な絵、「アルカディアの牧童」に描かれたものとよく似た墓が見つかったらしく、その詳細もできるだけ早く伝えてくれるという。彼はこの件を大至急でよこしたらしく、数日後にはその写真も届いた。これによって小村落の謎に関する短編番組は予想外の広がりを示しはじめた。
(同14ページ)
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物語を読んでいた時、このプッサンの絵『アルカディアの牧童』という代物に関して、私は不思議な体験をしたものだ。レンヌ・ル・シャトーの謎に関する記事に、これの複製が載っていたのだが、お粗末なものだった。本棚にあった画集をめくって、学者の注釈が無いか探していると、驚いたことに、まさしくそこには、大きな全ページを使った複製が載っていたのだ。私はこれを本から切り取ると、机の向こうの壁にピンでとめた。こうすれば、いつでもこれを手近に眺めて研究を再開できるという寸法だ。

このように、謎が謎を呼ぶ進展に鑑みて、ヘンリー・リンカーンはもっと調査を行って大掛かりな番組を作ることを決意した。最初の番組、『エルサレムの失われた財宝』は、本件に関する第1段階の調査結果で、1972年2月に放映された。基本的な結論は、ソニエール司祭がテンプル騎士団の手に入れたユダヤの財宝を発見したということだった。おそらくそれはローマ人によって取り上げられ、その後、西ゴートがローマを略奪した際、さらに奪われて、最終的にレンヌ・ル・シャトーに持ち込まれたのだと思われる。

どうやら公衆もこの謎に好奇心をそそられたようだった。そこでさらに調査を行った上で続編が放送されることになった。1974年、『司祭と画家と悪魔』が放映され、視聴率は全くの大当たりを示した。もっと調査が必要だった。謎が益々複雑になって来たことから、リンカーン氏はとても1人の手には負えなくなったと判断した。そこで、比較文学の学位を持つ小説家・短編作家で、歴史や哲学、エソテリック思想に造詣の深いリチャード・リーが仲間に加えられた。リチャードは、映像ジャーナリストでテンプル騎士団の調査をおこなっていたマイケル・ベイジェントを引き込んだ。彼ら3人はレンヌ・ル・シャトーの謎について更に徹底的な調査を開始し、1979年には新たに、『テンプル騎士団の影』というタイトルの特集番組が制作された。リンカーン氏は書いている:


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これらの番組の仕事により、私たちはレンヌ・ル・シャトーの謎の全体像に横たわる根底に直面することになった。しかし、番組では私たちが気づきはじめたことのほんのさわりしか触れなかった。この表層の裏には驚くべき意義と直接的な関連が秘められており、これはフランスの司祭が田舎の村で見つけた「刺激的な小さな謎」の調査をはじめたときには想像もできなかったものである。

1972年の最初の番組では、「なにか途方もないものが見つかるかもしれない。。。しかも、それほど遠くない先に」と締めくくった。
(同16ページ)
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リンカーン、レイ&ベイジェント(LL&B)が解明したと主張する謎とはこうである。すなわち、イエスは長い血脈を保つ祭司王の1人であり、マグダラのマリアと結婚して子を成し、(磔刑による)死後、復活し、この子どもが誘拐されてフランスに連れて行かれ、フランク人の王族、メロヴィング王家の創始者となった。この聖なる/王家の血筋こそが、聖杯物語の謎に秘められた真相であるという。

フランスの片田舎に居た目立たない神父が秘宝を発見したかも知れないという物語が、一体どうして、このような壮大な話に変貌を遂げたのだろうか?

良い質問だ。込み入った物語の詳細についてはご自身で味読されたいが、「どうして」そうなったか?ということと密接に関係し、それより遥かに重要なのが、「誰がそう言っているのか?」ということである。答えは:自らをプリウレ・ド・シオン団、シオン修道会と称する団体であり、その代表と称するピエール・プランタールである。LL&Bの諸氏は『レンヌ・ル・シャトーの謎』の結論にこう記している:


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(私たちは)単に頭を悩ます疑問の答えや歴史的な謎の説明を探していたのにすぎない。その過程で、最初考えていたよりもはるかに大きなものに何度もひっかかり(=つまずき)、一見非常識ながらも論争を巻き起こす驚くべき結論に導かれていった。

。。。(私たちは)自分たちの結論の筋道が通っているかどうかを見きわめようと努力していたのにすぎない。聖書に関連するものを徹底的に考察した結果、私たちは自分たちの結論に自信を深めていった。しかも、単に矛盾しないだけでなく、きわめてその可能性が高いと確信するにいたった。
(同447ページ)
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彼らがつまずきながら、この結論に導かれたと言っているのに注意されたい。そしてこれはどうやら、シオン修道会が彼らに信じ、公表させたかった考えのようである。後者について、彼らは言っている:


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私たちには自分たちの結論が証明できなかったが、プリウレ・ド・シオン団にはそれができたように、その文書や代表人物から山のような証拠が集まった。シオン団の文書に見られる暗示や私たちとの会話を基に考えると、シオン団は私たちが示した仮説の「疑問の余地のない証拠」に相当するなにかをもっていると確信するようになった。
(同448ページ)
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シオン修道会が持っていると彼らが考えている、この証拠とは何だろうか?彼らは書いている:


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私たちの仮説が正しければ、聖杯は少なくともふたつの意味を兼ね備えている。ひとつはイエスの血筋や子孫を意味する「サング・ラール」で、ここで「ラール」はプリウレ・ド・シオン団がテンプル騎士団を創設して守らせた「王家」の血筋である。聖杯のもうひとつの意味は、まさに文字通りイエスの血を受けた容器で、別の言い方をすれば、これはマグダラの子宮かマグダラ自身を指したのかもしれない。

。。。しかし、これはまた別のものも表している。紀元70年のユダヤ大反乱のとき、ティトス麾下のローマ軍はエルサレム神殿を略奪した。強奪された神殿の宝物は最終的にはピレネー山脈で見つかり、プランタールとの会話によれば、現在この宝物はプリウレ・ド・シオン団の手もとに保存されているらしい。しかし、エルサレム神殿にはティトス軍が略奪した財宝を超えるものがあった。古代ユダヤ教では宗教と政治は切り離せず、メシアは精神面と世俗面の双方に権威をもつ祭司王であった。したがって、神殿にはイスラエル王族の公式記録、つまり当時の王家や貴族の出生証明書や結婚証明書などの記録があった可能性が高い。イエスが本当に「ユダヤ人の王」であれば、神殿には彼に関する記録が山のように保存されていたであろう。さらに、神殿にはイエスの遺体。。。もあったかもしれない。
(同449-450ページ)
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これにはいくつか問題がある。もしプランタール氏が主張するように、シオン修道会がソロモン神殿の財宝を保有しているのだとすると、彼らの宝物庫はすっからかんであるに違いない!プランタールが家賃を滞納して「夜逃げする」ことで有名なのはおそらくそのためだろう(数多くの研究者が彼の過去と経歴につき報告している)。ご承知のように、ソロモンの神殿(原注1)から略奪を行ったのは、ティトスではなくて、アンティオコス4世エピファネスである。そしてもちろん、これはBC930年にラムセスが、そしてBC586年にバビロニアが神殿から略奪を行った後のことだ。


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原注1:こんにち専門家は、「第1神殿」が存在したことを疑問視している。というのは、ダビデやソロモンの王国が存在したという証拠がないからだ。参照せよ。イスラエル・フィンケルシュタイン著『ダビデとソロモン:聖書の聖なる王と西洋的伝統のルーツを探して』(未邦訳か)
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『聖書を書いたのは誰か?』の連載(原注2)で既に書いたように、オリジナルのソロモン神殿が存在したかどうかは疑わしい。それが ― イスラエルに ― 存在したという証拠すら実は無いのだ。しかし、自分たちの民が「選民であること」をペルシャ王キュロスに、どうにか信じさせた写本筆記者エズラは、この結果、ユダヤ人がイスラエルに戻り、「神殿を再建する」ための支援を獲得した。思うにこれは「再建」ではなく、エズラ自身が神話や伝説を継ぎはぎすることによって人々をその気にさせた、1回目の建築であろう。時間的に延々と続く、偽の拡大版の系図でもって騙したのだ。イスラエルの民は「唯一神」によって導かれ選ばれたのだと説得されたキュロスは、当然ながら、このプロジェクトを支援すれば、自分はイスラエルの神に祝福されると考えたのだろう。


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原注2:『世界の秘められた歴史ならびにそこから生きて出る方法』所収。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39804793&comm_id=2590126
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(※エズラ記 / 1章 1-4節
ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。
あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。
すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」 )


エズラ記によれば、ユダヤ人はペルシャ人から沢山の財宝を、新しい神殿への献げ物として持たされたという。これが起こったのはおよそBC516年頃のことであり、これに続く481年間、ソロモンの再建された神殿の財宝は、納めた人々の期待に応えて、その場にじっとしていたものと思われる。ここのところで注意すべきなのは、エズラの時代より100年も前の、BC750年からBC650年までの間、契約の箱が目にされることもなければ、論じられることもなかったということである。見破られることなく嘘の主張を行なうことができるものなら、それが財宝の中に未だあるとエズラなら言っていたのだろうが。


