2017年09月24日

CassWiki:カルマおよび均衡の原理

CassWiki:カルマおよび均衡の原理
https://thecasswiki.net/index.php?title=Karma_and_the_Principle_Of_Equilibrium


以下は、グルジェフの宇宙論を単純化した解釈にすぎない。なぜこのようなまとめを行ったかと言うと、ボリス・ムラヴィエフが述べた「均衡の原理」をより良く理解するための準拠枠になれば、ということで試みたのだ。

ムラヴィエフの著書からの「均衡の原理」に関する引用も、下の方に掲げておいた。

グルジェフの宇宙論では、宇宙創造の前には彼が<絶対>(『奇蹟を求めて』浅井訳129ページ)あるいは、《永遠なる主》(『ベルゼバブ』浅井訳63ページ)と呼ぶ、事物の根源的状態だけが存在していた、とされる。そこでは、<全体>イコール<一なるもの>、<一なるもの>イコール<全体>だった。<絶対>は完全な<独立物>だった。<絶対>の中には、ただ1つの法則、すなわち<絶対>の単一で独立した意志があった。<絶対>は外部の何者にも依存しておらず、完全に自己充足的な存在だった。

しかし、<絶対>が何かを創造するためには、その創造活動にフォーカスできるような居所すなわち「集中できるただ1つの点」が必要だった。

そこで<絶対>は、グルジェフが<至聖絶対太陽>と呼ぶ「局地的な居所」を「生み出した」。(「生み出した」という言葉を使ったのは、これが全て宇宙の創造前に行われたからである。)

<至聖絶対太陽>は相互に関連する2つの法則を構成する、独立した諸力によってバラバラにならぬよう保たれていた。<至聖絶対太陽>の中で、これら2つの法則、すなわち、「3の法則」と「7の法則」は、互いに完璧なバランスを保っていた。これらの根源的な法則=力が完璧に混じり合っていたため、<至聖絶対太陽>は維持のために外部から何の影響を受けなくても安定していた。

しかし、<至聖絶対太陽>が完璧なバランスを保って静止していたので、その中では何の変化も起きなかった。<至聖絶対太陽>が<永久不変>(『奇蹟を求めて』499ページ)という純粋な可能性の状態にあったため、そこでは何も起こり得なかったのである。

<至聖絶対太陽>の中で何かが起こるためには、すなわち、<絶対>が何かを創造するためには、それを構成している無限の可能性が、実現化という有限性に移行しなくてはならなかった。この動力となったのがグルジェフのいわゆる「無慈悲なヘローパス」(『ベルゼバブ』467ページ)、すなわち「時の流れ」である。<至聖絶対太陽>の中で何かが「起こる」か「現実化する」ときには、その結果として可能性が減少することになる。これは<至聖絶対太陽>の中にあった可能性の無限の貯えを脅かす事態であり、その結果、<至聖絶対太陽>の容積が減る恐れがあった。

<至聖絶対太陽>は今や「無慈悲な」時の流れによって脅かされていた。

<至聖絶対太陽>が、無限の可能性を秘めた状態を維持し、それらが現実化しても可能性の減少が進行しないようにするために、<絶対>は必要に迫られて、<至聖絶対太陽>を構成していた2つの基本法則を調整ないし変更した。この結果、全ての被造物はエネルギーの逆の流れを<至聖絶対太陽>に送り返して、時間の流れを経ても、<至聖絶対太陽>は既存の(可能性を秘めた)状態を維持できることになった。

このような2つの基本法則の変更の結果、これらの力はもはや独立して働かなくなった。その代わりに、今やこれらの力は外部の諸力に依存しており、<至聖絶対太陽>が元来持っていた独立が維持された状態は、あらゆる被造物が相互に力を交換し合う(=相互扶養)状態へと変更された。

これら2つの基本法則の機能が変更された結果、<至聖絶対太陽>内で働いていたこれらの力は、宇宙空間に向かって働くよう向きを変えた。2つの基本法則の、このような外に向かっての方向転換は、<絶対>の<意志力>によるものであるが、その結果生まれたのが、グルジェフが言うところの<テオマートロゴス>=<言葉なる神>=<絶対太陽の放射物>である(前掲書471ページ)。この「言葉」ないし振動は、画一的だった宇宙の根源物質エテロクリルノを組織化して、反復しつつも様々なパターンを持つ物質/形態へと変えたのだ。この音の振動は光あるいは揺動のようなものだが、陰陽/正負の2方向間の均衡点である「零」を通って、絶えず変動するエネルギー・ベクトルである。

これら2つの基本法則が変更された結果、元々<絶対>の中で結び付いていた、3の法則を構成していた3つの力が、知覚される宇宙の中で今や互いに分離するに至った。というのも、これらはもはや1個の全一体の一部ではなく、存在している宇宙を構成する現象の多様性から生じた区別や相違のために、今では全体中の諸部分によってのみ引き合わせられ得ることとなったからだ。

