2013年02月03日

世界秘史 第1巻 前書き

前書き
http://www.secrethistoryoftheworld.com/


子供の頃、「人生の現実」が示される度に、私は何かおかしいのではないかと疑わしく思ったものだ。確かに、それから30歳を少し過ぎるまで、私は「普通で」あろうとし、場違いに感じながらも木に竹を接ぐような努力を重ね、「信じるべき理由を探した」ものである。だが、やがて、ある忘れられない日のこと、ついに私は大人になって、もしかして ― もしかしたら ― 王様は裸なのだと認めた。そして20年以上経った今、本書を世に問う。今や私は、何かが腐敗しているのはデンマークに限った事ではなく、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E7%8E%8B%E6%A7%98
ゾウの死体が、世界的な集合意識のリビングルームの真ん中に置かれていることに気付いた。そんなものは見るに耐えないのだ。


(※ローラの自伝『アメイジング・グレース』第10章には、14歳で「王様が裸」だと思ったとあります。
http://cassiopaea.org/2011/11/09/chapter-10-shrinks-and-rebels-or-being-fifteen-is-an-awkward-state/
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私は行き詰ったように感じた。どんな宗教も、どんなオカルト研究も、人間が見舞われる不幸や、邪悪さの本質、すなわち、そもそもどうして悪が存在するのか、という私の質問に答えられなかったのだ。
[…]
私は観察し、読み、調べた。私は神が語りかけてくれるのが聞こえるような関係を理解しようと決心した。私は何年も呼び掛けてきた。自分の言うことが届いていると知る必要があった。私は答えが欲しかったのだ。

(※14歳だった1966年6月、ハリケーンがやってきた日の午後遅く)私が木に登って実際何をしていたかと言うと、神に向かって叫んでいたのだ。

***

信仰を諦めるのは幸せなことでなかった。教えられてきたことが嘘だったと考えることも。だから、神が私に手掛かりの1つだけでも与えてくれるチャンスをあげようと懸命だったのである。

王様が裸であることに気付くような子供は頭がおかしいのだろうか?
--- )


私達のリアリティの真ん中の場所を占領している、巨大な死んだ生き物の存在を暴露しようとしてきた20年以上の間、私は私達が住んでいる、この奇妙な世界では一体何が起こりつつあるのか知りたいとの思いに駆られてきたが、その一方で科学は、すぐにもこの惑星を破壊できるぐらい長足の進歩を遂げ、他方様々な宗教は私達に、おそらく神は地球を滅ぼすつもりであり、「正しい神」を信じた方がよい、さもなければ破滅だ、と言い続けてきたのである。

ずっと「世界の終わり」が予言されてきているような世界でどうやって生きればいいというのだろうか?まともではない!

地球上のどの宗教もそう言うのだからひどい話だ!

教会に行くと、1時間半も地獄の業火や破滅の話をされて死ぬほど怖い思いをさせられた後、他所の教会に通う愚か者と同じ程にはおそらく苦しい目に遭わずに済むから、大祭司にとりなしを頼むお布施を払いなさい、とプレートが回ってくるのだ!たとえこの地上ではさんざんな目に遭ったとしても、一生懸命信心して、お布施でそれを証明すれば、少なくとも天国では報いがあると言うのである。

それは今を遡る、1982年のことで、私は小さな子供を3人抱えていた。母親として、私は子供たちに何を教えればいいか知りたかったのだ。私が信じるよう教えられてきたのはゾッとするような事ばかりだった。私が育った頃、子供たちは一様に核爆弾による攻撃が行われた場合どうしたらいいかを教えられていたし ― 私が生まれたフロリダはキューバからわずか90マイルの距離だった ― 、そして同時に、我が家の信仰していた、スタンダードな宗教 ― 主流派のプロテスタント ― の教義は、「天国で報われるよう、地上では辛い目に遭うような」日課を奨励していた。

このような世界の状態や宗教の教義に、私は懲り懲りだったのである。こんなものを我が子に伝えるべきかどうか、私は本当に知りたかったのである。
(※ローラは子供達を学校にやらずに、自分で教育したそうです。)

赤ん坊たちを抱き締めたり、彼女たちの可愛いい純真な顔 ― 周りの世の中の心配事に悩まされず、母親が安全に守ってくれるものと信じている顔 ― を覗き込むたび、「どうしてこんな事を教えられようか?」と自問せずに居られなかった。彼女たちが生まれてきたこの世界が、ゾッとするような、不確かな、罠だらけのところで、命ばかりか、魂までも常に危険に晒されるているようなところだなどと、どうして「知らせる」ことができようか?

そんなことをどうして子供達に言えるだろうか???もしそれが本当なら言わねばならないだろう。だが、もし正しくなかったら?本当でなかったらどうしたらいいのだ?