(※ http://www.fgtc777.com/kategori/siraberu/denwa-chou.htm
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エルサレムはBC六〇五、五九八、五八六年と、三度本格的にバビロンの攻撃を受け、陥落しましたが、ネブカデネザル王が破壊したソロモン神殿からバビロンに戦利品として持ち出された財宝と王宮の財宝などについて第二列王記二十五章十三から十七節のリストを見ると、契約の箱はそれに含まれていません。やがて七十年が満ちて、エレミヤの預言通り(エレミヤ二九・一〇)、捕虜から解放され、再びエレサレム帰還したユダヤ人はネヘミヤとエズラを指導者に、以前に劣る粗雑な神殿を再建して、バビロンから財宝が返還されましたが、その中にもエズラ一章七から十一節によると、契約の箱はありませんでした。
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※エズラ記 / 1章 7-11節
キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムの主の神殿から出させて、自分の神々の宮に納めた祭具類を取り出させた。
ペルシアの王キュロスは財務官ミトレダトによってそれを取り出させ、ユダの首長シェシュバツァルの前で数えさせたところ、
その数は次のとおりであった。金の容器三十、銀の容器一千、小刀二十九、
金杯三十、二級品の銀杯四百十、その他の祭具一千、
以上金銀の祭具の合計五千四百。シェシュバツァルは、捕囚の民がバビロンからエルサレムに上って来たとき、これらの品々をすべて携えて上った。 )


レンヌ・ル・シャトー本の中では、ティトスがエルサレムの神殿から略奪を行い財宝を奪ったという風にヨセフス
http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/636.html
が書いていると再三繰り返されている。しかし、これがあまり正確でないのは、上で述べた通りである。以下は、神殿の財宝の喪失に関して、ヨセフスが述べた部分の抜粋である:


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しかも今回は、神殿の財宝に目がくらみ、彼(アンティオコス・エピファネス王)の入城を認めたアンティオコス派の人びとにたいしてさえ遠慮をするどころか、彼は、その貪欲さゆえに − というのは彼は、聖域内で多額の金やその他各種の非常に高価な献納品がそろえてあるのを見てしまった − 聖域内の貴重品を戦利品として差し押さえ、自分がアンティオコス派の人びとと結んでいた協定を破ることさえ辞さなかった。すなわち、彼は、神殿を荒らし、そこにあった什器、たとえば金の燭台、金の祭壇とテーブルおよびその他の祭壇、さらに、極上の亜麻布とあざやかな深紅色の布でつくられた幕等までも遠慮なく運び出し、また隠してあった貴重品等を持ち出して、神殿を空家同然としてしまって、ユダヤ人を深い悲しみに突き落としたのである。
さらに王は、ユダヤ人が律法にしたがって神への日々の犠牲を捧げることを禁じ、全市を略奪した後で、市民のある者は殺し、ある者は妻子ともども捕虜として連れ去ったが、捕えられた者の数は約1万にも達した。
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『ユダヤ古代誌』 フラウィウス・ヨセフス著、秦訳、ちくま学芸文庫版第4巻76-77ページ


アンティオコスが「神殿を空家同然としてしまっ(た)」と、ヨセフスが、明言している点に注意されたい。そればかりか彼は、「隠してあった貴重品等を(1つ残らず)持ち出し(た)」のである。これは断固たる言い方であって、神殿の財宝が再び補充されたなどと、ヨセフスが言っている箇所もない。

経緯を手短に述べよう。BC175年、またの名をエピファネスとして知られるアンティオコス4世は、セレウコス4世を殺害(。。。したヘリオドロスを追放?)して即位した。BC169年、アンティオコスはプトレマイオス朝を滅ぼそうとしてエジプトに侵入した。すると直後にパレスチナでは、王が戦死したとの噂が流れた。ところが、アンティオコス王戦死の知らせは誤りであり、エルサレムに戻った彼は、神殿に侵入して貴重な財宝を大量に奪った。敬虔なユダヤ人から見れば神への冒涜行為である。

翌(BC168)年、アンティオコスは再びエジプト侵攻を始めたが、ローマからの大使であるポピリウス・ラエナスによって阻まれ、エジプトを立ち去り二度と戻ってこないよう命じられた。辱めを受け激高したアンティオコスはエルサレムにとって返し、この街で鬱憤を晴らした。彼は城壁を取り壊し、ユダヤ人を大量に虐殺、ユダヤの経典を破り捨てるよう命じ、神殿を汚すため、兵士たちと共に娼婦を神殿内に連れ込み彼女たちと交わった。彼はまたユダヤ人たちにギリシャの神を崇めるよう命令を出し、割礼を行ったり、安息日その他いかなるユダヤ教の祭日であれ、これを守ったり、生贄を捧げたりした者は全て死刑にするよう定めた。アンティオコスがこれらの新法をユダヤ人に徹底した様子は伝説に残った。敬虔なこの土地のユダヤ人に対して、アンティオコスが最終的に行った非道は、神殿を略奪し、異教の神ゼウスの祭壇を建てたことだった。そして、BC168年の12月25日、アンティオコスはヤハウェの神前で、ゼウスに豚を捧げた。

さて、もし財宝がBC169年にアンティオコスによって奪われたとすると、それはティトスがエルサレムを破壊する200年前であり、この間じゅうずっと、エルサレムはほぼ絶え間なく異国の権力、抑圧、暴動によって占拠されている状態が続いていて、このような状況では、重要な財宝を多少なりとも温存することは勿論、ましてや集めたり展示したりなどできるものではない!ヨセフスは神殿に「財宝が元通りに戻った」などとは言っていない。アンティオコスが宝をどうしたかについては推測するしかないが、豪勢かつ気紛れに費消したのであろう。

にもかかわらず『レンヌ・ル・シャトー』に関する、ある著者は、クムランの第3洞窟で1952年に発掘された銅の巻物によって、財宝の存在が確認されると主張している。解読の結果、これはエルサレムおよび周辺地域における、宝が隠された64か所のリストであり、そこには、神殿に捧げられた金銀等が埋まっているという。現代の単位にして、65トンにのぼる銀と、26トンの金である。

専門家の間には争いがあるが、意見が一致しているのは、文書のスタイルが実務的である点、そしてまた、それ自体価値あると思われる金属の銅に記録されていることからして、おとぎ話を記録するために使われたのではないだろうという点であり、いずれも、そこに書かれているのが本物の財宝についてであるという考え方を裏付けている。今では、そこに書かれているのがどんな財宝なのかが論争の的となっている。この財宝は、エルサレムの神殿にあったものなのだろうか?

それはあまりありそうにない。何と言っても、この巻物はエッセネ派によるクムラン文書の中から見つかったものである。エッセネ派の人々は、初期の専門家の評価によれば、エルサレムでの神殿建造に対する反対活動に専心していた;それ故、エッセネ派共同体は、このようなリストが残りにくい環境であり、少なくとも神殿の財宝に関してはあり得まい。そのような困難な事情に加えて、神殿の破壊が予見されていた以上、たとえ財宝がこの頃まで存在しいていたとしても、隠しおおせたとは考えにくいのである。もちろん、エルサレムの落城までティトスから隠しおおせた財宝が存在していたと認めること自体が、アンティオコスによって一切が略奪されたと語っていたヨセフスの言葉と矛盾するものである。(原注3 )


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原注3:『歴史、フィクション、それとも科学?』の著者である数学者アナトリー・フォメンコ
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=43260595&comm_id=2590126
の見解に従えば、多面的な角度からこのような歴史を分析した場合、実に数多くの問題が存在することになる。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=61639596&comm_id=2590126
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=62109948&comm_id=2590126
だが、当座のところは、一般に受け入れられているバージョンでよしとしよう。だが、最終的には、これらは全て誤りの説明であることが判明するかも知れない。
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この銅の巻物にリストアップされている財宝が、エッセネ派の人びと自身のものであると唱える専門家も居るが、これは腑に落ちない。というのも、彼らは貧困、質素を唱導しており、比較的小規模な共同体だったからである。

だから、銅の巻物という「証拠」に関して安全に言えるのは、こんなところである。すなわち、それは何らかのグループが財宝を持っていたことを示唆しているようだが、それが誰ないしどのグループなのかという問題は残ったままなのだ。

BC35年、ヘロデは新しい神殿を建てることに決めた。というのも、どうやら、古い神殿はかなり荒れ果てていたらしく、きっと倒壊してしまったのであろう。ティトスが破壊したのは、この新神殿であった。ヘロデがあちこちを多少の金で飾り立てたということはあり得るが、以前のもののように飾り立てるだけの資産は無かっただろう。ヘロデの神殿に対するローマによる破壊に関するヨセフスの言明は以下の通りである:


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さて、こうしてヘロデの時代から、ティトスによって神殿と都が占拠され火を放たれたその日までに在位した大祭司の総数は28名、その期間は107年(BC37-AD70年)である。
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同上第6巻303ページ


ここでヨセフスは、ティトスが神殿から財宝を略奪したなどとは全く言っていないことに注意されたい。ところがLL&Bは、ティトスが神殿から財宝を運び去った記録があると言い、それ以後の「レンヌ・ル・シャトー」研究者たちはユダヤ神殿の財宝をティトスとローマ人が手に入れたという、LL&Bによる「斬新な研究結果」を援用し続けてきた。ローマの元老院がAD81年に建てたティトスの凱旋門こそが、このことの証拠であるとすら言われてきた。というのも、勝利をおさめたティトス将軍が凱旋する様子として、門の浅浮き彫りに描かれているのは、貴重な7枝の燭台(メノラー)をユダヤ人の捕虜が肩に担いでいる場面だからである。
http://homepage1.nifty.com/mstak/Tour/rome.html