これら3つの力の分離によって創造が起きたのだが、それ以来今でもこれらの力は再融合して、根源の完璧な状態=<絶対との合一>に復縁しようと闘志を燃やしている。

かくして、<絶対>のためなら、これら3つの力は結び付く。しかし、宇宙のために、これら3つの力は分離されたのであり、これらの力は<絶対>の中でそれらが結び付いていた状態そっくりの均衡状態を得ようと常に奮闘しているのだ。

以下に引用するのは、ムラヴィエフの著書『グノーシス I』の126-134ページ、「均衡の原理」と「カルマの法則」に関する部分である:


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要約すれば、生命とは、宇宙の各段階で行われている振動の劇 ― あらゆる場面が均衡という摂動の形を取り、引き続いて回復が起こる劇の効果なのである。

このような摂動が起こり得るのは、宇宙に存在している万物が、均衡しているとは言え、それが不安定な均衡だからだ。

「均衡の原理」の実際の適用例は、摂動への代償作用に見られる。しかし、このような代償作用が過去の状況を正確に回復するのに成功する例はまれである。一般にこれは望ましいことではない。これは、運動状態の中に存在するものに対しては、「不完全の原理」が働く結果である。特に有機生命体の内部においては、この振動の劇 − 摂動 − 代償作用は、しばしば開放サイクル=螺旋の形を取る。

我々はここにもまた、宇宙という系の完璧なロジックを認める(仏語” constate”)ことができる。実際周知のごとく、進化のような並進運動(※物体のすべての点が平行移動する運動。剛体の任意の運動は,重心とともに行う並進運動と重心のまわりの回転運動とに分解できる)
は常に困難である。螺旋を描く結果、進歩の度合いは遅くなるが、それは容易になる。落下する場合、螺旋を描くことで退行に歯止めがかかる。

「宇宙の顕現および創造」における3つの予備的条件である時間と空間と均衡は、創造された宇宙の中に諸力を生み出した:すなわち、既に述べた通りの、能動的、受動的、中和的の3つの力である。

第3(=均衡)のカテゴリーに属する均衡の原理は、受動的な力として、バランスを回復する代償的摂動を行う時、ダイナミックな形を取る。その発現は常に、一方的な反応の性格を帯びるのだ。均衡の原理が全宇宙に適用される際、それは機械的に働き、自動的に始まる。その結果、全ての宇宙のあらゆる場所における全ての作用は必然的に釣り合うことになる。

上に述べた考察によって、実証的科学によって未だ説明されていないある現象の意味を理解することが可能となる。何はさておき、死という大問題である。生命が摂動から生れるゆえに、均衡の原理によって、死は必然的となる。全てのケースにおいて例外なく、摂動は償われなくてはならず、均衡が回復されなくてはならない。死によって、このような償いが為されるのだ。あらゆる次元において、誕生とは革命的な働き、すなわち摂動的作用、すなわち愛である。愛そのものは、創造の以前 ― <絶対の意識の中に> ― 「汝」の概念という格好で生まれた。「汝」は「我」(<私>)から必然的に生じるのだ。これは、永遠の均衡以前の安定状態で起きた最初の摂動だった。だからこそ我々は直観的とはいえ、死の反対は生命ではなくて愛だと思うのである。頭で考えたあらゆる証拠にも拘わらず、人間の心に同様にもっともだと感じられるのが、愛は死を克服できる、より優れた力であるということである。

死の克服とはすなわち、エソテリックな科学のモットーである。だがまずは、この表現の真の意味について、共通の理解を得るとしよう。

3つの力が伝搬するとき、それらは宇宙じゅうに働く。宇宙の系および創造の光の中で、それらは以下のようにして姿を現わす:すなわち、愛は能動的な摂動の力として姿を現わし、死は受動的な安定させる力として、生命は中和的な力、すなわち、前二者によって定められた限界の間に存在を割り当てられたものとして姿を現わす。こうした次第で、死とは存在 ― そしてまた生命 ― にとって欠くことのできない状態であり、この三者の果実が子孫である。問題は、死と戦って永遠の生命を勝ちとることは ― これこそ全ての宗教が説く、人類最大の希望である ― 合理的に成功する見込みがあって実際に約束されているのか、ということだ。この問題は複雑である。これを解くためには、数多くの視点からの検討が必要である。宗教はこれを信仰の次元で扱い、信心次第だとする。だが、新たな時代、「聖霊のサイクル」の時代の幕が開けようとしている今、このような立場は、開明された人々にとってもはや十分満足の行くものではない。彼らは今や、昨日まで信仰箇条と考えられていた事でも理解したいのである。

このような難問の答えを説明しようと試みるよりは、敬虔な信者に対して信じてくれるよう頼む方が確かにた易い。だが、エソテリックな科学はこの問題に対する答えを提示する。