ただ1つのことだけは分かっていた:子供達の人生において何が待ち受けていようと備えになるよう、彼女達には何にもまして真実を伝えたい、ということである。胸の中に炎が燃え立つように、疑問が湧いてきた:我が身よりも愛しい、このいたいけな子らに嘘を言ってしまったらどうしよう?私は何という母親だろう?それは何たる「母性愛」だろうか?

世界の終わりという考え方は、これまでの人類史において常に人間を魅了してきたし、そしておそらくは今後もそうだろう。あらゆる宗教、哲学、秘教の中に、現在の人類の状態に終わりが訪れる、という知識についての手掛かりや比喩が存在しており、あからさまにそう主張するものもある。

いくつかの教えは、地球自体が存在しなくなるというものである。他には、人間は物質的なかたちでの存在をやめると宣言するものがあり、さらには、大いなる審判の日がやって来て、邪悪な者たちが地球上から一掃される一方、「救われた人々」は何らかの奇跡によって、新しい、天国のような「神の国」(※聖アウグスティヌス)へと還り、そこに住むのだと主張するものもある。このような考えが粘り強く流行する中心にある思想は、人類の歴史はいつかどこかで何らかの方法で始まったのだから、それはいつかどこかで何らかの方法で終わることになる、というものだ。

この仮定は、意識の持つ、物事を直線的(リニア)に考えようとする傾向に由来するものである。科学的物質主義はこの傾向を究極まで推し進めた:すなわち、「世界は生まれてきたものに違いなく、それ故、死ぬに違いない」のだと。そしてまた科学的物質主義は、生の前には何も無く、死後にも何も無いのだと主張する。科学哲学者たちは宇宙が「偶然的機械的」なものであるとし、生命が持つ唯一の意味とは、何ら意味を持たないことである、と説く。「食べて飲んで陽気にやろう。明日死ぬかもしれない」。そして、忘れられてしまうのだ。

科学的に言えば長きに亘って、物質と運動がリアリティ(現実)の基礎として受け入れられてきたし、大部分において、今後もそうであり続けるだろう。しかし実のところ、物質と運動とは未知の量xとyなのであり、一方を定義するには常に他方が用いられてきた。未知のものを、別の未知のもので定義するような不条理な事があるだろうか!つまり、科学は物質を運動するものと定義しつつ、運動を物質の変化と定義するのである。「ビッグ・バン」ないし宇宙花火理論とは、このような用語による説明である。信じられないほど高密度の最初の原子(物質)が「爆発」して運動を始めたというのだ。(最初の原子がどこからやって来たのか、それが爆発した空間はどうやって生まれたのか、この出来事の起動力はどこからもたらされたのか、といったことは未だ構想の段階である。)そして、この出来事によって、私達の宇宙およびその中の生命は、いわば「偶然に」生じた。人間は「命がけの生物進化による、善悪を超越した結果」なのである。心や精神は、生存競争によって生まれた、不可解な副産物なのだ。

普通の人にとって、テーブル、イス、オレンジは実在する物体である。これらは次元を持っている ― 厳密に3つだ ― これらは実在している。だがそうだろうか?物理学者は(そして、物知りの素人も)物体が原子でできていることを知っている。だがここからが難しい!原子をバラバラにすると(量子)、しばしば何やら非常に気がかりな特性を呈するのである。物質や力を実際に見たことのある人は居るだろうか?私達は、物質が運動するのを見ていると思っている。しかし、物理学者の示すところでは、私達が見ているのは幻想に過ぎないのである。量子/物質波は空間を運動する3次元体でありながら、私達がそれに焦点を合わせようとした瞬間に無限次元の実体で知覚不可能となるのだ。私達が目を離すと、量子/物質波は純粋なエネルギー波 ― 見えざる力 ― であるかのように振る舞うのである。

それでは、物質とは一体何であろうか?私達が存在していると思っている、この物質という状態とは何だろう?目に見えなくなるとき、物質性は無くなるであろうか?そうではないのは明らかだろう。電気やその他の宇宙にある諸力は目に見えないけれども、「物質」に作用する限りは測定可能だからだ。それでは、このような力も、私達の五感や機器によって検知されなくなると、無くなるのだろうか?私達の心や感情の精妙なメカニズムによって探知されるものは、目に見えず、測定できないというだけの理由で存在しないことになるのだろうか?

