2013年06月14日

(その1)ザ・ウェイブ 第27章:骨が露わになるまで − ナイトたちへのシャーマンのイニシエーション:エクスタシーの技術

http://cassiopaea.org/2010/05/18/the-wave-chapter-27-stripped-to-the-bone-the-shamanic-initiation-of-the-knighted-ones-technicians-of-ecstasy/
ザ・ウェイブ 第27章:骨が露わになるまで − ナイトたちへのシャーマンのイニシエーション:エクスタシーの技術


このページの読者は、人間というものは眠っていて殆ど起こすのは不可能だという考え方を、私は随分強く訴え続けるものだと思われるかも知れない。皆さんの中には、こう聞くと、絶望感や無力感を呼びさまされる向きもあろう。中には、愛こそ答えであり(愛を抱けない人はダメだということになるが)、自分達が愛を抱いていれば誰もが救われる。だからどっちみち心配には及ばない、と自信たっぷりの人も居るかも知れない。このような考え方をはっきりと拒絶する人や、自分は眠ってなど居ないと完全に信じている人もあろう。

タイムトラベルや心への襲撃を行う超次元の存在が幻想や制限に満ちたリアリティを全力を挙げて創造し維持しており、このリアリティの中に私達は羊のように閉じ込められ、日々仲間の誰かが羊毛や羊皮や羊肉を「取られる」のを目の当たりにしながら、自分の番を待っているという考え自体が、私自身も含めた殆ど皆にとっては、現実に起こり得ることとして受け止めるにはあまりに恐ろしく、あらゆる望み、夢、安らぎを剥ぎ取られるに等しいものである。

あなた方の多くと同様、諸々の教えを手掛かりに、私もこのワークを始めたが、現実や経験の真面目な観察と比べると、これらの教えは効き目が無く、理解不能で、落胆に満ちたものだった。私が調べた到る所に矛盾の迷路が広がっており、これまでに知り、また試した一切より一段上の事をする必要性を感じた。世界中にある巨石その他の不可解な構造物の証拠から判断して、この知識が古代には利用されていたのだという思いはあったのだが、その途を再発見することが可能かどうかは確かでなかった。

観察可能な現実と、そんな現実の形態や構造がおそらくいくらかは由来していると思しき、何らかのより深い現実との間に、深刻な不一致が存在していることは実に明らかなのだが、それでも、「私達」を「それら」から引き離している何かがあることを私は知っていた。そしてまた、答えを探すときには、支持できない仮説と解決できない事実の迷路に行き詰るのが常であった。私に「あれこれの」ソースをチェックしたか?とメールを寄越したあなた方皆に。もちろんである。大概はチェック済みだったし、むしろ私のチェックしたものの方が多かった。そんな文献を全て読まれた方には繰り返しになるが、ブレーズ・パスカルはこう言っている:


---
。。。わたしは、マホメットの宗教も、シナの宗教も、古代ローマ人の宗教も、エジプト人の宗教も、ひとしく認められなかったのである。それというのも、ただこれらの宗教は、どれが他のものより真実らしいしるしをよけいに持っているというわけでもなく、わたしをいやおうなく決心させるようなものも何1つなく、したがって理性はどちらの方に味方するということもできないという理由のためである。
---
パスカル『完訳 パンセ』角川文庫版 619節、田辺訳344ページ。


私なら、パスカルのリストにもう100のソースを追加したって構わない。それらは全て、仮定と矛盾する「事実」の迷路で行き詰るものばかりなのだ。

しかし、カシオペアンズとのコミュニケーションが始まると、彼らは私が科学、宗教、哲学の分野で見付けていた問題点につき説明するような事も話したが、私が期待していなかったような事を聞かされて、私達という存在がこうも荒涼とした全体枠組みの中に収まっていると分かった時には、怒りもしたし抗議もしたものである。

私は既に昔、グルジェフとウスペンスキーを読んでいたときに、このような経験をしたものだったが、カシオペアンズが語った内容は、受け入れるべく心構えをしていたよりも遥かにもっと気の滅入るものだった。

世にあるおとぎ話的信仰は、私達を眠らせ気付かせないでおくために押し付けられたものだという考え方を私は拒絶していた。陰謀論も好きではなかったからだ。時が経つに連れ、他のソースによる証拠も積み重なってくると、自分が私生活で抱いている信条について核心を突いて来た授業に激怒した私は;純真無垢では居られなくなったことに大泣きしたものだった。だから、私に手紙を送って来て、これを理解するよう努力し、古い誤った信念体系にしがみつかぬようにと、理性的に説得しようとした皆さんには信じて欲しい。私は理解したのだ!

しかし何と言っても、愚かさと無知のうちに費やした歳月を思うとなおさら泣けてきたものである。しばらくして分かったのだが、私達が愚かで無知で居る期間とは、丁度その必要があるだけの長さであって、1秒たりとも長過ぎることは無いのである。私はこれら全ての経験に大いに感謝しているのだ。というのも、これらからは実に深い学びを得る事ができたからである。

さて、グルジェフとカスタネダの教えにはいずれも奇妙なところがある。どちらも、人間は「他の」何かの食物であると主張するのだが、この他者が実際に何であるかという詳しい情報が欠けているのである。確かにカスタネダはグルジェフよりもやや詳しく、飛ぶ者すなわち捕食者の歴史について幾らか触れているが、それでもなお、幾分ぼんやりとして形が定まらないものだ。

私達はかつてしばしばグルジェフに関して、彼はカシオペアンズが詳述しているような真実を知っていて、単に誰かに話す気になれなかっただけなのだろうと推測した。それとも、もし彼が生徒の誰かにこれを明かしたのだとすると、これは内部者のみが知っていて隠しているのだろうか?

私の夫、アークはグルジェフの生徒の1人であるアンリ・トラコルと、今を遡る1986年7月にマルセイユで会っている。それは空港のレストランで行われた短いミーティングで、せいぜい2時間ほどのものだった。アークの関心事は、パリのグルジェフ・ファウンデーションという学校に参加したら、彼自身の目覚めに役立つだろうかということだった。彼は多くの質問をしたが、特に「何か」によって「食べられる」という考えに関して尋ねた。トラコル氏のこの質問に対する反応に関して、(科学者およびインストラクターとしての多年の経験に鍛えられていた)アークによる評価結果は、この人は答えるのを恐れているというものであった。

アークの記憶によれば、トラコル氏は立ち聞きしている者など明らかに居ないのだが、立ち聞きされてでもいるかのように神経質にあたりを見回しつつ、「次元間の存在」について幾らか曖昧に言及した。

このミーティングからは殆ど15年以上経っているため、正確に何が話されたのかは、アークも思いだすのが難しい。しかし、ミーティング後の日々を綴った彼の日記は、彼の当時の気持ちを反映している:


1966(ママ)年7月21日、マルセイユ

私はエネルギーの変圧器であり、変換器である。それが私の存在の特質だ。それが私にとって唯一可能な目標だ。私はこの目標を達成するかどうか選ぶことができる。私は単なるエネルギーの変圧器に徹することができる。そうしたからと言って私の行う事はさして変わらないようだ。結果は同じだろう。

あるいは私はチャンネルとしての役割を果たすことができる。これはワガママと規律との間の選択である。「私」が行うこと、すなわち、「私という人格」はワガママである。私を通して行動するものはワガママではない。よって、私は「私を通して行動するもの」を許したいのだ。これはワガママではない。この目的のために、私はワガママを取り除かねばならない。だが、コントロールまで取り除くなどということは決してないようにしなくては!

だから私はワガママを除き、アイデンティティを除きたいのだ。アイデンティティを除くことがとても重要だ。自分であるという記憶は保持したい。自分のあらゆる時間を説明できるような計画を立てたい。私は自分のコブを取り除きたい。ラクダであることを止めるために。

どうやって?アイデンティティを取り除くことによってだ。私は聞きたい。そして、内心で考えるのだ。


1996(ママ)年7月23日

これらの言葉はいずれも虚しい。過ぎ去るべき虚しいものだ。空は去り、地球は去り、木々は去り、人々もまた去るだろう。人間の強い願望も去る。科学は去る。私を1つにまとめているもの、それも去る。目標はこのレベルには存在しない。目標を設定することは、このレベルでは自分に対して嘘をつくことだ。

人類、真実、知識 − これらは空しい言葉だ。意味の無い苦悩で取り囲まれた言葉。私が「人類を救いたい」と言おうと − これらは空しい言葉だ。私が「科学」、「知識」、「真実」、「認識」と言う時 − これらは幻影のような言葉だ。

私はエネルギー変換器であり、そのようなものとしての機能を果たすべきだ。それが私に出来ることだ。

出口はどっちだ?

