2013年05月08日

ザ・ウェイブ 第25章:神の名前に囲まれて自然の中を散歩の道すがら、ヴァンパイアにインタビューし、宇宙卵を発見

http://cassiopaea.org/2010/05/18/the-wave-chapter-25-a-walk-in-nature-among-the-names-of-god-where-we-have-an-interview-with-the-vampire-and-discover-a-cosmic-egg/
ザ・ウェイブ 第25章:神の名前に囲まれて自然の中を散歩の道すがら、ヴァンパイアにインタビューし、宇宙卵を発見


ここで皆さんにお話ししておきたいことがある。メールを寄越してくれた皆さんもそうだろうが、私達のリアリティがこのようになっている理由が段々と分かって来る過程においては、こうしたリアリティの正体に対して極度の落胆や抵抗を示したくなる時期があるものである。リアリティを観察する結果として真実が絶えず明らかになって行こうとも、私達はマトリックスのような幻想の中でまどろみ、夢見ていたいものなのだ。以下の引用で、私が声を張り上げて吐露した落胆や当惑の気持ちを再現出来たらと思う。<>で括った部分はほとんど叫び声だった:


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http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=36130464&comm_id=2590126
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Q: (L) ただ、この状況にちょっと困惑してるだけ。だって、こうして私達が話してるあなた方は、未来の「私達」なんでしょ;私達が居る今の地球って、実に変な状態にあるじゃない;何やら大がかりな移行が進行中のようなんだけど、要するにこれって本質的にはどういうことなのかしら。どうして私達があなた方に話しかけてるの?どういうこと?

A: これは学びだ。未だ分からないかな?レッスンに次ぐレッスン。それが存在する全てだ。これには、計り知れないほどの価値がある。

Q: (L) Okay, 私達はそのレッスンを受けてるところなのね。あなた方は私たちに、何が起こりつつあるのか話してくれ、私たちは周りがそうなってるのが分かった。他の<数多く>の状況証拠からしても、全くあなた方の言う通りよね。他の調査でも同様の結論に達してるし。<ホントにいまいましいったらないわ。ひどい話!わかる?いまいましいったらないわよ!>

A: それはあなたの観方だ。

Q: (L) こないだクロエが電話で言ってたけど、私達は何に対して目覚めればいいの?一切の事態が進行していくのが<見える>よう、目覚めてさえいればいいの?

A: Yes.

Q: (L) Okay, 一度目覚めて事の次第が<分かった>んだから、その時点でどうしてこの世とおさらばできないの?脚本さえわかれば映画なんて観なくてもいいじゃないの!

A: だがそれでは経験のチャンスを逃してしまう。

Q: (L) それじゃあ私達みんな、ムシャムシャ、ボリボリとやられるためにここに居るって訳ね。。。

A: No.

Q: (L) 囚われ、コントロールされ、実験室のカゴの中のモルモット扱いされて。。。

A: エクスタシーだ、覚えているかな?

Q: (L) エクスタシーですって?!<まあ、素晴らしい!>私達<みんな火あぶりの刑だってのに!> <随分とエクスタシーを感じる>経験だこと!そりゃあ、ウィリアム・ウォレスが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AC%E3%82%B9
タマを抜かれ八つ裂きにされて、抉られたはらわたが目の前でコンロで焼かれるのを見たときは、さぞやエクスタシーを感じたに違いないわ!

A: あなたが前世で舗道に顔を打ち付けたのだって、そんなに昔のことではない。。。(原注1

Q: (L) あれがエクスタシーを感じる経験だったの?

A: Yes.

Q: (L) それじゃあ、あなた方の言う「エクスタシー」というのは、窓から身を投げてくたばることじゃないの?!未だ分からないの?ここでの見え方は第3密度なのよ!あなた方には舗道に打ち付ける顔なんて無いでしょうけどね!

A: あなた方にも/私達にも、ない/ないだろう。

Q: (A) キミたちは、知識が守ってくれるという。それは何から守ってくれるんだ?

A: 沢山の事。1つの例:変容後のトラウマと混乱。

Q: (L) じゃあ、知識が私たちを守ってくれるのは、変容後のトラウマと混乱からなのね。この第4密度への移行はトラウマになり、混乱させられるものだということじゃない。変容というのは、第3から第4密度へのものなの、それとも第3から第5密度、すなわち死のこと?

A: 両方。

Q: (L) それじゃあ、その際にショックやトラウマや混乱等々を受けなかった人は、より快調に先を続けられるのね?

A: Yes.

Q: (L) あなた方、「両方」って言ったわね。それって、死なないで直接第3から第4密度に移行することもあり得るってことよね?

A: Yes.

Q: (L) どんな気分なのかしら?それを経験するってどんな。。。

A: 鏡の国のアリス。

Q: (A) Okay, キミたちは、知識がトラウマや混乱から守ってくれるだろうと言うんだね。他方、全ては学びなんだから、トラウマだって学びなんだ。なぜ我々はその学びを回避するような努力をしなくちゃならないんだ?

A: キミの言う通り、トラウマもまた学びだ。だが、予知できていれば、学びも早くなり、また、違った角度からのものになる。

Q: (L) じゃあ、違った角度から学ぶ結果、移行の際の学びの必要性ないし、やり方あるいは、道のりが軽減されることになるの?

A: Yes. よりスムーズになる。
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原注1:これはドイツにおける私の「すぐ前の前世」のことを言っている。ナチスがユダヤ人の夫と子供達を私から収容所へと奪った後、私は飛び降り自殺したのである。詳しくは私の自伝『アメイジング・グレース』を参照されたい。
http://cassiopaea.org/2011/11/07/amazing-grace-acknowledgements-and-introduction/


大好きだった祖母が私にいつも言ったものだ。「賢い人は自分の失敗に学ぶ;天才は他人の失敗に学ぶ」と。(特別な学校でもあって、祖母はこうした賢明な諺の数々を学んだのであろうか?)だが彼女の言いたかったことこそまさに、ここで今取り上げていることなのだ。私達は他人の失敗のみならず、自らの失敗にも学ばねばならない。この大いなる財産を活かすよう、物事に心して掛からねばならないのだ。そして、もし「存在する一切が学び」ということなら、私達の周りの世界から、研究から、直接的な観察から、私達は何らかの原則を推察できるという風に考えないと理屈に合わないように思われる。

数多くのオカルトの教えは、人は自然を研究することによって、創造の秘密の全てを学ぶことができると述べる。錬金術師は、真理はありふれた風景の中に潜むと言う。前章で引用したようにネクサスセブンはこう考える。すなわち、私達は「人間と自然との関係をコード化できる超次元のシンボル的言語」を必要としている。「シンボルおよび儀式は、自然の要素や力をコード化し、小さな虫けらからずーっと上の方の天使や悪魔のようなETへと至る自然の生命プロセスをコード化するものだ」と。これに対する私の回答は、そこに書いたように、自然こそがまさにそのような言語であるというものだ。

唯一問題なのは、ただ自然について読んだり、庭を歩き回ったりするだけでは、自然に関する知識や理解を得ることはできないということである。考えなくてはならないのだ。


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http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26669132&comm_id=2590126
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A: 学びのプロセスをあまりに急いで知識を集めようというのは、立ち止まって足元の地面を確かめずに、坂道を駆け下りるようなものだと分かっただろう。道の割れ目にある金貨や宝石には気付かないものだ。
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学びのプロセスを大急ぎで進めることはできない。自然の偉大な秘密は常に私達の近くにあるのだ。自然の中に、神は数多くの顔で顕れている。自然は造物主の化体した器官なのだ。霊的な世界の探求を始める前に、物質界について可能な限り学ぶことが重要である。というのも、チティックが書いているように、「見えざる世界には無数の領域が存在しているが、それらのいくつかは、目に見える世界にある最もひどいジャングルよりもさらにもっと危険である」からだ。

物質界に関して学ぶとき、以前は不可解に思われていた霊的世界の多くの事が理解できよう。


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http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29090187&comm_id=2590126
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A: 全て存在するものはレッスンだ。これは1つの無限大の学校なんだ。何物も、他には存在する理由が無い。無生物でさえ、全てが「幻想」だと学ぶもの。誰しも心の中に、創造の全てを持っている。さあ、しばらく熟考してみなさい。個々の魂は皆強力で、やり方さえわかれば、あらゆる存在を創造することも破壊するもできる。あなた方と私達、そして、他の皆も、全ての存在を所有し合うことによって、相互に繋がっている。あなた方は、望み、住みさえすれば、代替的な宇宙を創造することができる。あなた方は皆、あなた方が住んでいる宇宙の複製なんだ。あなた方の心は、全ての存在するものを表している。あなた方がそのうちの幾つにアクセスできるか見るのは「楽しみ」だ。

Q: (L) 私達が幾つにアクセスできるか見るのが、誰の楽しみなのよ?

A: 皆の。チャレンジとは楽しいもの。あなたの心の限界はどこにあると思うかな?

Q: (L) どこ?

A: 私達があなたに聞いている。

Q: (L) 限界なんてないと思うわ。

A: 限界が無いんだとしたら、あなたの心と、他の全てとの違いは何かな?

Q: (L) うーん、全てが究極的には1つなんだとしたら、違いなんて無いんだと思うわ。

A: 正しい。2つのものに絶対的な限界が無いのなら、それらは正確には同じものだ。
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さて、カシオペアンズが「あなた方がそのうちの幾つにアクセスできるか見るのは楽しみだ」と言ったことに注意されたい。私達がアクセスしていると思われるのは、私達の心の中に存在する宇宙の創造的なパワーであり、デヴィッド・ボームが零点(ゼロ・ポイント)エネルギーと呼ぶものである。
(※D・ボーム『全体性と内蔵秩序』井上他訳、320ページ)
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00000861
しかし、楽しみについての控えめでささやかな、この発言はまた、何かとても大事なことを物語っている。ゲームをより面白くするような制約が存在しているということである。

一切の創造が神の挑まねばならないゲームないし挑戦であるという考え方は、ある人々にとっては全く不快なものであり、我々は誰しも、多様な挑戦の真っただ中に身を置いているのであってみれば、ユーモアを読み取るのが難しいのは明らかである。食べられる前にネコに弄ばれているとき、ネズミはユーモアを感じるだろうか?人類が数千年に亘って被って来た災難を、かくれんぼの宇宙試合と見做すのは途方もない冒涜だろうか?以下はきっと私の言わんとしている事の説明となるだろう:


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http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27958993&comm_id=2590126
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Q: (L) 黙示録にある666という数字の意味は何?

A: ビザ。

Q: (L) クレジットカードのこと?

A: Yes. クレジットだけじゃなくデビットもじゃないかな。

Q: (L) クレジットカードが、666で表わされる仕業なの?

A: Yes.

Q: (L) クレジットカードは全て処分すべきかしら?

A: あなた方次第。一体どうするつもりかな?世界はすぐに、クレジットカードやデビットカード無しでは何事もできなくなる。新しい、ビザのデビットカードについて聞いたことがないかな?これこそ、お金の将来の姿で、コントロールするのは、世界の銀行システム、即ちブラザーフッド、即ちトカゲ、即ち反キリストだ。

Q: (L) クレジットカードを持たなければ、このシステムに属さないでも済むの?

A: No. 選択の余地はない。従属するか、飢え死ぬかだ。

Q: (L) 自由意志はどうなるのよ?

A: ブラザーフッド、別名トカゲ、別名反キリストは、309,000年にわたって、自由意志に干渉してきた。私たちの変化が近づいてきて、連中も死に物狂いなんだ。

Q: (V) 私はこれまで、自分のためにならない事には反抗してきたの。それが私よ。このシステムに反抗することは可能なの?

A: 身体を離れたいのなら。

Q: (L) 身体を離れるって、死ぬ、くたばる、オダブツってこと?

A: Yes. 変化は騒動の後だ。辛抱しなさい。

Q: (L) 田舎に引っ越したいのよ。そういう生活を送れば、そのクレジット/デビットカード無しでもやっていけるんじゃないの?

A: No.

Q: (L) 連中は、世界のどこに居ようと、万民を万事コントロールできるような仕組みを築き上げようとしてるの?

A: Yes.

Q: (L) たとえガイアナに移って、熱帯雨林の中に丸太小屋を建て、誰の面倒にならないとしても、そんな事に巻き込まれるのかしら?

A: ローラ、あなたがどこに移ろうと、全面的なコントロールのためにトカゲ生命体が死に物狂いで攻勢をかけてくるのがわかるだろう。

Q: (L) 言いようがないくらい気が滅入るわねえ。分かるかしら?

A: どうして?その後には変化が来る。文献『地球30万年の夜明け』を参照しなさい。適切な観点から見るならば、チャレンジもエクスタシーとなるだろう。繰り返すが、これは第3密度の現実の視点からではない。分かったかな?