世界の様相が変わるのだ。「父なる神のサイクル」同様、既に顕現していた「子なる神のサイクル」は終わりを迎えつつある。遥か昔にモーゼが受け取った律法は、キリストの出現によって終わりを告げ、信仰と希望と愛の戒律によって置き換えられた。今世紀(=20世紀)の戦争と革命があり、実証的科学が驚くべき進歩を遂げた現在、我々は「聖霊のサイクル」へと入る、移行の時期を迎えている。この時期のうちに、信仰は知識によって徐々に取って代わられ、希望は成就により終わるであろう。愛が最終的な勝利を収めるのだ;「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう(が)」(コリントの信徒への手紙一/ 13章 08節)

「伝承」において、死に対する勝利とは完成された人格の、死に対する勝利を意味する。これこそは、キリスト教という宗教のしきたりである祈りの目的である救済の意味するところだ。聖パウロによる次の言葉は、既に引用した:

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつく(※英訳では「死ぬ」)わけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」(コリントの信徒への手紙一/ 15章 51節)

この文章中の「変えられます」という言葉の裏に潜む意味とは、人間第5番ないし第7番のレベルに達している人々のみならず、「外的な人間」もまた、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=83931799
遅かれ早かれ物理体を離れて召されるだろうということなのだ。

違いはどこにあるかと言うと、前者の場合は古い衣服を脱ぎ捨てて別のものに着替えるようなものであるのに対して、人間第1-3番の場合は物理体が死を迎える結果、彼らの胎児的な人格が分解するのである。死とはアストラル体の流産である。救済は第2の誕生とともに訪れ、この時、完全に成熟して生まれ落ちた人格は、個性を形成するべく、永続的に真の<私>に参加する。一たび生まれた、この個性がもはや物理体に依存しないのは、難産で母親の命と引き換えという形で生まれてきた子供が死ぬことが無いのと同様である。かの使徒が我々は死ぬわけではないという言葉で暗示していたのは、こういうことなのである。

死とは、均衡の原理の顕れの1形態であって、創造された世界における肉体的な愛という摂動的作用に対する自然な反応であることは既に立証した通りである。肉体的な愛は完璧なものであれ、生命を育むためのものである。人間の愛が不完全なのは、それが本能的かつ衝動的だからだ。人間が自動的に自らの衝動に従う限り、彼の愛は全体としての宇宙の目的の役に立つだけである。これから彼が常に得る快楽は、報償として均衡を図る要素に等しい。そのようなものである限り、愛は彼のエソテリックな進化には何ら役立たない。しかし、愛とは進化を達成するための、最も確実かつ強力な手段である。それはなぜかというと、愛は我々の人生における客観的な要素の1つだからだ。この客観性は愛の多くの側面に、そしてその顕れ方のバラエティーの全てに当てはまり続ける。

要するに愛とは、人間のエソテリックな進化において、彼の役に立つものである。しかし、この目的を達成するためには、人はこの愛に向けて意識的努力を傾けねばならないし、衝動に身を任せてはならない。このようにしてこそ彼は、彼に働く愛の摂動的作用を中和することができるのであり、その結果、均衡の原理が致死的な反応でもって介入してくるのを防ぎ ― かつ無力ならしめる ― ことができるである。愛が提供するエネルギーは、一般的な目的のために直ちに消費することはせず、念のために人間が持っておく。やがてそれは、彼の人格の成長および、第2の誕生に向けた進歩=エソテリックな行為の最初の目に見える結果を加速させるために利用できる。


これは修道院におけるワークの理論であって、それは本質的に性のセンターに当てはまる。我々は練習によって、衝動を征服できるように努力する。この方法の利点と不都合について詳細に調査しなくても、新時代におけるエソテリックなワークは地下室や修道院の外に出るべきだと言わねばならない。今後それは、代わりに生活の中で=人間社会の日々の活動の場において実行されねばならない。これは確かに、より困難となろう。というのも我々は、修道院で生活する場合のようには守られず、影響<A>
http://www.eleutheria.com/mystic/gnosis2.html
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=30765798
の大部分から保護されることもないからである。その一方で、生活はより効果的な手段を提供し、より脆弱でない結果を導く;日常生活の中でエソテリックな活動を実践する結果、性センターを簡単にコントロールすることも可能になり、現れた愛を感情および知性のセンターによって育むことも認められるし、創造的精神も様々な形で生み出されるのだ。このような高次の文化が狙いとするのは、創造的努力を全く同一の適用ポイント、すなわち、人格の総体的な発達:第2の誕生;アストラル体の結晶化、個性を形成するために真の<私>と繋がることにフォーカスさせることである。

男と女が協働するワークこそは類まれなパワーでもって進展し、早々に結果をもたらすのだが。。。その際の条件としては、エソテリックな観点からして2つの存在が互いに完全にお似合いであること、そしてまた、彼らが完璧なカップルであることが求められる。すなわち、彼らの組み合わせには、人間タイプの特性に関する条件が付いているのである ― これは、宇宙の創造以前から絶対的な「我」と「汝」の関係にあったことの反映である。これは、エソテリックな科学において、ポーラー・ビーイングとして知られるケースである。。。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=59256344