この浅浮き彫りを見てみると分かるのだが、巨大なメノラー他の物体は、トーラー(律法)の巻物の様式化された描写に過ぎない。私にはこの、ティトスがエルサレムの神殿の財宝を手に入れたという「証拠」は、芸術的な象徴としか思えない。浅浮き彫りに主要な宗教上のシンボルを描く以外に、ユダヤ人を征服したことを表現する方法があるだろうか?もちろん、ティトスが奪った、このメノラーは、きっと金で出来ていただろう。だが、皆が探し求めている、主たる財宝、山のような略奪品が、実際にはアンティオコスと共に消え去り、彼が実際それらをどうしたかについては、誰だって推測するしかないのは明らかだと思われる。それでも、このような詳細事情ぐらいでは、レンヌ・ル・シャトー研究者衆の勢いは止まらないのだ!物語は、西ゴート族がローマを略奪した時、アラーリックが、エルサレム神殿の財宝を手に入れ、最終的にはラングドックに持ち込まれた、と続くのである。


幾分調査に不注意な点があり、また、彼らが書いた原文を読むより、それを要約してみた方がずっと読みやすいとしても、LL&Bが辿り着いた結論は、非常にうまく提示されている。だが肝心なのは、ジェラール・ド・セードの書いた『呪われた財宝』という本を、ヘンリー・リンカーンがフランスで休暇を過ごす際に読んだことから全てが始まっている点である。同じく留意しておきたいのは、LL&Bの本の巻末の出所一覧の殆どが、シオン修道会およびその代表とされる人物によって提供された情報で占められている点だ。

大胆不敵な3人組はかなり忙しかった。彼らが調査を終えた時、私たちは、ソロモン神殿の財宝がレンヌに隠されていることだけでなく、テンプル騎士団の財宝とカタリ派の財宝が存在すること;聖杯の管理人としてのテンプル騎士団ゆかりの地のあらゆる貴族について;聖杯および、おそらくは契約の箱についての情報すら与えられたのだった。なんと、驚天動地の謎の全ては、まさしくレンヌ・ル・シャトーにあり、果敢な財宝探検家が発見するのを待っているのだ!そして言葉巧みに誘うのが、シオン修道会なのである。

シオン修道会に関して示された情報は、煎じ詰めればこういうことだ:彼らが言うには、秘密の騎士団、修道会がテンプル騎士団より前から存在しており、テンプル騎士団は実際には、この別の方のグループの軍隊ないし執行部門として創設されたのである。そして、プリウレ・ド・シオン団の総長、彼らの呼ぶグランド・マスターは、歴史上の有名人の殆ど全てによって歴任されたという。

テンプル騎士団が1307年から1314年の間に壊滅させられても、プリウレ団はこの悲劇とは無縁で、こんにちに至る迄存続し続け、現代の国際情勢においても重要な役割を果たしてきたのだと言う。そして、決定的なのはここだ:シオン修道会の目的として、メロヴィング王朝の再興が宣言されている。なぜだろうか?なぜなら、彼らこそイエスとマグダラのマリアとの子孫であるとされるからであり、その証拠は彼らの長髪なのだ!(ほんの冗談である!)


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メロヴィング朝は、集合的にフランク人と呼ばれるゲルマン民族のシカンブリ人に由来する。メロヴィング家は、5世紀から7世紀にかけて現在のフランスとドイツに相当する大きな領土を支配していた。彼らが権勢を誇った期間は、聖杯物語の背景をなすアーサー王の時代と一致している。この時期はいわゆる暗黒時代と呼ばれ、その実体がもっともわからない期間である。しかし、この暗黒時代も、実際は完全に暗黒ではなかったことがわかってきた。それどころか、何者かが意図的にその時期を曖昧にさせてきたことにすぐに気づいた。つまり、ローマ教会が学問、とくに書くことを独占してきたのは紛れもない事実で、現存する記録はその権益の象徴である。そのほかのものは、ほとんどが失われたり検閲されてしまった。
(LL&B、同273ページ)
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LL&Bが言うには、メロヴィング家の起源を巡っては謎があると言う。というのも、突然の王位交代や簒奪の証拠が見つからない ― 彼らはずっと以前からフランク族を支配していたらしい;彼らは正規に認められた王族だったのである。そればかりか、王朝名の由来となった支配者メロヴェ/メロヴィクス/メロヴェウスには、何やら特別な何かがあるようなのだ。彼らは、彼が半超自然的な人物だったと述べている。

LL&Bが言うには、フランク人の年代記の第一人者の記録およびその後の伝説によると、メロヴェウスには2人の父親がいたらしい。夫であるクローディオ王の子を既に身籠っていた時、メロヴェの母は海水浴に出かけたようである。水中で彼女は、「キノタウルス」によって誘惑され、あるいは犯されたと言われる。キノタウルスの正体については、何の手がかりもない。とは言え、この海棲生物によって彼女は2度めの妊娠をし、メロヴェが生まれた時、彼は二重の血筋を引いていたのである。

ごくたまに伝説の外見をまとった中に真実が隠されているというのは、確かに本当である。そしてLL&Bが、ここに隠された史実として提案するのが、何らかの婚姻関係、たとえばユダヤ教のように母方に伝わる家柄である。これが「海を越えて」きた誰かとの同盟を示すものだろうという考えが喧伝されている。

最初に、メロヴィング家の起源に関する伝説を見ておきたい。フランク族に関する年代記の作者である、トゥールのグレゴリウス作『フランク史』について、英訳者のルイス・ソープは解題の中でこう語っている。「血や膿を飛び散らせて、拷問され殺される男たちや女たちの獣のような叫びがそのまま再現される;それでもグレゴリー(=トゥールのグレゴリウス)は、この手法が、懺悔を要求し、連合に加担し、あるいは、単に血に飢えた女王や王たちを満足させる上で、効果的であることを決して疑わなかった。。。何か非常に真剣な一節、あるいは、はらわたが煮えくり返るような記述の結びに、彼はいつも繰り返し、おかしな、茶目っ気のある、気の利いたコメントを付け加えるのである」

この本が、創意工夫満載でもなければ、気難しいものでもないことは私も請け合う。これは素晴らしい読み物である。だが、これを読み終えた人が思うのはおそらく、みんな居なくなって清々した!ということだろう。正気な人なら、ここで伝えられているような基地外連中が権力の座に返り咲いて欲しいなどと思うだろうか?確かにメロヴィング家の血流には何かがある − それは狂気に染まっている。

『メロヴィング王国(The Merovingian Kingdoms 450 - 751)』の著者、イアン・ウッドによると、最後にゴールに侵入したのはフランク人で、それは一番うまく行ったという。それにも拘わらず、彼らの起源は霧に包まれている。クローヴィスの父であるキルデリク1世が王朝の始祖であることは、確かなソースによって十分証明されているが、彼以前に王朝が存在したという証拠の殆どは伝説である。4世紀には、フランク人はローマ帝国にとって、まあ知られた存在だった;だがローマ人でさえ、彼らの正体については、はっきりしたことが分からなかった。トゥールのグレゴリウスは、『フランク史』第2巻9章で、こう述べている:


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フランク人の最初の王が誰だったのかを知る人は少ない。スルピキウス・アレクサンデルの『歴史』(この本は現存しない)は彼らについて多くのことを述べているけれども、(ヴァレンティヌスは)彼らの最初の王のことは何も言わず、彼らには統率者がいたと述べるにとどまる。
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トゥールのグレゴリウス著『フランク史』杉本訳、61ページ


それからグレゴリウスは、スルピキウス・アレクサンデルの『歴史』(さらには、それ以外の歴史文献)から直に引用している:


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「当時ゲルマニアに、ゲノバウデス、マルコメリス、スンノに率いられたフランク人が出現し、帝国の境界を突破して多くの人民を殺戮し、肥沃な地帯を荒らし回って、アグリピネンシス・コローニア(ケルン)を恐怖のどん底に突き落とした。。。
「数日後、マルコメリスとスンノが統治者であったが、取り急ぎ会議が行なわれ、習慣通りに人質が引き渡されて、越冬のためトゥレヴェルス(トリーア)へ引き上げた [ここで統治者と呼ばれている者が、本物の王の立場に立つ者であったか、我々には定かではない]。。。
「同じ年、アボガスティス[ローマの宮廷で勢力のあったフランク人]はフランク人の『殿様たち』スンノとマルコメリスを同族の憎しみに燃えて激しく追及し。。。彼はレーヌス(ライン川)を越え、最初に川岸のブリクテリー人を劫掠し、次いでカマヴィー人の集落を襲った。抵抗勢力はなかった。わずかにアムプシヴァリー人とカッティー人の一部を率いたマルコメリスがかなたの丘に姿を現したのみであった」

さて著者が「統率者」とか「統治者」とかいう言い方ではなく、はっきりフランク人が「王」を持っていると言う個所があるのだがその名は挙げられていない。

「その後、簒奪者エウゲニウスは遠征の準備を整えてレーヌス(ライン川)の境界を目指した。アラマニー人とフランク人の王との古い同盟を習慣に従って更新し、この厳しい季節に巨大な軍隊を蛮族たちに誇示するためであった」
(同63-64ページ)
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それからグレゴリウスは、「かく、前述の歴史家(スルピキウス・アレクサンデル)はフランク人について述べている(。彼からの引用はもはや十分だろう)」と皮肉を述べ、レナトゥス・プロフトゥルス・フリギレドゥスが述べる、ゴート人によるローマ占拠と劫奪に関する記述へと進む:


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「アラニー人の王レスペンディアルは、ゴアルがローマ側につくと、軍団をレーヌス(ライン川)から遠ざけた。ヴァンダル人がフランクとの戦闘に巻きこまれ、王ゴディギセルスが死に、およそ2万人もの将兵が陣中で命を失った。もしアラニー軍が折よく援助に駆けつけなかったら、ヴァンダル人は全滅していただろう」

ここでも他の種族の「王」はきちんと述べられているのにフランクの「王」には言及がないのはなぜか、と我々は思う。彼は、コンスタンティヌス(同名の大帝とは別人)が政権を簒奪し、息子コンスタンスをヒスパニアから呼び寄せるくだり(につき記述している)。

