2012年09月09日

シーズのヒット・リスト03:歴史はごまかしだ

http://www.sott.net/articles/show/238372-The-Cs-Hit-List-History-Is-Bunk
シーズのヒット・リスト03:歴史はごまかしだ

ハリソン・ケーリ
Sott.net
Fri, 25 Nov 2011 21:15 CST


ストーンヘンジ上にさしかかったヘールボップ彗星
(写真)


その後のアップデート:
本シリーズの第1回で、我々は預言を取り扱った。
http://www.sott.net/articles/show/236777-The-Cs-Hit-List-Prophecy-Prediction-and-Portents-of-Things-to-Come
そこでは、カリフォルニアが「海中に没する」という考えが述べられていた。 すると、ほんの数日前、カリフォルニアの、もう1部がそうなった。
http://datefile.iza.ne.jp/blog/entry/2517773/
http://www.sott.net/articles/show/237972-US-Californian-road-slides-into-the-sea-after-heavy-rains
具体的に言えば、11月21日に起きた地滑りによって、サンペドロのパセオデルマール通りの一部が、太平洋へと崩落したのだ。
http://www.sott.net/articles/show/237959-US-Chunk-of-LA-street-cliff-slide-into-Pacific
我々としては、この地滑りがシーズの言っていたものだとは思わないが、これをここで取り上げたばかりである点を考えると、タイミング的に興味深いものがある。

科学の分野における新発見が、すぐさま、それまでの「コンセンサス」をひっくり返すのと丁度同じように (コンセンサスを推進している人々にとって、それはしばしば、驚きであり、意図的に信じないのだが)、 新たな歴史的データも、我々の頭の中にある、歴史上の出来事についての考えを変えさせるものだ。 我々はしばしば、出来事XがY年に起こったものと思い込むが、これらの変数の一方ないし両方が全くの誤りであるかも知れないことを忘れている。 当の出来事は、政治的なプロパガンダのために、当時の(あるいは後年の)写本筆記者あるいは指導者によって作り上げられたフィクションであったことが判明するかも知れない。 年代決定法が不正確であったり、あるいは、混同する可能性のある要因を含んでいて、一般に認められている歴史の時系列を滅茶苦茶にするかも知れない。 あるいは、新たな文書や科学データが発見されて、その出来事がどうやって起こったかに関して、我々が以前抱いていた考えとは似ても似つかぬ真相が判明するかも知れない。 新たな動機をもった、新たな登場人物が出現し、歴史書の改訂や、我々の最近あるいは遠い過去の出来事ないし偉人に対する見方を改めさせるのである。

さて、我々が知っているような「歴史」が出現する以前の、先史時代の研究には、固有の問題がある。 そこでは、我々が依拠すべき手がかりは極くわずかで、全てが諸科学の知見の上に築かれているのだが、それら自体も、物事の作用の仕方に関する、ある種の仮定の上に成り立っているのである。 考古学、古人類学、集団遺伝学、分子遺伝学、気象科学、地質学。。。 これら全てが、歴史家が我々のために作り上げた過去に関する物語に貢献しているのだ。 これら諸科学の多くが比較的に若いものであることを考えると、 我々が短期間の間に蓄積してきた情報の量は相当膨大なものである。 だが、歴史もまた作業中の未完成品であることに留意するのが重要である; 科学における新理論や進歩が、古い概念の根本的見直しを促すことがあるのだ。

先史時代に関する発言は、シーズとの交信記録のかなりの部分を占めている。 考古学者や人類学者は、人類の移住や遺伝子の混淆、営み、ボトルネック効果 等々に関して、細切れの情報を工夫してつなぎ合わせているが、 これは、見たところ、何らの文書記録も残っていない時期についての作業である。 従って、歴史的出来事の具体的な詳細を検証するのは難しく、この時期に関してシーズが語っている事の多くは、興味深い推測のままである。 だが、その多くが証明不能であるとは言え、 新たな発見; 化石の発見、気候研究、天変地異や滅亡の証拠、その他が明らかになったときにはまた、この文書を検証する機会も得られるのだ。


既に居なかった洞窟人


フランス南西部ラスコーの洞窟壁画
(写真)


2000年4月15日に、 地球のヒト化動物に関して、以下のやり取りが行われた:


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Q: (L)一時期、彼ら(ネアンデルタール人)は、ニューモデル即ち、クロマニョン人かなんかと同時に地球に存在し続けていたようね。

A:一部は。

Q: (L)どのくらいの間、ネアンデルタール人は、「ニューモデル」と並んで存在してたの?

A: 233年間。

Q: (L)ネアンデルタール人が地球上に居たのは、もっとずっとずっと昔のことだと思ってたわ; 現生人類が地球にやってきたのが、あなた方の言うように7〜8万年前だとすると、 その頃にはネアンデルタール人はもう、ここには居なかったんじゃないの?