均衡の原理は、全ての摂動および自由運動 ― とりわけ、有機生命体、中でも人間のセクターにおけるもの ― が、代償として求めて、受け取るもののせいで、厳しいながらも公明正大な守護者のように見える。7の法則共々、均衡の原理は全ての存在が法則に従って一定期間生きながらえるようにする。人間の叡智は遠い昔から、この事実に気付いていたのだ。これこそがカルマの原理=ギリシャ神話の神ネメシス=キリスト教における天上のヒエラルキーに君臨する大天使ウリエルであって、「伝承」によれば、神の7つの霊の中でも、そして宇宙の中でも彼だけは、決して変わることがない。彼は、ミクロ・ミクロコスモスを含む、全ての規模段階の宇宙において破れた均衡が回復するのを監督しているのだ。。。

カルマの作用は自動的に始まる。我々は常に、この自動的な反応を覚えていて、少なくとも予め行動計画を立てる際には考慮しなくてはならない。だが、これはた易いことではない。というのも、我々の行動が摂動とその効果を生み出していると気付くのはまれな事だからだ。そんな訳で、カルマの作用はしばしば、予測可能な限界を超える。それでも我々は、カルマも「正しき者たち」にとっては、その脅かす側面を失うのだと繰り返し諳んじねばならない:それは彼らに喜びのみをもたらすのだと。これは何故かと言うと、彼らの行動は決して、一般的な宇宙法則や局地的な宇宙法則に外れるような摂動を生み出さないからだ。「正しき者たち」は、誤りを犯さないのだが、他方、普通の人々は、誠実に行動し、自分では正しく行動していると信じていても、過ちを犯す。彼らは最初から誤った考えを抱いていて、それが本当の罪のもとなのだ。罪はいわゆる神秘的性質のような要素を含んでいない。それが過ちであるという意味で、罪は十分な償いによって清算可能である。「伝承」は上で述べたことを指摘してこう述べる:「罪を後悔しない場合は格別、許されない罪はない」と。この公理の真意は容易に理解できる。後悔こそは、何にもまして意識的な行いであり、その結果自ずと、為された過ちを優しく効果的に償うことになる。これが理論である。実際問題はそう簡単ではない;各ケース毎に詳細な研究を行う必要がある。後から罪を見つけ出して償う困難に比べれば、罪を犯さない方が明らかに楽である。ここで述べた通りの意味の後悔が遅れずに為されないと、均衡を図るカルマの作用が自動的かつ強力に働くことになる。一度これが始まると、我々は逆らわずにこれに従わねばならない。

カルマの作用が自動的に始まり、機械的に働き始めると、それはその次元での摂動を償う。償いは、仕訳帳同様、個々の勘定/責任に対して為されるのであり、良い結果と悪い結果との差し引き合計に対してではない。(※「均衡の原理」と訳した”Principle Of Equilibrium”ですが、会計学では「貸借平均の原理(=借方の合計と貸方の合計は常に一致する)」という意味です。)
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2017年09月23日

CassWiki:カルマ

CassWiki:カルマ
https://thecasswiki.net/index.php?title=Karma


カルマとはサンスクリット語で「行為」という意味である。

カルマの概念は、種類も起源も様々なエソテリックな議論の、殆どどこでも出てくるものであり、様々な解釈が存在する。一般的にこの概念は、魂がその人の行為に対して負う「責任」を意味し、普通、多数の生に亘るものとして理解されている。自分の蒔いた種は最終的には自分で刈らねばならない(=自業自得)という概念と捉えるのが一般的である。

第4の道の観方では、カルマを語る意味がある人とは、諸々の影響の偶然な組み合せであることを超えた進化を遂げ、物理体の死を生き残る<私>を持っており、その一方で、明確な一体性を保ち、自由意志を楽しみ、単なるリアクションマシン
https://thecasswiki.net/index.php?title=Reaction_machine
でないような人に限られる。というのも、第4の道の教えによれば、圧倒的多数の人々はこの基準に当てはまらないので、第4の道はカルマに関する教えを殊更強調することをせず、いつの日かこの概念が真の意味で当てはまるような生徒を育成することに集中する。

ボリス・ムラヴィエフは、外的な人間たち(exterior humanity)
http://www.geocities.jp/swedenborgjsa/key.html#005
https://thecasswiki.net/index.php?title=Man_number_1,_2,_and_3
(※『奇蹟を求めて』浅井訳121ページの人間第1番-第3番)の人生を支配する「循環の原理」について書いている。各生の間でのカルマの持ち越しも「循環」に含まれるが、これは、はっきりした狙いがあって意識的に受肉(incarnation)を選択するという意味での転生(reincarnation)とは異なる。P.D.ウスペンスキーも、「循環(recurrence)」(あるいは「永劫回帰(eternal recurrence)」、あるいは「反復(repetition)」、『奇蹟を求めて』浅井訳390ページ)
について思索を巡らしている。(※同60ページでは” reincarnation”が「再生」と訳されている。)ゲオルギイ・グルジェフはウスペンスキーに向かって、そのようなものは確かに存在するが、当時のウスペンスキーがもっと進んだ生徒になってからでなければこれ以上議論できないくらい極めて霊妙なものだと言っている。