私が行っている何も、後には残らない。私は全く存在しない方がましだろう。自分は「違う」と思うって?自分は「例外」だって?誰もうまく達成できなかったことも自分にはできる、なぜなら自分には運があるからだって?神よ、こんな虚しい幻想を信じることができるとは!私は何も残さずに死ぬだろう。何も成功しない。何も残らない。目標は達成されない。唯一可能と思われる目標は。。。終わりが近付いたとき、苦悩がいかに大きかろうと私は安んじて去るだろうということだ。

出口はどこだ?人間が果たすべき目的は何だ?これは実験なのだ!私に由来するものは価値が無い。私に出来るのはただ、より強力な何かに、私を通して語るのを認めることだ。もっと博識な何者かに、私に語り、私を通して語るのを認めることだ。もっとパワフルな何者かに、私を通して活動するのを認めることだ。もっとパワフルな何者かに私を使うのを許すことだ。私はただの貝、機械にすぎない。私は道具だ。私は目的を達成するための手段だ。私は、もっとパワフルな何者かが私の中に居て私を通して行動するための可能性だ。私は満たされるのを待つ場所だ。私は御者も主人も居ない馬車だ。確かに頭脳があり、身体の各部分があり、感覚もある。だけど、私はただの馬車なんだ。御者も主人も居ないのだ。権利を持つふりをした人格だ。役は演じる。時には御者、時には主人だ。「自己」を引き続き名乗りもする。それでも私はただの馬車であり、どこに行くでもなく、どこかのドブにはまる運命だ。

私の大志、私の欲望、これらは全てカラの馬車と馬のものであり、御されぬまま放っておかれている。私のやることは全て無意味。私のやることは全て人格に由来する。人格に由来するものは皆バラストだ。人格に由来するものは皆ラクダのコブだ。

コブを付けたままで、どうやって針の目を通り抜けられよう?
(※マタイによる福音書 / 19章 24節
重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 )
人格は脇に捨て置かれねばならない。大志や思い付き。。。これは私ではない。柔和な者こそ幸いである。柔和であること。。。それが私には必要だ。何の拘りも無いこと。不必要な事を取り除くこと。そしてまた、全ての瞬間に宇宙は枝分かれしていると意識することだ。
---


ということで、これがアンリ・トラコルと2時間話した後のアークの精神状態だった。

だが、この「通して活動する」とか、人類をコントロールするとか、睡眠の状態を作り出すというグルジェフの教えは何だろうか?私達はこのことにつき2人で議論した。利用可能なリソースをくまなく探し、これがグルジェフの仕事の最大の秘密の1つなのか見極めようとしたのだが、成果は殆ど無かった。

一方で私は長い事ずっと、イエスの真の教えとは何であろうかと考えてきた。初期キリスト教の時代に残されたと一般的に評価されている入手可能な文書から私達が事実として知っているのは、ローマ人および他のペイガン世界のほぼ全ての人々が、キリスト教を「忌まわしい迷信」だと考えていたということである。

これは実に驚くべき言われようである。こんにち私達が知っているキリスト教周辺の事実を考えるならば、これは全く理解できない。こんにちのキリスト教は、当時のペイガンのカルト的宗教と基本的に何ら異ならない古典的な信仰と儀式の集合に過ぎないのだ。十字架にかけられ復活した救い主である神は、かなりスタンダードなものだ。そして、新約聖書の中の教えの殆どは、ローマおよびその属国の人々にとって「普通」と受け取られる内容の、単なる盗作に過ぎない。

実際、この時代には、腸卜(ちょうぼく)であるとか、動物を殺して肝臓から吉凶を占うことが信じられ実践されていたことを考えれば、このような人々が忌まわしい迷信だと呼んだものとは、さぞや奇怪なことであったに違いない。かつまた、古代ローマ人に迷信だと考えられそうなキリスト教の信仰など何も残っていない。というのも、そのような事を信じ実践していたのは、まさに当時のさまざまなカルトの方だったからである。

だから、このような古代の人々が忌まわしい迷信と考えていたものが一体何なのか解明するのは難題至極であるが、唯一この定義に当てはまるのが、人間は超次元の存在の食べ物だという教えなのである。これは歴史上いつの時代にも、相当の反対を受ける考え方だった!

もし初期のクリスチャンがこのように論じていたのであれば、天上の万神殿に関するギリシャ人の考え方を受け継ぎ、ないし取り込んだローマ人が、これを全く野蛮だと考えたことは容易に想像できる。そして、イエスが理解し、プライベートで弟子たちに説いたのがこの考えだとすれば、武力を行使してまでオリジナルの教えの痕跡が完全に消し去られ、スタンダードなペイガンの儀式、典礼、信仰で置き換えられたとしても何ら驚くに足らない。もし私の考えが正しければ、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(※ヨハネによる福音書 / 8章 32節)という言葉は、確かに新たな意味を帯びるであろう。

もし本当に、人間が世界という家畜場で牛同様に育てられ、精神的にも、時には物理的にも食い扶持を与えられているとするならば、私達の置かれている状況は、控えめに言っても実に深刻である。以前に説明したように、夢を見ている状態や殆ど半分眠っている状態以外では、私はリジーを見たことが無い。だから、カシオペアンズが彼らについて語り始めたとき、それは私に言わせればまさしく『トワイライト・ゾーン』そのものだったのだ!

これまた既に述べたが、カシオペンズが何かを語った時には、私が垂直的あるいは水平的裏付証拠と呼ぶものを、何らかの形で発見すべく懸命に努めてきたものだ。垂直的データとは、現在からは異なるいずれかの時点の歴史上に存在するものである。水平的データというのは、現時点で収集できた、状況証拠となるようなレポートや証言情報その他のデータである。2つのタイプのデータが交わる、すなわち交差するのが常にベターである。だが、それでもまだ動かぬ証拠を手にした訳ではない。超次元の存在を相手にするとき、動かぬ証拠はそう簡単には見つからないのだ。

人間が超次元の存在の食べ物であるという考えの場合、膨大かつあらゆる種類の垂直的および水平的両方の裏付証拠が存在する。そう言う訳なので、実際のところ、どうしてこれが一般に知られていないのか理解するのはほぼ不可能だ。明らかにこの事実を隠蔽するための手の込んだ努力が行われてきているのであり、隠蔽されているという事実自体が、何かを物語っている。

肝心なのはこういうことだ。すなわちドン・ファンは、グルジェフは、そしてカシオペアンズ、その他は語る。私達の霊性やコンディションに関して、私達の宗教、社会構造、価値、信念の述べている内容は、かの幻想を永続化させるために恣に創作されてきたものだと。その幻想とはすなわち、私達は自由であり;私達は「慈愛に満ちた神の、特別で熱愛された子供達」である(ないし、そうなれる);私達は神の共同創造者である(あるいは、そうなれる);私達はポジティブかつパワフルなことを何でも行えるというものだ;私達はこの問題を注意深く検討すべきなのである!

これは客観的に検討すべき骨の折れる仕事だ。というのもこれは、私達が喜怒哀楽の情に打ち克つことができるようになるための、長く困難な自省を含むからだ。この様な感情のせいで私達は自分がどんな幻想にしがみついているのか、どんな幻想のせいで自由となるべく見たり行動したりするのを妨げられているのか、発見できないのである。

にもかかわらず、何かがここで進化しているのが見て取れる。集合精神の成熟に連れて、賭け金は跳ね上がり、騙しは巧妙になるのだ!

何世紀も、何千年もの間、単純化された宗教的・社会的ダイナミズムが世界の殆どの地域で支配的だった。これが可能だった訳とは、このような超次元の存在が私達のリアリティに侵入してきた時ですら、人種・種族間のコミュニケーションが無かったせいで、いわばディナーのためにひょっこり立ち寄ったような際、連中は容易に身を隠せたからなのである。

私達が居心地の良いマイホームのイスに座って現実を眺めるとき、それには窓外の景色も含まれるのだが、見えるのは変わらぬうわべの様子である。クルマが通りを走り、日々の活動のため人々を送り迎えし;太陽は輝き;子供達は走り過ぎ、話し、笑う。誰もが刹那的かつ正体の分かり切った生活に熱中し、これこそ本来の生活だと信じている。

だが、時折、何か奇妙なことが誰かに起り、彼らは時空連続体における変異に対して懸命に対処する。普通は抑え込んでしまい、忘れてしまえるくらい些細な事であるから、何としてもそうされなくてはならない。というのも、通常受け入れられている物事の成り行きにしては、あまりに常軌を逸しているからである。そんなものは、うやむやにされなくてはならない。

時たま、もっと大きな事がこのリアリティで起こる ― 超次元のコントロール・システムが介入してきた証拠であり、何らかの原因で画面が真っ暗になる ― と、これはニュースになって報道される。チャールズ・フォートは長い年月をかけて、世界中の新聞や雑誌から、この類の事件を収集した。

これが起きると、一般に受け入れられている信念体系は、誰もがそれぞれの集合的幻想に耽っていられるよう、急いでほとぼりを冷まそうとする。事件は局地的なものなので、隠蔽するのはたやすい。また昔はそれがこんにちよりもずっと簡単だった。

チャールズ・フォートが集めた情報を読むと、こんにち広く報じられているエイリアンの活動は、今と同じくらい昔も盛んだったことが分かる。実際これは幾分サイクリックですらあるようだ。私達が種蒔き・成長・収穫という食糧生産のサイクルを持っているように、超次元の存在が私達を収穫するのも何らかの「季節的」規則に従っているかのようだ。

いずれにしても、一般の人々が読み書きできるようになる以前には、事態の混乱を防ぐのはずっと容易だった。やがて、本や新聞、雑誌が発行され流通するようになった。旅行が手軽にできるようになり、私達のリアリティへの奇妙な侵入に関する世界中からの情報が収集されて、何かが正常ではないパターンの全貌が描き出されるようになった。

チャールズ・フォートが現れる以前にも既に数人、何か臭いと薄々気付いていた人々が居たが、フォート氏は親切にも私達の鼻先にそれを突き付けたのである。これに対する反応は極めて面白いものだった。隠蔽マシンは、主流派科学および宗教という最も効果的な媒介物を通じて、フル活動を行ったのである。

しかし、異臭はたちこめてきて、全てにふたをすることが出来なくなってきた。開いた窓から臭いがし続けるのだ。そうしてある人々は、異臭の出所を探し始めた。彼らは知識と情報を集め始めたのである。

