2013年06月16日

(パート1の1)ザ・ウェイブ 第28章:エクスタシーの技術者:ナイトたちへのシャーマンのイニシエーション

http://cassiopaea.org/2011/02/10/the-wave-chapter-28%e2%80%a8-technicians-of-ecstasy%e2%80%a8%e2%80%a8-the-shamanic-initiation%e2%80%a8-of-the-knighted-ones-part-1%e2%80%a8/
ザ・ウェイブ 第28章:エクスタシーの技術者:ナイトたちへのシャーマンのイニシエーション(パート1)


STOとSTS

1999年、ネクサス・セブンと称する個人あるいはグループによる『トップ・シークレット/悪魔』という文書がネット上で撒かれ始めた。(原注1) この文書は、完全に「3D」的な分析的思考の論考と、どうやら様々なソース由来のチャネリング文書とを合わせたもので、現在のエイリアン/UFO現象に関する評価を発信しようというものである。私はこの文書にとても興味を覚えた。というのも、前巻『骨が露わになるまで』で私が行ったように、これはこのような問題の幾つかについて徹底的に論じる上で有益な土台を築くものだからだ。創造と人間性のどちらにもある、根本的な二元性というテーマについて、ネクサス・セブンは述べる:


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こんにちのチャネリングもののUFO学で用いられる「自己への奉仕」および「他者への奉仕」の観念は突飛なものではあるが、実際の物事の複雑さをうまく単純化したものである。「自己」が包含する定義の変化に合わせて、これらの観念は様々な広がりを持つ志向を位置付けるものであるが、実際には二元論的な観念を越えたところにある、弁証法的な3つ組のパターンを導入するのが適切である。とは言え、識別的な比喩を単に3つの組に拡大することすら、まず行われえまい。
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原注1:全文が以下の場所で公開されている:
http://soulresonance.110mb.com/demon.html 


この言明によってネクサス・セブンは、彼らが自己への奉仕(STS)的騙しの減衰効果の影響下にあるということを明確に示した。創造というリアリティの理解としては、しばしばインヤン(陰陽)図として示される、実在(Being) 対 非実在(Non-being)、創造 対 エントロピーという概念の把握以上に明白ないし基本的なものはない。それが結論だ。2つが1つに一体化した者である。「第3の人類」さえも、これらの間のダイナミズムの中にのみ存在する。3番目の人間(グルジェフの『第3の力(tertium quid)』)、
http://blog.livedoor.jp/k12345kk-12345678910/archives/5326034.html
イブン・アル=アラビの至高なる『自然(barzakh)』とは、B創造された宇宙であり:@創造的な目覚めた意識および、Aこれに活気を与えたエントロピー的な眠れる意識たる物質と並ぶものである。シーズによればこう言われている:


961221
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Q: (L) でもちょっと手掛かりを頂戴:思考はどのようにして物質化するの?

A: 双方から。二元的発生。

Q: (L) 何と何として、発生するの?

A: 「何と何として」というより、「何から何へ」だ。

Q: (L) 何から何が発生するの?

A: 始まりは終わりから生じ、逆もまた然り。

Q: (L) で、始まりとは何で、終わりとは何?

A: 一者との合一。第7密度。すなわち、存在するものと存在しないもの全て。
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存在する全てを成す2つの基礎条件:上位領域に向かって成長ないしアセンドする方法を知るために把握すべき最も重要なコンセプトである。それは、創造の全てはグランド・サイクルの中にあって、サイクルを描いている、つまり、誰もがどの時点でも準備が出来ている訳ではないということなのだ。準備の出来ている人々には自分達のミッションについての深い思慮分別が備わっており、中にはもうじき目覚めようとしている人々を助けて、目覚められるようにするのがミッションである人々も居る。しかし、たとえミッションを担う人々といえども、これに目覚めなくてはならない:


090704 951212
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=44766724&comm_id=2590126
951212
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Q: (L) だけどミッションってずばり言って何なの?

A: あなた方はちゃんとそれに目覚めつつある。よろしく!

Q: (L) つまり、こうやって始終議論し、それについて徹底的に調べて、その結果について話したり、考えたりしてる一切の事によって、私達は本当にどこかに辿り着くことになるの?

A: もちろん!!!!

Q: (L) 私達が受け取った情報を何らかのやり方でシェアするのも、「ミッション」の一部なの?

A: 学ぶことでエネルギーが満ちて元気になる。手取り足取り教えて欲しいかな?御免だ!

Q: (L) それじゃあ、私達は自分達で選択をしなくちゃならないのね。OK, 私達、このミッションを象徴するような名前について議論したのよ。で思い付いたのが ― どんな風にすればいいのか誰も分からないでしょ ― 夜明け、目覚め。。。といった事を象徴する『オーロラ(曙、黎明、曙光)』よ。一体これって何に因めばいいの?

A: 前問の回答を参照しなさい。

Q: (L) それじゃあ、何でも自分達で選ばなくちゃならないんだわ。何かコメントは無いの?

A: 必要ない。あなた達は自力でうまくやっている。

Q: (S) 彼らに何て言って欲しいの?「その調子!」って?w このミッションを支援する方法を私達はどうにかして見つけられるの?

A: 私達はそれに答える気はない。第1級指令を破ることになる。

Q: (L) 「第1級指令」って何?

A: 前問の回答を参照しなさい。

Q: (L) 結構だこと!私は知りたいのよ!天の方のどこかに指令を発してるところがあるの?

A: 正しければ分かるだろう。だが事前にではない!

Q: (L) この人たちに分かってもらいたいんだけど、時々ほんのちょっとごく僅かだけど、私はゲームの単なる駒じゃないのかって感じることがあるのよ!

A: その筈だ。あなたが住んでいるのは第3密度STSの環境だから。

Q: (L) もし私がチェスの歩兵だとして、少なくとも指し手の中に善玉が居て欲しいもんだわ。無理な願いかしら?

A: Yes. 「善玉」はチェスを指さない。

Q: (L) だけど、こうも沢山奇妙な出来事や、沢山のシンクロが起きてるのよ。これって善玉が助けてくれるか、悪玉が迷わせてるの?

A: どちらでもない。自然の経過を辿っている。

Q: (L) OK. 私が味わった感覚の1つなんだけど、ネガティブなエネルギーや第3密度の経験が目いっぱいであっぷあっぷしていて、最近思うんだけど、このもう沢山だという感覚は、絶対、今居るこの罠からの出口を見付けたいという一番のモチベーションなんだってね。もう抜け出したいわ。これもあなた方が言う「自然」の1部なの?

A: Yes. 第3密度の生活における制約のくだらなさが分かって来ると、それは卒業準備が出来たということだ。そんな制限に溺れている人に注意しなさい。

Q: (L) 人によっては明らかに極端な物質性に溺れてるわ。どうやらもう少し利口な別のタイプも居て、成長して悟りたいでしょ、といった言い方をするんだけど、当の本人は悟り方についての自分の幻想というヴェールに穴を開けられないの。そして、自分は進歩しているという幻想に溺れるのよ。。。

A: 溺れ方にも多くの形がある。誰かが溺れている兆候とは多くの場合、第3密度の明らかな罠や制約にも疎外感を感じないことだ。
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ということで、第3密度の明らかな罠や制約は、目覚める過程にある人に疎外感を抱かせるということが分かった。とは言うものの、目覚めることと、第4密度に適応するように成長することとは全く同じではない。極性を選択するために、私達は目覚めなくてはならないと知っているのだが、そこで出て来るのが、強制振動による増幅という問題なのだ。

この志向性と増幅を選択するという問題においてこそ、他者への奉仕(STO)と自己への奉仕(STS)という言葉は、現在の人間に提示されている最も重要な概念となるのだ。それらはネクサス・セブンが言っているような、「突飛だが、実際の物事の複雑さをうまく単純化したもの」などではないのである。

実際問題、私達はどうしたら極性を強く育てられるのだろうか?もしSTOに連携するというのが答えなら、単に与えなくてはならないということではないのだろうか?それが唯一の秘訣ではないのだろうか?そしてSTSに極性化した人々は単に奪うだけではないのだろうか?それだけのことでもあり、もっと複雑でもある。1つの観方では、最も心を開いた、愛情ある行為とは、「愛と光」に連携しているSTSの人々が愛に封じ込まれて愛が染み通るよう、彼らを愛し取り囲んで、やがて彼らがSTO連携に変身できるようにすることである。

しかし、直ちに注意すべきなのは、このような観方に出て来る、愛を送るというのは、受け手の側からすれば、自由意志を変え、変形し、否定しようとする行為だということである。こうして、他ならぬこのような行為によって、人は自由意志を否定しようとする、当の志向すなわち、STSと連携しているのだ。その結果、送られた当の愛はSTS志向の強制振動となるのである。それは次に何を行うだろうか?それは変身させようとして愛を送られた人や状況の中のSTSの振動を増幅するのである。それは送り手が欲したことと正反対のことをするのだが、それを意図したことになるのだ。

自己への奉仕派は、恐れという自らのブラックホールに詰め込むため、あらゆるものを支配し奪おうとする。何かをありのままでなく、変え、変形し、違ったものにしようという意図をもって愛を送る(あるいは何かを与える)のは、支配しようとすることなのである。他者への奉仕の極性にとって、「愛と光を送って世界を変える」という騙しの教えに操作されるのを甘受することは、支配や、自らの振動の減衰、振幅の喪失を事実上受け入れることになるのだ。他者への奉仕派は、自己の全てを他者に与えようとするのだが、彼らが願う最も重要なものが自由意志である故に、求められた時にのみ与えるのである。天上での結婚といった感じではないか?一方は奪おうとし;一方は与えようとする。頑張れ、って?

STOの振動にある者が、求められなければ与えてならないというのは、微妙な考え方である。求めることにつきものの概念は自発的交換ということだ。すなわち、求めることとは、求める者が与えることである。返礼として求めた人が与えるという考え方である。だがもし明示的な、求められ/与えるという以外に、どんな形であれ何らかの交換を期待するような何かが存在するならば、このやり取りはSTO的ではなくSTS的ということになる。(そして、求めるとはどういうことか、考えなければならない。言葉では求めていながら、その意図は操作的で、彼らが求めているらしいものとは正反対のことを企んでいる人々も居るだろう。言葉では求めていないが、行動や状況からして、求めているのが明らかだという人々も居るものだ。このような人々にとってこそ、知識はとても貴重である。)

しかし、もし一方の人が求めて、相手方が、受け取り手からのいかなる種類の見返りも期待しないで与えるということがあれば、STOのダイナミズムが働いているのである。たとえ隠然とでも、交換によって何かが変わるだろうという動機があるなら、結果として、STOの振動が衰えることになる。操作されるのに応じて与えるならば、それは支配のダイナミズムであり、あなたはSTSの立ち位置からも与えているのであって、それがさらにSTO的志向性を自ら衰えさせ、STS性を増幅することになる。そうやって自らを衰えさせる上に、あなたはエネルギーを失っていく。というのも、自発的交換など存在していないからだ。

STSの極性に対して愛のエネルギーを与える最終的な結果は、自己の、そしてまた、万物の全体的な枠組みにおいてもSTO的極性を徐々に使い果たし、ついには、その極性の全員から、シェアされている共生的な滋養物を奪うことになるのだ。この結果、人はデフォルトでSTSヒエラルキーの一部となってしまい、STOとしての有用性を失ってしまう。もしあなたがSTOモードの極性を求めるのならば、STSの領域から脱してSTOのダイナミズムへと入るように、連携と増幅によってエネルギーを得なくてはならない。STOの世界では、全員が互いに与え、その行いによって、力を消耗するのではなく増殖させている。私達の存在の次元における物質の重要性故に、STSがデフォルトの状態であって、私達はあらゆる類の物質的・感情的なニーズを持った生き物として生まれるのである。

言い換えるとこうだ。STOのダイナミズムの真の目的とは、創造により無数の形に顕現している宇宙心(神)の自由意志の働きに対して与えること;このダイナミズムにおいて振動数共振を定着させることである。STSのダイナミズムの真の目的とは、死と破壊者 ― 非実在の思考 ― としての役割を果たす宇宙心に対して与えること;創造し存在する自由意志を否定することである。STSサイドは奴隷化を促しあるいは奴隷を操作したいのであり、STOサイドは強さ、純粋さ、能力を保って、万人の自由意志を活性化させるためにこれを拒絶しなくてはならない。