カルマの概念を単純に解釈すれば、どんな「悪行」も、行為者がそのような悪しき性質を捨て去り己の過ちを直視できるよう、行為者にはね返ってくる、ということになろう。そういうことならば、人間社会は真善美という普遍的な概念の成就=完成に向かっている筈であるが、歴史を観察してもこのような観方は裏付けられない。

と言うよりむしろ、カルマの原理は他者への奉仕(STO)および自己への奉仕(STS)という、進化の異なった2つの道を認めるようである。際限なく自己に奉仕することの最終的な代償はある種の崩壊となろうが、その類の事が起こる前にSTSの存在は、人間のレベルを遥かに超えたパワーと能力を育み、手に入れるだろう。かくしてカルマは、少なくとも人間の観点における「公正な世の中」をもたらすことはない。

カルマによる報恩を期待して「善行を行う」というのもまた、この概念の悪用だろう。他者への奉仕と称しつつ、利己的な目的のために行動するならば、それは他者への奉仕とはならない。「本情報はポジティブな方向性を持つ存在に対してもたらされるのではなく、そのような存在を通してもたらされるのだ」(ラー、セッション55第7問)
http://www.lawofone.info/results.php?s=55

カルマを執行するメカニズムについて論じる者は多いが、「ハイアーセルフ」が人の生をどうバランスさせるかに関する判定を行う、とするのが殆どである。カルマの原理とは、転生する実体にあらゆるダイナミズムの異なる側面を見せる、「遠い国」へのツアーガイドと見做すこともある程度は可能だろう。(※12:ルカによる福音書/ 19章 12節
イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。)
しかしこの考え方は単純化のし過ぎであり、明らかに存在する極性化の観念を考慮していない。同じ試練を受けても、奉仕の道へのコミットメントを強くする人も居ようが、すっかり機を見るに敏な捕食者になる人も居るだろう。

ルドルフ・シュタイナーは、個人的および集合的レベルにおけるカルマについて詳しく書いている。彼はニーチェを含む多くのケーススタディーも示しているが、それらを通して彼は、転生間に介在している具体的な諸法則を説明しようとした。これらの文書は、彼の持つ透視能力によって得られたものであって、チャネリング同様検証できないが、検討のための興味深いモデルを提示するものだ。シュタイナーは生の状態の具体的な進歩状況についても提唱していて、例えば、ある生で覚えた激しい憎悪は、次の生では苦痛となり、その次の生では知性の欠如になる、という。ある生における愛は次の生で喜びとなり、その次の生では知覚能力になる。

詳細な点は多岐に亘るが、殆どのソースは、魂が個性化して行くという考えを受け入れている。すなわち、転生のサイクルをこなす程、その実体は環境を選び、カルマに対して意識的に取り組むようになるのだ。そうでなければ、これは機械的な因果のプロセスである。

転生しカルマに支配される、その対象となっているものとは何だろうか?厳密な定義は誰も行っていないようだ。仏教では人間を「五蘊」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%98%8A
https://www.youtube.com/watch?v=XlbrTlhX_Ww
の集まりと見る。グルジェフの言う「水素」は、あるいは蘊の概念に相当するものかも知れない。それぞれの生の間に人間は様々な「結晶化」を行い、高次の身体の全体あるいは一部を作り出すが、それは肉体の死の後も残って、転生を含むさらなる経験を行うのだろう。

五蘊とは、果てしない「輪廻転生の海」における波束のようなものであろう。「輪廻転生の海」とはおおよそ、転生が起きる地球上の世界を意味する。幾つか、他よりもまとまったパターンがあり、受肉した状態と肉体を持たない状態の間を循環し続けているようである。厳密かつ永続的な個人の区別というものは無いが、何らかの「結晶化した」特質や徐々のモーフィング(◆ある画像を別の画像に滑らかに変化させるグラフィック処理技術。たとえば、人間の姿を動物に変化させるなど)、
すなわち、「五蘊という波束」内の「周波数」の増幅や減衰は保存される。カルマは、転生と転生の間でこのような波が伝搬するのを司る物理法則に喩えられよう。充分に形成された波束が時折現れて、ある程度の「自由意志」を発揮し、いずれかの方向性を育むべく、この物理法則すなわちカルマを利用できるのである。

用語や文化的色合いは異なるが、仏教とグルジェフにおける個の概念の間には幾分の類似性が見られる。
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2017年09月21日

CassWiki:捕食者の心

CassWiki:捕食者の心
https://thecasswiki.net/index.php?title=Predator%27s_mind


捕食者の心というのは、人間を自己への奉仕(STS)の思考センターに連携させる精神的メカニズムに対してカルロス・カスタネダが付けた呼び名である。

『無限の本質:呪術師との訣別』(結城山 和夫/訳、二見書房)において、ドン・ファンはカスタネダに地球は「飛ぶ者」と呼ばれる、闇の凝集したクリーチャーどもによって遥か古代から侵略されており、この連中が人間を食べているのだと告げる。