科学は基本的にこのような問いへの回答を宗教に譲り、その領域では「好きなものを信じなさい」と言われる。というのも、科学は物質的に重さを持たず、測定できないものについて論じることはしないからだ。このような観方にはさほど微妙な意味合いは無いので、人が何を信じようがどっちみち問題ないのである。と言うのも、デンマークの物理学者ニールス・ボーアが言うように「深遠な現実など存在しない!」からだ。

だから、「より深い」何か、人生に何らかの「意味」が存在すると考える人々のためには、答と言えるようなものを求めるべき場所は1つしかない:こんにちの世界に存在する3大宗教である。それらはいずれも「一神教」であり、本質的には1つの宗教、「ユダヤ教」に基礎を置くものである。

聖書では「初めに、神は天地を創造された」(創世記 / 1章 1節)と述べられている。聖書も科学も、始まりの前に何が起こっていたかについては多くを語っていないのである。聖アウグスティヌスはかつて、「神は万物を造らない前に、どうしておられたのか?」と尋ねられた。
http://6304.teacup.com/mitubasanokageni/bbs/2378
この司教は、「あなたのようなくだらない屁理屈を言って議論を発する者を入れる地獄を造られた!」と答え、この問答を終わらせたという。それ以降、このような質問は殆ど問われなくなった。

もちろん、一神教の教義にも様々な「解釈」が存在しており、「正統的」説明にとどまるものも、そうでないものもある。ある解釈者達は、人生の意味につき、それは霊的な自己修養を行い、来世あるいは未来の人生をより良いものにすることにのみ存すると言う。他の解釈者達は、人生の意味がエゴを解消し無になるよう勤めることにあると言う。もっと最近のヴァリエーションにはこういうものがある。すなわち、人生の真の目的とは、私達が1つになれるよう、皆で連携して「自ら現実を創造する」ことであり、そうすることで私達は種としての統合を成し遂げることができるのであり、その結果、「アセンション」できるのだと言う。すなわち、予言されているような、千年の間続く天変地異が、まさに始まろうとし万物が普通でない壊れ方を始める寸前にラプチャーされるというものだ。当然ながらこのような効果は、集合意識を高める努力無しでは始まらないし維持できないとされる。これらに似た考え方を組み合わせたようなものもある。だが、これらは私達をどこに導こうとしているのだろうか?

本当に私達は、偶然的な宇宙で偶々進化した結果に過ぎず、忘れ去られる以外の定めを持たないのだろうか?あるいは、さらに悪いことに、知識や高尚なものを信じたり求めたりする私達の心こそが、最大の欠陥なのだろうか?このような疑問を抱いたりしたら、宗教から地獄に落とされ、問うてはいけないことを考えていると、科学から冷笑されるのだろうか?選択肢は悪い冗談か間違いかのいずれかしかないようだ。

それでもこう問わねばならないだろう:どうして私達は、物質的滅亡が現実に可能性を帯びているような世界に生きているのだろうか?と。私達は本当に、奈落の底のヘリに居て、バランスを失い、決して出て来れないような、深く暗い穴に今まさに落ちようとしているのだろうか?

未来については2つの主な理論がある。未来は予め予定されているという考え方(運命論)と、未来は定まっていないという考え方(不確定論)だ。運命論は、あらゆる未来の出来事は過去の出来事の結果であり、全ての過去を知れば、全ての未来を知ることが出来るだろうと論じる。

不確定論は量子論的「可能性」に基礎を置く。未来は全く定められていないか、部分的に定められているかのいずれかである。なぜなら、どの瞬間にも、様々な相互の働きかけが可能だからだ。この「自由意志」の理論によれば、熟慮の上で自発的に取った行動が、その後に起こる出来事に変化をもたらすかも知れない。運命論の支持者は、いわゆる「自発的な」行動も、実際はそうではなくて、私達の限界のためにその原因を知ることができない出来事に過ぎなく、その瞬間に必然的で避けがたい行動であって、つまり偶発的なものなど何もないと言う。

一方はまったく「冷ややかな運命論」者となり、「何も変わらないのだからどうにでもなれ」、という態度を取るようになり、そしてもう一方には、「現在」と呼ばれる針の上に載せられ、四方八方を非存在の絶壁で取り囲まれながら「未だ存在せざる未知の国」への旅という人生観がある。

「スタンダードな信仰」の外に答えを求めて問いかけを行い始めた時期に、私はP.D.ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』の以下の1節と出会ったのだった:


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あらゆる瞬間において、すべての未来は決定され、すでに存在しているが、それは条件付きの未来である。すなわち、ある瞬間の出来事の方向に沿った一定の未来は存在するが、それは何も新たな要素が入ってこなかった場合である。そして新たな要素は、「意識」と、その結果生まれる「意志」によってのみ生じる。。。「過去」の中には、過去に「そうであったもの」ばかりでなく、そうであり得たものも含まれている。同様に、未来の中にはそうであり得るものも含まれている。
(高橋弘泰訳、43-44ページ)
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つまり人間には自分達の周りで明らかに形成されつつある未来とは違ったものを選び取る可能性があったのである(念のために言えば、その可能性もあったというに過ぎない)。このような選択が、未来を「予見する」努力を行った人にしかできないことは明らかだと思った。つまり、その時点で正しい選択を行う唯一の方法は、その結末について多少なりとも分かっていることなのだと。