創造の本質とは、経験的で観察可能な「現実世界」の下に横たわっている潜在性の領域が存在し、私達の観方や気付きによってそこから私達の物質世界が顕れているということである。神からの自由意志という贈り物は、観方を選ぶ能力なのだ:グラスにあと半分しか残っていないと悲観的に見るか、まだ半分あると楽観的に見るかということだ。私達は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る、『生きた水』を選ぶことも、その水を飲む者はだれでもまた渇く、『出し抜く者ヤコブの井戸』の水を選ぶこともできるのだ。この選択で思い出されるのが、カルロス・カスタネダの『無限の本質』でのドン・ファンによる言葉である: 「意識が足指よりも高いレベルに達すると、とてつもなく素晴らしい知覚作用が当たり前のものになる」

選択は知覚の術策である。だが、私も今振り返ってみてこそ、そう言えるのである。私も人間としてこれ以上ないくらい、自分自身の人生に起きていることに無知だったのだ。さらに知覚という術策を磨けば、全ての選択を、見えざるものを見ることに基いて行えるようになるだろう。全ての選択を、化学的/感情的な愛や、仮定とウィッシュフル・シンキングに根差した愛ではなくて、知識と愛に基いて行うならば、(原注2) 私達は振動共振的振動(FRV)すなわち、振動の署名を増幅させるブランコが振れるよう押しているのである。このような増幅が私達の極性を増大させて、私達は成長するのだ。


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原注2:
愛することとは、最愛の者についての知識を求めることである。知ることは愛することである。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリントの信徒への手紙一 / 13章 12-13節 )
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問題なのは、最初に見えざるものを見ようと修練を始めるとき、私達が迷路を通ろうとして盲人のようにつまずくことだ。私達は、アリアドネの糸のみに導かれる、ミノタウロスの隠れ家に入ったテセウスなのだ。物自体の世界(原注3)は、第4密度の行動が顕れたものであり、これを知覚するためには極度の集中、修練が必要とされ、それは「予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かう」能力である。私達は「ひるむことなく無限に立ち向かう」技を学ばなくてはならない。そしてこれこそカシオペアンズが促してくれたプロセスである。彼らが私達に語った物自体の世界、第4密度の領域は、最終的には私達を恐れさせようとするものではなく、私達の期待と一致しない奇妙な事に立ち向かう私達を目覚めさせようとするものだったのだ。


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原注3:
物に関するプラトンの説に出て来るイデアは、幾つかの哲学体系で物自体(noumena)と呼ばれる。カント哲学において、これは「感性の形式を超えた悟性によってのみ捉え得る対象」である。これは心とは独立した物の本質、物自体である。
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そして、私達が本当に見ることを学び始めると、見ている事に基づいて何らかの実験を始める。うまく行くこともあればダメなこともある。私達は徐々にコースを調整して、私達の極性を増幅するものや私達の極性を減衰させるものを学ぶのだ。

最近、オンライン・グループのメンバーから受信したメールを紹介しよう。彼らはカシオペアンズによって概略が述べられた、リアリティの背後にある意味に目覚め、これを見る実験をしているのだ。1人はこう書いている:


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ようやく1つ分かったのは、正反対の宗教的、社会的訓練は何10年も受けたけれども、僕らが行わねばならない決定はただ1つということだ。いつの時点においても、僕らは皆、手近にある、STSまたはSTOのアプローチを発動する機会に直面している。一生に亘って「間違った」選択について思い悩んだり、お布施を寄越せば「来世で神にうまいこと、とりなしてやろう」と要求するような外部のソースによる贖罪/救済の重荷を自分の肩で担ぐ代わりに、その時点における特定の選択にフォーカスすることと、「善も悪も」無い、ただ学びだけだというカシオペアンズの主張とが相俟って、STO候補生としての「勤め」はうーーんと楽になったよ。。。
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グループの別のメンバーがこれに応える:


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現在行っている選択は、学びに関する大いなる明快さと理解をもたらし、これまで行った全ての選択の性質を変えるみたいじゃない?それが物事の本質なのよ。現在 ― どの現在でも ― 行っている選択は外部からの影響を排除し、それが全ての関係者に自由意志を認めるかどうかのみを考慮するもので、これまで行った全ての選択の性質を変えるものだわ!
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いかなる存在のためにも自由意志を支持するような一切の選択は、たとえ、その存在が彼らの自由意志を用いて、自分達あるいは他人に対して自由意志を否定することを選ぶがゆえに、そのような目的の達成を阻止されねばならないとしても、自由意志が残りの全ての関係者のために維持される程度において、存在の最も深いレベルにおける自由意志のための選択である。だが注意すべき重要なポイントとは:他人が彼らの選んだ道を十分に経験できるよう自由意志を支持すること − そしてそれは、彼らが学びに参加することによって行った選択を支持するという意味ではない。他人の志向性における選択に参加するかは、自分で決めることである。そしてそれは、あなた自身の振動の増幅にとって、減衰器として機能するかも知れないのだ。

これはつまり、STOの道に位置している他者の自由意志を支持する能力は、純粋なままでなくてはならず、STS連携の中に組み込まれてはならないということだ。さもないと、皆のための自由意志は私達の現在のリアリティに存在するのを止めるかも知れず、この結果、この畏敬の念を抱かしめるような釣り合いにアンバランスが生じることにもなり、その結末を考えるとゾッとする。実際、STOの内的傾向を持ち、その実践を始めた人々の組織にあって、STOと自由意志の真のダイナミズムを学ぶならば、予言されたどんな天変地異による受難も相当程度軽くなるかも知れないとすら言っていいだろう。しかし、1つ確かなのは、世界を変えよう、闇を光に変えようという「愛と光」の努力によって、自由意志を犯し続けるならば、それらはSTSの極性を増幅するという、まさにその事実によって、地球上の状況を結果的に悪化させるに過ぎないということだ。

神 ― 聖なる宇宙心 ― のため、そして、STS極性の人々を含む全人類のため、STO候補者は、STSの原動力を支援し維持してこれにエネルギーを供することを拒まなくてはならない。もしあなたが、STS極にエネルギーを供するならば、それは強力になり(シーズによれば、それは既に30万年以上に亘ってエネルギーを供されてきた)、STOの存在感は弱まって行き、その結果みんなの自由意志は浸食されるのだ。

ということで、私達はまた、ザ・ウェイブ・シリーズのメインテーマの1つに戻って来た:すなわち、幻想というタマネギの皮を剥くこと、すなわち、あなたが寝入ろうとする度に何度も繰り返し目を醒まさないと、あなたには逃げ道がない ― あなたは「神々の食べ物」である ― という考えによって、あなたの感性に絶えず必要なショックを与えることである。あなたがしがみついていたつもりの、外部から救われるという全ての望みと夢を取り去ることで、私はあなたの骨が露わになるまで剥いでいるのだ。骨まで剥いでいるだけではない、私はあなたの肉を茹でている。真に求める人々にとって、私があなたに対して行っているのは不可欠な儀式なのである。それはシャーマンのイニシエーションなのだ。あなたは死なない限り生まれ変わることはできず、人は再び生まれない限り、「永遠の命」を得ることはない。人が生まれ変わるには、まず死ななくてはならないのだ。(原注4)


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原注4:
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
(ヨハネによる福音書 / 3章 1-8節 )
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最も広い意味において、自分自身の命を支配している人間とはシャーマンであり、このプロセスに最も激しく抵抗する人ほど、大概は最も偉大なシャーマンの能力を備えた人である。意志はしょせん意志である。それは知識と結婚しなくてはならない。それは熟するまでは結婚できず、生まれるまでは熟することができず、偽の人格が死ぬまでは生まれることができない。(原注5)


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原注5:私達は身体と本質を持って生まれてくる。成長するに従い、私達は学習と模倣を通じて人格を発達させる。人格とは不可欠なものである。私達が物質生活の要求を満たすためには、強い人格が必要である。しかし、人格と同時に、私達はまた偽の人格をも発達させる。偽の人格は、全く実在しない、私達自身の中の「私」から成っている。偽の人格は、私達が想像する私達自身のあるべき姿に過ぎない。それは、私達が振る舞おうとしている私達自身について私達が抱く想像図である。それは私達が会う、他の偽りの顔に合わせて私達が身に着ける偽りの顔である。
http://hubpages.com/hub/False-Personality-and-Chief-Features
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神とのエクスタシー的コンタクトに入ろうという人間の欲求は、単なる人間でいるという状況を破らねばならないという恐れと直接的に衝突するものと言われてきた。上述の議論から分かるように、これは本質的に、他者への奉仕(STO)と自己への奉仕(STS)との間の闘いである。知識を集め、謙虚になり、自己に関する深い内面的真実に向き合うことの代償は高く、誰もが払えるものではない。これが人間のジレンマである。人間であるほど心地よいことはない。私達は永久に幻想のヴェールの影に生き、盲目に苦しみ、無知のまま死んでいくこともできる;そんな人間の幾つかの面が苦難と死を十分味わうまでは、人間の病気を癒そうと未知の世界へ探検に出かけたいという欲求は生まれない。この決定的な旅の準備が出来た魂だけが、聖杯の発見 ― 自由意志による、あらゆる他者に対する奉仕の選択 ― という言葉で言い表せぬ喜びを体験するために、宇宙の魅惑的な森へ旅するという、魂も凍るような危険をあえて冒すのだ。

シャーマンとは「エクスタシー技術の会得者」であると宗教史家のミルチャ・エリアーデは述べている。これは神とコンタクトする上で欠かせない資質ないし結果である。そればかりか、神と直接コンタクトする人間には、「見えざるものが見え」なくてはならない。見ることは、人間が自らの知覚の場を拡大する能力であり、やがては万物の外観だけでなくて、その本質を見極めることができるようになる。その目的は、世の中に新たな因果の連鎖を始められるような選択ができるようになることだ。それは「幻覚」あるいはマシンを使って脳の知覚を変化させることとは全く関係がない。いわば、「魂」の問題なのだ。

もちろん、人が知識も無しにシャーマンになろうとすれば、問題が生じる。最近の文通相手が、物理学の新たな見通しを説くと主張する、ある流行のチャネリング・ソースについて、情報を寄越した。


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親愛なるアークとローラへ

僕はスカラー波についてあまりよく知らなくて、下のサイトにあるスカラー波に関する情報が有益かどうか、はっきりよくは分からないんだけど、この情報を2人に送るよ。アンナ・ヘイズが話すのをジェフ・レンス・ラジオショーで聞いたけど、どうも穏やかで学がある人物という感じのいい印象だった。

J***
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アークは問題のサイトに行って読み始めた。しばらく検討した後、彼は以下のように回答した:


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やあ、J、

こう書いてあるんだけどね:

「次元はスカラー波が織りなすレイヤーである。スカラー波は意識/エネルギーの流れを、多数の屈折のパターンに導くのに役立っている。これによって、物質密度のホログラムや直線的な時間、リアリティの明らかな具現化が経験可能となるのである。次元は次元の帯同士の間で、粒子スピンが回転角90度の差となるようにして、互いに正確な関係を保って存在している。スカラー波は定在波の節点であり、振動の定点から放出される大量の意識でできているのだが、それは、パーティカイ、パーティケイ、パーティカム
http://japanese.azuritepress.com/New%20Comers/structure_of_universe.php
と呼ばれる超ミクロの粒子ユニットを形成する。スカラー波は固定的なスカラー場の中に存在し、意識/エネルギーの普遍的な統一場を形成している。定在的スカラー波は、内部分裂・融解という永続的な運動によって動いているらしく、これによって、スカラー定在波の一連の定点は『明滅』し、『連続フラッシュ線』と呼ばれる永続的でリズミカルな運動を生み出す。これによって、物質は継続的に顕示と非顕示をくり返すのである」

波動や次元、粒子スピン等々について、明らかに何も知らない人が、これらのテーマについて他人に「教える」ことを選ぶというのは、残念な事だと思わざるを得ないね。一面において、リジーが考えているに違いない、より多くの混乱を生み出し成功しているようだ。その一方で、私達は自由意志の宇宙に居り、自分の道と「師」を選ぶのは各自の責任なんだ。リンクをありがとう。役に立ったよ。

かしこ

アーク
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実は、アークの回答は上掲のチャネリングを行った張本人にもCCされていて、彼は返事を寄越した:


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やあ:

この情報は私自身によるものではなく、高次のソースからもたらされたものなので、私はこの話題について何も知っている必要はないんだ。

愛と光と喜びを

ディー・フィニー
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無意味な文章を読むのは全くもってエネルギーを使い果たす行為であるという事実は措いても、このような観方は、カシオペアの情報と共鳴しない。カシオペアン・チャネリングにおいては、独自に知識を学んで、これを得ることこそ、人を罠から守る唯一の手段だと勧められているのである。アークは答えた:


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親愛なるディー、

分かった。だが、高次のソースであれ、下位のソースであれ、もたらされた情報をチェックすること、その情報が筋の通ったものか、それとも単なるたわ言なのかチェックすることは、常に欠かせない。あらゆる類のナンセンスを私達の頭に浴びせようと手ぐすね引いて待っている、亡者その他の実体はごまんと居るものだ。

本当の調査が常に欠かせない。そうしないでどうやって私達はディスインフォメーションを掴まされてないと分かるだろうか?そんな実態が言う事を決して当てにしてはいけない。キミは常にチェックして批判的でいなくてはならないんだ!多くの人々がそうしているように、幻想の中で生きたくなければね。

かしこ

アーク
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誰だってチャネラーになれるのだ。しかし、意識の拡張された状態にアクセスするワークを行うことを選び取るには、知識と意志が必要である。ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』の中に記録されている以下のやり取りの中で、グルジェフはまさにこの話題について述べている:


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(浅井訳377ページ)
「ワークに加わることができる人間をどうしたら識別できるのでしょうか」と出席者の1人が聞いた。

G − どのように識別するかは別の問題だ。それを識別するためには、ある程度<存在していること>が必要だ。しかしこれについて話す前に、どんな種類の人がワークに加わることができ、どんな人ができないかをはっきりさせねばなるまい。

君たちは、人はまず一定の準備をし、一定の手荷物をもっていなければならないことを理解しなくてはならない。つまり彼は、秘教主義に関する思想や隠された知識、また人間の内的進化の可能性などに関して、普通の手段で知りうることはみな知っていなくてはならないのだ。つまり私が言いたいのは、これらの考えは彼にとって全く新しいものであってはならないということだ。そうでないと彼と話すのはとても難しいだろう。また、もし彼に何らかの科学的、哲学的準備があれば、それも有益だろう。宗教に関して的確な知識をもっていれば、それも助けになるだろう。しかし、もし彼が宗教的な形式に縛りつけられていて、その本質を全然理解していなければ、彼にとってワークは非常に難しいものになるだろう。一般に、あまりものを知らない人やわずかしか本を読んでいない人、あるいはあまり考えたりしたことのない人とは話しにくいのは確かだ。

もし彼が良い本質をもっていれば、話しを交わさなくても他の意思疎通の道があるが、その場合、彼は従順で自己の意志を放棄していなければならない。彼はこの状態に何とかしてたどりつかなくてはならない。

これに関しては、誰にでもあてはまる1つの一般的な規則があると言ってもいいだろう。このシステムに真剣に近づくためには、まず第一に自分自身に失望していなければならない。つまり自分の力に対してだ。そして次にはあらゆる古い方法に対して、自分がしてきたこと、それまで捜し続けてきたものに失望していない限り、このシステムの中の最も価値あるものを感じとることはできない。科学者なら科学に失望していなければならない。もし宗教的な人間であれば自分の宗教に失望していなければならない。政治家なら政治に失望すべきであり、哲学者なら哲学に、神智学者なら神智学に、オカルティストならオカルティズムに、その他何であれそれぞれに失望すべきなのだ。

これの意味するところを理解してみなさい。私は、たとえば宗教的な人間は宗教に失望すべきだと言った。これは信仰を失うべきだということではない。全くその逆で、その教えと方法にだけ<失望する>、つまり彼の知っている宗教の教えは彼には十分でなく、彼をどこにも導くことができないということを悟ることなのだ。野蛮人の完全に退化した宗教とか現代の新興宗教や宗派を別にすれば、すべての宗教的教えは2つの部分、つまり見える部分と隠された部分とから成っている。宗教に失望するとは、この見える部分に失望し、宗教の隠された未知の部分を見出す必要性を感じることにほかならない。科学に失望するとは、知識への興味を失うことではない。そうではなく、普通の科学的方法は無益なだけでなく、ばかげた自己撞着的な論理の構築へ導きさえするということを納得することであり、そしてそのうえで、他のものを捜しはじめることだ。哲学に失望するとは、普通の哲学は − ロシアのことわざにもあるように − 単にからの器から他の器へと注いでいるにすぎないということ、また、真の哲学は存在しうるしまた存在すべきではあるが、人々は哲学とは何なのかさえわかっていないということを確信することだ。オカルティズムに失望するとは、奇蹟的なものに対する信頼を失うことではなく、ただ、普通の理解可能な、公開されているオカルティズムは、それがどんな名で流布していようと、単なる大ぼらであり自己欺瞞であり、どこかに何かが存在しているのは確かだが、既知のあるいは普通の方法で習得しうるものは何であれ、彼が必要としているものではないということを納得することにほかならない。

そういうわけで、それまで何をやっていたにせよ、何に興味をもっていたにせよ、ともかく彼なりに可能な方法でやってきて失望に至ったのだとすれば、我々のシステムを話してみる価値があり、そうなれば彼の方でもワークに入ってくるかもしれない。しかしもし彼が、自分にはこれまでの方法で何かを見つけることができるとか、まだすべての方法を試していないとか思ったり、あるいはまた、独力で何かを見つけたりやったりすることができるといまだに考えているとすれば、まだ彼には準備ができていないのだ。私はそれまでにやっていたことをすべて放棄しろと言っているのではない。そんなことは全く不要だ。それどころか、それまでしていたことを続けた方がいい場合も多い。しかしその場合でも彼は、それが単なる職業、あるいは習慣、または必要物にすぎないことを自覚していなくてはならない。それができれば問題は別だ。つまりそうすれば彼は<自己同一化>しないでおれるのだ。

ワークと相容れないものが1つだけある。それは<職業的オカルティズム>、言いかえれば職業的大ぼら吹きだ。こういったもろもろの降霊術者、治療師、投資者等、あるいは彼らと密接な関係をもつ者たちでさえ、1人として我々に益する者はいない。常にこれを覚えておいて、彼らに多くを語らないように注意しなさい。なぜならば、彼らは君たちから学ぶことをみな自分たちの目的、つまり他人をだますことに使うからだ。

。。。今のところは1つのことだけ覚えておきなさい。つまり、人間は普通の方法に完全に失望していなければならず、それと同時に、何かがどこかにあるという考えに思いをこらし、受け入れ態勢を整えていなければならないということだ。このような人間に話をすれば、君たちの話し方がどんなに下手でも彼はきっとその言葉の中に真実のにおいをかぎつけるだろう。ところが、何か別のことを確信している人に話しかけると、君たちが言うことはみな彼にはばかげていて、2度と君たちの言うことを真剣に聞こうとはしないだろう。このような人間には時間を費やす価値はない。このシステムは、すでに捜しつくし、自己を焼きつくした人々のためにあるのだ。捜し求めたことのない人や今捜し求めていない人にはこんなものは必要ない。自己を焼きつくしたことのない人にも同様に必要ないのだ。

「でも人々はそんなことから聞きはじめはしません」と仲間の1人が言った。「彼らはこんなことを聞くのです。あなたたちはエーテルの存在を認めるか。進化をいかに見るか。なぜ進歩を信じないのか。なぜ人々は、正義と公共の善との基盤の上に生活を組織しうるし、またすべきだと考えないのか等々、これに類したことです」

G − どんな質問でもよろしい。誠実なものであれば、どんな質問からでも始めることができる。私の言っていることはわかるだろう。つまり、そういったエーテルや進化や公共の善についての質問は単に何か言うために、あるいは誰かが言ったことや何かの本で読んだことをくり返すために発せられたのだと考えられるし、あるいは逆に、その問題に苦しんでいるからこそ聞いたのかもしれない。もしそれが彼にとって痛みうずく問題であれば、君たちは彼に答えを与え、どんな質問にもいとわず答えることで彼をこのシステムに近づけることができる。しかしそのためには、彼がその問題に本当に苦しんでいる必要がある。
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誰にとっても、自分がそそのかしや操作、外部からのコントロールの影響を受けやすいと認めるのは一番難しいことである。誰だって、自分の目覚めが操作されたものだと認めたくはない。だが、全ての神秘的な教えは例外なく、目覚めを拡張する作業の第1番目は、人が置かれている催眠すなわち「眠っている状態」を克服することであると述べる。全ての神秘的な教えは例外なく、これは1万人に1人しか達成不可能な、手ごわい仕事だと述べるのである。

あなたはどうだろうか。しばらく考えて欲しい。これに対する反応として、9,999人は「私は1万人の中の1人だ!」と考えるものだ。偉大なマスターは言うだろう。もしあなたがそう考えたなら、あなたはそうではないと。

自分の知覚が詳しく調べられ、疑われ、テストされ、検査され、挑戦されねばならないことに気付いている人であってはじめて、催眠を逃れる望みがあるのである。これに気付くのも、目覚めに至る一連の長いステップの単なる最初の1歩に過ぎない。だが、いいだろうか。目覚めることは見ることと同じではない。拡張された意識の中で見ることのできる人は多いが、すぐにまた眠りに戻ってしまう。そして彼らが見たものは、日常意識という催眠状態の基準で解釈されるのである。チェック不要のソースにチャネリングにしていると称する人々の大部分には、こういうことが起きているのである。上でアークが書いているように、「高次のソースであれ、下位のソースであれ、もたらされた情報をチェックすること、その情報が筋の通ったものか、それとも単なるたわ言なのかチェックすることは、常に欠かせない。。。そんな実態が言う事を決して当てにしてはいけない。。。幻想の中で生きたくなければね」

私の観方では、このような「見る者たち」が、彼らのいわゆるガイドを疑い、テストし、検査し、挑戦しないのは、単にエゴのせいなのだ。彼らは、自分達が特別だとか、選ばれたのだとか、どこそこの評議会だか天軍のメッセンジャーだとか言われたのである。こうした言葉や、さらには「あなたは私達の言う事を聞きさえすればいいんだ!」という指示を信じる事の方が、知識を獲得するために多大な努力をしたり、エゴの弱さや、もちろん、最も重要な、人間には測り知れないくらい遥かにずる賢い勢力による操作に罹り易い性分を根治する事よりずっと簡単だし、より快適なのである。

ドン・ファンは言う。見る者は、人間のほとんどどうしようもないだらしなさとプログラミングを乗り越えるため、意志の力によって模範的でなければならないと。「この情報は私自身によるものではなく、高次のソースからもたらされたものなので、私はこの話題について何も知っている必要はないんだ」という言葉は、このようなだらしなさと操作の驚くべき1例であり、このような見解の愚かさについて直ちに良心の呵責にかられることなく、こう書いて寄越す人物の精神構造を理解する事がいかに難しいかを物語っている。『意識への回帰 内からの炎』の中でカルロス・カスタネダは、真に見ることを学ぶための必要条件の1つについてこう書いている:


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高められた意識状態では、弟子は。。。あらゆるものに対して並はずれた力と清澄さで心を集中させることができるという。しかし、高められた意識には、通常の記憶には影響を受けないという固有の特質がある。
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カスタネダ『意識への回帰 内からの炎』真崎訳10ページ


明らかに、大いに極性化された強さがここでは必要となる。見ることとは、未知を目撃し、不可知を垣間見ることである。未知は人間からヴェールで隠されているが、十分に極性化し増幅された人間にとっては、理性の手の届くところにある。不可知は表現しえぬもの、考えられぬもの、理解しえぬものだ。それは人間に知られることは決してないが、だらしなさとプログラミングの虜となった見る者たちも立ち止まってそれを見ることはない。カスタネダのドン・ファンは述べる:


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(邦訳54ページ)
。。。ありもしない属性をワシ(eagles)[イーグルとは言語を絶する未知なるもの、すなわち、聖なる宇宙心の顔]に与えようとする試みもあったくらいだ。だがそれも、感受性の強い人がかなりの緊張を要求される行為を学ぶときには、よくあることさ。見る者たちにもいろいろあるからな。。。見る者になるバカもたくさんいるってことだ。見る者とて欠点だらけの人間だということさ。いや、むしろ、欠点だらけの人間でも見る者になれるってことだな。。。見さげはてた見る者の特徴は、すぐに世界の不思議を忘れることにある。連中は自分が見たという事実に圧倒されて、だいじなのは自分の才能だなどと思いこんじまうんだ。見る者は、わしら人間のほとんどどうしようもないだらしなさを乗り越えるために、模範的でなければならない。見ること自体よりも、見たもので何をするかのほうが重要なんだ。
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どうやらこの学びを通常の意識にもたらすためには膨大な努力が必要であり、大抵の人にとってそれは不可能であるらしい。というのも、彼らはそれを受け止めるために用意された「知識の器」を持っていないからだ。カスタネダはさらに言う。そしてこれは、他の教えからも確証される。すなわち、未知のものを前にすると ― しかし、それは大いなるワークを経て、ようやく手が届く所にある知識である ― 人間は活気づいて陽気になる。未知のものが惹き起こす不安でさえ、満足感をもたらす。知覚領域を拡大する効果の1つは、自由や快感と背中合わせに恐ろしいほどの寂しさや恋しさがあることのようである。 これはどうやら、完全に広がった気付きの領域には、全くバランスの取れた反対同士のものが含まれるためらしい。