Q: (L) その参照文献には、火あぶりにされて、ジャンヌ・ダルクはエクスタシーを感じたと書いてあるのよ。
(※ここ
http://www.bibliotecapleyades.net/pleyades/esp_pleyades_14.htm
で検索する限り、ジャンヌ・ダルクは出てこないようです)
そう言いたいんでしょ?

A: そんなところだが、あなたは火あぶりになる必要はない。

Q: (L) ちょっと安心したわ。別の方法で死ぬのね。

A: あなたが死ぬとは言ってない、ローラ。いかに善意から出たものとは言え、第3レベルにしっかりと根を下ろした人達の言うことばかり聞いていると、そこで学んだ知識に足を取られる危険を冒すことになる。

Q: (L) 「チャレンジはエクスタシーになる」ってどういう意味?どんな類のチャレンジ?

A: 来るべき騒動をくぐりぬけて生きること。

Q: (L) 何冊かの本で読んだんだけど、田舎に引っ越して、グループを作り、食料を蓄えて云々、とアドバイスされてるわ。

A: ディスインフォメーション。そんなものは、これを最後に捨てなさい。第3レベルのガラクタ。

Q: (L) 入り込んで来ては意のままに食べ物を漁る連中のせいで、ホント、やりきれないわ。私達のサイドにも、チームを引っ張って、エネルギーか何か与えてくれる存在は居ないの?

A: 誰と話してると思ってるのかな?

Q: (L) あなた方は、私達が騒動を切り抜ける手助けをしてくれるの?

A: Yes. 尋ねさえすればいい。

Q: (L) 救いを断たれてもやっていけるかしら?

A: 救いを断たれたりしない。

Q: (L) ああ、ひどい目に遭いたくない!

A: ひどい目に遭う必要はない。第3レベルで考えるのはやめなさい。

Q: (L) 愛する人がひどい目に遭うのもいやだわ。痛い目に遭いたくない。もう沢山!

A: 今夜はドップリ第3レベルにはまりっぱなしだね。
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こんなやり取りをしていた私が相当やり切れず惨めな気持ちだったことは一目瞭然だろう。実際、大事な点を気に留められないくらい、自暴自棄になっていたのだ。上にあった2つの重要な発言に注意されたい:「その後には変化が来る」。そして、騒動を切り抜ける挑戦とは「エクスタシー」であろう、ということである。(原注2)


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原注
2:この1節は911の後では一層意味深いものがあるではないか?
(※本章の初稿は2000年9月4日に公表された模様。)
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生命には見てすぐ分かる物質世界以上のものがあると感じるのが、私達人間の本性上不可欠の部分であるらしい。私達は自分の人生が、神がプレイしている、運がものをいうゲームだとは考えたくない。だが私達に見えるのは、宗教的な、慈愛に満ちた神という観方とは真逆の、心無いランダムさである。

観察したところどうやら、物質的宇宙で唯一変わらない要素とは変化らしい。スーフィーが言うように、「毎日神は何か別の仕事に取り掛かる」のである。しかしこれまた観察により分かるのは、変化が連続的かつ進行的な様相を示し、人間意識により認識可能なパターンとして現れるということである。このようなパターンは、観察された瞬間の自然に固有の形をとる。これらは宇宙的存在の現在の状態の現れであり、そのような状態の性質および将来的な行方を饒舌に物語っている。これらの出来事はランダムに起きているように見えるが、カオス理論によれば、あるランダムさの数学的原理に従っているのだ。そしてまた、私達はシンクロニシティも経験するが、これから分かるのは、全ての物事は何らかの方法で互いにリンクしているということである。

18世紀アイスランドの神秘主義者であるヨン・ヨンソンは、「神は世界中の人間を駒にしてフォルクヤイリング(Forkjaering)で遊んでいる」と言った。フォルクヤイリング(Forkjaering)というのはサイコロ・ゲームである。後にアインシュタインは、宇宙を動かすにあたり「神はサイコロを振らない」と言った。思うに真実は2つの間のどこかにあるのだろう。私達はゲームの駒だが、一方でプレーヤーはある意味、私達自身なのだ。私達はゲームのルールを知らない限りは、駒なのである。駒として奉公する年季が明ければ、ようやく私達はプレーヤー席に着くことができる。

重要なのは、「適切な観点」から完全に第3密度を理解するには、自分という存在を第3密度的でない視点に立って見られるようにならなくてはならないということなのだ。イエスの「世にいながらも世に属していない」ようにすべきだという言葉はこのことを表している。
(※ヨハネによる福音書 / 17章 11-16節
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。)
カシオペアンズはこの点について繰り返し述べている:


960203
(※第9章に既出)
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A: 誰かがあなたのことを「夢に見」ないとあなたは存在しないだろう。

Q: (L) 誰が私を夢に見てるの?

A: あなたは文字通り、誰かのイマジネーションによる「想像の産物」に他ならないのだ!!!いいかな、「神」とは実際は創造された全ての存在、つまり全ての意識だ。これは創造された全ての存在が意識であるからで、逆もまた然りだ。
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960615
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Q: (L) それじゃあ、私達が知覚している「多数性」はどう説明するの?

A: 第3密度の知覚だ。

Q: (L) 問題はそれにアクセスして、ヴェールをはぎ取ることね。

A: そこが楽しい所だ。
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ハ、ハ、ハ!え、楽しくなんてない?ここで思い出されるのが『ローマ人への手紙』の1節である。これを読むとこちらまで怒りを感じたものだ!


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ローマの信徒への手紙 / 9章 14-21節

では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。
このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
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原注3(引用元の聖書の版について:略。
※なお、本サイトへの聖書の引用は断りのない限り、日本聖書協会「新共同訳」によります。)


もちろん、これはパウロが、自身の怒りに満ちた神学理論へと議論の方向を転じ、神の裁きおよび運命について大言壮語を始める部分である。だが彼が上で語っていることは、実際には当時普及していた神秘主義の教えに極めて似ており、それらはグノーシス主義やスーフィーの道に保存され展開されたものだった。話の続きはこれらの教えに見つかるのである。

だが、しばらく聖書に戻れば:過去何年も読んでいるうち、真に興味を覚え、その起源について考えさせられるような複数の章節に出くわした。1番目はもちろん、新約聖書の『ローマ人への手紙』からのもので、私はこれをしばしば引用したものだ。これは一般にパウロの書いたものとされるが、実際にコンピュータ分析が行われ、分析の結果、『ローマ人への手紙』の筆者が誰であれ、この人物はまた、2通の『コリント人への手紙』や『ガラテヤ人への手紙』の筆者でもあることが分かっている。これらの文書の内的証拠が示しているのは、これらの書かれたのが西暦紀元70年以前、おそらくは60年か40年ころですらあり得るということだ。つまり、これらが書かれたのは福音書よりも前だということである。

これらの手紙は、新約聖書に描かれている歴史上の人物としてのイエスに何ら言及していない。これらはイエスの両親、処女懐胎、現世で生活した時間や場所、ローマ人たちの前での裁判、エルサレムにおける処刑といった、イエスの物語における主だった特徴的事項について何1つ述べていないのであり、唯一の例外は、パウロがペテロを偽善者呼ばわりしていることぐらいなのだ。

ペテロによるイエスの否認のような事件が実際にあったのだとすれば、パウロがこれを取り上げて、「教会の礎石」を論難する際に利用したのは確実だろう。
(※マタイによる福音書 / 16章 18節
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 )
パウロがイエスの死について語る時、十字架に掛けられ引き渡されたとは繰り返すものの、イエスが殺されたとは言っていないのである。そして、古代の数多くのソースから、十字架に掛けられるというのは、木の十字架に釘撃たれて肉体的な意味で死ぬことではなくて、イニシエーション的出来事を意味していることが分かる。

キリスト教が起った時、ユダヤ教の諸書の中にはさらに古い時代のソースから大部分を「借用した」、知恵を伝える文献が相当含まれていたが、これらはユダヤ人たちが国家の体裁を整えていた時期に出くわしたものだった。沢山の文献はエジプトやバビロニアのソースに由来している。このような文献は、ヘブライ人の信仰に合うよう、頻繁に修正され解釈し直され、最近の調査によれば大部分は明らかに盗作と判明しているにも拘わらず、出所は彼らの神であるエホバないしヤハウェとされているのだ。かくして、聖書の記述の中には、古代の知恵を伝える文献からの多くの章節が顔を覗かせているのである。

面白いのは、知恵を伝える文献の多くが借用され、編集されているにも拘わらず、しばしば修正はごく僅かしかなされていないらしいことである。聖書の編纂に従事した人々はどうやら、文献を完全には理解していなかったか、それらが一般にとてもよく知られていたために、それらを完全に変えてしまうことができなかったものらしい。このため知恵を表わす章節が要約版となっておらず、神が天地を創造する前に創造した超自然的存在を、偶然にも体現していることがあるのだ。知恵ないし知識は、何度も「神の力の息吹き」と呼ばれている。
(※知恵の書 / 7章 25節
知恵は神の力の息吹、/全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、/汚れたものは何一つその中に入り込まない。 )
ソロモンの知恵の書の8章1節および9章4節には、「彼女は神の座の隣に座り、宇宙を維持し統べる者である」、「彼女は人間たちの間に住み、贈り物を授けようとやって来たが」殆どの人間から拒まれた、と書かれている。
(※知恵の書 / 8章 1節
知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、/慈しみ深くすべてをつかさどる。
知恵の書 / 9章 4節
あなたの王座の傍らにいる知恵をわたしに授け、/あなたの子らの中から/わたしを取り除かないでください。 )
うーん。礎の隅石の地位を追われた「マザー・ストーン」のことだろうか?

教養あるユダヤ人だったパウロは、知恵の伝統から強い影響を受けていた。パウロにとってのイエスは、「万物はこの主によって存在している」という知識のようなものだった。
(※コリントの信徒への手紙一 / 8章 6-7節
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。。。)
イエスが福音書に描かれているような歴史上の人物であるという風に初めから仮定してかからなければ、パウロの書いた中にはイエスがそのような人物だったという記述は殆ど見られない一方、「十字架に掛けられたキリスト」という表現について、別の説明を考える拠り所となる記述は多い。とは言うものの、ここでの私達の目的は単に、パウロの時代に、知恵を伝える文献が存在していたと指摘することであり、彼はどうやら口癖のようにそれについて思いを巡らし、自分の結論付けに役立つよう、そこから意味を引き出していたようである。こうした点を念頭に置きつつ、他にパウロが言っている事を見てみよう:


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ローマの信徒への手紙 / 1章 19-20節

なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
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この言明はイブン・アラビーの以下のものにとても良く似ており、両者は同じ古代のソースからから採られたと考えずに居れない程である。


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全ての被造物は神の言葉(kalima)である。『たとえ地上の木がすべてペンであり、また海がインクで更に7つの海を添えたとしても、アッラーの御言葉を書き尽くすことはできない。』(クルアーン第31章 〔ルクマーン〕27節)
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神を、彼の名前を、彼の行いを記録したものは何も存在しない。

既に述べたように、盗作された神話、神話化された歴史、すっかりでっち上げられた系図のあちこちに散らばっているものの、知恵を伝える文献の多くは、旧約聖書の中に保存されている。詩編の多くは、その頃既にあったエジプトの歌や詩であることが分かって来た:


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詩編 / 19編 1-4節

【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。
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コヘレトの言葉 / 3章

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。。。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。。。
今あることは既にあったこと/これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。。。
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これらの章節は、超古代のソースを反映しており、私達に大いなる真実を明かしてくれる:自然や自然のサイクルは私達に、神の顔と名前を明かすものだ。神は多くの顔を持つが、それらの全てがじっと見ていて心地よいものではない。

私達の周りを取り囲む自然界には、不思議な事、恐ろしい事が一杯ある。山々は隆起だけで出来たのではなく、同時にまた、氷河と川とによって浸食されたのである。川は流れが詰まるとコースを変える。湖は堆積物で一杯になると、沼地になり、最後は草原になる。このような変化に適応して生き残れる生物も居れば、そうでないものも居る。最も高い山々から最も低い谷に至る迄、灼熱の地から寒冷の地に至る迄、海の上でもその中でも、地球の殆ど隅々に至る迄、数多くの植物と動物が共存関係にある。殆どの場合、この共存関係という言葉が真に意味するのは、彼らは互いに食べ合っているということだ。

最も深い海底には、夥しい数のチューブワームが居て、バクテリアを食べているが、このバクテリアは地球の火山活動から排出される化学物質を食べている。高山の頂は、地上で最も激しい風と致死的な寒さのせいで生き残れる者が居ない場所だが、そこにも藻類と菌類との共生体である地衣類が居る。菌類は酸を作り出し、これが岩の表面を食刻する結果、彼らのコロニーは滑らかな表面にも付着できるのであり、この酸はまた、鉱物を溶かして藻類が吸収できるような化学的組成にする。菌類はコロニーのためにスポンジ質の骨組みを提供するが、これが空中から水分を吸収する。藻類は太陽光の助けを借りて、岩の無機質、水、そして大気中の二酸化炭素を合成して、自らも、そして菌類も摂取できるような食料物質を作り出す。どちらの植物も別々に繁殖し、次の世代は再び密通関係を回復させねばならない。しかし、協力関係は対等ではない。時として、地衣中の菌糸が藻細胞に巻き付いてこれを食べてしまうことがある。藻類の方は、菌類と別々でも、独立して生きて行ける;だが、菌類の方は藻類なしでは生きて行けない。菌類は藻類を奴隷として使うことで、さもなければ利用できない荒涼たる地域の植民地化を可能としたかのようである。