もちろん、私達を取り巻く「スタンダードな宗教」は、常にその類の事を言っている:彼らの答えはこうだ。人間に為し得る唯一の変更とは、「正しい神を選んで」、十分に強く信じることで、そうすれば、この神が介入して来て、物事を正しい方向に取り計らってくれるのだ。すなわち、信仰の証を立てたあかつきには、神が奇跡によって現実に干渉するか、あるいは、少なくとも善人たちは窮地から引き出され、同時に、判断を誤って邪神を信じた悪人どもは苦難に遭うという。

実際に数ある宗教の全てについて、その実績を調べない限り、言ってみれば、どれが「正しい神」なのか判定できない、と私が決心したのはまさにこの時だった。何と言っても、これだけ様々な信仰が地球上に存在するのだから、どれかは正しくてその他はそうでないと仮定したのだ。さもなければ、どれも例外なしに正しくないのだろう。

世界が明らかに混乱に陥り、殆どアメリカじゅうの全ての教会の、全ての説教師が「終わりの日は近付いた」と熱っぽく宣言する状況の中、私はこのプロジェクトを続けた方が良いと判断したのだ。何と言っても、ちび達の面倒を見ていたのは私だったし、何にもまして、判断できる限りの真実を子供達には伝えたかったのである。つまり、子供たちに真実を伝える前に、何が真実であるかを判断することに私はあらゆる努力を尽くして当然なのだった。煎じ詰めればこうだ。パンを欲しがる子供に石を与えるだろうか?魚が欲しいと言うのにヘビを与えるだろうか?私は子供たちに出来る限り正しい情報を与えたかった。子供達への愛こそが私の真実探究の基盤であり、主なモチベーションだったのである。

赤ちゃんたちへの愛から私は、危険を覚悟で自分自身の信仰を見直し始め、更には、彼女たちの質問に対する答えを探す勇気を貰ったと言って良いだろう。

そしてこれは未だにそうなのだ。

これは、宗教や「より深い現実」 ― 物質主義一辺倒の物理学の彼方にあるもの ― を科学の方法を用いて研究するという行き方となった。

始めてみて分かったのだが、このような方法論を採用しているのは私が最初ではなかった。だから、調査すべき文献は実際、膨大な量だった。私はこれを、集中的かつシステマチックに、今や20年以上も行ってきているのである。

カシオペアンとの交信はこのプロセスの一環に過ぎなかった。「高次の意識」にアクセスするという、この実験を振り返ってみると、当時そのようなものが存在することを、私は理論的に想定してはいたものの、「シーズから」もたらされたものの殆どは、私自身の潜在意識からのものであるという考えに傾いていた。何と言っても、私は人生の殆ど全てを、歴史から心理学に至るあらゆる本を読むことに費やしていたのである。難問に取り組んでいる科学者が、やがて全てのパラメーターを調べ尽くしてしまい、異なる分野のやり方を取り入れた、新しい方法の夢を見て、問題を解決するという現象も、科学の歴史では有名である。ベンゼン環の発見がその例だ。だから、シーズは「私達は未来のあなた方である」と明言するものの、「シーズから」もたらされた文書が、単に似たようなプロセスの結果なのだと言っても、拡張解釈のし過ぎではないだろう。

注意深い読者は気付かれるだろうが、シーズ文書の殆どは、私達の世界の歴史や、事件の背景の隠された動機に関するものである。これらは確かに私の関心事 ― 事件があって、そこで選択された行動の結果、ポジティブやネガティブな未来がもたらされ得るということ  ― である。だから、おそらくは、私の膨大な量の読書が、私自身の潜在意識あるいは、超意識によって、全く新しい方法で分類され編集されたものであろう。

そうであろうとなかろうと、私見ではこの文書の有用性が損なわれるということは全くない。1つの夢がベンゼン環の発見をもたらし、科学における1つのブレークスルーが達成されたのである。だから、リアリティ(現実)の持つ全てのパラメーターを調べようと協力する結果、やがて、リアリティがそれ自体を分類し、全く新しいプロセスにより再構築を行った上で「カミングアウト」することを「可能にする」ものらしく、これは多くの面で非常に実り豊かであることが証明されたのである。

アークは最近、このアプローチの本質に関して、ボリス・ムラヴィエフの著作『グノーシス』の編集者であり注釈者である、ロビン・エイミスと議論を行っている:


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アークからロビン・エイミスへ:

あなたはこう述べました:

1)科学的方法には限界がある。

2) 知識は、たとえば「霊的な(noetic)知識」を含み得るように、もっと広い視点で理解されるべきである。特に:

a) 通常ならば宗教に関係するものの中に、知識の真の形がある。

b)知的訓練を経た人々はそれを、全然、知識と見做さない傾向がある。

3)あなた方の「プラクシス(Praxis=実践)協会」こそが、このもう1つの形の知識を教えるもので、それはプラクシスから伝授されるときにのみ理解可能である。

4) プラクシス(および他の宗教)が「判断保留」に頼る理由は、「この文献を研究する新参者達が、それが正しいという確証を直ちに得ながらも、十分深い理解に達しない」からである。

上記の諸点について、私の考えを述べ、敷衍してみようと思います。そして望むらくは、将来の議論のために何らかの新しい考えを付け加えてみましょう。

第1点)同意します。全く同感です。実際、そのことを意識していてこそ科学者は本当に科学の限界や弱さを知ることができますし、彼らはまた、数多くのトリックや駆け引き、そして、インサイダーである科学者にしか分からない嘘にも気付いている筈です。

第2点)そのような知識が存在するという点に同意します;それが重要であり、実際、鍵を握るものであるというのは同意見です。そして、私達のウェブサイトや出版物で、「科学」や事実のみならず、「知識」の重要性を強調するのも、まさにそのためなのです。真の知識が得られるかどうかは、事実からスタートして、真の知識に至る手掛かりへと進むかどうか次第ですし、また、仮定からスタートするのなら、最初は嘘かも知れないことに依りながら、あらゆる事実を解釈するかどうか次第です。

a)この「真の知識」が、「宗教に関係」 する/していた/するに違いない かどうかは議論の余地があります。

「関係がある」という言葉はやや曖昧で、誤解を招くおそれがあります。科学もまた、宗教と関係があるのです。ローマ法王には科学アドバイザーが居ます。ヴァチカンは科学研究を支援しているのです。

他方、過去における ― そしておそらくは依然として ― 歴史的な大罪の数々もまた、何らかのかたちで宗教に関係していました。

宗教も、虚心かつ批判的に分析するならば、グレーな点が多く、この理由を分析するのは容易な仕事ではありません。

しかしあなたも同意して下さることを期待しますが、宗教にこのようなグレーな点が多い理由の1つは、人々が、自分達は(他の人々と違って)「真の知識」を持っていると信じ込んでいるからなのです。

「真の知識」という概念もまた同じく危険なものです。人間が2人居れば、彼らが別々の「直交する」真実を抱いていることは想像に難くありません。一方にとって真実とは、他の人を殺さねばならないということかも知れませんし、他方にとっての真実には、殺されるのを避けることが含まれているかも知れないのです。ノエティックな真実には、いずれも地に足の着いた意味があるのです。私はそう思います。

b) 一般的な傾向ということなら、あなたの意見に同意しますが、例外もあります。歴史に残る偉大な科学者達は、同時に「神秘主義者」でもありました。ほんの数例を挙げてもパスカル、ニュートン、ポアンカレが居ます。ですから確かにあなたが使った「見做さない傾向がある」というのは適切な言い方だと思われます。ですが、そうであればこそ、科学者であることが同時に他の形の知識を知覚することと、本当に矛盾するのかどうかは重要な問題です。あなたも同意して下さるでしょうが、私には本質的な矛盾は無いと思います。

第3点)これはもちろん、あなた方プラクシス協会がそのような知識を持っていると仮定しての話ですね。多分そうなのかも知れませんし、プラクシスが持っているのは単なる『知られざる教えの断片』
http://homepage1.nifty.com/pdo/TakingWiththeLeftHand3.htm
に過ぎず、全体像ではないのかも知れません。

科学者として私は、常々注意しているのですが、何かについての完全な「知識」を持っているという言い方は決してしないようにしています。確かに、ツールや理論、公式、データ等々については知っているかも知れません。ですがある日、私の使っているツールやデータ、理論や公式の全てが、全体の構造をシフトさせるような、ただ1つのデータが見つかったために、間違っているか無用であると証明されるかも知れないのです。真の科学者というものは、これを受け入れなくてはなりません。科学において重要なのは、驚きや新しいパラダイム・シフト等々を常に受け入れることなのです。

ですから、思うにあなた方プラクシス協会は、現時点であなた方が「真の知識」であると信じている事を教えているのでしょう。そう信じる確かな理由があるのだと思います。あなた方はおそらく、知識の非常に重要な断片をお持ちでしょう。それは私達の調査からもそう思います。ですがもしかすると、あなた方は未だに他の重要な断片のいくつかを持っていないかも知れません。これもまた、私達の調査結果から言えることです。

次なる予期しない発見によってどこに導かれるか、前もって知ることなどできるでしょうか?