要となる考え方は、この宇宙の捕食者が人間に自分達の心を与えたということである。これは他の多くの文書と照らし合わせても、妥当な観方である。人間のレベルでは、搾取と消費とコントロールに基礎を置くシステムが、それ自体のイメージに人間を形作ったと思われる:奴隷は、奴隷制を廃止するよりも、主人になることを夢見るものだ。支配に基礎を置く組織はいずれも、頂上には極く僅かなメンバーが居るのみで、その殆どが底辺に居るというピラミッド型をしている。人間がこのようなシステムの底辺か、ケースによっては中間レベルに身を置くためには、縮小した規模であろうと、支配者の属性を持たねばならない。

心霊主義/形而上学的レベルでは、多くのチャネリングソースが、「高次の」自己への奉仕(STS)の存在は可能なものなら何でも食べるが、他者への奉仕(STO)を志向する存在から放射されるエネルギーは食べられないのだと指摘している。

カスタネダの著作の大部分は、このようなシステムから、自分のエネルギーや自由意志を取り戻す方法を取り扱っている。そのための戦いは、大部分が内心におけるものである。人はまず仮面を脱いで、自らの内なる捕食者に立ち向かわなくてはならない。そうするのでなければ、たとえ十分な熱意を抱いていようと、人の対外的行動は、捕食者のパラダイム/モードとなるのだ。

内なる捕食者は極めて捉えにくいことがある。それでも、幾分一般的で、それと分かる特徴はある;カスタネダはそれについて以下のように述べている:


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(結城山訳272ページ)
「彼ら(古代メキシコの呪術師たち)は、われわれには永遠の伴侶がいるということを発見した。われわれには捕食者がいる。そいつは宇宙の深奥からやってきて、われわれの生活の支配権を乗っ取った。人間はそいつの囚人だ。その捕食者は、われわれの主人であり支配者なのだ。われわれ人間を飼い馴らし、従順で無力な生き物にした。たとえわれわれが抗議しようとしても、そいつが抑圧してしまう。われわれが独立して行動したいと思っても、そいつがそうするなと要求する。。。

「おまえは自分の努力のみで、古代メキシコのシャーマンたちが『主題の中の主題』と呼んだものに到達した」。ドン・ファンは言った。「これまでわしはずっと遠回しの言い方でおまえにほのめかしてきた。何かがわしらを捕虜にしているとな。実際、わしらは捕虜になっているのだ!これは、古代メキシコの呪術者たちにとってエネルギー上の事実だった。。。やつらが乗っ取ったのは、わしらがやつらにとって餌だったからだ。わしらが栄養物だからといって、やつらは無慈悲に搾り取る。われわれ人間が鶏舎で鶏を飼育するように、捕食者どもは人舎でわれわれを飼育する。そうしておけばいつでも食い物が手に入るってわけだ。。。

「わしはおまえの分析的思考に長けた頭に訴えようと思う。。。しばらく考えてから、事を巧みに処理する人間の知性と、その人間の信念体系の愚かしさ、もしくは人間の一貫性を欠く行為の愚かしさとの矛盾を、どのように説明したらいいか話してみろ。呪術師たちは、捕食者がわれわれに信念体系や善悪の観念や社会的慣行を与えたのだと信じている。成功や失敗へのわれわれの希望と期待と夢とを仕組んだのは、やつらなのだ。やつらがわれわれに強欲と貪婪さと臆病とを与えたのだ。われわれを自己満足におちいらせ、型にはまった行動をとらせ、極端に自己中心的な存在にさせているのが、やつら捕食者どもなのだ。。。

「われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは素晴らしい策略を用いる。素晴らしいってのは、もちろん、喧嘩好きの策士の観点からしてだぞ。受ける側からすれば、恐ろしい策略だ。やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ!おい、聞いているのか? 捕食者どもは自分の心をわれわれに与える。そしてそれがわれわれの心になる。捕食者どもの心は粗野で矛盾だらけで陰気だ。そして、今にも発見されてしまうのでないかという恐怖に満ちている。

「おそらくおまえは飢えを経験したことがないのではないかな。にもかかわらず、食料への不安を抱いているだろう。それは捕食者の心にほかならない。捕食者はいつなんどき自分の策略が見破られて食料を得られなくなるかと心配でならんのだ。そこで心を通して、それはつまるところやつらの心なのだが、捕食者どもは人間の生活のなかへ自分たちに都合のいいものを注入する。そうやってある程度の安全を確保し、恐怖にたいする緩衝物とするのだ」。。。
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『無限の本質』結城山訳。


