2012年12月10日

ザ・ウェイブ 第8章:どこを見ても神の顔あり

http://cassiopaea.org/2010/05/08/the-wave-chapter-8-everywhere-you-look-there-is-the-face-of-god/

ザ・ウェイブ 第8章:どこを見ても神の顔あり


前節で大事なポイントがあったので、焦点を当ててクローズアップしておきたい。カシオペアンの語ったところによれば、ウェイヴの接近は人類の少数における気付きの増加に見合うかたちで進んでいるようなのだ。いや、むしろ、ウェイヴの接近こそが気付きを増大させているのであって、さらに気付きはウェイヴを加速させる…言わばフィードバックループなのだ。

それだけでなく、どうやら一定の学びを終えた人々だけが、第4密度へと卒業するということらしいのである。私の理解しているところでは、残りの人々は第3密度の地球に残されるのだが、そのとき地球は、おそらく戦争ないしは彗星の衝突によって壊滅状態で、文明による装いは一掃され、多分、これは確信しているわけではないのだが、文明を再建するために必要な概念操作能力も、新たな「宇宙線に曝される環境」のせいで限られてしまうようなのだ。こんな見通しには不愉快を感じる向きもあるだろうが、そうでない人々もいて、第3密度で初めからやり直して何千何万年もの間に沢山の人生を送り、「肉体の悦び」に耽る方がずっと魅力的だという考えを抱いている。

もちろん、このシナリオだと、何千何万年にも及ぶ戦争、飢饉、病気、虐待等々もまたもたらされることになるのだが、それも第3密度での生存にとっては重要な構成要素であって、彼らにとってはそれも、個人の名誉・富・権力を増大させ、悦楽を得るためには支払わねばならない対価に過ぎない。STSモードというものは常に、「そんなの自分に限っては起こる筈が無い!自分だけは例外だ!」という希望的観測をするものなのである。

もう一つ重要な問題があってそれは「重力」である。カシオペアンが言うには、STS(自己への奉仕)モードとは、重力を集めることの反映であり、STO(他者への奉仕)は重力を分散させることの反映だというのだ。これが意味することは何だろうか?そしてその派生的な意味合いとは?それは、私が『ノア・シンドローム』(原注1)の中で論じた「接触電位差」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=60682009&comm_id=2590126
http://kotobank.jp/word/%E6%8E%A5%E8%A7%A6%E9%9B%BB%E4%BD%8D%E5%B7%AE
と類似の概念だろうか?その意味するところとは、この星における、コントロールすることを欲する勢力、人類をうまいこと騙してきた連中は、実際にはウェイブを私達のリアリティに「引き付ける」ことに貢献しているのであろうか?それこそまさに、連中が避けたかったことなのだろうに。


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原注
1:この本は既に出版準備が出来ている。今すぐアマゾンでお求めいただきたい!
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そして、「重力収集」モードにある人が、ウェイブに「打たれる」とき、どういうことになるのだろう?それは「重力分散」モードの人とは違った影響となるのだろうか?

とは言うものの、他の多くの人々は卒業準備のために学ばねばならないことが何かを知りたいと思っているのである。そこに行くには、高いレベルである必要はないようなのだ...私達は単に「ここ」がどういうところなのかをできるだけ徹底的に学びさえすればよいのである。このことは、物事に対し違った側面から光を当てるものだ。というのも、「霊的に」前進すべく励んできたほとんどの人々は、自責の念の重荷から解放されることになるからである。彼らは自分たちがまだ霊的進歩が不十分で、高いレベルの活動ができないのではないか、あるいは、自分たちに何らかの過ちないし欠陥があるために、置いていかれるのではないか、と考えているのだ。

どうやらそういうことではなさそうなのだ。むしろ、私達が行わなくてはならないのは、可能な限り完全にこの密度におけるやり方の習得に専念することなのである。ある人が次のように言ったからといって何のためになるだろうか?「ああ!私はこの世の中では役割を果たせない。だって何事につけ、私はホントあまりにスピリチュアルなものだから!」だが本当のところ、このような人はこの世界の現実や成り立ちにつき理解する手掛かりが無いために、自らあるいは他人にとって効果的かつ有益なやり方で、この環境においてうまく働くことが出来ないのである。精神的生活の向上その他諸々のために瞑想したりワークしたい、というのは大いに結構なのだが、実社会において何ら実践的な結果を残さないならば、そのような人はまだこのレベルでの立ち回り方から学ぶべき事があると考えるのがもっともではないだろうか?前章からの以下の引用は、この点に関してこれまでとは違った新しい観方を提供するものである。シーズは尋ねる。「そこに着く前に『理解』しなくてはならないなんて誰が言ったのかな?」最も重要なのは、人は第3密度での全ての学びを終えていなくてはならない。すなわち、「カルマ等についての簡単な理解」をである。この学びがどのようなものかに関する手掛かりとして、シーズは以下のように述べている:


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オーライ、あなたは事実が知りたいんだね。それじゃあ教えよう。理解してくれるといいんだが。今は無理でも、必要になれば多分わかるだろう...

事実1:全ての存在するものは、学びである。

事実2:これは1つの大きな学校である。

事実3:あなた方が知覚するタイミングは決して、決して確定ではない。

事実4:起こるであろうとあなた方が述べるようなことは的外れで、あなた方が学びのサイクルのその地点に到達するまでは起こらないし、あなた方はまだ近づいても居ない。さあ、あとどんな事実があるか考えなさい!!。。。

事実5:学びのサイクルは変わりやすく、そのサイクルにおける進歩は出来事や環境の展開によって決まる。
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私は多くの人びとから、「知識を求めること」について質問のメールをもらってきた。そういう人たちには、知識を得たり集めるたりすることがSTS的行動だと思われるようだが、同じセッションでシーズは、「それは(STS的な)情熱ではなくて、魂の探求だ」と言っている。

そしてもちろん、「飛躍」についての疑問が湧いてくる。すなわち、第3密度の部分をスキップして万事が素晴らしく幸せで平和な高次元へと直に戻って行けないか、ということだ。この種の考え方は、当初は単なる思い付きだったにせよ、相当にSTS的であると知るべきである。というのは、ここで意図されているのは結局のところ、この密度での学びのためのハードワークから逃れたい、ということに他ならないからである。「快適お手軽」なのが良くて働くのは御免という訳だ。このような人々は車座になって瞑想に耽り「おーうーむー」と詠唱しつつ、地球上を彼らの「無条件な愛と光」で爆撃して、他の衆生がちゃんと彼らのプログラムに取り組めば今にも昇天できると言うのである!(「彼らのプログラム」というところが、愛と光の「無条件性」と矛盾していることに注意!)

それにしても、私たちがここで行うべきこととは何かについて論じておかねばならない。相手がカシオペアンにせよ他のチャネリング先であるにせよ、このことについて話す際の要点は、私たちは全ての学びと体験を終えるまで、ここに居て学び体験し続けなければならないのか?ということである。

学びのサイクルを加速させること、および進歩は出来事や環境によって決まるという考え方については、次の言明によって幾分明確になる:

いいかい、密度は人の意識的な気付きのみに関わる。人が一旦気付けば、万事はその気付きに従う。

これこそ、私達の人生における出来事やその兆候について理解するための極めて重要な鍵であるように思われる。「人が一旦気付けば、万事はその気付きに従う」この真の意味はどういうことなのだろうか?

コリン・ウィルソンは、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42315212&comm_id=2590126
リンダ・モールトン・ハウ
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30646584&comm_id=2590126
の著書『垣間見えた別のリアリティ』の序文に以下のように記している:


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かくも強力な一連の反応を呼びこされた本は読んだことが無い。繰り返し私はこう考えずにはいられなかった:「もしこれが真実だとしたら、私たちは皆眠っているのだろう。何か途方もない事が起きている。遅かれ早かれ、この地球上の全人類に何らかの影響が及ぶことになるのだ。それなのに我々は、ヴィクトリア朝時代の安全保障の中でくつろいで生きているのである」

以下の疑問が脳裏に繰り返し浮かぶ:これが全て真実だとしたら ― たとえその半分が真実であるだけでも ― どうして大部分の人びとはこれを無視できるのだろうか?どうしてライターのフィリップ・クラスや今は亡き天文学者のカール・セーガンのような懐疑派は、UFOが何らかのヒステリックな妄想だと断言できたのか?

。。。私には受け入れがたいと思われることもある。例えば、エイリアンは時間を遡って旅することができるというような考え方だ。私は常々タイムトラベルは不可能だと思って来た。そこには明らかにパラドックスが存在するのだ。例えば、5分前、あるいは5秒でも構わないが、その時点の「自分」に遡ることが可能で、「以前の時間に居る自分」を現在に連れてくることができるとしたら、「自分たち」が2人居ることになってしまう。

。。。やがて心霊研究を扱うライターとなった私は、かれこれ30年前には現実の予知を受け入れていた ― 未だ起こっていない事を完全な正確さでもって予見する人々が居るのである。しかし、カオス理論によれば、数日後の事でさえ何が起きるか予見する科学的な方法は存在しない。

リンダ・モールトン・ハウやジャック・ヴァレー、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51489232&comm_id=2590126
そしてジョン・キール
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=54063152&comm_id=2590126
他のUFO現象を研究してきた人びとと同様、気付いた時には私は、全く入り組み矛盾に満ちた大量の情報を包含できるような一般理論を定式化しようとしていた。

。。。現象の全体像を見ようとして、私は1956年に『アウトサイダー』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3
を書いて以来、自分の全作品の中心に位置している、最も基本的な直観に立ち返ってみた:すなわち、人間の意識はどこか妙におかしいのである。地球上の他のどの動物より遥かに進化した我々は、代償として笑止千万な狭量さに囚われてしまった。すなわち我々は、長い望遠鏡の端からリアリティを見る結果、木を見て森を見ずという有り様なのである。我々は世界をしゃくとり虫の視点から見ているのであり、早急に鳥のような俯瞰する視点を持たねばならないのだ。

。。。ここまで進化を遂げた我々に最も必要なのは、知的視点の変化である ― 我々は宇宙において孤独でないことを認め、自分たちの持っている知性をもっと積極的に活用しなくてはならない。狭量さの結果、我々は無気力という催眠状態になっているのだ。

。。。我々に今求められているのは、好むと好まざるとにかかわらず、より全宇宙的な視点であると私には思われる。このことを我々に告げようとしているのが「エイリアン」なのか、それとも、ずっと大きな何かなのかは分からない。だが、我々は目覚めるよう確かに言われているのだ。UFO現象 ― あるいは関連する多くの現象 ― は、「別のリアリティや次元」が存在しており、我々は草原で反芻している牛たちのようには生き続けられないことを受け入れるよう我々に迫る。

。。。今起こりつつあることを無視することはできず、皆が注意するようになるまで、粘り強く注目し続ける必要がある。
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コリン・ウィルソン同様、私自身のUFO現象との出会いも強力な体験だった(これについては拙著『ハイ・ストレンジネス』で述べた)。私は、奇妙な宇宙船に乗った緑の小人が現れたり消えたりするのを人々が目撃した ― それがたとえ同じ時間に同じ場所に居た一団の人々のうち半分にだけ姿を現したのだとしても − というような話に対して、単に懐疑的だったにとどまらず、そんな事を完全に馬鹿にしていた!

だが、今はそんな問題でわき道にそれる訳にはいかない;私が取り上げたいのは、第3密度での学び、すなわち、カシオペアンが第4密度に卒業するための前提条件だと言った「簡単な理解」のことなのである。

コリン・ウィルソンは上の引用の中で、「狭量さの結果、我々は無気力という催眠状態になっているのだ」と述べている。本当にそうなのだろうか、すなわち、私達が狭量なのは催眠術に掛かっている結果なのだろうか?カシオペアンによれば、DNA操作によってプログラミングされたため、私たちは生活し活動し存在しているリアリティの、限られた帯域しか知覚できなくなってしまったという。

『ハイ・ストレンジネス』の中で、私は「第3の男」という催眠実験の話を述べた。催眠術で暗示を掛けられた被験者には、男が部屋に入って来るのが見えないというものである。第3の男が部屋に入って来て、物を取り上げたり家具を動かしたりといった一連の行動を行うのだが、被験者はこれを理解できないのだ。その代わり彼には物体が宙に浮かぶのが見え、出所の不明な異音が聞こえるのである。彼には第3の男が見えないのだ。この話に対して、私は数多くの好奇心に満ちた反応を受け取ったが、その1つは、これを単に世の中に霊が存在する証だと理解するものだった。霊は私たちの信念体系のために姿が見えないのだという。これは上掲の中でコリン・ウィルソンが心霊現象について述べたような、他の領域に対する部分的な目覚めの類である。

だが、この話にはもっと深い含意があるのだ。この話が描かれている具体的な舞台設定を取り除いて、第3の男と観察者だけを残せば、第3の男とは、私たちの世界のあらゆる現象を表していることが推測できよう。花を見ても、その知覚の仕方について私たちは催眠に掛かっている。雲を見ても、その見方について私たちは催眠に掛かっている。私たちは真のリアリティが何か本当は知らないのだ!私たちは「不可欠な花」がどんな風なのか知らない。私達が見ているのは、私たちのリアリティの媒質に立った一連の波であり揺らぎである。それは私達がプログラムないし催眠に従って解釈したものだ。私たちには数多く存在すると考えられる次元のうち3つしか見えない。

この話で次に重要なのは、信念体系によるプログラム次第で、人々はそれぞれ異なる隠れた力を示された現象に帰するということである。だが私達が知りたいのは:客観的リアリティとは何か?ということなのだ。

私達がエゴを確実に生き残らせる方法と手段は、私たちの親や社会に施されたプログラミングによって、人生のかなり早い段階で確立される。最初に観察できることの1つは、社会的、家庭的条件付けに基づいて、誰もが異なる信念の組み合わせを持っており、これらの信念によって、各人がどれだけ多くの客観的リアリティにアクセスできるかが決まるということである。

この条件付けによって、何が可能で何が可能でないかが決まる;受け容れられるために何を信じることが出来るかが。私たちはこのことを、最初は両親が何に喜ぶかによって学び、その後この信念を、私たちの社会が、仲間達が、何を信じると喜ぶかに基づいて修正するのである。

個々人は第3の男をそれぞれのプログラミングに従って知覚する。プログラムが彼らの信念体系を活性化し、逆もまた然りである。これが彼らの「気付きの状態」である。彼らは自分たちが気付くことが出来ると信じるもののみに気付き、その他の全ては、「目に見えない」あるいは「異常な」ものとなって、潜在意識中の生き残りプログラムによって無視され、ないしは隠ぺいされるのだ。

この問題について考え続けるうち、私達が本物と知覚しているものと、実際の客観的リアリティとの間には、おそらくは巨大なギャップがあること、そして、いかに私達が客観的であろうとしても、決してそう確信できないことが分かってくる。出口を提供すると思われる唯一の方法は、現象をありのままに観察して、他の多くの人々の知覚と比較しながら、それら全体の中に存在する「不変な部分」を絞り込んで行くことだ。このようにして私たちは、第3の男が実際には何であり、彼が実際に何をしているのかについて、さらには、どう反応するのがベストなのかについて、より理解を深めることができる。そしてもちろん、現象を観察するというのは、文字通り、あらゆる形の知識を得、集め、仕分けして、自らの環境を観察した上での結論を引き出せる十分なデータベースを持つことなのだ。

しかし、これは実行が難しい。というのも、人の信念は感情と密接に結び付いているからだ!いいだろうか:私たちの信念は、両親その他、幼児期及び子供時代における権威とのやり取りという感情的な状況の中で形成されるのである。この安全な内部的環境から抜け出すなど、考えただけでゾッとするものなのだ。

だが、それこそまさに私達が行わねばならないことである。

さもなければ、私達が模索するリアリティとは、あらゆる種類の異常な事が周りで進行している― 古典物理学でも量子物理学でも観察可能である ― ものの、客観的な存在理由はいくら考えても分からないという代物となろう。人は第三の男を見ることができなくなるだろうし、この人物が実際には誰、あるいは、何であろうと、その気紛れや嗜好の影響を被るであろう!

つまり、真の問題はどうやら、主観的リアリティと客観的リアリティとの間での戦いのようなのである。カシオペアンは何度も、STSの本性が「希望的観測」に安住することであると述べている。このことは、以下の引用で最も興味深く論じられている。


941022
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Q: (L)人間は物質の罠にかかっているの?

A:自ら選んだ。

Q: (L) なんでそんなことを選んだの?

A:物理的な感覚というものを経験するため。集合精神による決定だった。

Q: (L) そのグループの責任者は誰なの?

A:グループ自体。

Q: (L)霊/魂と物理体との相互作用で、他の存在にとって望ましい、あるいは望ましくない副産物が生まれたの?

A:何事も望ましい結果にも、望ましくない結果にもなるものだが、ここで言っておかねばならないのは、宇宙の全ての領域に存在する万物は、わずか2種類の存在様式のいずれかを経験するということだ。これらは長波動サイクルと短波動サイクルと定義できよう。

どうして人間は物理体の「罠に落ちた」のかという、あなたの先ほどの質問に戻れば、それはもちろん、あなた方の自発性ないし選択の結果なのだが、完全にいわゆるエーテル的ないし霊的存在である長波動サイクルでの経験から、いわゆる物理的存在という短波動サイクルに変化することをあなた方が望んだからなのだ。

両者の違いは、長波動サイクルではサイクル的に進化を遂げつつごく緩慢に変化して行くのみだが、一方、短波動サイクルの方は二元性を含むものなのだ。これがこの地球上で魂が経験している、物理体の中の魂に当てはまる。というのも、魂がサイクルの半分ではエーテル体の状態を体験し、サイクルの残りの半分では物理体を経験するからだ。これら半分というのは、あなた方の用いている時間で測れるものではないが各ハーフタイムにおける経験の総量は同じなのである。

短波動サイクルをとる必要性というものは、宇宙の自然な境界の性質によってもたらされ、そのとき、あなた方の魂の集合精神が、全くのエーテル体ではなくて、物質体での体験を選んだというわけだ。

Q: (L)このような霊/魂と物理体との相互作用は副産物をもたらすのかしら?

A:ポジティブ、ネガティブ両方の副産物を等しくもたらす。

Q: (L)その副産物って何?

A:どちらから?

Q: (L)ポジティブ。

A:ポジティブな副産物は、相対的なエネルギーの増大で、魂およびそれがやり取りする1次元と2次元のパートナーの学びのプロセスをスピードアップさせることだ。すなわち、植物、動物、鉱物等々のことだ。この短波動サイクルにおける物理体/エーテル体移行のサイクルでは、全てが速い率で再統合への成長および移行を経験する。

ネガティブな副産物は、これらの存在が長波動では経験しないようなネガティブな多くの経験を味わうことである。というのも、第1レベルと第2レベル、すなわち植物相と動物相とは、通常の物理的次元においては、長期的ないしは長波動サイクルを経験するものだが、ここでは反対に短波動サイクルでの物理体やエーテル体にあって、短波動サイクルでのエーテル/物理サイクルにある人類との(食うか食われるかの過酷な)やり取りを経験するのである。

Q: (L)前のコメントにもあったけど、あるエイリアン連中は「最大のエネルギー転移」達成のため、人間をアブダクトして、過酷な拷問死に至らせているのよね。このような、長くゆっくりと拷問死に至らせるプロセスで起こる最大のエネルギー転移とは何なの?

A:極端な恐怖と苦悶からはネガティブな性質の恐怖/苦悶エネルギーが生まれる。あなたが言ったエイリアンたちはこれを摂取するのだ。これから抽出したある種の燃料エネルギーから彼らの代謝構造に基づいた形の栄養摂取をすることで、彼らは生きながらえているのだ。

Q: (L)連中の代謝構造って何?

A:それは大層複雑で説明が難しい。というのも、それはあなた方には理解できない第4密度レベルのことだからだ。だが、彼らが第4密度に存在できる理由の1つは、エーテル的な方法でも物理的な方法でも栄養を摂取できる能力にある。そして、このようなエネルギー転移とはエーテル的栄養摂取方法の方を指す。もう一方の方法は物理的なものだ。

Q: (L) もう一方の方法ってどんな?

A:一例としては、血やその副生成物を飲んだりする。

Q: (L)連中はそんなことをするの?

A: Yes, だが、おそらくあなたが考えているような摂取方法とは違う。気孔から行うのだ。

Q: (L)どうやって?

A:入浴し、必要な成分だけ吸収して、それから、残りの成分は捨てる。。。

Q: (L)その気孔から栄養を摂ってる生き物の話に戻るけど、その連中ってどんな生命体なの?

A:あなた方がトカゲ生命体およびグレイと呼ぶものだ。どちらにとっても生きて行く上で欠かせない栄養だ。グレイは短波動サイクルから自然に生まれた生き物ではなくて、トカゲ生命体によって作られた人工生命だが栄養摂取機能はトカゲに似ている。

Q: (L)トカゲ生命体によって人工的に造られたってことはつまり、魂を持ってないということ?

A:その通り。

Q: (L)どうやって動くの?ロボットみたいなもの?

A:それらはトカゲ生命体の魂との相互交信によって作動する。これはあなた方の馴染んでいるテクノロジーより遥かに進んだものだが、グレイは単に人工的に作られ設計されているだけではなくて、トカゲ生命体の心と身体の投影体として動作する。第4密度の「プローブ」みたいなものだ。

Q: (L)第4密度のプローブとしての能力は?

A:トカゲ生命体と全く同じ能力を持っているが、物理的な外見は全く違うし自らの魂は持っておらず内部の生体構造も違う。だが、機能的には同じだし、投影体としてあり続けるためには、トカゲ生命体がやるのと霊的にも物理的にも同じような栄養吸収をしなければならない。

ネガティブなエネルギーが不可欠である理由は、トカゲ生命体とグレイはいずれも第4密度に住んでいるのだが、そこはこれらのような自己にのみ奉仕する存在(STS)が住むことのできる最高の密度レベルなんだ。だから彼らはネガティブなエネルギーを吸収しなくてはならない。というのも、第4密度レベルは、ネガティブな思考パターンである自己への奉仕派(STS)が存在する最高次の例だからだ。

第4密度レベルは第3密度レベルの先にある行程だ。密度レベルが1つ上がるごとに、個々の意識体にとって存在することが困難でなくなる。だから、第4密度レベルは第3より生きるのが難しくなく、第3は第2より難しくなく、以下同様。魂エネルギーへの負担が少なくなるんだ。だから、第4密度レベルの存在は第3密度レベルの存在から、ネガティブな魂エネルギーを吸収することができる。

同様に、第3密度レベルの存在も第2密度レベルの存在からエネルギーを吸収することができる。この種の吸収が不可欠ではないのだが、行われている。こういう訳で、第3周波数レベルの人間が、第2密度レベルの動物王国の住人に痛みや苦しみを与えている。あなた方が専ら自らに奉仕する存在(STS)の御多分に漏れず、第2レベルの存在や第1等々からネガティブな魂エネルギーを引きだしているからだ。

さて、あなた方は迫りつつある第4密度への進歩に際し、他者への奉仕(STO)へと進むか、あるいは自己への奉仕(STS)に留まるかを選ばなくてはならない。あなた方がこの決定に対応するには、かなり長い時間掛かるだろう。これが「千年紀」と呼ばれるものだ。あなた方のカレンダーだとそのくらいの期間を掛けて、STOに進むかどうか、あるいはSTSに留まるのかをあなた方は決めるのである。

トカゲと呼ばれる存在は、しっかりとSTSに閉じこもる道を選んだ。彼らはそれが出来る最高の密度レベルに居るので、第3レベル、第2レベル等々の住人から大量のネガティブ・エネルギーを引き出し続けねばならない。そんな訳で彼らはそうしているのだ。

このことはまた、彼らの種族が滅びつつある理由をも説明する。彼らは他ならぬこのSTSという行動様式から脱却してSTOに移行する術を学ぶことができないできたからだ。

そのようにして彼らは、あなた方の時間でいうところの長きに亘って、このレベルに留まっており、実際、しっかりとそこに根を張ってそこで力を増して来た。だがそのせいで彼らは滅びつつあり、なるべく多くのエネルギーをあなた方から取り上げ、また種族の代謝を改造しようと必死になっているのだ。

Q: (L)私達が連中にとっての狩猟労働の対象なら、どうして自分たちの星で檻に囲って養殖しないのかしら?

A:そうしている。

Q: (L)ここには私達人間が沢山居るのに、どうして、連中はやって来て乗っ取ろうとしないのかしら?

A:彼らはそうしようとしている。長いことそれを企んできたんだ。

知っての通り、彼らはあなた方の知っている時間を行ったり来たりして、この星がこれから経験しようとしている第3レベルから第4レベルへの移行に際し、最大のネガティブ・エネルギーを吸収できるような仕掛けを拵えてきた。それも、第4レベルであなた方を待ち伏せして多くのことをやってのけようと期待してのことだ。すなわち、

1:種族の生存能力の維持

2:個体数の増加

3:パワーの増大

4:第4密度領域における種族の拡大。

これら全てを行うため、彼らはあなた方の時間で約74,000年間に亘っていろいろな出来事に干渉を行ってきたのだ。彼らは完全に時空を止めて意のままに行ったり来たりしながら、この作業を行ってきた。だが興味深い事に、これらはみな失敗することになる。

Q: (L)どうして失敗するとわかるの?

A:私達にはそれが見えるからだ。私達には見たいと思わないことも、全てが見えるのだ。彼らが失敗するのは、見たいと思うことしか見ようとしないからなのだ。つまり、これこそあなた方の言う希望的観測というものの最高度の現れである。第4密度レベルで表明された希望的観測は、そのレベルでの現実となるのだ。自分たちがどんな風に希望的観測を行っているかわかるかな? あなた方は第3レベルに居るので、必ずしも現実味がないだろうけれど、あなた方が第4レベルに行ったら同じようなことが行えるようになる。確かに現実がそのようであると気付くだろう。だから、自己ではなく他者に奉仕する私達には見えるものが、彼らには見えないのであり、私達は第6レベルに居るから、そうあって欲しいと思うようにではなく、万事が完全にありのままに見えるのだ。

Q: (L)エイリアン達、とりわけリジー(トカゲ)は人類の中で生活し崇拝されたことがあるの?

A:彼らは人類の中で暮らしたことはないが、過去様々な時点で人間と直接にやり取りを行ってきた。人間が地球外から直接現れる神を喜んで受け入れ崇拝することが可能だった時点でのことだ。最近では、そのような事は起きては居ない。だが、気をつけなさい。じきにおそらくそれが起こるだろう。(原注2
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原注
2:出版のため私がこの文書を編集している現時点では、この言明は全く新しい意味合いを帯びてきている。オバマ政権の政策およびジョージ・ブッシュやネオコン連中の残したものによって、この可能性は日々増大していると思う。彼らの多くは未だに隠然たるコントロールを行っているのだ。
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上の引用において、STSとSTOとが物事の観方という点で明確に区別されていることが注目される。前者は見たいものだけしか見ない=主観的であり、後者は全てを見る=客観的なのだ。

このことの本当の意味は何だろうか?こんにち行われている「あなたがあなた自身の現実を創造する」という教えについては、どうなのだろうか?
カシオペアンは言う:


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STSは見たいものしか見ないのであり、それはあなた方の言う希望的観測というものの最高度の現れである。第4密度レベルで表明された希望的観測は、そのレベルでの現実となるのだ。自分たちがどんな風に希望的観測を行っているかわかるかな? あなた方は第3レベルに居るので、必ずしも現実味がないだろうけれど、あなた方が第4レベルに行ったら同じようなことが行えるようになる。確かに現実がそのようであると気付くだろう。
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私は多くの人々に、私の気付きの変化の結果、私自身の生活が驚くほど変わったことを伝えようとしてきた。この世界について長年来私が信じてきた、あるいは信じたがっていたことが、崩れ去ってしまったことをである。

言い表すのが難しいのだが、宇宙が私にとって全く新しく感じられるのである。まるで自分が全く別の宇宙から今居る宇宙、ルールが全く異なる宇宙にやって来たような ― 気付きによって卒業したような ― 感じなのだ。物事の仕組みの真相について知識が増すに連れ私は、それら全てを日常の経験に適用するようになった。この結果、多くの変化がもたらされた。というのも、私の選択が従来行っていたものから変化したからだ。そう、多くの選択が標準的な、この世界に関して社会によって吹き込まれる洗脳的な観方と対立する、目に見えないものに基づいてなされるようになったのだ。このような選択の多くは、通常の観方ではちょっと理解しがたいものであろう。だが実際私はそんな決定をし、それに従って行動してきたのであり、その結果は驚異的以外の何ものでもない!私は世界や人々の相互作用に関する、ヴェールに包まれた、微妙な手掛かりの読み取り方を学んでいるところだった。そしてこれらの手掛かりは、一般の「過敏なサイキック」が抱くような、普通の「サイキックな印象」を遥かに凌ぐものだったと断言できる!自分の感情や「心地よさ」から見たいと思うものに留まらず、それらを越えたものを「見る」ために非常なハード・ワークが必要だったこともかなりしばしばあった。時として、真実を目の当たりにすることが非常に「不愉快に」感じられるものだが、それは単に、私たちがそのように条件付けられているからなのである。

『否認という心理状態:残虐さと苦痛について知ること』の中で、スタンリー・コーエンは、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=57486963&comm_id=2590126
否認とは「罪や不安その他、現実によって喚起された心をかき乱す感情に対処するための無意識的な防御メカニズム」であると述べている。否認が行われる理由は、自明のものから、承認によって私達を疲れさせるような真実の不愉快さまで様々である。

様々な否認のタイプには以下がある:

1)文字通りの否認
2)解釈による否認
3)含意的な否認

これらは単に既成事実の存在を否定するものから、所与の経験の解釈を変えるもの、更には、所与の真実を心底承認することが意味する、道徳的な評価を断念するものまで多岐に亘る。

コーエンは否認という心理状態が置かれる、5つの異なる文脈につき論じている:

1)無自覚な知覚
2)知覚的防衛
3)選択的注意
4)認知的誤り
5)推定の失敗

「科学論文は否認という能力が驚くべき人間的現象。。。我々の感情的、言語的、道徳的、そして知的生活の純然たる複雑さの産物であるという事実を見失っている」と彼は結論付けている。

それではここで、身の回りの環境の中に手掛かりやサインが存在していることを私が理解する上で手助けとなった材料をいくつか紹介したい。すなわち、私達の意思決定の瞬間に、別の方向 ― より客観的あるいは主観的な ― を示す「道しるべ」や、いつの瞬間も正しいと信じることに基づく決定、「私のリアリティを変える」助けとなった全てのことについてである。その結果、カシオペアンが次のように語ったことの真意を、私は理解できるようになったのだから:「いいかい、密度は人の意識的な気付きのみに関わる。 人が一旦気付けば、万事はその気付きに従う」

そんな手掛かりの最初のものは、ある日娘を学校に迎えに行ったときに起こった奇妙な出来事だった。私はハイスクールの駐車場に停めたクルマの中に座って、建物からドッと子供達が出て来て下校する、ありふれた光景を眺めていた。そんな日課をしばらく続けるうち、私はアメリカのティーンエイジャー達の奇妙な儀式や作法を目撃するようになったのだ。

こんにちの子供たちについて、娘は多くの事を話してくれたが、その中で私はあることに気付いた。それは学校の中で極端なグループ化ないしチーム化が進んでいることだった。多かれ少なかれこれまでにもあったことではあるが、こんにちの世の中では今までよりもその傾向が顕著だと言えよう。

私のハイスクール時代には、おおよそ経済的な区分けというものがあって、それが社会構造や兆候、さらには社会的な呼称にもなって行った。これはかなり分かりやすいものだったし、ある程度は社会の実相を反映していた。

ところが、こんにちではまるで勝手が違うのだ。明快なものは何も無い(このように言ったからといって、かつての「明快な」システムが望ましいわけでは無いのだが!)。近ごろのハイスクルールでのグループとかチームは、全くの別物なのである。私はこの変化に魅了され、どうしてこんな風になったのか、その本質および内に潜むダイナミクスに好奇心を抱いた。

娘が教えてくれたのだがプレップス、ジョックス、ローディーズ、ゴス等々の「クリップス」とか何とか呼ばれる「スタイル・グループ」があるらしい。
http://answers.yahoo.com/question/index?qid=20080310161040AAwyjm2
1つ明らかなのは、もはや経済的な事情はほとんど関係ないらしいということだ。裕福な家の子も貧乏な子も、同じように「ゴス」のメンバーになるのである。ドラッグはどのグループでも普通だ。そして、私のハイスクール時代と違って、ヴァージンであるかどうかはどのグループに属するかには関係ないようなのだ。学校ではちゃんとやっているように見える多くの子供達も、かつてない低レベルに落ち込んでしまっているらしい。

という訳で、そういったグループやチームのメンバーである子供達が、学校の沢山ある出入り口からドッと出て来る様子を私は眺めていたのだが、めいめいが自分と「同類」に引き寄せられていき、たむろしながら交換しているのだ…何を?

彼らは何をしているのだろうか?

この出来事に先立つこと数週間前、私は「ライトワーカー」と称する人々とやり取りすることがあったのだが、奇しくも丁度この頃、それとは似ても似つかぬ連中であることが明らかになったところだった。このような出来事のいくつかについては、本シリーズの第2巻『魂を乗っ取る連中(ソウル・ハッカーズ)』に記しておいた。

これらの経験を通じて、私は「聴覚を停止し」てダイナミクスに注目する方法を思いついた。 連中と来たらあれやこれやとまくしたて、私達を説得して好印象を抱かせようと言葉の端々で善意を口にするのだが、実際に連中が他人の生活に対してどんな影響を及ぼしているか、そしてまた連中自身の個人生活におけるダイナミクスを仔細に見ると、何かが間違っているのだ!まさにことわざ通り、「言うことだけは立派だが実行が伴わない」のであって、それよりは意味深で芸が細かいというだけのことだ。

それから、ある日私は霊長類に関する研究を読んでいた。ジェーン・グドールとかその類のものだ。で、分かったのだが、野生生物の観察法は人間の観察法としても大変役に立つのではないだろうか。眺めるだけで、言葉に惑わされないようにすれば、実際に何が起こっているのか理解できる見込みがずっと増すだろう。

そこで私は座ったまま、その子供達を眺めて霊長類研究ガイドに書かれていることを当てはめてみた。そうして気付いたのが彼らの奇妙なボディーランゲージで、誰が誰のどこをどんな風にタッチするかで、互いのポジション等々を示し合っているということだった。このような動きの中に、私は確かにある種のつつき順(=上位の力を持つ鳥が、下位の鳥をつつく)が存在しているのを見ることができた。5人から10人のグループに1人、常に「支配者」と思しき子供が居るのである。

支配者の子は実際洒落た格好をしているように思われ、また、数分間ご機嫌を取られたり、タッチされた後には、さらに堂々と見えることに私は気付いた。中にはまた、支配者が何かと可愛がるために選ばれた子供達も居たが、そうしているうちに活力を吸い取られるのだった。そればかりでなく、何分も経った後では、グループのうちの何人かの子供達は、意気消沈し始め、見た目にも殆ど縮こまってしまった。まるで、「活力」が体外に出て流れ出したかのように、疲れて打ちひしがれたように見えたのだ。

マトリックスを思い出させるではないか!すぐに気付いたのだが、私が見ていたのは、彼らが互いにエネルギーを吸収し合っているところだったのだ!これは私がこれまで得た中でも、最も異様で恐ろしい洞察の1つだった。エネルギーが、1人からまた1人と移って行って、最後には支配者が最大の分け前を得るのが私には見えたのである。

これはかなり興味深い発見だった。そこで私はこれを多くの機会にやり始めた。人びとが互いにやり取りするのを見て、実際にどのようなダイナミクスになっているか判定するのだ。見ているのを悟られない、離れた場所からの方が、彼らの話し声が聞こえずに観察できるので具合が良かった。そして案の定、これはかなりありふれた現象だった。いかなる状況でも、エネルギーを吸い取るような場面が見られたのである。

そこで私は、結婚している人々の観察を始め、どちらが支配者か、一般的な観方ではなく、どちらがエネルギーを得ているかという観点から判定しようとした。不思議なことに、それはしばしば、2人のうちでも弱い、あるいは無力と考えられそうな方であった ― 不平の言葉を口にして多くの同情を得る結果、「強い方」である救助者の気を惹いて、そのエネルギーを集めるのだ。それから私は、同情や憐れみを全く違った視点から考えるようになった。それは実はより多くのエネルギーを得ようとするごまかしなのだということが分かった。

私は、これが何らかのSTS的なヒエラルキーの証拠ではないだろうか?と思い始めた。いわゆるエイリアン・アブダクションについても同じ文脈で考えられるのではないか。人間の支配者が自分たちの小グループを支配して、メンバーからエネルギーを吸収した後、今度はアブダクトされて、集めたエネルギーを搾り取られるのだろうか?これらの事実が実はどのような図式になっているのかに関する興味深い推測である。この時点で私は質問もし、観測もしていたのだが、それでもまだ、いわゆるエイリアンに関してカシオペアンが言った事を受け入れる確信が持てなかったのだ。

ともかく、このような観察を行ううち、いくつかの興味深い考えに至ったので、あくまで推測の域を出ないのだが、述べてみたい。私はこれまで、意識がハッキリした状態で、エイリアンを見たことはない。グレイも「リジー」もである。UFOは見たことがある。300フィート(約90m)もある、大きな黒いブーメランタイプで、子ども達とプールに居たとき、一緒に真上を通り過ぎるのを目撃したのである。目撃からほぼ1年の間はとても奇妙な症状が身体に残った。 あとから被爆の一種かも知れないと言われたものだが、当時の私は非常な懐疑派だったので、ひどいアレルギーか過労のせいだと信じていた。

どうやら多数派を占める人々は「より深遠なリアリティ」のことを知りもしなければ、疑うこともないようだ。彼らはどう見ても催眠状態なのである。彼らは「静かなる絶望」の日々を送っているのであり、他の人びとに、そしておそらくはエイリアンにさえ、ご馳走をふるまっているのだ。

もう1つ、気付き始めた奇妙な事があった。すなわち、多くの人びとはどうやら思考ループが予めプログラミングされているようであり、どんなに論理的に理性でもって説得を試みても心を開こうとはせず、頑なに感情的かつ主観主義的なアジェンダや信念体系にしがみつくのである。「暴露屋」や「生来のディスインフォのアーティスト」もこのカテゴリーに含まれる。 彼らは自らが「エージェント」であることにさえ気付かず、エージェントの役回りを演じさせられていると説得されたり、合理的な状況証拠でも突き付けられようものならビビリまくってしまうことだろう。実際、彼らは「第三の男」に関する信念体系をプログラミングされており、彼ら自身そうしたいがゆえに、それを信じているのだ。この「したい」というのはもちろん、彼らの選択である。

私の推測では、潜在的に目覚める可能性を秘めた人々も居る。エイリアンはおそらく、このような人々をもアブダクトするのだが、連中の領域に存在するに違いない何らかの「掟」のために、脅威となる彼らを抹殺してしまうことができないようなのだ。そこで連中は、彼らに何らかの機械装置をインプラントし、彼らの思考をコントロールして、あるいは自滅へと向わせ、あるいは、役に立たない進路に着かせたり、無意味な空理空論探求に終始させ、また感情をも操作することによって、彼らが真実に近付き始め、あるいは知識の定式化をしようとしたときには感情的に混乱するよう仕向けているのだ。このようなコントロール・プログラムを除去することは途方も無い難題なのである。

この状況に置かれた人々には、いろいろな事が待ち受けている。混乱状態のまま歩き続け、あるいはこれに取り憑かれた人々は迷走を始める。このような混乱状態で見られる感情には、好き嫌いや、感情的な類のポジティブ/ネガティブな知覚があり、真のリアリティとは無縁のものである。

人々は感情を操作されて不適切な結婚をすることがあるが、これは結婚相手がコントローラーとなりエナジー・バンパイアとなるためである。人々は感情に流され欲に駆られることがあり、完全に欲に血迷ってしまう結果、自らを納得させるためにあらゆる正当化を行う。自分が行っていることは正しく知識に至るものなのだと心中で繰り返すのだが、実際はまた別の幻想を抱くだけのことである。

シンクロしているように思われる出来事が起こると、人は自分が正しい方向に向って物事を行い考えているものと納得しようとする。他ならぬ宇宙がこれによって「確証を与えてくれている」からである。

操作のバリエーションには際限がない。それらは信じられないくらい深く、あらゆる理解を越えるほど巧妙である。これは見ていて何とも恐ろしいものだ!ほとんど全ての人間は単なる食物なのだと私にはわかったのだった。揺り籠から墓場までコントロールされ操作される様は、まさに映画『マトリックス』に描かれている通りである。ただし、人々は単に暴走して世界を乗っ取ったコンピュータの「バッテリー」にされているだけではなく、高次密度の存在にとっての文字通り物理的、エネルギー的な食物となっているのだ。そして無知ゆえに何事もなしえず、目覚めていないので自由意思もない。

これらの事について思いを巡らし続けるうち、私達の文化、宗教、哲学、科学の一切がこの巨大かつ複雑な「食糧供給メカニズム」に貢献し、コントロールされていることが分かった。STSのヒエラルキーである。多くの「新たな」ニューエイジ的解釈だって、私達からさらに自由意思を奪うための、騙しのタマネギの皮が1枚増えただけのことなのだ。

「愛」はどうなったのだ?「ワンネス」は、神は、統合は、天にまします我らの神は、世界中の善男善女はどうなったのだ?地球じゅうで進行中の筈の、意識の高揚はどうなったのだ? 「愛と光」およびポジティブ・シンキングに包まれていれば「安全」ではないのか?これらが単なる「食糧供給マシン」が被っている仮面に過ぎないことを、私は繰り返し見てきた。剥いても剥いても、幻想のタマネギの皮がまた出て来るばかりなのである。

もちろん、ある疑問が浮かんだ。あまり長いこと暗黒面ばかり研究してきたので、ミイラ取りがミイラになったのではないか?嘘や混乱を取り除くために重ねてきた努力は、実は連中の存在に対する承認となって、連中が私自身の人生に現れる結果となったのだろうか?私は自分の鏡像を見ているのではないのか?そんなとき、私が読んだのがウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』(原著1961年、桝田啓三郎訳 岩波文庫、1969(上), 1970(下))だった。以下に引用する:


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(邦訳書上巻195ページ)
前回の集まりで、健全な心の気質を考察したが、この気質は、苦悩を長びかせることが体質的にできないような気質で、ものごとを楽観的に見ようとする傾向が、個人の性格を固める結晶水のようなはたらきをする、といった気質である。

私たちは、この気質がどうしてある特殊な型の宗教の基礎となりうるかを見た。それは、善が、たといそれが現世の生活の善であろうとも、善こそが、理性的存在たる者の心すべき根本的事柄である、と考えるような宗教であった。

この宗教は、宇宙の悪い面をかえりみることのないように人間に命じて、その悪い面を心にとめたり重んじたりするのを組織的に禁じ、思慮ぶかい打算によって悪い面を無視させ、それどころか、時には、悪い面の存在を頭っから否定させるのである。

つまり、悪は病気なのである。だから、病気のことでくよくよ気をもむのは、そのこと自体、また1つの病気であって、もとの病気をただ重くするだけのことである。。。

(204ページ)
さてそれでは。。。悪の意識という重荷を、それほどすばやく投げ棄てることができず、生まれながらにして悪の存在に悩まされるような運命をもった人々を見ることにしよう。。。

病める心にも、さまざまな段階があって。。。世のなかには、悪をば、事物との不適合、生活と環境とのまちがった対応という意味にしか考えられないような人々がいる。そういう悪は。。。治療されることができる。。。なぜなら、自分自身のほうか事物のほうかのどちらかを、あるいは、両方をいっしょに、変化させさえすれば。。。おさまるからである。

(205ページ)
ところが、世の中にはまた、そういう人々とは違って、悪というものを。。。自己の本質のうちにある不正ないし悪癖であって、環境を改めても、内的な自己をうわべだけどんなに列べ変えてみても癒すことができず、なにか超自然的な治療を必要とするものとみなすような人々もいる。一般的に見て、ラテン民族は、前の方の見方に傾いていて、悪は複数の罪悪からできているので、1つ1つ除き去ることができる、と考えるが、これに反してゲルマン民族は、むしろ罪というものを、単数形で、しかも大きい頭文字で考えがちで、われわれ人間の主観の本性に深く根ざしていて、どんなに表面だけの部分的な手術を施してもけっして除去できないものと考える。

(206ページ)
。。。音とか圧力とかその他およそ人の注意をひくのに必要な外界の刺激の量を示すために、人間の意識の閾ということが言われるのである。高い閾をもった人は、低い閾の人ならたちまち目をさましてしまうような量の騒音のなかでも、うたたねしていられるであろう。同じように、どんな種類の感覚のわずかな差異にでも敏感な人は、低い「差異-閾」をもっている、といわれる。 ―― つまり、そういう人の心はたやすく閾を飛び越えて、その差異を意識するのである。そこで、それと同じように、私たちは、「苦痛-閾」、「恐怖-閾」、「不幸-閾」ということを言ってもよいであろうし、そしてそういう閾は、ある個人の意識はそれをすばやく飛び越えるが、他の個人の場合には、それがあまりにも高すぎて意識がその高さに達しないことがよくあることが知られるのである。

(209ページ)
ゲーテは書いている。「私は自分のたどった人生行路に、いささかも不服をとなえようとは思わない。しかし、結局、私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、75年の全生涯において、真に幸福であったのは4週間とはなかった、とさえ断言できる。私の生涯は、たえず転がり落ちるので永遠にもち上げてやらねばならぬ岩のようなものでしかなかった」

マルチン・ルターは述べている。「私はすっかり人生に疲れはてた。主がただちに来たり給うて、私をこの世から連れ去ってくださるよう、私は祈っている。。。これからなお40年も生きるくらいなら、いっそ私は、天国へ行く幸運をあきらめますよ」

(212ページ)
健全な心が与えることのできる唯一の慰めは、「たわごとはよしたまえ、戸外へ出てみたまえ!」と呼びかけるか、「元気を出したまえ、おい君、そんな不健全な考えをすてる気になりさえすれば、万事うまくゆくさ」といって聞かせることである。。。

(213ページ)
ただ成り行きまかせで甘んじているというだけの生き方に、宗教的価値を認めようとするのは、うかつさと皮相さとを神聖化するにほかならないであろう。。。

そもそも私たちが、死ぬことができる、病気になることができる、という事実が、私たちを悩ますのである。。。私たちは、死と関連していない生を、病気にかかることのない健康を、滅びることのないような種類の善を。。。求めるのである。。。ある私の友人が言ったことがある。「そして、それらの幸福や善が移ろいやすいことを悲しむ私を、何ものも慰めえないのだ。。。」

[このような人々は]動物的な興奮性や本能がすこしばかり冷めて低下しても、動物的な頑健さがすこしばかり減じても、苦痛-閾が弱まったり低下したりしてすこしばかり鋭敏になっても、私たちの日常のあらゆる喜びの源泉の核心に巣くっていた虫がその正体をすっかりあらわして、私たちは憂鬱な形而上学者になってしまう。

(228ページ)
もしできるなら、いま諸君の世界が諸君に吹き込んでいる一切の感情をいきなり剥ぎ取られた自分の姿を考えてみていただきたい。それから、諸君に都合のよい説明も都合の悪い説明も加えず、また希望的な説明も悲観的な説明も加えずに、純然たる、あるがままの世界を想像してみていただきたい。

そういう否定と死の状態を実感することは、諸君にはほとんど不可能なことであろう。。。どんな価値、利害、意味が私たちのそれぞれの世界に賦与されていようとも、それらは世界を眺める人間の心の賜物にほかならない。。。

[例えば]愛の情念は。。。日の出がモン・ブランの峰を、死骸のような灰色から魅惑的な薔薇色へ一変させてしまうように。。。愛される者の価値をまったく一変させてしまう。。。そういう感情が起こると、人生は変わってくる。
[ローラ注:この点のみからしても、私たちをコントロールしたり催眠状態にする際に、私たちの感情がいかにたやすく利用可能であるかわかろうというものだ!]

(230ページ)
トルストイの場合には、人生になんらかの意味があるという感じが、しばらくの間まったく失われたのであった。その結果、実在というものがまったく形を変えて映ったのである。

のちに回心あるいは宗教的再生という現象を研究するとき、私たちは、人間の主観に起こった変化がしばしば彼の目に映る自然の顔をも変貌させる結果になるのを、見るであろう。。。

(231ページ)
切実な驚異の念と疑問が起こり、それが理論的活動への没入となり、ことの真相を明らかに掴もうとする必死の努力となって、ついに、その苦悩する人間は、しばしば、宗教による解決にはじめて満足を見いだすにいたるのである。

(233ページ)
トルストイは述べている。。。「私は、精神にも肉体にも病気がなかった。それどころか、私と同じ年輩の人びとにはめったに見られないような体力と精神力とをもっていた。百姓たちと同じように草を刈ることもできたし、ぶっつけで8時間も頭脳を使う仕事もでき、そうしても別に悪い影響も感じなかった。。。

「人は、生に酔い痴れている間だけ、生きることができるのである。しかし、酔いがさめると、人生がまったくばかげた詐(いつわ)りであることを悟らざるをえない。人生についてもっとも真実なことは、人生にはおもしろおかしいことなど何もないということである。人生とはただもう残酷でばかばかしいだけのものである。

(235ページ)
「『しかし、ひょっとすると』こう私はよく自分に言った。『自分の気づかなかったこと、悟らなかったことがあるのかもしれない。このような絶望の状態が人間にとって当たり前のことでありうるはずがない』そして、私は、人々の獲得したあらゆる知識の分野に、その説明を求めた。

「勤勉に、辛抱づよく、無益な好奇心からでなく、私は問いつづけた。道楽にではなく、苦心して、昼も夜も執拗に、私は探し求めた。地獄に堕ちて助かろうとあがいている人のように、私は探し求めた。 ―― しかし、私は何も見いだすことができなかった。

「その上、私より先に学問に答えを求めたすべての人々もやはり何1つ見いだしえなかったことを、確信するようになった。何ものも見いださなかったばかりでなく、彼らは私を絶望へ導いていったそのもの ― 人生の無意味さ愚かさ ― こそ、人間の究めうる唯一の確実な知識である、ということを認めているのだ、と私は信ずるにいたったのである」

(237ページ)
ここで私たちが注意しなければならないことは、ただ、彼にとって日常生活が魅力をまったく失ってしまった、という現象であ(る)。。。幻滅がこれほどまでひどくなると。。。知識の樹の実を味わった以上、エデンの園の幸福はもはやけっして帰ってはこないのである。なにか幸福が訪れる場合でも。。。その幸福は。。。もっとずっと複雑な物である。すなわち、その幸福は、自然的な悪を幸福の1要素として含んで。。。いる。。。

(238ページ)
その苦悩者は、救われるとき、彼には第2の誕生と思われるものによって、彼がかつて知ることのできたものよりもいっそう深い種類の意識的生命と思われるものによって、救われるのである。

(246ページ)
ここまで述べてくると、健全な心の人生の生き方と、悪についてのこのような経験をすべて本質的なものと見る人生観との間に、いかに大きな対立が自然に生じてくるかを、私たちは理解することができる。この後者の見方、すなわち、病的な心の見方と呼んでよいような見方にとっては、純然たる健全な心は言いようもなく盲目で浅薄に見える。それに反して、健全な心の見方にとっては、病める魂の見方はめめしく病的に見えるのである。健全な心の人から見ると。。。それら怒りの子たち、第2の誕生を熱望する者たちは、鼻もちのならないものといってよいようなものなのである。

もしかりに、宗教上の不寛容、絞首、焚刑がふたたび行われることになったとするならば、過去はどうあったにせよ、今日では、健全な心のほうが、二者のうちより非寛容な側に立つであろうことは、疑いない。

(247ページ)
注意を悪からそらせて、ただ善の光のなかにだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。。。

しかし。。。健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いない。なぜなら、健全な心が認めることを断乎として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。。。

精神病者の見る恐怖の幻影はすべて日常の事実を材料にして作られている。私たちの文明は流血の修羅場の上に築かれており、個人個人の生存は孤独な断末魔の苦悶の中へ消えてゆく。。。太古の時代に肉食性の爬行動物が生きていたのを信ずることは、私たちの想像力にとって困難である。 ―― そういう爬虫類はとかくただ博物館の標本でしかないように思われるからである。しかし、博物館に陳列してあるそれら爬虫類の頭蓋骨のどの1つを採ってみても、その昔、永い年月にわたって毎日毎日、なにか運のつきた餌食が絶望的にもがき苦しむ身体にしっかり突き刺さったことのない歯は1つもないのである。

(248ページ)
爬虫類の餌食となった動物たちが恐れたのとまったく同じ形式の恐怖が、その規模は小さいながらも、今日、私たちのまわりの世界を満たしている。私たちの身近な、この炉の上で、この庭のなかで、悪魔のような猫が息もたえだえの鼠をもてあそび、激しく羽ばたく鳥をその口に咬えている。鰐もがらがら蛇も錦蛇も、現にいま、私たちと同じように真実に生命の器なのである。。。そして、彼らやその他の獣たちが生きた餌食を噛むたびごとに、その事態に反応して、興奮した憂鬱症患者の感じるあの死のような恐怖と同じような、文字どおり当然の反応が示されるのである。

(249ページ)
。。。悪なる事実は、善なる事実と同じく、自然の異なる部分なのであるから、哲学の立場としては、悪い事実も合理的な意義をもっているし、悲しみや苦しみや死に対して、なんら積極的、能動的な注意を払わない健全な心の体系は、少なくともそれらの要素をもその領域内にとりいれようと努める体系よりも、形式的にはずっと不完全である。。。

(251ページ)
「健全な心」の人生観。。。は幸福になるためにただ1回の生誕だけで足りる人間に特有なものであり。。。「病める魂」の人生観(は)幸福になるためには2回の生涯を必要とする人間に特有なものである。
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ジェームズの述べる「健全な心」と「病める心」の間の違いでとりわけ注目すべきなのは、これが宇宙についての2つの異なる観方、すなわち、主観的観方と客観的観方のことを述べているということである。

(251ページ)
1度生まれの人の宗教では、世界は1階建てのものであって。。。その部分部分はきっかりそれらが自然にもっているように見えるだけの価値をもっている。2度生まれの者の宗教にあっては、世界は2階建ての神秘である。自然的な善は、ただ量的に不十分でうつろいやすいというばかりではなく、その存在自体のなかに、ある虚偽がひそんでいるのである。それは私たちを私たちの真の善から遠ざけるもので、そのような自然的な善を放棄し、それに絶望することこそ、私たちが真理の方向へ向かって踏み出すべき第1歩なのである。要するに、自然な生命と霊的な生命との2つの生命があるのであって、私たちはその1つに与かりうるためには、まず他方を失わなければならない。

そこで、質問は今やこうなる:私には突如として、第3密度の世界のありのままの姿が見えるようになってしまったのだろうか?私は客観的な現実を見ていたのだろうか?

私はカシオペアンにこのことを聞いてみた。なお、これは丁度『重力波』セッションの直前であることに注意されたい。


960609
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Q: (L)最近「覚醒」して、つまり物事がこんなにも明らかに、ありのままに見える時期に至ったようで人々の相互作用の全体像がまた何とも醜いのよ。ひどい憂鬱にどっぷり浸かっちゃった。いちどきに沢山見過ぎたので、バランスを取り戻さなくてはいけないわね。一体何が起こってるのか、説明して頂戴?

A:成長。

Q: (L)このような理解を、他の人たちにも分かってもらおうとしたんだけど、反応はほぼ一様で、私が「ついに、物事の真の姿が見えるようになったの。決して綺麗なものでは無いんだけどね」と言うと、「ああ、そんな風に見えるなんて、あなたはきっと何か大きな霊に取り憑かれてしまったのね!」とみんな言うのよ。なぜ、そんな風に言うのかしら?

A:まず第一に「全てはかくも暗き闇の中云々」
(※:ヨエル書 / 2章 2節
それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が/山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなく/これから後も、代々再び起こることはない。)
と感じるのは正しくない。それは単に、嘘偽りの繭が取り除かれた結果に過ぎない。バランスの達成を祝福しなさい。アンバランスの幻想が死んだからといって嘆いてはならない。

Q: (L)私はここからどこに行くのかしら?私達はみな、どこに行くの?

A:どこへでも。
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第3章で私は何やら奇妙な作用を体験したと述べた。この作用は私のDNAの変化に関係があるとカシオペアンは明言したのだが、それから1年後には今言ったような「観方」を獲得したのである。以前の状況では、作用は専ら精神的かつ感情的なもので、個人的な問題を「処理」し消化する意味合いのものだった。控え目に言ってもトラウマ的だったし、肉体的な副作用もあって、熱が出たり、寒気、痛み等々を伴った。あの「流入」は本当の意味での挑戦だったが、いくらか努力することで平衡を保つことができた。次に進む準備にほとんど1年掛かったということだと思う。

自由意思とその欠乏、STSとSTO、主観的と客観的の真の違いや、この星に存在する、私もあらゆる人間関係においてその中に組み込まれている(大抵は「食物」としてだが)「食物連鎖」を知覚できるようになった結果、私は生活の中でいくつか明確なアクションを起すことになった。その中には夫との離婚や、多くの人々との親密な関係から遠ざかることも含まれた。それは、彼らが私を「食い物に」しているのがはっきりと分かったからだ。「食い物にする」メカニズムを目の当たりにした私は、自分が他人の食い物にならず、自分も誰かを食い物にしないという観点から選択を行うようになったのである。これを誰かにうまく説明することなどできなかった。

物質的なレベルでも、このことは大量かつ圧倒的な苦痛をもたらしうるものだった。身体と感情の両方に対してである。もちろん、それまでの私は専ら、他人の痛みというものに心を砕いてきたのだが、ふたを開けてみると実際に彼らが感じる痛みなど殆ど無かったのである!地獄の劫火をくぐっていたのは、私だったのだ。

もう不承不承誰かの食糧となることを拒絶して、以前繰り返し教え込まれた信念とは相容れない、この観方に基づいて目に見えない何かを見るならば、そのとき見えてくるのは、従来とは異なる、恐ろしい、いやらしいもので、あなたの主任司祭や精神医が、現実の「真実な」あるいは「ポジティブな」見方としては決して奨めないものである。あなたが教え込まれ従来信じてきた全てに本当に立ち向かうと ― これには確かに、丁度からし種ほどは信念(信仰、ルカ福音書)が必要なのだが − どういうことになるだろうか?

私の場合は病気になった。同じ結果になった人のケースも知っているので、珍しい事ではないようだ。ひどい喉頭炎に罹って数週間話が出来なくなり、両目とも腫れぼったく閉じて、抗生物質その他の手当ても効き目が無く、始終耳鳴りがして汚い液が垂れてくるし、息をしたり身体を動かすのも困難だった。身体のフシブシ、スジというスジが痛み、壊れ引き裂かれたように感じられた。文字通り叩きのめされたのだ。自分の人生の真の姿を見、全てを変えた我が探求のせいでこの有り様かと思うと、痛みと嘆きのせいで気が変になるのではないかと感じたほどである。マジで死にかけていたのだ。確かに、例のプログラミングはもの凄くパワフルだったというわけだ!

あのとき私は平和を取り戻し安定を保つために、こんな目に遭うような観方を否定して、以前の信念体系へと大急ぎで退却することも出来た。だが、私は夢を見た。それは即座にアクションを起さないと死の危険があるとはっきり言っていたのだ。それは標準的な「黒い男の夢」だった。「黒い男の夢」とは、クラリッサ・ピンコラ・エステスというユング派の心理学者の著した『狼と駈ける女たち―「野性の女」元型の神話と物語』に出て来るのだが、同書では私達の無意識の知識を図示する地図として古代の物語が用いられている。


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魂に本来的にひそむ掠奪者は、おとぎ話だけでなく夢の中にも出てきます。女が見る夢で、誰にも共通する手ほどきの夢があります。とてもよくある夢で、25歳にもなる女がそれを見たことがないとしたら不思議なくらいです。この夢を見ると女はふつう、苦しくて、不安のあまりはっと目を覚ましてしまいます。夢のパターンはこんなふうです。夢を見る本人はひとりぼっちで、大抵は自分の家にいます。外の暗がりには1人か2人以上のごろつきがたむろしています。こわくなって彼女は緊急の救助ナンバーをダイヤルします。とつぜん彼女はそのごろつきが家の中にいる。。。自分のすぐ近くに。。。息が感じられるくらい。。。手を触れているかもしれない。。。と悟って、助けを呼べなくなってしまいます。はっと眼を覚ますのですが、息はぜいぜい、心臓はまるで狂ったドラムのように鳴っています。

黒い男の夢には身体的な側面が強くあります。この夢には汗、身悶え、はげしい息づかい、早鐘のように鳴る心臓がつきもので、ときには叫んだり呻いたりすることもあります。夢の大元が警告を発してきて、夢を見ている本人の自律神経を揺さぶるようなイメージを送って、緊迫した事態を伝えようとするのだ、ということができるでしょう。

この「黒い男」の夢の敵対者はふつう、女の言葉を使っていえば、「テロリスト、強姦者、刺客、強制収容所のナチ、匪賊(ひぞく)、殺人犯、犯罪者、痴漢、悪漢、泥棒」です。このような夢の解釈には、本人をめぐる生活環境や内部のドラマなどに応じたいくつかのレベルがあります。

たとえば、そういう夢はしばしば、とても若い女の場合のように、女の意識が魂に本来ひそんでいる掠奪者に目覚めはじめたことの確かな指標なのです。

べつの例では夢は前兆です。女が自分の魂の忘れられ、閉ざされた働きを発見したか、しようとして解放がはじまったか、なのです。。。

黒い男の夢は、女がどのような困難に直面しているかを示します。夢の中で暴漢として擬人化されているように、これは女が自分自身に対して残酷な態度をとっていることを伝える夢です。青ひげの妻のように、この事態についての「鍵」となる問いを意識してしっかりとらえ、正直に答えられるなら、女は解放されるでしょう。。。

女の夢の中の黒い男はイニシエーション − 認識と行動のレベルがもっと成熟し、積極的なものに変わること − がさし迫っているときに現れます。。。イニシエーションとは認識と存在の新しいありように至るために通らねばならない通路を創造すること、です。

夢は門であり、入り口であり、準備であり、また女の意識のつぎの段階。。。のための練習なのです。。。

黒い男の夢は、外の世界。。。で何かが根本的に欠けていることに注意を向けろ、と鳴り立てる目覚ましでもあるのです。。。黒い男の脅威はわたしたちすべてにとって警告になります。もし宝をなおざりにしていれば、盗まれてしまうよと。こんなふうに、もし女が黒い男の夢を見るようなら、彼女の才能を再評価するチャンス、目覚めへの巨大な門が開かれているのです。そこを通れば、これまで女に対する破壊や強奪を重ねてきたものが何か認識でき、理解でき、処理できるのです。

青ひげの物語でわたしたちは女が掠奪者の魔力にとりつかれながら立ち上がって逃げ、今度こそ賢くなるのを見てきました。この物語は女の主張から映し出された影の4つの変形を語っています。つまり、完全なヴィジョンをもたない、深い洞察力をもたない、自分の声をもたない、きっぱりした行動をしない、の4つです。掠奪者を追い払うには、その正反対のことをしなければなりません。鍵を開けるかのぞき込むかして、中にあるものを見なければなりません。洞察力と能力を使って、目撃したものに立ち向かわなければなりません。明瞭な声で自分の真実を語らねばなりません。そして、頭を使って、目撃したものにどう対処するべきか、考えなければならないのです。本能の強い女は内部の掠奪者を鼻で、眼で、耳で直観的にみつけ出します。それが現れるのを予期し、近づく気配を感じ、策を講じて追い払います。本能が損傷を受けた女の場合、その聴力、感知力、理解力が主として、いい子であれ、行儀よくしろ、なかんずく、虐待されても気づかずにいろ、と叩き込まれてすっかり損なわれているので、気がついたときにはすでに掠奪者の手中にあるのです。
[ローラ注:私たちは身を任せるよう催眠術をかけられてきたのだ]

まだ若く、それゆえナイーヴな、いわゆるうぶな女性と、本能が傷ついた女とのちがいはちょっと見ただけではわかりにくいものです。両方とも暗い掠奪者については無知で、そのためいまだに信じやすいのです。でもさいわい、女の魂の掠奪者的要素が動きだしたとき、それは夢にはっきりと足跡を残していってくれます。この足跡のおかげで、やがてそれを発見し、捉え、封じこめることができるのです。。。

野生の女は女たちに、魂にみちた生活をするためには「いい子」を演じてはいけないときがあることを教えます。野生の本性はこんな場合に「やさしく」していたら掠奪者をにんまりさせるだけだということを知っているのです。魂にみちた生がおびやかされたとき、はっきり一線を画しそれを表現することはたんに許されるだけでなく、必要とされるのです。
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(原 真佐子、植松 みどり訳、91ページ〜)


スーフィズムの偉大なファキールであるイブン・アル=アラビーはまさにこの事に関し述べている。ウィリアム・チティックがこの『スーフィの知識の道』を訳し注解している。以下はアル=アラビーのテキストおよびチティックのコメントからの引用だが、煩わしくなるのでいちいち区別しない(本書を読まれたい!)。


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コーランは問う、「知っている者と,知らない者と同じであろうか」(39:3)知識とは全てを包括するものの聖なる属性である。よってそれは神の最も素晴らしい御恵みである。。。知識の探究者である人間にとって、知識の習得は際限がない。というのも、知識の対象に際限がないからである。これは人間が幸運(felicity)を得る秘訣である。知識すなわち最善の善はまた、最高の喜びであり楽しみでもある。あの世で終わりなき生を続けるには、絶えず知識を増大させる他はない。

幸運なる者たちにとっては、この知識が完全に彼らの魂と一致し調和を遂げている。魂はこの世における信仰と実践によって形作られる。ゆえに、知識が増大するほど、幸運も増すのである。哀れな者たちにとって、物事についてのありのままの知識は灼熱の拷問である。というのも、それは彼らのこの世における信仰や実践と相容れないからである。新たな知識 ― それは自ずと新たに姿を現し、その本性を明かす ― を得る毎に、彼らは不幸になるのだ。

ヴェールをはがれ、現状についての知識が与えられるからである。
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私たちには何が見えるのだろうか?


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我々は見る。宇宙および我々の中身を構成する形態の中に神が真の姿を現されるのを。神はあらゆる場所に彼自身を「想像」される;我々が見る至る所で、我々は彼の「夢」を知覚するのである。ゆえに、我々が愛する万物に居られる神を、我々は愛するのだ。神はそれぞれの形態の中に姿を現され、我々が愛するいかなる形態の中に彼が居られようとも、我々は彼を愛さねばならないことになる。ゆえに、全宇宙はその材質において高貴なのだ。宇宙の中に優秀さのランクは存在しない。蛆虫も最初の知性も、材質の優秀さは同じである。材質の優秀さのランクは形態の中にのみ現れる。形態はレベルの属性なのだ。

万象のバルザフ、つまり息は単一の実体であり、それは存在でも無でもない;それは神であり/ないところの想像力である。この中間的な領域において、全ての属性は神へと帰らねばならない。彼こそは全ての実在の源泉であられ、「虚無」という実在すら例外ではないからだ。

我々という実体が姿を現すには、皆、揺らぎの状態を経ねばならない;丁度、数字のレベルが実体を現すには、数字の「1」が揺らぎを経験するようにである。
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このように見えることに対する我々の反応はどうあるべきだろうか?


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正義とは万事を適切な場所に配することであり、一方、知恵とはどんな状況でも適切に行動することである。適切に行動するには、正しく諸関係を判別できなくてはならない。「賢者」ないし「知恵ある者」とは、適切な状況において適切となるよう、適切な事を行う者のことである。

預言者は「権利のあるなんびとにも彼の権利を与えよ」と言っている。ここは「与えてしかるべき物」と訳すこともできる。人の権利ないし物とは、彼の本性と法を踏まえたとき、それに値するもののことである。

万事しかるべく与える人は賢いだけでなく、礼儀正しくもある。

礼儀正しさの聖なる起源は、彼の名前の属性を現すために神が世界を創造されたことにあり、それぞれの名前は特定の状況を必要とする。これらの名前の中には、宇宙の「二次的原因」や「被造物」が含まれている。神はある目的があって二次的原因を定められたのであり、礼儀正しい人間はそれぞれにしかるべきものを与える。これはつまり、それぞれの実在に、相応しい機能を果たさせることを意味する。二次的原因を「廃する」ことを望む者は、神に無礼を働くことになる。

礼儀をわきまえた聖なる人とは、神の良しとされるものを、神の良しとされる場所で、神の良しとされるやり方で、良しとする人である。

神は目的なしに二次的原因を定められたのではない。彼は我々にそれらを支持し、聖なる信頼でもってそれらに頼るよう欲しておられる。聖なる知恵がこれを知らしめるのだ。。。だから、神聖にして礼儀正しい賢者とは、二次的原因を神が置かれた場所に置く者のことである。二次的原因を廃する者とは、神がそれをそこに置かれたことを知らない者に他ならない。二次的原因を良しとする者とは、偉大で博識なマスターであり、神を知る礼儀正しい人に他ならない。

神の下僕のうちの賢者は、万事をふさわしい場所に置き、そのレベル以上に持ち上げない。彼は万物にふさわしいものを与え、自分の欲や気紛れのままに何ものをも裁かない。賢者は神が彼に一定期間定められた住まいを考慮し、神が彼のために据えられた住まいに見合った行動半径を法の範囲で考慮して、増やすことも減らすこともない。そうして彼は、説かれた態度で歩き、彼のために定められた住まいとの釣り合いを保ち、度を外すことがない。
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人はどうやって物事の真の原因を、そしてそれにふさわしいものを知るようになるのか?

彼は自分自身という存在を経験することで状況の形を知るようになるのである。

つまり、私たちは自転車に乗ることによって、その乗り方を学ぶのだ。先入観や仮定、あるいは期待を持たず、真摯に宇宙について問うとき、私たちの生活が答えを物語り始めるのである。


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すなわち、我々の生活における出来事、環境、諸関係とは、真の存在を反映しているのだ。我々が「万物に相応しいものを与える」能力を持つには、我々のリアリティにおける、このサインやシンボルを読み取る術を学べばよい。魂が歪みの無い鏡である人こそ本当に幸福である。アブー・バクルは「神を見る事なしに、それに先立って何かを見ることはできなかった」と書いている。

ヴェールを剥ぐ能力の持ち主は、彼が気付かないうちに絶えず創造を行っており、これまでも常にそうしてきたと知るようになる。だがこれは、彼が自身の限られた意志や欲望から「絶えず創造を行っている」という訳ではなくて、彼は前にこのことを知らなくても、万物が彼による、絶えざる創造であると知るようになるのである。
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この意味で「あなたがあなたの自身の現実を創造する」という考え方は、「素敵な考えを抱き、繰り返し唱えるか、または大丈夫と言い、あるいは生活の中で見たいものだけを見るようにすれば、それは起こる!」という意味に、かなりひどく歪められ改ざんされてきた。事実とまるでかけ離れているのだ!この堕落した教えの結果は、神に対する無礼という最も深刻な誤りをもたらす。これでは全く、万物に相応しいものを与えることを避けてしまっているからだ。私自身の経験から分かるように、万物に相応しいものを与えることは、一般的にかなり不愉快な結果となる筈である。私は、「傷つくまで与えなさい」とか、
http://rosslynva.exblog.jp/4214898/
「侮辱を甘んじて受けなさい(◆【語源】聖書マタイ伝)」、あるいは「愛と光を送りなさい」という教えを実に固く信じていたので、ついに真相を悟った時には、死にそうな目に遭ったのだ!

神はヴェールを剥ぐ能力のある人間に、「万物に相応しいものを与える」よう命じた。これは丁度、神が「あらゆる生き物を形づくった」ようにである。
(19:創世記 / 2章 19節
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、)
こうすれば、いかなる被造物からも一切に対してクレームが無いのと同じように、彼に対するクレームも無いだろう。これはヴェールを剥ぐことの利点である。

これは実際問題、どういう意味なのだろうか?これは、私たちの生活における、全ての出来事や関係において、主観的な好き嫌いに関わらず、「適切な(felicitous)」すなわち「客観的な」ことを行う術を学び、「禁じられた」すなわち「主観的な」ことを行うのを避けることを意味する。

私たちの心は二次的原因、すなわち物質的存在のヴェールに包まれ、しばしば物事の根源を知らない。これに対して、私たちの理性はしばしば、物事とは材質それ自体だと語りかける。もし私たちが感覚的に美しく、かつ楽しい何かに出会ったら、我々は誤って、それは根源からして美しく、楽しいと思うかも知れない。例えば、こってりした太りやすいデザートと健康的で栄養豊富な野菜との対比のようなものだ。同じルールが、私たちの生活における、出来事や関係にも当てはまるのだ。様々な事柄や人格が浸透し合い交り合う結果、私たちの知覚や起源で以ってそれらを分離するのは難しい。だが、それが私たちの務めなのだ。

私たちの務めは、私たちの出会う万人、万物の属性を決定することであり、「目に見えないものの光」、「魂の無知の闇を払いのける知識の光」を見ることなのである。

ここで再び問わねばならない:「カルマについての簡単な理解」とは何なのだろうか?「万物に相応しいものを与える」とはどういう意味なのか?

「いずれへ向いても、そこにあるのは神の顔」

私が闇を、私達の住む現実の恐怖を見ていたとき、私は神の顔を見ていたのだ。

アラビア語で、何かの「顔」とはその本質ないし実相をあらわす。神がその顔を誰かの方に向けると言うとき、それは神が自己開示によって、その者に神の実相を顕すことを意味するのである。

もしあなたが見ようと選ぶ神の顔が、「善と愛」の顔だけであっても、他の顔が存在しなくなる訳ではない − それは単に、あなたには見えず、あなたには理解できない方法であなたの生活の中で行動する、第3の男となるのだ。これは誰かを「愛する」のに少し似ている。それも相手の性格のある部分をあなたが変えてみよう、あるいは「我慢しよう」と決心する場合にである。あなたは、ありのままの彼/彼女を本当に愛してはいないのだ。あなたが本当に愛しているのは、その人に対して抱くあなたのイメージであって、彼/彼女自身ではない。ある意味、あなたは自分と恋愛しているのだと言える。というのも、あなたは「愛しい人」のあるべき姿を自分で創造しているのだから。同じことが、「神の愛」にも当てはまる。神の存在の半分を否定してしまったら、どうやって神を愛することなどできようか?裁判官のフリをして裁こうと、宇宙のどの部分が、存在のどの部分、神のどの部分が、受け容れ可能であり、「オーケー」だと言うのか?


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愛する相手が神かそれと同類でない限り、愛は愛する者たちの全てを夢中になどできないと知りなさい。それ以外の愛は人間を完全に夢中にすることはできないのだ。。。彼が単なる人間を愛するとき、愛する相手の中には彼自身と調和しない部分は存在しない。残りは何もないのだ。。。彼の人格の表面側が、彼の愛する人の人格の表面側にうっとりとなってしまい、彼の人格の内側の部分は彼の人格の内側の部分自体に夢中なのである。神は現れる者と現れざる者、どちらの名もあることが分からないのか?それゆえ、神やその同類の愛は人を完全に夢中にするのだ。

神はあらゆる「高貴な性格特性」の根源である。彼はまた「下賤な性格特性」の根源でもある。

神の似姿に創造されたゆえに、人は全ての神の名を受け入れ、自らの内に神の全ての性格特性を含んでいる。霊的な旅人の務めとは、潜んでいるこれらの名前と性格特性を、完全にバランスが取れて調和するように顕在化させることなのだ。全ての性格特性が、高貴なものも下賤なものも、人の生来の素質の状態から顕現するのである。これらは実際に彼のものなのであり、比喩や借用ではない。同様に神は、ご自身につけられた全ての名前をもっておられる ― これには、創造、生殺与奪、保留と授与、製作、詐欺、策略、偽物、決定、命令、笑い、歓喜、驚嘆、歓迎、貶し、許し、復讐、慈悲深い、激怒した、等々が含まれる。
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いわゆる「下賤な性格特性」が存在する権利を否定する状況に生き、それを「誤り」ないし「反抗」、「悪魔の欺き」と考えることは、存在の半面を全く否定し神の半分を否定する者、神を拒み愛さぬ者である。人の心の限られた一面のみを受け容れ可能と考えて愛し、肉体的な安楽を得る上で好ましくも望ましくもない部分を嫌うことは、自己の「受け容れ可能な」部分のみを主観的に愛することに他ならない。ここが大事な点なのだ。自分自身を、その数多くの部分の全てを受け容れることである。

このことはつまり人が全てのネガティブな性格特性を「表す」ということではなく、高貴な性格特性を受け容れ、愛し、常に表すことを選ぼうとし、また下賤な性格特性にも生産的に心を向けるということであることに注目するのが非常に重要なことである。存在するものの全て、光も闇も客観的に、無条件に愛し、他人が適当と思うあり方を選択する自由意思に決して干渉しないことこそが鍵であり、「簡単な理解」の1つなのだ。

もちろん同時に、他者の自由意思を侵害することは拒絶すべきである。他人に「対抗して」振舞うべきではなく、そのような場合は単に「あなた自身の運命のために」行動するのがよい。 それではここでもう1つ、ちょっとしたたとえ話を、『ラーマクリシュナの福音』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%BC
から引用したい:


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マスターが弟子たちに言った:物語をしよう。

ある森の中に、一人の聖者が何人かの弟子たちといっしょに住んでいた。ある日、師は彼らに、『神はすべてのものの中にいらっしゃる。これを知って、われわれはこの世のあらゆるものの前にうやうやしく頭を下げなければいけない』と教えた。

たまたま弟子の一人が、犠牲の火のために薪を集めに出かけた。突然彼は叫び声をきいた、『逃げろ! 逃げろ! 狂ったゾウがくるぞ!』

これをきいてこの弟子以外の人々は全部逃げた。彼は考えた、『ゾウも神の一つの御姿だ。では何で逃げることがあろう』と。そこで彼はその場所に立ったまま、ゾウを主と崇めてあいさつし、彼の讚歌をとなえはじめた。

ゾウ使いは『逃げろ! 逃げろ!』と叫びつづけたが、この弟子は身動きもしなかった。

ついにゾウは鼻をのばして彼をつかみ、わきに投げ捨てて進んで行った。

哀れな少年は気絶し、傷だらけで地面に横たわった。彼の師はこのことをきいて他の弟子たちといっしょに現場にきた。一同が彼を家にはこび、気つけ薬をあたえると、彼はすぐに正気を取り戻した。

誰かが「象がやって来るのに気付いただろう。なぜ逃げなかったのか」と尋ねた。

すると少年は答えた、『いつか師が、人やその他のすべての生きものとして現れていらっしゃるのは神様だ、とおっしゃったから、私はゾウ神様を見て動こうとしなかったのです』と。

これをきいて師は言った、『わが息子よ、きたのはゾウ神様であることは本当だ――しかしゾウ使い神様、彼がお前に逃げよと警告をしなかったか。神がいっさいのものの中に現れていらっしゃることは事実だ。しかし、もし彼がゾウとして現れておいでならそれと同様に、いやもっとはっきりと、ゾウ使いの中にも現れていらっしゃるのではないか。ねえ、それならなぜお前は彼の警告の声に耳をかさなかったのだ』

聖典には、水は神ご自身と同じである、と書いてある。しかしある水は祭祀にもちいるのにふさわしく、ある水は皿や汚れた布を洗ったり、食事のあとで顔や手を洗ったりすることにしか使えない。あとの水は、祭壇に上げたり、飲んだりはしないだろう。

それと同様に、善い人々と悪い人々、神の愛人たちと、彼を愛さない人々とがいる。本当に、彼らすべてのハートの中に神は宿っていらっしゃるのだ。それでも悪い人々や神を愛さない人々とは交際はできない。そのような人々とは、親密にはできない。ある人々とは会釈ぐらいは交すことができるだろうが、大部分の人々とはそれさえも問題外である。そのような人々からは離れているがよろしい

弟子の1人が尋ねた。「師よ、もし悪い人から危害を加えられそうになったり、実際にそうされたら、それでも私たちは黙っていなくてはならないのですか?」

師は答えた。「悪意ある人々から自分の身を守るためなら、人前で怒りをあらわにすべきである。危害が加えられそうだと見越して誰かを害してはならない」
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(日本ヴェーダーンタ協会訳 ラーマクリシュナの例え話 『ゾウ神様とゾウ使い神様』による
http://www.vedanta.jp/jp/contents/person/sr/rm-tatoe001.html )


神は善いものと悪いもの、醜いものと美しいもの、まっすぐなものとねじれたもの、道徳的なものと不道徳なものを創造する。

さて、私たちはどうやって全てを受け容れればいいのか;どうやって数多くの部分から成る神を愛すればいいのか;どうやって万物にふさわしいものを与えればいいのだろうか?

私たちはこれらの全ての属性として現れるだろうか?答えは「イエス」であり「ノー」である。

そしてこのイエスとノーとの間には、知識の道を辿る私たちの直面する、あらゆる危険が横たわっているのである。再びチティックの『スーフィの知識の道』から引用しよう:


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「万物に満ちている1つの存在であるから、神は良いものにも悪いものにも、全ての中に居られる。ゆえに、善と悪との間には何の違いもなく、全ては許される」という風に間違えて考えやすいものである。

悪はそのレベルのままで実在するし、人が自分の存在と同じ位リアルに苦境に直面するよう、精確に存在していることを我々は理解しなくてはならない ― 彼は自らの本性によって、バランス、調和、幸福へと通じるまっすぐな道と、アンバランス、不均衡、惨めさへと通じる曲がった道との間から選ぶよう強いられるのである。

神の視点からすれば、全ての道は「まっすぐである」しかしそれは、全ての名前と全ての可能性を理解しておられる存在としての神の視点から見た場合である。それは、人類の完成と幸福を願われる導き手としての神の視点から見た場合ではない。

霊的存在の視点からすれば、存在するのは善のみである。しかし、実生活に気を配るや否や、善は本質的に悪と交り合う。人間は霊的存在と一緒に住んでいるのではなく、善悪の選択に直面する。人間は他の物が存在している状況において、宇宙の中に置かれており、善い・より善い・悪い・より悪い、の選択を強いられるのである。善と悪とのいずれもが、物事の本性によって定められ、神の御心にかなった基準と関連しながら、真の善としての神を顕現させるのであるが、それらが人間に関しても同様だと考えることはできない。ゆえに我々は現実の状況において、善と悪の実在から逃れることはできないのだ。

人間は、この世界に自分たちが存在する全ての局面で、善と悪とを区別するよう強いられる。二次的原因は、神の名前の属性の役割を担い、宇宙は各種のレベルにおける、生殺与奪、許しと復讐、賞賛と貶し、指導と誤指導に満ちている。人間の利害が関わっている、いずれの場合にも、人は二次的原因を善か悪かに見做さねばならない。ゆえに、人間は常に、神の視点を、自分達自身の視点から分けなくてはならないのだ。多くの人々はここで見境を失ってしまう。

存在には善より他になく、あらゆる道が神へと通じるのと丁度同じように、全ての性格特性も高貴であって、下賤なものは無い。しかし全ての性格特性が高貴なのは、それらの存在論的起源と関係している限りにおいてである。善悪の4つのレベルが考慮されるや否や、高貴なものと下賤なものが相半ばするようになる。

最終的な幸福に関わる、高貴と下賤との間の違いを見分けるためには、人間は洞察力を必要とする。

洞察力こそ、神が信仰篤き人が洞察する目に与えられる聖なる光で、丁度視界を照らす光が備わっているようなものである。人がこの洞察力を持つとき、それは感覚の対象を視界に浮かび出す太陽の光のように明らかな印を付ける。太陽の光を覆うヴェールが剥ぎ取られるとき、視野は感覚の対象同士を区別する。それは小さなものから大きなものを、醜いものから美しいものを、黒、赤、黄から白を、じっとしているものから動きを、近くのものから遠くのものを、低いものから高いものを見分ける。同じように洞察力の光は信仰によって、非難に値するものから賞賛に値するものを、次の住まいを得る幸運な移動と惨めな移動とを見分けるのである。

洞察力の持ち主の中には、地面にある人の足跡を見ただけで ― 当人はそこに居ないのだが ― それが幸運な人なのか惨めな人なのか言い当てる域に達した者もある。これはあたかも足跡をつけて獲物を追う猟師の技のごとくである。

洞察力の光は、言ってみれば神から、根源から直接もたらされる。だからこそ、賞賛に値するもののみならず、非難に値するものをも見ることができるのだ。
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つまり、洞察の光とは客観的に物事を見る能力に他ならない。そして、この「洞察力」はどうやら知識から得られるようである。


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Q: (MM) 知識を吸収することでは、自由意思を高められないのね?

A:そんなことはない!!できるとも!!

Q: (L)それじゃあつまり、知識と気付きによって、私達は自由意思を持っていることに気付くし、どのような行いが真に自由意思から出たものと言えるかに気付く。だから、嘘やごまかしと真実との違いを知ったり疑ったりするとき、人は自らの人生をコントロールできるような場所に立つことができるのかしら?

A: Yes.
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こうして私達は、どうしたら「万物に相応しいものを与える」ことが出来るのかが幾分分かってくる。つまりどういうことかと言うと、人は他の人びとや自分たちの生活における出来事に隠されたサインを「読む」ことができねばならず、自らおよび他者両方の様々な属性に心を向けるようなやり方で応じねばならない。そうしてこそ、私達の行いは霊的な意味で賞賛に値するものとなるのだ。

だが、これでは重要な点を無視していることになる。結局のところ、それも選択なのだ。自由意思こそ、カシオペアンが語ったように、最も重要な創造の掟なのである。


980919
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Q: (L)オーケー、そこで、文通相手の1人であるエディーがこう書いてきたのよ:「ローラが愛についていくつかコメントしてるんだけど、僕は混乱するばかりなんだ。求められてもいないのに愛を与えることが、どうして向上ではなくて害をなすことになるのか、僕には理解できないな」これを批評して頂戴?

A:このような場合、愛を「与える」と言うが、与えてなどいない。

Q: (L)求められていないのに、愛を与えるのは、与えることにはならないと言うのね?

A:例によって奪うことになる。

Q: (L)「奪う」とは、何を奪っているのかしら?

A: STS流のエネルギー。

Q: (L)求められてないのに愛を与えることが、どうしてエネルギーを相手から奪うことになるの?

A: STS人格が他者のニーズを決めたところで、STO候補になる方法を学ぶことはない。

Q: (L)それがどうしてエネルギーを奪うことになるのか、わからないわ。

A:その行いは、自己満足に過ぎないからだ。求められていないのに「与える」ならば、ニーズが無いのだから、自由意思の侵害なのだ!加えて、そのようなシナリオでは、他にどんなモチベーションが働いていそうかな?!?このことを慎重かつ客観的に考えなさい。

Q: (L)私の考えではこうだわ。その場合のシナリオでは、頼まれも求められもしない人を愛するならば、そこには他者を変えようという欲望、すなわち、コントロールしたいという欲望が見てとれるわね。

A:その通り!!

Q: (L)で、彼が続けて言うには:「そう、全ては学びであり、人がある1つの道を選んだなら彼はそこを行って学ぶことが許されるべきである。だが、例えば、これがあなたの心底愛する誰かのことであり、例えば、彼が人生である時期に差し掛かっていて、彼/彼女は、例えば殺人を犯そうとしていたとする。この人に対し、無意識にであれ愛を送るならば、その殺人を止めるために必要なエネルギー(影響)を与えられるかも知れないのでは?」コメントを頂戴。

A: No, no, no!!! それどころか、そのようなエネルギーの移動は、(犯意遂行を)高める効果さえ及ぼそう。

Q: (L)どんな風に?

A:アンバランスな波動が受け手によって引き出され得る。

Q: (L)彼の言ったこの言葉が手掛かりになるんじゃないかしら:「人に愛を送れば、その人に必要なエネルギーをあげられるんじゃないかな」そして、彼が括弧に入れた「影響」というのは、相手の行動をコントロールすること、すなわち「殺人を止めさせる」ことを意味するわ。だから、そこには他人の行動をコントロールしよういう欲望がありそうね。

A: Yes.

Q: (L)だけど、彼が意図してるのは全くの慈悲なのよ。彼は殺人を止めさせて、命を救いたいのだから。それに、愛する人を刑務所に行かせたくないのよ。だから、彼の意図は慈悲なのよ。これなら、意味合いは違って来ないかしら?

A:カルマについて忘れてないかな?

Q: (L)うーん、シルビアと私が言ったのは、誰も全体の状況をみて判定なんてできるとは限らないということよ。だって、わからないじゃない。知りえないのよ。わかることと言えば、殺人の犠牲者になるかも知れない男はアドルフ・ヒトラーみたいなタイプ、ないしは、ヒトラーの両親の一方になることになりそうな人物かなんかで、それだったら、この殺人のお蔭で、2人の人間の一生が犠牲になるけど、多くの人の命が救われるわ。あるいは、この殺人は起こるべくして起こるのかも知れない。犯人と被害者との間には、本質的にカルマ的関係があるのかも。まあ、そんな事情は単に知りえないから、判定なんてできやしないわ。

A: Yes.

Q: (L)彼が言うには:「もし僕たちが愛のエネルギーを世界に送らなければ、エゴ中心のSTSエネルギーに支配されてしまうと思うんだ」

A:どうして、人はそれを送るのを選ぶのかな?動機は何だろう?

Q: (L)事態を自分がそうなるべきだと考える方向に変えるためよ。物事のあるべき姿についての自分の判定に従うように事態をコントロールするためだわ。

A:その通り。生徒が学校の設計者になることは期待されていない。

Q: (L)それじゃあ、何らかの影響を差し挟んだり行使しようと模索するのは、実は神の役回りを演じようとすることであり、宇宙に異常がないか判断しようと買って出て、直すのが自分の責任だと考えることだから、判定を下すことになるわね。

A: Yes, アドバイスするのは結構だけどね。学びを変えようとしてはいけない。

Q: (L)彼はこうも言ってるわ。「啓蒙された存在とは、どこにいようと愛を発していて、しかもそれは頼まれたからそうするというものではないんだ。啓蒙された存在すなわち愛であればこその行いに他ならないと思う」コメントを頂戴。

A:啓蒙された存在イコール愛ではない。冷蔵庫はハイウェイじゃない。

Q: (L)何ですって?! 喩えがごっちゃになってる!わかんないわ!

A:どうして?

Q: (L)全然無関係じゃないの!

A:関係あるとも!!!

Q: (L)啓蒙された存在って何?

A:啓蒙された存在。

Q: (L)啓蒙された存在とされる基準は何なの?

A:啓蒙されていること!

Q: (L)ある人が啓蒙されているってどんなプロフィールなの?

A:これじゃあキリが無い。諺に言う木に竹を接ぐようなものだから。

Q: (L)啓蒙された存在について理解しようとしてるのよ。エディーも他の多くの人びとも、啓蒙された存在とは愛のことだと思ってるのよ。だからこそ、そういう存在は光を放つんだし、啓蒙された結果なのよ。

A: No, no, no, no, no. 「啓蒙された」とは善いという意味ではない。単に賢いというだけだ。

Q: (L)オーケー、それじゃあ、啓蒙されたSTSと啓蒙されたSTOが居るの?

A:そう。大体フィフティー・フィフティーの割合だと思う。

Q: (L)オーケー、啓蒙されたSTO的存在のプロフィールは何なの?

A:与えることしかしない知性的な存在。

Q: (L)求めていない相手には愛を送らないということについて考えてきてたでしょ。与えることしかしない知性的な存在は誰に何を送るの?

A:全てを、求める者に対して。

Q: (L) Okay. 彼の手紙に対して、グループメンバーのシルビアはこう答えてるわ:「シーズが表現する愛の概念と、私たちの何人かが自分で理解しているつもりのそれとが矛盾していると指摘してくれて、エディーはあなたに感謝してるわ。でも、私たちは経験から知ってるの。シーズが、私たちの第3密度ないし3次元に適切な理解をもたらすのは、随分と難しいんじゃないかしら。

(シルビアの回答の続き):この矛盾について私はこう考えるわ:人が自然な成り行きとして宇宙に愛を発する時には、限られてるとか方向があるなんて意識してないのよ ― 少なくとも、そんな1人として、私にはできないわ − 単に「時間」がたっぷりあるからそうしてるだけよ。あるグループや人々を除外して行うというのは、私の理解を越えているし、間違いなく愛を送った私の経験にも反する。菩薩(原注3)でもない限り、特定の個人に愛を向けるときには、おそらく、一つの方向に向ってのみ激しいものとなるでしょう。意図した受け取り手に受け取る準備ができている/可能であるなんて、どうやって知ればいいの?。。。

この「受け取る」というのが手掛かりだと思うのね。受け取って欲しいと意図した相手も、愛のエネルギーに気付かぬままだったり、身をかわしたりするかもしれない。自由な主体ならね。

A: Yes.

Q: (L)もし、「愛のエネルギー」だとしても、結局STSによってダメにされてしまうの?

A:多分。

Q: (S)「愛を宇宙に対して与えることは、一般的にはベストなやり方かもしれないわ。でも、愛する人に向って行うなら効果的かも知れないけど、宇宙全般に対して行うことに効果があるのかしら?」

A:宇宙はバランスの場だ。いい加減にしなさい!
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原注
3:チベット仏教で菩薩とは、誰であれ、自分自身のためだけでなく、万人のために悟りを求める人のことである。菩薩の動機は純粋な慈悲と愛である。彼らが目指すのは、存在の最高のレベル、すなわち仏陀のそれを達成することだ。サンスクリット語で菩薩(ボーディ・サットヴァ)のボーディとは悟りであり、サットヴァとは生きている者という意味である。彼らが仏陀になる理由とは、他人を助けるためである。

最初に菩薩の道に入ろうとする者は、菩提心すなわち、悟りの心を育まねばならない。このような崇高な目標に向けて精進していながら、彼らは悩みが多すぎるために限界があるのではないかと感じた。そこで彼らは他人を助けられるように、仏陀となることを決めた。というのも、仏陀とは限りない慈悲と知恵を発揮できるからである。そしてまた、仏陀はどんなレベルを必要とする者でも全てこの者のことを理解することができるのだ。知性が劣る者たちに対して、仏陀は簡単な言葉を使うようにし、知性の優れた者たちに対しては、仏陀はより高貴な言葉で説明することができる。

菩薩の道に入るには、悟りの境地に達する必要がある。このため訓練は、以下の6つを完成させることから始まる。1]寛大さ、2]倫理観、3]辛抱、4]努力、5]集中、6]知恵。
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上の交信文には、特に注意したい2つの発言がある:


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STS人格が他人のニーズを決めたからといって、STO候補になる学びにはならない。
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そして2番目は:


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それどころか、そのようなエネルギーの移動は、(犯意遂行を)高める効果さえ及ぼそう。
。。。アンバランスな波動が受け手によって引き出され得る。
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ようやく辿り着いたように思う。「STS人格が他人のニーズを決めたからといって、STO候補になる学びにはならない」つまり、この本質は裁きなのだ。

注釈しておくと、誰と付き合うとか付き合わないとか、気に入るだとか気に入らないとか、意見を持ったり、見分けたり、選んだりして、日々、私達がエセの判定選択の類をあれこれ行い、有罪だと考えてることが「判定的」なのだ。というのも、私達は選択を行っているけれど、実際はそんな柄ではないから。このような意見/選択には洞察力が欠かせないのだ。

裁くとは何か?他人のニーズを決定し、それから、その決定に基づいて行動することである。それは、ある種のエネルギーを「送る」ことにつながる ― 「愛と光」であれ、「侮辱を甘んじて受けなさい」であれ、誰かを「救いなさい」という説教であれ − これらはいずれも他者のニーズを決めることになり、魂のレベルで真に求められてはいないのに、何かしていることなのである。

さて、多くの人々が、「エネルギー」を得ようとして操作を行っている。求めているのではない。物乞いしたり、嘆願したり、憐れみを誘うよう振る舞ったり、無力、不器用、ドジだったり、これらはみな、エネルギーを奪う手なのだ。もし、操作されることを許したり、このような形での説得に反応して与えたら、どんな結果となるだろうか?

それどころか、そのようなエネルギーの移動は、(犯意遂行を)高める効果さえ及ぼそう。
。。。アンバランスな波動が受け手によって引き出され得る。

つまり、実際のところ、地球上で大量に行われているこのような行為は、慈悲深い行為としてまかり通っているけれど、STSヒエラルキーに食い物にされることなのだ。むしろ、共依存的でさえある。つけこむ連中は、あなたの許しなしにつけこむことはできない。そればかりか、このようなグループの連中を「救おう」とする行為、「地球とその住人を愛と光で爆撃する」ようなことはみな、ネガティブさ、暗闇、コントロールシステムの増大に貢献するばかりとなろう。というのも、求められてもおらず、騙し、コントロールし、ディスインフォを流すことを選ぶ人々の意に逆らって行動することは、たとえ善意から出たのであろうと、彼らに逆らう行動をとることで、彼らの自由意思を侵害しているのだ。この結果、彼らはそのエネルギーを摂取し、STSのエネルギーは増大することになる。

誰しも、愛する者が判断や行動を誤ったら「救い」たいものである。自分の子供たちがときには死に至るような道を辿って行くのを見るときは、誰しも少しだけ死にそうな気になるものだ。だが、彼らが同意の必要な年頃を過ぎていれば、私達は実のところアドバイスができるだけで、彼らの選択に反対するような行動をとることはできない。私達の多くは我慢できず途中で挫折してしまうのだが、それはこれらが、さも無力そうな「マスクを被って」いたり、憐れみや同情の念に訴えていることが理解できないからなのだ。

時間やエネルギー、お金、シェルター、食べ物、衣服その他の援助を「可愛そうな」人に与えたものの、実はそのような人に「騙され」「裏切られて」いた経験をされた方はいないだろうか?一度ならずあるって?そうなのだ。そればかりか連中は益々味を占めたらしく、益々多くの人たちからお金やエネルギーを巻き上げ強力になって行く。奇妙なことではないか? で、私たちは宗教から何と教わっただろうか?「許して忘れよ」だの「侮辱を甘んじて受けなさい」だの「一層努力せよ」だのという調子である!私達がそんな関係なり状況に留まるのは、誰かを「気の毒に思う」からなのだ。このような感情から自らを解放するよう努めれば、「哀れみの乞い方のレベル」が上がって行っており、泣き叫んだり物乞いしたりは卑劣な行いに過ぎないことがわかる。


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Q: (L)あと、これも気付いたんだけど、私達の多くは他人との関係の中で、混乱させては静めたり、その他、エネルギーを消耗させたり、学びを歪める様に仕組まれてるのよね。要するに、私達にストレスを与えて、潜在能力を発揮できないようにさせてるんだわ。この見方は大事じゃない?

A:基本だよ、ローラ・ナイト君!
(※シャーロック・ホームズの真似)

Q: (L)分かってきたんだけど、こういった人々はある種のサイキックな仕掛けを使って私達から同情的な反応を引きだして、そこにつけ入って取り憑いてくるんじゃないのかしら。同情の本質についてコメントを頂戴?

A:憐れむ者こそ哀れ。

Q: (L)だけど、人から憐れまれて哀れみの情を催させるような人は、実際は他人を憐れみはせず、自分を憐れむのよね?

A: Yes…?

Q: (L)じゃあ、息子が言ってた通りだわ。自ら努力せずに闇の中に居る人、あるいは、不平をもらし「救われたい」と思う人に、同情したり愛と光を送ったり、虐待や操作を行う相手に親切に振舞ったりすれば、本質的には、彼らがさらに崩壊し利己性が習い性になるのを促すパワーを与える事になるのね?そんなことをすれば、彼らがSTSに堕落するのにパワーを与えることになるのよね?

A:その通りだ!

Q: (L) Yes. 繰り返しそういうのを見てきてるもの。獲物になる人々は生活の中で、いかに憐れみの情を催すことができるかという、極めて微妙な性質で選別されるのかしら?それとも、憐れむべき者に反応するようにプログラムされてるので、他の人々には明白な事にも盲目なのかしら?

A:どちらでもない。究極的にはエネルギーの消耗へと導くような催眠的反応のトリガーとなるような人々と交流するように、あなた方は選択されたのだ。。。

Q: (L)何のためにエネルギーを消耗させるのかしら?

A:何だと思う?

Q: (T)何事かに集中したりできないように。何らかの結果を出せないようにじゃないかな。

A:それか、少なくとも重要な事柄には。知ってのとおり、あなた方は勝ち目の無い状況だ!!

Q: (L)どうしてそうなのかと言うと、私達がそんな状況に立ち向かえない主な原因は他人を傷つけるのが怖いからじゃないかしら?私が長いこと離婚に踏み切れなかった主な理由もそれだった。ズルズルと先延ばしにすることがかえって子ども達を傷つけるのだとわかったから、抜け出す気になったんだけれど。どうして私達は、自分を傷つけるような誰かの感情さえ傷つける事を怖れてしまうのかしら?

A:正しい考え方ではない。あなた方は、「彼らに対抗する」必要などない。自分達の運命のために行動する必要がある。

Q: (L)でも、そんな事したら、そんな人々のせいであまりに辛い目に遭わされて、別れ別れになる以外に道がなくなるんじゃないのかしら。

A:そう。だけどそれは「対抗する」ことではない。正反対のことだ。それどころか、いいかな。1人じゃタンゴも踊れないとは言え、2人でタンゴを踊っているとき、ダンスホールが爆発炎上したら2人とも火傷してしまう!!!

Q: (L)そんな「タンゴ」から抜け出そうとするとき、解放されるというのに、どうしてあんなに猛烈な抵抗を感じるのかしら?彼らが私達を人間扱いする気持ちなんてないことは、わかりきっているのにねえ?

A:「彼ら」ではない。攻撃ルートのことを言っているのだ。STSは誰しもみな、そうなる候補なのだ。あなた方のうちの約60億人だけなのだが。

Q: (L)オーケー、誰もが攻撃ルートとなるかも知れないのね。それじゃあ、エネルギーを手に入れ、集中力を取り戻す役に立つようなものは何かある?

A:必要な変化を行うこと。。。

Q:そのような人々の前では、エネルギーの影響を受けて、彼らから物理的な放射でもあるのかしら?心を惑わされてしまって、そんな状況から抜け出す方法を考えることすら殆ど不可能なんてことあるかしら?

A:心を惑わすよう、エネルギーを抜き取るのだ。

Q:そのエネルギーはどこに流れて行くの?

A:第4密度STS。

Q:彼らが私達のエネルギーを抜き取って、第4密度STSが彼らから収穫するの?

A:「彼ら」は何もしない!!!! 第4密度STSが彼らを通じて全てを行うんだ!

Q: (L)つまり、私達の周りの人々が気付きを得ず、他の密度からコントロールや操作を受けている状況が分からず、さらに学びたいとも思わないならば、私達は勝ち目の無い状況であり、選択できる道はただ一つ、彼らの中から抜け出すことで、さもなければ私達は言ってみれば「悪魔と踊り続ける」ことになるのね。

(T)どうして僕らはそんな人々に惹き付けられるんだろう?

A:それが第4密度STSの狙いだった。

Q: (L)つまり、連中は他の人びとを通して、私達の思考や感情をコントロールし、都合のいい考えを私達の頭に吹き込んだから、私達は誰かを「救う」のはいい事だなどと考えるのよ。そんな事とは知らなかったじゃない。私たちの宗教でも文化でも、「痛みを感じるまで与えよ」(マザー・テレサ)
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=give+until+it+hurts+%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5&lr=
と教え込まれてきたわ。実際、痛みを感じ見るに耐えないから与えてきたのよね。だけど、こんな状況全体を仕組んでコントロールしてるのは、別の密度レベルからなんだわ。このテーマについて、まだコメントはある?

A:本当に学習プログラムを終えたのなら、繰り返し宣伝しなさい。つまり、あなた方は行動パターンや巧妙なサインを学びさえすればいいんだ。そうすれば、いつだってそれを避けることができるようになる。あなた方も他の人びともだ。取り越し苦労はやめなさい!

Q:確かに本当に言われたことがわかったら、広めなくちゃね...だから、ある人との体験からこのプログラムを学んだら、他の同様のケースは避けられるようになるのね。

(T)でも僕はH某から学ぶべきだったのに、同じ事をまた繰り返してしまった。

A:サインは目の前にあったが、キミはそれに気付かなかった。キミはまだこのプログラムを知らなかったんだ。取り越し苦労はやめなさい!

Q: (L)つまり、他人を変えられるだろうとか、自然としてしまうことを意図的に変えれば相手の助けになるだろうとか考えるのは、取り越し苦労じゃないかしら。

A:あるいは、実際の結果は別物だっただろう。
レッスン1番:常に攻撃を予期せよ。
レッスン2番:攻撃モードを識別せよ。
レッスン3番:攻撃にどう対抗したらいいか知れ。

Q:ここですべきことをしてるのを邪魔するようなものは、攻撃だとみなしていいのよ。母親の病気だろうと、子どもが自転車から転げ落ちて腕の骨を折ろうとね。万事、誰が攻撃ルートなのかについて警戒を怠ることと関係してるのよ。

A:攻撃されたときは、不測の事態を予測すること。もし問題になりそうなら...

Q:そう、もし問題が起こりそうな何かがあるときは、起きるものと覚悟する。

A:だが、予測できるものなら、「防ぐ」術を学んで、中和することだ。これこそ知識に根ざした警戒というものだ。それでは、知識の役割とは何かな?

Q: 護ることよ!この星で起こる殆ど全ての事は例外なく、高次レベルでSTS対STOとでやり合っていることの象徴なんだと完全に理解するようにならないといけないんでしょうね。

A: Yes, 多くの人々はまだ今のところ、このことに気付いていない。これも自然の学びのプロセスの一部として修めねばならない。

Q:人は皆、あれこれと聖域を設けがちで、これは攻撃のせいじゃないと考え、あるいは、論理や第3密度的思考で説明したり「片付けて」しまう。攻撃が自分自身や、妻、夫、子ども達、両親、友達と、殆ど誰からでも仕掛けられ得るのだ、誰も例外ではないということを理解できるまでね。

A:この考え方を信じられないのが、妨げになっている。いいかい、宗教、文化ないしは科学を吹き込まれてきた人は、何事も測定可能な物理的現実としか見ない傾向がある。非物理的攻撃にさらされている現実に対する認識の欠如を、人間は治さなければならない。
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私達は何かにつけて、第4密度に備えるためにできることはないかと尋ねたのだが、答えはいつもおおよそ「起きるにまかせなさい」というものだった。以下もその趣旨の、特に興味深いセッションの一部なのだが、何事にも当てはまるだろうと思う:


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A:いいかな、これはあなた方全てに言いたいことだ。今こそ一人一人が、出来る限り移行しようとすべき時なのだ。もちろん、無理やりと言うわけではないが、自分のペースでできる限り第3密度の制約から移ろうとしてみなさい。

あなた方は皆、第4密度への備えを始める準備が出来たという以上のレベルまで、学びを終えている。第3密度には物質性と制限と抑制といったあらゆるものが含まれ、また、それらと共に生きる人々が居るが、これらはあなた方にはもはや必要ないものだ。

だから、たとえ時にはここにしがみついているのが快適に感じられるのもわかるけど、今こそ、その時だ ― 繰り返すが − 今こそ先へと進むことを考え、第4密度に備えなさい。 そして、時間だとか、どうしたら時間の幻想から逃れられるかとかに、かかずらわっていてはならない。それは全くもって重要でない。それはあたかも3年次の生徒が算数の勉強にこだわって何事も全部中断しては復習し、ABCはどうしてCBAとかBACじゃないんだろうと考え込むようなものだ。意味の無い事だってある。単にそうなのだから。それらはあるがままのものなのだ。

Q: (L)それこそ知りたかったのよ。それって何?

A:何で、これを知る必要があるのかな?

Q: (L)好奇心からよ。時間って何なのかしら?

A:前にも言ったように、そんなものは存在しない。あなた方が居る、ないしはかつて居たレベルでの学びのポイントでの幻想上の人工的な産物だ。そのレベルを終えたら、もはやあなた方には必要無い。

Q: (T)多分、時間のことなど心配しないのも学びの1つなんだろう。時間が本物じゃないと学んだ以上はね...

A:本物じゃないなら、それが何なのか気にすることが重要かな?ビリーとジーンの2人の会話を考えてみなさい:ビリーがジーンに言う、「時間なんてものは無いんだ」ジーンは言う、「えっ、ホント?だけど正体が知りたいものね」ビリーは言う、「だけど、今、そんなものなど無いと言ったじゃないか。時間は存在しないんだよ。実際のどんな形でも無く、どんな準拠枠にも無く、どんな現実態でも無く、どんな密度レベルにも無い。単に存在しないんだ」で、ジーンが言う、「まあ、面白い。じゃあ聞くけど、時間って何なのかしら?」

Q: (L)分かったわよ。

(T)キミは腕時計してる?

(L) No.

(SV)私はスケジュールがあるのでしなきゃならないの。

(T)でも、他の人たちが時間の存在を信じてるから時計をしてるんだろう?

(SV) Yes.

(T)彼らの信念に対する好意からで、キミの信念ではない。

A:まさにその通り。未だこの第3密度に居る以上は第3密度領域に、より居心地良く感じてる人々のやり方に、まだある程度は従う必要がある。だが、先に言った通り、そろそろあなた方は、第4密度への準備を始める「時間」であり、第3密度の現実の、どこだとか、何故、何のためなんてことにかかずらわっている必要は全く無い。今やそれらは本当にあなた方にとっては過去のことだ。私たちにはわかるんだ。というのも、私達は第1から第6までの全レベルを全サイクルに亘って見通せるんだから。

Q: (L)ということは、そう前じゃないけど聞いたことがあったじゃない、このグループの目的は何かってね。そしたら答えは、もし私達にそれがわかれば、より正確には、私がそれを知ったときには、私は「引き離される」だろうということだったわね。文字通りの意味にとっていいのかしら?

A:おお、確かにその通り。あなたの骨の1本1本まで、他の人から引き離されるだろう。

Q: (L)あなた方がそう言うってことは、今こそ私達は第4密度に備え始めるべき時、おそらく、その質問に取り組むべき時なのね?

A:おそらく今やあなたが私達の話の舵取りをしようとしてるね。面白いじゃないか、なぜってもちろん、当初は私達の助けを求めていたあなたが、今やあべこべに私達の立場に立とうというんだからね。だが、実はある意味、これは既に起こっていたことなんだ。というのも、再び思い出すべきなんだけど、私達はあなたがたの未来なのであり、私達はあなた方が経験しつつあることを、全て経験してきたんだ。そして、もちろん私達の経験しつつあることも、常に経験済みだ。

だが言っておかなくてはならないのだが、私達が時折注意するものの、あなた方は進歩を遂げた。あなた方の進歩を実に誇らしく思う。

再び思い出して欲しいのだが、進歩の程度だの方向だの心配することはない。なるにまかせなさい。この進歩を保つのに、必要不可欠な習得すべき知識は、適切な(コーラスで)「時」が来ればちゃんと手に入るだろう!

だから、前から話しているように、心配しなくても万事落ち着くべきところに落ち着くんだ。

さて、あなた方を見ているとまだ準備が出来てないように感じる。今はまだ、あなた方の究極の目的が何かも、それがあなた方に必要だということも、知る必要はないんだ。どっちみち、そんなこと知ったって役には立たない。だからまたお願いするけど、どうかそんなことは心配しないように。だって、知るべき「時」が来たら、わかることだから。
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さて、このプロセスで学んだ「簡単な理解」のいくつかを紹介してきたのだが、再びこの考えを示しておこう:「STS人格が、他者の必要とするものを決定している以上は、STO候補になる方法を学びはしない」

このことは、じっくり真剣に考える必要がある。これまで幾多の団体、宗教、文化、政治システムが、数千年来このやり方を踏襲してきたことか?私の頭に専ら思い浮かぶのは、もちろん一神教であり、連中が人類を「救う」ために用いてきた畏怖戦術と催眠のための努力の一切である。考えると本当に恐ろしいことだ。

私達はここ第3密度では自己への奉仕派(STS)である ― ここに居る限り他になりようがないのだ。それに立ち向かおうともがいても甲斐の無い事である。だが、他人の「食べ物」になることは出来るだけ避けるような選択を学び(自分の運命のためになるように行動し)、あなたも他人のエネルギーや労力を食い物にすることを止めるなら、それは確かにプラスになる。メンバーが互いに知識や、感情エネルギー、時間、お金、その他あらゆるものを互いに提供しあうことを合意しているような関係だってある。それが真摯で、隠されたアジェンダなど無しに行われるなら、他人が提供したいと思い、また、そうする必要があるものを、各人が欲し必要とする故に、それこそが共生であり、他者への奉仕(STO)というものなのだ。


941012
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Q: (T)キミたちはSTOとSTSの両方について語っている。だけど、僕らはSTOとなるよう学ばなくてはならないと言う。僕らがやらねばならない事と、キミたちが行っていることとはどうして違ってるんだい?

A: STOとはバランスだ。というのも、キミたちは他者を通じて自己に奉仕するからだ。

Q: (T)キミたちは2度ほど、キミたちはSTOであることによってSTSである、と言った。それは本当じゃないのかい?

A:本当だ。既に回答済み。

Q: (T)因果はめぐるみたいなことかな?

A: Yes.

Q: (T) STOはSTSとなるための目的なのか?

A: No. STOはバランス、STSはアンバランスだ。

Q: (T) STSがアンバランスだとすると、STOになることでSTSになるなんてどうしたら可能なんだい?

A: STOは外へと流れだし、発生地点を含むすべてに触れる。STSは内側へと流れ、発生地点のみに触れる。
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だから、STSだけどSTOの方に向っている存在(STO候補)と真に「邪悪な」STS的存在との間の違いは本質的に、故意にSTSを選択しているかどうかにあるのだと思う。大抵の人々は、騙されてそれを選んでしまう。彼らが本当は何をしているのか理解し始めるとき、彼らは目覚め始めるのだ。そして、彼らが目覚めるとき、彼らは与えるか奪うかを選ぶのだ


そして、「一者は闇と光のどちらについても見て見ぬ振りをすることはない)」
(邦訳『ラー文書』192ページでは「『一なるものの法』は光や闇に対して投げかけるものではありません」)
。「いいかい、密度は人の意識の目覚めのみに関わる。人が一旦目覚めれば、万事はその目覚めに従う」

どこを見ても、到るところに神の顔があるのだ。

(本章終わり)
posted by たカシー at 12:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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