さて、ここでいくつか建設的な ― と私には思える ― コメントを致しましょう。

「私達の文明」の歴史を見てみますと、宗教はどうやら、「科学」よりも長い事存在しているようです。ですが、宗教は失敗しているのが分かります。その教えにも拘わらず、人々は未だに、絶えることなく互いに戦争しているのです。人間は良くなってはおらず、しばしば彼らは動物よりも悪い有り様です。グルジェフは私達の状況 ― 私達の現実の全般的な状況 ― を見て、「状況の恐怖」
http://homepage3.nifty.com/MRG/books/beelzebub_outline.htm (→第26章)
だと述べています。このように悲惨な状況なのは、見れば分かる通り、宗教すなわち、様々なヴァージョンの神々に「権力」を認めることが、実際には何とも大きな過ちだったからなのです。

後から現れた科学は、前千年紀に爆発的進歩を遂げたのですが、やはり失敗しました。それは人類を自滅のきわに追いやったのです。数学、物理学、そしてコンピュータ科学の進歩によってもたらされた「応用ゲーム理論」においては、「戦争」が「ゲーム」と呼ばれ、「ゲームに勝つ」とは、できるだけ多くの人々を、なるべく低コストで殺すということなのです。

全く何ら希望はないのでしょうか?あるとしたら、どこにでしょうか?

おそらく、今こそ何か新しい事を試みるべき好機ではないでしょうか?おそらく、「科学と神秘主義との結婚」のチャンスではありませんか?

科学と宗教の良い所を取って、悪い所は捨てようじゃありませんか?

宗教のベストな所はどこでしょうか?

宗教は私達に、虚心坦懐に、到底「理性的」とは言えないような可能性も受け入れるよう教えてくれます。宗教は私達に、特異な出来事、奇跡、現象であって、はかなく、滅多に繰り返さないようなものに注意するよう教えてくれます。最後に宗教は、外見だけでなく自らの心の中をも覗き込むように:汝自身を知れ、と教えてくれます。

宗教的アプローチの長所は、偶然にも、科学の弱点となっています。

科学は往々にして了見が狭く保守的で、何事も物質的で、厳格に反復可能でなくてはならないという制限を課します。科学は「外側」にあるものを教えてくれますが、それは「内側」とは結び付いておらず、それは捕捉して重さを計り、測定したり操作可能でなければなりません。そういう訳で、新しいパラダイムの登場は痛みを伴います。でも科学においては、新パラダイムの登場は起こり得ますが、宗教では滅多に起こりません。宗教は「固定的」で、教条主義的、議論を受け入れません。

科学のベストな所はどこでしょうか?

科学は批判や議論を受け入れます。たとえ地球上の多くの勢力が、科学における宗派のようなものを作ろうとしても、科学理論は一般的に、公表され、公然と議論されねばなりません。私達は、他の人々の論文と同様にアインシュタインの論文の誤りを見付けることができます。それらは公表されていて入手可能だからです。誰でも好きなだけ進んだ数学を学ぶことができます。そのために、研究論文や記事を読んだり、カンファレンスに出かけて他の科学者と議論することもできます。

科学の強みは、偶然にも宗教の弱点になっています。宗教は何かにつけて、常に「秘密」にします。単に変更不可、質問不可ということを宣言するのにも、秘密主義を採用するのです。と言うのも、神に関する究極の真実が「謎」、「秘密」だからです。そういう訳で、宗教の教えはたやすく歪められ誤解されます。中央の「権威者」が宗教の「頂点」に立って、信奉者たちに正しい解釈を宣言し、それ以外は許さないということがたやすくできてしまいます。

第4点)あなたが生徒に関して言った、長い間判断できないというのは、確かに本当です。でも、そのような判断を保留させて、その気を挫くのが唯一の解決法かどうかは、私には確信が持てません。

確かに過去においては、そのような方法がとられていました。エクソテリック
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=60473117&comm_id=2590126
であれエソテリックであれ、グループというものが普通、少人数だったのです。旅行やコミュニケーションの可能性は厳しく制限されていました。しかしこんにちでは、質的変化が起こっています:私達は今やネットワーキングによって、瞬時に地球の裏側ともコミュニケーションできる時代に生きているのです。

だから、別のアプローチが可能なのです:生徒を少数にしぼり、「彼らに未だ準備が出来ていなくても教える」(※アビラの聖女テレサ『霊魂の城―神の住い』?)代わりに、準備の出来ている人々に語り掛けることができるのです。

昔はこんなことは容易には出来ませんでした。教師は、少なくとも何百人という、単なる生徒になりそうな人々に話しかけなくてはなりませんでした。でも、今は何百万人にも話しかけることで、これが可能なのです。

未だ次の段階に向かう準備が出来ていない人には、そこに留まるなり、元居た場所に戻るなりしてもらえばいいのです。準備の出来ている人々なら、あなたを見付けるでしょう ― あなたはネットワーキングを効率的に行うように注意しさえすればいいのです。