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ヒマラヤやアンデス、アルプスや南極の山などで、雪原が切った西瓜のようにピンク色にそまったところがある。。。顕微鏡で見るならば、水の粒にまじって、赤い色の原因となっているもの、無数の小さな単細胞の生物が発見できる。これも藻類である。藻にはそれぞれ光合成をおこなう緑色の粒子がはいっているが、赤い色素が細胞内に浸みわたり、その緑色をおおい隠している。たぶん、雪めがねが人の目を保護するのと同じように、赤い色が有害な紫外線をのぞいて、藻類の体をまもっているに違いない。

この単細胞の藻類には、生活環の一定の段階で、小さな鞭毛が生える。彼らはそれを使って雪のなかを動き、成長にいちばん適した日射量が得られる雪面のすぐ下へいく。そこならば、雪そのものによって風から守ってもらえるし、温度も外に比べると、命とりになるほど低くない。。。

この小さな植物たちは太陽の光と雪のなかで分解されるわずかな養分しか外界から取りいれていない。他の生きものを食べることもなければ、何かに食べられることもない。周囲の世界を変えることもほとんどなく、せいぜい雪を赤くそめるぐらいである。彼らはただ存在することによって、生命はいかに単純な段階にあろうとも、明らかに、自分自身のためにのみ生まれるという感動的な事実を示している。(原注4)
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原注
4:『生きものたちの地球』デイビッド・アッテンボロー/著 天野 隆司/訳 野中 浩一/訳
日本放送出版協会、42-43ページ


地球上でも最も過酷な状況のいくつかにおいても生命が存在しているという、これらの例は、私達のリアリティの1コマを描き出しているのみならず、私達自身が存在する状況に関する大いなる真実を表わしても居る。凍りついたツンドラから煮えたぎる沼地、灼熱の砂漠からうだる暑さのジャングルに至る、あらゆる状況の下で、あらゆる種類の被造物が生きているのである。これらはいずれも、個々に、そして集合的に、人間同様、神の名前の基本的な本質を表現しているのだ。

アフリカの壮大なセレンゲッティ平原には、数多くの種類の動物たちの群れが見られる。アニメーション映画『ライオン・キング』をご覧になった方はご存じだろうが、そこに出て来る「命の環」は、私達の自然界に存在する諸力が競い合う様をカラフルに描いたものだ。壮大な群れを成して平原の風景を横切って行く象、アンテロープ、キリン、シマウマたちは、植物を食べながら移動して行く。平原にはライオンとチーター、川にはワニが居て、ディナーにありつこうと、アンテロープ、シマウマ、キリンの群れの中の幼く、か弱い者たちが群れを離れるのを待ち構えている。さらにはハイエナやハゲワシが居て、捕食者たちのご馳走の残りを食べるのだ。ジャングルには巨大なヘビその他、驚くほど様々な捕食者たちが、同じく様々な餌と共に棲んでいる。そこにはまた膨大な取り合わせの植物が生えており、その多くが、幾つかの被造物の食べ物となって居る。

私の家の裏の質素な庭にも、鳥やトカゲ、昆虫、それにあらゆる種類の植物が生きている。トカゲは昆虫を食べ、今度は鳥がトカゲを食べる。美しいが危険なトゲを持つバラは、ミミズが枯れた植物を有用な栄養物に変えることで出来た堆肥の混ざった土で育つ。コガネムシの幼虫である地虫やオケラも居て、何のことはない、私が丹精込めて育て手入れしている植物を台無しにしようとしているようである。晩になるとコウモリと蚊が大勢出て来て、(ありがたいことに)前者は後者を捕食し、夜香木も花開いて、大好物の花蜜に寄って来た、夜行性のある種の蛾を食べるのだ。

地球は地軸を中心に回転して冷えた夜をもたらし、陽光世界の住人達に安息を与える。夜はまた、出現してくる夜行性生物が食料を求める、シャイないしは邪悪な襲撃にうってつけの環境をもたらす。

地軸の周りを回転する地球は、よたよたと太陽の周りを回る。太陽は遅れまいとする全惑星を、銀河の軌道上で引き回す。道連れの惑星たちは地球上の生命体に対して重要な影響を及ぼすようであるが、特に地球の衛星である月の影響は大きい。それだけでなく、これらは季節という足跡を残す。そして知恵を伝える文献によれば、天体は「知識を紡ぎ出す」。

春になると、私は日に8時間かけて庭の手入れをする;夏が来ると私はリラックスして努力の成果が育ち花開くのを眺める;秋に私は枯れた1年生植物を引き抜き、育ち過ぎた多年生植物を剪定する;冬には全てが休息し、続く春の活動に備えて英気を養う。そして新たなサイクルが始まるのである。サイクルの中のサイクル;生まれ、育ち、成熟し、繁殖して、衰え、死を迎える。万物にとって季節が存在する。

さて、宇宙に高性能望遠鏡を据えて地球を観察しているとしよう。この望遠鏡を使えば地球上のどんな場所でも細部に至るまでクローズアップして見ることが出来るのだが、音は全く聞こえない。ただ見えるだけだ。生物学で教わる原則など忘れなさい。生き物の振る舞いのあるべき姿については忘れるのだ。さて、何が見えるだろうか?

最初に気付くのは、この惑星の表面が活動に満ちているということだ。これには地下や海中深くのエリアも含まれる。惑星表面での活動とは、様々な形や大きさをした膨大な数の生き物が、環をなして互いを食べることに精を出すというものである。

さらに気付くのは、このような生物の、ある類全体が本質的に動かないということ;捕食されることから逃れられないということだ。実際彼らは食べられることに全く異議が無いように見える。逃げ出せるものなら、おそらくそうするだろうが、それは出来ない。だから異議が無いようにしか見えないのだろう。だが実のところ、このような不動の生き物(植物と呼ぼう)は、食べられるという事実を都合よく利用しているのだ。食べられることによって彼らは、さもなければ自力では住むことのできないような遠隔地にも増殖して行くことが可能なのである。

しかし他の全ての生き物は明らかに食べられるのを嫌がっている。彼らは食べられぬよう多大な努力を繰り返す。

今ではおそらくあなたも、この星はゾッとするような環境であり、救われる見込みがあるどころか、恐ろしく危険な所であるとの判定を下したことだろう!もう私達は自然から学んでいるのだ。

それでもなお、この状況を別の方向から検討してみると、多くの生物は形の上でも行動においても、基本的に似通っており、彼らはおそらく何か共通のものを持っているらしいことに気付かれるだろう。考えてみると、この共通のものとは、食べ物を消化し変換させる機能のようである。この食物変換のプロセスは繁殖に向けてのものらしい。生物がこの目的を達するとき、有機体は衰え始め、死ぬ。だが、この死は生物の全構成要素における生命の停止ではない。というのも、動物であれ植物であれ、彼らは他の生命体に吸収され、新しい命へとリサイクルされるからだ。

だがもっと考えてみると分かるのは、食物を吸収し変換させることが出来ないと考えられるものですら、サイクルの一部を成しているということである。無機質のようなものもサイクルの一部を成すことで、様々な科学反応を経るプロセスに参加しているのだ。

だからおそらく、私達の求める原理はより深いもの:反応という機能の原理なのである。生命現象は反応の現象である。

だが反応する、すなわち生命を保つには、行動および行動への抵抗がなくてはならない。

行動+抵抗=反応/生命。自然から他にもまた学ぶことが出来た。2つの基本的な力があれば第3の力が生まれるだろう。

そこで考えてみよう。私達が観察している多くの生き物はいずれも、構造的にはごく単純なものを共通の起源としている。考えてみれば彼らはただ1つの起源から現れたのではなく、膨大な時間をかけて姿を変えてきたのである。かくして私達は、このような際限のないプロセスはなぜどうやって起こって来たのだろうかという重要な疑問を抱く。

もちろん一般的な意味において、どうやってという方の問題を理解するのはたやすい:全ての変化は生殖によって起こるのである。私達の観察しているこれらの生き物は、永遠の命を持っている訳ではなく、ライフサイクルのなるべく早い段階で生殖を始める。

さて、静的で安定した環境においては、どの親子も瓜二つだろうと思われる。彼らは自分のコピーを複製し、それは種の誕生から滅亡まで同じ姿だろう。だが他の事情も考慮しなくてはならない。地球には絶えず様々な宇宙線が降り注いでおり、これが、子孫が親に似る度合いを決める「青写真」である遺伝コードに影響を及ぼすのだ。時としてこのような青写真は、何らかの方向に変化する。このような変造コピーの多くは生き残れない。実際殆どはダメだろう。だが時としてこれらの1つが生き残り、繁殖する。時には変造コピーの方が、オリジナルよりも優れた特徴を備えることもある。このような個体は自己複製するだけでなく、繁栄するのだ。

ここに、ある特定のパターンが生まれたのが分かる:天敵があろうとなかろうと、生物種のシステムはヴァリエーションを持つことで、生と死という恐るべき地球規模でのゲームにおける競争を生き残ることができるのだ。危険はどこにでもあり、最も精力的で適応性のある種のみが生き残るのは明らかである。これは自然が教えてくれるもう1つの重要なルールである。

しばしば良いカモだと思われている生物の多くは、危害を避けるのに役立つ精巧な感覚器官を備えている。捕食者の多くは、歯や爪のような、恐ろしく効果的な破壊のための器官を持っている。

自然を見るとき感じるのは、このような悲惨な見通しである。それではどのように考えるべきであろうか?これは心を持たない惨酷さか?それとも、別の存在レベルからの意図的な働きかけだろうか?

これは、私達の霊性とは何の関わりも無い、罪深い自然界のことだと考えるべきだろうか?私達はこれを「変え」、あるいは「引き揚げ」、あるいは「霊化」すべきなのだろうか?そうすれば、このようなゾッとする、食い食われるというやり方は全て廃棄され、あるいは獅子が子羊と共に伏す至福の園へと変化して、皆でモグモグと食べることができるのだ。ええと、何を?

自然がこんな恐ろしい状況をしているのは誤りだろうか?アダムとイヴの犯した罪の結果だろうか?

それとも、括目して見るべき偉大な真理がそこにはあるのだろうか?

自然の秘密はそこにあって誰でも見ることができる。自然はそれ自身の先生なのだ。彼女は内なる秘儀を、ブドウ園を探して働く人々にイニシエーションして示す。最も体に良いハーブですら、その効力についての知識を欠くならば、危険な毒に変わり得るのだ。飛んで火に入るのが蛾の本性である。と言うのも蛾には、炎の持つ作用についての知識が欠けているからだ。巣をかけるのが蜘蛛の本性である。食べる前にネズミに地獄を味あわせるのがネコの本性である。自分達の幼生を食べるのがある生き物たちの本性である。番った後に相手を食べるのが、クロゴケグモやカマキリの本性である。

イエズス会士でエクソシストであったマラカイ・マーチンは『悪魔の人質』(大熊栄訳、集英社は未参照)に書いている:
http://blog.goo.ne.jp/umekou_2004/e/48d9e032dd6fa2be3b7bca091bc3a42e
http://www.fuchu.or.jp/~d-logic/jp/books/hostage.html
「鳥は翼があるから飛ぶのではなく、飛ぶために翼を持っているのだ」。つまり、鳥は「鳥であること」の化体したものである。「鳥であること」には飛ぶこと、そして多くの種においてさえずることが含まれる。

さらに幾らか突っ込んで考えてみると、番った後で相手を殺して食べてしまうクロゴケグモとは、その時点での名前の組み合わせが化体したものと考えることができよう。<破壊者>、<殺害者>、<貪り食う者>、<むごい>という言葉が思い浮かぶ。同じ名前が、食べる前にネズミに地獄を味あわせるネコにも当てはまる。しかし、ネズミをいたぶっていないときのネコは、他の名前すなわち概念を化体している。ネコは<無想家>、<敏感な>、<高慢な>、その他多くの事を体現している。同じことは多くの生物にも当てはまるが、それらの類の各々には、彼らに排他的に当てはまる、何らかの本質的な霊的概念があるものと考えられるかも知れない。だが彼らは身体的な本性において、基本的に貪り食う者であり殺害者なのだ。

個々の、また集合的な人間も、特定の諸概念が化体したものである。実際彼らは、自然界に見られる全ての物が化体しているとだと言えるかも知れない。


990710
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=68152070&comm_id=2590126
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Q: (L) 質問なんだけど、このようなシャーマンの活動の中で、ほとんど普遍的に目にされるものの出所と本質は何かってことよ;トカゲや鳥の頭をした連中等々といった様々な生き物のね?このような幻覚の出所は何なのかしら?このような化学物質で誘発したトランス状態では、どうして皆共通して鳥の頭をしたものや、ヘビのような生き物を見る体験をしてるの?