「。。。(コンスタンス)らは、エドベクスをゲルマニアの諸族へ使いにやる一方、自分たちはガリアへ向い、フランク勢、アラマニー勢などの全軍をひきつれて、できる限り速やかにコンスタンティヌスのもとに戻ってこようと努めた。。。
「コンスタンティヌスが包囲されて4か月になろうとするころ突然外ガリアから知らせが入った。ヨヴィヌスが支配者の称号を帯び、ブルグンド人、アラマーニ人、フランク人、アラニー人と全軍を率いて包囲軍に進撃してくるというものだった。。。」

すこし後の個所で、フリギレドゥスはこう続ける:

「。。。トゥレヴェリー人の町(トリーア)はフランク人の2度目の来襲によって略奪され、放火された」と彼は述べ、

アステリウスが勅令によりパトリキウス(=貴族)に列せられるくだりでは、

「同じ時期、親衛隊長カスティヌスがフランク人への遠征のためガリアに派遣された」と、つけ加えている。

このようなフランク人についての記述(が2人の歴史家による結論である)。
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同64-66ページ


つまり、フランク人という名前とこれに対抗する動きに関する言及はあるのだが、それ以外は大した情報がないのだ。グレゴリウスは次に、オロシウスの著書の第7巻に移る。これによると、「スティリコ(ローマのゲルマン人傭兵隊長)は、諸族の軍を集め、フランク人を粉砕して、レーヌス(ライン川)を渡り、ガリアを横断してピュレニー(ピレネー山脈)に到達した」 グレゴリウスの注釈はこうだ:上述の歴史家たちはこのようにフランク人の情報を我々に伝えてはいるが、王の名は挙げられていない(同66ページ)。


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多くの人の伝えるところでは、彼らはパンノニア(今のハンガリー辺り)から移って来て最初はレーヌス河畔に定住したが、次にレーヌスを渡ってトリンギア(チューリンゲン)へ移住した。そこで各集落や共同体に、長髪の王を、第1級の高貴な家族から選んで置いた。。。執政官の執務記録を見ると、ある時、リキメリスという者の息子でフランクの王であるテウドメリスという者とその母親のアスキラが剣で刺し殺されたと書いてある。また当時、フランクの王は種族の最も高貴な出自の有能なクロギオで、トリンギー(チューリンゲン)人の領内のディスパルグムの砦に住んでいたという。。。このクロギオの家系からメロヴェクス王が出たと記録作者たちは言う。メロヴェクスの息子がキルデリクスである。

この種族(フランク人)は以前には真の神を知らず、野蛮な宗教に従って暮らし、森、水流、鳥、獣、その他色々の物から象形を作り出してそれを神として崇め、それに犠牲のささげものをする習わしであったらしい。。。

キルデリクスは、法外な放蕩に身を沈めてフランク人の上に君臨していたころ、フランクの娘たちを誘惑し始めた。人民は怒って彼を王国から追放した。彼は、人々が彼を殺そうとしていることを知ってトリンギア(チューリンゲン)へ行くことにしたが、その時親しい人をひとり故郷に残しておくことにした。その人にはなるべく柔和な言葉で人々の怒りを鎮めてもらうことを頼み、また、自分が故郷へ帰れる時が来たら教えてもらう手筈を整えた。

彼らは1枚の金貨を半分に割り、一方をキルデリクスが持ち、他方は彼の友人が持ってこう言った。「僕がこの半分を君に送ったら、君のと合わせてくれ。ぴったりとひとつになったら君は安心して故郷へ戻っていい」

キルデリクスは、トリンギアへ行くと、王ビュシヌスとその妻バシナのもとに身を寄せた。フランク人たちは、彼を追放すると、一致して、帝国から派遣された前述の軍司令官エギディウスを自分たちの王に選んだ。彼が8年間フランク人の上に君臨するあいだ、かの忠実な友はひそかにフランク人をなだめすかし、時が来ると保持していた例の金貨の半分とともに知らせをキルデリクスのもとに送った。そこでキルデリクスは、フランク人たちが自分を望んでおり、再び求めていることの確かなしるしを認め、トリンギアから帰還して、自分の王国へ返り咲いた。
そのころ、前に述べたバシナが自分の夫を捨ててキルデリクスのもとへ走った。驚いた彼が、一体なぜそんな遠くからわざわざ自分の所に来たのか尋ねると、彼女は、「それはあなたが有能だからです。あなたは強い。だから私は、一緒に住もうと思って来ました。もしも海のかなたにあなたよりも有能な男がいると知ったら、きっとその人との同棲を求めるでしょうね」と答えたという。そこで彼は喜んで彼女を自分の妻にした。彼女は妊娠し、クロドヴェクスという名の男児を産んだ。
(同66-70ページ。)
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とは言うものの、歴史的記録の不確かさにも拘わらず、彼らをめぐって生まれた神話や伝説に手掛かりがあるかも知れない。その一方では、更なる罠があるかも知れない。歴史家イアン・ウッドは書いている:


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17世紀中頃におそらくバーガンディで活躍した年代史家として有名なフレデガーは、 [トロイ王]プリアモスがフランクの初代国王だったとする伝承を記録している。フリガが王位を継承した。その後、国は分裂し、マケドニアに留まった人々も居たが、その他はフリガに従って、ダニューブ川および黒海地方に向かった。そこで更に分裂が起った。そこに留まった人々は、トルコスを王に戴き、テュルク人として知られるようになった。他の人々はフランチョに従ってライン川流域に至り、フランク人として知られるようになった。その後、軍指導者や統率者のリーダーシップの下で彼らは無敗を誇った。

トロイの起源に関する伝説の別バージョンは、727年に書かれた匿名の著者による『フランク史書』である。彼(女)によると、トロイの滅亡後、プリアモスとアンテーノールは、1200人を率いてタナイス川へと向かい、さらにはマエオティス沼に至った。そこから彼らはパンノニアへと移り、シカンブリアと呼ばれる街を建てた。一方、ローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世は、アラン人をマエオティス沼から追い払った者たちの貢物を10年間免除するとのお触れを出した。これを行ったのがトロイ人であり、この結果、彼らはフランチ(Franci)と呼ばれたが、著者はこれを「勇猛さ(fierce)」のアッティカ方言だと考えている。10年が経った時、ローマはフランク人に対して貢物を再び課そうとしたが、彼らは収税人を殺した。このためウァレンティニアヌス1世は、軍隊を差し向けたが、彼らはこれを撃退した。この戦いでプリアモスは戦死した。フランク人はシカンブリアを後にして、ライン河畔へと移った。そこでアンテーノールの子スンノが死に、プリアモスの子マルチョミールの推薦で、フランク人はファラムンドを長髪王(rex crinitus)に選んだ。

。。。両方の物語に共通しているのは、トロイと移住の伝説である。トロイの物語を最初に記録したのはフレデガーだが、それは7、8世紀のフランシアで流行していたようで、この地では他のトロイ伝説も保存されている。。。

トゥールのグレゴリウスは、フランク人のトロイ起源について知らなかったようだが、彼は彼らの移住伝説の未発達なバージョンを知っていた。彼はフランク人がパンノニアからやって来て、ライン川を渡り、トリンギアを通り過ぎたと考えた。。。 [が、これでは地理的には意味を成さない]ここに出て来る奇妙な地理は、多くの人々を混乱させた。彼らはトリンギアをトンヘレンに修正し、グレゴリウスの『フランク史』のある写本などは筆写時に修正されていた。。。『フレデガーの年代記』や『フランク史書』に保存された、移住のより完全なバージョンについて言えば、これらはカッシオドルスがまとめたゴート族の起源に関する伝説を受けて書かれたものである。実際、フランク人が何らかの長距離に及ぶ移住を行ったと信じるだけの理由は無い:考古学と歴史学によれば、ライン川の東岸にほど近い土地が彼らの発祥の地だという。。。

フランク人が初めて歴史文献に現れるのは、3世紀の蛮族の侵入との関連においてである。そこでは彼らは既に、ライン川下流地域に定住していたと言われている。。。彼らは名前が新しいだけで、もっと古い時代の文献に述べられ、後代の文献にはまれにしか出て来ないアムプシヴァリー、カットゥアリ、カッティーのような部族から構成されていたと一般に考えられている。この世紀の終わりにフランク人は、チャンネル諸島で問題を起こす海洋民族としてラテン語の賛辞演説に出て来る。だから、彼らは北部ゴールとブリテンの海岸への襲撃と益々関連づけられるようになっている、サクソン人の先駆者なのである。実際4世紀末になるとサクソン人は襲撃を行うようになったと言われるが、それ以前はフランク人が行っていたとされるのである。

。。。4世紀にフランク人はローマ人とも密接な関係を築き、同盟軍となったり、帝国軍に入隊したりした。。。コンスル(領事)となった者も1、2名居た。

。。。スルピキウス・アレクサンデルは、389年に起きた、ローマ帝国軍の高位を占めたフランク人の呼称であるアボガスティス[グレゴリウス前掲に既出]と、スンノおよびマルコメリスというフランク人の2人の弱小部族の王たちとの戦いを記録し、後者がアムプシヴァリー人やカッティー人の戦争指導者であると明かしている。

フリギレドゥスの『歴史』は、その少し後の事件を取り上げている。その記述からグレゴリウスは5世紀初頭のフランク人の活動について知ったのであるが、それには内戦への関与、続いてコンスタンティヌス3世の僭称が含まれる。
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実は、フランク人が何者であり、どこから来たのか誰も知らないのである。彼らは東方から来た蛮族であり、フリジア人と出会って混淆したと推測されてきた。フリジア人が発祥の地(現在のオランダ北西部から北西ドイツ、デンマークとの国境にかけて)に住みついたのは、早ければBC3500年であった。考古学上の記録が示す通り、他部族の出入りはあったが、誰が誰であり、どこに行ったかは、陶器その他の工芸品から体系的に辿る事が可能と思われる。