さらに注目されるのは、このような隠蔽マシンによるダメージ・コントロールの始まり方である。社会的・宗教的な運動およびその変化の歴史を研究すると、人類による発見や理解が進むたび、コントロール・システムがそれらを変形させる様子が分かる。ダメージが旧来の宗教や単純化した説明の手には負えなくなると、新しい宗教が導入される。まさに適切なタイミング ― リアリティの本質に関する科学が発展し知識が増大して、旧来の宗教観が深刻な問題を露呈し始めたタイミング ― で、一連のスピリチャルな運動が始まり、制御ネットワークの穴に継ぎを当てることを狙ったチャネリング情報が出てきた。それは高次領域についての、より新しく、より詳しい説明を私達のリアリティにもたらすものだった。新たな疑問が提起されるたび、コントロール・システムは新しい答えを用意して、皆が鎮まりリラックスして質問を止めるのを手助けした。

現在では、このことはさらに驚くほど明らかである。数年前、私達が初めてカシオペアンズの情報を皆さんとシェアし始めた時、私達が取り扱う問題の多くに対して、このような他ソースは注意を向けてさえいなかった。しかし私達が情報を流す都度、向こうサイドも新説をひっさげた候補者を繰り出して来て、連中のリアリティという建物に私達が明けた穴に継ぎを当てた。そして、アークが超博士クラスの物理学者であるため、新しいソースのいくつかももちろん、より教養ある、明晰な語り口の、まるで私達がこちら側で提示した内容と釣り合いを取り、勢いを弱めるようなものとなった。

私にとって、点と点を結ぶという作業はいつも、萎びた玉ねぎも真ん中近くまで剥してみるような具合に、利用できるものは全て利用するということである。カシオペアンズが言った何かを検証し、あるいはそれに反証を挙げるため、遺伝子学に関する本に埋もれて数週間を過ごさねばならなくなったとしても、私はそうするだろう。それだけでなく、私は科学界における夫の威信を頼みに、その分野でも有名な専門家に手紙を書いて取り入り、最新の内部情報も手に入れて、皆さんにシェアする情報が可能な限り正確かつバランスの取れたものとなるようにするつもりだ。

繰り返し去来するのは、このような一切のことは遥か昔に知られていて、私達はいわば壜に入ったメッセージよろしくこれを受け取っているという思いである。それらは神話や古代のしきたりの形をとっていて、参加者は作法を教え込まれているものの、それが持つ意味は遥か昔に失われてしまっているのである。

もちろん、古代の学派や秘教の道の多くはこのような情報を無傷のまま保ってきている。だがそれらですら大部分は、このような知識が得られてから長い年月を経ているために、そのページ上から消え去りつつある。それでも中には、私達のリアリティと信念との間の不一致を見い出して、どんなことが知られていたのか発見しようと、古代の教えを探る人が居るものである。彼らの多くが発見したものは、他の多くの分野からの情報と考え合わせるとき、私達の置かれている真の状況と、その目的に関する欠かせない発見を行う手助けとなるものだ。

グルジェフもそんな1人だった。

彼自身そうしていたから、彼は他人にもそれができるようにしたのである。

このような発見において進歩を遂げた人々の道ですら、後継者の代に勢いが弱まり混乱してしまうことがありがちである、とはいえ、開拓者たちのお蔭で、続く旅行者は彼らの足跡を容易に辿れるものだ。もちろん、先駆者たるもの、真理を取り囲む、最も奥深く最も危険なジャングルを切り拓いて進まねばならないし、道半ばまでしか行けないこともあろう。だが、この偉大な努力によって、新たな見通しの良い地点に到達したならば、彼らには先の方の中心部にあるものがもっと見えてくるのだ。彼らにはチラッと見えるだけかも知れない。しかし、一瞥できたということは、少なくとも正しい道を進んでいる証拠なのである。他方、全体像まで見ることが出来、その時代の集合精神の成熟度をも引き上げて、その世代にとって理解可能な内容からすると、あたかも啓示のごときものをもたらそうとする人も居るものだ。

グルジェフの教えは他の3つの道に対して「第4の道」として知られるようになったが、これらの道は、私達を囚われの身にしておくために、宗教/社会構造の、まさしくその中に存在し、これらを利用してきたものである。多くの人々は自分が人間であり、あるいは魔術師であると信じるよう催眠術をかけられているのだ、とグルジェフが言うときの意味はこれだ。既に論じたように、これらの3つの道の持つ問題は、これらがそれぞれ人間の3つのセンターのうちのただ1つにのみ集中していることである。すなわち:身体の訓練、精神的発達、心の道 ― 愛 − のうちのどれか1つにである。グルジェフの道はこれらの全てを、意識的努力および意図的な苦しみという形を通して取り込んでいる。

これらの事でグルジェフが意図したのは何か?彼の生徒のうち、2人として同じ答えを持っていない。この事実について私達が唯一考え得るのは、彼の生徒達の理解は、彼らの努力、経験、存在のレベルに見合ったものなのだろうということである。

意識的努力というのは、溝を掘ったり、岩を砕いたりということを指すこともあり得なくはないが、明らかにそうではないだろう。これは私達が日常生活の中で習慣的に行っていないような努力を指す。意図的な苦しみというのは明らかに、眠っている人には不可能だ。というのも、これは良心によるものであり、グルジェフによれば、人は目覚めるまでは意識も持たなければ真の良心も持たないからである。グルジェフにとっては、良心と意識は分けることができないものだったからだ。

こんにち多くの第4の道のメソッドが世界じゅうに散らばっているが、それらはどれも部分的かつ不完全であるように思われる。しかし大事なのは:グルジェフが大きな一歩を踏み出したことであり、彼は集合精神の覚醒へとテクノロジーを立ち戻らせる方法を見つける途の上にあった大量の障害物を切り払った。そして、彼の業績があればこそ、彼の後を追った人々はこの努力においてさらに先に進むことができたのである。

不幸なことに、コントロール・システムはすぐさまダメージ・コントロールを発動し、暴露された割れ目に継ぎを当て、秘密と制限のフェンスが立てられた結果、たとえこの組織の誰かがより深い知識を持っていたとしてもそれは隠されたため、歪曲と改変のプロセスがここでもまた通常通りに進む結果となったようである。

それでも、これらのことの1つ1つはステップであると見なければならない。私達はスーフィズム、錬金術、カタリ派、その他の迫害を受けた知識体系を、グルジェフへと至るステップから除外することはできない。全体像を見るならば、こう言って差し支えないだろう。すなわち、暴露が役に立つと思われ、かつ、関与している人々がより充実した意味深い人生に導かれているとき、当局(powers that be)はすぐさまそれを過熱させ、破壊するか隠蔽するだろう。だが、もし当局の手でそうすることが不可能なときは、内部に彼らのエージェントを放つことで、これが確実に歪められ改変されるようにし、それを見届けるのである。カトリック教会を通じてキリスト教が発達したのを見てみるといい。

確かにグルジェフ自身は、真に聖人のレベルに達していたようであり私達にプロセスと適用という遺産を残した。だが、私達の現時点での任務はさらに先に進むことである。その際私達としては、このコンセプトの影響を弱め、混乱させ、堕落させ、これを勝手に用いようとする継続的な努力が各方面で行われると覚悟すべきである。グルジェフはまさに、この問題を述べている:


---
我々の属す人類、つまり科学や文明に知られている歴史的、先史的人類全体は、実は人類の外側のサークルだけを形成しているのであって、人類の中には他にもいくつかのサークルがある。。。
(浅井訳、480ページ)

内側のサークルは「エソテリック」と呼ばれている。このサークルは、人間に可能な最高度の発展を達成した人々によってつくられている。彼らは最も完成した個性を有している。つまり、分割不可能な「私」、人間に可能なあらゆる形態の意識とその完全なコントロール、人間に可能なあらゆる知識、自由で独立した意志などをもっている。

彼らは、自分の理解に反する行動をとることはできないし、行動によって表現されない理解をもつこともない。

また同時に、彼らの間には何の不和も、どんな理解の相異もありえない。だから、彼らの行動は完全に協調的で、いかなる強制もなく1つの共通目標へと進んでいく。というのも、それは共通かつ同一の理解を基盤としているからだ。

次のサークルは「メソテリック」、つまり中央と呼ばれている。

このサークルに属する人々はエソテリック・サークルに属する人々がもつあらゆる特質を有しているが、そこにはわずかな違いがある。つまり彼らの知識はもっと理論的な性格のものなのだ。

これはもちろん、宇宙の性質に関する知識にもあてはまる。彼らは、たくさんのことを知っているし理解もしているが、その知識はまだ行動にまでは表れない。すなわち、彼らの知っていることは彼らのすることを上まわっているのだ。しかし、彼らの理解はエソテリック・サークルの人々の理解と全く同じように正確で、それゆえ全く同一のものだ。
(同、480-481ページ)

彼らの間にはいかなる不和も誤解もありえない。1人は他のみんなが理解するのと同じように理解し、みんなは1人が理解するのと同じように理解している。しかし前に言ったように、この理解はエソテリック・サークルの理解に比べれば幾分か理論的なのだ。
(同、481ページ)

第3のサークルは「エクソテリック」、つまり外側と呼ばれている。なぜなら、これは人類の内的な部分の外側のサークルだからだ。

このサークルに属している人々も、エソテリック・サークル、メソテリック・サークルの人々がもつ多くのものを所有しているが、彼らの宇宙に関する知識はもっと哲学的な性格のものだ。言いかえれば、それは、メソテリック・サークルの知識よりさらに抽象的なのだ。