A: 肉体に留まっている限り、あなた方の身体のいくらかの部分が、そのルーツへのつながりを保っている。

Q: (L) つまり、人間はレプティリアンの遺伝子を持っていると言う人々は正しいってこと? 私達、レプティリアン遺伝子を持ってるの?

A: Yes.

Q: (L) 鳥の遺伝子も?

A: Yes.

Q: (L) それが、私達の身体のつながりというか、土台なの?

A: Yes, 第3密度の遺伝子組み換え生命体として、あなた方は物理領域であなた方を取り巻いている、寄せ集めのパレードを率いている。
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これなら手掛かりはある。物質領域で私達の周りを取り巻いているものを研究することで、私達は自分達自身、私達のリアリティ、私達の密度、そして私達の環境に対する適切な反応について、多くの事を学ぶことができるのだ。だがそれは、私達がとっている外側の構造の観察だけではない;それは物の内的性質つまり概念(idea)の発見なのだ。プラトンのいわゆる物のイデアは、カント等の哲学体系ではヌーメナ(noumena)と呼ばれた。カント哲学においてこれは、「感覚の助けを借りずに知的直観によって到達された対象物」を意味する。それは物の本質、心から独立した、物自体なのだ。

以前述べたようにスーフィーは、操作基盤としてイスラム教を用いつつ、包括原理とでもいうべきものに言及している。スーフィーは性質や本質のことを神の名前と呼ぶ。かくして名前とは、原理ないし機能となる。このような名前としては、<生きている>、<知っている>、<生を与える者>、<殺害者>、<強力な>、<弱い>、<寛大な>、<執念深い>、<慈悲>、<同情>等々がある。

さて、これについて考える際に重要な事は、これらの名前は一種の本質的な卓越さに従って並べられるということだ。つまり、最も高貴な名前は、最も広い具体的リアリティ、すなわち相対的関係性を表すのである。だからといって、そのようなものは他よりも価値が高いという意味ではない。宇宙の枠組みにおいては、天才と阿呆は同じくらい価値がある。同様に、蛆虫だってクジャクと同じくらい価値があるのだ。一切が神の要素から出来ているのであり、それゆえ、万物はこの点で等しいのである。

だが、これはよく考えてみると、カシオペアンの言う密度、すなわち相対的関係性のコンセプトに似ている。例えば、<父親であること>および<息子であること>という名前は、息子は父親によって生を受けたという関係に基いている。この意味で、父親と息子のいずれか一方がより重要であるということはないのであり、息子の元型は父親の元型から見て相対的に子孫の側に位置するというだけのことなのだ。

名前の関係性は、神と宇宙、そして、スーフィーによれば;聖なるもののリアリティを顕現させる名前とを区別する。すなわち、名前あるいは顔とは、聖なる創造の力が存在へと押し出す際に用いられる鋳型のようなものであり、この押し出しのプロセスに続くのが原理と機能の混和で、この結果、大いなる多様性を持った被造物が生まれるのである。このような名前のいくつかは、他のものよりも、より包括的なつながりを持っており、いくつかは他を利用し;いくつかは反対のものであり、それらは全てバランスを保つようにして起こるという。

例えば:<生きている>という名前は、全ての名前が存在するための必須条件を指し、ゆえに、段階の頂点に位置する。全てを包括するのである。さらにスーフィーは次なる前提へと進む。知識は<生きている>から生まれ、それは他の全ての名前に対する気付きをそれ自体の存在の内に備わっているものとして含んでいる。知識は、全てを包括する原理として、一切についての知識を必要とするのだ。

また知っての通り、<知る>という名前についての知識は、<力のある>ないし<願う>という名前よりも包括的なつながりを持ち、その範囲は途方もない。というのも、これらの名前は<知る>よりも、つながりが包括的でないからである。これらは<知る>にとっての門番のようなものだ。これと似た状況も見られる。すなわち、<聞く>、<見る>、<ありがたい>、<温情>、<同情>その他類似の名前は、つながりが包括的でない。これらは全て、<知る>よりも低い地位を占めるのである。

スーフィーの神の名前というコンセプトについて考え、存在する、ありとあらゆるものはその名前の内に本性が顕れていると仮定するとき、私達のリアリティに関して理解すべきことが分かって来る。私達は個々のものをふさわしい位置に置くことを学ばねばならない、とスーフィーは言う。これはつまり、私達は個々のものを名付けられるように、それぞれの位置から学ばなくてはならないことを意味する。

ウンベルト・エーコは『完全言語の探求』の中で述べている:


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(邦訳書29ページ)
まず最初に神が言葉を発する。神は、天と地を創造するにあたって、「光よ、あれ」と言う。この神の言葉が発されてはじめて「光はできた」(創世記1章第3-4節)。創造は言葉が発されることによってなされる。神が順次創造していく事物は、神に名づけられることによってのみ、存在の地位をさずけられる。「神は光を<昼>と呼び、闇を<夜>と呼ばれた。。。そして空を<天>と呼ばれた」。

神である主は、『創世記』2章第16-17節において、はじめて人[アダム]に語りかける。そして、地上の楽園のあらゆる財物をかれの思いのままにさせるが、善悪の知識の木の実だけは食べてはならないと命じる。神がどのような言語でアダムに語るのかはあきらかでない。たいていの伝承では、それは1種の内的啓示による言語であると考えられている。神は、聖書の他の箇所でもそうであるように、雷鳴とか稲妻といったような大気現象によってみずからの意思を表明するのである。。。

(30ページ)
ここにいたって、しかもここにいたってはじめて(2章19節以下)、神は「さらに上から、あらゆる野の獣とあらゆる天の鳥を造り、人[アダム]のところへ連れてきて、人がそれらにどんな名をつけるかを見ようとされた。人がそれぞれの生き物につける名は、すべてそのまま、その名となった」。このくだりをめぐる解釈はきわめて微妙である。他の宗教や神話にも共通して見られるように、ここで<立法者(ノモテテース)>のテーマ、すなわち、言語の最初の創造者のテーマが立てられていることはたしかである。しかし、なにを根拠にしてアダムが動物たちに名をつけたのかはあきらかでない。いずれにしても、ヨーロッパ文化が形成されるもととなったウルガタ聖書[聖ヒエロニムスが405年ごろ完成したラテン語訳聖書。ローマ・カトリック教会の公認聖書]は、この点についてのあいまいさを払拭するようなことはなにもしていない。というのも、ウルガタ聖書は、アダムは様々な動物を「それぞれの名で」(nominibus suis)呼んだと付言しているが、「それぞれの名で」と言い換えてみてもなにも解決したことにはならないからである。それは、それぞれの動物に言語外のなんらかの権利にしたがって帰属する名でもってアダムが動物たちを呼んだということなのであろうか。それとも、今日わたしたちが(アダムのさだめた規約にもとづいて)それぞれの動物たちに帰属させている名でもって呼んだということなのであろうか。アダムのあたえた名は、どれも、それぞれの動物がその自然本性からしてもってしかるべきであった名なのであろうか。それとも<立法者>が、恣意的に、みずから規約をさだめることによって(ad placitum)、それぞれの動物にあたえた名なのであろうか。

(31ページ)
『創世記』の2章23節に進もう。そこでアダムははじめてエヴァを見る。この場所でアダムはつぎのようにのべている(アダムの言葉が聖書にとりあげられるのはこれが最初である)。「このたびのものは、わたしの骨からとられた骨、わたしの肉からとられた肉だ。これにウィラーゴ(virago)[女][ウルガタ聖書は、ヘブライ語で「男」を意味する「イシュ」の女性形「イシャ」をこう訳している]という名をつけよう」(ちなみに、ラテン語で「男」はvirである)。『創世記』3章20節でアダムが自分の妻をエヴァと呼んでいること、その名が「生命」、すなわち、すべての生けるものの母を意味することを考慮するならば、これらの名称法は2つともけっして恣意的なものではなく、2つとも「正しい」名であることがわかる。
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※上村・広石訳による。


聖書以前の神話では、アダムは大地の女神が彼女の土から創造し、彼女の血によって命を与えられたとされている事は措くとしても、エーコ博士が指摘しているように、立法者(ノモテテース)の問題は、他の宗教や神話にも共通のテーマである。それにしても、その後に出て来るバベルの塔での問題が、言語の混乱であることを考えると、名前や言葉が、心に浮かび続けては私達に大事な何かを思い出させる、重要なモチーフであることが分かる。

名前や言葉が人にパワーを与える何かであるというテーマが聖書で再び取り上げられるのは、ノアの洪水の後、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(創世記 / 11章 1節) というくだりにおいてである。この時人類は、塔を建てることに決めた。引用すると:


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彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
(創世記 / 11章 4節)
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さて、実に興味深い事に、私達が論じているまさにその考えがここにはっきりと認められるのである。「さあ、有名になろう」(※英訳聖書の直訳だと「さあ、私達自身に名前を付けよう」となる。)。次に起こるのは実に興味深いことである。


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主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
(創世記 / 11章 5-7節)
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さて、ここでは一体何が起こったのだろうか?容易に分かるのは、話し言葉のバリエーションという意味では、これは言語に関係していないということである。というのも、創世記 / 10章5節、20節、31節に、洪水後、ノアの子孫たちは散り散りになっていたと書かれているからである:「。。。それぞれの地に、その言語に従って。。。氏族、言語、地域、民族に従って住むようになった。。。」云々と。
(※創世記 / 10章 5節
海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。
20節
これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたハムの子孫である。
31節
これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である。 )

ということでまたしても私達の前に提示されているのは、実に巧妙な説であり、要注意である。話し言葉の混乱を悲劇であり、神の呪いであるとする物語が伝統的に注目されてきたのであろうか?人間の言語が、ノアの洪水後には既に数えきれない程になっていたのなら、どうしてこの言語の混乱の物語が、人類に対する呪いの寓話として存在しているのだろうか?


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バベルBa-Bel(神の門)とは、バビロニアの天界に至る山、つまりジグラット(聖塔、周囲に階段のあるピラミッド型の寺院)であった。神が空から至聖に降り立った場所でもある。至聖とは、神が、大地母神と交合するとき、その生殖器が置かれる場所である。

バビロニアの有名な「つり庭」(空中庭園)は、そのジグラットの階段のうち7つの階段をしめ、ヒンドゥー教の神々の楽園に似せた楽園になっていた。「世界を7つに区分し、それぞれに7つの都市と7つの神の宮居が建てられ、緑の森とせせらぎに囲まれ、7つの円を成し、下から上へと順に重なっていった」

ネブカドネザルが復元したジグラットは、世界を7つの中心円形に区分した神殿であった。。。

バベル神話は、インド・メキシコを含めて世界のいたるところで見られる。ギリシアでは、山々を積み重ね天界に至ろうとした巨人たちの神話がある。ヒンドゥー教では、それは塔でなく大きな木で天界に達し、そのためブラフマーの怒りに触れて枝を切り落とされてしまった。斬りおとされた枝はそれぞれの木になり人類は、その木から別々の言葉をもらった。
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『神話・伝承事典:失われた女神たちの復権』バーバラ・ウォーカー/著 山下 主一郎/〔ほか〕共訳
http://d.hatena.ne.jp/mminazuki/20060225


本件に関しては既にカシオペアンからの手掛かりを明かしたことがある。だがもう1度、理解に役立つような何かが見つからないか、見てみるとしよう:


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http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27760103&comm_id=2590126
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Q: (L) ノアの洪水の100年ほど後に起こったという、言語の混乱あるいはバベルの塔として旧約聖書に書かれている出来事って何?

A: 霊的合流。

Q: (L) その塔を建てようと人々が集まったのは、どんな目的からだったの?

A: 全ての重力波を電磁気的に集中させる。

Q: (L) そうやって波を集中させて彼らは何をしたかったの?

A: 集団的な心の変性。

Q: (L) 集団的に心を変性させようとした意図は?

A: 集団の霊的統合。

Q: (L) バベルの塔を建てて統合しようとしていた人々を見下し、彼らの労作を破壊することに決めた「神々」とは誰だったの?

A: トカゲ。
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人類が「断片化された魂ユニット」であることは第3章で既に述べたが、今こそ分かった。聖書で述べられている、自分達自身に本来の名前を付けるというのは、集団の霊的統合と何か関係がある。おそらく、その魂ユニットのメンバーの再集結を意味するのであろう。

また私達には、この行動がコントロール・システムに受け入れられなかったという手掛かりもある。というのも、聖書に次のようにはっきり書かれているからだ:


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(主は)言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」
(創世記 / 11章 6節)
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この1節がカシオペアンによる出来事の解釈を相当程度裏付けることは措いても、これは考慮すべき他の可能性も示唆する。すなわち、霊的統合を成し遂げれば、「彼ら(人類)が何を企てても、妨げることはできない」のである。

何ということだろう!