BC400年から200年にかけて、ベーゼル-エムス川流域およびドレンテの定住者であったという、出所がはっきりしている一団が進出してきたことを考古学は示している。この一団を考古学者はプロト-フリジア文化と呼ぶ。このプロト-フリジア人は、現在のライデンとデルフザイルの間の地域に住んでいた。その後数世紀の間に、このプロト-フリジア人は、居住可能な地域へと広がって行った。

AD12年頃、オランダ南部にローマ人が進出して来たため、フリジア人は、アムステル川およびライン川以南に版図を拡大することができなくなった。AD150年頃、フリジア人はフローニンゲンの塩沼も、フリーストランド東部から進出して来たカッティー人に奪われた。

AD150年頃にアレキサンドリアでクラウディウス・プトレマイオスによって編纂された地名表が、15世紀のヨーロッパで地図に取り入れられた。この地図にはまた、北海沿岸沿いの地域に住む部族の名前も示されていた。この証拠によれば、サクソン人はユトランド半島南西部(リベ以南)、フリーストランド北部、ディットマールシェンのエルベ川以北に住んでいた。エルベ川とベーゼル川の間には「大」カッティー人が住んでおり、他方「小」カッティー人はフリースランド東部に住んでいた。プトレマイオスによる記述は、考古学的発見から推測される内容と一致する。

フリジアの塩沼付近に住んでいた人々が居なくなった時期があって、これは、AD250年から400年頃に海面が上昇し、干潟が海中に没したためであるが、彗星がヨーロッパを破壊した際であるのは疑いない。この結果、オランダ北部のフリジア人がほぼ全て居なくなった。このようにして人口が減ったのは、フリジア地方だけではない。バルト海地方や北ヨーロッパの沿岸地域では、2世紀頃、内陸の高地に人々が避難している。フリジア人がどこに行ったかについては未だに確かなことは言えない。彼らの一部は、3世紀にフランドル地方に移住し、そこから海を渡ってイギリスのケントに達したと考えられている。フリジア人が作ったトリツム陶器がどちらの地域からも見つかっているのだ。ケルスト・ユイスマンは、水位の上昇で塩沼を追われたフリジア人がフリースランド東部に移り住み、そこに居たカッティー人と混淆した結果、フランクとして知られる部族が生まれたとの説を唱えている。いずれにせよ、フランクという名の新部族が出現したのは300年頃のことである。

カッティーという名で知られる部族が存在したことについては、いくつかの古代文献で述べられている。非常に興味深いのは、ヒッタイト人もまたカッティーの名で知られており、多くの研究者によって、ユダヤ人の祖先であるアブラハムがヒッタイト人だったという説が唱えられていることだ。(原注4) つまり、アーリア人である。歴史的にユダヤ人に帰せられてきた、いわゆる軽蔑すべき特徴とは、実はあるアーリア人種との混血であることの文化的遺産なのだろうか?という気がしてきた。結局、女性から相続権を奪い、ユダヤ教由来の一神教思想を押し付けることによって、女性の地位をひどく貶めたのは、フランク人のサリ族によるサリカ法典なのである。


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原注4:創世記中の以下の数節に注目されたい。ここに出て来る「ヘトの人々」というのは、「ヒッタイト人」の別名である。
創世記 / 23章 3-6節
アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。
「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」
ヘトの人々はアブラハムに答えた。「どうか、
御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」
創世記 / 23章 10節
エフロンはそのとき、ヘトの人々の間に座っていた。ヘトの人エフロンは、町の門の広場に集まって来たすべてのヘトの人々が聞いているところで、アブラハムに答えた。
創世記 / 23章 19節
その後アブラハムは、カナン地方のヘブロン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3
にあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。エミリオ・スペディカート(ベルガモ大学)は、アブラハムが印欧語族起源であることを示すデータのいくつかについて、論文『銀河での遭遇、アポロ型小惑星、アトランティス:人類史の不連続性に関する天変地異的シナリオ』の42-43ページで要約的に述べている。
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グレゴリウスには、4世紀末から5世紀にかけて活動が記録されているフランク人が、5世紀末から6世紀にかけてメロヴィング朝の諸王に率いられた人々とどういう関係なのか理解できなかった。最も彼を悩ませたのは、王家の系図を述べられなかったことだった(ウッドは、もしグレゴリウスがアミアヌス・マルケリヌスを読んでいたら、マロバウデス(Mallobaudes)という名のフランク王が居たことが分かっただろうと述べている)。グレゴリウスは、半ば伝説的人物であるファラムンド(マルコメリスの子)をクローディオの父にしようとした。この説はファラムンドについて述べられているトロイ起源説に依拠するもので、トロイ王家とメロヴィング家とを結び付ける論拠となってきた。他方、フレデガーは、トロイ起源説を明言し、さらにフランチョの死後は、統率者すなわち、弱小な王たちが統治したと述べる。この王家断絶を説明しようとしてグレゴリウスはすっかり混乱しているのである。

フレデガーはまた、メロヴィクスの誕生についても説明しているが、これはメロヴィング朝の起源を明らかにすると共に、グレゴリウスの説明に違和感を抱かせるものである。


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フレデガーによれば、メロヴィクスは、クローディオの妃が海水浴に出かけて、キノタウルスに遭遇した時に出来た子だった。この海に棲む化け物がメロヴィング朝の名祖(なおや)となった創始者の父だと明言されている訳ではないが、そのようにはっきり印象付けようというのがフレデガーの狙いだった。王家はかくして、超自然的な起源を持つと考えられた。グレゴリウスはこのような主張をおそらく知っていたが、異教的と考えたのだろう。他方フレデガーは、このキノタウルスとの遭遇の物語を、彼の年代記中の該当箇所において、トゥールの司教が邪神崇拝に激怒したという話と関連付けて述べている。

フレデガーによって記録されたメロヴィング朝の起源に関する伝説は、この一族が超自然的な先祖の子孫であると示唆する点だけでなく、それが王朝の隆盛に影響を与えたとする点においても重要である。
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これは深刻な問題だと思われるのだが:シドニウス・アポリナリスによれば、クローディオはアルトアのウィクス・ヘレナの戦いで戦士している ― 448年頃の出来事である。メロヴィクスがクローディオの子だとするならば、彼は5世紀後半の人物でなくてはならない。このことが意味するのは、この一族が権力者として浮上したのも、これと同時期に違いないということである。しかしながら、ファラムンドがクローディオの父親であることを裏付ける初期の文献は無い。つまり、メロヴィング朝は5世紀半ば以前は、全く重要な王朝ではなかったのである。彼らの起源はフランク人とは別で、それよりも後だったのだ。

このことから分かるのは、トリンギアがフランク人自身の起源にとってよりも、実はメロヴィング家の人々にとって、より重要だったのかも知れないということである。メロヴィクスの子であるキルデリクスがトリンギアと親しい関係にあった(グレゴリウスによる、トリンギア王妃バシナの物語を思い出されたい)ことを考えると、メロヴィング家がフランク国土の東方に起源を持つというのも全くあり得るのである。つまり、フランク人のトロイ起源説というのは、フランク国民に関するものであって、メロヴィクス家に関するものではなかったと思われる。この家族の起源に関する物語は、格別に超自然的かつ異教的であり、フランク人自体とは別物なのである。

私の手元に『プランタジネット朝年代史』という本がある。これはアンジュー朝に関して、様々な中世の年代史家が著した同時代史書を編纂したものである。これらの著者の殆どは、修道院に住み、あるいは大聖堂に所属した修道士である。彼らの大部分は、自分達の伝統に対する自負心を持ち封建制度における自分達の財産と独立を守ることを課題としていた、定評ある団体のメンバーだった。これらの歴史家たちは、合理的かつ客観的な分析を行おうとしなかった。彼らの目的は、カトリック教会の存在と活動を通じて、神の力を実証することだった。聖人や国王を見せしめとして懲らすことが可能な場合、彼らは臆面なくそうした。彼らが自分達の著書で道徳的教訓を示そうとしていたとは言え、それでも概ねは事実を報告していた。

『プランタジネット朝年代史』を読むと分かるのだが、アンジュー伯の先祖は悪魔であると言われていた。ジェラルド・オブ・ウェールズは、この伝説に言及し、彼らの祖先は、初期のアンジュー伯の奥方で、メリュジーヌという名であったが、彼女はサタンの娘であると述べている。問題は、これがようやく世間に広まったのが、ずっと後の時代、おそらくリチャード獅子心王の頃になってからであるということだ。彼はこう言ったと言われる:「余らが人類に対する自然の情愛を欠いているのは何たる驚きだろう。余らは悪魔から生まれたのであり、悪魔のもとに帰らねばならない」

好奇心をそそられるのは、このアンジュー家の起源の物語が、メロヴィング家の物語とよく似ている点である。この物語は借用されたものだろうか?それとも、奇妙な生命体と何らかの関係がある人々に共通したことなのだろうか?