しかし、最終的には人間の知覚でアクセス可能な未知のもののレベルですらも、真に見ることのできる見る者は精神に異常を来してしまう。その存在が不可解なほど複雑で、私達の通常の気付きは一切を歪め、その限界のためにそれを見誤ると分かるからだ。これについて、ドン・ファンは述べる:


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(109ページ)
戦士の生活を送っていて理由もなく寂しくなることがあるのはごく自然なことだ。。。エネルギー場としての輝く卵は、既知の境界が破られるとかならずみずからの最後の運命を感じとるのだ。私たちの一覧表[すなわち気付き]の心地よさを破壊するには、まゆの外の永遠を一瞥するだけで十分だ。そこから惹き起こされる憂鬱は、時として死をもたらすほどに強烈なものだ。。。憂鬱をふり払う最良の方法は、それを茶化してしまうことだ。。。
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しかし、不可知のものを前にすると、見る者たちは消耗し混乱してしまい、恐ろしいほどの圧迫感が彼らにとり憑く。肉体が正常でなくなり、理性と落ち着きもどこかへ行ってしまう。カシオペアンズはこう言っていた:


980919
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33026579&comm_id=2590126
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要するに:あなた方は第3密度に住んでいる生来のSTSである。STO候補になることはできるが、第4密度に行くまではSTOではない。第4密度以上に行くまでは決して、この概念が狙いとする所の意味を理解することはないだろう。
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この点を多少明確にするため、付言しておきたいのだが、「落下」(原注6)以前、人間は第3密度STOだったのであり、つまり、彼らは第4密度STOと連携していたのである。前巻『骨が露わになるまで』では、巨石構築物建造者達の目から見て、このリアリティとはどんなものだったに違いないかにつき論じた。彼らは天上の勢力とやり取りすることによって、地球環境から強奪しなくても、必要な物は全て顕現させることが出来たのである。


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原注6:
「落下」については、『ウェイブに乗って』の巻でより詳しく述べてある。
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ドン・ファンが言うには、古代の見る者たちは、「信じられないようなことのできる」私達のレベルでの生存に関する「秘密の知をもった陰気で強力な呪術師だった」。彼らには「相手の意識を好きなものに固定して人に影響を与えたり苦痛を与えたりでき」たのだ。これは振動共振的振動(FRV)の秘密を解く上で、いくら強調しても強調し過ぎることはない重要な鍵である。

気付きについて研究し理解する2つの立場がある:呪術師 対 見る者である戦士 だ。どちらも同じ見ることを実践しているが、違いはその意図にある。呪術師は他人をコントロールするために行う。戦士は自由になるために行う。呪術師は上位レベル ― 不可知のもの ― を操作し、直接やり取りしようとして、結局その過程で操作される。(原注7) 戦士は彼ら自身のレベル― 可知のもの ― に対して、高次のレベルと協調しつつ働きかける。カシオペンズはこれらの2つの立場をSTOおよびSTSと呼ぶ。他者をコントロールすることを願う人は自己に奉仕しているのであり;自ら自由になりたいと願い、また、自由になりたいと願う他者を助ける人は他者に奉仕している。奉仕したいという欲求が、エゴおよび偽の人格と結び付くとき、この組み合わせは致命的となることに人は気付かなくてはならない。というのも、このような人はごく簡単に操作でき、実際には「闇の側」に奉仕しているだけなのに、良い事を行っているのだと信じさせられているからである。


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原注7:
上で述べられている例と全く同じなのが、「キーロンティック科学(Keylontic Science)」であり、
http://www.japanese.azuritepress.com/techniques/Maharic.php
そこでは、チャネラーと彼女の信奉者たちは、人間の知識や理性が重要でないと思い込んでいる。
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シャーマニズム

「シャーマン」とは、自由になろうと実践を重ねる戦士の別称である。シャーマンは魔術師や呪術師ではないが、彼がそうすることを選べば、それらの役目も果たすことができる。彼はヒーラーではないが、この役目も果たせる。シャーマンの役目は遥かに多い;彼は冥界への魂の導き手であり、司祭、神秘主義者、そして詩人である。シャーマニズムは宗教ではなく、ある人々特有の機能、役割、魔術的-宗教的現象である。彼は高次領域への「魔術的飛翔」や、闇の勢力と戦うための冥界下り、火、物質、時間、空間への支配を可能にするエクスタシー的能力を持っている。残念ながらドン・ファンが述べているように、現在では、シャーマンの営為は、大いにたるんで歪み逸脱してしまった。

「シャーマン」という言葉は、ロシア語を通して、トゥングース語の”saman”に由来する。このトゥングース語は中国語の「沙門」(パーリ語の音を写したもの)を通して、パーリ語のサマナ(” samana”、サンスクリット語では” sramana”)に由来する。ジョン・G・ベネット(原注8)によれば、


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“sarmoung”と”sarman”、どちらのスペルでも発音は同じで、この言葉は古いペルシャ語に当る。これは実際、パフラヴィー語の文献に出て来る。。。この言葉は3通りの解釈が可能である。まず、これは蜂を指す言葉である。蜂は常に、貴重な伝統的知識という「ハチミツ」を集めて後代のために貯える人々のシンボルであった。

アルメニアおよびシリアのサークルでよく知られた伝説集のタイトルを『蜂』といい、これは13世紀にネストリウス教の修道院長であるマー・サラモン(Mar Salamon)によって校訂された。蜂とはゾロアスターの時代から伝えられ、キリストの時代に明らかになった不思議な力のことである。

ペルシャ語で”Man”とは、遺伝によって伝えられる資質であり、故に家族や種族とは区別された。それは家宝や伝統の貯蔵所の役割を果たした。 “sar”という言葉は、頭を意味し、どちらも文字通り、「主たる」あるいは「重要な」ということである。 “sar”と”Man”の組み合わせはかくして、伝統の主な貯蔵所の意味となる。。。そしてサーマンのさらに別の意味とは。。。文字通り、自らの頭を浄めた人のことである。
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*ジョン・G・ベネット『グルジェフ ─ 新世界の創造』
原注8:私はベネットの思想全般に対して幾分の疑念を抱いている。というのも、彼はグルジェフの門下生の1人でありながら、グルジェフが言動で示そうとした多くの点を見逃しているからである。例えば、ウィリアム・パトリック・パターソンの『魔術師たちの闘争』を参照されたい。


自らの頭を浄めた人とは!何と興味深い考え方だろう!とりわけ、振動共振的振動(FRV)や志向性の概念を考えるときには。既に述べたように、人が振動数を調整することの難しさは、プログラムおよび偽の人格に対処することにある。これが非常に難しい理由の1つは、それが脳化学の問題でもあるからなのだ。バーバラ・オークレイは著書『悪の遺伝子』に書いている:


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米エモリー大学の心理学者ドリュー・ウェステンと同僚が行った最近のイメージ化研究は、感情的推論の存在に、確固たる支持をもたらした。2004年のブッシュ対ケリーの大統領選の直前に、2つの被験者グループが採用された − 15人の熱烈な民主党員と15人の熱烈な共和党員である。各人には、支持候補に関する矛盾していて、且つ、一見したところ不利な発言と、俳優のトム・ハンクス(あらゆる政治的信念の人々にとって一見感じのいい人物である)のような、より中立的な対象に関する同様の発言が提供された。これらを材料に、相手方の − 「悪い」 − 政党の候補に関する、理にかなった結論を引き出すように言われたとき、たとえ論理的に詳しい状況が曖昧にされていて、異なる結論に達することができても、当然ながら参加者達は相手候補の旗色が悪いという結論に到達する方法を模索したのである。ここが面白いところだ。

このような「感情の支配」が起こり始めたときには、通常なら推論に従事する脳の各部が活性化されなかったのである。代わりに、様々な活性化が、脳の中の罰や痛み、あるいはネガティブな感情を経験するのと同じ部位で起こった(すなわち、左島、外側前頭前皮質、腹側正中部の前頭葉前部皮質である)。合理的には軽視できない情報を無視する方法が見つかるや、参加者達は神経中の罰を感じる部位がオフになり、報酬に関与する回路が爆発的に活性化するのを経験したのだ − 熱狂的支持者が解決法を知ってハイになると言っていい。要するに、参加者達は事実なんかに彼らの感情的な決定および素早い報酬のささやきの邪魔をさせる気は毛頭なかったのだ。「意識的推論に関与する回路のどれもが、特別にこれに関与している訳ではない」とウェステンは言う。「本質的には、熱心な支持者はあたかも認知の万華鏡を、自らが欲する結論に達するまで回し、そうしてネガティブな感情の状態が取り除かれポジティブな方が活性化するや、そちらを選ぶ報奨を大量に与えられるということらしい」。。。

最終的にウェステンと同僚はこう考えた。「感情的なバイアスのかかった推論は、防御的信念の『スタンプ』すなわち強化を惹き起して、参加者達のデータに関する『見直し論者的』説明を、ポジティブな感情すなわち安堵と悩みの除去に結び付ける。この結果、党派心が硬化し、人は新しいデータから殆ど何も学ぶことができないのだ」とウェステンは言う。ウェステンの注目すべき研究によって、彼が「感情的推論」と呼ぶものに関する神経による情報処理は。。。達すべき結論に対して人が何らの強い感情的利害関係を持たないときの推論と、質的に異なるように思われる。

こうして、この研究は、政治的判断や意志決定の根底にある神経プロセスの説明に、また同様に、感情の支配、心理的防衛、確証バイアス、
http://www.genpaku.org/skepticj/confirmbias.html
そして、ある種の認知的不協和を含むプロセスの説明に先鞭をつけるものだ。これらの成果の重要性は、政治学研究の範囲を越えている:「重役や判事から科学者や政治家に至るまで、誰しも、『事実』をどのように解釈するかについて利害関係を持つとき、感情的なバイアスのかかった推論を行うかも知れない」とウェステンは言う。
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このような理解は明らかに、今では遠い過去のものとなった古代の科学文化では利用されていて、私達には、大いに歪んだバージョンが伝えられているのであろう。このシャーマニズムの概念がゾロアスターより遥かに古いのでないかと思われることについては既に述べたが、シャーマンの概念が仏教の刺激によるものでないかと想像する人々に対しては、次のように指摘しておこう。他の研究が示すところでは、中央アジアに仏教が侵入する以前から、太陽および月の信仰に先行する、空の神ブーガ崇拝という天上崇拝が存在していたのである。

シャーマニズムの中心テーマは、空中への上昇と冥界への下降である。前者において、これを行う者はエクスタシーを体験する;後者において、彼は人類の幸福を脅かす悪魔と戦うのである。最初期のシャーマン的営為の証拠は、西ヨーロッパの洞窟壁画 ― ラスコーその他 ― で発見された、鳥や守護霊と共にエクスタシー的体験をしている様子で描かれているものであるとする研究がある(BC25,000年頃)。旧石器時代ヨーロッパの遺跡(約5万年前―BC3万年)で見つかる動物の頭蓋骨や骨は、シャーマン的営みの証拠と解釈されている。(原注9)


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原注
9:デビッド・ルイス=ウィリアムズ 『新石器時代人の心の中:意識、宇宙、神々の領域』(デビッド・ピアースとの共著)
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エクスタシー体験は、シャーマニズムでも最も重要な現象であり、このエクスタシーこそが、天上の存在と合体する行為と見なし得るのである。合体の結果の強制振動が振動を変えるのだ。天上の存在とのやり取りを続けるのは振動共振的振動(FRV)の1形態である。このような人はほとんど常に「2つの世界を渡り歩く」のだ。