だが、このバベルの塔というものについては、もう1つ注意すべき事がある:カシオペアンズが、バべルの塔は「全ての重力波を電磁気的に集中させる」ことで機能するように作られており、これによって、「集団的な心の変性」が達成されるとも言っている点だ。

さて、しばらくこれについて考えてみるとしよう。彼らは「全ての重力波(all gravity waves)」と言っている。複数形なのだ。

カシオペアンズによる別の一連の奇妙な言明を見てみよう。注意すべきなのは、この一連の言明が、私がスーフィーの教えについて質問した時に始まっていることだ:


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Q: (L) あなた方も知っての通り、スーフィーの教えを学んでたんだけど、このスーフィーの「ヴェールをはぐ」内容の多くは、このソースから受け取ってきたことと似通っていることがわかって、控えめに言っても大層驚いてるのよ。それで聞きたいんだけど:ここで私達が行っていることは、何とかして「ヴェールをはぐ=真実を暴」こうとしているのだと言えるのかしら?

A: Yes.

Q: (L) で、今読んでいるところに書いてあるんだけど、真実を暴くプロセスがある点に至って、知識ベースが十分に拡大して来ると、やがて身内においても暴きが起こり始めると言うのよ。今のプロセスがそれなのかしら?

A: 多分。

Q: (L) 2年以上かけて私が経験してきたことなんだけど、知識が目立って増大するのには、ある種のサイクルがあるわ。つまり、何かを学び吸収する前には必ず憂鬱な思いを味わうのよ。あるレベルから次へと向かって、精神的にも転換するような感じね。可能な範囲で、なんとかしてこのプロセスを加速しあるいは促す手立てを講じることが望ましいの?

A: これは自然のプロセスだ。なるに任せなさい。

Q: (L) アル・アラビの書いていることの1つに、存在論レベルの存在の話があるんだけど。言ってみれば、存在状態の同心円よ。それぞれの状態は、知識と気付きという点から規定されてるの。レベルが高くなる毎に、存在の核との直接的な関係に近づき、外縁部分に居るほど、物質との関係が密接になるというのよ。これって、あなた方の言っていた7つの密度をかなりうまく説明してるでしょ。彼も全部で7つだと言ってるし。彼はまた、「放射」や知識に向かっての「移入」についても述べているわ。私思ったんだけど、第4密度のSTSや、他の第3密度のSTSの存在は、自らのパワーを増加させるような状況を作り出していると考えているんだから、本当に「放射し」あるいは物質へと消散した者も居るんじゃないかってね。正しい見方かしら?

A: Close.

Q: (L) アル・アラビが言うには、これはあなた方の言ってたことと全く同じなんだけど、人は今居る幻想のうちにとどまることも、上昇することも下降することも可能だと言うのよ。これって、どっち向きを選んでも、サイクル上の位置の働きにより、ある程度は可能だということなの?

A: それよりずっと複雑だ。

Q: (L) ああ、きっとそうね。アル・アラビは随分と複雑な分析をしてみせてるけど、多分すっかりはわかってないんだわ。。。それなのに、ほとんど一語一句、このソースで直接私達にもたらされる内容と瓜二つなのよね。

A: それでは、不安定な重力波について、可能な限り、学び、読み、調べなさい。瞑想もすること!あなたに言ってるんだ、ローラ、研究の一環として、不安定な重力波について瞑想しなさい。

Q: (L) Okay. じゃあ、スーフィーの教えに注目したのは正解ね。表現の裏に何かがあるのは明らかだし、この潜んだパターンを見極めることによって、ヴェールの中を見通し、ブレークスルーを達成する刺激が得られるものと確信してるのよ。

A: 不安定な重力波こそ、量子物理学における未解明の秘密を、水晶のごとく明らかにするものだ。

Q: (L) 重力って、物質の属性よね?

A: それと反物質の!重力は、不安定な重力波によって、あらゆる物質的なものと、あらゆるエーテル的なものとを結び付けている!!!

Q: (L) 反物質こそが、「エーテル的」存在と呼ばれるものなの?

A: そこへの戸口。

Q: (L) それじゃあ、不安定な重力波によって、人は他の密度にアクセスできるの?

A: 全てに。
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バベル(Ba-Bel)が「神の門」を意味すると分かったところではないか。うーむ。。。


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Q: (L) 機械的に作り出せるものなの?

A: 作ると言っても、実際は収集と消散だ。

Q: (L) オーケー。どんな道具を使えば、重力波を収集したり消散させたりできるの?螺旋運動?

A: その調子だ。あなたが『ノア・シンドローム』を書いたときは、重力をどう位置付けたかな?

Q: (L) 重力とは、電気の消費を示してると思ったのよ;重力とは、絶え間なく流れる電気エネルギーの副産物だと思った訳。。。

A: 重力が副産物である訳がない!あらゆる存在の中心要素だ!

Q: (L) 私は電気の流れと消費で測ろうとしたのよ... 電気こそが意識の、ある種の証拠だと思ったから。そして、重力とは地球が意識を持ち、生きていることの証だと思ったのよ。

A: 以前、惑星や恒星とはウィンドゥだと言った筈だ。それじゃあ、重力はどこに行くのかな?

Q: (L) あら、どこに行くのかしらね?太陽もウィンドウなら、この地球だってウインドゥに違いないわね!

A: あなたにだってあるんだよ!! 重力こそ、存在するものの全てだ。重力は「神」だ。

Q: (L) [それでは私達も自らの内なる「ウィンドウ」を持っているのだ。]
でも、神は光だと思ってたわ?

A: 重力が全てだとしたら、そうでないものとは何だろう?光だって重力によって作られるエネルギーの現れだ。

Q: (L) 重力はスーフィーが「源(the Source)」と呼んでいる「見えざる光」なの?

A: 重力でないものを挙げてみなさい。

Q: (L) えーと、重力が全てなら、重力でないものは無いのね。ええと、そうね!絶対的な虚無はどうかしら?

A: 純然たる思考。

Q: (L) 思考が重力を生むの?

A: Yes.

Q: (L) 音は重力を生む?

A: Yes.

Q: (L) 音は重力を操作する?

A: Yes.

Q: (L) 人間の声でも可能?

A: Yes.

Q: (L) 音色でもって?それとも口に出した考えの力で?

A: 両方だ。重力が音によって操作される一方、思考は重力によって操作される。音を出そうと選択するのも思考であり、その結果出された音が重力を操作する。

Q: (L) じゃあ、コーラル・キャッスルを建てた彼は、家の中にぶら下げた飛行機のシートに乗ってスピンしながら、思い通りに操作を行ったの?
http://www.coralcastle.com

A: No. 重力が彼をスピンさせようと判断した時、彼が重力を操ろうとしてスピンした。

Q: (L) 重力には意識があるの?

A: Yes.

Q: (L) 人間の方で選ぶことなんて出来るの?それとも、重力が選んだのが彼だったのかしら?

A: 彼のうちにあった重力こそが、存在した重力の全てだった。

Q: (L) ああ、それにしても、スーフィーは難解だったわ!

(F) こうして理解の扉が開いたのも、おそらくはキミの勉強の賜物だよ。

(L) やれやれ!何て事をしてしまったのかしら!そうね。私、混乱してるわ。

A: No そんなことはない。

Q: (L) それでは、そういうことにしておきましょう。混乱してる上に、荷がかちすぎだわ。

A: 混乱は楽しい!何度言ったら分かるのかな?!?!学びは楽しい!存在するもの全てを合わせたものがあなた方それぞれの内にあり、逆もまた然りだ。

Q: (L) それじゃあ、私達が知覚している「多数性」はどう説明するの?

A: 第3密度の知覚だ。

Q: (L) 問題はそれにアクセスして、ヴェールをはぎ取ることね。

A: そこが楽しい所だ。

Q: (L) それじゃあ、コーラル・キャッスルを築いた彼は、これにアクセスできたんだわ。継続的にだったのかしら、それとも断続的にだけ?

A: 部分的。

Q: (L) 私の理解からすると、光速では物質は無く、時間も無く、重力も無いんでしょう。どうしてそんなことが可能なのかしら?

A: 物質は無く、時間も無いが、そう、重力はある。重力が光速に取って代る。

Q: (L) 重力波を不安定にするものは何?

A: 利用。

Q: (L) 私には本当に大事な点が分かってないんでしょうね。。。

A: そうだね。だけど、自分のペースで見つけるしかない。
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さて、これらのキーポイントの幾つかをもう1度掲げておこう:


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重力が副産物である訳がない!それはあらゆる存在の中心要素だ!重力は、不安定な重力波によって、あらゆる物質的なものと、あらゆるエーテル的なものとを結び付けている!!!以前、惑星や恒星とはウィンドゥだと言った筈だ。それじゃあ、重力はどこに行くのかな?あなたにだってあるんだよ!!存在するもの全てを合わせたものがあなた方それぞれの内にあり、逆もまた然りだ。重力こそ、存在するものの全てだ。重力は「神」だ。重力が音によって操作される一方、思考は重力によって操作される。音を出そうと選択するのも思考であり、その結果出された音が重力を操作する。
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さて、覚えておられるだろうか、カシオペアンズが言うには、バベルの塔が建てられた目的とは、人為的に全ての重力波を集中させ、その結果、統合することであり、コントロール・システムは直ちにこれを脅威と受け止めたのだった。以上から推測できるのは、全ての重力波を集中させるという言明は、「存在するもの全てを合わせたものが1人1人の(人間)の中に、(重力の形で)存在している」ことを考えると、人々が連携することによって神へのアクセスが可能になるということを言っているに違いない。彼らが述べているのは、こんにち零点エネルギー状態として知られているもののように思われる。

デヴィッド・ボームは、1立方センチメートルの空間中における量子力学的ゆらぎ
http://kaken.nii.ac.jp/d/p/17500134.en.html
による零点エネルギーを計算し、1038エルグ(CGS単位系
http://ja.wikipedia.org/wiki/CGS%E5%8D%98%E4%BD%8D%E7%B3%BB
におけるエネルギーの単位。※1エルグは1ダイン(dyn)の力がその力の方向に物体を1センチメートル(cm)動かすときの仕事)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B0
という値を得た。
(※ボーム前掲書の注によれば、この種の計算が彼の『現代物理学における因果性と偶然性』163ページで示唆されている由。)
これはウラン約1千万トン分のエネルギーに等しい。ジョセフ・チルトン・ピアスは、こうして提唱された零点エネルギーを、イエスの「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、山を動かすことが出来るだろう」という言葉になぞらえている。
(※マタイによる福音書 / 17章 20節
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 )
だが、ちょっとした問題がある。デヴィッド・ボームによると、現在の状況の下では、このエネルギーに物質的な意味でアクセスすることはできない。これは理論的状態を数学的に表現しただけなのである。しかし、既に提案したように、この零点エネルギーの出所とは、実は右脳の思考プロセスによってなされた観察を、純粋に、期待せずに分析する左脳の状態なのである。それは聖杯的意識の合わせ鏡なのだ。

アルファベットをテーマに、ナイジェル・ペニックは書いている:


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宇宙の全ての知識を述べ伝える潜在能力を保つがゆえに、アルファベットは魔術的な性質を持っている。。。いくつかの古代アルファベットは1文字ごとに名前を持っていたが、これは物体ないし性質を述べたものであり、魔術的かつ呪術的な可能性に結び付いているとされた。。。こんにち用いられているローマ字のアルファベットに何らかの魔術的ないし呪術的重要性があるとは普通考えられていない。。。
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※Secret Games of the Gods


古代のアルファベットは、単に音声的なシンボルを寄せ集めて人々や事物を意味する言葉を作るための手段以上のものだった。これらのサインは魔術や呪術に関連したコンセプトを持っていた。ルーンという言葉は、囁く(知恵は上述の事を言葉で表すがゆえに)あるいは、何かの本性を示すという意味に関わりがある。古代のシンボルの体系を成す個々のサインは、豊富な情報をカプセル化したユニットだった。それらはこの世に明らかにされた、私達が物体、パワー、感情、属性として体験する無定形の永遠のリアリティを表わしていた。

私達の右脳と左脳の機能に戻れば、私達の用いている現代的な意味を持った言葉を読み書きするのに必要な能力を備えているのは、脳の左側であることが分かる。だが、古代のシンボル体系は、脳の右側でより効率的に識別されるような表語文字的イメージを表現していた。大事なのは、サインに呼応して脳の両半球を統合することなのだ。

(スノリ・ストルルソンによる)「散文のエッダ」の中で、オーディンはこの統合を行っている。『ハヴァマールの歌(高き者の言葉)』の第138-139スタンザ(連)では、こう謳われている:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB


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わしは、風の吹きさらす樹に、

9夜の間、

槍に傷つき、オーディン、

つまり、わし自身にわが身を犠牲に捧げて、

たれもどんな根から生えているか知らぬ樹に

吊り下がったことを覚えている。

わしはパンも

角笛も恵んでもらえず、下をうかがった。

わしはルーネ文字を読みとり、

呻きながら読みとり、

それから下へ落ちた。
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『エッダ 古代北欧歌謡集』ネッケル/ほか編   谷口 幸男/訳
「オーディンの箴言」38-39ページ。


これと、彼ら自身に「名前を付ける」こととはどう関係あるのだろうか?これは神の名前について何を教えてくれるというのか?これは私達の個々人が零点エネルギーの機能にアクセスすることとどう関係するのだろうか?