この悪魔の血筋がどの家のものかについては争いがある。フルク4世病気質伯(1068−1109)は、彼の家系の最初の祖先3人については何も知らないと認めていた:すなわち、インゲルゲリウス(最初のアンジュー伯)、フルク1世赤顔伯、フルク2世善良伯(941−960)である。そうは言うものの、12世紀は盛んに神話が作られた時期だったらしく、数多くの貴族たちが伝説上の祖先へと遡る、沢山の家系図をでっち上げた。

いずれにせよ、このゆえに、メロヴェは超自然的存在だったと思われ、「メロヴィング朝は神秘と魔術の雰囲気に包まれていた」


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伝承によればメロヴィング家の君主は、ずっと時代がくだった伝説に登場するマーリンにも相当するオカルトの熟練者で、秘密科学の伝授者、神秘術士であった。魔術王や呪術王と呼ばれることもしばしばであった。彼らの血に宿る奇跡を起こす力により、手をかざすだけで病気を癒せたり、衣服の縁の房飾りに奇跡的な治癒力があると見なされていたらしい。また、千里眼をもち、獣や周囲の自然と霊的な交信が可能で、強力な魔力をもつネックレスをしていたといわれている。さらに、自分たちの身を守る秘密の呪文をもち、残念ながら歴史的には確認できないが、驚くべき寿命を与えられていたらしい。そして、その身体にはほかの人と区別する明確なあざがあり、これによって彼らの半神的で神聖な血統がすぐに判別できた。このあざは赤十字のかたちをしており、テンプル騎士団の紋章を思い出させる心臓の上か肩骨のあいだにあったといわれている。

メロヴィング家の人々は、長髪王と呼ばれることも多い。旧約聖書のサムソンのように、彼らも髪の毛を切ることを嫌っていた。サムソンと同じように、髪の毛には彼らの力の精髄と秘密であるヴェルチェ
http://www.toriume.com/link/01/vertu.html
が宿っていると考えていたからである。メロヴィング家の人々が髪の毛に宿る力を信じた根拠はよくわからないが、これは紀元754年になってもきわめて真剣にとらえられていたらしい。この年にキルデリク3世は王位を追われて投獄されたが、教皇の緊急の命によって彼の髪の毛は儀式に則って刈り取られてしまった。

。。。メロヴィング家の人々は、現在の意味でいう王ではなかった。彼らは、神性が具現化したもの、すなわち古代エジプトのパロと同様の祭司王と見なされていた。彼らは単に神の恩恵で支配したのではなく、神の恩恵によって生きるものに具現化、受肉した存在と見なされていたのは明らかである。。。また、彼らは王としてではなく、祭司として儀式を執りおこなっていたらしい。たとえば、メロヴィング家の君主の頭蓋骨の頂上には、儀礼的な切れ目や穴が発見されている。このような切れ目は初期チベット仏教徒の高僧の頭蓋骨にも見られ(る)。。。

1653年、アルデンヌで重要なメロヴィング王の墓が見つかった。これはメロヴィクの息子でクロヴィスの父、もっとも権力を誇った有名なメロヴィング家の支配者であるキルデリク1世の墓であった。この墓からは王の墓に当然予想される武器や財宝、王冠などのほかに、魔法や魔術や呪術にふさわしいような切断した馬の頭部や金でできた牛の頭部、水晶玉も一緒に出土した。

メロヴィング家の象徴のなかでもっとも神聖なのは蜂で、キルデリク王の墓から300にものぼる金の蜂の模型が出土した。
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(『レンヌ=ル=シャトーの謎』邦訳276-277ページ)


ナポレオンが戴冠式の時に金の蜂の模型をあしらったローブを着ていたと言われるのはこれに倣ったものである。それだけでなく、ナポレオンはピション司祭なる人物に命じて系図を調べさせ、メロヴィング家の血筋が、王朝没落後も続いていないか判断できるような明らかな理由を報告させたらしい。そして、このことの決定的証拠がある:いわゆるプリウレ文書の多くは、ナポレオンの依頼によって編纂された系図に基くものだったのである!

さて、こうした全ての驚くべき情報をもたらしてくれたことについて、私達は誰に感謝すべきだろうか?もちろん、シオン修道会にである。『レンヌ・ル・シャトーの謎』の巻末の参考文献一覧を見ると、そこには、物語の全ては「『レンヌなるナポレオンの財宝』という本に含まれている。。。包括的な参考文献」に基づく旨、書かれている。これは、ピエール・プランタールの協力者の1人であるフィリップ・ド・シェリセイによって、利用に便利なようにまとめられたものである。

ベランジェ・ソニエールの物語から生まれた膨大な文献が存在することを知った私は、レンヌ・ル・シャトーの謎とは、人々を非常に重要な問題に向かわせるための中間地点だろうという思いを抱いた。これらの文献は、世界中の研究者やトレジャー・ハンターを悩ませ誘惑するために撒かれ、システマチックに公開されてきた匂いがぷんぷんする。レンヌ本の放つオーラの一部は、それらが厳重に秘密とされているソースから生まれたものであるという事実に基く。このディスインフォメーションの泥沼の中で結び付けられているテーマには、カタリ派、テンプル騎士団、メロヴィング王家、薔薇十字、メーソン、ナチス、そしてもちろんのことイエス・キリストの王家の血筋が含まれるのだが、これら全ては一連のおとりだろう。

いわゆるレンヌ・ル・シャトー事件およびシオン修道会に関する文献の大部分は、著者不明ではないにしても、殆ど常に不審なものだった。著者としては一様に死者の名前が借用され、調べてみると必ず偽作と分かるのだ。重要な住所は存在すらしないことが分かった。国立図書館に現れては消える文書は、その都度姿を変えていた。

LL&Bがシオン修道会の主張や文書を受け入れたのが、問題全体の発端らしいのだが、どうして彼らがそうしたかと言うと、それは主として調査の過程における数えきれない程の奇妙な偶然の一致および異常な発見の数々のせいだった。これらの出来事を陰で操るのが誰であれ、宣伝係を上手に選んだものだ。というのも、これらを体験した彼らは、大勢の人々の思考に影響を与えられるだけの能力を持っていたからである。そして彼らはそれをやってのけた。彼らが体験したことは真実に違いないという奇妙で盲目な楽観主義に捉われながらも、彼らは慎重に作業を行い、発見した内容を明瞭かつ雄弁にまとめた。というのも、もちろん、彼らはそれらを身をもって体験していたからだ;そしてそれがいかさまでないのは明らかだった。というのは、自らが遭遇するあらゆる確証やシンクロをでっち上げられるような人間など居ないからだ。それは、かくも長きに亘る、かくも不可解な陰謀だったのである。

コントロールシステムと第4密度の存在が持つ時空操作能力を考慮に入れなければ、これは理解できない。私達はここでカシオペアンズの語ったことを思い出すべきである:


941119
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ディスインフォメーションに気を付けなさい。それは現実からあなたの注意を逸らす結果、あなたは生け捕りや征服、破滅の可能性に対してすら抵抗感が無くなるだろう。。。ディスインフォメーションは一見信用できそうなソースからもたらされる。誤った知識を集めないことが極めて重要だ。何の知識も持たないよりダメージが大きいからだ。いいかな、知識は守り、無知は危険をもたらす。(催眠的かつ次元越えのテクニックを用いて、暗示的な電気的異常を起こし、ディスインフォメーションを裏付ける結果が起こったような気にさせるのは)ディスインフォメーションを広げているのと同じ勢力、すなわち、ブラザーフッド=共同体=イルミナティ=ニューワールドオーダー=「反キリスト」=トカゲだ。前述の勢力にとって、あなた方の一人一人に注意を払っているように見せかけるのは少しも面倒なことではない。
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ディスインフォメーションに関する、最初の言明に注目されたい。それは現実から私達の注意を逸らす結果、私達は生け捕りや征服、破滅の可能性に対してすら抵抗感が無くなると言うのだ。

それにもかかわらず、キリストに始まる王家の血筋という説は、センセーションを巻き起こしただけでなく、出版産業にとって押しも押されもしないベストセラーを生み出した。私達は神話の創造を目の当たりにしているのだ。何ともすごいものを見てしまったではないか。LL&Bは繰り返し、シオン修道会の実在や、彼らの文書の真正さを信じ込まないよう、用心を強く促しているが、彼ら自身が信じているようなので、これを気に留める人は殆ど居ない。彼らは2冊目の本『救世主の伝説』(未邦訳)の最後の方にこう書いている:


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我々は本日、プリウレ・ド・シオン団についてもっと知ろうと試みた。その会員資格、影響力、リソース、および特別な目的について、確定的な所を突きとめようとしたのである。我々はいつか迷宮の中心に辿り着いて、そこに潜んでいるミノタウロスを、殺さないまでも少なくともこれと対面することを願った。しかしながら同時に我々は、自分達がしばしば、常に我々の一歩先を行こうと実に巧妙に企む人々に裏をかかれているという悔しい気持ちを拭い去ることができなかった。

。。。プリウレ・ド・シオン団は、とりわけ騎士道の理想を今に伝える存在として必要なものを十分に持っている。それはまたそれ以上の何かとして目立つために必要なものも十分に持っている。他の数多くの社会的、政治的、宗教的団体とは違って、プリウレ団は、我々が気付く限り。。。心理的にかなり洗練されているのだ。それは人類の内なるニーズの深さと大きさを理解している。それは元型 ― 元型的イメージおよびテーマ ― を最大限にアピールするよう、操作する方法を理解しているのだ。

例えば、最も共感を呼ぶ元型的シンボルの例が廃された王(roi perdu)である ― これは超自然的な助けを得た君主で、地上での責務を全うしていながら、死んでしまう訳ではなく、他のいずれかの次元に引退していて、領民が彼の復位を決めるまで、そこで機の熟するのを待つというものだ。英語圏の読者は、アーサー王によって、この元型に親しみがある。ウェールズでは、オーウェン・グレンダウァーが同様のパターンに従っており、同じくドイツでは、赤髭王フリードリヒ1世がこれにあたる。プリウレ・ド・シオン団の神話体系の中で最も傑出した人物はメロヴィング朝における最後の有能な王であるダゴベルト2世である。プリウレ団によってダゴベルトは、そのイメージが究極の廃された王であるイエス自身のイメージと人々の心の中で融合するような提示の仕方をされている。血筋の問題とは全く無関係な、心理学的シンボルのレベルで、ダゴベルトはイエスの延長線上にある。たとえ無意識的であれ、この心理的な繋がりが確立されると、字義通りの、ないし、歴史的な血筋の思想がずっと簡単に広まりやすくなる。このようなテクニックを用いて、レンヌ・ル・シャトーにまつわる謎は、著者達のみならず、読者をも、磁力のように惹き付けるのである。