カスタネダの説明はさらに続く。それによると、人間は幼児期までは、意識の光る上着をまとっているのだが、これを捕食者どもが食べて行き、やがて人間が成人する頃には、「その意識の光る上着は地面から足指の上までの細いへりしか残っていない。そのへりだけで人間は生きつづけることができるものの、かろうじて生きつづけられるにすぎない」という。「この意識の細いへりは内省の中心であり、人間はそこに逃れがたくとらえられている」と。


同書から引用する:


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捕食者はわれわれ人間に唯一残されている意識の部分である内省につけこみ、意識の炎をつくりだして、それを捕食者特有のやり方で冷酷に食いつくしていく。彼らはこれら意識の炎を燃え上がらせる無意味な問題をわれわれに与える。われわれの疑似意識のエネルギーの炎を餌として食べつづけるために、そうやってわれわれを生かしつづけるのである。
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ドン・ファンの言葉から引用する:


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(結城山訳278ページ)
「(古代メキシコの呪術師たち)はこう推論した ― 人間はある時点では、今日では神話的伝説となってしまった素晴らしい洞察力と活発な意識を備えた完全な存在だったにちがいない、と。それがやがて何もかも消え去ったとみえ、いまでは醒めきった人間だけになってしまった。。。

「。。。われわれが相対しているのは単純な捕食者ではないということだ。そいつはすごく頭が切れるし、てきぱきと仕事をこなす。組織的な方法にしたがってわれわれを無能にする。不思議な存在になるよう運命づけられている人間は、もはや不思議な存在ではなくなってしまう。どこにでもころがっている肉片にすぎなくなる。人間にとって夢はもうどこにも存在しない。あるのはただ肉にするために飼育される動物の夢だけだ。くだらん、ありふれた、愚かしい夢だ。。。

「唯一人間に残された別の手段は修練だ。修練こそが唯一の抑止力なのだ。ただし、修練といっても厳しい日課のことではないぞ。毎朝5時半に起きて土気色になるまで冷水をかぶるとか、そんなことを言っているのではない。呪術師たちは修練を、予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かう能力であると理解している。彼らにとって修練とは1つの技なのだ。ひるむことなく無限に立ち向かう技なのだ。といって、ひるまないのは彼らが強いからではなく、畏敬の念に満ちているからだ。

「呪術師たちに言わせると、修練によって意識の光る上着を飛ぶ者の口に合わなくするのだそうだ。。。

「大昔の呪術師たちの並外れた策略は、飛ぶ者の心に修練の重荷を負わせることだった。彼らは発見した − 飛ぶ者の心を内的沈黙で責めたててやると、外来の装置が逃げ去って、それにより、この策略にかかわっている者は誰でも、心は外部に起源をもつという確信が得られることをな。断っておくが、外来の装置はもどってくるんだぞ。だが、以前ほど強力ではない。そして、飛ぶ者の心の逃走が慣例化するプロセスが開始し、とうとうある日、永久に逃げ去ったままになる。じつに悲しむべき日だ!なぜって、おまえが自分自身の装置に頼らざるをえなくなる日なのに、その装置は無に等しいときているんだからな。どうすればいいのか教えてくれる人は誰もいない。おまえが慣れ親しんでいる無能な精神に指図してくれる外部起源の心は、もうどこにも残っていない。

「わしの師であるナワール・フリアンは、弟子たち全員によくこんな警告をしたものだ − その日は呪術師の人生においてもっとも過酷な日になる。なぜならば、われわれに属する本物の心は、それはまたわれわれの経験の総体でもあるのだが、長い長い期間を支配されつづけた結果、臆病になってすっかり自信を喪失し、あてにならないものになってしまっているからだ。わしの個人的見解を言わせてもらうなら、呪術師たちの本当の戦いはその瞬間から始まるのだ。それ以外はすべてそのための準備にすぎん。

「われわれ人間を1つのエネルギー場の集合体としてまとめている振動力を呪術師がつかむのに成功したとき、飛ぶ者の心は永久に逃げ去っていく。呪術師が必要なだけ長く握る手を緩めずにいれば、飛ぶ者の心は敗北して逃げ去る。そして、おまえはこれからまさにそれをやるのだ。おまえを1つに束ねているエネルギーをつかんで、手を放さずにいるんだぞ」
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カスタネダによる説明は、多くの点で他の伝承と実質的に一致している。カスタネダの作品で述べられている内容と、他のソースの議論とを手短に比較してみよう:

・捕食者による侵略は、人類の「落下」におおむね合致する。頭に怪我をして記憶喪失となったかのように、気付いてみると人間は、以前持っていた能力を取り外されていたのだと、カシオペアンは言う。そうした全てはDNAが暗号化されたことの反映だった。物質性の増大と自己への奉仕(STS)を選択した結果、人間は捕食者の心を本質的に自分達の心の中に招き入れることまでした。