メソテリック・サークルのメンバーは計算し、エクソテリック・サークルのメンバーは熟考する。彼らの理解は行動で表されることはないかもしれない。しかし理解の上では彼らの間に差異はない。1人が理解したものは他のみんなも理解するのだ。

エソテリシズムの存在を認めている文献では、人間は普通2つのサークルに分けられ、「エソテリック」に対立するものとしての「エクソテリック・サークル」は普通の人々と呼ばれている。

実際には、今示したように、「エクソテリック・サークル」は我々から遠く隔たった非常に高次のものだ。普通の人間にとってはこれさえすでに「エソテリシズム」なのだ。

「外側のサークル」は機械的な人間のサークルで、我々はそれに属し、またそれしか知らない。

このサークルの第1の特徴は、これに属する人々の間には共通の理解がなく、またありえないということだ。誰もが自分勝手に、さまざまに理解している。
(同、481-482ページ)

このサークルは時には「混乱した言語」のサークルと呼ばれる。つまり1人1人が勝手な言語で話すサークルということで、そこでは誰1人他人を理解しないし、またしようと骨折る者もいない。
(同、482ページ)

このサークル内では、まれな機会や大して重要でない事柄を除けば、相互理解は不可能で、それも彼らの存在の範囲内に限られている。

もしこのサークルに属している人々がこの理解の全般的欠如を意識し、しかも相互に理解しあいたいという欲求をもつなら、彼らは内側のサークルの方に無意識のうちに傾斜したことになる。というのも、相互理解はエクソテリック・サークルの中で初めて始まるものであり、またそこでのみ可能だからだ。

しかし、理解が欠如しているという意識は普通全く違った形で人々のところへやってくる。

だから人々が理解できるかどうかは、理解というものが始まるエクソテリック・サークルへ入りこめるかどうかにかかっている。

人類を4つの同心円として考えてみると、内側の第3のサークル、つまりエクソテリック・サークルの円周上に4つの門を想像することができ、機械的なサークルに属す人々はここを通って中へ入ることができる。

この4つの門は前に述べた4つの道に相応している。

第1の道はファキールの道、人間第1番、肉体的な人間の道、知性や心情の方はあまり豊かでない本能・動作・感覚型人間の道だ。

第2の道は修道僧の道、宗教的な道、人間第2番、つまり感情的な人間の道だ。知性と肉体はそれほど強くない。
(同、482-483ページ)

第3の道はヨーギの道だ。これは知性の道、人間第3の道だ。心情と肉体はそれほど強くはない。でないとそれらはこの道での障害物になりうるからだ。
(同、483ページ)

これら3つの他に第4の道があり、前の道のどれにも進めなかった人もこの道なら進むことができる。

最初の3つの道、つまりファキールの道、修道僧の道、ヨーギの道と第4の道との違いは、前の3つは、歴史上の長い期間、ほとんど変化することなく存続してきた恒久的形態に結びついているという点にある。これらの集団の基礎は宗教だ。ヨーギのスクールがあるところでは、それは宗教的なスクールと外見上ほとんど違わない。また歴史上のさまざまな時期にファキールの種々の共同体や教団がいろいろな国に存在したし、いまだに存在している。これら3つの伝統的な道は、歴史の範囲内にある恒久的な道なのだ。

2、3千年前には今はもう存在していない他の道もあったのだが、今あるいくつかの道は互いにそれほど隔たってはおらず、非常に接近している。

第4の道は次の点でこれら新旧の道とは異なっている。つまり、それは決して恒久的な道ではないという点だ。それはいかなる一定の形態ももたないし、それに結びついた集団もない。それはいくつかの独自の法則に支配されて現われたり消えたりするのだ。(原注1)

第4の道は明確な重要性をもつワークを伴わずには決して存在しない。それは必ずある企てを伴い、その企てのまわりに、またそれとの関連においてのみ第4の道は存在しうるのだ。

このワークが終われば、つまり設定された目標が達成されれば、第4の道は消滅する。すなわち、その場所から消え、その形態も消えてしまうのだ。たぶん別の場所で違った形で存続するだろうが。
(同、483-484ページ)

だから第4の道のスクールは、もくろまれた企てに関わるワークをやりとげるのに必要な場合にだけ存在する。教育や指導のためだけに独立してスクールとして存在することは絶対にない。
(同、484ページ)

第4の道では、いかなるワークにおいても機械的な助力は不要だ。第4の道で何をするにせよ、有益なのはただ意識的なワークだけだ。機械的な人間は意識的なワークをすることができないので、この種のワークを始める人の最初の課題は、意識的な助力者を獲得することだ。

第4の道のスクールのワーク自体、非常に多様な形態と意味をもちうる。生の普通の状態の真只中にあっては、人間に残された「道」を見出す唯一のチャンスは、この種のワークの始まりにめぐり合うかどうかにかかっている。しかしそのチャンスも、それを生かす可能性もともに、さまざまな状況や条件次第である。

遂行中のワークの目標をつかむのが早ければ早いほど、彼自身、ワークにもっと役立つようになり、また彼自身がそこから得るものも多くなるだろう。

しかし、ワークの基本的目標がいかなるものであろうと、スクールはワークが続く間しか存在しない。ワークが終わればスクールも閉鎖される。すでにワークを始めている人は、その活動舞台を離れるわけだ。スクールから学びうるものを学び、この道を進み続ける可能性を見出した者は、個々それぞれにいろいろな形でワークを続けることになる。

しかし時には、スクールが閉鎖されるとき、ワークのまわりをうろつき、その外観をながめ、しかもワーク全体をこの外観からしか見ていなかった人々が大勢取り残されるということが起こる。

自分自身に、あるいは自分の結論や理解にいかなる疑いも抱かないので、彼らはワークを続けることを決心する。そのために新しいスクールをつくり、自分たちが習ったことを人々に教え、自分たちがされたのと同じ約束を彼らにする。しかし当然、これらはみな上っ面のまねでしかない。(原注2)
(同、485ページ)

しかし歴史を振り返ってみると、どこで本ものが終わり、どこから模倣が始まっているのかを区別するのはほとんど不可能だ。厳密に言えば、さまざまなオカルト、フリーメイソン、錬金術などのスクールについて我々の知るほとんどすべてのものが、この模倣に関係している。我々は実際、本当のスクールについて、そのワークの成果を偽ものや模倣から区別できたときに初めて知ることができるのだ。

しかし、そんな偽エソテリック組織も、エソテリック・サークルのワークや活動に何がしかの役割を演じている。つまりそれらは、完全に物質的世界にひたりきった人類と、ある一定数の人間の教育に関心をもつスクールとの間の仲介者なのだ。スクールは、自らが遂行する宇宙的性格のワークのためと同様、自身の存続のためにこの教育に関心をもっている。エソテリシズムという観念そのもの、あるいは秘儀伝授という観念は、ほとんどの場合偽エソテリック組織あるいはスクールを通して人々に届く。だから、もしこういった偽エソテリック・スクールがなかったら、大多数の人々は日常生活を超えた深遠なるものの存在について何1つ聞いたり学んだりする可能性はないだろう。というのは、真理はその純粋な形においては彼らには手の届かないものだからだ。

人間の存在、とりわけ現代人の存在のもつ多くの性質ゆえに、真理はうそという形でしか人々に届かない。この形でしか、人は真理を受け入れることも消化吸収することもできないのだ。純粋な真理は、消化できない食物なのだ。

また時には、1片の真理が変化を受けないまま、偽エソテリック活動や教会宗教、オカルトや神智学のスクールの中に見つかることもある。たとえば、その文書、儀式、伝統、そのヒエラルキーの観念、ドグマ、規律などの中に残っているかもしれない。
---
※ウスペンスキー『奇蹟を求めて』
原注
1:私見では、グルジェフが最早存在していないと主張した古代の道こそが、実は彼の述べている「第4の道」である。ただそれは彼の言うよりも「恒久的」なのだ。
2:これは確かにグルジェフのワークにも起こった事である。


前章で遠回しに述べたように、人類にその全貌が明らかになっていない秘密クラブが存在していることを、状況証拠は示している。それ以外の、いわゆる「秘密結社」(薔薇十字、イルミナティ、フリーメーソン、現代テンプル騎士団、シオン修道会等々)は一般的に探求者を迷わし、その注意を逸らすためのものである。グルジェフはこれらのグループも有益な機能を果たし得ることを指摘している。というのも、このようなグループが推進する偽のエソテリック体系を通して、エソテリシズムの概念自体が人々に伝わるからである。だからこそ私も、全てとは言わないが殆どの偉大な古代宗教が錬金術的ワークの象徴であると言うのだ。

16、17、18世紀を通じて、かなりの数の錬金術のアデプトがヨーロッパじゅうを旅し、意のままに現れたり、消えたりしていた。伝承によれば、これらのアデプトは不死であり、不老長寿の薬を使って生き続けたという。この薬は錬金術のゴールの1つなのだ。このような神秘的な人々が実在したことはほぼ疑いない。彼らの存在が数多くの信頼できる目撃証言によって裏付けられているからだ。

ここで想起されるのが、上掲のグルジェフの言葉の中で最も興味深い、内側のサークルに関する部分である。


---
内側のサークルは。。。人間に可能な最高度の発展を達成した人々によってつくられている。彼らは最も完成した個性を有している。つまり、分割不可能な「私」、人間に可能なあらゆる形態の意識とその完全なコントロール、人間に可能なあらゆる知識、自由で独立した意志などをもっている。彼らは、自分の理解に反する行動をとることはできないし、行動によって表現されない理解をもつこともない。また同時に、彼らの間には何の不和も、どんな理解の相異もありえない。だから、彼らの行動は完全に協調的で、いかなる強制もなく1つの共通目標へと進んでいく。というのも、それは共通かつ同一の理解を基盤としているからだ。
---