だから、私は生徒に判断を急がせて、未だ準備の出来ていないテーマを論じさせて落胆させたりはしません。たとえ彼らが間違った結論に達して去って行こうが、攻撃して来ようが、それは彼らの自由意志なのです。彼らには心の赴くままに、歩ませましょう。

少なくとも私達のQFS(原注1)ではこのようなアプローチを行っています。もしかしたら間違っているかも知れませんが、可能ならば、常に様々な方法を試すに越したことはありません。
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原注1:クォンタム・フューチャー・スクール


その通りである。私達は科学と神秘主義とを結び付けようとしようとしているのであり、それはこのアプローチに同調するごく僅かな人々のためなのだ。新しいカシオペア・ウェブサイトの外観や強調ポイントを見直す際にも、この点を効果的に伝えることを念頭に置いた。このアプローチには興味がない「探究者たち」が、「ニューエイジ」という環境に数多いことは十分承知している。彼らはグルを、彼らが選び支持すべきメシアを求めているのだ。アークが書いているように:この「自由になる」という段階に向かう準備が出来ていない人々には、そこに留まるなり、元居た場所に戻るなりしてもらえばいいのである。故に、もし読者が自らの幻想に基づいて結論を出されるなら、それは、あなたの自由意志であって、私達としては何の不服も無い。誰しも、自らの心の赴くところに向かうべきなのである。

もちろん、シーズがもたらした情報の中には、潜在意識が私の長年の読書から利用できた大量の文献を「再編」しても、明らかに出て来ようのないものもある。これは、「グループの努力」によって交信するという、全く新しい方法のせいだろうか?交信内容のいくらかはおそらく、他の参加者のデ−タバンクから引き出された内容ではなかろうか?そしておそらく、データのいくらかは ― 私のものも他の人々のものも ― 無意味なのでは?これらはいずれも、私達が交信文を分析し、検証し、テストする際に考えるべき問題である。

交信文の中には、さらにもう1つのカテゴリーが存在する ― 後になって洞察に満ちたものだったと分かるようなものなのだが、どの参加者の潜在意識データからももたらされようがないものだ。

それとも、誰かのデータなのだろうか?

おそらくは、政治的、社会的に起こりつつある事に対する気付きが、ベンゼン環の発見へとつながった情報に対して行われたのと同じように「編集され再構築された」のではないだろうか?おそらくは、自分達でさえ気付かないうちに膨大なデータが収集されていて、それに基づいて潜在意識が確率を計算したのではないだろうか?おそらくは、「あの世での」数々の過去生の観察に基づく、膨大な量のデータが潜在意識内に蓄積されて、非常に複雑な「データのソート」や「確率の試算」を行った結果ではないだろうか?

結局はおそらく、カシオペアンとの交信文について、完全に科学的・即物的な説明があるのだろう。だがちょっとだけ例外があって、それらについては、どの参加者の意識ないし潜在意識の一部とも思われない情報 ― 地球上でもごく僅かな人々しか知らない、検証に相当な調査を要するものがあるのだ。とは言え、それらとて、遠くに居る未知の人々のデータバンクに存在しているような情報にアクセスする能力が証明されたに過ぎない。

しかし、それは問題ではないだろう?唯物論科学の観方で測定可能として受け入れられるものを超えたリアリティが、存在するかも知れないという小さな手掛かりが見つかっただけのことではないか?

ちょうど、ある種の機械を使えば、赤外線、紫外線、エックス線、電波のような、特定の帯域の光を受信して、それを増幅できるのと同じように、私達のいわゆるサイキックな知覚も増幅できるのだろう。私がカシオペアン実験を始めた当初はこのように考えていたのだが、まさかそれが「未来の私自身」との対話に発展しようとは思いもしなかった。

脳は数学モデルが表現しているリアリティにフォーカスできるよう工夫された機器である ―― 波形を有形物として解釈するのだ。私が当初考えていたのは、普通だと3次元の知覚範囲を越えるような帯域のエネルギーを、単に受信できるだけでなく、現実に適用することで、それを再現できるようなプロセスだった。このようなプロセスを開発するということは、無数の波形の効果を知覚できるだけでなく、振幅やエネルギーによって、特定の運動の結果を、おそらくはとても正確な言葉でもって予知できることも意味する。

もちろん、3次元を超える上位次元の時空について述べることは、本質的に、比喩的なものにならざるを得ないだろう。だから、私達の心が持つ有限性はある意味、自ら制限しているものと仮定できよう。私達が作り出す機器はいずれも、それらが3次元的であるという単純な理由から、おそらくこのような領域に入り込むことができないと思われる。私達にとって、このリアリティを超えられる唯一の物質的な方法とは、時空を超越する、数学による方法だろう。

実際、まるで古代の秘教の教えに出て来るような挑発的な多くの研究が物理学において為されているのであるが、私達の世界の背後にあるリアリティの本質には、量子力学理論でも歯が立たないかも知れない。