プリウレ団はまた、信頼と力との間の親密な関係をも理解している。プリウレ団は宗教的衝動の有効性につき理解しており、この衝動が活性化され導かれるならば、潜在的には、例えばお金のように有効な力を持つこと ― おそらくは代替的な力学を提示するくらいに有効であることを知っていた。最後にプリウレ団は、自分達をいかに売り込むか、目的に一致するような自分達のイメージをいかにして伝えるかの術を知っている。前に述べたように、プリウレ団は究極の元型的秘密結社ではないとしても、外から眺める人々からは元型的な秘密結社に見えるよう振る舞うことができるのだ。結社としての起源の信憑性が究極的にどうであれ、プリウレ団は人々に抱いて欲しいと自分達が願う通りの印象を与えるのである。彼らが、このような印象が伝わるダイナミズムを理解しているからだ。

しかし、心理的洗練さと自分達を「売り込む」能力だけが、プリウレ・ド・シオン団の持つ、有利さではない。
(※次のプランタールの言葉の訳は http://www.voynich.com/rennes/ によります。)
プランタールは1979年、私たちに「プリウリ・ド・シオン団はエルサレム神殿の宝を所持している。それは紀元66年の反乱の際ローマ人が略奪したものであり、その後レンヌ・ル・シャトー近くの南フランスに運ばれた」と断言した。プランタールによれば、「宝はしかるべき時が来ればイスラエルに返還する」とのことだ。
もし、プリウレ団が実際に神殿の財宝を持っていて、こんにちそれを示すことができるならば、その意味合いは計り知れない。。。当代の宗教や政治に対する影響をはらむものだ。例えばもし ― 元々エルサレム神殿にあった記録その他の証拠に基づいて ― イエスが救世主であったことが暴かれたら、現代のイスラエル、そしてまた、ユダヤ教とキリスト教に対して、それはどんな意味合いを持つだろうか?後代のキリスト教の伝統ではなく、2千年前のパレスチナの人々によって待ち望まれた救世主 ― 彼らの国の正当な国王が結婚し、子供を作り、そしておそらくは、十字架の上で死ななかったのだ。そうなれば、世界の2大宗教、そしておそらくはイスラム教の根底を揺るがす事態となるのではないだろうか?一度の打撃くらいでは、ユダヤ教とキリスト教との間の神学上の齟齬や、イスラム教の、少なくとも何がしかの反感が無くならないだろうか?

神殿の財宝はさておき、いずれにしても、プリウレ・ド・シオン団は、こんにちの世界でもかなりの流行となるような主張を広めることができるだろう。それが代表を務めている家々のために、プリウレ・ド・シオン団は、遥か旧約聖書のダビデの家へと遡る王家の続いていることを立証できるのだ。プリウレ・ド・シオン団は極めて明確に、また、最もシビアな系図上の疑問にも答えながら、メロヴィング王朝はダビデの血筋であること ― そして、当時の他の王族やローマ教会により彼らに替えて擁立されたカロリング朝の人々も正式にそのように認めていたことを立証できるのである。現代の広告や宣伝、そして政策パッケージ化技術の助けを借りることで、プリウレ・ド・シオン団は聖書に関する最も厳密な用語定義によっても、聖書の救世主であると主張できる人物を、現代の世界に対して提示できるのである。これは途方もないことだろう。しかしこれが途方もないと言っても、きっと何万というアメリカ人が抱いている、パサデナとロサンゼルス間のフリーウェイでクルマに乗ったまま「空中携挙」されるに違いないという確信と同じ程度だろう。

もちろん、だからといって、記者会見やマスコミの大騒ぎがさし迫っているという意味ではない。。。プリウレ・ド・シオン団ないしメロヴィング家の血筋について、あっさり正体を明かし、身元を公表し、大衆の情熱を信頼して、こうした事を行う訳にはいかないだろう。あまりに多くの懐疑論が出されるだろう。あまりに多くの人々が、興味を示さないだろう。メロヴィング家の家系の正当性を認めるのにやぶさかでない人々の間ですら、あまりに多くの反対者が出るだろう ― 信仰する宗教が何であれ、あまりに多くの人々が救世主からも誰からも、支配されるのを望まないだろう。そして、あまりに多くの権力者や権力を目指す人々が、新参の挑戦者の登場を歓迎しないだろう。。。

こうした全ての理由から、家系を権力への足掛かりに利用することは出来ない。どちらかと言えばそれは、ひとたび権力が得られた後で、権力基盤を固めるのに使用可能な切り札なのだ。。。

。。。実際、我々はプリウレ・ド・シオン団にはうんざりしている。。。少数の人々 ― 特に秘密裡に活動する少数者 ― が集中的に権力を掌握するのが危険を孕んでいることに変わりはない。。。

それでもなお、我々の世代は人生の意義を得るために、是非とも何らかの形で救世主の神話を受け入れたいようである。。。ハリウッド・スタジオの特殊効果部門は除くとして、他に誰が、救世主が存在するという気にさせてくれるだろうか。
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世界の人々を文字通りしびれさせるような救世主を提供できる他の誰かを、私が提案しよう:超次元のリアリティの住人、「エイリアン」である。このシオン修道会現象を見ていると、これはまさしく、このようなクーデターのための土台作りのように思われる。もれなく、かの新世界秩序(ニューワールドオーダー)が付いてくる、ちょっとした世界統一宗教はいかがだろうか?あなたは「お持ち帰り」するだろうか?

このように、ほんの一例について詳しく見るだけでも、多くの国籍に亘る人々や集団が、地球支配を目論んでいるという強力な証拠が見て取れる。しかし、ヘルメス学の格言である「上の如く、下もまた然り」ということを考えれば、私達の世界における、このような全ての出来事や動きはもっと包括的なリアリティにおいて理解すべきである ― すなわち、第4密度のコントロールシステムが支配権を求めて;何世紀にも亘ってカード遊びを行いながら、炎と光を雛型にしつつ、かつてない大きな拡大とリニューアルでもって、小さな集団をもっと大きな集団に結び付ているのだ。


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炎や光として知覚され、あるいは知られる、普遍的な神に対する霊的直観(gnosis)を含む新普遍主義は、全ての宗教および文明の要であり、それらの盛衰を説明するものである。
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*『炎と石:世界の歴史と宗教に関する大統一理論(世界25文明の興亡に見られる炎なる神のビジョン)』 ニコラス・ハガー著(未邦訳)


私達はターニングポイントに差し掛かっている。世界中の国家が、単一で普遍的なワールド・ソサエティの一部として、政治的に統合されることを検討しているのだ。そして宗教こそが、全てを一つにまとめる糊と見做されている。このことをじっくり考える時、唯一問題なのは:誰が牛耳っているのか?ということである。(原注5)
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原注5:これを書いたのは2001年9月11日より前であるが、今では私達が、誰がワンワールドオーダーを作ろうとしているのか知っていることを読者は銘記すべきである。
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「心理的、道徳的にピュアな人々ならば、各『世界』の間を画し、これを守っている境界をも越えられる」という昔ながらの嘘を信じる人は多い。彼らはさらに次のような考えを広める。「お節介屋の血筋は地方的、地球的なものである。人間よりも不完全な、先祖返り的なものなのだ。この人々が広げている、自分達がどこからかやって来て、偉大な力を持ち、恐れられる価値があるという自惚れは、月並みな脅しであり策略である」 このような観方がニコラス・ハガーの『炎と石』では推し進められている。さらには以下のように述べられる:


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諸々の宗教の至る所に広がる炎は、原動力であり、文明の起源を説明するものである。。。炎に関する失われた知識の再発見は、世界中で受け入れられるだろうか?近年、真理がより広範に暴かれつつある。エソテリックなものがエクソテリックになり、これまで仲間内に隠されてきたものが、探し求める準備の出来た「大衆」に広く利用可能になりつつある兆しが見える。。。(ニューエイジの諸々のカンファレンスから、少しずつだが広く集まりつつある)証拠によれば、この時代、普通の人々の意識の中で炎が燃えているのだ。。。炎の体験は、文明が発展する間、常に広がってきたものであり、益々全人類にとって利用可能となるだろう。

キリスト教、その他の宗教を再び神秘的なものにしようという動きは、心霊主義的意識の広がりにおける次の段階であり、我々の時代には心霊主義革命が起るであろう。。。欧州共同体が統合されたコングロマリットへと深化し拡大する流れは、心霊主義的観方の復活に伴うものと見なし得る。。。

我々は、諸文明が滅びて、もっと大きなグループの中に解消されていく様子を見て来た;これらのグループは1つのずっと大きなグループ、(アメリカ人の創造したものであれ)ワンワールド文明へと解消して行くのだろうか。。。様々な一切の文化と文明は、1つの源流から湧き出たものであり、おそらく我々の時代に1つの文明へと合流するのである。これは歴史的な炎のビジョン ― 神のビジョン ― の終焉を意味し:世界の全文明を1つに統合するものだろうか?