A:時間基準が間違って計算されてきた。
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長い間、この言明は幾分信じ難く思われていた。 何と言っても、専門家によれば、ネアンデルタール人が存在していたのは、ほぼ20万年間であり、その後2万7千から8千年前頃に滅亡したとされているのだ。 例えば、歴史的に最も新しいネアンデルタール人の化石は、スペイン南部のザハラヤ洞窟
で見つかったものだが、 3万年前のものとされてきた。 (イアン・タテルサル&ジェフリー・シュワルツ). その一方で、解剖学的にも行動的にも最初期の現生人類の遺跡は、放射性炭素年代測定によって、およそ3万5千から4万年前のものとされてきたのであって、 数千年間オーバーラップしていたと考えられてきたのだ。 (ポール・メラース) この期間は、いわゆる「旧石器時代革命」の時期に一致している。 完全に「現代的な」人間行動は、この革命の間に爆発的な勢いで登場したとされ、 オーリニャック期の、目を見張るような洞窟芸術がその証拠とされてきた。

しかし、2011年5月、ある重要なネアンデルタール人骨化石の年代が直接測定された結果、この「一般に受け入れられた」年代解釈は根底から覆されたのである。 科学ニュースの報じるところによると、ロン・ピンハシ博士と同僚たちは、 「コーカサス北部にある、ロシアでも重要な洞窟遺跡で発見されたネアンデルタール人の化石の年代を測定したところ、 これまでの研究で言われていたよりも1万年古いものであることを発見した」
http://www.sciencedaily.com/releases/2011/05/110510153942.htm
この記事の続きによれば:


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この新証拠によって、ネアンデルタール人と現生人類は数千年に亘って交流していたという説は疑問視されることとなった。 そうではなくて、ネアンデルタール人と現生人類が共存していた期間は、もっと限られた、おそらくは2〜3百年間だったのだろうと、研究者たちは考えている。 ということは、解剖学的な現生人類がアフリカ大陸から出て行くより前に、ネアンデルタール人が滅亡していた地域すら存在していたと考えられる。
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この化石は39,700年前のものと年代決定された。 くだんの記事によれば; 「この発見は、後期ネアンデルタール人が、コーカサス北部で3万年前まで生きていたとする、かつての主張の正当性を疑わせるもので、 後期ネアンデルタール人と現生人類の共存期間には、さしたる重要性はなかったことになる」 この記事の著者が断言するところによると、かつての年代決定プロセスは、 「中期旧石器時代の後期と後期旧石期時代の最初期の埋蔵物、人工物、化石の本当の時期を最大で数千年も『全体的に新しく見積もってきた』」のであり、 誤りの主な理由の1つとして、サンプルの汚染を挙げている。 ピンハシ博士は述べている: 「ネアンデルタール人と解剖学的現生人類は、コーカサスで共存していなかったことが、今や一層明白となったのであり、 このシナリオはヨーロッパの殆どの地域にも当てはまる可能性がある」 交配(ネアンデルタール人のDNAが人間においても観察できることになる)があったとすれば、 十中八九、ごく初期に、おそらく中東において、この短期間の間に行われたのだろう、とピンハシは言う。
http://www.nature.com/news/2011/110509/full/news.2011.276.html

時間基準が間違って計算されてきたということに関しては、別の回にもっと詳しく論じたい。


挿入された(パレンタ的な)ヒューマノイド

連載初回で述べたように、「アトランティス」の伝説は繰り返し浮上してきている。 プラトンの記述に端を発するアトランティスとは、 シーズによれば、旧石器時代(すなわち、30万年前から1万年前の間)に存在した「進歩していた」文明のことなのだが、 留意すべきなのは、「進歩していた」と言っても、必ずしも我々が、テクノロジー/文明に対して抱く先入観には合致しない点である。 何人かの研究者(例えば、クラウス・ドナ や、また、最近では、クリストファー・ナイトやアラン・バトラー が挙げられよう)が、当時、このような世界文明が存在していたことを示す多くの調査結果を収集してきたが、 今、ここでは取り上げまい。 だが、1997年5月31日に、このテーマに関して、1度議論となったことがあり、 以下のやり取りが行われた:


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Q:私の理解しているところでは、アトランティスは当時[8万年前]既に、高度な文明に発展していたのよね?

A: Yes, だけど、繁栄していた地域は、相次ぐ入植ないし征服のために、移り変わって行った。。。あなた自身、転生する度、経験してきた筈だ。。。アトランティスというのは、巨大島国帝国のそれぞれ別々の地区を占めていた3つの人種から成る進んだ文明の本拠地の名前に過ぎない。 そして、このアトランティス帝国自体、あなた方の時間で10万年以上掛かって、3度の転生を経験したんだ。

Q:その3民族というのは、ケルト人[すなわちインドヨーロッパ語族]と。。。あと2番目と3番目は何人?

A:ないしはカンテック人。

Q:カンテック人はケルト人とは別なの?

A:カンテック人も地球に来てから長い時間が経つうち、他民族と人種的、遺伝子的に混淆してケルト人になったんだ。

Q:それじゃあ、アトランティス人というのは、カンテック人/ケルト人と、あと誰だったの?

A:あなた方が「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶ人種と、それから、 3番目は、もはや存在していない人種で、幾分、今、オーストラリアあるいはギニアに住んでいるアボリジニに似ていた。 ただ、顔の色はもっと明るかったけれども。
[この人々は、このセッションのここより前の箇所に既出の「パランタ人」である]

Q:第3グループの人々は、他の2つによって滅ぼされたの?

A: 3度の彗星による大洪水のうちの1つで。。。

Q:それじゃあ、パランタ人というのは、オーストラリアのアボ の先祖なのね?