エソテリックな観点では、名前とは、物自体と同じだと考えられている;それは、人や物、あるいは問題に対処する方法について気付くための霊的な取っ掛かりなのである。古代のブリテン人は、名前と魂とは同じだと信じていたし、見知らぬ人に自分の名を名乗るのを断るケルトの英雄に関する多くの物語がある。神話のいくつかでは、名前を知ることは、おとぎ話の『ルンペルシュチルツヒェン』
http://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42310_15932.html
で述べられているように破滅をもたらし得るとされているのだ。

これまで議論してきた全ての事から、こう仮定するのが理に適うと思われる。すなわち、最古の文明は創造と破壊の手段としての音に関する何らかの知識を持っていたのである。聖なる名前を唱えるとこのような力が活性化するという信仰は、このような知識の単におぼろげな残滓に過ぎない。イエスが「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出す」と言った背景には、いくらかこの考え方の要素があったと言えるかも知れない。
(※マルコによる福音書 / 16章 17節
信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。)
これはまた、人は「イエスの名において」のみ救われるという考え方にも反映している。

しかし、この思想を知恵を伝える文献まで遡ると、知恵は神の座の隣に座り、宇宙を維持し統べる者であって、彼女は人間たちの間に住み、贈り物を授けようとやって来たが、殆どの人間から拒まれたことが分かる。

それにもかかわらず、聖き名前は単なるシンボルではないという伝統は伝えられて来た。というのも、イエスの名において、あるいは父と子と聖霊の名において語られた言葉は、悪魔を追い出す上で絶対的な効き目があると考えられてきたからだ。キリスト教会は、悪魔の名前を知るまでは、これを祓うことはできないと教えていたが、これはガダラ人に取り憑いた悪魔の名前を知りたがったイエスの故事に倣うものだ。
(※ルカによる福音書 / 8章 26-39節
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。
この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。
成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。
そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。 )

この真理の残像の中に鍵が潜んでいるのが分かる。この思想が、知識と知恵はあらゆる善きことを与え人類を守るものだという思想を捻じ曲げたこじつけなのだとすると、何かに名前を付けることはそれを知ることだとの理解に行き当たる。同様に、名前を付けることとはそれを切り離すことなのだ!

事物に名前を付けることによって天地創造が成し遂げられたという創世記から引かれた章節の中で、今私達が真に注意すべきなのは、「光よ、あれ」という発言は本質的に、名前を付けることによって、神が闇から光を切り離すものだということである。1つが2つになった。「親」が「子」を産んだ。無限に収縮させられた大量の潜在性が、虚無すなわち零点と、他の全てすなわち一者を後に残したのだ。宇宙にある万物は、0と1という2つの数字、オンかオフ、STOかSTS、創造かエントロピーによって表し得る。

信じ難い程の潜在エネルギーを持つ零点の機能は、スーフィーの教えにおいては、神の息吹きとして知られる。神は締め付けられたがゆえに、締め付けを和らげるために息を吐いた。この息吹きが雲、すなわち神が自分の映る姿を見る鏡である。神が「鏡」を覗き込むたびに、彼の存在が不断に揺らぐ。これにより現れた万物の中に神の姿が映っているのが見られる。神が見ることで、概念のポジティブな創造的潜在力が活性化してくるが、これに息吹きの持つ零点エネルギーの潜在力が応じて、全ての被造物が現れる。周囲に四散した神の息吹きは、創造のための土となった。これ無くしては、光りは輝かず、宇宙も現れることがない。一度この完全なる外への顕現が達せられると、結合的な動きが起る時が到来する。この動きに積極的かつ意識的に参加することこそ、人間に与えられた特権なのだ。

こうして私達は、また1つの偉大な神秘へとやって来た:


http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=61130114&comm_id=2590126
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息吹きの根源は神の慈愛である。愛は愛する者の内なる動きだが、一方、「息吹き」は愛の対象に向けられた思慕の動きであり、慈愛の息吹きを通じて、楽しみは経験される。そして、伝えられているように、神は言った。「私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起った」
(※イブン・アラビーを中心に論じられている井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波黄版新書119の125ページにある、大家によるハディースの訳。)
この慈愛を通じて息吹きは起こる。だから、息吹きは神の自己顕示であり、これによって「雲」が出現する。
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※イブン・アラビーの英訳か?


余談であるが、上から推すに慈愛が知識を提供するのであって、その逆ではないだろう。

当面の問題に戻れば、息吹きとは蒸気であり、神の胸の締め付けを和らげて、言葉を乗せて運んで来るものである。神が語る結果としての息吹きの中で、存在する者すなわち言葉が生じる。この言葉は「在れ!」と述べられ、非存在の状態にある個々のものに向けられている。これによって事物は存在するに至る。発音された場所によって、何が生じるかが決まる。宇宙を生じさせるにあたり、神の息吹きは名前によって決まる外形を予定する。人間が語る個々の言葉が、決まった場所から出て来るのと同じように、これは発声器官内の発音の場所として知られるが、同様に、宇宙の個々の文字/リアリティは、他の態様とは異なる、特定の態様で事物を生じさせる。ゆえに、それぞれは特定の聖なる名前につながっている。

イブン・アル=アラビーによれば、「一者」すなわち神の存在は、本質、属性、行いから成る。これは存在する全てのものを包含する。本質とは関係性を持たない神のことである。行いとは人間を含む全ての被造物である。名前は本質と被造物との間に架かる地峡(Barzakh)である。
(※岩波講座東洋思想第4巻(85-108ページ)所収、チティック『非現象から現象世界へ ― イブン・アラビーの「存在一性論」』、小川訳103ページ。)
つまり、名前は神と被造物との間の関係を定めるのだ。名前は、個々の物体として知り得るような、宇宙内の被造物のようなものではなく;それらはむしろ、関係性、属性、帰属、あるいは神と宇宙との関連性である。被造物は名前の第2の原因である。


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神が宇宙を作るや、そこには様々なレベルとリアリティが備わっていた。これらの各々は<本物>との特別な関係を求める。これらの名前から我々は、それらが神の本質および知性の両方を示すことが分かる。これらは存在の実体を持たない。このような知性の例としては:創造、提供、獲得、喪失、出現させる、指定、強化、支配、厳格さ、優しさ、堕落、魅力、愛、憎しみ、近さ、距離、尊敬、軽蔑等々がある。宇宙の中に現れたいずれの属性も、我々の知っている名前を持つ。

聖なる名前によって我々は、明らかに様々な数多くのリアリティを理解することができる。神が名前によって呼ばれる対象であるがゆえに、名前は神のみの属性であるが、それらによって神が複数に分割される訳ではない。神がこれらの名前を知っているのは、彼が知識の全ての対象を知っているという点においてであり、一方、我々がこれらの名前を知っているのは、それらが我々に及ぼす効果の多様さによってである。
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名前はまたリアリティとも呼ばれる。性質ないし本質としてのそれらは、神の子孫の遺伝子コードであり、それらがいくつあるのか、本当のところは分からない。各宗教は独自のリストを持っている。ユダヤ教の注釈書では、神の名前が72あると言う。イスラム教の観方では、それらは99ある。秘教的文献のいくつかは、「対となる特徴の対を12」挙げている。それらを全て挙げ尽くそうとしても限度があるだろう。注意すべきなのは、ユダヤ=キリスト教的観方では、「美しい名前」でないものは神には当てはまらず、罪の結果だとされる点だ。この点で、彼らは被造物の半数を効果的に裁き、咎め、人類の半分、すなわち女性にこの裁きを下す。


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神の中に見分けられる様々な関係は、宇宙に様々な関係がある結果である。宇宙にある全ての事物は、聖なる名前の働きと属性の顕れである。闘い、反目、争い、戦争さえも神に起因する。宇宙は事物の壮大なコレクションであり、事物はそれぞれのやり方で進行するが、それらがあると考えられるレベルにおいては、必ずしも他の事物と調和していない。神を真に知るには、両方の種類の名前によって彼を知る必要がある。
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※ウィリアム・チティックによるイブン・アラビーの抄訳および解説の書『スーフィーの知識に至る道』(邦訳なし)


さてこうして私達は使徒パウロが、どうして1つの器が恩寵と呼ばれるのに、もう1つが神の怒りと呼ばれるのかとの考えに耽っていた時に取り組んだのと同じ問題に戻って来た。スーフィーの観方と比べると、パウロの観方が実に狭量で高圧的であるのが分かる。


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聖なる名前の属性は、名前である点からして様々である。<復讐者>、<処罰の悲惨さ>、<圧倒的な>と<憐れみ深い>、<寛大な>、<優しい>との共通点は何だろうか?<復讐者>には、対象に対する復讐を起こすことが求められるのに対し、<憐れみ深い>には、同じ対象に対する復讐を取り除くことが求められる。よってこれらの顕現するのを見る者は、神の矛盾、誤り、事故だと思われるだろう。このような矛盾が起るのは、アル=アラビーの説明によれば、様々な名前が被造物を様々な方向に呼び出すからなのだ!対象が呼び掛けに反応すれば、彼は「従順な者」と名付けられ、「幸運に」なる。もし彼が反応しなければ、彼は「反抗的な者」と名付けられ、「惨めに」なる。
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悪魔(demon)という言葉は、ギリシャ語のダイモン(daemon)に由来するが、これは指導霊ないし守護天使のようなものである。中世の悪魔の概念は、ペイガンの思想一切に対するキリスト教による無差別的な断罪に端を発する。聖トマス・アクィナスによれば、悪天候や天災は全て、悪魔によってもたらされるという。しかしダイモンとは聖なる力、内なる霊、運命、第2の神性だとする古典的な考え方の方が、神の名前の思想に近いことが分かる。

さて、偉大なるシャイフであるイブン・アル=アラビーの著作中の以下の問答を見れば、古代の人々が理解していたダイモンの概念がいかに神の名前に近いものだったか分かるだろう:


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シャイフは言う:あなた方は知るべきである。聖なる呼び掛けは、教徒にも異教徒にも、従順な者にも反抗的な者にも行われる。。。この呼び声は聖なる名前からもたらされる。1つの聖なる名前が、第2の聖なる名前の属性により支配されている者に呼びかけるとき、この人の内なる第2の名前の属性は期限が切れたことを知り、それから彼に呼びかけた第1の名前が後を引き継ぐ。こうしてこれは、この世でもあの世でも続く。だから神以外のすべてのものは、名前がそれに付着しようとする、生まれたままの状態となって、聖なる名前に呼び掛けられる。対象が呼び掛けに反応すれば、彼は「従順な者」と名付けられ、「幸運に」なる。もし彼が反応しなければ、彼は「反抗的な者」と名付けられ、「惨めに」なる。


あなたは反論して言うだろう:「聖なる名前が呼び掛けるときに、人はどうして反応を拒むことができようか?彼は弱く、聖なる力を受け入れなくてはならないというのに」

我々は答える:彼は彼自身および自分のリアリティの観点から反応を拒むのではない。彼は絶えず圧倒されているのだ。そうではなくて、彼はある聖なる名前に支配されているため、その名前が彼に呼びかける名前に対して反応させないのだ。だから、聖なる名前同士が戦っているのだ。

しかし力の点で、それぞれの名前は等しい。だから、支配的な属性は現在の所有者にある。つまり、第2の名前が彼に呼びかけたときに、彼を手中にしている名前のことだ。所有者は状況的により強い。

あなたは反論するだろう:「それでは、拒んだからと言ってどうして彼は非難されるのか?」我々は答える:彼が自分で拒んだと主張し、自分を支配している名前があって、それのせいだと認めないからだ。

あなたは反論するだろう:「状況は同じだ。彼が拒んだのは単に、ある聖なる名前に支配されているからだ。呼び掛けられた人が拒んだのは、その名前のせいだ」。我々は答える:その通りだ。だが、彼はそのことを知らない。だから彼は無知のせいで非難される。彼が無知に囚われているからだ!