そしてまたしても思い出されるのが、錬金術の格言:「似たもの同士は惹かれ合う」だ。


---
候補者がアデプト達に受け入れられるような徳と高潔さを育んだとき、アデプト達は彼の前に姿を現して、秘密のプロセスの、手助け無しには発見しえない部分を明かすであろう。自らの知力によってはある点に到達できない者たちは、秘密を受け継ぐ資格を持たぬものだ。秘密は自らの意志、すなわち、自然の力に従うからである。
---


だから、手助けを引き寄せるのに不可欠なレベルに達するには、明らかに何らかのプロセスを辿らねばならない。

私達がこれらの事を可能な限り深く深く、繰り返し探って行くとき、「自己認識」こそが鍵であることに思い至る。これは目的ではなくて手段である;自己能力の開発および眠りからの目覚めが始まる第1段階は、「捕食者の心」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=48090899&comm_id=2590126
をコントロールできるよう、自己を客観的に知ることができるようになることだ。ここで銘記すべきなのは、私が「コントロールする」と言い、統合するとは言っていないことである。

グルジェフは、私達が多くの「私」を持つと言うが、同時に私達はまた獣性と精神性を持つという。自己観察およびその他の修練による努力が、単一の私を結晶化する手段として教えられている。ウィリアム・ボールドウィン
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=28532571&comm_id=2590126
は、このような多くの「私」が生じて来る真の源泉は、霊による憑依の問題であると考えた。これに取り組むうちに分かったのは、彼のテクニックが「意志を育」もうと努力し、真の自己が現れるのを阻むバリアを取り除く上で、助けとなりうることだった。

このようなテクニックのマイナス面は、諸々のプロセスにおいて自己が行う発見を位置づけるコンテクストを入手する手段としての他の知識の吸収を、これが促し損なうということである。

しかし、カシオペアンズによれば、かくも壮大な騙しに直面していては私達はどうすることもできないらしいのに、そんな知識が役に立つのだろうか?実際には、彼らはそれ以上に多くの事を語り提案してくれたのだ。さらに重要なことに、私達がカシオペンとの交信を正しく理解するなら、それが本当は第4の道のワークであり、カシオペアンこそが、手助けなしでは発見できない秘密のプロセスの一部を明かしてくれる教師であることが分かる。

その大いなる秘密とは何だろうか?

グルジェフは邪悪な魔術師について述べている。
http://www.k5.dion.ne.jp/~sasara-p/Gurdjieff-2.htm
錬金術師も同じ事を言っている:ユージーン・カンスリエはフルカネリの『賢者の居所』第2版の序文にこう書いている:


---
フィリップ・ド・マレリーはデリケートなタッチで『世界のイメージ − 災難と危難の象徴表現および感情的に正反対の神の愛と人間の愛』を彫り上げている。

第1の象徴は直接的に唯一のものではないが、我々人類の全ての病の源泉となるものを指し示している。それはまたラテン語の銘によって強調されている。カッコに入れられたそれは、またしても音声的カバラの語呂合わせである:「世はこぞりて悪魔に属する(Totus mundus in maligno positus est)」
(※ http://www.d-b.ne.jp/mikami/ioan1.htm
「ヨハネの手紙一 / 5章 19節
わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。 」)
---


悪魔の手のうちにある、この世界とは何か?それは嘘と混乱の世界である。


---
「外側のサークル」は機械的な人間のサークルで、我々はそれに属し、またそれしか知らない。

このサークルの第1の特徴は、これに属する人々の間には共通の理解がなく、またありえないということだ。誰もが自分勝手に、さまざまに理解している。
(同、481-482ページ)

このサークルは時には「混乱した言語」のサークルと呼ばれる。つまり1人1人が勝手な言語で話すサークルということで、そこでは誰1人他人を理解しないし、またしようと骨折る者もいない。
(同、482ページ)

このサークル内では、まれな機会や大して重要でない事柄を除けば、相互理解は不可能で、それも彼らの存在の範囲内に限られている。
---


皆さんの多くにとって、カシオペアンズが提示する考え方は、1人の文通相手が言うように私達は「何をしようとダメだ」という発言の繰り返しと思われるかも知れない。しかし、全くその通りという訳ではない。今まで私が提示してきたのが殆どそのような事に関する情報だったというのは確かにその通りで、それは人類の持つ高次の本性や潜在能力を、彼らから隠しておくための幻想というヴェールを透かし見て、破ろうとするものだった。しかし、これは私達が実際にどんな可能性を持っているのかについて比較的明らかな見通しを手にしようという意図があってのことだった。実際、私が成し遂げようとしてきたのは別の何か、深くて本質的な何かである。依頼して来た皆さんのために、私は皆さんが自分の自由意志を見付ける手助けをしようとしてきたのだ。

要するに私は、あなたにショックを与えようとしているのである。私はあなたに物事を新しい方法で考えさせようとしている。私はあなたがあなた自身を見、あなた自身を学び、あなたの幻想を発見し、そうしてそれらから自由になることに専念させようとしているのだ。もし人類が生き残る望みがいくらかでもあるなら、大きな心の変化、すなわちメタノイアを経なくてはならない。新約聖書では不正確にも後悔と訳されている言葉だ。心の変化が可能となるためには、心がそれ自体を知らなくてはならない。

ここで思い出されるのが、私達のグループ・メンバーであるテリー・ロードマークが行った極めて重要な発言である:


---
僕らが(カシオペアンズに)言われたのは、この宇宙は自由意思の宇宙として創造されたということだ。それは特別に、あらゆる魂が何でも欲するところを行うことができるように創造されたんだ。皆、何でもしたいことを行う、完全な選択を持っている。グレイやトカゲのような、人々にアブダクションやインプラントを行う連中にも、そうする権利があるんだ。というのも、ここに来て僕らに対してそうするのは、彼らの自由意志だからだ。さらに、自分達の行為を正当化するため、僕らに何であれ告げる権利も連中は持ってるんだ。僕らの権利は、アブダクションする連中が何と言おうと信じないことだよ。僕らには、連中を信じるか信じないかの自由意志がある。過去生において、連中にはアブダクションする権利があると聞かされ、それを信じるという選択をした僕らだけど、今生では、連中が同じトリックを使おうとして来たら、連中を信じないことを選ぶんだ。どちらの側も − 僕らも自由意志を行使するわけだし、連中もまたそうなんだ。ここは自由意志の宇宙なんだから、僕らは考えを改めることができるんだ。連中は、僕らには選択権が無いと言って説得しようとするけど、連中を信じるも信じないも、選ぶのは僕らなんだ。

一神教の世界観においては、トマス・アクィナスやルネ・デカルトが詳述したように、自由意志は選択するかしないかのパワーを含んでいた。つまり、僕らは善であれ悪であれ、選択できる限りにおいて自由なんだ。
---


つまり、あなたは善か悪かを選べるのである。そしてもし、あなたが善として示されたものを選ばないならば、他にそういう場が無いので、あなたは悪を選んだことになる。善のオプションは1つしかないのだ。呑むか呑まないかの2つに1つなのである。それがあなたの自由意志というものだ。これがマフィアのドンやナチスの将校の言葉だと、「この申し出は断れまい」となる。というのも、他方のオプションは明らかに不快なもので、あなたは面白くない結果に甘んじることになるからだ。この観方は自由意志という極めて重要な概念を愚弄するものだ。

私達のリアリティにおいて、私達は明らかに、この宗教かあちらかの宗教か、この思想かあちらの思想か、ニューエイジのこのチャネリングかあちらのチャネリングかについて、選択を迫られている。リアリティ自体、善/悪 で ある/ないという幻想がもっと深い何かの仮面ないしシンボルであると分かってしまうと、私達は私達に示されている2つの選択肢が明らかに等しくないことに気付き始める。「喉が渇いている人は油ではなく水を選ぶ;飢えた人は樹皮ではなくパンを選ぶ;貧しい人は雨に濡れたベンチではなく、橋の下の乾いた場所を選ぶのだ」
http://www.hawaii.edu/powerkills/DPF.CHAP30.HTM
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

幾つかを選ぶ権利。こう定義すれば、自由意志は、多少冗談や論理的矛盾以上のものとなる。これはまた「自己への奉仕(Service-to-Self、STS)」の道の主要な流儀でもある − 「重み付ける」ことで選択を誘導するのだ。

この「自由であるが自由でない意志」という観方は、自由意志を否定しようとする人々が専ら被る仮面となる。

いかなる宗教、哲学、また教説であれ、人が救われる唯一の方法だと称するや、たちまち自由意志のマフィア/ナチス/STS派と連携することになる。それが救いになるから、あるいは気持ちがいいからと言って、他人を愛し、愛と光を送ることを選ぶ人が、渇きを癒すために油ではなく水を飲むことを選ぶ立場に置かれているのは容易に分かる。さらに人々が、社会・思想の全体構造の設計上も、それが神の意志に沿う唯一実行可能な選択であるように思われるからこれしか出来ないと言う場合も、やはり同じ立場に居るのである。しかし、これに関して大事なこととは、彼らがこの選択は水を飲んでいるのであり、あの選択は油を飲んでいるのであるという幻想、嘘を信じていることである。恐れのあまり、彼らはどちらを選ぶ必要もないという風に考えることすらしないのだ。