・ゲオルギイ・グルジェフの言う「器官クンダバファー」は、このテーマに別の角度からアプローチしたものである。グルジェフによれば、この器官は現実全般に対して人間を麻痺させ、些細な事を重大に、重大な事を些細に見えるようにするために、強制的にインプラントされたのだという。この事件もまた、人間が地上に存在するようになった当初に起きた大災厄への対応として行われた措置として描かれている。ここでもまた、人間の知覚の根本的な変化と、大災厄がセットで起きたとされる。

・『ベルゼバブの話』には、地球が振動を必要としているというテーマが絶えず出てくる。人間が適切な質の振動を意識して生み出さなくなった時、大自然は必要な量の気付きのひらめき、ないし「高次の水素」(『奇蹟を求めて』目次7ページ)が得られるようなショックとなる事故が頻発するような環境へと、それはシフトしたという。
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(※(浅井訳674ページ)
「というわけでだな、かわいいハセインよ。聖なる物質アブルストドニス(=ヘルクドニスとともに、3脳生物のケスジャン体(=パートクドルグ義務(=意識的努力と意図的苦悩。人間の体内に高次存在体を形成するのに必要な宇宙物質を同化吸収する唯一可能な手段)の遂行を通して、人間の体内に生まれる第2の体。肉体より高次ではあるが、第3の身体である魂体あるいは高次存在体よりも低次で、肉体が消滅すると、その惑星の大気圏内に上昇するが、一定の時間が経つとそこで解体する。現代人はこれをアストラル体と呼んでいる。ペルシア語で<魂の器>の意)と魂体を形成し、完成させる聖なる物質 ― 浅井氏邦訳書「用語集」の解説より)
とヘルクドニスを彼らの体内に取り入れ、これを変容させることによって聖アスコキン(=月とアヌリオスを維持するために、地球上に存在する生物が死ぬ時に生み出すよう自然が定めた振動)
を解放し、こうして月とアヌリオス(=地球に生じた最初の大異変の際に、月とともに地球から分離した2つの塊の1つ。現代の人間には知られていない。アトランティス大陸の最後の時代の人間たちはこれを、<安眠を絶対に許さないもの>という意味である<キメスパイ>と呼んだ)
を維持することができるようになるためには、意識的努力と意図的苦悩が必要だという本能的配慮がおまえのお気に入りたち(=地球の3脳生物)の精神から完全に消え失せたと見るや、大自然は別の何らかの方法でこの聖なる物質を抽出する措置をとらざるをえなくなった。そしてまさしくそれが周期的に起こる恐るべき相互破壊のプロセスだったのだ」
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第43章「人間が周期的に起こす相互破壊のプロセスに関するベルゼバブの概説、あるいは戦争についてのベルゼバブの見解」より ※※)
捕食者は人間に、問題や危機的状況を次々と与える(カスタネダ)。戦争や大惨事を惹き起こすように惑星の影響が手配されるのは、単に必要な振動を得るためである(グルジェフ)。少なくとも理論的には、人間は自分達の役割を意識的に果たすことも可能で、そうすれば、このような偶発的影響から逃れて、違ったやり方で宇宙に奉仕できるだろう、とグルジェフは述べる。

・「人間は正気を備えて生まれてくるのだが、それは現代の教育によって台無しにされ、自己「評価」や偽善、自己沈静、虚しい知ったかぶり、虚栄心、そして自己愛を繰り返し教え込まれるのだ」(グルジェフ)
(※浅井訳『ベルゼバブ』78ページ
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この責任(=なぜ人間の理性は空想を現実として知覚するのか)は彼ら自身にあるのであって、それも彼らが自分たちの通常の外的な生存形態を徐々に異常なものに変えていったこと、そしてそれが彼らの体内に、今では彼らの内なる<邪悪なる神>となっているもの、すなわち<自己沈静>と呼ばれるものをしだいに形成したことに原因があるのだ。
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「人間が成人に達するころには、その意識の光る上着は地面から足指の上までの細いへりしか残っていない。この意識の細いへりは内省の中心であり、人間に唯一残されている意識の部分である」(カスタネダ、結城山訳275ページ)

・カシオペアンとラーは、人間の意識が食料であると多くの箇所で述べている。食料にされないためには、人は内心から変わらねばならない。これらのソースは、このことをSTOとの連携、あるいは客観性と呼び、カスタネダはこれを修練、完璧さ、自由になるために戦う戦士となること、と呼ぶ。グルジェフはこれを、客観理性(『ベルゼバブ』352ページ)、<公平無私>(同471ページ)、客観的良心(同236ページ)の獲得、当然そうであるべき姿の人間(同732ページ)になること、と呼ぶ。

類似点はさらに続く。捕食者の心を逃げ去らせるカスタネダの「呪術師」は、グルジェフが描く真の<私>に似ている(『奇蹟を求めて』77、238、347ページ)。最初<私>は<誤った人格>のヴェール越しに垣間見える存在である。<私>は、小さく、臆病で、不安定で、変わりやすい。そんな<私>を育て、ショックを与え、<私>を融合させることで1つの人格に統合すべし、というのが本項で論じてきた全ての道に共通する特徴なのである。
posted by たカシー at 18:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする