2012年11月28日

ザ・ウェイブ 第6章:動物の心理学 あるいは AであったものはAになる。非Aであったものは非Aになる。すべてはAか非Aのどちらかになる。

http://cassiopaea.org/2010/05/08/the-wave-chapter-6-animal-psychology-or-that-which-was-a-will-be-a-that-which-was-not-a-will-be-not-a-everything-was-and-will-be-either-a-or-not-a/

ザ・ウェイブ 第6章:動物の心理学 あるいは AであったものはAになる。非Aであったものは非Aになる。すべてはAか非Aのどちらかになる。


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Q: (L)前に、ウスペンスキーの『ターシャル・オルガヌム』で、知覚について読んだんだけど、これって、私達の第3密度における知覚の状態と、動物の第2密度での知覚の状態に関してのかなり正確な叙述なの?

A: Yes.

Q: (L) Okay, それじゃあ、そっちの話題、第4密度の知覚の話に飛ぶけど、第4密度の知覚とは。。。

A:静観しなさい。
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カシオペアンとの議論の紹介に入る前にここで、上のセッションで言及した、ウスペンスキーによる、第2密度の生き物の知覚に関する記述からの章節を引用しようと思う。というのも、この問題を本章で再び取り上げるに当たり、読者もどんなことが書いてあるのか、内容について熟知しておかれるのがよいと思うのだ。何と言ってもそこには、誰もが知りたいような内容、すなわち、私達もこのように大いに異なる知覚の世界に住むことができたら、また、私達には得られないような知覚を持つ生き物として生き、動き回ることができたら、一体どれほど深遠な衝撃が得られるのか、その理由はなぜかについて書かれているからである。

第4密度への卒業後の私たちの知覚とはどのようなものか、という問題もあるし、誰でもその答えを知りたいであろう。そう、この問題について思索した結果ウスペンスキーは、おそらく何らかの手掛かりを与えてくれているだろう。全く正しいとは言わないまでも、かなり確かなものをである。

この引用を紹介するかどうかについて、実はアークとかなり長いこと議論を行った。というのも、彼はウスペンスキーの「科学的議論」に重大な欠陥があると感じているからだ。アークに言わせれば、これは全く科学的でないし、ウスペンスキーの仮定は飛躍しており、証拠もなしに断定的な言い方をしているという。

おそらく彼の言う通りだろう。だが、この章節のポイントは、私たちの周りの世界に関する、人間と動物との体験の違いとはどのようなものか、感触を得ることで、更なる思索を行う上での枠組みを手に入れることにあるのだ。

引用は少しばかり長過ぎるものになるが、重要な点を幾らも損なうことなく要約するのはとても無理なのだ。1920年代か、それ以前に書かれたものであるため、言葉遣いはやや年代物の感はあるが、ウスペンスキーの文章は極めて簡潔で無駄が無く、脱線も殆ど無い。だから彼の結論は、本書を入手することができない人々にも、これから密度に関する知覚の話をする上で十分な理解を与えてくれるであろう。私が伝えたいのは、知覚の違いというウスペンスキーの発想であり、詳細に至るまで彼と同意見と言う訳ではない。だから、最初は多少違和感があっても、どうか読み通していただきたい。いずれ浮かび上がってくるアイディアのいくつかに、皆さんもきっと驚かれるだろう!

以下、『ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範)』から引用する:
(高橋弘泰訳89ページ〜)


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知覚の基本単位は「感覚(センセーション)」である。感覚とは内的生活における最初の変化であり、外的世界の状態が内的生活との関係において変化し、内的生活の状態が外的生活との関係において変化することによって生じるものと思われている。。。感覚は内的生活の状態における最初の変化であり、この変化の要素、基本単位であると定義すれば十分である。感覚の体験とは、いわば外的世界における何らかの変化の反映である。

体験された感覚は記憶の中に何らかの痕跡を残す。それが蓄積すると、感覚の記憶は意識の中でその同質性に従ってグループ化され、関連づけられ、統合され、対比される。互いに密接に関連しあって体験された感覚は、記憶の中で同じつながりを保ち続ける。そして次第に、体験の記憶の中から「表象」が形成される。

表象とは、いわば感覚の記憶のグループである。表象が形成される際に、感覚のグループ化は2つの明確な方向を辿る。最初の方向は感覚の特徴に応じたものである。黄色の感覚は他の黄色の感覚とつながり、酸っぱい味の感覚は他の酸っぱい味の感覚と関連づけられる。2番目の方向は感覚を受けた時間に応じたものである。

ある表象を形成する1つのグループが、同時に体験された他の感覚を含んでいる時、この感覚のグループの記憶は共通の原因を持つものとされる。この「共通の原因」は、対象として外的世界に投影される。そして与えられた表象はこの対象の真の特性の反映であるとみなされる。

そのような記憶のグループが「表象」を構成する。それは例えば、木についての表象(「この木」)という形を取る。このグループの中には、木の葉の緑色やその匂い、木陰、枝にそよぐ風の音などが入ってくる。これらすべてのものが合わさって、いわば我々の精神から放射される光線の焦点を形成し、それと良かれ悪しかれ一致する外的事物の上に焦点化するようになる。

心的生活がさらに複雑になってくると、表象の記憶は感覚の記憶と同じ過程を辿る。それが蓄積すると、表象の記憶あるいは「表象のイメージ」は非常に多様な線に沿って関連づけられ、つなぎ合わされ、対比され、グループを形成し、ついには「概念」を発生させる。

かくして、別々の時間に(まとまった形で)体験した様々な感覚の中から、木についての表象(「この木」という感覚)が子供の心に生まれ、後には、異なる木についての表象のイメージの中から「木の概念」が形成される。これは特定の木ではなく一般的な「木」を表している。概念の形成は「言葉」の形成につながり、「言語」の発生につながる。

言語は言葉(単語)から成り立っている。すべての言葉は概念を表す。概念と言葉は同じものであり、一方(概念)は内的側面を表し、他方(言葉)は外的な様相を表す。言葉とは事物の「代数」のようなものである。

我々の言語では言葉は概念または「観念」を表す。「観念」とはより幅広い概念である。それは同一の表象に対する記号の集合ではないが、同一ではない表象のグループをその中に含み、さらには概念のグループさえも包含する。観念とは複雑で抽象的な概念のことである。

現在のところ、平均的な人間は、心的生活の3つの単位(感覚、表象、概念)を備えている。

さらに観察を進めると、ある人々はある瞬間に、いわば心的生活の第4番目の単位を持つように見える。様々な作家や学者がそれを様々な名前で呼んでいるが、その知覚は常に感情的な要素と関わっている。空間の特質(3次元性)が我々の意識の特性であって外的世界に備わる特性ではないというカントの考えが正しいとすれば、世界の3次元性は我々の心的構造に何らかの形で依存しているに違いない。

具体的には、この問題は以下のように表現されるであろう。「世界の3次元的広がりは、我々の心的構造が感覚、表象、概念から構成されるという事実、しかもそれらが正確にはこの順番で生じるという事実とどんな関係があるのだろうか?」

我々はこの種の心的構造を持っている。そして世界は3次元である。世界の3次元性はこの特定の心的構造に依存しているということをどうやったら証明できるだろうか。

我々が心的構造を変えることができ、この変更によって周囲の世界が変化したということが分かれば、それが世界の特性が我々の心的構造の特性に依存していることの証明となる。例えば、先ほど触れた内的生活の高次の形態が、(今は偶発的に起こり、何らかの未知の条件に依存しているように見えるが)概念と同じように明確に我々の意志に従うものとなったとき、それによって空間の特性が増加するならば、すなわち、空間が3次元ではなく4次元の特性を持つようになるならば、「空間の特性は感覚知覚の形式である」というカントの命題が証明されたことになる。

あるいは、もし我々が心的生活の単位を減らすことができ、人間から概念を奪い取って、感覚と表象だけを持つようにすれば、そしてそのことによって空間の特性が減少すれば、つまり空間が3次元ではなく2次元になるのであれば、そして、さらに表象をも取り除くことによって、空間が1次元になるのであれば、それによってカントの考えが証明されたとみなすことができる。

かくして、カントの思想は以下の事実を示すことによって実験的に証明することができる。感覚だけを持つ存在にとって世界は1次元であり、感覚と表象を持つ存在にとって世界は2次元であり、概念や観念に加えて、高次の知覚形態を有する者にとっては、世界は4次元である。

もっと正確に言えば、空間という考えが主観的特徴であるというカントの命題は以下のことによって証明されうる。

a)「感覚」しか持たない存在にとって、我々の多様な世界は1本の線に見える。すなわち、この存在にとっての宇宙は1次元であり、彼の知覚特性によって彼の存在は1次元となる。

b)「感覚」の体験に加えて「表象」を形成する能力を持つ存在にとっては、世界は2次元的広がりを持つ。すなわち、青空、雲、緑の木々、山や渓谷といった我々の世界全体は、彼にとってはただの平面に見える。この存在にとっての宇宙は2次元しか持たず、彼の知覚特性のために彼の存在は2次元となる。

もっと簡潔に言えば、ある主体の心的構造の変化に応じて世界の特性の数が変化すれば、カントの命題は証明される。

心的特性を減らすという実験が可能であるとは我々には思えない。心的構造を通常の手段で制限することはできないからである。心的特性を増やす実験は存在するが、多くの理由から、それは十分に納得できるものではない。その主な理由は、精神的能力の増大は内的世界の中にあまりに多くのものを生じさせ、この新奇さが世界知覚のいかなる変化も覆い隠してしまうからである。新しいものを感じるが、その違いを正確に表現することができなくなるのである。

様々な霊的教えや芸術的、宗教的、哲学的教義は、まさにこの「意識の拡大」を公のあるいは隠れた目的にしている。あらゆる時代の神秘主義、オカルティズム、東洋のヨガの目的は「意識の拡大」である。しかし意識の拡大という問題は特別な研究を必要とする。

今は、前述のことを証明するために、より少ない心的構造についてこの仮説を検証してみることにする。

この方向で「実験」することはできないにしても、「観察」することは可能である。次のことを問うてみなければならない。この仮説に沿った意味で、世界に我々人間よりも低次の心的構造を持つ存在はあるだろうか?

人間よりも下位の心的生活を送っている存在は確かにある。それは動物である。動物の心と人間の心を隔てるものが何なのかはほとんど知られていない。通常の「保守的な」心理学はこれについて全く無知である。一般的に動物に理性があることは完全に否定されている。逆に、動物に人間の心理学を「限定的に」当てはめることはあるが、何をどのように限定するのかについては何も知られていない。動物は理性を持たず本能だけを持つと言われる。しかし本能とは何かについては曖昧な考えしかない。これは大衆的心理学だけではなく、「科学的」心理学についても言える。

そこで本能とは何か、そして動物の心はどんなものか調べてみることにしよう。まず最初に動物の活動を調べて、それが人間とどう違うかを見てみよう。それが「本能的活動」であるのなら、それは何を意味するのか。

生物の活動は、反射活動、本能活動、合理的活動、自動的活動に区分される。「反射的活動」とは単に動きによる反応、外的刺激への反作用であり、その時点での有益性や便宜性に関わらずいつも同じやり方で起こる。その起源と法則は細胞の単純な「刺激感受性」の産物である。

細胞の「刺激感受性」とは何を意味するのか。そしてその法則とは何なのだろうか。

細胞の「刺激感受性」とは、外的刺激に運動によって応える能力のことを意味している。最も単純な単細胞生物に関する実験で、「刺激感受性」は厳密な法則に支配されるということが証明されている。細胞は動きによって外的刺激に反応する。刺激の力が大きいほど細胞の反応する力も大きくなるが、その正確な比率は分かっていない。反応する動きを呼び起こすためには、刺激は十分に強くなければならない。体験されたそれぞれの刺激は細胞の中に特定の痕跡を残し、それがさらなる刺激に対して細胞を準備する。このことは、同じ力の刺激を繰り返し与えると細胞は最初の時よりも強い力で反応するという事実によって証明されている。刺激がさらに繰り返されると、細胞はさらに強い力で反応し、それはある一定の限界まで続く。限界に達すると、細胞はいわば「疲労」し、同じ刺激に対してより弱い反応を示す。細胞は刺激に慣れたように見える。それは細胞にとって恒常的な環境の一部となり、細胞はそれに反応するのを止める。なぜなら、細胞が反応するのは恒常的な環境が変化した時だけだからである。最初から刺激が反応を呼び起こすには弱すぎる場合にも、細胞には目に見えない痕跡が残る。このことは、弱い刺激を繰り返せば細胞は反応することができるという事実によって証明されている。かくして、「刺激感受性の法則」の中に、記憶、疲労、習慣の萌芽を見ることができる。そのために、細胞は、意識的で理性的ではないにしても、少なくとも記憶し、習慣を形成し、疲労することのできる存在であるという錯覚が生まれる。

我々が細胞にだまされるとすれば、もっと複雑な生活を送る動物にだまされることは遥かに容易だろう。活動の分析に戻ろう。

有機体の反射活動とは、有機体の全体またはその一部が細胞のように活動すること、すなわち「刺激感受性の法則」の枠内で活動することを意味している。そのような活動は動物にも人間にも見出される。突然寒さが襲ったり予期せず触れられることで身震いが走る。何かが近づいてきたり触れたりすると瞬きする。脚を宙ぶらりんにして座っているときに金槌で膝を叩かれると足が持ち上がる。これらの動きは意識とは関係なく、意識に反してさえ起こる。概して意識はそれらをすでに確立された事実としてとらえている。これらの動きは有益であるとは限らない。前にナイフや火があっても膝を叩かれると足は持ち上がってしまう。

「本能活動」とは、有益ではあるが選択や目的の意識なしに行われる活動のことである。

それは感覚の中に感情的特質が現れるとき、すなわち、快と不快の感覚が感覚に結びついた瞬間から生じる。

実際に、人間の知性が現れる以前には、すべての動物界の活動は、快楽を維持し、苦痛を避けるという傾向によって支配されている。ほとんど確実に言えるのは、本能は快と不快に基づいており、それは電気磁石の陽極と陰極のように、動物を特定の方向に誘引したり反発させたりして、一連の複雑な活動を生み出しているということである。それは時には意識的ではないかと思われるほど便宜的であり、渡り鳥の行動や、雛のために巣作りをしたり、秋には北への道を見つける鳥の行動などはほとんど神通力のような予知能力に基づいている。しかし実際にはこれらの能力は皆本能(快―不快への従属)によって説明される。

数万年に及ぶ年月を経て、淘汰によってすべての動物の中でこの快―不快への従属に従って生きる種が進化した。この従属は好都合であり、必要とされる目的に適っている。その理由は明らかである。有害なものを快だと感じる種は生き延びることはできないだろう。本能は、それが好都合なものである限り、指導原理になりうる。それが好都合なものでなければ死の指導原理となり、種を滅ぼすことになる。「快―不快」は有益性のためのものではなく、その結果である。植物生活を送っている間にある種にとって有益であった影響は、動物生活への移行と共に「快」と感じられ始める。有害な影響は「不快」と感じられる。同一の影響(例えば気温)もある種にとっては有益で快適なものだが、別の種にとっては有害で不快なものである。従って、「快―不快」への従属が便宜的なのは明らかである。快が快なのはそれが有益だからであり、不快が不快なのはそれが有害だからである。

本能活動の次の段階は合理的活動と自動的活動である。「合理的活動」とは、それが行われる前に行動主体に知られている活動のことである。活動主体が、それを行う以前に、名付け、定義し、説明し、その理由と目的を指摘できる行為のことである。

「自動的活動」とは、その主体にとって合理的なものであるが、繰り返し行われることで習慣的で無意識的になった行動のことである。訓練された動物が学習した自動的活動は最初は合理的であったが、その合理性は動物ではなく人間に由来する。そのような行動はしばしば合理的に見えるが、それはまったくの幻想である。動物は行動の順番を記憶しており、そのためその行動は思考と理性に基づいているように見える。その行動が思考に基づくことは確かであるが、それは動物が考えたのではない。自動的活動はしばしば本能的活動と混同される。確かにそれは本能的活動に似ているが、同時にそれらの間には大きな違いがある。自動的活動は活動主体自身の生活の中でのみ生み出される。そして、自動的になる前には、彼や他者にとって長い間合理的な活動であったに違いない。

本能的活動は種の生活の中で生み出されたものであり、それを行う能力が、既製品の形で、遺伝によって受け継がれたものである。自動的活動は活動主体自身によって創造された本能的活動と呼ぶこともできるかもしれない。本能的活動は種が発達させた自動的活動と呼ぶことはできない。なぜならそれらはその種の個々の存在にとって合理的なものでは決してなく、一連の複雑な反射の結果だからである。

反射、本能活動、そして「合理的」活動はいずれも何らかの反作用であり、独立したものではないということができるかもしれない。

1番目、2番目、そして3番目の活動は人間自身からではなく、外的世界から来たものである。人間は単にフォース(力)を伝達するための中継所に過ぎない。この3つのカテゴリーに属するすべての活動は外的活動から来る印象によって生じる。この3種類の活動において、自らの活動に気づいているか否かに関わらず、人間は自動人形に過ぎない。彼自身から来るものは何もない。

最高のカテゴリーの活動、すなわち「意識的活動」(一般的に言って、我々はこれを知らない。それは合理的活動と混同されている。なぜなら我々は「合理的」活動を意識的なものだと思っているからである)のみが、外的世界から来る印象だけではなく、それ以外のものにも由来している。しかしそのような活動を行うことのできる能力に出会うことは非常に稀であり、その能力を持つ者はほとんどいない。そのような人々は「高次のタイプの人間」と定義される。

活動の違いが分かったところで、我々はいまやこの問いに立ち返らねばならない。動物の心的構造は人間のそれとどのように異なっているのであろうか?

行動の4つのカテゴリーの中で動物が行うことができるのは低次の2つだけである。このことは、動物が人間のように話すことができないという事実によって証明される。

言語を所有することは概念の所有と切り離せないことは以前に述べた。従って、動物は概念を持っていないと言うことができる。

これは本当だろうか?そして、概念を持たずに本能的理性を持つことは可能だろうか?

本能的理性について我々が知っていることを総合すると、本能は感覚と表象しか持たなくとも働くことができ、さらに低次の、感覚しか持たない状態でも働くことができる。表象を用いて思考する心的構造とは、自分の持つ表象を選択して、外側から見れば理性を働かせて結論を引き出しているように見える本能的理性と同じであるに違いない。現実には、動物は考えて行動しているのではなく、感情によって生きているのであり、個々の瞬間に最も強力な感情に従っているのである。その場合、その瞬間には考えて行動したように見える。例えば、動物は危険に直面すると、しばしば驚くべき用心深さと知性を発揮する。

しかし実際には動物の行動は思考ではなく、大部分が感情的記憶と自動的表象によって支配されている。感情が便宜的であり、普通の存在にとってそれに従うことは好都合であるということは前に述べた。動物の中では、すべての表象、すべての記憶されたイメージは何らかの感情的感覚と感情的記憶に結びついている。動物の性質の中には非感情的で冷淡な思考やイメージというものは存在しない。もし存在したとしても、不活発なものであり、いかなる活動にもつながり得ない。

かくして、動物のすべての活動は、時には複雑で、便宜的であり、合理的であったとしても、概念、推論、知的結論の存在抜きに説明することが可能である。

逆に、動物が概念を持たないということは認めなければならない。動物が言語を持たないのがその証拠である。国籍と人種を異にし、お互いの言語を知らない2人の人間が1つ屋根の下に住むことになったとしたら、彼らは即座にコミュニケーションの方法を見つけ出すだろう。1人の人が指で円を描き、もう1人がその隣にもう1つ円を描く。2人がお互いを理解できることを示すにはこれで十分である。人々が厚い壁で隔てられていたとしても問題にはならない。一方が3回壁をノックし、もう一方も3回ノックする。これでコミュニケーションが確立した。他の惑星の居住者との交信というアイデアは光の信号というシステムに基づいている。地上に巨大な光の円か四角形をつくる。火星かどこかでそれに気づけば、同じ光の合図を送ってくるはずである。

我々は動物と隣り合わせに暮らしているが、彼らとコミュニケーションを確立することができない。動物と人間との差は明らかに、言語や石壁や遠距離で隔てられた人々の間の差よりも大きい。

動物が概念を持たないことを示すもう1つの証拠は、動物が梃子(てこ)を使用できないということである。動物は梃子の意義と働きを理解できない。動物が梃子を使えないのは肉体器官(手、腕)の形態のためだという一般的な見解が理由にならないのは、教えれば動物は梃子を使うからである。しかし、このことは動物が梃子を使わないのは肉体の形態のためではないということを意味している。肝心なのは、動物が自分自身で梃子を使うという考えに辿り着かなかったということである。梃子の発明が原始人と動物を分離した。それは「概念」の出現と分かちがたく結びついている。梃子の働きを理解する心の働きとは正しい3段論法を構築することである。知的に構築された3段論法なしに梃子の働きを理解することはできない。概念なしに3段論法を構築することはできない。知的領域における梃子と文字通り同じものである。

梃子の使用は言語の使用と同じように動物と人間を区別する。火星の科学者が地球を見て、望遠鏡を通じて客観的に研究するならば、言葉を聞くことができず、地上の居住者の主観的世界を知らず、何の接触もないので、彼らは地上の生き物を2つのカテゴリー、すなわち梃子を使う存在と梃子を使わない存在に区別するであろう。

動物の心理は我々には非常に謎である。象から蜘蛛に至るまであらゆる動物の無数の観察が行われ、また動物の知性、明敏さ、道徳性についての無数の逸話が存在するが、この点に関しては何も変わらない。我々は動物を生命のある自動人形か愚かな存在とみなしている。我々は自分自身の枠の中に閉じ込められてしまっている。他の心性が何かを知らず、我々の持つ心性のみが可能な唯一の形態だと考えている。しかしこの幻想が生命への理解を妨げているのである。動物の内的世界に入り込んで、動物がどのように感じ、行動しているかを理解することができれば、非常に興味深い多くのことが分かってくるだろう。

例えば、動物の「論理学」を知的に再現することができれば、我々自身の論理と思考の法則を理解するのに大きな助けとなるであろう。とりわけ、我々の世界観が条件付けられており、相対的なものであることが理解できるだろう。

動物の論理学は非常に特殊なものであるに違いない。それは言語の真の意味での論理ではない。というのは、論理はロゴス(言葉、概念)の存在を前提とするからである。通常の論理学は、(それによって我々は生きているのであり、それなしには『靴屋は靴を作ることができない』)アリストテレスが定式化した単純な形式から演繹することができる。それは彼の弟子によって『オルガノン』(道具)という名の下で編纂された。その公式は以下のものからなる。

AはAである。

Aは非Aではない。

すべてはAか非Aかのどちらかである。

この形式に含まれている論理学(アリストテレスの論理学)は観察のためには十分である。しかし実験のためにはこれでは不十分である。というのは、実験とは時間の中で起きるものであるが、アリストテレスの公式は時間を考慮に入れていないからである。このことは実験的知識が確立される黎明期に発見された。ロジャー・ベーコンはこの点に注目し、その何世紀か後には有名な同名人であるフランシス・ベーコンによって『ノヴム・オルガヌム』(思考の新しい道具)という論文の中で定式化された。ベーコンの公式は簡潔に言えば以下のように表現できる。

AであったものはAになる。

非Aであったものは非Aになる。

すべてはAか非Aのどちらかになる。

すべての科学的経験は、意識しようが意識しまいが、この公式の上に成り立っている。現実的にはこの公式は「靴を作る」のにも役立っている。もし靴屋が、昨日の皮と明日の皮が同じであることが確信できなければ、彼は敢えて靴を作るという危険を冒さずに、もっと確実な職を求めることであろう。

アリストテレスの論理学もベーコンの論理学も、事実を観察することから導き出されたものであり、事実の中身しか含んでいず、それ以上のものは含んでいない。それらは「思考」の法則ではなく、我々が知覚した通りの外的世界の法則でしかなく、外的世界に対する我々の関係の法則でしなかない。

もし動物の「論理学」を表現できるとすれば、外的世界と動物との関係を理解しなければならない。動物の内的世界に関して我々が犯している大きな誤りは、動物の論理を我々の論理に当てはめようとすることにある。我々は1つの論理しか存在し得ないと考え、我々の論理が絶対的なもので、それは我々の外に、我々と離れて存在していると思っている。しかし実際には、それは外的世界と我々の内的世界との関係でしかなく、我々が外部の世界に見出す法則でしかない。異なった精神は異なった法則を見出すであろう。

人間の論理学と動物の論理学の違いは、まず、後者は普遍的でないということである。その論理学は個々の場合に特殊なもので、すべての個々の表象に対応している。動物にとっては、共通の特性に従った分類(級、類、種など)というものは存在せず、あらゆる物は独自の存在を持ち、あらゆる特性はその物に特有のものである。

「この家」と「あの家」は動物にとってはまったく異なる物である。一方は自分の家であり、もう1つは「知らない人」の家だからである。一般的に、人間は物をその同質性によって認知し、動物はその差違によって認知する。動物はあらゆる物を、彼にとって最も大きな感情的意味を持つ印によって記憶する。表象は、感情的特質と共に動物の記憶の中に保存される。そのように表象を記憶するのは難しいことであるのは容易に分かる。その結果、知識や記憶の量は人間よりも遥かに少ないにも関わらず、動物の記憶は人間よりも負担が大きい。

ある物を見た時、我々はそれを特定の級、類、種に分類し、それを他の概念と互いに結びつけ、心の中で何かの「言葉」(代数記号など)と関連づけて、定義したりする。

動物は概念を持たず、我々に役立つ知的な記号を持たない。動物は与えられた物を知っていなければならず、そのあらゆる特徴を覚えていなければならない。忘れてしまった特徴は1つたりとも戻って来ない。しかし人間にとっては、主な特徴はその物体と関わりのある概念とセットになっており、その特徴を表示する印が記憶される。

このことから、動物の記憶は人間よりも負担が大きいことは明らかであり、まさにそのことが動物の知的進化の妨げになっているのである。動物の知性はあまりにも多くの記憶で占められており、前進するために時間がないのである。子供に一連の言葉や数字を丸暗記させてばかりいると知的発達は止まってしまう。動物はまさにそういう状況にある。動物は若いほど賢いという奇妙な事実はここに由来している。

人間の場合、知的能力が頂点に達するのは成年期であり、しばしば老年になってからであるが、動物の場合は反対である。動物に受容力があるのは若いときだけである。成年期には知的発達は止まり、老年期には確実に後退する。

動物の論理学は、アリストテレスやベーコンの方式に倣って表現するなら、以下のように言うことができる。

動物は「AはAである」という公式は理解できる。

「私は私である」などと言うことはできる。

しかし動物は「Aは非Aではない」という公式は理解できない。というのは、「非A」というのは概念だからである。

動物はこういうであろう。これはこれである。あれはあれである。これはあれではない。

または、この人はこの人である。あの人はあの人である。この人はあの人ではない。

後ほど再び動物の論理に立ち戻らねばならない。今確認しなければならないのは、動物の心理は人間の心理とはっきりと根本的に違うということである。そして違うだけではなく、多様である。

我々の知っている動物の間でさえも、心的な違いはあまりにも大きく、まったく異なったレベルにあると言ってもよい。我々はそのことに気づかないで、すべてを動物と呼んで満足しているのだが。

ガチョウはスイカの皮を足で踏んづけ、くちばしで皮を引っ張って持ち上げようとするが、持ち上がらない。皮の上から足を離すという考えはガチョウの頭に決して浮かぶことはない。このことは、ガチョウの心はあまりにもぼんやりしているので自分の体と他の物との区別もつかないのだということを意味している。犬や猫にはそんなことはない。彼らは自分の体をよく知っている。しかし外部の物体に対する関係は犬と猫では非常に異なる。

私は、ある犬、「とても賢い」セッターを観察したことがある。彼は小さな絨毯の上で寝ていたが、絨毯がたわんで寝心地が悪くなると、その不快感の原因が自分の外部にあること、もっと正確に言えばそれが絨毯の位置にあることを理解した。そして彼は歯で絨毯を噛み、あちこちをねじ曲げたり引っ張ったりしながら、その間中ずっとうなり声を上げていた。誰かがやって来て助けの手を差し伸べるまで彼はその動作を続けていた。だが彼は自分の力で絨毯をまっすぐにすることはできなかった。

猫にとってはそのようなことはまったく問題にならない。猫は自分の体を申し分なくよく知っているが、自分の外部にある物はすべてそのままに認め、何か既定の物として見ている。外部の世界を正そうとか、それを自分に快いものに変えようという考えは猫の頭には決して浮かばない。その理由はおそらく、猫はこの世界よりも別の世界、夢や空想の世界に生きているからかもしれない。だから、ベッドの寝心地が悪いと猫は自分の体を何回も何回も寝返りさせるか、あるいは他の場所に行ってしまうであろう。

猿はもちろん絨毯をうまくまっすぐに広げることができる。

この4つの存在は、お互いにまったく異なっている。同じような例はまだ何百も挙げることが出来る。それでも、我々にとってはそれらの方法は皆「動物」という1つの言葉で表される。我々は全く違う多くのものをごっちゃにしてしまっている。その区別はしばしば間違っており、それが我々自身を知ることをも妨げているのである。

さらに、今述べたような違いは「進化段階」によって決まると考えることはまったく正しくない。すなわち、ある動物を他の動物よりも「高次」とか「低次」と考えるのは誤りである。犬と猿はその理性によって、模倣する能力によって、また(犬の場合)人間への忠誠によって、猫よりも高位にあるように見えるが、猫はその直観、美的感覚、独立心と意志において犬と猿を遥かに凌いでいるのである。犬と猿はそのすべてをありのままにさらけ出しており、見たままの存在である。しかし猫が魔術的でオカルト的な(隠れた)動物であると考えられているのには理由がないわけではない。猫には多くの隠された部分があり、猫自身も気づいていない多くの部分がある。もし進化の観点から語るならば、人類の進化が1つではなく、人類の中でいくつかの進化が同時進行しているように、それらの動物は異なった進化体系に属しているのだと言った方が正確であろう。

いくつかの独立した、(ある観点から見れば)等価の進化がそれぞれにまったく異なった特性を発達させているということを認識することは、人間を理解する上での無数の矛盾の迷宮から我々を導き出し、我々にとって真に重要な唯一の進化である、「超人」への進化への道を示してくれる。

人間の心と動物の心には途方もない違いがあることが分かった。この違いのために動物は外的世界を人間とはまったく違ったように知覚していると考えられる。では、実際にはどのように知覚しているのか調べてみることにしよう。

それを知るためには、もう一度人間の世界知覚に立ち戻らねばならず、人間が世界をどのように知覚しているのかを詳細に調べなければならない。その後で、動物がその限られた心で世界をどのように知覚しているかが分かる。

最初に押さえておくべき事実は、外的な世界の様相と形態に関して、我々の知覚は極端に不正確だということである。我々は世界が立体から構成されていることを知っているが、見たり触れたりするのは常に「表面」だけである。我々は決して「立体そのもの」を見たり触れたりはしない。立体とはすでに1つの「概念」であって、その概念は理性と経験によってつなぎ合わされた多数の表象から成り立っている。直接感覚にとっては表面のみが存在する。重さ、大きさ、量といった「立体」と心の中で結びつけられている感覚は、実際には「表面」の感覚と結びついている。我々はこの表面の感覚が立体から来るのだということを「知っている」だけで、決して立体それ自体を感じることはできない。おそらく、表面、重さ、大きさ、濃度、抵抗などの感覚の合成物を「立体の感覚」と呼ぶことができるかもしれない。しかし我々はこれらすべての感覚を「心の中で」1つにつなぎ合わせねばならず、その一般的な感覚を立体と呼んでいるのである。我々は直接的には表面のみを知覚し、それとは「別に」重さを知覚する。立体の抵抗をそのものとして知覚することは決してできない。

しかし、世界は表面(面)で構成されているのではなく、見かけ上の世界は正しくないということを我々は知っている。我々は世界をありのままに見ていない。これは哲学的な意味だけではなく、最も普通の幾何学的な意味でもそうなのである。我々は立方体や球などをそれ自体として見ることはなく、常に表面だけを見ているのである。このことを知っているから、我々は自分の見るものを心の中で修正し、平面の背後に立体を「思う」のである。しかし我々は決して立体を表象することはできない。立方体や球を遠近法的にではなく、一度にすべての側面から思い浮かべることはできないのである。

世界が遠近法的に存在していないことは明らかである。しかし我々にはそれ以外の見方ができない。我々はすべてを遠近法的に見るだけである。ということは、知覚する際に我々は目で世界を歪めているのである。そして我々はそのことを知っている。我々はそれが見た通りでないことを知っており、目で見たものに絶えず修正を加え、我々の視界が示す物の象徴を現実の内容と置き換えている。

視覚とは複雑な能力である。それは視覚的感覚に加えて、触角の記憶から成り立っている。子供は見るものすべてを触りたがる。乳母の鼻、月、壁の上を踊っている太陽の反射光など、彼はだんだん近くにあるものと遠くにあるものとの区別をつけるようになるが、それは視覚によってのみ為される。しかし、大人になっても光の錯覚に容易にだまされることはよく知られている。遠方の物体は我々には平板に見える。つまり、より不正確に見える。というのは、浮き彫りというのは結局のところ物体のある特性を示す象徴であるから、遠方から見ると人間はシルエットに見える。そうなるのは、長い距離を隔てているものには触れることができず、我々の目は近距離にあって指先で区別できるような違いを見分けるようには訓練されていないからである。

これに関連して、視界を取り戻し始めた盲人の例は非常に興味深い。『盲人』という季刊誌の1912年版に掲載された記事の中で、生まれたときからの盲人が手術によって視界を取り戻した時の経過が描写されている。その記事では、17歳の少年が白内障を除去することによって視界を取り戻したときの体験が述べられている。手術後3日目に少年は何が見えるかを尋ねられた。彼は大きな光の中でぼやけた物が動いていると答えた。彼はそれらの物を見分けることができなかった。4日後に初めて見分けられるようになり始め、2週間後にやっと目が光に慣れ、物の識別のために視覚を実用的に用いることができるようになった。彼は光のスペクトルを見せられ、急速にそれを覚えたが、黄と緑は長い間混同したままだった。立方体や球やピラミッドが彼の前に置かれると、彼にはそれが四角形、円盤、三角形に見えた。円盤を球の横に置くと、彼にはその違いが分からなかった。2つの形の最初の印象を聞かれると、彼はすぐに立方体と球の違いに気づき、それが絵ではないことを認識したが、それらの物体から四角形と円の表象を連想することはできなかったと述べた。それが分かったのは、指で触れたときに四角形と円に触れたときと同じ感覚を感じたときだった。立方体と球とピラミッドを手で持つのを許されたとき、彼は即座にそれらを認知し、見ただけでそれが分からなかったことに驚いたという。彼はまだ空間や遠近法という表象を持っていなかったのである。すべての物体が彼には平板に見えた。彼は頭の形として鼻が突きだしており目がくぼんでいることを知っていたが、彼の目には人間の顔は平板に見えた。彼は視界が得られたことを大いに喜んだが、当初は物を見ることは彼を疲労させた。印象に圧倒されて消耗してしまったのである。そのために彼は、完全な視界を持ってはいたが、リラックスするために時々物を触ってみるのだった。

我々は外的世界のほんの小さな部分すら、ありのままに、つまり我々がそうであると知っているようには見ることができない。机や食器を内側も含めてすべての側から同時に見ることはできないのである。目は外的世界を歪曲し、我々自身に対する物の相対的な位置を定めるようにできている。しかし、我々以外の観点から世界を見ることは不可能である。また、我々は視覚によって歪められていない正しい観点から物を見ることもできない。

浮き彫りと遠近法 − これらは視覚による物の歪曲である。それらは目の錯覚であり、視覚的ごまかしである。遠近法で描かれた立方体は、3次元立方体の便宜的な象徴に過ぎない。そして、我々の見るすべてのものは、幾何学の研究する真の3次元世界の便宜的なイメージに過ぎず、真の世界それ自体ではない。我々は自分が見たものに基づいて、ありのままのものを推測する。我々は視覚が不正確であることを知っており、世界は見かけ上とは異なることを知っている。視覚の正確さについては疑いを持たず、世界は見たままのものであると思うなら、世界について見たままに考えることにも納得がいく。しかし、実際には、我々は見たものに絶えず修正を加えているのである。

見たものに絶えず修正を加える能力を持つためには「概念」を所有することが必要である。というのは修正は推測に基づいてなされるのであり、それは概念なしには不可能だからである。視覚に修正を加えなければ世界は違って見え、現実に存在するものを間違って見、実際に存在するものの多くをまったく見ず、実際には存在しない多くのものを見ることになるだろう。

直接感覚にとっては、自分のあらゆる動きは周囲のあらゆるものの動きと結びついている。我々はこの運動が錯覚であることを知っているが、現実にそれを見る。(例えば車に乗っているとき)我々の目の前で物は回転し、後ろに走り去り、互いに交錯する。ゆっくり運転している時には、家はゆっくりと回転する。速く運転していると家は速く回転する。木々が突然目の前に現れ、急いで後ろに消え去る。

この見かけ上の物の動きは、夢物語や妖精物語の材料を提供し続けている。

これらの場合、物の「運動」は非常に複雑なこともある。車窓から見たトウモロコシ畑の不思議な動きをみればよい。窓に向かってきたかと思うと、止まり、ゆっくりと回転し、一方に走り去る。森の木々は違った速さで走り、互いに交錯する。全風景が幻の動きなのである!太陽の運動はいまだにすべての言語で「昇る」「沈む」と言い表されている。かつてはその運動が何と熱心に擁護されたことか!

すべてはこのように見える。すべての運動は錯覚であると知っているにもかかわらず、我々はそれを見て、時には欺かれる。

動きを生み出す原因を理解せず、すべてを見たままに受け入れるとしたら、なんと多くの幻を見ることになるだろう!

私は見る。故にそれは存在する。

この断定がすべての錯覚の源泉である。

正しい言い方は次のようになるはずである。

「私は見る、故にそれは存在しない!」または「私は見る、故にそれはそうではない!」

人間はそう言うことができるが、動物には言えない。動物にとっては、見るものすべてが存在する。見るものを信じざるを得ない。

動物には世界はどのように見えるのだろうか?

動物にとって、世界は一連の複雑に運動する面である。動物は「二次元世界」に住んでいる。彼らの宇宙は面の外見と面の特性を持っている。この面の上に、非常に多様で魅惑的な運動が次から次に起こる。

動物には世界はなぜ面に見えるのであろうか?

まず言えるのは、それが我々にも面に見えるからである。

しかし人間は世界が面ではないことを知っているが、動物はそれを知らない。彼らはすべてを見たままに受け取る。動物は目で見たものを修正できない。少なくとも我々のようには修正できない。

人間は3つの方向を測定できる。人間の心の性質がそれを可能にする。動物は同時に2つの方向を測ることができるが、一度に3つの方向を測ることはできない。その理由は、動物は概念を持たないために2番目と3番目の方向を測っている間に最初の方向を頭に入れておくことができないからである。

これについてもっと明確に説明しよう。

「立方体」を測定していると想像してみよう。立方体を3方向で測定するためには、第1の方向を測定している間に、他の2つの方向を「覚えて」おかなければならない。しかし物は概念としてのみ頭に留めることができる。すなわち、それを様々な概念と結びつけ、いくつかの方法でそれに名前をつけることなどで覚えておくことができる。

よって、最初の2方向に「長さ」と「幅」という名前をつけることで、「高さ」を測ることが可能になる。そうしなければ測ることはできない。「表象」としては立方体の最初の2方向は完全に同一であり、頭の中で混同しがちである。動物は「概念」を持たないので、立方体の2方向に「長さ」と「幅」という名前をつけることができない。従って、立方体の「高さ」を測る瞬間に、最初の2つの方向は1つに混ざってしまう。立方体を測定しようとする表象だけで概念を持たない動物というのは、私がかつて観察した猫に似ている。彼女には5、6匹の子猫がいて、それぞれが違う部屋にいたが、子猫たちを決して1つの部屋に集めることができなかった。彼女は1匹の子猫をくわえて、もう1匹の子猫のところに連れて行って一緒にする。それから3匹目を探しに行き、最初の2匹と一緒にする。そして即座に最初の子猫をくわえて、別の部屋に持っていき、4番目の子猫と一緒にする。それから再び最初の部屋に走っていき、2番目の子猫をくわえてどこかにいる5番目のと一緒にする、等々。まる1時間その猫は子猫をあちこちに引き吊り回して、疲れ切っていたが、結局何もできなかった。彼女は明らかにそこに全部で子猫が何匹いるかを覚えておくための「概念」を持っていなかった。

動物が立体を測定するときの感覚を把握しておくことは非常に大切である。

肝心なのは動物は表面しか見ていないということである。(これは確信を持って断言することができる。なぜなら我々自身が表面しか見ていないのだから。)表面しか見ていないので、動物は2次元しか表象することができない。第3次元は、最初の2次元と並んで、ただ考えることができるのみである。この次元は「概念」であるに違いない。しかし動物は概念を持たない。第3次元もまた表象とみなされる。その結果、3次元が出現した瞬間に、最初の2つの次元は1つに混ざり合う。動物は2つの次元の違いを見分けることができるが、3つの次元の違いを見分けることができない。この違いは「知る」ことしかできない。そしてそれを知るためには、概念が必要となる。

動物にとっては同一の表象は1つに混ざり合うようになっている。ちょうど人間にとって、ある1点で同時に起こった2つの同一の事象が1つに混ざり合うのと同じように、動物にとってはそれは「1つの現象」である。人間にとって、ある1点で同時に起こった2つの同一の現象が「1つの現象」であるように。

かくして動物は世界を表面としてのみ受け入れ、その表面を2方向のみで測定する。

それでは2次元の世界に住みながら、あるいは世界を2次元に知覚しながら、動物がこの3次元世界で完全に支障なく動き回ることができるということをいかに説明すればよいのだろうか。鳥が上下左右に3次元空間を自由に飛び回ることをどう説明すればよいのだろうか。あるいは馬がフェンスや溝を飛び越えたり、犬や猫が長さや幅だけでなく、高さや深さの特性を理解しているように見えることをどう説明すればよいのだろうか。

このことを説明するためには、もう1度動物心理学の根本問題に立ち戻らねばならない。先に述べたように、「種」や「属」という一般的な形で我々が記憶する多くの物の特性を、動物は物の個別の特性として記憶する。記憶に蓄えられた個別の特性の膨大な貯蔵庫からより分けるために、動物はそれぞれの表象や感覚の記憶と関連のある「感情的特質」の助けを借りている。

例えば、動物は2本の道を互いに全く共通点のない2つの完全に別々な現象として知る。1つの現象、すなわち1本の道路は、明確な感情的特質に色づけられた一連の明確な表象から成り立っている。人間にとっては両方とも「道路」であり、1本はある場所へ、もう1本は別の場所へ導くものと考える。動物にとっては、2本の道路には何の共通点もない。しかし動物は最初の道と2番目の道に結びついている一連の感情を完全に記憶しており、両方の道路の曲がり方や溝やフェンスなどをすべて覚えている。

このように、動物の見た物の明確な特性を記憶することが現象世界における方向づけの役に立っている。しかし一般に、新しい現象に直面したとき、動物は人間よりも途方に暮れる度合いが大きい。

動物は2つの次元を見る。動物は絶えず3次元を感じるが、それを見ることはない。彼らはそれを何か一時的なもの、すなわち我々にとっての時間のように感じる。

動物が見る「面」は彼らにとって多くの不思議な特性を持っている。それらはまず最初に多様な運動である。

あらゆる幻の運動は動物には完全に実在するものに見えるに違いないとすでに述べた。それらの運動は人間にも実際に見えるが、人間はそれが錯覚であることを知っており、例えば家の横を走り過ぎる時に家が回転したり、角を曲がるときに木が現れたり、雲の間を月が動いたりするのは実際にはない動きであるというのを知っている。

加えて、動物にとっては存在する多くの運動は、人間にとっては存在しない。実際に、我々にはまったく止まって見える物の多く(事実上すべて)は動物にとっては動いているように見える。そして、動物に立体の3次元性が現れるのはまさにこの運動の中においてである。すなわち、動物には立体の3次元性は運動に見えるのである。

動物が外的世界の物をいかに知覚するかを想像してみよう。

動物の前に大きな円板を縦に置き、その横に同じ直径の球を置いたとしてみよう。

少し離れたところから、その動物は2つの円を見るだろう。その周囲を歩き始めると、球の方は円のままだが、円板の方は徐々に狭まり、ついには1本の直線になってしまうことに気づくだろう。さらにその回りを歩き続けると、その幅が再び広がって、また円になることに気づく。球はその周りを歩いても形を変えないが、近づくにつれて不思議な現象が起こる。

動物が球の表面を円の表面と区別してどのように知覚するかを想像してみよう。

確かなことが1つある。動物は球の表面を我々とは違った方法で知覚するだろう。我々は曲面や球面を多くの表面に共通の特性として知覚する。しかし動物はその心的構造のために、球面をその球だけの特性と知覚するであろう。その球独自の特性としてみた場合、球面はどのように見えるだろうか?

確信を持って言えるのは、動物には球面は自分の見ている表面の動きとして見えるということである。

動物が球に近づく時、おそらく次のようなことが起こるであろう。動物の見る表面は急速に飛び出してくる。その中心は前方に動き、それ以外のすべての点は中心からの割合に(あるいは中心からの距離の2乗に)比例した速度で後退するように見えるだろう。

動物はこのように球面を感知するだろう − 我々が音を感知するように。ある距離から球を見るとき、動物はそれを平面だと思う。球に近づいて、その表面の1点に触れたとき、その1点の他のすべての点に対する関係は、平面の場合と異なり、あたかも他のすべての点が動いて、その点の側に引っ張られているように感じるだろう。他の点に触れれば、他のすべての点がそこから撤退しているように感じるだろう。

球のこの特性はその運動、振動とみなされるだろう。そして実際その球は振動し、波打つ表面に似ているだろう。同じように、静止した物体の角はすべて動物にとって運動とみなされるだろう。

動物が3次元物体の角を見ることができるのはその横を通り過ぎるときだけであり、その場合物体は回転しているように見え、新しい側面が出現し、古い側面が後退し、脇へ移動したように見えるだろう。角度は「回転」という物の運動として知覚される。それは一時的なもの、物の状態の一時的な変化とみなされる。以前出会った角度を記憶して − 動物はそれを物の動きとみなすのだが − それを過ぎ去ったもの、終わったもの、消滅したもの、過去に属するものとみなすだろう。

もちろん動物はそのことを理解することはできないが、あたかも理解しているかのように行動する。

動物が、その生活の中でまだ遭遇したことのない現象(角度、曲線、表面)について考えることができるとすると、疑いなくそれを時間の中で起こるものと考えるだろう。換言すれば、「まだ」現れていないときには、今それが現実に存在しているものだと思うことができない。動物が意見を表明できるとすれば、「角度」というものは潜在的には存在し、将来には存在するかもしれないが、今は存在しないと言うであろう。

馬にとっては、毎日横を通り過ぎる家の角は、時間の中で、特定の環境で起こる現象である。それは空間的で一定不変な家の特性ではない。

動物にとって「角度」は人間にとってのような「空間」現象ではなく、「時間」現象に違いない。

したがって、動物は3次元の「特性」を「運動」としてとらえ、それらの特性を「過去、現在、未来」という「時間」に帰する。つまりそれを未来から過去への移行とみる。

これは非常に重要な点であり、我々の世界知覚を理解する上で鍵となる事実である。よってこの点を詳細に調べる必要がある。

これまで我々は、犬、猫、馬など高等動物についてのみ考えてきた。ここで下等動物、例えばカタツムリを例にとって考えてみることにしよう。我々はカタツムリの内的生活について何も知ることができないが、その知覚が我々と非常に異なっているだろうことは確信できる。ほとんど確実に言えるのは、カタツムリの周囲に対する感覚は非常に曖昧模糊としたものであろう。おそらく暖かさ、冷たさ、光、闇、空腹などを感じるだろう。そして本能的に(快―不快の導きの下で)まだ食べていない葉っぱの端に這っていき、枯れた葉っぱから離れていくのであろう。その動きは快―不快によって支配されている。常にあるものに向かって前進し、あるものから後退する。それは常に1本の線上を、不快から快に向かって動く。そして、ほとんど確実なのは、カタツムリはこの1本の線以外のものは何も知らないだろうということである。カタツムリにとってはこの線が「全世界」なのである。外部から入ってくるあらゆる感覚はこの線上における「運動」として感じられる。それらは時間の外からやって来る。「可能性」であったものが「現実」となる。カタツムリにとって、我々の全宇宙は時間(過去と未来)の中に存在する。「現在」の中には1本の線だけが存在し、他のすべては「時間」の中にある。カタツムリはおそらく自分の動きに気づいていない。体全体で新鮮な葉っぱの先に行こうとするのだが、カタツムリには葉っぱが自分に向かって動いているような気がする。それは今この瞬間に、「時間」の中からやって来るように思われる。あたかも我々にとって「朝」がやって来るように。

カタツムリは1次元存在である。

犬、猫、馬などの高等生物は2次元存在である。彼らにとっては、空間は表面、平面に見える。この平面の外部にあるすべてのものは「時間」の中にある。

よって、高等動物(1次元存在に比較しての2次元存在)は時間から1次元よけいに引き出したのだと言える。

カタツムリの世界は1次元であり、我々の2次元と3次元は時間の中にある。

犬の世界は2次元であり、人間の3次元は彼らにとって時間の中に存在する。

動物は、自分の観察したあらゆる「現象」を記憶し、自分の接触した3次元体のあらゆる特性を覚えているかもしれないが、彼らにとっては繰り返し起こる現象である「角度」や「曲面」や「球面」が現実には3次元体の一定不変の特性であると知ることはできないであろう。

これが2次元存在による世界知覚の心理である。

動物にとっては、毎朝「新しい太陽」が昇る。昨日の太陽は消え去り、2度と戻ってこない。明日の太陽はまだ存在していない。

ロスタンドはシャンテクラーの心理を理解できなかった。
(→弘泰さんへ:ロスタンという詩人が書いた一番鶏シャンテクレールの物語があるそうです。英訳もcockとなっており、カッコウじゃないのでは?
http://buurthuis.blog84.fc2.com/blog-date-20120111.html )
カッコウは自分の鳴き声で太陽が目覚めるのだとは思わなかっただろう。カッコウは「太陽が眠りに就く」とは考えない。それは過去となり、消滅し、存在することを止めるのである。明日太陽が昇ったとしたら、それは「新しい太陽」であり、それは我々にとって毎年「新しい春」がやって来るようなものである。太陽は目覚めるのではなく、生まれ、新たに存在するのでなければならない。動物は(その心性を失うことなしに考えることができるとしたら)今日の太陽と明日の太陽が同じものだと考えることはできない。それは人間の考え方である。

動物にとっては毎朝「新しい太陽」が昇る。ちょうど我々にとって毎日「新しい朝」、毎年「新しい春」がやって来るように。

動物は今日の太陽と昨日の太陽が同じものだということを理解することはできない。朝が同じものであり、春も同じものであることを我々が理解できないように。

物の運動は我々にとっては錯覚ではなく現実である。しかし、「回転する車輪」や「動く馬車」などの運動は、動物には、静止している3次元体を見て動物の知覚する「運動」と全く異なって見えるだろう。この「人間にとっても現実に見える運動」は動物には「自発的な、生命を持つ運動」に見えるだろう。

そしてこの2種類の運動の違いを彼らは説明することができないだろう。動物は、角度や曲面の真の意味を理解できず、それらを運動とみなしたとしても、それを測定することはできるだろう。しかし彼らは「実在する運動」(我々にとっての運動)を測定することはできないであろう。そうするためには我々の時間の概念を持つことが必要であり、より一定不変の運動に対するすべての運動の関係を測定しなければならない。つまりすべての運動を1つの運動と相対的に比較しなければならない。しかし動物は「概念」を持たないのでそうすることができない。従って、人間にとって実在する「運動」は動物には測定不能である。そしてその運動は、人間にとっては錯覚であり、3次元体の構成要素である実在しない運動、そして動物にとっては現実の測定可能な運動と同一の基準で測ることはできない。

それは必然である。動物が運動ではないものを「運動」と感知し、それを測定するとすれば、運動と運動でないものに同じ基準を適用することはできないからである。

しかしそれは、動物が世界で起こっている「運動」に順応することができないことを意味しない。それどころか、動物が3次元世界の動きに完璧に順応していることは明らかである。これは何百世紀もの自然淘汰、目的意識なしに行われた便宜的な行動の積み重ねの中で進化した本能と能力によるものである。動物は周囲で起こる動きを完全にうまく識別できる。

しかし、2種類の「現象」、2種類の「運動」を識別する時に、動物は一方の「運動」を物に内在する不可知の特性として理解しようとする。すなわち、その動きは物に生命が宿っていることの結果であると思い、そのように動く物を「生き物」だと考えるであろう。

子猫がボールと戯れたり、自分の尻尾と遊んだりするのは、ボールや尻尾が自分から逃げ出そうとするからである。

熊は木漏れ日と戦って、ついには木から落ちてしまう。なぜなら彼は揺れ動く光線の中に敵対する生き物の姿を見るからである。

馬が低木におびえるのは、低木が突然現れて枝を揺らすからである。

その場合、低木はまったく動いていなかったかもしれない。走っていたのは馬であった。しかしそれは動いたように見えた。だからそれは生きている。おそらくすべての動く物は動物にとっては生きているのである。なぜ犬は走り去る馬車にあれほど激しくほえ立てるのであろうか?人間にはそれが理解できない。犬の目から見て馬車がどのように映っているのか我々には想像できない。それは生命に満ちている。車輪、屋根、御者、座席、通行人 − すべてが動き、回転している。。。

ここで結論を要約してみることにしよう。

我々は、人間が感覚、表象、概念を持つことを確認した。高等動物は感覚と表象を持つ。下等動物は感覚のみを持つ。動物は概念を持たないが、それは動物が言葉と言語を持たないからである。概念を持たないために、動物は3次元を理解できず、表面のみを知覚する。換言すれば、彼らは誤った世界知覚を修正するための手段も道具も持っていない。また、世界を表面として見るために、動物は我々にとっては存在しない多くの運動を知覚する。すなわち、我々が3次元の特質とみなすあらゆる物の「特性」は、動物には「運動」として感じられる。だから角や曲面は「面の運動」に見えるに違いない。さらに、3次元の領域に属する我々にとっては一定不変のあらゆるものは、動物には一時的な出来事、時間的現象とみなされると結論づけた。

かくして、あらゆる関係において、動物は前に仮定した想像上の2次元的存在と完全に対応している。動物にとって全世界は1つの面であり、その中を現象が通り過ぎ、時間の中で動いていくように思われる。

だから、我々は確かに次のように言うことができる。外的世界を知覚する心的構造の特性に制限を加えることによって、その知覚器官を持つ主体にとって世界のあらゆる特性は変化するに違いない。そして、異なった心的構造を持ちながら隣り合わせで生きている2つの主体は全く異なる世界に生きている。彼らにとって世界の広がりの特性は全く異なっている。さらに、人工的にではなく自然の中に現実に存在しているものとして(すなわち動物の心的状態として)、世界が面あるいは線として見える状態が確認された。

換言すれば、世界の3次元的広がりは我々の心的構造の特性に依存していることが確認された。あるいは、世界の3次元性は世界そのものの特性ではなく、我々の世界知覚の特性に過ぎないということも分かった。

別の言い方をすれば、世界の3次元性は我々の意識の中における世界の反映の特性である。

このことがすべて正しいとすれば、空間は空間感覚に依存していることが証明されたことになる。そして、人間よりも低次の空間感覚の存在が証明されたのであるから、まさにこのことによって、人間よりも高次の空間感覚の可能性が証明されたことになる。

そして、我々が認めなければならないのは、思考の第4の単位が我々の内に形成されるとすれば、それは「表象」と「概念」が異なるように、「概念」とも異なるものであろう。そして、それを手に入れると同時に、我々の周囲の世界に第4の特性が出現することになるだろう。それは幾何学的には第4の方向、「第4の垂線」と呼ぶことができるだろう。なぜならこの特性は我々の知っているあらゆる方向と垂直で、いずれとも平行ではない特性を含むであろうから。換言すれば、我々は自らを3次元ではなく4次元の空間の中で見、感じ、我々自身の体と同様に取り巻くものについても、以前は気付かなかった4次元の一般的特性を明らかにするようになるであろう。動物が物体の3次元的広がりを「運動」とみなすように、我々はそれを物の個別的な特性(あるいは動き)とみなしているのである。

我々が自分自身を4次元世界の存在として感じるとき、3次元世界は決して真の存在を持たない、想像の産物であるように感じられ、3次元世界の特性を、虚偽、錯覚、視覚的幻想など、実在(リアリティー)以外のあらゆるものとして感じることであろう。

これらすべてはまったく「仮説」や憶測などではなく、「無限」の存在が事実であるように、正確な事実である。実証主義は、自分が生き延びるために「無限」の概念を相手にせず、それを真実かどうか分からない仮説と呼んでいる。しかし、「無限」とは仮説ではない。それは事実である。そして、空間の多次元性とそれが意味するもの、すなわち、「3次元の非実在性」もまた事実なのである。
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他の人はどうか知らないが、私たちが知覚する第4密度について、カシオペアンが語った事を聞いた後、上の章節を読んだ私は、私たちの知覚しているこの世界と、その実際あるべき姿との間に大きな隔たりがあることを痛感した。ウスペンスキーと、彼による高次密度の知覚についての思索はさておき、今はウェイブ、および更に明らかにされて行く新事実、その展開、現時点での私たちの理解に関する物語に戻るとしよう。

「不安定な重力波」というテーマに話が及んだ「スーフィ」に関する質問のセッションから約1週間が過ぎる頃、私は密度というものについて幾らか聞いてみることにした。私達がこのリアリティという狭い枠においてのみ、物事を知覚可能なのはどうしてなのか、私は何とかして手掛かりを掴もうとしていたのだ。私は、他の領域に存在すると言われる事物が、どのようにして私達からヴェールで隔てられているのか知りたかった。私には第4密度と第5密度との違いがまるでわかっていなかった。というのも、物理的な領域について語っていると思われる、有名なよく知られた教えは数多くあるのだけれども、どれもパッ!といとも簡単にエーテルないし「アストラル」領域に飛んでしまうからだ。

カシオペアンは、「超物質的」な中間レベル ― 物質的とはいえ独特な − が存在し、そこにも「死」があり、その次に「アストラル」ないしエーテル領域へと人々は向うのだと言っていたようだった。これは私には全くの初耳で、じっくり調べる価値があるテーマだと思われたので、このテーマから切り出したのだった:


960622
http://takapachi1962.seesaa.net/article/297291815.html
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Q: (L)今夜は第5密度について聞きたいんだけど。物理的な第4密度と第5密度との間の「境界線」はどうなってるの?

A:第5密度とは再生のためのゾーンで、そこでは誰しも、完全なバランスを保ちつつ、第6密度の存在と直接コンタクトしなければならない。それは、反省から学ぶフェーズを経る必要性を満たすためである。そこには、第1密度から第4密度での生を終えた後、次に転生する前に、立ち寄ることになる。

Q: (L)第1密度から第4密度での全体験を終えた人は、第6密度に行く前に第5密度にしばし留まるということ?

A: Yes.

Q: (L) 第3で死んで第5に行くとき、第4を通り過ぎたり垣間見たりできるの?

A: No.

Q: (L)第5密度に居るとき、ガイド役として奉仕する人も居るの?第5密度の存在には2種類あるの?再生のためにそこに居る人と単にそこに居るだけの人が?(「死者」は「ガイド」か何かの役目を選べるとか、様々な趣旨の教えを聞いていたので、これらの全体的な運営のあり方について、私は若干混乱していた。)

A: No. 一切の存在についての時間を越えた理解の中で、皆1つになる。

Q: (L)第5密度では時間を越えた理解を得られるのなら、第6密度に行かないで「再生」の道を選ぶ人達って、どうなってるの?

A:反省の結果、必要な運命が明らかになる。

Q: (L)それじゃあ、第5密度で他の存在と一緒になることで、自分の学びについてある種の理解が得られると...

A:バランスが得られる。そしてこれもねえ、重力が全創造のバインダーであるという例だ。。。「偉大なる平衡装置」だ!

Q: (L)言われて思い浮かぶのは、消散へと向ったサイクルが融合し始めて源に帰る様子なんだけど。正しい?

A: Close.

Q: (L)ということは、実は、存在するもののかっきり半分がアンバランスへと向って行く一方、残りの半分はバランスへと向うということ?

A: Close.

Q: (L)宇宙全体、全存在について言えること?

A: Yes.

Q: (L)宇宙では、他よりもバランスを求めるエネルギーに満ちたエリアもあれば、アンバランスを求めるエリアもあるってことなの?

A: Oh yes!

Q: (L)現時点での地球は、バランスよりもアンバランスの多いエリアの1つなの?

A: Yes, でも、急速にバランスを取り戻して行く。

Q: (L) 領域境界というのも、このバランス回復の一部なの?

A: Yes.

Q: (V) 1,2週間前から私達の何人かは、身体の内側から暑さを感じたり、不眠症等々に悩むようになったんだけど、これって何なのかしら?

A:イメージしてみなさい。DNAを構成するファイバーの連鎖が深く結合して行く。

Q: (V)教えて頂戴。暑いのは体感温度だけなの?それとも実際に体温が上がってるの?

A: 第4でだけだ。ブリードスルー(第4密度が滲み出してくる現象)だ。慣れなさい!

Q: (L) つまり、私達は本当に、第4密度からの滲み出しを経験しているというの?

A:イメージしなさい。

Q: (V) 小さい光がきらめくのも見えるんだけど、この現れかしら?

A: 多分そうだ。 だけど、物理体よりも重要な、エーテル体の方に精神を集中してみなさい。

Q: (L) 「ファイバーの連鎖が深く結合して行く」というのは、つまり、成長し、発達しつつある、第4密度の物理体と連鎖し結合しつつある、という意味なの?

A: ゆっくりとだが、確実に。前にも言ったが、やって来ている「変化」は、大きく喧伝されている物理的なものよりも、霊的かつ覚醒の要素に関係している。教えにおいては、シンボリズムは常に不可欠なツールだ。だが、シンボロジーによって表わされる隠れた学びを読み取るのが秘訣で、シンボルの字義に拘ってはいけない!

Q: (L) シンボロジーは隠された意味に関係があると言うのね。あなた方が使ったシンボロジーとは、「イメージしなさい」とかDNAの「ファイバーの深い結合」というものね。それで、それらは物理的な、シンボリック・イメージなの?

A: Yes.

Q: (L) 「イメージ」の定義は? いろんな意味があるわね。

A: 学びとは楽しい。あなたは繰り返しそう感じてきたね、ローラ!

Q: (L)今もすごく暑いのよ、どうしても知りたいの! どうしてわたしはいつも、何でも理解させられる役回りなの?

A: あなたがあらゆる現実の重要な問題を理解する「パワー」を求めたからだ。 私達はあなたが力を得るのを助けてきた。

Q: (L)イメージしてみる。DNAの連鎖。

(V)「パワー」が引用符に入ってたわよ。

A:今は放っておきなさい。すぐにわかるから。

Q: (V)その第4密度の物理体というのは、既に存在していて、私達はそれとコミュニケートできるの?

A: 人身保護を求めると?

Q: (V)彼らが言ったのは。。。

(L)ヴィオレッタ、あなたこそがそれだと彼らは言いたいのよ ― あなたは少しずつ変容して来ていて、不愉快な副作用も皆、その一環なんだってね。

A: Yes.

Q: (V)もっともだわ!

(L) T.A.が、変性意識に誘うらしい鍼のつぼを教えてくれたんだけど、彼が言うようにこれは、潜在意識を開くとびらなの?

A:エンドルフィンが出るよう刺激する。

Q: (L)潜在意識へのとびらを開くのに役立つような身体の場所があるの?

A:そんな助けは要らない。まずは、「スピン」ドクターを探すことだ!!

Q: (L)「スピン」ドクターって、スーフィーのマスターとか?

A:一例はそうだ。

Q: (L) Yes. 彼らはスピンについても語り続けてるわね。

A:ヒリァード。リーズカルニン。コーラルキャッスル。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42258867&comm_id=2590126

Q: (L)ああ、本当に重力をものともしなかった人達ね。別のテーマについても聞いていいかしら?

A:イースターのウサギでも何でもどうぞ。

Q: (L) 時間を知覚できるのは第3密度でだけなの?

A: No.

Q: (L)それじゃあ、他は?

A: 4,5,6,7.

Q: (L)でも、時間についての知覚は、幻想じゃなかったの?

A:第3密度での時間の知覚は幻想だ。クルマに乗せられた犬や猫の話を憶えてるかな?

Q: (L) Yes. ウスペンスキーの馬ね。それじゃあ、時間とは不可欠なものであって、存在するのね?

A:だが、あなた方の知っているものとは違う。「時間を越えた」という言い方をしたが、あれはあなた方に親しみのある表現を用いようとしただけだ。

Q: (L)時間が存在するなら、宇宙空間にも果てがあるの?

A:あなたは混乱している。生まれついての知覚が直線的なせいで、あなたが苦心して正しいイメージを持とうとしても、曇ったものになってしまう。

Q: (L)オーケー。地球の「バランスをとる」話に戻りましょう。どうすれば達成可能なの?

A:曖昧な質問だ。

Q: (L)詳しく言ってみるわね。「バケツ一杯の愛と光」グループによれば、地球はバランスを取り戻しつつあるそうよ。というのも、皆が良い考えを抱くようになってきたからで、大量の愛と光はついに臨界を越え、これらの感情を抱かない残りの人類の上に降り注ぎ、悪い連中も善い人間に変わって行くの。標準バージョンだとこうだけど、バランスとはこういうことなの?

A: No.

Q: (L)あらまあ!地球上に現れ溢れたポジティブなエネルギーが他の存在のネガティブなレベルを減少させるんじゃないの?

A:的外れだ。「地球」が第4密度の領域になると、STSとSTOの両勢力は互いに直接コンタクトするようになる。。。「競争条件の平等化」が達成されバランスが取れるんだ。

Q: (L)バランスと言えば、あなた方が「双子星現象」を表わしていると解釈したミステリーサークルhttp://www.cassiopaea.org/cass/cropa07.htm
があったわね。双子星現象って何?

A:同時に多くの意味がある。『不思議の国のアリス』に出て来るような二重性だ。

Q: (L)二重像ねえ。うーん。。。物質と反物質に関係あるの?

A: Yes, 後は。。。

Q: (L)重力ね。で、一方の側に現れた鏡像的イメージが他方にも...

A:そう。その...天体版だ。

Q: (L)オーケー、星や惑星と言えば...天文学的な代替的宇宙というのは、反物質で出来てるの?

A: Yes, ということは。。。

Q: (L)その反物質で出来た代替的宇宙から、双子天体現象が発生したか、あるいは私達の宇宙に現れるかしたの?

A:戸口ないしは「導管」と言った方が近い。

Q: (L)この代替的な宇宙こそ、私達が第4密度に旅立つ際に用いる手段なの?ヴェールか、深淵かなんかみたいなものかしら?

A:ハイウェーだと思いなさい。領域境界とは進行波だ。

Q: (L)オーケー、「進行波」ね。それと、反物質はハイウェーなのね。つまり、反物質を通って移動するということ? それとも、進行波あるいは領域境界の勢いに乗って、反物質と相互作用かなにかするのかしら?

A:時空が折れ曲がる。このとき、あなた方の不安定な重力波が役に立つ。

Q: (L)電磁場を生み出す時に生じる反物質を使って重力波を破壊する結果、反物質と物質が結合して時空を曲げるようなポータルを作り出すのね?あるいは、この「折り目」を通って旅するのかしら?つまり、電磁場を作ることで反物質がもたらされる結果、時空が折り曲げられるのかしら?

A: Yes.

Q: (V)個々人ないしは、グループ毎にポータルがあるの?

A: No.

Q: (V)じゃあ、私達は固まって1つのポータルを通るの?

A: No.

Q: (V)個人ポータルもグループポータルもないとすると...

A:ポータルは、どこでもあなた方が望む場所にある。適切な技術を用いれば、好きな場所にポータルを作れる。選択肢には限りが無い。

Q: (L)適切な技術。不安定な重力波ね。前にテスラ・コイルについて勉強しなさいとも言ってたわね。反物質... 電磁場を生成して重力波を不安定にすることで、反物質と物質との相互作用が可能になり、そうしてポータルが生まれるのね...エイリアンが人々をアブダクションするときに行ったり来たりするのがこの反物質宇宙な訳?

A: Close. 彼らはそこを通って人々を運ぶ。だけど、アブダクションの殆どは、第3か第4密度のどちらかで起こる。

Q: (L)そうやって、反物質宇宙を移動するから、アブダクションされた人々は、「炎の壁」のように感じるの?バラバラに、脱分子化するの?

A: No. 次元間原子再分子化だ。

Q: (L)オーケー。反物質宇宙を通り過ぎるときって、それとわかるのかしら?

A:分からないだろう。

Q: (L)どうして?

A:空間も時間も無いから。

Q: (L)反物質宇宙には、時間も空間も無いのね...それじゃあ、反物質宇宙って、もしかして(バミューダ・トライアングルで消えた)気の毒なフライト19の人達がいるところ?

A: Yes.

Q: (L)人はそこで立ち往生するの?

A: Yes. タイムワープ繭に入ると超意識状態になる。すなわち、「ゼロ時間」としか感じられない。たとえ、実際には数百万年が経過していてもだ。ただし、『フィラデルフィア実験』でのように、サイクルが連結されるか閉じるかした場合の話だが。それでは、おやすみ。
---


さて、上の交信文に出て来た2つの発言を一緒にしてみよう。


---
A: 「地球」が第4密度の領域になると、STSとSTOの両勢力は互いに直接コンタクトするようになる。。。「競争条件の平等化」が達成されバランスが取れるんだ。

Q: (L) それじゃあ、第5密度で他の存在と一緒になることで、自分の学びについてある種の理解が得られると...

A:バランスが得られる。そしてこれもねえ、重力が全創造のバインダーであるという例だ。。。「偉大なる平衡装置」だ!
---


第2章の「本質的存在」についての話を思い出してみると:


---
Q: (L) 私たちの他の部分が、あらゆる領域で この瞬間も、他の事をしてるの?

A: Yes.

Q: (L)それが、領域境界がクロスすることによって、どんな影響を受けることになるの?

A:融合する。

Q: (L)自分たちの、このような側面を呼び出してこれと向き合うには、相当な回数の催眠術を、一度に少しづつでも行う必要があるの?

A:いずれ無意識のうちに起こる。 熱核爆発みたいなものだ。
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そして、「オズ」での議論ではこんな発言があった:
(※第2章の誤りでしょう)


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Q: (T) それじゃあ、そのような人々が第4密度へと移るとき、その時点で彼らは、完全性ないし、彼らの他の全ての密度の存在との合体を、たとえ短時間であれ経験するんじゃないのかな?

A:限り無く短い瞬間は。それが「イルミネーション(救済)」という言葉の意味だ!

Q: (T)だけど、そんな短い瞬間でも、実際には時間は存在しないのだから、個人次第で、一瞬にも永遠にも感じられるんだろう;僕らは、自分自身との一体感を経験するんじゃないかな?

A:「永遠に」続くように思われるかも知れない。

Q: (L)それが「ラプチャー」として知られているものかしら?

A:本能的な思考パターンのことを、そう説明しようとした人々がいた。
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どうやらウェイヴの正体がわかったようだ − 重力波だったのだ。

ここまでは順調に来れたようではないか?皆さん、ついてきてるだろうか?これらの質問で私が何を解明しようとしてるか、皆さんおわかりだろうか?大丈夫だろう。それに、どうやら私は手掛かりを掴めたようだ。物理学上の秘密を解き明かそうと、かなり重力波の調査に熱中したので、ノーベル賞授賞式の様子が頭に浮かんで夜も眠れなかった程なのだ!

こうして5人の子持ちの平均的なミセス・アメリカの私が、台所の隣の部屋にあるスピリット・ボードで、時間、空間、存在にまつわるあらゆるミステリーを解く秘密を手に入れようとしているのだ!

お馴染みのずる賢いトカゲのエホバ/ヤハウェがイヴにリンゴを手渡して以来、二流市民のように扱われている世界中の全ての女性のために、やってやろうではないか。全ての縁の下の力持ちのため、そしてひっそりと絶望の淵で何とか生計を立てている、この星の天才達のために。 彼らは夜ごと天に向って、「どうしてここに居るんだろう?何をなすべきなんだろう?」と問い掛けてることだろう。私のハンディーでダンディーな(=極上の)かわいいスピリット・ボードが、万物に関する新理論をもたらしてくれようとしているのだ!論文が書けたら、小ぎれいで素敵な封筒に入れて最寄りの大学に送るとしよう。そしたら教授連中はすっかり夢中になって、私をストックホルムに送り出し、めでたく受賞と!

何と気の早い事だろう!てっきりそうなると思っていたのだが、そうは問屋が卸さなかった。 落とし穴があったのである。「高慢は落とし穴を掘る」(≒驕れる平家は久しからず)と言うではないか。次のセッションで私はそこに落ちたのである!

(本章終わり)
posted by たカシー at 15:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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