A: Yes, インド、パキスタン、スリランカ、オーストラリア、ニューギニアの原生種族に似ている。これらが遺伝子的に混じって薄まっている点には留意する必要があるが。

Q:ヴェーダはパランタ人が書いたの?それとも、ケルト人?

A:パランタ人の子孫が、「神の導き」を受けて書いた。
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コピーライトマーク Flickr user 710928003
ロシアのデニソワ洞窟から発見された4万年前の小指の骨から復元されたDNAによって、 絶滅した、ネアンデルタール人類似の人類の祖先種と 南太平洋のメラネシアの住民とを結び付ける説が新たに唱えられている
(写真)


2011年10月31日、ウェブサイト「ライブサイエンス」は、
http://www.livescience.com/16806-asian-ancestors-mated-denisovans.html
いわゆる「デニソワ人」に関して、 「アジア人の祖先はミステリアスな人類のいとことセックスしていた」というタイトルの記事を公表した。
http://www.sott.net/articles/show/236972-Asian-Ancestors-Had-Sex-with-Mysterious-
絶滅した、この系統の人類のものとして唯一知られている化石は、2008年にシベリアの洞窟で見つかったもので、 中には歯と指の(そして、今も研究中だが、おそらくは踵と思われる)骨が含まれていた。 遺伝子の分析結果は2010年になってようやく公表されたが、これによると、 デニソワ人のDNAは現生人類と385対で異なっており (ネアンデルタール人は202対、チンパンジーは1462対)、 ネアンデルタール人と共通の祖先を持つという。 彼らのDNAは、こんにちのメラネシア人やオーストラリアのアボリジニにも見られるものである。 ライブサイエンスの記事から引用する:


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現生人類が頻繁に交雑していた古代のいとこ種族は、ネアンデルタール人だけでなかったことが、 新たな研究の結果分かった。これによると、 東アジアの人々は、4万年前にシベリアに住んでいたミステリアスな、今は滅びた人類種と共通の遺伝子を持っているという。 デニソワ人はどうやら、人類種の系統樹のうちのネアンデルタール人の系統から、30万年くらい前に分かれたものと思われるが、それ以外の、彼らの容姿や行動、衣服については殆どわかっていない。 しかし、研究の末、古代人類とネアンデルタール人とが交雑していたことが分かったのと同様、 デニソワ人と同じ遺伝子が、ニューギニアやフィリピンを含む、太平洋諸島に現在住む人々からも見つかっている。。。

オセアニア人がデニソワ人の祖先種と5パーセントの割合の遺伝子を共有しているのに対して、 東南アジア人の場合は約1パーセントであると、 本日(10月31日)の全米国科学アカデミー会報は伝えている。 これに比べて、現代のアフリカ以外の人類が、ネアンデルタール人の祖先と共有している遺伝子の割合は約2.5パーセントである。

ヤコブソンは、いつデニソワ人と人類との交雑が行われたかを識別するのは難しいとしながらも、 ヨーロッパ人はデニソワ人と共通の祖先を持たないことから、 この交雑が起こったのはおそらく2万3000年から4万5000年前、 東南アジア人とヨーロッパ人が分岐した後のことだろうと言う。

ヤコブソンと彼の同僚たちは、初期人類の遺伝子について、そして、それが現代人類のゲノムに至るまでのステップについて、さらに研究を行っているところだ。 科学者が調べれば調べるほど、遺伝子の見取り図はさらに複雑になって行く、と彼は語る。 特に、遺伝子の小片は殆どが、デニソワ人のような、いずれかの古代人が残したものだ、と彼は言う。
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存在すると見込まれる、インド人とのつながりに関して、古人類学者のジョン・ホークスは懐疑的ながらも、以下のように記している:
http://johnhawks.net/weblog/reviews/neandertals/neandertal_dna/hla-parham-2011.html


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この点に関してだが、HLA(ヒト白血球抗原) のA*11型はパプアニューギニアではごく一般的であるものの、 これはまた、北部インドおよび中国でもごく一般的である。 これら2つの地域には、他の点では、デニソワ人を祖先に持つという顕著な証拠はない。 HLA-A型遺伝子はアジア人に著しく高いレベルで移入したと結論付けることができるかも知れない。これは、全体としてのゲノムには典型的なことではない。 確かに起こりうることではある。 だが、デニソワ人のゲノムと現代アジア人の両方に、HLA-A*11型に由来する相当数の変異が見つからない限りは、 これら地域の人々全てがHLA-A*11型を共有しているのが、単なる偶然である可能性も捨てきれない。
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つまり、これは複雑な問題であって、 デニソワ人の子孫である東南アジア人と大陸のインド人との間に見られる、特定遺伝子の類似性(このケースでは、単一遺伝子)が単なる偶然なのか、 それとも、デニソワ人の系統である結果なのかに関しては、確かな結論はまだ出せない、ということなのだ。 おそらく、シーズが 「これらが遺伝子的に混じって薄まっている点には留意する必要があるが」と言ったのは、この点に関するヒントなのだろう。