人間が「天上の存在」と直接にコンタクトしていた時期があったという考え方が、黄金時代の多くの神話の元となっている。このような神話がさらに編纂を経て出来たのが、11−12世紀の聖杯物語である。この天国のような時代には、天地間のコミュニケーションが簡単で誰でも利用できたと言われる。神話は神が人類の前から去った時について語っている。何らかの事件(すなわち、「落下」)の結果、コミュニケーションは打ち切られ、天上の存在は天の最も高いところへと去って行ったのだ。

これこそまさにカシオペアンズが以前私達は第4密度STOと連携していたが、今では第4密度STSと連携していると語った通りであり、ザ・ウェイブ・シリーズの他の巻である程度検証してきたことである。

だが、神話によれば、それでもなお天上に上って、自分の部族や家族のために神々と親しく語ることの出来る人々が居たことも分かる。彼らを通じて、部族と「指導霊」とのコンタクトは保たれた。こんにちのシャーマンの信仰や営みは、この廃れてしまった、天と地の間で現実に行われたコミュニケーションの技術が大いに変更され、改ざんされ、堕落させられさえした残部が今に伝わったものである。そしてこの観方についてもまた、カシオペアンズが語ったことが後の研究で確認された。

ここでしばらく、こんにちのトレンドである、ドラッグでシャーマン的体験を惹き起こそうという実験について語ってみたい。このアプローチについてはティモシー・リアリーを始めとする数多くの支持者が居るのだが、彼は脳腫瘍のために死んだのだということを言っておきたい。人々がもし、このことの象徴的意味合いを理解できないのなら、何とも期待薄である!いずれにせよ、このアプローチの支持者の中には、オルタナティブな知識サークルにおいて注目されている著者も数名含まれている。例えばコリン・ウィルソンやグラハム・ハンコックなどである。最近私は、ハンコックの『異次元の刻印(上・下)-人類史の裂け目あるいは宗教の起源』を読んだが、ハンコック氏は確かに、自分が「霊界」について語り、その実在性等々について認めていると思っているようである。しかし、私の調査、推理、経験から見る限り、彼は単に、それらの知覚を貶めるプロセスに加担しているだけである。

冒頭の8ページまでで、ハンコックはこれから幻覚を起こす植物を摂取すると宣言したり、シャーマンによる植物の使用や、それがいかに広範に見られるかにつき述べ、7−8ページでは、どうして彼がこれを行ったのか理由を述べている:


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(川瀬訳、上巻13ページ)
。。。基本的な動機は研究だった。意図して自分にこの試練を課したのは、あるテーマに関する広範な研究調査の一部としてのことだったのである。そのテーマとは、わずか4万年前だった可能性さえある、人類の先史時代に起きた謎の分岐点のことだ。それを境に、人類の様相が一変する劇的な変化が起こっているのである。それ以前の時代は、散発的に孤立したわずかな例を除き、現在の人類と同じ資質を直ちに認識できるような行動を示す考古学的な証拠はほとんど存在しない。だが、この分岐点の後になると、私たちと同じ生き物が登場したという痕跡があらゆる所に現れるのだ。最も特筆すべきなのが、異次元の領域や、そこにいる存在を信じていたらしいという最初の明白な証拠である。言い換えれば、宗教が誕生したという証拠があるのだ。。。

このような「存在」(=ラスコーやアルタミラ等の洞窟壁画に描かれた異次元の存在でしばしば半獣半人の姿をしたもの)の出現という奇怪な現象。。。に関しては、世界各地の権威ある人類学者、考古学者たちの手によって、極めて明快な説明が提示されてきている。。。その主要な論点とは、洞窟壁画芸術は、人類の最初にして最古の、異次元、魂、そして死後の領域の存在という概念の表現であり、その概念はおそらく向精神性植物を摂取することによって誘発された可能性の高い「変性意識状態」の下で形成されたのではないかというものだ。一部には好ましくないと考える学者もいるものの、これが1990年代半ば以降、最も広く受け入れられている洞窟壁画に関する理論なのである。この点を考えれば、現在この理論を提唱している専門家の中に、実際に向精神性の植物を摂取したことがある者が誰もいないという事実には当惑させられる。「変性意識状態」がいったいどんなものなのかについても、直接的にわかっている者もいないし、それを体験したいとも思ってはいないようなのだ。彼らの提唱している議論、そしてそれを批判する者の見解の両方について公正に考察するためには、植物によって誘発されたビジョンが、はたして初期の人類に異次元の存在を信じさせ、他界した先祖の本質の一部が死後も生き残ると確信するのに十分なほど強烈なものなのかどうかを、個人的な体験に基づいて判断ができなくてはならないと私は思った。

なぜ私がイボガインを摂ったのかという理由を、ひとことで言うとそういうことになる。適切な、根拠もある、常識的な研究のためである。とは言うものの、これとは別の、もっと個人的な理由があったことも認めねばならない。それは、前年の秋、父親が骨肉腫のために苦痛に満ちた死を迎えたこと、最期の数日間、自分がそばにいて看取ることができなかったという、許し難い過ちに関係していた。多少の危険性が伴うにせよ、このイボガインを使った実験に何か訴えるものがあったのも、一部は「先祖との出会い」という約束があったからだ。そして、いかに心もとないものであったにせよ、この父との関係にひとつの結びをもたらし、平穏が訪れてくれるかもしれないという可能性のためであったことは疑いの余地がない。
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さて、彼が行ったこれら多くの仮定について私の観方を述べてみたい。まず第1に、シャーマンが見るという幻覚に関して彼が抱いた烈しい好奇心は私にも分かる。魂の実在と存続という問題については、私も長年思いを巡らしてきた。しかし、シャーマンのしるしや兆候を持ち、シャーマン的体験をしてきた一方で、私はまた、強力で論理的、懐疑的な精神という装置も持っていた。

私もまた、愛する人を失った結果として、自分なりに実験を行おうとしたものだった。22歳の時、祖父が亡くなったのだが、この時私は彼の亡くなった時間に、古典的なコンタクトを経験している。これは現に第3者も目撃し一部経験しているので、生命とは身体以上のものであるということを、ある程度確信したのだった。しかし、その正体、その意味は私の活動中の理性的な心にとっては依然証明されないままだったのである。とは言え、このことは私が多年に亘って催眠ワークと実験を行う刺激となったのだった。そのワークにおいて、私はシャーマン的な技術を開発したのだが、これを用いることで、私は被験者と共に旅しつつ、同時にこのリアリティにおける経験の守り手でもあり続けることができた。

どうして私はドラッグを使って実験しないことに決めたのか?ここで、今を遡る1980年代に、1人の友達に宛てて書いた手紙からの抜粋をご紹介したい。彼は、人を悟りに導くこと保証付きという、ある瞑想技術を唱導していたので、私はこの手紙で彼にドラッグを使わない理由について説明している。


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1987年12月。。。

あなたが送ってくれた「光への旅」というテープについて。
― これはとても面白かったけど、かつての私自身の個人的な経験からすると違和感があるわね。ただ、コメントしておきたいんだけど、数年前に私、メスカリンやLSDを服用したことのある多くの人々にインタビューしたことがあるのよ。彼らは皆、素晴らしい「内なる飛行」を経験したようだったわ。どうやら知覚がすっかり変性するみたいで、彼らは音を「見たり」、色や動きが「聞こえた」と言うの。彼らの殆どが全体験、「リアリティの高まり」に一時着陸したと言ってるわ。彼らは「他の領域」へと旅して、別の生命体を知覚してるの。とても恐ろしい闇と絶望のエリアですらあるんだけど。彼らは自己を含むリアリティが分解したと言っていて、彼らの殆どにとって、「アイデンティティの喪失」は恐ろしいことだったそうよ。

私自身の瞑想経験では、「情報を渡された」経験をしたんだけど、殆どは埋もれさせていて、誰にもシェアしてないの。何か他のソースで確証が得られるまでは、外に出さないでおくつもりよ。

要するに:メスカリン ― その他の幻覚剤も含めて ― による体験は、純粋に化学的、あるいは少なくとも化学的に誘発されたものなのよ。脳が化学物質のせいで、このような信じられない「飛行」を味わうことができるんだったら、自らを誘導して行う、似たような「フライト」や「チャネリング」も身体の脳の中での単なる化学反応でないなどと、どうして絶対確実に言い切れるのかしら?私達が、まどろんでいる何らかの宇宙の存在の単なるイマジネーションが顕現したものでないなんてどうして分かるの?それとも、天上の敵陣のオモチャかなんかかも知れないし?(私達の存在には、単なる偶然以外の何らかの根拠があるに違いないと思うので。)

さて思うに、私に起った事とは私の信仰 ― かつては非常に強く、外部からの攻撃に対して傷つかなかった ― が、一種の「反論役」の思考モードに屈したということだと思うのよ。長い事私は、「上品な」態度を保って ― 上品に振る舞って ― 創造的な生産性と質素な幸せのための環境を提供すると感じられるものに相応しい現実を「創造」していたんだわ。

よく言われる、希望は永遠に湧き出るというやつね。私は「悟り」に至るような事をし続けるでしょう。私は植物のようにしおれた信仰に水をやり、判断を差し控えるでしょう。でも私には嘘をつくことはできないし、私の内なる全てが安らかであるように、あるいは、これまでの人生が全く願った通りのものだったように装うこともできないわ。

私も今では、出会ったころのあなたと同じ歳なのよ。あなたはもう50過ぎだわ。ほんのちょっとしか経ってないのにねえ!いつまでも若くて冒険好きで気楽で居るんだと思ってたんだけど。少なくとも死ぬまではね。ローズが言ってたように:いつかは死ぬにしても、死ぬときの計画を立てる気はないわ。でも今ほど死が重くのしかかって来たことはないのよ。おそらく私は「変化」を経験することになるでしょう。時々ひどく気が狂いそうになるの。
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私が時々「ひどく気が狂い」そうになっていた理由とは、私が自分自身の実験を始めていたからなのだが、それはドラッグとは全く関係なかった。どこかに書いたように、祖母が亡くなって10年後の、祖父の死の時は、私は本当に息が止まるかと思ったものだ。その6か月後に、4番目の子を産んでから、私は寝たきりになったのである。それは1985年、深い苦悶に対処すべく、内なる旅を始めるための静けさを強制的に作り出していた(シャーマンの人生においては典型的な出来事である)時期のことだった。私の身体に起った事は、私の内面で起こっていた事の身体的表現だったと言ってもいい。私はもはや座る事も、屋内外を歩くこともできなかった。こうした全てが意味することを、いくらか確信できるようになる必要があった。

疑いの中にあっても、私は瞑想を続けた。もし私が私自身の内部に、必要な変化を生み出すことができたら ― たとえそれが、私の苦難と他の人々の苦難を受け入れるだけだろうと ― 私はこの辛い時期を切り抜けられるだろうと思ったのだ。特に私は結婚生活における変化を欲していた。私は前の夫に、探求的で知性的な人間としての私を ― 単なる料理人、家政婦、セックスの対象、ベビーシッター、そしてドア・マット(=いいようにされる人) ― としてでなく、受け入れてもらう必要があった。私は彼が傷ついていて、不安を抱いており、おそらく彼の行動は、単に私を追い払おうと意図し、どんな女性も彼を愛したり味方したりできないという、彼についての自己達成的な予言を成就させようとするものであると知っていた。どんな女性でも成就させられるなら、私にも出来る筈だと分かっていたのだ。もちろんゴールは、前夫の傷が癒えるよう、私自身を癒すことだった。そして、2人とも「それで意見が一致しているなら」、子供達のためにもなり、この世は安泰なのだ!