アメリカ主導の世界文明が21世紀に興るとしたら、そのような成長のリニューアルは炎に導かれたものとなろう。つまり、その成長を生み出し、統合し、持続させるのは、ワンワールドな炎(その中心思想)であり、それは1つの宗教を通じて、世界の大衆に伝えられるのだ。。。それは衛星による世界通信革命の成果を利用しつつ、メッセージを広めるだろう。。。

「オルタナティブ」の仲間内におけるニューエイジ運動は、成長しつつあるアメリカの炎によってインスパイアされたものである。それは1776年に創設されたイルミナティのビジョン、すなわち、世界中の宗教の結集を促す異端的ビジョンによってインスパイアされてきた。。。ニューエイジ運動はアメリカのニューソートの後継者であり、来るべき普遍主義の前触れでもある。。。ニューエイジ運動は啓蒙され、あるいはされようとしている人々で満ち溢れている。彼らはキリスト教の集会よりも、ニューエイジのグループの中に居る方を選ぶ。というのも彼らは(おそらく時期尚早ながら)、3世紀半に及ぶヒューマニズムと物質主義によって、また、彼らの賛美する14世紀神秘主義という伝統的なキリスト教的ビジョンの俗化によって弱体化してしまった伝統から離脱したからだ。ニューエイジの諸団体は恰も、アメリカ主導の世界宗教を模索しているかのようである。じじつ、来るべきアメリカ主導の世界文明の視点からすれば、ニューエイジ諸団体は、将来の世界文化に備えて素晴らしい仕事を行ってきた。

。。。彼らの努力からは世界宗教が育ち、それは、初期のキリスト教が新たに改宗したローマのキリスト教徒とビザンチン帝国のキリスト教徒とを統合支配したように、21世におけるアメリカ主導の世界文明を統合支配するだろう。キリスト教が他の心霊主義体系の諸要素 ― ドルイドの救世主(Yesu)、エレウシスの秘儀における穀物、ローマのイシス(聖母マリアとなった)等々 ― を吸収したのと同じように、ヨーロッパの習合主義から採られた、新しい、アメリカ主導の炎の普遍主義宗教は、キリスト教を吸収するだろうが、あらゆる体系をブレンドし、新しい形態を考案し。。。習慣を結び付けるであろう。。。
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こうして述べられたのは、イルミナティによる、全く異なる観方であり、著者は、金融戦争と革命を惹き起こす、世界を支配する銀行が善玉であると言う。と言うのも、結局のところ、進化から生まれてくるのは、普遍的宗教および政府だからだ。彼は、「25の文明における神のビジョン」を表にまとめて、「世界の歴史と宗教に関する大統一理論」を論じている。彼は文明の61段階を定義しつつ、宗教と称して広められる嘘も、それらが「文明的」結果を生み出すならば、基本的に受け入れ可能と見る。

私自身の研究は、ハガー氏よりも綿密なものだと思うのだが、違った結論に達している。その理由とは、このような段階は結局、1つの文化が他のものを「取り込む」過程であって、それは殆ど必然的に大量虐殺に結び付くからである。(原注6) しかし、ハガー氏はポジティブな結末に持って行こうとするために、このような事実を美化しているのだ。究極の「取り込み」とは「炎」に関する彼のイメージの背後に居る勢力によるものだということに、彼は気付いているのだろうか。経験 ― 数千年に亘るもの ― が示すのは、上でLL&Bが書いているように、「少数の人々 ― 特に秘密裡に活動する少数者 ― が集中的に権力を掌握するのが危険を孕んでいることに変わりはない」ということだ。この事に関しては、またしてもカシオペアンズの言葉が思い出される:


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原注6:これを書いた1999年の時点で、これは予見されていた。
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970809 / 941022 / 970719
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A: 会得すべき知識をあげよう:あなた方の科学者達が、他の星系はあまりに遠過ぎるためエイリアンがはるばる旅してなど来られる筈がないと言うとき、彼らが明らかに見過ごしていることは何だろうか???

Q: その明らかなことって何なの?

A: たとえ光速や「それ以上の速さ」での宇宙旅行は ― 本当は可能だが ― 不可能としても、宇宙を飛ぶ「箱舟(ark)」を造って、何世代もかけてやって来るエイリアンが居ないという理由なんてもちろん無い。彼らははるばる時空を越えて、征服するのにふさわしい世界を探して旅しているのだ。そんなのが見つかると彼らは箱舟を遠巻きな軌道に停めて、その太陽系のあちこちの地上に基地を造り、次には、選んだ文明が適当な技術インフラを開発するレベルになるまで辛抱強く操作を加える。そして長期に亘る、ゆっくりとした、壮大な規模でのマインドプログラミング・プロジェクトを開始し、ふさわしい状況となったらやすやすと介入して乗っ取るんだ。

Q: (L) ここには私達人間が沢山居るのに、どうして、連中はやって来て乗っ取ろうとしないのかしら?

A: 彼らはそうしようとしている。長いことそれを企んできたんだ。知っての通り、彼らはあなた方の知っている時間を行ったり来たりして、この星がこれから経験しようとしている第3レベルから第4レベルへの移行に際し、最大のネガティブ・エネルギーを吸収できるような仕掛けを拵えてきた。それも、第4レベルであなた方を待ち伏せして多くのことをやってのけようと期待してのことだ。すなわち、
1:種族の生存能力の維持
2:個体数の増加
3:パワーの増大
4:第4密度領域における種族の拡大。
これら全てを行うため、彼らはあなた方の時間で約74,000年間に亘っていろいろな出来事に干渉を行ってきたのだ。彼らは完全に時空を止めて意のままに行ったり来たりしながら、この作業を行ってきた。。。

Q: さて、数世紀に亘る諸宗教に関する情報を総合したところ、かなり難しいことが分かってきたのよ。一神教思想とは明らかに「一者の法派」の基本概念なんだけど、これは私の人生で出会ったうちでも、最も巧妙でずる賢いコントロール手段なのよ。何教であれ、一神教の狂信家/僧侶はこう言うの。「我らには唯一神がおわすぞ。我らは彼の代理人なるぞよ。汝がお布施を払うなら、彼に来世では汝に良くする様に言って進ぜよう!」

A: 騙されるのが賢くて、逆らえばつまらない馬鹿者扱いだ。

Q: 分かってるわ!でも、これのどこが騙しかって、「権力」が「あの世」にあるという嘘は信じられないわ。だから、カンテック人が「ベリアル派」だったからと言って、必ずしも悪いこととは限らないのよ。そして、「一者の法派」が道を誤って一神教であるユダヤ教になり、それがさらにキリスト教の世界観に姿を変えたんだから、これはアトランティス時代以来ずっと続いているテーマなのよ。

A: 光の存在のフリをする者達が織りなしてきたもの。

Q: これは常にそういう風だったのよ。連中は「光の天使」の恰好をしてるの。基本的に歴史上の一切のことをこのグループが書き変えて来たんだわ。

A: 他方(others)の影響のもとで。誰のことだろうか?

Q: オリオンSTSね。

A: 光の柱と炎の戦車を遣わして、メッセージをもたらす。
---


間違いなく、このレンヌ・ル・シャトーという代物は、このような操作の最もはっきりしたものの1つである。ハガー氏が言うように、「キリスト教、その他の宗教を再び神秘的なものにしようという動き」は、「(アメリカ人の創造したものであれ)ワンワールド文明」の基盤として企図されたものなのである。彼はまたいみじくもこう指摘する:「来るべきアメリカ主導の世界文明の視点からすれば、ニューエイジ諸団体は、将来の世界文化に備えて素晴らしい仕事を行ってきた」

カシオペアンズによる以下の言明を踏まえれば、ハガー氏が「ニューワールド教」がアメリカ製になるだろうと言っているのは極めて興味深い。


941009 / 950520
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27905600&comm_id=2590126
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31410168&comm_id=2590126
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Q: (L)どうしてアメリカは、世界でもグレイによるアブダクションが他国より多いの?

A: 政府がルートを開いたから。北米はこんにちのSTSの「軍事・政治・宗教の中心地」だ。
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そう、確かにこの連中と言えば、「歓迎!」の看板を持って摩天楼の屋上に陣取り、踊りながら、人類に奉仕する救世主の到着を祝うのだろう ― メインコースとしての人類の元へ、と付け加えるべきだが!

1996年の秋、BBCはさらにレンヌ・ル・シャトー番組を放送したが、これは基本的に全貌を暴くものだった。今や彼らは、ベランジェ・ソニエールが発見したと言われていた羊皮紙が現代の偽物だと言いだした。これらはピエール・プランタールの協力者であるフィリップ・ド・シェリセイ侯爵によって偽造されたもののようである。どうやら彼らは仲違いし、一方が他方について密告したらしい。ピエール・プランタールがナチスに繋がる危険分子であり、政治的には極右の人物であることが暴露された。そればかりか、プランタール氏には詐欺罪の前科もあったのである。

国立図書館に仕掛けられていた、いわゆるシオン修道会の秘密文書は、歴史的な深い知識と巧妙にでっち上げられた空想とを組み合わせたフィクションであることが示された、云々。

この番組のために行われた調査から、どうやらジェラール・ド・セードは、この文書が偽造であることを、ヘンリー・リンカーンと最初に会う前から、あるいは、その直後には知っていたらしい。ヘンリー・リンカーンと仲間達は、工作の結果、転落の道へと導かれていたことに10年間気付かなかったのである。

それでもなお、レンヌ・ル・シャトーのテーマを扱う著者たちの殆どは、LL&Bの調査結果に従ってきた。彼らは皆、シオン修道会やプリウレ文書、そして秘密文書等々が本物だと思っているようなのだ。しかし、大事なものまで一緒に捨ててしまってはならない。レンヌ・ル・シャトーでは明らかに、こうも多くの人々を騙すような実に強力な何かが進行していたのである。

(続く)
posted by たカシー at 03:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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