ネイティブ・アメリカンの移民の歌

歴史を少し先に進めると、次にヒットと考えられるシーズの言葉は、ネイティブ・アメリカンの1支族に関するものだ。 目下の通説によれば、北アメリカにパレオ・インディアン が最初に移住して来たのは、少なくとも1万2000以上前のことで、直近の氷河期の最中であったとされる。 ―だが、この時期については未だに論争がある。 例えば、多くの考古学者が最初の北アメリカ住民だと考えているクロービス人は、 ヤンガードリアス亜氷河期 の頃、北アメリカに居た巨型動物類共々全滅した人々である。 彼らが考古学上の記録に初めて登場するのは、大体1万3500年から1万3000年くらい前(放射性炭素による年代だと1万1500年前)である。 しかし、先クロービス文化に関する証拠は沢山あるのだ。 ウィキペディアに載っているリストを見られたい。中には、遥か3万年から6万年も昔のものさえある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Clovis_culture#Evidence_of_human_habitation_before_Clovis
つい最近、2011年3月に、 考古学者がテキサスで、人工遺物を発見したと報じられたが、
http://www.aaas.org/news/releases/2011/media/0324sp_clovis_jp.pdf
これはクロービス人が存在していた証拠のある最初の時期よりも、最大2500年古いものだった。 本研究の共著者の1人である、リー・ノルト博士は語る:
http://www.sott.net/articles/show/226832-Archaeologists-find-evidence-of-pre-Clovis-settlement


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この発見は、北・中央・南アメリカに最初に定住した人々に関して、いわば歴史を書き換え、我々の共通認識を改めるものだ。。。 この研究の際立った点は、地質学的方法を用いて、埋蔵されていた人工物が本来は先クロービス時代のものであることを示した点である。 これは、アメリカ諸大陸への定住が、これまで考えられていたよりもずっと前に起こったことを明白に示すものである。
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だが、北アメリカに住んでいたのは、クロービス人と先クロービス人だけではない。 ウィキペディアによれば、
http://en.wikipedia.org/wiki/Native_Americans_in_the_United_States
「ナ・デネ語族の人々は、BC8000年頃から北アメリカに進出し、 BC5000年には太平洋岸北西部に到着、 そこから太平洋岸に沿って、さらには内陸へと移住して行った。 言語学者、人類学者、考古学者は、彼らの祖先は最初のパレオ・インディアンよりも後に、別個に北アメリカへ移住して来たと考えている」

ナ・デネ語は、アラスカやカナダ、また、西海岸を下った、アメリカ南西部(例えば、ナバホ語やアパッチ語)で用いられているが、 中央アジアのエニセイ諸語(ケット語 を除いて、現在はいずれも死語)と同系統と見られている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dené-Yeniseian_languages
これらの2つのグループの間にある距離は、一般に認められている、いかなる語族よりも大きい。 こうしたこともあって導かれたのが、シナ・コーカサス(デネ・コーカサス)超語族仮説である。 この仮説の一部、とりわけ、今述べたつながりは、近年主流派の認めるところとなり、2008年にはこのテーマのためのカンファレンスも開かれている。
http://www.uaf.edu/anlc/dy2008.html
そんな訳で、シーズの1994年10月7日の発言の登場となる:


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Q: (L)ネイティブのアメリカ人であるインディアンの起源は?

A:アジア。

Q: (L)ベーリング海峡を渡って来たの?

A: No. いや。救助されて運ばれてきたんだ。

Q: (L)誰によって?

A:グレイ。

Q: (L)何から救助されたの。

A:天変地異。

Q: (L)その天変地異っていつ起きたの?

A: 約7200年前。

Q: (L)どんな類の天変地異?

A:彗星。
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この絵はユタ州にあるホースシューキャニオン、別名バリアキャニオンで発見された。 7フィート(1フィート=30.48cm)もの高さがあるために、他より目立っている。 この絵を含む、ホースシューキャニオン内の大画廊 は、ほぼ等身大の大きさで描かれており、この絵の隣には、別のイメージが続いている。 大画廊に描かれた奇妙な像の解釈について、考古学者は苦戦してきた。
(写真左)


さて、この図をよく見てほしい。
http://starling.rinet.ru/images/globet.png
語彙統計学的分析によると、エニセイ語から、分岐元のデネ・コーカサス語(ナ・デネ語族もここから分かれた)までの時間はちょうど7千年余りである:


クリックして拡大
http://www.sott.net/image/image/s4/88280/full/globet.png


While we haven't been able to find any evidence indicating a comet encounter in the Yenisei basin at the time indicated (incidentally, this is where the famous Tunguska airburst occurred in 1908),
この時期、エニセイ盆地(偶然にも、ここは有名なツングースカ空中爆発が1908年に起こった場所である)で彗星との遭遇を示す証拠がなんら発見できなかったとは言え、
catastrophe has been a prime mover in mass migrations (no pun intended) throughout history,
歴史を通じて、天変地異は集団移動の原動力(※あるいは、最初の移民)であったため(洒落を言うつもりはない)、 これら2つの語族の分布地の間が、並外れて離れているのは不可解であり、これらの語族の分岐には、並大抵でない理由があることを示している。 だから、「移動」があったという説は、現時点では単なる憶測に過ぎないとは言え、それでもなお、この説は興味の対象となり続けるのである。 7200年の時を経た像を心に焼付けつつ、先へ進むとしよう。


まばゆい予兆がもたらした暗黒時代

彗星と言えば、歴史における、そして、我々の未来における、彗星の衝撃は、いずれもまた、 カシオペアン実験において数多く登場するテーマであり、 おそらくこの先でも、これについてしばしば議論することとなろう。 主流派のアカデミズムおよびメディアから、おおむね無視されてきたとは言え、 近年の新しい研究結果が示しているように、この現象は、我々が諸帝国の興亡といった歴史や、我々の未来につき理解する上で、大きな意味を持っているのだ。

もっと時代が下がるが、 1998年9月12日のセッションにおいてなされた、この発言は、 全くの大当り(ヒット)であることが、ついに判明した。


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Q: (L)最近の議論でわかってきたのは、古来3度の超新星爆発があったということね。 発見された名残りから推測されてるのは、いずれもカシオペアの近くで起きてたということで、それぞれどんな年代のことだったのか、とても興味深いわ。

A: Yes...

Q: (L)そんな年代の1つが1054年頃。 これが興味深い時期なのよ。 なんたって、この時期に関しては、ヨーロッパ側に記録が無いんだもの。 中国にも日本にも、おそらくは朝鮮にだって、この超新星爆発の記録があるって言うのに。 なのに、ヨーロッパには記録が残って無いのよ。 ヨーロッパの記録資料に何か起きたのかしら?

A:その「時」のヨーロッパは、「回復モード」だった。

Q: (L)何からの回復?

A: AD564年に起こった空中での彗星爆発によって、文明が壊滅的打撃を受けていた。

Q: (L)文明の構造にどんな影響があったって言うの? 物質的な面での直接的な影響だったの? それとも、何か間接的に、人々を未開ないし野蛮な状態に逆戻りさせるような効果だったの?

A:燃え盛る破片のシャワーが、 あなた方がこんにち西欧と呼ぶ地域の大部分を焼き払った。 結果は想像がつくと思うけど、 あなた方がこんにち「暗黒の中世」と呼んでいる、社会的な機能停止に陥ったんだ。

Q: (L)途方もない暗闇だわ。 1000年近くも、誰にもわからない時期があるんだから!

A:この時代の、アイルランド、ケルト、フランス、 ガリア の記録が手掛かりになる。 そこには一時的に「生存者が居た孤立地点」があって、かろうじて文書記録の不足を補っている。
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スタニラウス・ルビエニエツキ の『彗星劇場』より、AD4世紀のものとされる、彗星による壊滅的な影響を描いた木版画
(写真)


このセッションの翌日である1999年8月17日、 ナイト・リッダー
http://www.47news.jp/CN/200603/CN2006031101000442.html
のワシントン支局は、 ロバート・S・ボイドの著書 『地上の大帝国の数々は彗星のために滅びたのであろう』を刊行したが、 これによれば: 「最近の科学的発見は、エジプトやバビロニア、ローマといった大帝国がどうして壊滅し、 断続的に人類史を中断させた「暗黒時代」がこれに取って代わったか、という問題に新たな光を投げかけつつある。 過去6千年の間に、少なくとも5回、重大な環境的災難が世界中の文明を弱体化させた」という。

何メガトンもの爆発エネルギーによって、木星に衝撃を与えたシューメイカーレヴィ彗星の断片と、このような出来事とを比較した上で、 研究者たちは、地球の歴史において、このような衝撃が生んだ塵雲が太陽を曇らせ、 地球を寒冷化させて、イタリアや中国、中東に広がったような、大規模な穀物の不作、疫病や死をもたらしたと言う。 かつての秩序は崩壊し、このような時期は、歴史的、芸術的、文化的に面影の乏しいものとなった。


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このような全世界的危機が最後に起こったのが、AD530年と540年の間 ― ヨーロッパで暗黒時代が始まった時期 ― であり、 この時、地球は宇宙に漂うデブリの群れによって散々に打ちのめされたのだ。。。 年輪年代学者のマイク・ベイリーは、世界の様々な地方におけるAD540年の年輪データの分析結果から、気候が変化したことを立証した。 気温が低下したために、ヨーロッパ北部、シベリア、北アメリカ西部、南アメリカ南部にかけての広い地域で、樹木の成長が妨げられたのだ。

歴史的記録および神話の研究から、主張されているのと同じ期間に、空から襲ってきた破滅的な災厄があったことが示される。 540年から41年にかけて、「ゴール地方に現れた彗星はあまりに巨大だったため、空一面が燃えているように見えた」、とロジャー・オブ・ウェンドーバー も言っているのだ。

伝説によれば、アーサー王が死んだのも、およそこの頃であり、アーサー王関連のケルト神話は、まばゆい空の神が稲妻を投げつけたことを暗示している。

530年代、並大抵でない流星群が地中海とび中国の観測者の両方によって記録されている。 流星群の原因となったのは、大気圏で燃え尽きた彗星からの細かい塵である。 また、北アイルランドにあるアーマ天文台の天文学者チームは、 1990年に研究結果を公表しているが、これによれば、地球は、AD400年から600年の間に、彗星衝突の危険にさらされていたであろうという。
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興味深いことに、ベイリーが必要とした証拠は、「ケルトの記録」から得られたものだった: その当時の神話や伝説のみならず、アイルランドの樫に残された年輪年代学的記録 ― 7400年間に亘る、アイルランドの樹木から収集された、年輪の成長記録 ― である。 これに加えて、アイルランド史には、このわずかな期間に2度の「小麦の不作」が記録されている (飢饉やまた、エジプトからヨーロッパじゅうに広がった「ユスティニアヌスのペスト」 が中国で記録されている)。
(ベイリーの『出エジプトからアーサーへ』参照)
ここでは、パトリック・マッカファティとの共著『ケルトの神々』から、ベイリーの到達した結論のいくつかを見てみよう:


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聖人の偉業に関する物語の多くは、単に、より古いペイガンの物語に出てくるルー神を、守護聖人パトリックや コルムキルで置き換えた、 キリスト教化されたバージョンに過ぎない、ということができる; だが、別のオプションも考慮に値する: おそらくこれらの偉業のいくつかは。。。6世紀、聖人たちの生涯の間に実際に起こったのかも知れない。 ここでおそらく、読者に、アイルランド語で聖人を意味する”niamh”と空ないし天を意味する”neamh”とが似ていることを指摘しておくべきだろう。

以下の点を指摘しておくべきだろう。 540年には、いかにもケルトの彗星の神々と思われる聖人たちによって、アイルランドに数多くの教会が建てられたばかりか[建てられた場所は、もともとは空から物体が降ってきた場所として知られていた]、 ヨーロッパじゅうで、聖ダビデ、聖ミカエル、聖ジョージといった聖人によって教会が建てられたが、彼らはいずれも、ドラゴン[共通的な彗星のシンボル]に打ち勝つ技量でよく知られているのだ。 さらに言えば。。。アーサー王伝説の一切が起こったとされるのも、この時期なのである。。。

要するに、教会の発展と、聖人、王、魔術師たちによる、外見上神秘的な活動、そして、アイルランドのカシの木に起こった問題とを考え合わせると、当時、空は実際、騒々しかったのだろうという結論に達せざるを得ない。

ケルト人の神話には、彗星の比喩的表現が至るところに出てくる。 彗星のように描かれた登場人物が出てくるだけではなく (初期の学者たちは、誤って、彼らを太陽神と解釈した)、 その登場時期は1年のうちでも、地球がおうし座流星群を通過する時期であることが分かる。 主役の何人かが生涯のメインイベントで活躍する年代が、彗星が地球へと戻って近づいて来る時期を反映している形跡すら見られるのだ。 空に現出したイベントが、確かに神話に表現されているものと確信させられる。
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Just a Little Bit of History Repeating
歴史は繰り返すことにつき少々

上述の(ネイティブ・インディアンがグレーによって、彼らが原住民となった地へと運ばれたとされる時期の約)7200年(前)という数字におそらくは関係あるのだろう。1994年9月30日のセッションでシーズは以下のように語った:


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Q: (L)この彗星は、定期的ないし周期的にやってくるの?

A: Yes.

Q: (L)何年周期?

A:おおよそ3600年。
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それと、1994年10月5日の、この発言である:


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Q: (L)で、その彗星群が、最後に太陽系にやってきたのはいつなの?

A: 3582年前かな?

Q: (L)どのくらいの周期?

A: 3600年.

Q: (L)じゃあ、その彗星群が、再び、天の横道面に突入してくるのは、いつの予定なの?

A: 12から18年後。
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ベイリーから学んだこと ― 歴史上の数々の帝国の崩壊の主な原因の1つが、彗星の衝突であると考えてまず間違いないこと ― に留意すれば、 我々はこれを目印にして、彗星衝突の起こった可能性のある時期を探すことが出来よう。 ごく最近、2009年初頭に、以下の情報が、全米科学アカデミー紀要に公表され、 AP通信でも、「3600年前、初期ペルー文明は天災のために滅びた」というタイトルで報じられている:


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3600年前、自然がアメリカ大陸の初期文明の1つに対して敵意をあらわにした。 研究者たちによれば、この時、地震と洪水、さらには、風塵が起こって、現在のペルーにあたる地域の住民を一掃したという。 「この海に臨んだ農村は2千年以上に亘って繁栄していたのであり、彼らには村を捨てる動機はなかったのだが、突然、轟音とともに天変地異が起こって、その基盤が失われてしまったのだ」と、 フロリダ大学の人類学者マイク・モーズリーは、声明の中で語った。
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ベイリーは、おそらくは彗星による天変地異が全地球に影響を及ぼしたであろうとして、もう1つの年代、BC1628年を取り上げているが、上の時期と、これが符号するのも、さしたる偶然ではない。 ベイリーの年代は、氷床コアのデータ、ヨーロッパおよびアメリカじゅうの年輪、そして、バビロニアおよび中国の記録から浮かび上がったものであり、 (バビロニアと中国の記録はいずれも、塵のベールが空を覆って地球が寒冷化したことの証拠となりうるものだ) さらにはもう1つ、アイルランド年代記にも、天変地異に関する謎めいた言及がある。 この出来事が起きてから、文書に記録が残されるまでの間に遥かな時間が経過しているために、確実性を見極めるのは困難なのだが。 この出来事はまた、中国の夏王朝の滅亡とも時期が一致しているが、 この時は、中国に彗星が現れたことが記録に残っている。 マッカファティ&ベイリーは書いている:


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BC1600年頃 ー 中国で、空に2つの太陽が記録されている [古代の彗星の記録には共通して見られる記述である]。 1つは東に、もう1つは西に出ており、 この直後に、桀王 が倒され、夏王朝は終焉を迎えた。 桀はこう語ったと伝えられている。「あの2つ目の太陽が消えるとき、汝らも余も皆、死ぬことになろう」
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コピーライトマーク Flickr user Σταύρος
サントリーニ島を空から望む
(写真)


ベイリーは、サントリーニ火山が爆発した年が、実際はBC1628年だと論じている。 この結果、千年以上に亘って繁栄していたミノア島の青銅器文明は壊滅し、 またこの年はおそらく、エジプトの第2中間期(いわゆる「ヒクソス人」の支配下にあった時期)の始まりないし終わりと一致するのだろうというのだ。 1980年代の終わりに、最初にこの説が唱えられた時、賛否両論があった。 というのも、この論文は冒頭で、エジプト史の問題点をいくつか指摘し、その見直しを迫るものだったからである。 エジプト史は聖書に記された年代記に大いに依拠するものであるが、 後者は近年、大いに信憑性が疑われている。 それに引き替え、考古学はと言えば、「確立された」年代記に大いに依存しつつ年代を決めてきた。 古代史の年代決定には、これをしっかりと繋ぎ止める確たる錨もなければ目印もないのだ。 一般に用いられているのは、実際には曖昧な天文学からの出典であり、 それはいくつもの異なった年代を引合いに出すもので、何らかの確たる年代を提供するにはあまりに断片的なものだ。 考古学者兼歴史家として、コリン・レンフリューは、 ピーター・ジェームズ著『闇に包まれた諸世紀』の序文で、その辺りの事情を述べている:


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最初のステップは。。。我々の無知の深さを認識することだ。 地中海地方の様々な場所についての既存の「年代記」が、いかに循環論の上に成り立っているかを認識することなのである。 循環論というのは、領域Aの専門家は、領域Bの専門家が自分の議論している内容を確信しているに違いないと信じて、領域Aで使われる年代決定法と大差のないBの決定法をやみくもに利用し、以下同様ということだ。
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つまり、遥か昔の事となると、何も確かなところは分からないにも拘わらず、学校で我々が習った年代が一般に認められていて、それはプロでさえ同じなのである。 しかし、近年では、主流派の歴史家たちは、 不正確な、「聖書の年代記による」方法ではなく、よりしっかりした科学的証拠に基づきつつ、サントリーニ火山の爆発時期を決めている。 サントリーニ火山の爆発年は、歴史の時系列を測る上で役に立つ、このような錨の1つとなり得ようが、 歴史家たちが、一般に認められた年代記の見直しをどこまで進めるかは今後の課題である。 また今回は、歴史的文献から見て取れる経済不況や恐慌期を説明する上で、天候的要因を受け入れる歴史家たちが増えてきている。 このテーマについて、歴史家のトーマス・L・トムソンは、アカデミズムに典型的な、控えめな表現ながら、こう書いている:


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一連の時期 ― 初期青銅器時代第4期、中期青銅器時代第2期/後期青銅器時代第1期、鉄器時代第1期 ―のそれぞれは、 経済の崩壊によるマルサス主義的なドラマチックな人口の除去という運命に終わっている。 これらの時期こそ、最も歴史的説明が必要である。 というのも、これらの恐慌は予想に反するものだからだ。
(『神秘に満ちた過去』 )
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参考のため、トムソンが述べている各期につき、一般に認められている年代を掲げよう:
初期青銅器時代第4期 (2100 BC),
中期青銅器時代第2期/後期青銅器時代第1期 (1550 BC),
鉄器時代第1期(1150 BC).

このBC1550年という数字が、サントリーニ火山の爆発に関して、かつて一般に認められていた年代に近いものであり、これについて論争が行われていることに注意されたい。 (これに関連して、最近の放射性炭素年代分析によれば、エジプトの新王国の誕生年は20年も昔に戻されて、BC1570年となった。) これらの年代を念頭に置いて、ベイリーが年輪のデータ(そしてまた、氷床コアのデータや考古学的記録)から、彗星に誘発された地球規模の気候的大変異があったとしている年代を見てみよう:
2345 BC,
1628 BC,
1159 BC.
である。
何とも魅力的ではないか?


John Martin's 'Pandemonium'
ジョン・マーティン画『伏魔殿』
(写真)


『青銅器時代の終わり(前1200年のカタストロフ)』)(BC1150年頃)によって、 ミケーネ王国、 アナトリアとシリアのヒッタイト帝国、 シリアとカナンのエジプト帝国は崩壊し、 中東の沢山の都市が大量崩壊の憂き目を見た。 ベイリーは書いている:


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考古学および、古代の歴史的証拠を柔軟に解釈すれば、BC12世紀前後に、 古代社会の骨組み全体が崩壊したものと思われる。 ブリテン島の大部分で高地が放棄されたと言う学者も居る。 これは特にスコットランドにおいて深刻であり、その後は防御施設の建設が急増したという。 地中海周辺では、移住と崩壊は数え上げればきりがない。 非常に興味深いのが、ギリシャにおけるミケーネ文明の崩壊と、 その後4世紀間に亘る、地中海地方を襲った、「ギリシャ暗黒時代」である。 これは非常にドラマチックな衰退であって、 長期的かつ局地的な干ばつを含む、何らかの環境的な「出来事」があったという説が既に多数となっている。
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天候の悪化したBC1159年は一般に、ラムセス3世が統治した、第20王朝の終焉の兆しが現れた年とされている: 干ばつと飢饉に政治腐敗、さらには戦費がかさみ、市民の不安が増大した時期だ。 ウィキペディアにもこう記されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/New_Kingdom
「何らかの物質が空中に漂ったために、陽光が大部分遮られて地面に届かず、地球規模で樹木の成長も抑制されるという状態が、BC1140年まで、ほぼまる20年続いた。 アイスランドのヘクラ火山のH3噴火 が原因との説もあるが、これが起こった時期については論争がある」
あるいはひょっとして、彗星の塵/デブリだろうか?

歴史家のジョン・ヴァン・シィターズは、1966年の著書の中で、 歴史上のこの時期の分析に影響を与えた、天候や天変地異のインパクトに先立つ、中期青銅器時代第2期から後期青銅器時代第1期への移行の初期について以下のように述べている:


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中期青銅器時代の終わりについては明らかであり、異議はない。 ここでの断絶は文化的なものではなかった。 というのも、建築や陶器、美術における連続性が確かに見られるからだ。 断絶の特徴としては、パレスチナ南部の多数の遺跡が広範に破壊されていること、 そして、以前の形に加えて、新たな形の陶器が出現していることが挙げられる。 この破壊は、第18王朝のファラオたちの活動によるものであって、 中期青銅器時代が終わった時期は、およそBC1550年頃であると解するのが至当であろう。
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ヴァン・シィターズによれば、 この時期は、ヒクソスによる支配/第2中間期の終わりと一致するのであって、その始まりではなく、 おそらくは、この時代の正確な年代を固める上での錨(BC1628年)をもたらすというのだ。 エジプト史の年代は、調べるほどに混乱しているものだが。 エジプトの新王国は、ヒクソスによる支配の終了後に誕生し、 歴史家たちによれば、BC1550年から1069年までの479年間続いたとされる。 (偶然にも、これはまた、「イスラエル人による出エジプト」が行われた年月として伝統的に解されてきた期間とも同じ長さである。) この期間が、ベイリーが天候悪化のあった時期として挙げる2つの年代、BC1628年と1159年との間、すなわち469年間と一致するのも、おそらく偶然ではあるまい。 これはまた、中国で、夏王朝と殷(商)王朝がそれぞれ滅亡した年の間隔の計算結果とも近い(人によって様々だが、496年間から554年間の間となろう)。 ベイリーは付論まで設けて、この問題を論じているのだが、 これまた論争を巻き起こす問題ではあるが、諸王朝の存続期間は、先に述べた期間にぴったり合うだろうと言う。

初期青銅器時代第4期から中期青銅器時代第1期への移行(BC2100年)について言えば、 この時期は最初の「暗黒時代」すなわち、エジプト史における第1中間期の始まりにあたるのだが、 残っている証拠は比較的少ない。 これに関して、ヴァン・シィターズはこのように述べている:


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中期青銅器時代第1期の人々の、トランスヨルダンへの移住には、パレスチナへの際とは異なり、 それ以前の初期青銅器時代第3期文明が侵入され突然破滅したという意味合いはない。 そうではなくて、これは多くの場合、かつて人の住んでいなかった場所への移住と定着だった。。。 新規移住の第1段階は、しばしば、初期青銅器時代第4期として知られているが、 それは、パレスチナおよびトランスヨルダンに住む初期青銅器時代最後の人々と同時代だったからだ。。。 初期青銅器時代第4期と中期青銅器時代第1期の陶器のスタイルは混淆していて、トランスヨルダンの地層を調べても、容易に区別できるものではない。。。 トランスヨルダンおよびネゲブにおける、初期青銅器時代第4期と中期青銅器時代第1期の衰退は壊滅的なものだった。。。 実際、数百年に亘って、定住生活はすっかり失われてしまったのだ。 パレスチナにおけると同様、中期青銅器時代第1期の後には、住居に格差が生じたものと思われるが、それも長くは続かなかった。
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要約しよう。BC1600年頃に起こった彗星による大惨事の証拠は、少なくともベイリーに言わせれば、かなり有力なものである。 もし、シーズの言う3,600年周期が正しければ、次の衝突期限は過ぎていることになろう。 たとえ彼らの言う周期が間違っていたとしても、科学的証拠から、このような衝突は決してまれなものでないことが分かる。 先に引用した記事が述べている通り、 「過去6千年の間に、少なくとも5回、重大な環境的災難が世界中の文明を弱体化させた」のである。 逃げおおせる見込みはあまりないだろう。。。


地上の地獄という悪夢を描いた、フランドルの画家である大ブリューゲルの16世紀中ごろの作品『死の勝利』は、 中世ヨーロッパを壊滅させた疫病後の、社会の激変と恐怖を反映したものである。 これも宇宙からの彗星と関係があったのだろうか?
(写真)
posted by たカシー at 10:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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