私の瞑想の腕前は急速に進歩した。2、3か月やっただけで、私は「意識がもうろうと」なりつつも、同時に別の所では意識を保ったままであり、1回当り長いと3時間はこの状態が続く。我に返ると全く時間が経っていないように感じるのだ。ただ1つ問題だったのは:どうやら何も思い出せないことだった。何が起きていたのか、私の心がどこに行っていたのか、全く分からないのだ。これによって遥かにずっと穏やかさが得られ、人生の困難に立ち向かえるようになることには気付いたが、これだけ努力しておきながら、少しも具体的なものが得られないのは依然苛立たしく思われた。

実のところ、私はベッドに横になっている時は大体瞑想していた。人によっては眠ってしまうためにこれができないのだが、私にとっては何ら問題なかった。瞑想で朦朧となった後、いくらかして我に返るのだが、夜になれば簡単に眠れるのだ。私はどんな姿勢をしても概して寝心地が悪く、まず瞑想してからでないとうまく眠れないのだった。

そこである夜私は、床に就いた時に呼吸のエクササイズを始めた。
(※今では『アイル・オラス呼吸法』として、海外ではワークショップが開かれています。)
http://eiriu-eolas.org/
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=45217530&comm_id=2590126
プロセスのこの部分は、私のヒプノセラピー・トレーニングから取り入れたものだが、極めて有益だった。後で知ったのだが、もちろんこれは、ヒプノセラピーのために、ある瞑想システムから借用されたものだった。

この時点では、何が起ったのか分からなかった。私が覚えているのは、呼吸フェーズを始めたことだけであり、これはエクササイズの黙想フェーズの前に行うものだった。だが、そこから私はある種の大きな「跳躍」をしたのである。

その次に分かっているのは、ある興奮状態によって意識に引き戻されたことである。これははらわたが煮えくり返った状態としか言いようがない。これはとても強力だったので、最初、本当に身体の物理的な状態なのだと感じられた ― 私の臓器の中で沸き起こった興奮が、どういう風にか上に向かって爆発しようとしていたような感じだった。

私は必死になって喉を掴んでいた。というのも、喉の辺りの筋肉が締め付けられるような感じがしたからだ。次から次へと襲ってくるエネルギーは上の方に吹き上げて来て、さながら火山が爆発する前兆の蒸気爆発のようだった。私はもがきながらベッドを出て、1方の手で壁を、もう1方の手で喉を掴み、こみ上げるものが何であれ、体外に流れ出して家族を心配させないよう、歯を食いしばっていた。おそらくひどい病気に罹ってしまったのだ!

私は外のベランダにある亜麻のソファーに向かって走った。そして、そこに倒れ込むや噴出が始まった。

もっとうまい言い方ができたらいいのだが、この出来事の本質と烈しさをうまく表現できるようなものはなく、月並みな叙述となってしまう。私の身体から噴出したものとは、1連の強烈なむせび泣きと叫びで、全く原始的で、魂の奥深い所から出て来るものだった。他に何とも説明のしようがない。このような叫びと共に、実際にはその一部を成していたのだが、イメージが、ビジョンが、付随する感情の中身と言外の背景状況を伴った完全なシーンが、瞬時に伝わって来たのである。それはまるで、眼前を自分の人生が通り過ぎて行くようなものだった。ただし、それは多くの過去生であり、多くのレベルでの経験なのだ。私はリアリティの多数のレベルで、多数の過去生で、多数の存在とやり取りする自分を、シナリオからシナリオへと体験した。会話も全て再現されたのだが、それがどんな具合かは述べることができない。

そして涙!ああ!流れる涙。人間の生理が、こんなにも大量の液体をすぐさま作れるとは思わなかった!

さて、もしこれがたった1時間泣き続けるか何かするだけだったら、多分PMSみたいな「どうにもならないこと」で終わったであろう。しかし、この活動は非常に際立っていた!それは遅くなったり止まったりせずに、5時間以上も続いたのだ!もし私がこれのスピードを落とし、止め、あるいは気持ちを別の方向に「切り替え」ようとすると、内なる爆発の興奮がすぐに優勢になって、私の身体の全ての筋肉が引き締まり、もうコントロールできなくなるのだった。私は嘆き悲しむための一種の機械のようになって座り込み、どうやら私が参加してきたと思われる歴史、当「時」私が存在していたレベルがどこであれ、そこからおそらく目撃したであろう歴史の恐ろしさのあまり、文字通り胸も張り裂けんばかりにむせび泣くのがやっとだったのだ。中には私が直接参加していないと気付いたものすらあるように思われた。幾つかは本当に恐ろしいシーンだった。

疫病、ペスト、死、破壊のシーンが次々に繰り広げられた。ある瞬間、愛する人々が立っていたと思うと、次の瞬間には押し潰され、血まみれの死体の山となって横たわっていた。掠奪に次ぐ掠奪;流血の川;大虐殺が目の前に現れては過ぎて行く;ホロコーストと地獄が。逆上と激しい怒り、血への渇望と激怒、殺人と騒ぎがあたり一面に繰り広げられた。見渡す限りどこでもだ。悪が山を成し、ひん曲がって、バラバラになった死体のように積み重なった。何世紀分もの嘆き、数千年分の流されなかった涙、罪、後悔、懺悔が洪水のように私の中を流れて行った;重くのしかかっていた岩石が融け出して、呆然自失の体の心の中に入って来た;涙の海が痛みを洗い流した。

こうして私の数多くの過去生において蓄積された罪と嘆きの世界が解放されていた時、その背景では、慰めるような、鎮めるような「声ならぬ声」が繰り返されていた:

「それはあなたの過ちではない。責任はない。あなたの過ちではない。あなたは知らなかった」

私はとても深遠な何かを理解した:「原罪」は無いと分かったのだ。この地球上の生で人類が経験してきた恐怖や苦難は、「内」なる「欠陥」や「過ち」あるいは逸脱の類によるのではない。それは罰ではない。それは、そこから人が「救われる」ような何かではない。ひどい苦難と胸を引き裂く様な残酷さは、無知の結果だと分かった。全ての体験は知識を獲得するためだったのだ。

十字軍や異端審問について考えれば、このことは理解しやすいだろう。捻じ曲がった動機の道筋を辿ってみるといい。神の愛という思想から始まり、それが「彼らのためになるからこそ」という押し付けになり、最後は拷問と大虐殺をもたらす。単なる邪な心から、このような思想を己の利益と政治的策略のために利用した人々のことはしばらく忘れて欲しい。しばらく、このような事件の背景にあった思想の持っていた誠実さのことだけを考えられたい。しかし、それは無知に基づくものだったのだ。

一見利益を得ようとし己の権力を拡大しようとしている人々の多くは、無知 ― 満たされ得ない魂からの恐れと飢え ― から活動しているのだ。それは単なる程度の問題に過ぎない。だが結局のところ、それは単なる無知なのだ。

エネルギー、イメージ、そして流れる涙がようやく鎮まり始めた時、私は暖かく、かぐわしくて透明な、殆ど空気のように軽い、そして甘美な感覚を覚えた。それは今でも覚えているのだが、あらゆる被造物に対する、身体を貫く様な愛の炎の蘇りだった。それはエクスタシーと熱狂と歓喜が全て同時に訪れた感覚だった。私は驚異の念に打たれながらも、同時にこの世の見え方に当惑した。

この出来事の結果は、長期に亘る「高められた」状態、すなわち、「愛に満ちた平和」がとても長い間続いたのである。この効果は今もなお反響していると言ってもいいだろう。いかに邪悪な事を行った人に対してであれ、二度と他人を咎めること(彼らが信じることを選んだものを破壊する意図で敵対的に行動すること)ができなくなったのである。全てのいわゆる「邪悪さ」とは、無知の現れだと分かったのだ。どんな人も、今生で自分をいかに神聖で気高い存在だと考えていようとも、別のいつかの時点、場所では、他人の血を流して大喜びなどしていないのである。今生で無知、邪悪、破壊を選ぶ人が間違っている訳ではない。確かに私には彼らを避け、自分を彼らから守り、彼らのしている事を理解する権利があった。しかし、私はキャンペーンを張って強制的に彼らの考えを変える立場にはなかった。

重要なポイントは:無知もまた選択であり、人は訳あってそうするということ:学んで成長するためだ。

これはまた別の気付きを導く:本当に選ぶ術を学ぶには知識を必要とする;このレベルのリアリティに存在することの意味とは、無知とは何であって何でないか、真実、美、愛、清潔とは何かを学べることである。私はイエスが、外側は光り輝いているのに、内側は汚れ腐敗に満ちていると言った真意が分かった。(※ルカによる福音書 / 11章 39節でしょうか?)私は何かが裁かれるべきネガティブなものだと言っているのではない。学びの方法としての、それらの理由と役割は明らかに分かったのだが、私は深い感銘を受けたので、光を帯びる者として最も善く顕れるため、この世界で学び得る全てを見つけ出すことにしたのだ。

ドラッグによって誘発したのではない私のシャーマン体験をハンコックが著書で述べている、ドラッグで誘発した彼のそれと比べれば、注意深い読者なら違いが分かると思う。ドラッグで誘発した体験も確かに他の領域への扉を開くようなのだが、そこは一般に低次の領域であって、少しも居たいとは思わない場所なのである。さらに言うなら、これはイニシエーションのプロセスのほんの始まりにすぎない。それは何年もかけて1段ずつ進むものだ。それに終わりがあるのかは私にも分からない。しかし、1段1段進歩するに連れて、あなたの知覚は変化し、知覚の変化に伴って、あなたが住むリアリティに変化が訪れるのだ。今や私の人生は、あの頃の人生とは大きく変わった。文字通りシンデレラ・ストーリーである。確かに、知識と気付きのために私が払った代償は大きかった;人類を無知なまま、鎖に繋がれたままにしようと目論む連中からの悪意ある攻撃も被った。しかし今ではこう言いたい。私は人生において、殆ど誰も知らなかったような幸せを経験しているのであり、ただ単に正しいという理由で正しい事を行うならば、あらゆる人知を超える平和が得られるものだと。(原注10)


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原注10:
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピの信徒への手紙 / 4章 7節)
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シャーマンは、他の人類にはアクセス不可能なエクスタシー状態に到達する能力の故に特権的存在と見なされている。そればかりか、神話によると「最初のシャーマン」は、世界を乗っ取って人類を支配した「ネガティブな神々」から人類を守るために天上の存在によって地球に遣わされたのだという。部族のため、自らの体内で一種の宇宙エネルギー変換器を起動させるのが最初のシャーマンの務めだった。これを表わしたのが「世界木」の概念であり、それが「世界軸」すなわち「世の柱」となり、後に恣に意味を変えられたのが「王家の血筋」である。

シャーマンの働きと、ある血統の間には、特有の関係がある。しかし、人類を救うためにもたらされた全てのものがそうされてきたように、この概念も人類を闇と無知の中に封じ込めたままにしようと企む勢力によって、恣に捻じ曲げられたのだ。最初のシャーマンたちの真正な古代の血統は、ヘブライ人の旧約聖書に書かれた、でっち上げの系図の偽の枝々によって覆い隠され、こんにちのヨーロッパの王侯貴族の枝に通じるとされている。これは偽の王権を樹立しようとするものだが、最近大いに注目を集めている。このような一族は大抵、遺伝的にサイコパスである。

今この時点で、途方もない規模の宇宙的変化が起ろうとしている兆しが現れている。そしてまた他ならぬ現在、あらゆる闇の勢力が、全人類のための変化の回路を伝え運ぶと思しき人々の能力を他に向けさせ、混乱させ、弱め、取り除くために、これまでになかったレベルの騙しと混乱を企む兆しがある。

スーフィーは「エクスタシー技術の会得者」の概念を、「世の柱」という伝統の中に生かし続けている。クトゥブ(その時代の柱)とは、選ばれた存在であり、その性質は全く霊的であって、ある期間、イスラム圏で神の代理を務める人のことである。クトゥブの下には4人のアウタッズ(支援者)と多くのアブダルス(交替要員)が居り、彼らはクトゥブが行う世界の維持作業を支援する。この思想の面白いのは、クトゥブの位置を占める人はそのことに気付きすらしないということだ!彼の生命、存在さらには生理機能までもが、人間の領域へと押し出された高次のリアリティなのである。このような人として選ばれるには、「血脈」が大いに関係しているというのは最近宣伝されている通りだが、言われている内容のようでは必ずしもない。


951007
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=50367299&comm_id=2590126
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Q: (L) でも、人の本性は、魂によって決まるんであって、物理体による訳ではないのよね?

A: 部分的には。いいかな、オーラのプロファイルやカルマの参照符号は、身体の構造と同化している。

Q: (L) それじゃあ、その人が持ってる遺伝子の状態は、その人の霊的志向性が物理体に反映したものだってこと?潜在的ではあれ、魂は遺伝子と調和してしまうものなのね?

A: その通り。

Q: (L) それじゃあ、個々人の霊的進歩の可能性ないし傾向というものは、大いに遺伝子次第だってことなの?