あなたは反論するだろう:「だが、彼の無知は彼を支配している聖なる名前の属性に由来するのだ」。我々は答える:無知は非存在に関する性質である;それは存在的ではない!聖なる名前は存在をのみ授ける;非存在は授けない。だから、無知は他ならぬ呼び掛けられた彼の自我に属する。
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これは私達の問題にとって大きな手掛かりである。何よりも分かったのは、1人1人の人間が1つかそれ以上の聖なる名前からの呼び掛けを受けているということだ。ある1つの名前がある時点で担当している筈であり、その人との関係が断たれるまでそれは続く。もし別の名前がその人に呼び掛けても、それはその時点で彼を所有している名前よりも弱い影響しかもたない。

さて既に見た通り、ある時点で機能している名前は膨大な数に及び、それがために、宇宙に顕れている第2原因すなわち被造物や状況は実に様々である。マクロの存在や状況もあれば、ミクロの存在や状況もある。宇宙の、銀河の、太陽の、地球の、国家の、民族の、メトロポリタンな、社会的な、家族の、そして個人の名前が顕れ、あるいはそれだけの争いが名前をめぐって存在している。

グルジェフはこの問題について、幾分異なる言い方をしているが、彼のルーツがスーフィズムにあることはかなり明らかに見て取れる。


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(邦訳書39ページ以下)
G − 私の言っていることをわかってほしいのだが。見てみなさい[彼は通りを指さした]、彼らは完全に機械で、それ以外の何ものでもない。

「言われることはわかります。私はよく、この機械化
http://takapachi1962.seesaa.net/article/323485779.html
に抵抗して自分の道を選べる者が今の世界にいかに少ないかと考えるのです」

G − それこそが君の最大の誤りだ。君は、自分の道を選ぶ、あるいは機械化に抵抗できる何かがあると思っている。つまり、すべてが等しく機械的であるとは思っていないのだ。

「もちろんそうは考えません。絵画や思想は全く種類の違う現象です」

G − いや、全く同じものだ。それらも他のものと同じように機械的だ。人間は機械であり、機械からは機械的な動き以外何も期待できない。。。

「人は機械であることをやめることはできるのですか」

G − うむ、これこそが問題だ。。。機械であることをやめることはできる。しかしそれにはまず機械を知る必要がある。機械、本当の機械は、自分を知らないし知ることもできない。機械が自分を知れば、それはもう機械ではない。少なくとも、以前のような機械ではなく、すでに自分の行動に責任をもちはじめている。。。何をするかだって?[とGは驚いたように聞き返した]。何であれ為すのは不可能だ。まず最初にあることを理解しなくてはならない。人間は無数の誤った考えや概念をもっている。特に自分自身に関してはひどいものだ。だから新しいものを手に入れる前にそれらを破棄しなければならない。。。

G − 。。。人間の最大の妄想は、自分は為すことができると思い込んでいることだ。人はみな何かできると思い込み、またしたいと思う。だから、誰もが最初にする質問は、私は何をすべきか、となる。しかし実際は、誰一人何もしないし、またできもしない。これをまず理解しなさい。すべてはただ起こるのだ。人間に生じること、彼によって為されたこと、彼から出てくるもの − これらはすべて起こるのだ。しかもそれは、上空の気温の変化で雨が降ったり、陽の光で雪が溶けたり、風でほこりがまいあがったりするのと同じように起こるのだ。

G − 人間は機械だ。彼の行動、行為、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣、これらすべては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。。。この事実を自ら確証し、理解し、それが真実だと納得するということは、すなわち、人間に関する無数の幻想、つまり自分は創造的で、自らの生を意識的に生きている等々の幻想を放棄することにほかならない。そのようなものは何一つとしてない。すべては起こるのだ。大衆運動、戦争、革命、政権交替、すべては起こるのだ。それらは、個人の人生ですべてが起こるのと同じように起こる。人は生まれ、生き、死に、家を建て、本を書くが、それは自分が望んでいるようにではなく、起こるにまかせているにすぎない。すべては起こるのだ。。。

G − しかし、君が誰かにあなたは何もすることができないと言っても、誰も信じはしないだろう。それは、君が人々にいうことの中で最も侮辱的で不快なことだ。それが特別不快で侮辱的なのは、それが真実だからで、そして誰一人真実を知りたいとは思っていないのだ。君がこれを理解すれば、話がしやすくなるだろう。しかし、心情で理解するのと、<全身全霊で>感じ、心底確信し、決して忘れないこととは別のことだ。


G − この為すことについての問題には、別の問題が関連している。つまり誰もが、他人はまちがった行動をしている。ものごとを正しくやっていないと思っている。誰もが、自分はもっとうまくやれると思っている。彼らは、今やられていることや、特にすでにやられたことを、それとは別のようにやったり、あるいはやりかえしたりすることはできないことを理解しないし、またしようともしない。。。実際は、すべてはなるようになっているのだ。しかもそれは一通りしかない。もし1つのことが違うようになりうるのなら、すべては違うようになりうるだろう。。。すべてのものは他のすべてのものに依存しており、すべては関連していて独立したものは1つもないということだ。だから、すべてはそれがとりうる唯一の道を選んでいるのだ。人々が違ってくればすべては違ってくるだろう。彼らはあるがままであり、またすべてのものもそうなのだ。

G − 為すためには存在しなければならない。そして第1に存在するとはどういう意味かを理解しなくてはならない。。。それから、真実を話せるようにならねばならない。。。ほとんどの場合、(人々)は真実を話していると思っている。にもかかわらず、彼らは常にうそをつく ― そうしたいと思うときも、真実を話そうとするときも。彼らは自分にも他人にもいつもうそをつく。。。しかし彼らは、うそをつかざるをえないために理解しあえないのだ。真実を話すことは世界で最も難しいことで、それができるようになるには、長期間、多大の修練を積まなければならない。そうしたいと思うだけでは十分ではない。真実を話すためには、何よりもまず自己の中で、真実とは何か、うそとは何かを知らなくてはならない。ところが誰もこれを知りたいとは思わないのだ。
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そしてまた同じ様な事を、ドン・ファンは『無限の本質』の中でカルロス・カスタネダに対して語っていた:


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(邦訳書274ページ以下)
「わしはおまえの分析的思考に長けた頭に訴えようと思う」とドン・ファンが言った。 「しばらく考えてから、事を巧みに処理する人間の知性と、その人間の信念体系の愚かしさ、もしくは人間の一貫性を欠く行為の愚かしさとの矛盾を、どのように説明したらいいか話してみろ。呪術師たちは、捕食者がわれわれに信念体系や善悪の観念や社会的慣行を与えたのだと信じている。やつらがわれわれに強欲と貪婪さと臆病とを与えたのだ。われわれを自己満足におちいらせ、型にはまった行動をとらせ、極端に自己中心的な存在にさせているのが、やつら捕食者どもなのだ」

「だけど、どうしてやつらにそんなことができるのさ。ドン・ファン?」私は彼の言葉にますます怒りをおぼえて尋ねた。「われわれが眠っているあいだに、やつらがそういうことを全部耳のなかへささやくのかい?」

「いいや、そんなやり方はせん。そんなのはくだらんにもほどがある!」ドン・ファンは微笑んで言った。「やつらはそれよりはるかに有能で組織的だ」。「われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは素晴らしい策略を用いる。素晴らしいってのは、もちろん、喧嘩好きの策士の観点からしてだぞ。 受ける側からすれば、恐ろしい策略だ。やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ!おい、聞いているのか?捕食者どもは自分の心をわれわれに与える。そしてそれがわれわれの心になる。捕食者どもの心は粗野で矛盾だらけで陰気だ。そして、今にも発見されてしまうのでないかという恐怖に満ちている。

おそらくおまえは飢えを経験したことがないのではないかな。にもかかわらず、食料への不安を抱いているだろう。それは捕食者の不安にほかならない。捕食者はいつなんどき自分の策略が見破られて食料を得られなくなるかと心配でならんのだ。そこで心を通して、それはつまるところやつらの心なのだが、捕食者どもは人間の生活のなかへ自分たちに都合のいいものを注入する。そうやってある程度の安全を確保し、恐怖にたいする緩衝物とするのだ」。。。
---
カスタネダ『無限の本質』結城山訳


上に掲げた話はいずれも、何とも馬鹿馬鹿しく聞こえるものだ!出て来たのは、何百年も前のスーフィーの神秘主義者、20世紀前半に生きた、小アジア出身の、神秘主義を含め何でも商った行商人、ペヨーテを生食する同時代の人類学者によるイマジネーションの産物だったかも知れない、半ば神秘主義的なシャーマン。彼らの言うことときたらいずれも、私達の神の愛、自己、個人の至高性、自由意志、開明された信念体系といった思想に比べて、全く野蛮なことばかりなのだ!

彼らは口を揃えて、私達のリアリティの背後には、明らかに何らかの巨大な勢力、生き物ないし影響力が存在していて、この存在については何が何でも認識する必要があると説く。こんなことを言っているのは彼らだけだろうか?

ユング派の心理学者であるバーバラ・E. ホルトは著書『いっしょにいると疲れる人―「くされ縁」の人間関係の研究』の中で、何やら極めて似たようなことを言っている:


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(野獣は常に私たちと共に居た。私たちの心臓が血を送り続ける限り、私たちの魂が生命を輝かせる限り、私たちが愛を切望する限り、野獣は常にそこに居たのだ。あざ笑いながらつきまとい、涎を垂らしながら企みをめぐらして、野獣は次の暖かなご馳走を期待しつつ、ふっくらとした柔らかな唇を舐める。野獣は食欲を満たさずには居られない。その通り、野獣は沢山の顔を持っている。どれも人間の顔だ。それらは、私たちと同じように愛くるしい。だが、このような人間的なたしなみは必要に迫られて生まれたカモフラージュに過ぎない ― このような変装によって野獣は勝利を得るのだ。野獣の、人間性という薄化粧の下にある核の部分は飢えであり、生き残ることだけが目標なのである。

野獣は生き残るために飢えている。だが、それは私たちの知っている生のためではない。野獣が持つのはずる賢さと飽くことを知らない飢えだ。)
ヴァンパイアは自分が生きるためにはひたすらむさぼる。。。ヴァンパイアがむさぼるのは、(彼らが失ってしまった)人間の心のエネルギーだ。野獣は人間を餌食にして、その「心の生き血」(心的エネルギー)をすすって生きているのである。

あなたが野獣の餌食になったとしよう。それで死ぬことができたら、むしろ運がよかったと思ったほうがいい。実際、さんざん苦しんだにもかかわらず、死ぬことができないこともある。そう、死ぬことすら許されぬまま、あなたも魔物に変身してしまうのだ。そして、他人の「心の生き血」をすすりながら、ヴァンパイアとして生き長らえることになる。。。
(こうした餌の取り合いは、彼らの先史時代の先祖たち以来、野獣の軍団(legion)内に蔓延しているものだ。野獣は古代から世界中に居り、その数は増え続けている。このような物語を私は無数に知っているが、その姿はいずれも影のように神出鬼没でかすんでいる。)
様々な呼び名でこうした関係は呼ばれるけれども、もっと端的に、「ヴァンパイア的」な人間関係と呼ぶこととしたい。。。

(ヴァンパイアの物語は地球上でも最も古く、入り組んでいて、邪悪なものだ。。。だから、ヴァンパイアには様々な数多くの名前があるが、それらの中には確かな真実がある。ヴァンパイアは世界の隅々まで、生きた人間が居ればつきまとう。)吸血鬼ドラキュラなどは、ほんの一例、しかも現代的な例にしか過ぎない。ヴァンパイアに類する物語は、時代的にも地域的にもきわめて広範に分布している。最も有名なヴァンパイア、ドラキュラというキャラクターは、今から100年ほど前にブラム・ストーカーという作家によって生み出された。そのモデルとなったのは、ヴラド公という600年前のヨーロッパに実在した人物である。600年といっても、ヴァンパイア一族の長大な歴史においては、ほんの一瞬に過ぎない。今から3,000年前にはすでに、古代アッシリア人や古代バビロニア人が「エキンマ」と呼ばれるヴァンパイアについての記録を残している。古文書によれば、「エキンマ」とは浮世に未練を残した死体のことで、完全に死んでしまうことを防ぐために人間の生き血をすするのだという。。。

(だから、これは私たちとヴァンパイアとの物語である。)
ヴァンパイアはいつでもどこでも、つねに私たちと共にあったわけだ。。。

ヴァンパイア伝説が大昔からあり、しかも世界中に残されているということ(は何を物語っているのだろうか?)
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※カッコ外は鏡訳。


いい質問だ。元型の概念に取り組んできたユング派の精神医学者や心理学者は他にも居て、私達の神話や民話は、私達のリアリティについて明示的・暗示的に多くの事を語っていると説いてきた。明白なのは、ヴァンパイアに関する物語があまりに広範に広がり普及しているため、病気や性的倒錯、サディズム、死体性愛、あるいは精神異常のために人の血を盗んだり飲んだり、入浴したりする人々に関する、現代の数多くの理論でもってこれを説明しようとしても、うまくいかないないということだ。

ユングによれば、人間の心は元型と呼ばれる基本要素から成り立っている。元型を、人格を作り上げる、様々なエネルギーないし特性と定義することもできよう。元型をイメージでもって象徴的に描くことで、私達という存在が様々な心的エネルギーによって構成されていることを理解しやすくなる。ユング派の理論によれば、私達の元型が活性化する時、私達は恰も、人生というステージで繰り広げられるストーリーを理解しつつ行動する内なる人格によって動かされるような感じがするという。私達がこのようなパワフルな心のエネルギーを持っているのだと感じることもあれば、それらの方が私達の所有者であるように感じられることもある。ホルト博士はユング派の分析家マリオン・ウッドマンの著作から引用している:


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(私たちを突き動かす元型のエネルギーについてよくよく考えてみると、各元型は、ポジティブ面かネガティブ面という、はっきりとした個性を持っているようである。)
元型のエネルギーは「私たちをまばゆい光で満たすこともあれば、圧倒的な力で破壊し絶望に導くこともある。
(いずれも霊性と直観を備えた、私たちの内なる神々なのだが、)
その違いは私たちの意識のあり方による。意識的に元型と接触することができれば、人は天使を招き寄せることもできる」が、ある元型と無意識的に接触することは、恐ろしい魔物に自分を明け渡すことになるのだ。。。
(元型とは「惹き付けては弾き返す、姿の見えない磁石のようなものだ。)
神々、ヴァンパイア、女神たちや魔女たちは、この危険な領域に存在している。彼らは私たちを導くことも、破壊することもできる。すべては、私たちがいかに意識的であるかにかかっている」
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ユングの説によれば、ある集団において1つの元型が活性化すると、そのエネルギーのイメージが集団の物語、神話、民話の中に現れるという。彼はまた、歴史や国土を越えて広まっている物語はいずれも、万人に共通な心理的体験を解く重要な手掛かりであると信じていた。もしユングが正しければ、あらゆる神話の中でも最も古く、最も広まっているヴァンパイアの物語は、過ぎ去った時代の人々の単なる無知の副産物以上のものだということになる。ヴァンパイアの元型は、人類史の黎明期以来私達と共にあり、それがどのような具合なのか、私達はようやく理解し始めたに過ぎないというのが本当の所だろう。

ここで私が前の2章で論じた内容を掲げて読者の注意を惹きたいと思う。最初の方は、悪は実在し、その証拠は世の中に顕れていると述べるものだ:


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請け合うが、悪玉はいかにも善良で真実を語る風を装って、私達の人生の中にうまく入り込んで来るものである。今どきの悪玉を語るとき難しいのは、連中の言う事があまりに風変わりで異様であるからではなくて、むしろ私達の文化が、善悪の別など時代遅れだという宗教観を押し付けてくるからである。。。実際、悪を生み出し、それを永続化させたがっている自称「ハイヤーセルフ」が上位の密度レベルに存在しているのであり、これらから身を守るには、その正体および振る舞いを知る以外に手立てが無いのである。真実を受け入れるためには、嘘について学ばなくてはならないのだ。
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その後、私は再びこの悪について述べている:


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私の視野が広がるにつれて、多くの悪が消えて行ったのだ!でも、誤解しないで欲しい。それらが消えたと言っても、遠くに去ったり変容を遂げたという意味ではない。全くそうではない。私の方でそれらが悪だという観方を止めたのだ。。。そんなことはない。私には今でも世界で工作に励む悪魔が見える;私には未だに人類の魂に闇が忍び寄ってこれを陰で覆い、人々による創造的な潜在力へのアクセスを台無しにするのが見える。私には未だに戦争や大量虐殺、飢饉や疫病がリアリティの一部として見える。。。慣例であるとは言え、私が闇と光、善と悪、ポジティブとネガティブといった言葉を使うのは、実際的に語ろうとするためであり、私はもはやこれらを本質的な誤りであるとは見ていない。。。私には今や分かる。存在する全てのもの、光と闇、善と悪、ポジティブとネガティブ、STSとSTOとは、無限の創造主すなわち第1原因の壮麗な枠組みの一部を成しているのだ。。。そればかりか、このようになっている理由も分かる。それは人類が、普通以上に早いペースでの学びを体験することを選んだからに他ならない。
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本シリーズの第2巻『ソウル・ハッカーズ』(=10-19章)を読まれた方は思い出されるだろうが、キリスト教原理主義者とは、世界全体がそうする必要があるのと同様に、1人1人の信者も救いを求める必要があると断定するのだが、私が全面的にこの考え方を取りいれるやたちまちのうちに、私の周りのリアリティは崩れ去り、私は本当に救いが必要になったものである!

このキリスト教原理主義の姉妹版であるニューエージの、あらゆる不愉快な物事に関する考えを排除することによって、「あなたは自分の現実(リアリティ)を創造する」という考え方もまた災いであって、あやうく私は殺されるところだった。私が世界を見る、その観方と、そこで私が経験することとの間には、明らかに何がしかの関係があった。だが、それはこれらの教義のどちらが説くものとも違っていた。

そこで私は、このような思考の顕現が起こるらしい理由について考え続けたのだった。確かに私達は幾分ぼんやりとではあるが現実を創造するのだが、言わば、悪魔は細部に宿るのである。そしてこのような考えに辿り着いた。すなわち、人が現実を変えようとするとき、心の真に創造的な部分が考えているのは、この現実は壊れており、創造し修理する必要があるということなのだ。要するに、「どのようにであれ裁きを行うならば、自分も裁かれる」のである。

ここでちょっと立ち止まって強調しておきたいのだが:一般的な意味において裁くとは、検査する、評価する、意見をまとめるというのとは全く違うものである。それが意味するのは、何か「他の」ものを支持して、またはそれに逆らって行動するということなのだ。というのも裁きに一般的につきものなのは、「宣告」すなわち、報奨や処罰という概念だからである。これは重要な問題である。というのも、これが「自分の現実を創造する」論争の根底にあるのだから。

ジョセフ・チルトン・ピアスは有名な『宇宙卵の裂け目』
http://www.ssfk.or.jp/p/introduction/j_c_b.htm
の中で、こう述べている:


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我々が世の中にあると考えるものと、そこに居て体験しているものとの間には関係がある。思考のエネルギーと物質のエネルギーとが互いに修正し合い、相互に関連する方途は存在する。我々の心と現実との間では一種の粗野なミラーリングが起っている。

しかし、我々はこのミラーリング・プロセスの局外に立ってこれを調べることはできない。というのも、我々自身がどの程度かは定かでないものの、そのプロセスだからである。我々が現実を「客観的に見」ようと、どんなテクニックを使っても、それが当の出来事の一部となってしまうのである。我々は不確定ながら、我々が見るということを行っている現実それ自体を形作る機能の大きな部分を構成している。我々の行う見るという行為は、我々に見える現実の出来事における決定因の1つとなっているのだ。

。。。ミラーリングの起こる手順は、単なる固定的な要素に違いないと思われるが、他方、この手順から生まれるものは相対的であるに違いない。。。我々は自分達に世界を提示し、自分達の描いたものに反応する。。。世界観を変えれば、観える世界が変わるものだ。

ギリシャ語のメタノイア(Metanoia)とは改宗すなわち「心の根本的な変容」という意味である。それはコンセプトが再編成されるプロセスなのだ。。。同じ手順は、世界観の発達の中にも見られるし、さらに類縁を辿れば、問答のプロセス、あるいは、科学において提案の結果「空範疇」が埋まる流れにまで至るだろう。究極の真剣な問いを発することは、その代わりに究極の真剣な探究によって捕らえられることを意味し、答を『理解する(see)』のに必要な類の知覚に都合の良いよう、我々のコンセプトを作り直すことになる。。。問いが答えを決定し、それをもたらすのは、ちょうど、望まれる目的によって、問われる問いの性格が形作られるのと同じだ。

このような現実の機能を探求することによって、我々が、個人的また集合的に種を撒き散らしては刈り取ることの、経緯と理由が明らかになる。だからと言って、単純に1対1対応だという意味ではない。どんなアイディアも、それが成功するか失敗に終わるかは、偶然性という巨大な蜘蛛の巣次第なのだ。
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「世界観を変えれば、観える世界が変わるものだ」。凄い考え方だ!

最も重要なのはここだ。「我々の行う、見るという行為は、我々に見える現実の出来事における決定因の1つとなっているのだ。。。究極の真剣な問いを発することは、その代わりに究極の真剣な探究によって捕らえられることを意味し、答を『理解する(see)』のに必要な類の知覚に都合の良いよう、我々のコンセプトを作り直すことになる」。

これらの言明によってまたしても誘われるのは聖杯的意識の概念であり、それは「問いを発すること」であり、答を期待せずに問うことがもちろん、より完全にありのままの宇宙を見ることを可能にする鍵なのである。だが、私達はここでまたもや行き詰まる。現実の中のものが何か見えたら、人は何をすべきだろうか?ふさわしい反応は何だろう?あるいは全く反応すべきではないのだろうか?どうしたら見分けられるのだろう?

ここで目に留まるのが、「どんなアイディアも、それが成功するか失敗に終わるかは、偶然性という巨大な蜘蛛の巣次第なのだ」という1文である。私達は偶然性あるいは反応を探り始めたのだ。

まず第一に読者に思い出していただきたいのは、私達の成し遂げようとしているのは何か、ということである:私達は第3密度のリアリティにおける卒業試験と思しき「簡単な理解」に到達できるよう、私達の居る世界について学んでいるのだった。このような理解はどうやら、私達が卒業できるかどうかを決めるのみならず、次の学年で学びを始める上での準備ができているかどうかをも決めるもののようである。この準備において重要な部分を占めるのが、聖杯的意識の達成らしい。


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オーディン神は、知恵と詩の湧き出る秘密の泉を発見し、泉の番人に飲ませて欲しいと頼んだ。彼は言った:「代償はあなたの右目だ」。。。「宇宙のプール」は他のどこにも劣らず「ここ」にもある。。。進んで代償を支払い、かのプロセスが向かう場所を見極めることに専心するならば、「宇宙のプール」から何でも望み通りに得られよう。。。現実という芝居を映し出す鏡は、意識的な心による、曖昧なところのない態度表明によって焦点が定まる。「もう1枚の鏡」も自ずとはっきりしてくる。
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知恵と詩の泉から飲むために支払わねばならない代償である「右目」とは、既に見たように、私達の、直線的、概念的な思考のことであり、これが物事についての狭い図式を良い事だと考え、他の一切を何らかの間違い、ないし宇宙と対立する無軌道なエネルギーと決めつけるのだ。左脳によって私達は、自分が信じたいことを選び取る。私達は自分が好きでないものを無視し、台無しにして、覆い隠すものだ。私達は自分が好きなものを「信じる」が、それはこのような概念に集中することで、それが現実の一部になるだろうと信じてのことである。これは一方で、私達の器官である右脳が、現実をはっきりと且つ偏見なしに観察していることを忘れているのだ。意識的認知から可能性も現実も排除する結果、心は分断され、混乱し、力を奪われてしまう。身体もこれを反映して「調子の狂ったマシン」のように動作し、機能に支障が出て、自滅してしまう」


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ロバート・フロストは文明を、大いなる森の中の小さな開拓地に喩えた。我々が空間を切り拓いた代償は決して小さくないし、「むこう側」に見える闇はいつまた迫って来ないとも限らない。カオスへの崩壊は観念を機能不全に陥れるであろう。。。闇に包まれた森は始原物質であり、無意識、そして未知の可能性だと考えたい。。。

我々の開拓地とは世界観であり、宇宙を論理的に秩序付けるよう駆り立てられた心によって構築された宇宙卵である。開拓地とはランダムな可能性に対して我々が課した組織性なのだ。

ティヤール・ド・シャルダンにとって人間の宿命とは、我々の小さな開拓地から光を、背後に広がる闇の中へと広めることだった。原始時代、我々は闇が、我々の理性というひ弱な構造物を呑み込んでしまわないかと恐れ、全ての行動は、文化の環を無傷で保ち続けることに向けられた。。。我々は自分達の概念を強化し、森の中の開拓地の目録や索引作りに従事してきた。幾分かの合意が形成されてきている。しかし、闇の森の本性は大きな問題である。というのも、森に対する我々の態度は開拓地に対する我々の観方に鋭く影響するし、我々が新たにどのような開拓地を切り拓けるかもそれ次第だからだ。
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このピアスの言葉は私達の抱える問題を明らかにしている。私達の現実(リアリティ)を創造するのは私達の態度なのである。というのも、この態度こそが私達の意識の「センター」を決めるからである。私達の意識のセンターとは、現実にアクセスする零点エネルギーである。そのような意味で私達は、意識のセンターの真の源が何であり、私達のリアリティを真に変えるためには意識のセンターをどうやってシフトさせたらよいか理解できるように物事を見なければならないのだ。

さて、状況をより良く分析するため、そろそろちょっとした仮説を立てるとしよう。

(本章終わり)
posted by たカシー at 05:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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