アーク:ホイーラーはこのことについて簡潔に述べている:
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26607719&comm_id=2590126
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=71220977&comm_id=2590126


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宇宙は確実性よりも不確実性だらけだと仮定するのは当然のことである。私達が宇宙について知っていることは ― 知り得ることと言うべきか ― 、私達の理論という張り子の上に漆喰で固定した、数本の鉄柱という観察の上に成り立っているのだ。
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(※” Geons, Black Holes, and Quantum Foam: A Life in Physics (1998)”)


ポパーは以下の重要な言葉を残している:


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。。。あらゆる説明科学(は)不完全である。。。というのも完全であるためには、それ自身についての説明も与えなければならないだろうからである。さらに強力な結果は、形式化された算術の不完全性についてのゲーデルの有名な定理のうちに、暗黙のかたちで含まれている(もっとも、この文脈でゲーデルの定理や他の数学的不完全性を用いることは、比較的弱い立場に対して重装備の論証を用いることではあるが)。すべての物理科学は、算術を用いているのだから(そして還元主義者にとっては物理的な記号で表現された科学のみがなんらかの実体をもつのだから)、ゲーデルの不完全性定理は、あらゆる物理科学を不完全にする。非還元論者は、あらゆる科学を物理的に表現された科学に還元できるとは信じていないのだから、科学はいずれにしても不完全である。

(※explanatory science
説明科学◆現象を記述するだけにとどまらず、その奥に潜む因果関係や目的を説明しようとする科学。◆【参考】descriptive science)

哲学的還元主義は誤りであるばかりでなく、還元という方法が完璧な還元を達成しうるという信念も誤っているように思われる。われわれが住んでいるのは、創発的進化の世界である。その世界は、いいかえるなら、問題が解答されたとしても、解答が新しくかつより深い問題を生じさせるといった問題からなる世界である。したがってわれわれは、創発的新奇性、つまり、原則としてなんらかの先行段階に完全に還元されることのありえない新奇性の宇宙に住んでいる。
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それから彼はこう付け加える:


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にもかかわらず、還元を試みるという方法は、じつにみのり豊かである。というのも、その部分的な成功、部分的還元によって、多くのことを学べるばかりでなく、部分的失敗、つまり、失敗が露呈される新しい問題によっても、学べるからである。未解決の問題は、その解決とほとんど同じくらい興味深い。じっさい、未解決の問題は、ほとんどあらゆる解決がそれ自体でさらに未解決の問題からなる新しい世界全体を開くという事実があるからこそ、まさに興味深いものとなるだろう。
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カール・R・ポパー『開かれた宇宙 ―非決定論の擁護―』(小河他訳213ページ−)


本書でこれから見るように、先人たちはずっと多くの真実を知っていたのであり、実際、彼らが遺した詩や曖昧なメッセージは、深い、神秘的なリアリティーを表わすものだ。神秘主義者や予言者達は ― 「未来の私自身」とのコミュニケーションもそうだが ― 、量子状態を知覚していたようであるが、このことを言葉でもって論証するのは難しい。

原因/結果のリアリティを同時に見るという体験を持続的に行うことは、絶えず3次元的解釈に翻弄されている私達には、大いに困難を伴う。

カタツムリに1エーカーの土地の広さを説明することの困難さが想像できるだろうか?!神秘主義者や予言者達は何千年にも亘ってこれを試みてきたのだが、人類の圧倒的多数は、そのような概念を完全に誤解するという結果に終わっている。そして、耳を傾ける者が誤解するならば、真実も嘘と変わりがないのであり:最大の嘘とは、真実を理解していない人々によってつくられた、闇の邪悪な宗教体系なのである。


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自分が何かをどの程度本当に信じているかは、その真偽が生きるか死ぬかの問題になるまでは、決して分からないものだ。
(※ http://www.clife.info/sda-osaka/05/050530.html )
一本のロープも、荷物を縛るために用いる限りにおいては、十分に強くて安全かもしれない。しかし、そのロープを用いて断崖からぶら下がらねばならない状況になったと仮定しよう。そのとき初めて、自分がどの程度それを信頼していたかがわかるのではないだろうか
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C.S.ルイス
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66792107&comm_id=2590126
『悲しみを見つめて』

(※ http://takapachi1962.seesaa.net/article/304691925.html
960714
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Q:(L) C.S.ルイスが言ってるんだけど、知識とはロープみたいなもので...箱を縛り上げる分には、丈夫かどうかは問題にならないけど、断崖絶壁からぶら下がるのに使うんなら、自分の体重を支えきれるかどうか、完全に納得するまで調べる必要があるのね。

A: Yes.
--- )


ローラ・ナイト=ヤズィック
posted by たカシー at 07:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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