A: 自然のプロセスはシステマチックな構造が存在しているのに出会うとそれと結婚する。
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この原稿を出版する準備をしていて、ザ・ウェイブを書いていた1999年および2000年の頃でさえ、手掛かりとなる数多くの事はまだ手にしていなかったことに気付いた。この文書を公表した結果得られた経験こそ多くの面での重要なイニシエーションであったと言えるだろう。人知れず神秘主義者気取りで居るのと、知識をワークに活用し、理解を行動につなげる状態に居るのとでは全く別物なのである。(原注11)


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原注11:このプロセスを巡る出来事については『小暴君』および『未知なるものに立ち向かう』の巻で論じている。
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現代において、このような「血脈」を持つ人々は目覚めているようである。眠っているようではもはや「世の柱」には不適である。というのも、すぐ後で見るように、目覚めたシャーマンには、真剣に選択し行動すべきいくつかの問題が課せられるからだ。まず手をつけるべき課題は、目覚めて、極性の力を蓄えることのようである。彼は生まれるかも知れない。だが、生まれるためには、彼はまず死ななくてはならない。そして死ぬためには、彼はまず目覚めなくてはならない。彼が目覚めるとき、彼は死ぬことができる;彼が死ぬとき、彼は生まれることができるのである。

シャーマンとは生まれつくものであり、かつ、作られるものである。つまり、彼らはシャーマンとなるべく生まれてくるが、なるかどうかは自らの選択なのだ。そして、私が判断しうる限りでは、この選択は意識的な、第3密度のリニアな経験とは違ったレベルでなされるものであろう。高次のレベルにおいてこの選択をしておきながら、普通の生活を手放せないという理由から、このレベルでの選択を否定するならば、実際、非常に高い代価を払うことになろう。

シャーマンは「宗教的危機」の状況におかれているが故に、目立つものである。彼らは宗教的経験の激しさのせいで、他の人々と異なるのだ。古代においては、部族の魂を守るため、「魂の専門家」であることがシャーマン・エリートの務めだったが、それというのも、彼だけには見えざるものが見え、集合魂の形と密度が分かっているからだ。しかし、能力を獲得する前は、彼は往々にして普通の市民であり、シャーマンの子孫であったとしても(この能力は遺伝するものの、必ずしも全世代にではないと一般に言われることを考えると、)表立った召命はなかった。しかし人生のある時点で、シャーマンは彼を他の人間と分かつような経験をする。ネイティブ・アメリカンのビジョン・クエスト
http://www.eleutheria.com/shamanism/visionquest.html
は、神々に召命されたシャーマンが授けられる、自然によるイニシエーションに関する古代の理解が今に残ったものである。

本件に関する深い研究の結果明らかになったのだが、ビジョン・クエストによる魔法的-宗教的パワーを求める人々は、それが、本人自らの探索好きの性分と人類に対する責任感によって、自然発生的に内なる声としての召命を感じたのでなければ、一般的に悪いシャーマンすなわち魔術師になる;彼らは体系的な研究を行うことで自分達の有利になるよう恣にパワーを獲得するのだ。もちろん、これは可能である。だがその代償として、このような人は結局、今生か次の生で、親であれ、配偶者、あるいは子供であれ、真に愛し、気遣ってきた人々全員から切り離されねばならなくなる。どうやらこの代償を喜んで払う人も居るようだが、ずっと多くの人々は、これが最終的に要求される代償であることに気付かないのである。

真のシャーマンのイニシエーションは、夢やエクスタシーによるトランス状態と、広範囲に及ぶ研究およびハードワーク ― 意図的に苦痛を味わう ― とが組み合わされることでもたらされる。シャーマンは一定のイニシエーション的試練を修了することを期待されているだけでなく、彼が直面することになる、経験や挑戦を十分に評価できるように、深く教育されねばならない。あいにく古来より現在に至るまで、シャーマンの道を辿り、この際に付き物の「悪魔」と戦うスキルを磨き、目覚めたシャーマンの学ぶコースを教え指導することができる人々は極くわずかである。私自身は、30年に及ぶ研究、20年のヒプノセラピストおよびエクソシストとしてのワーク、そして、年来のカシオペン実験による宇宙への呼び掛けを経験してきたが、これは、こんにち、この過程がどのようなものとして顕れているかを示す一例となろう。

未来のシャーマンは、子供の頃から、ある異常な習性を示すものと伝統的に考えられてきた。彼はしばしば非常に神経質で、いろいろと病気がちですらある。(いくつかの文化においては、癲癇がシャーマンの「しるし」だと考えられているが、これはエクスタシー状態に関する近代以降の歪められた観方である。)シャーマンは子供の頃、しばしば病的なほど神経過敏で、心臓が弱く、消化不良で、目まいに襲われがちであると言われてきた。(原注12) このような症状を初期の精神病であると考える人々が居るが、広汎な研究が行われた結果、いわゆる幻覚やビジョンというものは、様々な文化において、代々、特定のモデルに従った諸要素から成っていて、驚くほど豊かな理論的内容から構成されていることが分かったのである。「気が狂った」人とは、遺伝の仕方に不備があったか、あるいは環境的要因のいずれかのせいで、「シャーマンになりそこねた」と言えるかも知れない。加えて、成功者よりも遥かに多くのシャーマンになりそこねた英雄の伝説があるということは、どういうことが起こり得るかについての警告がちゃんと用意されていたことを意味する。ミルチア・エリアーデは述べている:


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精神的に故障のある患者は、なりそこないの神秘家、もしくは、よく言って神秘家の戯画たるを証するにすぎぬ。それはその経験が宗教的内容を持っていないからだ。たとえそれがある種の宗教的経験に似ているように見えたとしても、ちょうど自家発情の行為がいわゆる性行為と同じ肉体的結果(精液射出)には到達するが、具体的な相手がいないのであるから、性行為の1つの戯画に過ぎないようなものである。
(『シャーマニズム』堀訳上巻69ページ)
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原注12:
母子の生理の方がずっと環境有害物質に対して敏感のようであり、大勢の人々が自己免疫疾患に罹っている。最悪の毒素は重金属(例、水銀)、グルテン、乳製品である。例えば以下を参照のこと。
シドニー・ベーカー博士『依存症治療と治癒』(邦訳無し)
シェリー・ロジャース『デトックスするか死ぬか』(邦訳無し)
http://www3.bigcosmic.com/board/s/board.cgi?id=dnalccet&start=20&log=ON&cnt=4
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何ともこれは面白い喩えではないか!これはまた、ウィッシュフル・シンキング(希望的観測)というSTSの枠組みの中で、シャーマン遺伝子を活性化させようとする者は、上に述べられたような行為を「実体のない」相手と行うようなもので、同様の結果に終わることも示唆する。つまり、魔術とはマスターベーションのようなものなのだ:これを行う者は自己満足を得るだけで、誰にとっても無益なのである。同様の理由で、知識の無いまま営みを行うシャーマンとは、「ゆで卵は1日おいてから作れ (three minute egg)」という諺の通り、皆を興奮させておきながら、お粗末な結果に終わるのである!どちらの場合にも、このような人は自己満足を得るだけで、後者の場合には、他の人を使って満足を得るのだからさらにひどいと言えよう。

まあ、そんな面白い下ネタはさておき(これらは心憎いばかりに核心を突いているが)、シャーマンに関して重要なのは、彼/彼女が単なる病人ではなく、癒された、あるいは少なくとも霊的には、自分自身を癒すのに成功した病人だということだ!この点はいくら強調してもし過ぎることはない。神秘主義者やシャーマンの道を志しながら、肉体的、物質的あるいは霊的に見て、脆く、弱々しいままの人は、まだイニシエーションを授かっていないか、もう授かったのだとすれば、合格できなかったのだろう。シャーマン的なパワーを「自己への奉仕(STS)」のために使ってしまう可能性もあるので、「見えざるものを見」ようとするには最新の注意が求められる。

多くの場合、シャーマンに「選ばれたこと」は、かなり重い病気に罹ることで明らかになる。これを治すには「天に上昇する」他ない。イニシエーションとしてのエクスタシー的ビジョンを見ることで、シャーマンは快方に向かうのだ。神々のお召しに答えた後、シャーマンは正常な神経組織以上のものを持っている証拠を示す。彼らは俗人の能力を超えた精神集中を達成し、疲労困憊するような努力に耐え、最も重要なのは、彼らが普通の人なら恐れをなして逃げ出すような体験をものともせず、「冷静さを保って」いられるということだ。

もう1つ強調すべき点は、シャーマンは、エクスタシーの状態にいるときでさえ、自分自身を十分コントロールできなくてはならない、ということである(何が明らかにされたのか、事後に何も覚えていないトランス・チャネリングはシャーマンの行いとは言えない)。「この世とあの世に同時に入って行く」能力は、すぐれた神経組織を証明している。一般に、シベリアのシャーマンは精神分裂の兆候を何ら示さない。その記憶力、自己制御力はあきらかに一般の水準を越えるものがある。

ドン・ファンは、この状態を「一点の非の打ち所のない完璧さ」と呼ぶ。この考え方はまた、古来のシステムを保つヤクート人にも反映されていて、「ヤクート人にとって完全なシャーマンとは、まじめで機転がきき、近隣の人びとをじゅうぶん納得させる力がなければならない。そのうえ、彼は出しゃばりでも威張っても、気むずかしくてもいけない」。真のシャーマンが発する内なる力は意識的なものであるが、決して攻撃的であってはいけない。そして同時に注意すべきなのは、真のシャーマンは、STSの極性と連携している人々から非常にネガティブな反応を引き出すだろうということである。

虚弱さ、神経障害、病的危機感等々が「選ばれた証」であるという話に戻ると、また注意すべきなのは、ときとして事故、すなわち、転落や隕石の頭上への落下、雷に撃たれることが、シャーマンとして選ばれたことの状況的な証拠だということである。だが、「召される」のは、「選ばれる」、あるいはより正確には選出というのと同じではない。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」のである。(※マタイによる福音書 / 22章 14節)この選出というプロセスは、奮闘と苦痛のプロセスである。というのも、つまるところ、エゴ、偽の人格を殺さなくてはならないからだ。

ウェイブ・シリーズ、特に『ソウル・ハッカー』(10-19章)と『骨が露わになるまで』(20-27章)の巻の目標は、取り上げた出来事を自分の経験のように感じてもらうことによって、読者の皆さんをこのプロセスの各段階へと誘うことであり、受けとったメールから判断すれば、私がこれらの出来事から様々な良い影響を受けたのと同じように、皆さんも多くの好影響を受けていることが分かる。皆さんの多くは、既にイニシエーションの幾つかの段階を経験済みなのだ。皆さんの多くは、頭を浄められたシャーマンとして、エゴの死というプロセスに苦しみ、再生に向けて奮闘努力しているところだ。いずれにしても、皆さんの多くがご存知の通り、これは、多くの年月を要する、多くの段階に亘るプロセスであり、時として物理体が、そしてまた魂が多くの病気に罹り、多くの事故に遭い、多くの攻撃をも受けることがある。

シャーマンの枢要なイニシエーションは長い準備期間を経て訪れるものだ。今にして思えば、これは私が人生で経験してきたプロセスだと分かるのだが、これを経験している最中は、何が起こっているのか全く分からなかったのである。私はただもう、一般的な観方からすれば人生行路そのものである、病気、事故、苦悩、裁判、苦難、学びと奮闘するのに精一杯だったのだ。私はこれらが試練ないし、私の人生に顕れた召命であると見做したことはなかった。選択を行って初めて、私の人生のプロセスを説明するような発見が始まったのであり、それを私は今あなたにシェアしているところなのだ。

あなた方の多くにとって、この本を読むことは同様の効果 ― イニシエーション ― を持つものだが、本シリーズはイニシエーションから始まったものではなかった。それは多かれ少なかれ優勢になり、文章となって自ずと語り始めたのだ。だから、欲しいのは「紛れもない事実だけなんだよ、マダム!」という向きには、お詫び申し上げる。これを変えるつもりはないが、そんなあなたには、何か別のものを求める自由があることは認める。

私の「地獄への転落」、そして、全てを剥ぎ取られる感覚に話を戻せば、確かに、この過程には他の段階、他の選択、ビジョン、体験もあった。だがそれらのいずれも、私が正しいと信じてきた一切の事、私の信仰、信念、そして私の私生活や私自身に関する幻想も含めた全てを、骨が露わになるまで完全に剥ぎ取られた瞬間のようではなかったのだ。

シャーマンへの道を進む者が罹る病変とは、どうやらイニシエーションを授かる「状態」に達する手段の一部であるようだ。しかし同時に、これらは往々にして、イニシエーションの手段そのものである。これらが及ぼす生理的影響は、通常の人間を聖なる技術の会得者に変容させることになる。だがもし、このような経験に続いて、理論的かつ実践的な指導を受ける期間を経ない場合、このシャーマンは、シャーマンの機能を更なる人類奴隷化に利用しようとする勢力のための道具となるであろうことについては、既に述べた通りである。

さて、シャーマンを変容させる体験は、受難、死、そして復活という、よく知られた宗教的要素から構成されている。このような要素の最初の表現として、イシュタル/イナンナが彼女の息子にして恋人であるタンムーズを救うため冥界に下るシュメールの物語を挙げることができる。イナンナは「冥界の七つの門」をくぐるごとに1つずつ宝石や衣装を奪われた。というのも、冥界に入るには裸でなければならなかったからである。彼女が冥界に居る間、大地とその住人達は生命力を失うという苦難に見舞われた。彼女がミッションを成し遂げると、肥沃さは回復した。注意深い読者ならきっと、この話がどんな風に改悪されてきたかお分かりだろう。

この物語の最も良く知られたヴァリエーションは、デメテールの娘であるペルセポネ/コレーの神話であり、彼女は冥界の王ハデス/プルートによってさらわれるのである。娘のことを嘆いている間、デメテールは地上に肥沃さをもたらすのを拒んだ。1年のうち一定期間だけ娘を連れ帰る約束が結ばれた結果、(デメテールはペルセポネーがハデスの元で暮らしている間は実りを齎すのをやめるようになったので=)季節が起った。これが時間のサイクリックな本質を表すものと解釈されてきたことが分かる。しかし、さらに看取できるのは、これが、大いなる魂ユニットに属していた「娘」が闇の勢力によって罠に掛けられた第3密度へと落下したことを、そして、デメテールによる娘探しが、シャーマンの道へのハイアーセルフによる召命であることを表わす物語だということである。

もちろん、これまた注目すべきなのが、シュメール・バージョンでは、女神イナンナは冥界下りのために仲間達と別れるのだが、これが『骨が露わになるまで』(20-27章)の巻で論じた、脳の2重のエネルギーおよび両半球の分離を示しているということである。

シャーマンのビジョンが表しているのは、身体を切断されて地獄に堕ち、肉を骨から剥がれ、大釜で煮られてから、神ないし女神によって組み立て直される様子である。これはまた、イエスの神話 ― 受難、死、復活 ― を含む神話や伝説に十分に描かれている。私はまた、プロセスの様々な段階ではまさにこんな目に遭っているように感じられるものだと言い切れる。


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ヤクート・シャーマンの1人ソフロン・ザテイエフは、未来のシャーマンは原則として飲まず食わずで3日間ユルトのなかで「死に」、そして横たわる(と述べる)。。。ピョートル・イワノフはもっと詳しい報告をしている。それによると、候補者の手足は鉄の自在鉤で取りはずされ、関節をばらばらにされる。骨はきれいにされ、肉はこすりとられ、体液は捨て去られる。そして眼球は眼窩から引き出される。この手術の後ですべての骨が集められ、鉄で結びつけられるという。

3人目のシャーマン、ティモフェイ・ロマノフによると、この解体儀式は3日から7日ほど続き、この間中ずっと候補者は死者のように、ほとんど息をせず、孤独な場所にじっとしている。
(同上、92ページ。)
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別のヤクート人の報告によると、邪霊が未来のシャーマンの魂を地下界に連れ去り、そこで1つの家に3年間幽閉する(1年間だけのは下級シャーマンになる)。ここでシャーマンはそのイニシエーションを受ける。邪霊は彼の頭を斬りとり、傍に置き(候補者は自分の眼で自身の解体されるのを見守らねばならぬから)、そして彼を小さな片々に切る。これら切片は後に色々な病気の精霊に分配される。こうした苦行をうけることによってのみ、未来のシャーマンは病気治療の能力を獲得するのである。それから彼の骨は新しい肉で覆われ、ある例では新しい血液も与えられるという。

他の報告によると、「悪魔」はシャーマン候補者の魂を、彼が悪魔の持つ知恵をすべて習得してしまうまでとどめておく。この期間中、候補者は病気にかかって横たわっている。世界木の枝の中で「シャーマンを孵化する」巨鳥というモチーフもまた繰り返し現れるが、これは爬虫類人の伝統とは対立する「鳥の血筋」であることをさりげなく述べたものである。以下の引用は実地調査によって得られた説明からのものであるが、読んでみると今や純粋なシンボリズムの域に達していることに気付くだろう:


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(同上、98ページ〜)
シャーマン候補者は。。。鞴(ふいご)を動かしている裸の男の所にやって来る。火の上には「大地の半分ほどの大きさの」大きな釜がある。裸の男は彼を見、彼を大きなやっとこでつかまえる。「死ぬんだな!」と考えるだけの時間はあった。男は彼の頭を切り落とし、その身体を小片に切りわけ、それ全部を大きな釜のなかに入れる。ここで彼は3年間煮られる。そこには3つの鉄床があるのだが、裸の男はシャーマン候補者の頭を3番目の鉄床の上で鍛え上げる。これは秀でたシャーマンが鍛えられる鉄床である。。。ついで鍛冶屋はシャーマン候補者の川にただよっている骨を釣り上げ、それらをひとまとめにして再び肉で覆う。。。

彼はシャーマン候補者の頭を鍛え、その内にある文字の読み方を教える。また両眼をとりかえる。これは彼がトランスに入るとき、肉眼でものを見るのではなく、神通眼でものを見るからである。さらに男は候補者の耳を穿ち、植物の言葉を解することができるようにする。

(100ページ〜)
。。。トゥングースのシャーマン、イヴァン・チョルコの述べるところによれば、未来のシャーマンは病気に罹り、その身体を片々に切られ、血は邪霊に飲まれる、という。この邪霊(は、)彼の頭を大きな釜のなかに入れ、そこで後に彼の儀礼的な衣裳の部分となるであろうある種の金属片とともに溶かす。

別の。。。シャーマンは。。。1年間病気に罹っていた。。。この間。。。彼の祖巫がやって来て。。。彼が意識を失ってしまうまで矢で突き刺し、大地に倒してしまった。祖巫たちは彼の肉を切りとり、骨をひき離し。。。た。。。この手術の間、飲まず食わずでひと夏全部を過ごしたことになる。

(102ページ〜)
1人のテレウートの婦人は、ある幻想を持つようになって女巫となった。その幻想のなかで、見知らぬ男たちが彼女の身体を小片に切り、壺のなかで煮た、という。アルタイのシャーマンの伝承によると、祖先の精霊が彼らの肉を食い、血をすすり、その腹を開く、などとある。

(112ページ〜)
さてまた、南米では、オーストラリアやシベリアにおけるように、自然的な召命と、イニシエーションの自発的な探究とはいずれも、神秘的な罹病とか、身体の解体とその器官の入れ換えによって示唆されるような、多少とも神秘的な死の象徴的儀礼が含まれている。

(117ページ〜)
老シャーマンたちは彼の頭を切り開き、脳髄をとり出し、洗い、復活させ、彼に邪霊の秘儀と病気の錯雑した事態とを見通す明晰な心を与える。老シャーマンたちは、魂がどこを彷徨していようと、それを見出すに足る強く鋭い眼力を与えるため、候補者の眼のなかに金砂を入れる。老シャーマンたちは彼の指の先にとげのある鉤をうえつけ、彼が魂をとらえ、しっかりつかみ得るようにする。最後に彼らは彼の心臓を矢で貫き、病人と苦悩する人に温かい心と充分の同情心を抱かしめるようにする。

(118ページ)
もし器官の更新について主張される理由 ― よりよい視力を与えるとか、情深い心を与えるといった ― が正しいと信じられているとすれば、それは原初的な意味がすでに忘れられたことを示しているのである。

(121ページ)
かくて師匠は弟子のために。。。「点火」とか「悟り」。。。をとる。。。というのは(これ)が、シャーマンが突如としてその身内に、頭のなかに、胸のうちに名状し難い探照灯、輝く火のようなものを感じる神秘的光明から成っているからであり(この光は彼をして暗闇でも物を見ることを可能ならしめる)、また、文字通りに言っても、比喩的に言っても、彼は今や眼を閉じていても物を見、他人には見えぬ未来の出来事を見通すことができるからである。。。

候補者はこの神秘的な光を、長時間小屋のベンチに坐り。。。待望した後に獲得する。彼がその光を初めて体験するとき、「あたかも彼のいる家が突如として聳え立つが如くおぼえ、はるか前方に、山を越えてまさしく大地が1枚の大平原であるかのように見ることができ、彼の眼は大地の果てまで達する。もはや何事も彼には隠されるものがない。彼は遠く隔たった彼方の事物を見ることができるだけではなく、また魂、盗まれた魂が、どんな遠い所に隠されていようと、異国にあろうと、死の王国に連れ去られていようと、それを見つけ出すことができる」。

(122ページ)
このイグルリク人のシャーマンの職能を決定する内面の光の体験が、多くの高度の神秘主義思想に近いものであることを観察しておこう。。。例えばウパニシャッドでは、この「内面の光」はアートマンの本質を決定するものである。ヨーガの技術、特にその仏教諸派では、種々の色の光明は特殊の瞑想が成就したことを示す。同様にチベットの『死者の書』はそのなかで、死んでゆく者の霊が死の激痛の間と死の直後に経験するらしい光に非常な重要性を与えている。人の死後の運命(解脱自由か再生輪廻)は彼がその清浄な光を選ぶ不動心にかかっている。

(123ページ〜)
シャーマンは肉と血とを肉体から取り除いて、骨以外何物も残らぬ観念を抱き得る。。。これら全ての例では、骸骨への還元は俗的人間の状態を超えること、それからの解脱を意味しているのである。。。。

骨は。。。まさに生命の源泉の象徴である。自己を骸骨の状態にまで還元することは、太初の生命の胎内に再び入ること、すなわち完全な更新、神秘的再生と等しいのだ。。。

われわれはどこにでも、俗的、個人的状態を超越しようとする意志、仮そめなる、無常なるものを越えた展望に到達しようとする意志を見出すのである。

(128ページ)
最後に、火や料理や解体による更新の神話がシャーマニズムの精神的な面以外においてさえ、人々につきまとい続けてきていることに注意しておこう。。。解体と煮ることによる蘇生の神話はシベリア、中央アジアおよびヨーロッパの民間伝承においては、イエス・キリストや聖者たちによって演じられた役割が鍛冶屋に伝えられているのである。
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付け加えておくが、これらの死と再生と同じ考えは、錬金術の文献においても、様々な化学変換のプロセスとして十分に表現されているのだ。この点につき、ボリス・ムラヴィエフは『グノーシス』第2巻でこう述べている:


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伝統が採用するヘルメス主義の原則を尊重するために、エソテリックな教えは予言のかたちでもたらされることを理解しなくてはならない。シリア人の聖イサクはこう指摘している:聖書の言葉は多くの事を、元々の意味とは違った意味の言葉で伝える。時として肉体の特質が魂に適用され、反対に、魂の特質が肉体に適用されている。聖書の言葉はここに何ら区別を設けないのだ。しかし、悟りに達した人間には分かる。
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注意すべき重要な考え方が2つある。すなわち、候補者が知恵を学べるように、彼は悪魔あるいは、彼を拷問する存在の支配下に置かれなくてはならないこと、そして、このプロセスはイニシエーションを受ける者に、より大きな力を授けるものであること、である。(原注13) このイニシエーションによく似たこんにちの経験がエイリアン・アブダクション・シナリオである。不運にも、イニシエーションを受けながら失敗したり、闇の道を選んだシャーマンの物語で報告されているように、迫害者を受け入れ、彼らに程度の差こそあれ取り憑かれた人は多い。もっと深い意味では、第3密度のリアリティ ― こぞりて悪魔に属するというこの世(※ヨハネの手紙一 / 5章 19節) ― の中に私達が存在しているという、その事実が、数多くの転生を経るうちにはイニシエーションとなっていると言えよう。真理を受け入れられるようになる前、私達は嘘に苦しまねばならないのだ。


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原注13:
これを現実生活の言葉で言い換えると、サイコパス等々によって拷問され、これによって、連中を見分け他人に警告できるよう、あらゆる騙しと破壊の手口を学ぶ、となるだろう。これはこんにちのシャーマン的イニシエーションの重要な部分である。
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ということで今や、読者は私が何をしているのかお分かりだろう。私はあなたに、イニシエーションのプロセスに関する知識をシェアしているのだが、これはあなた方の多くが、時代背景に関係なく経験してきたものだ;私は頼まれた人々が、骨が露わになるまで剥ぎ取られ;苦難を被り、死に、願わくは復活させられ;シャーマンになり;頭を浄められた人になるプロセスを経るのを手伝っているのである。


(続く)
posted by たカシー at 17:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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