自由意志には別の定義もあって、思索するのは面白いものである。だが、哲学者の観方について長々と述べようとは思わない。というのは、たとえそれらのいくつかが極めて魅力的で、実に考えさせられるものだとしても、目下ここでの問題については効果薄だからである。

手短に述べれば、ホッブスとトルストイは、妨害や制約なしにやりたいことをやれる限り、人は自由だと唱えた。ロックとヒュームは、ホッブスの「制約なしに行える自由」を人が望むように行いあるいは行わない力に拡張した。スピノザの観方は、私達が単独で行為を決定できる限り、私達は自由だというものだった。他人が私達の決定に影響を与えたり邪魔をするときや、病気や無能が理由で行動を決定できないときは、私達は自由ではないのである。

邪魔や制限なしに選んだことをできる場合というものを考えて、そのように自由意志を定義するときには、私達の自由意志が他人の自由意志と衝突するかどうかだけでなく、私達の自由意志自体が、無意識のうちに心理的・生理的な力が働く結果、より自由でなくなっていないか、ということも考えねばならない。そして、政府によるマインドプログラミングや高次の生命体の問題が状況に関与して来るときは、私達が外部勢力の絶対的コントロールの下に居るかどうかについても考慮すべきである。前者の場合、極端な貧困や壊れた家、役に立たない教育システムのせいで、私達は窃盗や強盗を選ぶかも知れない。後者の場合、私達は「自棄になる」ことを選ぶであろう。というのは、何らかの政府の極悪プログラムが、ある朝作動して破滅をもたらしたからかも知れないし、あるいは、潜んでいるトカゲ生命体の一部が、スージー・スマートは
http://www.flickr.com/photos/fyeguy/5169198927/in/photostream/
真相に近づき過ぎたので、朝、切手を買いに出掛けるときに消さなくてはならないと考えたからかも知れない。

だから、結局私達はさして自由ではないのだと思われてくる。実質的に見て、私達はみな、外部勢力あるいは何らかのプログラミングの影響下にあるのだ。

私達の自由がこのようであってみれば、第3密度の見地における自由意志の問題は無意味となる。これは実に奥行きの無い解釈である。というのもつまり、自由とは人が自分の選んだことを行えるかどうかで定義されるのであり、選ぶ行為自体があればいいというものではないからである。それは行動の自由を言うのであって、行動の選択のことではない。というのは、皆さんのあらゆる選択はプログラムされているからである。しかし、たとえプログラミングの結果であろうと、個人が何かを行おうと決めたのであれば、彼はそれをするかどうかにつき自由意志を持つものと考えられるのだ。

何たる卑劣!

このような懸念から強調されるのが、人の意志に反して行為を抑止しあるいは無理強いする、多くの力の問題である。人がもし、そのような力に気付いていたら、意志に反する行為は選ばないだろう。要するに:私達の潜在的ないし現実的な選択が制限されているのなら、私達は自由ではないのである。ロックは、留まりたいと思いながら、鍵のかかった部屋に居る人を例に挙げる。この人は、部屋に留まりたいと願い、そう出来ているのだから、ホッブスの定義によれば自由である。しかし、この人は部屋を出る力を持たないのだから、ロックによると自由ではない。

まさにこの意味において、殆どの人々はコントロール・システムにより、自分が自由意志を持っていると信じる様に騙されているのだ。彼らが閉じ込められている部屋とは、彼らの理念や目的が創造を完全に実現するものであるという幻想であり、部屋に留まろうとする彼らの選択は、外部から彼らに押し付けられた理念に対する黙従である。

人類の殆どはこの部屋に閉じ込められたまま、生を際限なく繰り返す。しかし実際は、一定期間すると、部屋に監禁されて同じ経験ばかりであるのが不愉快になってくる。というのも、囚人が無気力で居るよう宥められている間に、何かが彼の中で育ってくるのである。部屋の外にあるものを見たいという衝動だ。しかし、この気持ちが十分に育つまでは、彼はドアに鍵がかかっているかどうかチェックする努力すら払わないだろう。また、一度ドアをチェックして、鍵がかかっているのを見付けても、彼を駆り立てるものはまだ十分でなく、また元の場所に戻って、何かが起こるのを待ち続けるに過ぎない。少しばかり時間が経つうちようやく、この衝動が育まれ、自分が閉じ込められていることに気付いた彼は、さらに、どうしたら出られるのか見つけたいという衝動に駆られるのだ。しかし、このプロセスには多くの生を費やすものだ。そして、十分な強さを持たないために出て来る準備が出来ていない、他の囚人が閉じ込められている部屋のドアを開けようと試みても、それは彼らを怖がらせるだけであり、成長のために彼らに与えられた時間的猶予の間に、自分達の部屋から出て来ようとする努力を維持できるような、内なる行動力を奪うだけの結果に終わるのである。

このような条件においては、人が彼の意図通りに行う力を持っているかどうかは、基本的に実証的な問題のまま残る。彼は意図する通りに行い、あるいは行わない、完全な自由を持っていると考えているかも知れない。だが、彼の気付きに基づく彼の意志、彼の選択は、彼が気付いていないような物事によって、無意識のうちに、ないしは物理的に決まっているのかも知れない。この意味では、気付きの欠如に基いて選択や行動を行った場合、その結果発見されるのは、原因要素である、気付きの欠如の元であって、選択者の選択ではない。

つまり、政府の実験やエイリアンによるアブダクション、超次元の存在によって創造され押し付けられた宗教のいずれかによって、人がプログラミングされているとき、究極の責任は誰にあるのだろうか?

それはプログラマーだろうか?それとも、気付かぬよう効果的に選ばれた人の方なのか?

そう、この人は、神や悪魔、あるいはエイリアンないし政府のハンドラーによる報復を恐れるため、気付かないのかも知れない。彼は自分の身体や魂、あるいは愛する誰かの身体と魂の安全を気遣っているのかも知れないのだ。しかし、このような恐怖こそ、鍵のかかった部屋を形作っている信念なのであり、彼自身の選択がドアに錠をおろしていることにも気付かずに、彼はその部屋にいることを選んだのである!

もしこの人が恐怖のせいではなく、単に眠っているせいで気付かないのであれば、気付かない責任は彼にあるのだろうか?

カシオペアンズによれば、答えはイエスである。それは彼の選択なのだ。彼は、いずれかのレベルで、ある理由からそれを選んだのであり、彼にはその権利がある。彼は自らの環境を選んだのだし;彼は学年も専攻も選んだのだ。おそらく、意識的な感覚の中で選んだというのは、適切な表現ではない。むしろ彼がそこに居るのは彼がそこに「合っている」からなのだ。彼は意識ユニットであり、学んでいるところである。一定のレベルに達した時だけ、彼は目覚め始める。何かが彼の中で育った時だけ。それが意志なのだ。

グルジェフはどうやら、意志は人間の内で、いわば、育まれ加速させられ得ると考えていたようである。そんな考えから、彼は以下の言明を行っている:


---
(浅井訳、342ページ)
<覚醒する>とは、<催眠状態から解かれる>ということだ。ここに大きな困難があり、同時にその可能性の保証もあるのだ。というのも、眠りには本質的な理由は何もなく、人間は目覚めることができるからである。これは理論的には可能だが、実際にはほとんど不可能に近い。その理由は、人間が目覚めて目を開くやいなや、彼を眠りこませるあらゆる力が10倍のエネルギーで働きはじめ、彼はまた眠りこみ、しかもほとんどの場合、目覚めている、あるいは目覚めようとしている夢を見ているからだ。

。。。目覚めることの難しさを十分に悟っている者だけが、目覚めのための長く苦しい努力の必要性を理解することができる。

一般的に言って、眠っている人を起こすには何が必要だろうか。それは適度なショックだ。しかし、熟睡時には1つのショックでは不十分だ。長期にわたる継続的ショックが必要となる。それに、誰かこのショックを監督する者がいる。私は前に、もし目覚めたいのなら自分を長時間ゆさぶり続けてくれる人を雇わなければならないと言った。。。機械的な手段で起こしてもらうこともできる。目覚まし時計を使うこともできるだろう。しかし問題は人間はたちどころに目覚まし時計に慣れてしまうので、すぐにそれが耳に入らなくなることだ。となるとたくさんの目覚まし時計が、しかも常に新しいやつが必要となる。。。目覚まし時計はねじを巻かなくてはならない。。。巻くためには覚えておかねばならず、覚えておくためにはたびたび起きなくてはならない。

。。。しかし時計をつくったり、巻いたり、とりかえたりするのを他人の助力なしに1人で全部やるなどほとんど考えられない。むしろ、彼が努力しはじめながらもしだいに眠りに落ちこみ、夢の中で目覚まし時計をつくったり、巻いたり、とりかえたりしながらますます深く眠りこむということの方がずっとありそうなことだ。

だから目覚めるためには種々の努力を結集することが必要だ。起こす人が必要であり、その人の世話をする者が必要であり、目覚まし時計をもつ必要があり、また常に新しいのをつくりだすことが必要なのだ。

しかしこれを全部実行して何らかの成果を得るには、何人かの人々が共同で働かなければならない。人間は1人では何1つすることができないのだ。。。もし何人かの人々が眠りに対してともに闘う決意をすれば、彼らは互いに起こしあうだろう。彼らのうち20人が眠りこんでしまっても、21人目の者が目覚めていて他の者を起こすということもよくある。つまりは目覚まし時計と全く同じことだ。ある者が1つの目覚まし時計をつくり、別の者が別のをつくれば交換も可能だ。全体的に見れば、彼らはお互いに非常に大きな助けになりうるし、またこの助けなしには、つまり1人では何も手に入れることはできない。だから、目覚めたいと思う者は意を同じくする人を捜し、一緒に働かなくてはならない。
---


明らかにグルジェフはコントロール・システムが仕組むダメージ・コントロール的要素に、そして、それがいかに素早く幻想という織物の裂け目に接近し、そこから噴き出す興奮を鎮めるかに気付いていた。私達は新しい目覚まし時計を発明し続けなければならないという彼の考えが明らかに指摘しているのは、彼の方法が作り直され、修正され、追加され、拡張されねばならないだろうということだった。人間の覚醒を加速したいという彼の望みこそが、彼の行った全ての事を支える原動力だったようであり、彼は自分のワークに何が起こることになるか気付いていたのだ。それは単に歪みのことを考えていただけではない;彼は進化し続けるコントロール・システムについて行けるよう、不断にワークが改革されねばならないと知っていたのである。

私達は目覚めを加速させることができるだろうか?

カシオペアンは、「イエス、それは可能だ」と述べた:


960714 / 960224
---
Q: (L) 自由意思を高めるようなツールはあるの?

A: ツールは必要ない。というのは、存在する全てが学びだからだ。学びのサイクルは変わりやすく、サイクルに沿った進歩は、出来事や環境が展開するに従って、それらによって決まる。

Q: (L) それじゃあ、催眠術にかかって外からコントロールされてる人は、これはさっき議論してた重要なテーマなんだけど、そういう人々はそれを止めることを学ぶまでは、催眠術にかかってコントロールされてるのね?

A: Yes.

Q: (L) それじゃあ、聖書の「豚小屋に住む放蕩息子」のアナロジーで言えば、人は十分味わうまで、そこでのたうち回り、苦しむことになるのね?

A: あなた方が自転車に乗るときのアナロジーで言うと:子どもに自転車の乗り方を教えるための、自転車に乗らないでも済むようなツールがあるかな?

Q: (MM) 知識を吸収することでは、自由意思を高められないのね?

A: そんなことはない!!できるとも!!

Q: (L) それじゃあつまり、知識と気付きによって、私達は自由意思を持っていることに気付くし、どのような行いが真に自由意思から出たものと言えるかに気付く。だから、嘘やごまかしと真実との違いを知ったり疑ったりするとき、人は自らの人生をコントロールできるような場所に立つことができるのかしら?

A: Yes. いいかい、あなた方は一旦「振動数が合えば」指数曲線的な増加量で学ぶんだ。これはつまり、あなた方が次第に、宇宙意識にアクセスできるようになるということを意味する。どうか、自分の高まり行く気付きを信頼することを学びなさい。ここに居る皆が進歩のサイクルのいずれかの点に居て、うち何人かは他の人よりもいくらか先を行っている。もし、あなた方が偏見無く適切にネットワーキングするならば、あなた方は皆、最後にはサイクルの同じ点に行き着くだろう。
---


「振動数が合う」とはどういう意味だろうか?ここで再び、「似たもの同士は惹かれ合う」という問題に戻ってみよう。


---
候補者がアデプト達に受け入れられるような徳と高潔さを育んだとき、アデプト達は彼の前に姿を現して、秘密のプロセスの、手助け無しには発見しえない部分を明かすであろう。

自らの知力によってはある点に到達できない者たちは、秘密を受け継ぐ資格を持たぬものだ。秘密は自らの意志、すなわち、自然の力に従うからである。
---


カシオペアン交信こそまさにこの「(アデプトの)出現」なのだ。このプロセスを最も良く示しているのは、ユージーン・カンスリエによる、フルカネリ錬金術の傑作『賢者の居所』第2版への序文である:


---
ラテン語の「獲得(adeptus)」という言葉通り、錬金術師はやがて「神の贈り物」、より適切には、「今という時=プレゼント(present)=贈り物」を受け取る。これは二重の意味合いにカバラ的な語呂合わせを施されているのだが、彼が無限に続く今に恵まれていることを強調するものだ。。。

硫黄(=魂の炎)の王国にある鏡の中に全世界を見ることができる。この鏡の中を見る者は誰でも、全世界の知恵の3つの部分(※961005)を見て学ぶことができる。
---


30年に亘り研究を重ね、さらに2年間実験に専念した末に、詳細を自叙伝『アメージング・グレース』に記したようにして、カシオペアンとの通信が始まった。

「私達は未来のあなた方である」と彼らは言った。「私達は、あなた方がカシオペアと呼ぶ位置にある開口部を『通じて』交信している。それは、カシオペアから並んで放射されている強い無線パルスが存在しているためで、というのも、あなた方の位置からだとカシオペアの300光年後ろに見える中性子星からパルサーが放射されているからだ。このお蔭で第6密度から第3密度へのクリアなチャネル送信が実現している」

この「神の贈り物」によって、私は鏡を覗くことができるようになったのだ。十分な気付きの状態にある、偏在する自分という視点から「全世界を見ることができる鏡」を。つまり、一部始終をふまえて言えば、カシオペアン送信は真の第4の道のワークなのであり、このワークにおいて第一にやらなければならないこととは、まさしくグルジェフが述べたようにネットワークすることであり、他人を教え訓練することなのである。


---
だから第4の道のスクールは、もくろまれた企てに関わるワークをやりとげるのに必要な場合にだけ存在する。教育や指導のためだけに独立してスクールとして存在することは絶対にない。
(同、484ページ)

第4の道では、いかなるワークにおいても機械的な助力は不要だ。第4の道で何をするにせよ、有益なのはただ意識的なワークだけだ。機械的な人間は意識的なワークをすることができないので、この種のワークを始める人の最初の課題は、意識的な助力者を獲得することだ。
---


という訳で、学び、進歩のサイクル上ずっと先を行く人々とネットワークして、しかもこれを偏見なしに行うならば、違いが生じてくるようなのである。

カシオペアンのワークの具体的な目的は何だろうか?ちょっと立ち止まってこれを考えてみよう:第1次世界大戦の初期に、ウスペンスキーはグルジェフに自らの推測を述べた。すなわち、戦争とは産業化時代における生活の当然の成り行きである、そこでは人間はより「機械化」されて、物事があまりにた易く手に入るため、考えることを止めてしまうのだと。グルジェフは答えた:


---
それよりもはるかに危険な機械化があるのだ。つまり、人間自身が機械になってしまうことだ。これまでに君は、あらゆる人間が、彼ら自身が、機械であると考えたことはないかね。。。彼らは完全に機械で、それ以外の何ものでもない。
(浅井訳39ページ)

。。。君は、自分の道を選ぶ、あるいは機械化に抵抗できる何かがあると思っている。つまり、すべてが等しく機械的であるとは思っていないのだ。
(同、40ページ)
---


ここでウスペンスキーは、とても論理的と思われる反論を提起した:「もちろんそうは考えません。絵画や詩や思想は全く種類の違う現象です」
(同40ページ)

グルジェフは答えた:
「いや、全く同じものだ。それらも他のものと同じように機械的だ。人間は機械であり、機械からは機械的な動き以外何も期待できない」
(同40ページ)
そしてこう続けた:


---
西洋文化の中にいる。。。『正確な知識』とあらゆる最新の研究方法とを身につけた教養あるヨーロッパ人には。。。いかなる可能性もなく、出口のない輪の中で動きまわっている。
(同90ページ。ただし、邦訳を見る限り、ウスペンスキーの言葉。)

そう、それは人々が進歩と文化を信じているからにほかならない。いかなる進歩もありはしないのだ。すべては、何千年、何万年以前と全く同じだ。外形は変わるが、本質は変わらない。人間は昔と全く同じだ。「文明化された」「教養ある」人々は、最も無知な野蛮人と全く同じ興味をもって生きているのだ。現代文明は、暴力と隷属と華やかな言葉に基づいている。(同90-91ページ)

君は何を期待しているのだね。人々は機械なのだ。機械は盲で無意識に決まっている。それ以外にありようがない。そして、彼らの行動はすべてその性質と関連している。すべてはただ起こるのだ。誰も、何もしはしない。本当の意味における「進歩」と「文明」は、意識的な努力の結果としてのみ現われうるのだ。それらは無意識的、機械的行動の結果としては出てきはしない。機械の中にいったいどんな意識的努力がありうるだろう。そして、もし1つの機械が無意識だとしたら、百の機械、千の機械、いや十万、百万の機械が無意識なのだ。そして百万の機械の無意識的な行為は、破壊と絶滅という結果に終わらざるをえない。
(同91-92ページ)

すべての悪は、まさに無意識、無意志的な行為の内にひそんでいるのだ。君たちはまだ、この悪がいかなる結果を生み出すか、理解どころか想像できないだろう。しかし、いつかは理解するときがくるだろう。
(同92ページ)
---


再び注意しておきたい:グルジェフは第1次大戦の始まりの時期に、かつて前例を見ないほどの戦争が始まろうとしている世紀の幕開けに、これを話していたのだ。そして今、ほぼ100年が経とうとしているが、人類は断崖絶壁の端に立ち、何がとどめとなって私達をどん底に突き落とすことになるかわからない。

ヴィルヘルム・ライヒ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92
はグルジェフとウスペンスキーが憂慮していたのと同じ問題について書いている:


---
数千年に亘り科学の、哲学の、あるいは宗教の体系を構築するうち、どうして人間はこうも頑なに道を踏み外し、破滅的な結末へと向かうものなのだろう?。。。

人間が過ちを犯すのは必然なのだろうか?それは合理的なのか?全ての誤りは合理的に説明可能な必然的なものなのか?人間の過ちのもとを調べてみると、いくつかのグループに分かれることが分かる:

自然に関する知識におけるギャップは人間の誤りの中でも広い領域を占める。解剖や伝染病に関する知識が知られる以前の医療過誤は必然的な誤りであった。だが我々は、動物解剖を行った最初の探究者達が犯した致命的な脅威もまた必然的な過ちであったかを問わねばならない。

地球が宇宙に固定されているという信仰は、自然法則に関する無知に根差した必然的な誤りだった。しかし、ジョルダーノ・ブルーノを火あぶりにして、ガリレオを投獄したのは同様に必然的な過ちだったであろうか?。。。

ある時点における人間の思考は一定の限界に達しうるのみであることを我々は理解している。我々が理解できないのは、どうして人間の知性がそこで停止してこう言わないのかということだ:「これが私の理解の現時点での限界だ。新しい眺めが開けるまで待つとしよう」これは理性的で、理解可能な、意図的な考え方であろう。。。

驚かされるのは、最初の合理性から不合理な幻想への突然の転換である。不合理さと幻想は、それらの表現である不寛容と残酷さによって明らかとなる。我々の観察では、人間の思考システムは現実に拘る限りは寛容さを示すものである。思考の過程が現実離れして行けば行くほど、そのような考えを存続させるには、より多くの不寛容と残酷さが必要となるのだ。
---
ヴィルヘルム・ライヒ 『エーテル、神、悪魔』


人類をこのような状態にした責任が誰あるいは何にあるのかは大きな問題である。とりわけ、人類の運命を導く慈悲深い神や慈悲深い天使達の位階の存在を仮定するなら尚更である。グルジェフはこの事について、以下のようにコメントしている(明瞭にするため編集している):
(※浅井氏の訳文は編集していません)


---
。。。創造の光は木の枝、生長する枝のようなものであることを思い出さなければならない。。。創造の光の生長は地球上の有機生命体に依存しているということだ。。。もし、有機生命体がその発展を、その進化をはばまれ、課せられた要求に応えることができなければ、同じことが、ただもっとゆっくりではあろうが起こるにちがいない。枝は枯れるだろう。このことは覚えておかなければならない。
(同472-473ページ)

創造の光、いやむしろ地球と月の間のその部分には、木の枝1つ1つに与えられてきたのと全く同じ発展と生長の可能性があった。しかし、この生長の達成には全然保証はない。それは、それ自身の組織の調和のとれた適正な活動次第なのだ。
(同473ページ)

地球上の有機生命体は、その中で各部分が互いに依存しあっている複雑な現象である。全体的な生長は「枝の先」が生長するという条件のもとでのみ可能なのだ。あるいは、もっと正確に言えば、有機生命体の中には進化しつつある組織があり、またその進化しつつある組織に食料や媒体として仕える組織があるのだ。そして進化している組織の中には、進化しつつある細胞と、その進化しつつある細胞に食料や媒体として仕える細胞がある。進化している細胞の1つ1つには、進化する部分とそれに食料を供給する部分とがある。しかし、進化は保証されているわけではないこと、それはただ可能性があるだけでいつでもまたどこでも止まりうることを、常にいかなることにおいても覚えておかねばならない。

有機生命体の進化する部分とは人類である。もし人類が進化しなければ、それは有機生命体の進化の停止を意味し、それはまた創造の光の生長が止まる原因にもなる。

それと同時に、もし人類が進化をやめたら、それは人類創造の目的という観点からすれば無用のものになり、その結果滅ぼされるかもしれない。そんなわけで、進化の停止は人類の滅亡を意味するかもしれないのだ。

私たちは、自分たちが惑星の進化のどの段階にいるのか、また、月と地球には有機生命体の相応する進化を待つ時間があるのかどうかを判断しうる鍵を何ももっていない。
(同474ページ)

同時に、人類の生活を歴史的に考察することによって、我々は人類が円環運動をしていることに気づかざるをえない。ある世紀にあらゆるものを破壊したかと思うと別の世紀には創造している。また過去百年間の機械的な事物における進歩は、おそらく人類にとって最も大切な多くのものの犠牲のうえに進められたのだ。

全体的に言えば、あらゆる点から見て人類は行きづまっており、この行きづまりからは下降と退化への1直線の道が続いていると考えられる、いや断言することができる。

行きづまるとはプロセスが平衡のとれた状態になったということだ。ある1つの性質が現われると、ただちにそれに敵対する別の性質がよびおこされる。1つの領域での知識の増大は別の領域での無知の増大を喚起し、一方での上品さは他方の粗野を生みだし、あるものに関する自由は他に関する隷属をひきおこし、ある迷信が消えたかと思うと別のものが現れて増大するといったあんばいだ。

一定の方向に進んでいる平衡のとれたプロセスは、変化が必要な瞬間にも変化することはできない。それはある「十字路」でのみ変えられ、新しい道を始めることができるのだ。「十字路」と「十字路」の中間では何もすることはできない。

それと同時に、もしプロセスが、「十字路」を通り過ぎるときに何も起こらず、また何も為されないならば、後では何もできず、プロセスは機械的な法則に従って進む。しかも、たとえこのプロセスに加わっている人々があらゆるものの不可避な滅亡を予見したとしても、何1つ為すことはできないだろう。

もう1度くり返すが、私が「十字路」と呼び、オクターヴの中では(ミとファ、シとドの間の)「インターヴァル」と呼んでいる一定の瞬間においてしか、何かを為すことはできないのだ。
(同475ページ)

進化のプロセス、人類全体にとって可能な進化は、個人に可能な進化のプロセスと完全に相似している。しかもそれは同じものから始まる。つまりある細胞群が徐々に意識的になることから始まるのだ。それからその細胞群は他の細胞をひきつけ、従属させ、そしてしだいに全有機体をその最初の細胞群の目的に仕えさせ、ただ食べ、飲み、眠るだけという状態から連れだすのだ。
(同476ページ)

人間においては個人においてと同様に、すべては意識的な核の形成から始まる。生のあらゆる機械的な力は、この人間の中の意識的な核の形成に抗して闘う。ちょうどすべての機械的な習慣、嗜好、弱点が意識的な自己想起に対して闘うように。

「人類の進化に対して闘う意識的な力があると考えることはできませんか」と私(ウスペンスキー)は聞いた。

G − ある観点から見ればそうも言える。

「この力はどこからくるのですか」と私(ウスペンスキー)は聞いた。

普通「退化」と「進化」と呼ばれる2つのプロセスがある。その違いは次の点にある。退化のプロセスは「絶対」から意識的に始まるが、次の段階ではもう機械的になり、しかも進むにつれてどんどん機械的になる。一方、進化のプロセスは半意識的に始まるが、進むにつれてどんどん意識的になる。
(同477ページ)

しかし退化のプロセスのある時点で、意識と、進化のプロセスに対する意識的な抵抗とが現われることもある。

この意識はどこからくるのだろう。

もちろん進化のプロセスからだ。進化のプロセスは中断せずに進行しなければならない。いかなる停止でも元のプロセスからの離脱をひきおこす。そのような発展途上で停止した意識のバラバラな断片は、結びつけることもでき、少なくともしばしの間は進化のプロセスと闘うことによって生き延びることもできる。しかし、結局それは進化のプロセスをもっと興味深いものにするだけだ。

機械的な力に対する闘いのかわりに、ある時点で、先程のかなり強力な意図的抵抗に対する闘いが起こることもあるが、もちろんその抵抗力は進化のプロセスを導く力とは比較にならない。

これらの抵抗力は時には勝ちさえするかもしれない。

なぜなら、進化を導く力には手段の選択範囲がより限られている、言いかえれば、ある手段、ある方法だけしか使うことができないからだ。抵抗する力は手段の選択範囲が限定されておらず、あらゆる手段、一時的な成功しか生み出さないような手段でも使うことができ、最終的な結果として進化、退化の両方を、今問題としている時点で破壊してしまうのだ。

たとえば、人間の生は意識を有する一群の人々によって支配されていると言うことができるだろうか?彼らはどこにいるのだろう?彼らは何者なのだろう?
(同478ページ)

我々はちょうど正反対のことを目にしている。つまり生は最も意識の低い人々、つまり、最も深く眠っている人々に支配されているのだ。

生において、最良で最強、最も勇気ある諸要素が優勢であるのを目にしていると言うことができるだろうか?

とんでもない。それどころか、あらゆる種類の粗野や愚かしさの優勢を目にしている。

また、単一性への、統一への熱望が我々の生の中に見てとれると言えるだろうか?

もちろん言えはしない。我々はただ新たな分裂、新たな敵対心、新たな誤解を見るばかりだ。

そういうわけで、人類の現況には、進化が進みつつあることを示すものは何1つない。

それどころか、人類を個人と比較してみるなら、本質を犠牲にして人格が、つまり人工的で真実でないものが生長していること、また、自然で真実なその人本来のものを犠牲にして外部からきたものが生長していることをきわめてはっきりと見ることができる。

これらとともに我々は自動性の増大を目にする。

現代文化は自動機械を必要としている。そして人々は獲得した自立の習慣を疑いの余地なく失い、自動人形に、機械の一部になりつつあるのだ。

これらすべてがどこまでいったら終わるのか、また出口はどこにあるのか、いやそれどころか終わりや出口があるかどうかさえ言うことはできない。1つだけ確かなことがある。人間の隷属状態は拡大しつづけているということだ。人間は喜んで奴隷になっているのだ。彼にはもう鎖はいらない。彼は奴隷であることを好み、誇りさえ感じているからだ。これこそ人間に起こりうる最もいとわしいことだ。
---

(続く)
posted by たカシー at 11:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。